ラストリゾート イーハ大公の反乱が制圧されたその年、士官学校は休校となった。
期待していた華やかな学生生活も同時に、あっさりと終了だ。短いことは覚悟していたが、あまりにも呆気無さすぎる。執行猶予期間の最後の自由として、学生生活を謳歌する気満々で臨んだにも関わらず、最初から最後まで血なまぐさい事件ばかり起きて、羽を伸ばす余裕もなかった。
本来なら学生らしく、勉強をしたり、友人と交流したり、戦いとは無縁の生活を送るはずだったというのに。
全くもって、残念でならない。
時勢が変わる事に伴って、友人たちはそれぞれの職責を継いだ。
ディミトリは国王陛下に。フェリクスはフラルダリウス公爵に。
弟分と思っていた彼らが社会的な肩書きを得、その名に恥じぬ働きの様子を見聞きする度、我が事のように嬉しく思った。が、同時に、置いていかれたような寂しさを抱かなかったと言えば、嘘になる。
かといって、では自分もしっかりやるか、とあっさり穂先を翻えせる程、長年の間に心に降り積もった澱は薄くはない。
消化しきれない感情をもて余したまま、シルヴァンは学生時分のような気軽さも持てず、はたまた嫡子として積極的に働く気にもなれず、ふらふらと地に足のつかない生活を続けていた。
そんなある日の事だ。
「……婚約?」
「そうだ」
忙しい父がわざわざ呼び付ける時の話題は、大抵はこちらの意思など完全に無視した「命令」である事が多い。そしてそれは、往々にして愉快なものではないのだ。
この日、晩餐を共にすると言い付けてきた父に、さて、次はどんな面倒な命を下されるのやら、と身構えていたところ――切り出されたのは自身の婚約についてだったというわけである。
想定外の話題に、思わずシルヴァンが目を丸くして聞き返してしまったのも無理はない。父である辺境伯はこれまで、シルヴァンがどれほど女誑しという悪評を広めようとも、苦言を呈することすらしなかったのだから。
放置し続けた挙げ句、突然の強硬手段に出たのか、とシルヴァンは理解した。
つくづく、個より家、そして国を至上に掲げるお人なのだな、と諦め混じりにこぼしたため息を、拾うものはここにはいない。父の考えは、貴族としては間違ってはいないし、他ならぬシルヴァン自身とて理解できるような、当たり前のものだからだ。
責務を果たすことなく遊び歩いていた自分の方こそ、例外的に甘やかしてもらっていただけなのだ。年齢を考えれば、とっくに婚約どころか、結婚していてもおかしくはない。
だから、シルヴァンは努めて何でもない顔をして、目の前の皿の中身を口に運び続けた。
「なんだ、そんなことですか。適当にすすめといてください」
「そんなこと、か」
安堵か呆れか、息を吐く父の姿に、にこりと微笑みを返してグラスを持ち上げた。グラスの中には透き通った赤の液体。
葡萄の取れぬこの地で、ワインが食卓にのぼるということの不可思議さを、子供の頃の自分は気づいていなかった。
その代償を、払う日がきたということだ。
「いつかそういう話もあるだろうとは思ってましたし」
心情は別として、シルヴァンも覚悟はしていた。
自分の最後の自由時間――士官学校での日々――はとっくに終わりを告げている。だからいつか、家にとって有益となる誰かと婚約して、紋章持ちを作るのだ、と。
それが、今日だっただけのことだ。
あっさりと了承した息子に何か思うところでもあるのか、ゴーティエ辺境伯夫人は母の顔をして、はらはらと心配そうに二人を交互に見渡していた。この地へ嫁いできた彼女には、きっと並々ならぬ苦労もあっただろう。であれば、母に任せておけば、新しく迎える事になるだろう女性も心配はいらないのではないか、と思った。
例え、自分が、家に戻らずとも。
夫としての役割を、最低限しかこなさずとも。
「では、お前は受けるというのだな?」
「はいはい、断っても父上がお決めになることですしね、俺が反対したところで、どうなるもんでもありませんし」
そう言って、シルヴァンは手早く口を拭うと、席を立った。
家の事を決めるのは、現辺境伯であるマティアスだ。ゴーティエ家に生かされている以上、その決定を覆す事などできはしない。
「式とか、外せない場の時だけ呼んでください、あとは父上にお任せします」
呼び止められないのを良いことに、笑顔のまま一礼をしてそそくさと部屋を出た。
やはり、それなりに気をはっていたのだろう。大広間の扉をくぐり抜け、廊下に出たとたんにどっと疲れが押し寄せた。鬱々とした気分を隠すこともなく肩を落として、大きく息を吐きだしても、それが晴れることはない。
覚悟は、していたというだけだ。だからといって衝撃が軽減されるわけでもなく、すこぶる気分は重かった。
ついに、縛り付けられる日が来たのだ。
父の先導する話だ。間違いなく、とんとん拍子に進むことだろう。外堀を埋め、完全な陣形が組めたからこそ、自分にこの話題を出したのだろうから。今さらあがいたところで、どうなるものではない。
自身に望まれている事は、次代の紋章を作り出すことと、槍を握りスレンを北の果へと追いやること。
自分の残りの人生は、それだけのためにある。
理解はしている。
けれど、頭と心は別だ。
思わず漏らしたため息の後、勢い良く顔をあげた。残り時間がもうないのなら、その僅かな時間くらいは、ふらふらしていても良いのではないか。いや、良くはないのだろうが、次に呼び出されるまでは少しでも自由でいよう、と気が急いてしまう。
急いでシルヴァンは部屋に戻ると、外套を羽織って飛び出した。そうと決まれば、娯楽の少ないこの地には用はない。
ゴーティエ家の騎士達の、呼び止める声を背後に聞きながら、シルヴァンはそのまま家を飛び出した。
◇◇◇
「貴様、一体どういうつもりだ!」
その日、王都の別邸で惰眠を貪るシルヴァンを訪問したのは、今や公爵となった幼馴染みだった。
怒声で目を覚ましたシルヴァンの枕元には、腕を組み、怒りを隠すことなく見下ろしているフェリクスがいた。
「へ?お、おお~フェリクス、久しぶりだな~!」
「何をのんきなことを!」
寝起きでぼさぼさの頭をかきながらシルヴァンが身を起こすと、再びフェリクスの怒鳴り声が響いた。
