蛇と林檎 ぱちぱち、と。ユーリスはその長い睫を数度瞬かせた。視界に飛び込んできたものは果たして現実の光景なのか、と、疑いを持ったからである。それ程までに、衝撃の光景であった。
ユーリスにとっては、だが。
そこは基地内に設置された食堂だった。
食器の音、会話の声などで賑やかなその片隅で、優雅に食事をとる男女は、その所作から明らかに貴族とわかる。遠目にも目立つ鮮やかな赤い髪は、最近何かとやり取りの多いシルヴァンだ。こちらの平民と言う身分や盗賊あがりであるという事実、更には元敵軍といったバックグラウンドを理解した上で、実力を評価してくれる稀有な存在だ。
そしてその隣に座る金髪の女性は確か、幼馴染みだという天馬騎士だろう。この軍に入ってすぐ、有力な将については調査した。彼女はガラテア伯爵の娘御で、紋章持ちだ。そしておそらく昔、ローベ伯のところで一度だけ見かけている。
白い肌に金の髪、薄い唇に鮮やかな碧緑の瞳。そんな可憐な外見に反して、まるで騎士のような隙のない脚さばきや姿勢の良さが、とても印象に残っている。
この軍に配属されて以降、顔を見かけることはあったが直接会話をする機会はなかった。しかし今はシルヴァンも一緒だ。それならば、今は接点を持つ良い機会なのでは……そう思って近づこうとしたところで、ユーリスはぴた、と固まってしまった。
視線の先で、シルヴァンが穏やかに微笑んだからだ。いつもの腹に一物抱えた作り笑顔などではなく、思わず浮かんでしまったような、蕩けそうな表情。
何も知らなければ、普段通りの姿に見えるのだろう。
あの男はいつでも穏やかに微笑んでいる。そもそもの顔の造作からして、少し落ちた目元に長い睫、栗色の瞳、と人好きのされそうなパーツが揃っているのだ。人間は顔の美醜を重視する。表情など作らなくとも、その印象は好ましいものになっているはず。
更にそれは普段、本人の意図の元に完璧な笑顔を作り上げている。
それこそ、いつでも頸を掻き斬れるだろう警戒と殺意を滲ませた状態ですら、
「そこの綺麗なお嬢さん」
なんて軽口を叩けるほど、完璧に取り繕われているのだ。
あの男が女にしか興味がない――いや、女にも興味がない、の間違いか――から、誘いには乗らなかったが、そうでなければ閨で化けの皮を剥がしてみたいと思う程度には、あいつは得体の知れない存在だ。
ファーガスを長年外敵から守り続けた辺境伯の嫡子というだけはある。中身は父親にそっくりだ。それでいて外見はおそらく母親似なのだから、辺境伯殿も随分と良い胎を得たものだ。
そんな男が、今、視線の先で、食事をする女を見つめている。
殺意も警戒もなく、ただただ慈しみの表情で。
穏やか、などと表面のみの形容ですまされるようなものではなく、一言で言うと、愛に満ち溢れていた。
そんな顔もできるんじゃないか。
知れず口角が上がった。これは、面白いものを見てしまったかもしれない。
(えーっと、おまえの、しあわせそうな、ひょうじょうを、もうひとくちぶん、みていたくて……うわ~!本気で言うんだなそんな事!)
唇を読むと、とんでもない事を口走っていた。口説き文句としては別に間違ってはいない。しかし、だとしたら打算の浮かんでいないあの顔で、真面目に、真摯に口説いている事になる。
しかし一方の女は、普通なら頰を赤らめて照れるなり、その瞳を潤ませて色を浮かべるなりしそうなものだが、なんと大喜びで肉を頬張り素直に礼を述べるにとどめている。全くと言って良いほど、あの口説き文句の真意が響いていない。けれど、肉を頬張るその表情は心底の喜びに満たされていて、見ているこちらまで幸せになる。
俄然、隣の天馬騎士に興味が湧いた。
食事のトレーをカウンターで受け取って、一直線に二人のもとに向かう。急がなくては席を立ってしまう、と半ば小走りにテーブルを横切って、二人の向かいの席に勢い良くトレーを置いた。
「よう!ここいいか?」
「おー、ユーリスじゃないか、お疲れさん」
「お疲れさん、残念だな、もう食い終わっちまったのか?」
もうしばらく面白い話聞かせろよ、と圧を込めて視線を投げると、相手も満面の笑顔で答えた。勿論、笑顔はその形のみだ。
そもそも視線に敏感なこの男が、自分に見られていたことに気づいていないはずがない。それなのに、さも「今気づきましたよ」な顔をして、嘘臭くひらりと手を上げて挨拶を返している。その瞳の奥に警戒を隠しもせずに。
「ご挨拶するのは初めてですね。イングリット=ブランドル=ガラテアです」
「ああ、ユーリス=ルクレールだ。貴族のお嬢さんから丁寧なご挨拶を頂くなんて、恐縮しちまうな」
そういって手を差し出すと、一瞬戸惑った表情を浮かべたが、イングリットはすぐに手を握り返した。彼女からすれば、自分とて十分に怪しい男だ。警戒するのは正しい。が、彼女が気にしていたのはそこではなかったと、続く言葉で知る。