常日頃から眉間に皺を寄せているフェリクスだが、彼がこんなに怒りを露にするところを見たのは久しぶりだ。最近は職務に忙殺されていると聞いていたが、わざわざ起こしに来てくれる程の大事件でもあったのだろうか。
まだ惰眠を貪っていたい気持ちはあれど、幼い頃から慣らした目覚めの良さを発揮して、シルヴァンはがばり、と状態を起こした。
フェリクスの様子から、緊急事態という程ではないとは察したが、友人が訪ねてきてくれたのだから、起きないわけにはいかない。
「で、どうした? 何か用か?」
「用などない!」
青筋がぴきぴきと唸っているような気すらする、支離滅裂な回答に、シルヴァンは首を傾げた。用がないのなら、一体、どうしたというのだ。
「じゃあ遊びに来てくれたのか、んじゃまあ茶でも用意して……」
「そんなことをしている場合か! さっさと支度しろ!」
「ん? どこか行くのか?」
欠伸を噛み殺しながら尋ねると、フェリクスは怒りの空気はそのままに、訝しげな表情となった。
「貴様、まさか、知らんと言うわけではあるまい」
「いや、何をだ?」
答えるほどに、フェリクスの眉間の皺が深くなっていく。
「……先ほど、王宮で、辺境伯と……に、お会いした」
「父上? あの人が領地を出るなんて、珍しいな」
北の防波堤である父が、王都にやってくることは珍しい。近々大きな戦でもあるというのなら、軍義のためにというのもわからなくはないのだが、そのような話は耳に届いていない。
もちろん最近は王都も騒がしいから、自分が知らないだけで何かしら起きているのかもしれないが、と首を傾げていると、幼馴染みの男は眉間の皺をいっそう険しくして、こちらを睨み付けてきた。
「……お前がっ、……婚約したと、聞いた……っ」
「あ、ああ、その件か! どうやらそうらしいな」
一節ほど前に、父より伝えられた件だ。シルヴァンが家を飛び出す原因となった件でもある。
適当にすすめてくれとは言っておいたが、呼び出される事はなかったから、その後の詳細をシルヴァンは知らない。
けれど、王宮で偶然出会っただけの、フェリクスにも伝えられたということは、滞りなく進められているということだろう。
「……らしい、とは」
「いや、適当にすすめといてくれって父上には言ったんだが、その後何も聞いてなくてな。それがどうした?」
フェリクスが頭痛を耐えるように、額を押さえた。
「お前というやつは、ここまでどうしようもない奴だとは……」
「いやだってさあ、どうせ俺が何言っても勝手にやるだろうしさ、必要な時には呼んでくれって伝えといたし、問題はないだろ?」
「しかし、今日の話は知らんのだろうが! それで問題がないとはよくも言える!」
フェリクスが今もし剣を握っていたら、切り殺されるのではないかとすら思うほどの剣幕だ。とりあえず宥めようと、シルヴァンはへらっとした笑顔を浮かべて、軽い声色で謝罪を口にした。
「いや、申し訳ない……で、今日は何があるんだ? 顔合わせとか?」
そのような場が用意されていたのであれば、シルヴァンに連絡がこないはずはない。けれど、実際に、ゴーティエ家からの連絡はなかったし、フェリクスは怒り心頭である。
顔合わせにも出ないのは相手の家には失礼だろうが、こんなに怒りを受けるような話ではない。知らせない父が悪いのだから。
一体何が、と首を捻りながら尋ねると、フェリクスは冷ややかな瞳で見下ろしながら、答えた。
「辺境伯殿は、何も仰らなかった……が、何もないのにあの方が王宮にいらっしゃるはずがない。俺は、その足で陛下を訪ね、お伺いしたら、お前の婚約の件だと言うではないか」
「え、陛下も知ってるのか、それはなんだか、気まずいな」
「気まずいどころの騒ぎではない! 今回の来訪は、契約書に国王の印を頂くためだ!」
「え! ……聞いてないけど?!」
何の話も無いことから、一応進んでいるのだろうとは思っていた。けれどまさか両家の契約は既に完了していて、国王の許可を待つのみとなっているとは。
「陛下……ディミトリは、お前達の婚約を大層喜んでいた。だからこそ、自らが両家の前でこの婚約を祝福するのだと、意気込んでいたが……今ごろは部屋にお前が居ないことを訝しんでいるのだろうな」
「待て待て、それは結構大事なんじゃ? 俺、本当に知らないけど」
「だから早く支度をしろと言っている!」
慌ててベッドから飛び出して、シルヴァンはメイドの運んだ礼服を受け取った。
婚約なんて、ただの契約だ。めでたいことなど何もない。今でも勝手にやっておいてくれと思っている。
しかし、そこに国王が直接絡んでくるなら別だ。知らなかったとはいえ、国王が出席する場に当事者の一人が欠席するなど、許される事ではない。この上ない不敬行為だ。
普段は不真面目なシルヴァンにも、その程度の常識はあった。
「何でわざわざ直接陛下に頂くんだ? 適当に出しておいてくれりゃいいのに……」
ぶつぶつと疑問をこぼしながら、シルヴァンは大急ぎでシャツに腕を通した。
自分は確かに国王の友人と言える立場にいるが、身分の上ではただの辺境伯家の次男である。わざわざ忙しい陛下の時間を割いてまで、祝福を頂くかのように顔を付き合わせる必要はない。
これは異例の事態であった。
しかも、それを知ったからと言って、フェリクスがここまでお節介を焼くかのように動いていることも、不思議でならない。こういった話に、積極的に絡んでくるような男ではなかったはず。
「貴様、まさか、いや……婚約の話は、どこまで聞いた?」
「……婚約する、ってところまで」
「それだけか?」
「そうだな。別に誰が相手でも同じだし」
皺のないトラウザーズを身につけたところで、鏡にうつる姿を確認した。まあ、問題はない。これでいいか、との確認をこめてフェリクスに向き直ると、瞬間、腹に重い一撃を食らった。
油断した身体に、衝撃が響く。痛む腹部を抱えて、シルヴァンはうずくまった。
「こっの、ばか野郎が!」
「い、ってぇ……何すんだよ……」
「イングリットだ」
「はぁ?」
「だから! お前の婚約相手は! イングリットだ!」
へ?