「あ、すみません。以前、ローベ伯のところでお姿を拝見した気がしまして……」
イングリットは一瞬言葉を切って、ちらりと隣に座るシルヴァンを見やる。
「ああやっぱり!俺もあんたの事を見かけた気がしたんだよな」
聞きたかった事が相手の口から溢れた事で、即座に食いついた。情報は多い方がいい。それも自然な流れで相手の方から出してくれるなら、尚良い。
「そうなのか?そりゃ感動の再会だな」
シルヴァンが笑顔で茶化すが、その内心では「聞いてないぞ」の嵐だろう。受け答えを間違えれば、明日の朝日を拝めなくなってしまうかもしれない。
「久しぶりと言いたいところだが、あの時も見かけただけだったしな」
「そうですね……」
席について串焼きにかぶり付きながら言うと、イングリットが眉をさげた。ちらりとまた、横目でシルヴァンの様子をうかがっている。
「そもそもどうしてローベ伯のところに?」
「ええと……グェンダル将軍にお話があって……」
将軍の名が出た瞬間に、心当たりがあったのかシルヴァンが顔を歪めた。しばらく前にアリアンロッドにて刃を交わしたから、というだけではなさそうだ。
「あーイングリットさん、そのお話はここまでで……今はもう反省してますので……」
だいたい話の流れは読めた。が。あの男がひどく狼狽えた様子で肩を縮めている姿を晒しているのは愉快でならない。年相応の若者の姿が見れたことに気を良くして、ユーリスはあからさまにニッコリと微笑んだ。
「お。なんだなんだ、シルヴァンのやらかしか?」
「ええ、まあそのような……」
イングリットが少し遠い目で、ため息をついた。
「いやいやいや、もう六年も前の話だろ?ほら、若気の至りってやつだな!」
「最近は大人しいからいいけど、もうああいうのは勘弁してよね?本当に大変だったのよ?」
グェンダル将軍には確か、娘がいたはずだ。ちょうど年齢も近い。六年前のゴーティエの息子と言えば、盗賊崩れか放蕩息子、との評価しかされていなかった。シルヴァンは放蕩の方だから、と考えると辻褄があうが、あの将軍の娘御に手を出すとは、無謀と言うか馬鹿と言うか。ある意味、勇気があるとも言えなくもない。
まあシルヴァンはいい。こいつにも何らかの考えがあったのだろう。いや、知らんが。別に何も考えてなくてもいい。
それよりもイングリットだ。放蕩の後始末に幼馴染みの少女が奔走しているとは聞いてはいたが、まさかあの恐ろしいグェンダル将軍に対してまで、とは恐れ入った。
六年前の彼女は、ただの幼い小娘だった。我が子と変わらぬ年齢の少女に必死に頭を下げられれば、いかにあの強面だろうと怒りをぶつけるわけにはいくまい。
戦略としては正しいのかもしれないが、やっていることはただの尻拭きであって、幼馴染みの、しかも年下の少女にさせることではない。
クズの極みだな、と視線に浮かべてシルヴァンを見ると、彼もさすがにバツが悪かったのか、降参と言いたげに両手のひらを上に上げた。
「まあそう苛めてくれるなよ~、あ、そういえばお前マリアンヌと干し草がどうこう言ってなかったか?」
「あっ、そうだわ、ありがとう。じゃあ私は先に行くわね。ユーリス、今度またゆっくりお話しましょう」
「ああぜひ!焼肉の旨い飯屋があるんだ、今度行こうぜ」
「ええ!」
シルヴァンとの食事の様子から、肉が好きなのかと水を向けると、満面の笑みが返された。貴族の女が平民の盗賊崩れに見せて良い顔ではない。
その屈託のない笑顔に、心が揺れた。
去る後ろ姿は過去の記憶通り、真っ直ぐ延びて美しい。
横顔に突き刺さるヒリつくような強い視線を感じながら、正面に座るシルヴァンに向き直ると、相変わらずの胡散臭い笑顔を浮かべていた。
「いや~……面白いもん見たな~!」
「おいおい、あいつはあれで結構繊細なんだ、遊ばないでくれよ?」
初対面の時の笑顔よりも深く、底の知れぬ敵意が浮かぶ。身内を大事にする気持ちはわかる。自分だって家族や仲間に手を出されれば、躊躇しないだろう。
それがわかっているだけに、本気でどうこうしようとは考えてはいなかった。人のものに手をだして余計なトラブルを抱え込むのは御免だ。せいぜい引っ掻き回して楽しむ程度にとどめたい。と思ってはいたのだが。
「まさか。未来の辺境伯夫人にご挨拶しただけだぜ」
「は?え?」
返されたのは、気の抜けた返事だった。
ぽかん、と目を丸めたその顔からは、油断ならない警戒は消えていないが、一瞬だけ殺意の気配が薄くなる。
「違うのか?」
「違う違う、勘違いだそれは。あいつはただの幼馴染みだよ」
「へえええぇぇ~~~?」
何でもない風を装って答えたその声色からは、本心からの言葉とわかる。
けれど、ただの幼馴染みにあんな溶けた顔を見せるのか?