と、声にならない疑問の声が、頭を反響する。言われた事が理解できない。
イングリット、と言ったのか。
「え、何で……」
「婚約の相手も知らない、理由も知らない、契約締結の日程も知らない……それで許されると思っているのか! 知ろうとしなかっただけだろうがこのろくでなしめ!」
フェリクスの暴言とも言えるその言葉は、全く、否定できなかった。その通りだ。
そして、腹の痛みと共に思い出したのは、フェリクスの先程の言葉だ。フェリクスは『お前たちの婚約』と言っていた。イングリットと自分の事だとするならば、陛下は当然、それを知っているということになる。
自分には、知らされていなかったというのに。
「もういい、とにかく急げ!」
首根っこを掴まれて、シルヴァンは部屋から引きずり出された。
「いいか、ディミトリは、お前たちの契約書に自らサインを入れられる事を、それはそれは楽しみにしていたぞ。お前が来ないなんて事になれば……わかるな?」
「うええ……」
そんなことになれば、どんな酷い仕置きが待っているか、想像するだけで恐ろしい。普段は穏やかな国王は、怒るととんでもなく恐ろしいのだ。婚約契約書の両家での提出からの押印などという一大イベントをすっぽかす男など、想像を絶する責め苦を味わう事になるだろう。
しかも、婚約の相手はあのイングリットだ。フェリクスもディミトリも、幼馴染みの彼女を大切に思っている。つまり、彼女に恥をかかせたという罪状も上積みされるのだ。それはそれは恐ろしい事態となるに違いない。
「フェリクス、助かった……急ぐわ」
痛む腹を抱えて、シルヴァンは冷や汗でびっしょりとなりながら、屋敷の出口で待ち構えていた馬に飛び乗った。
◇◇◇
走って走って、到着した王宮で、これまた廊下を駆ける勢いで案内されると、ちょうど今到着したのだろう、廊下の向こうからやってくるディミトリと出くわした。
フェリクスが会ったという話から、もう数時間は経過しているはずだ。陛下の忙しさに感謝するべきかそれとも、もしかしたら待っていてくれたのかもしれない可能性に感謝するべきか、悩みながら、優雅に臣下の礼をもって、扉の前で国王を出迎えた。もちろん、間一髪間に合った!と胸を撫で下ろしている内心など、顔には出さない。
「陛下にはおかれましては、このような私事に貴重なお時間を割いて頂き、恐悦至極に存じます」
「やめろ。お前がそんな殊勝な態度だとこちらも調子が狂う」
笑って手を振るディミトリにシルヴァンも笑顔を返すと、肩をすくめた。自分の姿を認めた時、ディミトリは少しだけ目を見開いたのだ。まるでいるはずのない人物を目にして驚いたかのように。
「俺は来ないと思ってました?」
「そう聞いていた、が」
「が?」
「イングリットは、来ると思っていたようだな」
少し疲れた表情が、柔らかくほどける。その一瞬は国王ではなく、友人の顔を覗かせていた。
「そりゃあもう、フェリクスに叩き起こされましたしね。来ないわけにはいかないでしょうよ」
「……相変わらずだなお前たちは。立ち話で待たせるのも悪い、さあ、入るぞ」
「はいはーい」
ドアノブに手をかけ、扉を大きく開く。
室内には、一段高い位置に、空席の玉座が一つ。傍らに書き物用の小さなテーブルとペンのセット。そしてそれらを囲むように配置された二人かけのソファが二つ。
片方のソファには、自らの父でもあるゴーティエ辺境伯、そしてもう一つのソファにはガラテア伯爵とその娘……幼馴染みの、イングリットがいた。微かに寄った眉の動きから察するに、陛下の御前でなければいつもの小言が炸裂していたであろうことは容易に想像できる。
今はその餌食にならなかったことを喜びながら、扉を開いたまま、頭を垂れてディミトリを迎えた。同時に、浮かんだ疑問と、今後の対応で頭を働かせる。
父が立ち上がり頭を垂れるその寸前、自分を認めて片眉をあげるのを、シルヴァンは見逃さなかった。自分がこの場に来ることは想定外だったのだろう。仕草一つにそんな心情が表れている。つまり、意図して、知らせなかったのだ。
「皆、久しいな」
手を振り、座るように促すディミトリに従って、立ち上がっていた面々は静かにソファに腰をおろした。
「は、陛下におかれましても、ご健勝で何より」
恭しく頭を下げる父の隣に、シルヴァンも腰かける。
「愚息が何やらご迷惑をおかけしていないか、親としてはそちらが気になるところではございますが」
「いや、シルヴァンとは偶々そこで会ったんだ。このような場に皆が揃っていること、嬉しく思う」
そう、その調子で自分を呼ばなかった父をちくちくと攻撃してやってほしい。にこり、と微笑んだディミトリにシルヴァンは内心でエールを送りながら、ちらりと横目で父の様子を窺った。
「このような場だからこそ……わざわざ陛下にご足労頂いておりますこと、誠に心苦しく思っております」
少しは反省して欲しいところなのに、悪びれた様子など一切なく、そ知らぬ顔で、暗に「なんでわざわざ来るんだ」とやり返している。残念ながら氷壁の異名は伊達ではなく、この程度では傷一つつかないようだ。やはり図太い。
「ですが、陛下の仰るように、全員が揃っていることは喜ばしい事ですよ、辺境伯殿。契約とはいえ、めでたい事であるのは間違いないのですから」
「……そうですな」
ガラテア伯の穏やかな正論には、流石に反論もできなかったようで、さしもの父も大人しく引き下がった。
この婚約がめでたい事なのかどうかは、全くの疑問ではあるのだが。
もう一人の当事者であるイングリットをちらりと見ると、平然と背筋を伸ばしていた。今日は正装なのだろう、大人しいデイドレスを身に纏い、綺麗に手入れのされた髪がその肩を滑っている。
淡く化粧を施されたその姿は、清楚な伯爵令嬢にしか見えない。
――中身はあんなにじゃじゃ馬なのに
そう思っていると、気づけば唇が持ち上がっていたらしい、横目でこちらを見返していたイングリットの視線が、キッ!と鋭くなった。
(やべっ!)
シルヴァンは慌ててそ知らぬふりを決め込んで、姿勢を正した。親のいる前で怒られるのは、ダメージが大きすぎる。努めて真面目な顔を崩さぬように、話を進める陛下の挙動に注目した。
「では、両家共に認めるということでいいのだな?」
「はい」
「もちろんです」
異議あり!と言いたいところだが、これがもう引き返せない状況であることは理解している。何より、ここで自分がゴネた場合、瑕疵を被るのはイングリットだ。直前に婚約が破談となった娘、と。ひっそりと進めた契約だが、誰に何を言わなくても、人の耳目を完全に遮ることはできない。必ず噂は出回ってしまうだろう。
ならば、もうこの期に及んでできることは、ひとまず受け入れること。
話は、それからだ。
「そうか。……ならばサインを」
両家の提出した誓約書が、サイン台の上に置かれる。そこにさらさらと、ファーガス神聖王国国王の名で、了承のサインが為された。
さらさらと滑るその音は遠く、現実感がない。
けれどそれは確かに、シルヴァンの世界を変えてしまう音だった。
「国王の名において、シルヴァン・ジョゼ・ゴーティエと、イングリット・ブランドル・ガラテアの婚姻を認める」
……昨日までの、ただの幼馴染みには戻れないのだと。死刑のような宣告を受けて、シルヴァンはゆっくりと頭を下げた。
◇◇◇
「父上、何故俺を呼ばなかったんです?」
王城に用意された控え室にて、シルヴァンはタイを緩めながら、どっかりとソファに座り込んだ。
「必要ないからだ」
「いや、あるでしょ?! 俺の婚約ですよ?」
遠慮なく苦情を訴えるシルヴァンの様子を、感情の見えない表情で一瞥して、ゴーティエ辺境伯――マティアスはその向かいに腰を掛けた。
「適当にすすめろとお前も言っただろう」
「大事な場には呼んでください、とも言いましたよ」
フェリクスがたたき起こしてくれなければ、あの場に自分が参加することはなかった。それは父の狙いどおりではあったのかもしれないが、ディミトリは、呼ばれていないという事情を加味してもなお、結果的にすっぽかすことになったシルヴァンを許しはしないだろう。
国王としてではなく友人として、こんこんと説教をくらう未来が見える。精神的にも体力的にもぼろ雑巾のようになる自分の姿も。
「陛下がおいでになるのは予想外だったな。お前たちの仲は私の思う以上に良かったらしい」
「父上がそう仕向けたんでしょうに」
でなければ、幼少期から交流させたりはしないし、年齢差のある自分を彼らと同学年になるように調整して入学させたりなどもしない。
その思惑に救われている今があるから何も言うことはないが、貴族の付き合いの第一目標は家の利である。
親同士が仲が良いことが功を奏したのか、はたまた相性がそもそも良かったのかは不明だが、純粋に友人関係が築けているのはただの幸運であって、付き合うきっかけは仕組まれていたものだ。
その張本人が何を今さら、という思いで、シルヴァンは苦々しさを隠すこともなく返答した。
「で、その結び付きを更に強めようって事での婚約ですか?」
結局、どこまでいっても家の為なのだろう、と揶揄を込めてシルヴァンが尋ねると、父は珍しく何かを考えるように視線を落としてから、ゆっくり口を開いた。
「……お前を呼ばなかったのは、破談にされるわけにはいかないからだ」
最初の質問の答えがようやく返って来たことに脱力しながら、シルヴァンは肩をすくめた。そこまで子供ではないつもりだが、信用はなかったらしい。
「流石にそんなことしませんよ」
「今は、な」
今は、と含みのある返答に、流石に父は自分の事を良くわかっている、と目を眇めた。
そうだ、自分から解消するようなことはしない。イングリットには、婚約を解消されてしまうような問題なんてないのだから。
「相手を知らせなかったのも、俺がごねるからですか?」
「そうだな」
「まあ……それに関しては同感ですね」
婚約の相手がイングリットであると知っていたなら、受け入れることは決してなかっただろう。
「……お前は、誰でも良い、勝手に決めろ、とは言うが、選んだ相手がガラテア嬢だと知ったなら、首を縦に振ることはなかっただろう」
テーブルの上に、紅茶が運ばれる。湯気を立てるそれを持ち上げ、口に運びながら、マティアスは表情を変えることなく言葉を紡いだ。
「そりゃそうでしょう、なんとしても破談になるように、何かをやらかしてたかもしれませんね」
あの手この手を尽くして、婚約できないように駆けずり回った事だろう。それこそ、他の女との間に子を成す事さえしたかもしれない。
「……だからだ」
「え?」
「だから、彼女を選んだ」
「……は? 意味が、わかりかねますね」
絶対に嫌だと言う相手を宛がうことの意味が、シルヴァンにはわからない。他の誰でも良いと言っているのだから、適当に選んでくれば良いではないか。
「誰でも良いというのは、誰も駄目だというのと同じだからだ。誰を迎え入れても、お前は心を向ける事はないだろう。家を厭うのと同じに」
テーブルの上に戻されたカップとソーサーが、かちゃりと微かな音を立てた。カップの中で、象徴のような赤い色が揺らめいている。
眼前で、まっすぐ己を見つめる温度のない瞳に、思わず身構えた。得体の知れない恐怖が、背後ににじり寄ってくるような予感を感じながら、虚勢を張るようにシルヴァンは笑顔を返した。
「そんな、そんなのは……イングリットがきたって同じですよ。俺はまだまだ遊んでいたいし、ふらふらしてると思いますし……家にも寄り付かないんじゃないですかねぇ」
戦いなんて好きじゃない。槍なんて持ちたくない。楽しいことだけしていたいし、痛いことも辛いことも嫌だ。
国境を守るために出なくてはならないことはわかっているし、義務はこなすだろう。が、心がそちらを向くかどうかは別の話だ。
「そうだろうな。私もそう思った。適当に家を任せ、子を成して、殆ど家に戻ることなく過ごすのだろう。もしガラテア嬢がお相手なら、お前はそれすらしないかもしれない」
イングリットが、シルヴァンの妻となった場合。それは、この家に、彼女が縛り付けられる未來だ。シルヴァンは思わず苦々しく、顔を歪めた。
「そうでしょうねぇ」