あんな甘い言葉を囁くのか?
自分が彼女に声をかけただけで、剣の柄に指を添えておいて?
そもそも放蕩の後始末をする女なんて、もうそれは『幼馴染み』なんて関係性ではないのに。この聡い男がそんなことに気を回せないなんて。
(面白すぎる……!)
「じゃあ、もう別の男のモンってわけかい」
「いや……そういう話はなかったはすだが」
「貴族のお嬢さんなのにか?」
あれくらいの年齢であればもう婚約者くらいいそうなものだが――確かに、ないだろうな、と肉を頬張りながら思った。他に男がいたとして、だ。その上でこいつとあれ程の親密な空気を醸し出していたら、それは不貞と取られかねない。
この男が、それをわかっていないはずはない。
わかっていてこその、あの態度なのだろうと気づいて、にやけそうになる口許を隠すように勢い良くパンを頬張った。
「……何笑ってんだよ」
ふて腐れたような、おどけた表情で頬杖をつく男の瞳の光に、吹き出しそうになる。
笑顔で人を殺せそうなこの男が、女一人で目の色を変えるだなんて。
そんなの、面白すぎるだろう。
パンをスープで飲み下して、ふう、と息を吐き出すと、やはり我慢できずに口角が上がってしまった。
「いや?フリーなら歓迎だな、と思っただけだが?」
もう笑顔を隠すこともなく、こちらも真っ直ぐに見返した。
「美人で真面目で、あんなに美味しそうに飯を食う女、どストライクに好みだね」
「そうか、それは残念だったな」
正直に本心を告げると、軽口を叩きながら、シルヴァンが笑い声をあげる。
「……あいつは火遊びに向いてない。別のやつにしとけ」
あくまでも、人好きのする穏やかな笑顔は崩さず、しかし『これが最後の警告』と、昏い瞳の奥が告げている。
……今日は、このくらいにしといてやるか
先ほどのシルヴァンと同じように、両手をひらりと上にあげ、降参のポーズを取った。
「はいはい、俺は物分かりのいい男だからな」
「長生きしたけりゃその方がいいさ」
「でも食事に誘うくらいはいいだろ?」
「……さあ?俺にそんな事を決める権利はないんでね」
言いながら、シルヴァンがスッと席を立って、トレーを持ち上げる。どうやらこれ以上は話してくれるつもりはないらしい。
去り際に鋭い視線で釘を刺してから、じゃあな、と一言断ってシルヴァンは席を立った。
一人残されて、ユーリスはほう、と息を吐く。ずいぶんと愉快なものを見せてもらった。
蝶よ花よと育てられた貴族のお坊ちゃんだろうに、どんな環境で育てばあんな煉獄の底のような瞳を持てるのだろう。
最後の串焼きを持ち上げて、ゆっくりと肉を引き抜く。味わうように噛み締めると、スパイスの香りと共に肉汁が溢れだした。最近合流した同盟からの物資のおかげで、食事のグレードはぐっとあがったのだと言う。確かにあの天馬騎士――イングリットは、満面の笑みを浮かべて食事を楽しんでいた。
あれは、良い。とても良い。
あの女を見る男の顔が、すっかり骨抜きになってしまっていたのも頷ける。
先ほどまでの二人のやりとりを思い出しながら、ユーリスはゆっくりと肉を咀嚼した。
そのくせ彼らは男女の間柄ではないという。しかもあの口ぶりではその予定でいるようにも思えない。
悠長に構えていられる余裕はどこから来ると言うのだろう。離れることはないとでも思っているのだろうか。だとしたら大した自信だ。
そんな根拠のない自信は油断でしかないことを、気づかせてやるのも悪くはない。
大事なものはしまっておかないと、横からかっさらわれて泣く羽目になるのが世の常だ。
肉の塊を飲み下して、ユーリスはにんまりと微笑んだ。
反対もされなかったことだし、飯屋には誘ってみよう。彼女との食事は楽しそうだし、後で彼女の口から自分と出掛けたことを聞かされたあの男の顔を想像するのも面白い。果たしてどんな醜態を晒してくれるのだろうか。
楽しみが一つ増えた、とユーリスは微笑んで、最後の串焼きの一切れにかぶりついた。