マティアスの口ぶりから、シルヴァンが実の伴わない、白い結婚を目論んでいることはお見通しなのだと知れた。だからといって、そこを譲るつもりはない。シルヴァンには、イングリットをゴーティエに縛り付けるつもりはないのだ。
「さて、ガラテア嬢を迎えた場合……遊び歩く事は構わん。槍さえ握っていればいい。家に戻るも戻らぬも、お前の自由にしろ」
「ずいぶんと話が早いじゃないですか」
それならなおのこと、イングリットを選ばなくても良いではないか。家の利を考えるのなら、とっとと縁談は解消してしまえば……そう、考えていたシルヴァンをまるで殴り飛ばすように、冷たい声が頭上に降り注いだ。
「……しかしその場合、お前の知らぬうちに、彼女は母となり、生まれた子はシルヴァン・ジョゼ・ゴーティエの子として扱われる」
「……は……? それ、は」
投げ落とされた発言に、一瞬息が止まった。
知らない間に、子の父になる。こちらの意思も行為の有無も問わず。それはつまり。
「直系の方が、紋章を受け継ぐ可能性は高いが、彼女はまだ若く健康だ。数で補えばあるいは」
「ちょっと、待ってくださいよ……何言ってるか、わかってんですか……?」
声が震える。
父の言わんとすることはわかる。紋章を次代に受け継ぐことは、重要な命題だろう。けれど、その為だけに利用すると明言しているようなものではないか。
ふつふつと沸き起こる怒りを必死に抑え込んで、シルヴァンは眼前の男を睨み付けた。
常日頃から、何が起こっても父の表情はほとんど動くことがない。今でも、感情の乗らぬ表情のまま、シルヴァンの視線を穏やかに受け止めていた。
「……先日、フラルダリウスへつながる街道沿いに、女の遺体が打ち捨てられていたそうだ」
話が突然、方向を変えた。しかし、シルヴァンの知る父が、関係のない話題を持ち出すことなどない。息を飲んで、言葉の続きを待つ。
「コナン塔の近くだそうだ。女は近隣の商家の娘でな、一家で行商中に行方不明となっていた。両親の死体は森の中で壊れた馬車と共に見つかっていたのだが、娘だけが行方知れずのまま……それが先日、街道沿いで発見された」
盗賊あたりに襲われたのだろう。若い娘だけがいなくなったのだとすれば、目的は知れている。痛ましい思いに目を伏せても、冷たい声は容赦なく顛末を話続ける。
「女は、腹を裂かれて死んでいた」
「……それで、その話、何の関係があるんです?」
これ以上聞いていられなくて、鋭い視線のままシルヴァンは話を遮った。関係のない話題とは思わないが、結論を先に言って欲しい。痛ましい事件を哀れとは思うが、このご時世、決して珍しいことではないのだ。
「……女は身籠っていたらしい。残念ながら、肉となっていたが」
「だから! それが、俺に何の関係が……」
「コナン塔の近くで、盗賊が捕まった」
ひく、と喉がひきつった。
「盗賊が……」
父は、関係のない話を突然割り込ませるような男ではない。だからこれは、自分の婚約に……イングリットに、関係のあることだ。
その事実が、ひたりと背筋を凍らせる。
「娘を浚い、殺したのもそやつらだそうだ。ほぼ全員に縛り首との判決が下されたが、首魁は生かされている」
その先を、聞きたくない。
耳を閉じたくなる衝動にかられながら、シルヴァンは歯を食い縛った。記憶に残る、井戸の水の冷たさが、雪山の寒さが、全身に忍び寄ってくる。
「……その首魁の名は、マイクランと言う」
重く響いた声に、シルヴァンは思わず息を飲んだ。
兄が、あの男が生きている。
死んだと言う話は聴いていなかった。だからどこかで悪事を続けていてもおかしくはない。
けれど、捕まり、今ここで、父の話に登場したということが意味するもの。
それは。
「アレはゴーティエの者ではなく、お前の兄でもないが、血は本物だ。腹を裂いたのは、万が一にも紋章を持っていたら許せんと思っての事だそうだから……機能にも問題はないのだろうな」
淡々と言葉を紡ぐその声色が、頭の芯を冷やしていく。沸き起こる怒りは熱を通り越して、全身を凍てつくような寒さで満たしていて――
「ガラテア嬢ならばやすやすと殺されはしまい。お前が戻らぬならばアレを――」
目の前が、赤く染まった気がした。
「ッ……!」
ふつり、と限界を迎えた怒りが、気づけば身体を突き動かしていた。
伸ばされた腕が、お互いの間にあったテーブルを越えて、父の首を掴んでいる。反対の腕は振り上げ拳を握り締めたままで、今にも振り抜かんとしていた。
「あ……」
衝動だった。
父に手をあげたことなど、一度もない。どうしようもない人だとは思っていたが、ここまで怒りを覚えた事などなかった。
――イングリットが
イングリットが、ゴーティエの家に縛り付けられる、それだけでも我慢できないのに。あまつさえあの兄上と、だなんて。そんなこと、許されるはずがない。いや、許したくなんてない。
泣き出しそうな、叫びだしそうな思いを、奥歯を噛んで無理やり飲み込んだ。
尊厳を踏みにじるえげつない行為は、血を受け継ぐという一点のみに絞れば、特別なことではなかった。
許せないと怒ったところで、子供の癇癪でしかない。
ただ己の感情が荒れ狂っているだけのこと。
それどころか、家は、その行為を、許すどころか、奨励しているのだ。
――そんなひどい話があってたまるか
振り回されるのが自分だけなら良い。わかっていたことなのだから。
けれど、彼女もだなんて。
温度のない父の視線を受けてもなお、煮えたぎる怒りは鎮まることなどなく、まだ、ぐらぐらと胸の内を焦がしている。それを耐えるように荒く息を吐き出して、シルヴァンはゆっくりと拳をおろした。固まった指を無理やり引き剥がすように、父の首から離すと、シルヴァンは脱力感のままソファに深く沈んだ。
その一部始終を、父は怒る事もなく、変わらぬ表情で見つめている。
達観したそんな様子もまた、いっそう腹立たしく思えた。
「わかったか?」
「……紋章がクソだって事がですか? それとも俺に選択肢は無いって事が?」
吐き捨てるように投げつけた言葉に、父のため息が重なった。あきれ返っているのかもしれない。そう思って視線をあげると、父は穏やかな視線でこちらを見つめていた。
「違う。……お前がそこまで取り乱すのは、ガラテア嬢に対してだけだ」
諭すようなその声に、即座に反論ができなかった。
イングリットに対してだけ?
そんな、はずは。
「……ちがいますよ、あんな話聞かされたら誰だって怒ります」
「いや、他の娘であれば、哀れとは思っても怒りは覚えない」
穏やかに、諭すような口調が、怒りに苛まれる身を逆撫でていく。けれど、同時に(ああ、そうか)と納得もしてしまった。
あんなひどい話を聞いたら、きっとそんな目にあった娘の事を哀れに思うだろう。不幸だったね、可哀想だね、と。これまで手酷く振ってきた娘達の涙を見て思ったのと同じように。
悔しいが、父のいうことは、正確に的を射ていた。
ゴーティエ家の家格や紋章に目が眩んで嫁いできた家の者ならば、別に相手が自分でなくてもいいだろうと思っていただろう。相手があの兄上であっても、紋章持ちを産めるのなら、しかもそれが次々代の辺境伯を継げるのなら、むしろ良かったではないかと悪びれなかったと言いきれる。
なぜなら、自分だってこの家がろくでもないとわかっていたからこそ、どうでもいい女にしてくれと思っていたのだから。
けれど、それがイングリットだったならば……話は別だ。
それが、特別だと言うのなら、そうなんだろう。
「何なんだよ……」
ああそうだ、本当に悔しい。
父の言う通り、イングリットだけが、女の中で、特別なのだ。特別の意味はともかくとして、彼女だけは、同列に扱えない。だから、この家に迎える事になったと知っていたら、全力で反対したに違いないのだ。
こんな家、良いことなんて何一つないのだから。
シルヴァンは呻きながら、頭を抱え込んだ。
気づいてしまった。
気づかれてしまった。
彼女の価値を。
これでは、人質を取られているようなものだ。
「……最低だ……」
「そうだな」
ゆるゆると顔を起こすと、未だ表情の変わらぬ父が、覚めた紅茶に口をつけていた。息子に殴りかかられそうになったことなど、すっかり忘れているかのようだ。
「陛下が、マイクランを処断されなかったのは、使い方によっては有益だとご判断なさったからだ。あの方は、将としての能力をただ捨てるではなく、首輪をつけて飼い慣らす方を選ばれた」
それは、無茶苦茶な采配だった。
兄は、盗みも人殺しもしている。しかも、個人の犯罪者ではないのだ。徒党を組み、勢力を拡大しながら、近隣の村々に被害を与えていた。死罪が妥当なところだというのに、飼いならすなんて、前代未聞だ。
イーハ大公の反乱によって、陛下はファーガスの国王として即位することとなったが、国王を戴いたからといって、急に国内の情勢が安定するわけではない。
得体のしれない敵勢力の事を考えても、手はいくらあっても足りやしない。その上、単純に陛下の信頼できる駒が少なすぎるのだ。
それでも、平時ならば良い。時間をかけ、燻る火種を潰していく事もできる。
けれど今は、罪人を使う必要性すら生まれているということだ。それが意味する事は、一つしかない。
「……戦になる、と?」
「可能性の話だ。しかし打てる手は全て打たねばならん」
「それで、こんなに急に婚約かよ……」
「ガラテア嬢は、あらゆる意味で都合が良かった。本人も納得している」
カップを置いた父の顔が、一瞬和らいだような気がして、いや。そんなに甘いお人ではない、と頭を振った。
「俺との婚約なんかに、納得なんて、するはずないでしょう。そもそも、父上が申し入れたんなら断るのは立場的に難しいでしょうが」
「そうかもしれんな」
あっさりと認めて、これで話は終わりだと言わんばかりに、マティアスは立ち上がった。使用人がすっと近づき、身支度を整えていく。
戦だなんだと言っている状況で、北を長く空けているわけにはいかないはずだ。おそらく、このまま鎧に身を包み、領地へと戻るのだろう。相変わらずせわしない事だ。
シルヴァンも、まだ飲み下せない怒りを胸に抱えたまま、ソファから立ち上がった。もうこれ以上何を言っても平行線だ。いつだって父には最適解の道があり、そこに乗る自分は駒でしかない。今回は、哀れな事に、イングリットもそうなった。なってしまった。
肩を落として扉へ向かうシルヴァンの背に、淡々とした声がかけられた。
「お前は間違いなく私の息子だが、私は良い父でも、夫でもなかった。……このままだと、お前もそうなる、と思った」
振り向くと、旅装を整えながら、息を大きく吐き出す父の姿があった。まるで懺悔をしているかのような口調と、弱々し気な空気に、動揺する。
「お前には……いや、……話は以上だ。契約は成った。私は領地へ戻りまた北からの侵攻に備える」
無理矢理に話を打ち切った声は硬く、冷たい。氷壁と呼ばれる、北の辺境伯の顔をして、遠い空を睨んでいる。
「俺は」
「……好きにすればいい、が……ひとまずガラテア伯へ挨拶はいれておけ」
それは確かに、必要だとシルヴァンも思う。先ほどはろくに挨拶もできなかった。娘の友人としてならよくても、婚約者としての自分の評価は決して高くないと言いきれる。何といってもこれまで散々迷惑をかけ通してきたのだから。
「そうします……」
先ほどの話への怒りと、兄の生存への混乱と、父の珍しい姿への動揺で、頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
ガラテア伯爵への挨拶は必要だと、思う。理解はできる。けれど今、胸をしめているのは。
(イングリットに、会わないと)
ふらつく足を懸命に動かして、扉の外へと踏み出した。
いずれ自分もそうなる、と予言のような言葉を零した父の思惑はわからない。けれど、どうあれ、イングリットを引き入れる事になってしまったのは、自分がこの家にいたからだ。
自分の為に、自分のせいで生贄のような扱いを受けている彼女に、どんな贖罪をすればよいというのだろう。
罪悪感に押しつぶされそうになりながら、シルヴァンは王城の廊下をふらふらと力なく歩き始めた。
向かうは王城の天馬厩舎だ。
◇◇◇
かくして想定どおり、目的の相手はそこにいた。
先ほどまでのデイドレスは身に着けていなかった。動きやすそうな、けれど一応王城であることは意識したのだろう小綺麗な騎馬服に身を包んでいる。髪も邪魔にならないように無造作に纏められていた。こぼれた後れ毛が陽光にその輝きを反射して、飾りをつけているように煌めいている。
楚々とした服装も悪くはないし、良く似合っていたが、やはり見慣れた服装の方が気は楽だ。
知らず緊張していた肩から、ほっと力が抜けていく。
「シルヴァン?……どうしたの?」
じっと見てしまっていた自分に気づいたイングリットが、ひらりと手を振った。それに軽く振り返して、近づいていく。
会って話さないと、そう思って来てはみたものの、いざ目の前にすると、何から伝えるべきか、悩んでしまって言葉が出てこない。言うべき事はたくさんあるのに、開いた唇は、迷いを吐き出すように揺れて、そしてそっと閉じられた。
そんな葛藤が表れてしまっていたのか、近づいてきたイングリットが窺うように、シルヴァンの頬に手を伸ばす。
「ひどい顔、してるわよ」
気遣わしげに見上げる顔に、何を説明すれば良いのだろう。
俺のせいでお前はあの家に入ることになったのだと。
俺の行動一つで、ろくでもない扱いを受けるかもしれないのだと。
そんな事――告げられるわけがない。
頬を撫でる手に、シルヴァンはそっと自身の手を重ねた。
「……ごめんな」
「……何を?」
「俺、知らなくて……」
言い訳でしかないそれを、わかっていながら、絞り出す。
「本当に、ごめん。お前との婚約だなんて、俺、知らなくて……」
「どうして、謝るのよ」
重ねられた手をほどくことなく、見上げたイングリットが尋ねる。穏やかに、そして真っ直ぐに見つめる瞳は、真摯でとても綺麗だ。けれど一方で、まるで駄々をこねる子供をなだめるように、その眉は困惑気味に垂れ下がっている。そんな仕草にも、自分の情けなさが反映されているようで、思わず目を逸らしてしまった。
「知っていたら、こんな事になるまで放っておかなかった。止められなくて、ごめん」
「止めるかどうかは別としても、自分の事なのに知らなかったなんて、本当に恥ずかしい事だと思うわ」
指摘の内容は辛辣だったが、その声色は柔らかい。
「面目ない……フェリクスにも、知ろうとしなかったんだろうって殴られたよ」
「フェリクスが殴ってなければ、私か陛下のどちらかが殴っていたわね」
「結局殴られるのかよ、俺……」
しょぼんと肩を落とすが、原因が自分にあることはわかっているから何も言えない。殴られて当たり前の事をしたのだ。
婚約とは、自分だけの問題ではない。相手にとっても、一生のものだ。それを粗雑に扱うということは、相手の存在自体を軽んじているということに他ならない。――実際、心底軽んじていたからこその対応だったのだが。
だからこそ、そういう扱いのできない相手を無理やりねじ込んできた父に、畏怖と、怒りと、どうしようもない悔しさを抱いているのだ。
「……なあ、お前、何で受けたんだよ」
頬に添えられたままの手を、優しくつかんだまま、そっと剥がした。手を放すとぬくもりも離れていく。そこに寂しさを感じつつも、半歩身を引いて、距離を取った。
もう、幼馴染の距離ではいられないのだ。
「何?」
「婚約の話。父上から打診があったんだろ? やっぱり辺境伯家からの申入れだから断れなかったとかか?」
「何でって……」
イングリットが困ったような表情で、首を傾げる。
彼女を責めたいわけではない。ただ、その理由を知りたかった。
「俺と婚約したって良いこと何もないぞ? ゴーティエ領は寒いし、敵の侵攻は多いし、俺は多分浮気するし……」
「宣言しないの」
「ぐっ」
横腹に手刀を叩き込まれて、うめき声をあげた。半歩開いたはずの距離が、縮められている事に気づいて、またそっと半歩足を引く。
最後の一言は半分冗談だったが、イングリットにとっての自分はそう見えているはずだ。そんな相手との婚約を受け入れるなんて、にわかには信じられなかった。しかも、ゴーティエ家との縁談となれば、嫡子であるイングリットを嫁がせる事になる。ガラテア伯がそんな判断を下すなんて、普通では考えられない事だった。
「あのね、そうやってやめさせようとしてるんでしょうけど、解消したいならあなたが辺境伯殿に直接言いなさいよね」
腕を組んで、軽く睨むように見上げるイングリットの視線は、少し居心地が悪い。その内容が尤もだからか、それとも後ろめたいからか。
「……そんなことしたら、お前の名前に傷がつくだろ」
小さく絞り出した声に、イングリットが目を丸くした。
「呆れた! そんなこと考えて断れなかったっていうの? それで望まない相手と覚悟もなしに添わされるなんて、馬鹿じゃない!」
「ば、馬鹿ってなんだよ! 俺はお前の事考えて……っ!」
「おあいにくさま! 私は、自分で決めて、この話を受け入れたの! ふらふらしてるあなたと一緒にしないでちょうだい!」
ふんす!と鼻息荒く胸を反らすイングリットの、その堂々とした態度があまりにも眩しい。当たり前だが、先程知ったばかりの自分とは、腹の括りかたが違う。
けれど、どんなに彼女が腹を括っても、嫁ぎ先の……つまり、自分の実家の質が良くなるわけではない。自分が家に戻らなければこっそりと廃嫡した男を宛がおうとするような家だ。
「だって……本当に寒いんだぞあそこ……娯楽もないし……」
「ガラテアだって寒いし、娯楽どころか豊かな畑もないわよ」
自虐が強いが、よく知る間柄だけに頷いてしまう。ガラテア領は飢饉が続く貧しい領地だ。寒さもゴーティエよりは明らかにマシだが、そもそもファーガスに雪の積もらぬ土地はない。
「それに平和とは程遠い血生臭いところだし」
「あのねぇ、イーハ大公の乱もあったでしょう? 完全に戦火を逃れられる場所なんてないし、そもそも私だって戦うのだからどこにいっても同じよ?」
呆れたような口調でばっさりと切り捨てたそこには、彼女の騎士としての思いも含まれている。確かに父ならば、戦力として数えられる彼女から槍を取り上げるような事はしないだろう。
「それに、そうだな、ガルグ・マクほど飯は旨くない」
「嫌味なの!?」
ぎらり、と今日一番の鋭い視線で睨み付けられて、腰が引けた。
「具のあるスープが毎食食べられるなんて、それだけで贅沢なのよ!?もっと感謝しなさい!」
「わ、悪かったって!毎度美味しく頂いてます!ありがたいなーー!!」
ものすごい剣幕で怒鳴られてしまい、その勢いから逃れるように半身を反らして即言葉を返した。
「いや、いやいや、そうじゃなくて、そうだ、ゴーティエより良いとこあるかもしれないだろ! 身分とか、金とか!」
「ファーガスで辺境伯家以上なんて、陛下くらいしかいないわよ……」
「そうだった……くっ、うちの身分が高いばかりに!」
同等の地位で探した場合、未婚者がいるのはフラルダリウス公爵家くらいだ。元々イングリットはグレンと婚約関係だったのだから、その死後にフェリクスに引き継がれても良かったはず。そういった話は出ていたはずだ。にも関わらず成立していないのだから、どちらかが明確に断ったのだろう。
多分、というか十中八九、フェリクスだろうが。
「ううう……あっ! 俺! 俺は苦労をかけるぞ! 多分、とんでもなく!」
「今までと同じでしょう?」
「……そうだった……」
条件を並べた端から覆されて、シルヴァンはズルズルと壁に背を預けたまま、頭を抱えながら座り込んだ。
つくづく、条件だけを並べていくと、都合が良すぎるのだ、イングリットを迎えるということは。
ゴーティエという貴族家と縁を繋ぎたい者は多いし、申入れもひっきりなしに来る。けれどそれは相手の勝手な望みであって、こちらからあの辺境の地で生きていけるだけの胆力のある女、という条件で絞り混むと、ほとんど残らないのが実情だ。
父が、現辺境伯が、当事者の意向を無視してでも取りまとめたくなる気持ちはわかる。
けれど……
「もう、何でも良いから……俺のせいにして、断ってくれよ」
「……どうして?」
「……良いことなんて、何一つないんだよ……あの家も、俺も。お前にとって、良いものじゃない」
シルヴァンから断れば、イングリットに何かあるのではないかと思われる。しかし、解消の申入れがイングリットからであれば、シルヴァンに非があるのだと世間は理解するだろう。散々放蕩息子としての名を馳せてきた自負はある。きっとすんなりと受け入れられるはず。
だから、自分の名など徹底的に貶めて、イングリットには綺麗なまま、元の生活に戻って欲しい。
そのために、一旦は受け入れたのだ。後で解消してもらおうと思って。
けれど、猶予がどれだけあるのか。
結婚の時期は明言されてはいないが、家に入ってしまえば、先程父から聞いた話が現実のものとなる可能性だって、ゼロではないのだから。
「……ねえ、シルヴァン」
うずくまって頭を抱える自分のごく近くで、労わるような声が響く。ゆるりと顔をあげると、驚くほどの近い距離で、翠の瞳が瞬いていた。
「あなたは、嫌なの?」
宝石のようにきれいな瞳が、揺れている。金に縁どられたそれは、吸い込まれそうにきらきらと輝いていた。嫌なの?と尋ねる声は、震えているような気もして、促されるように、自然と唇が開かれた。
そんな事、聞くまでもない。
「……嫌じゃない」
あ、と思った時には、言葉が零れ落ちてしまっていた。
しまったと慌てて口を押えても、一度飛び出していった言葉をなかった事にはできはしない。
「あ、えっと、そうじゃなくて、」
慌てて取り繕うような言葉を探せど、紛れもない本音を、打ち消せるようなものが浮かぶはずもなく。口を開いては閉じてを繰り返し、言葉にならないうめき声をあげるだけ。
「やっぱり、嫌なの?」
再度問いかける声に、ぴたりと口を閉ざした。
しゃがみこんで、視線を合わせるその表情は変わらない。けれど、真剣な様子には適当な返事は返せない。返したくない。
続けざまに否定の言葉を繋いでしまった事で、イングリットの事が嫌なのだと、だから婚約したくはないのだと、そう思わせてしまったのかもしれないと思い、慌ててシルヴァンは立ち上がった。
「ち、ちがっ、そうじゃなくてな! あ、あのなっ、えーと、何と言うかだなあ……!」
嫌じゃないから、困っているのだ。
どうでもいい女なら良かった。あの家の名声や利益だけをみている奴なら、どんな目に合おうが気にせずにいられた。
けれど、イングリットはだめだ。
どうでもよくない存在が、あんな家に入ってつらい思いをするのは、耐えられない。
それなのに、安心できる存在が傍にいてくれるかもしれない、と期待してしまう自分にも、心の底から嫌悪を抱いた。
「私も」
イングリットが、そう口にしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「嫌じゃないわ」
どこか安堵混じりの笑い声に、息を飲む。
その、肩の力が抜けたような笑顔に、ようやく気付いた。
この婚約が軌道に乗ってしまってからずっと、イングリットだって、不安だったのではないか。
家の為には、彼女だっていつかは伴侶を選ばなければならない。条件などを考えると、今回の話を断る事は難しかっただろう。例えシルヴァン個人に不平不満があったとしても、だ。
そんな不安を訴えたくても、当事者である自分は、話の席に顔を出す事すらしなかった。
やっと現れたかと思えば、知らなかっただの、なぜ受けたのだと責めるような事ばかりを口にして。彼女の気持ちも考えずに。
これでは、身勝手に話をまとめようとした父と、何が違うというのだ。
守ろうとするなんて、烏滸がましい。もう既にたくさん傷つけていたというのに。
愕然とした思いで、謝罪を口にしようとして唇を開いて……また、すぐに閉じた。
ごめん、と謝るのは簡単だが、それだけでは全然足りない。それに、彼女はきっと、そんなものを望んでいるわけではない。
では、どうすれば。
そうやってうんうんと頭をひねるシルヴァンの様子に、何を思ったのか、イングリットが吹きだした。
「……なんだよ」
「今の表情が、辺境伯殿に似てたから、なんだかおかしくなってしまって」
「え、ええ~!」
あの鉄面皮だと言われたら泣いてしまうが、性格の悪辣さだと言われたら納得してしまうかもしれない。ついさっきも、身勝手さが重なっている事に遺伝を感じてしまって、打ちひしがれていたところなのだ。
「……辺境伯殿も、今回の婚約の打診のために我が家に来られた時……本当に嫌になったらいつでも断ってくれと仰っておられたのよ」
「父上が?」
強引に話を進めて、それこそ当事者である自分に秘密にしてまで締結した契約を、反古にして良いと言うとは、考えにくい。
何重にも打算を折り重ねるあの人の事だ、その言葉にもきっと何らかの意味はあるはず……とは思えど、今回の件にいたっては、意味不明な事ばかりだ。
「あなたと同じよ。断られる時は間違いなくあなたが何かやらかした時だから、って。それでなくても、どんな理由でも瑕疵にはしないから、とりあえずお試しで受け入れてみてはくれないかって、それはもう低姿勢で驚いたわ」
「お試しってそんな、息子を貰い手のない粗悪品みたいな扱いするか?……いや……するかな……」
しそう。
目的を達成するためなら、どんな詭弁でも扱うあの人の事だ。その程度なら躊躇するようなことでもない。
「持参金の倍の返礼を出すとか、相互支援の計画を提示されたりとか、離縁は自由だとか、条件だけ聞いていても正気を疑ったわ。その上で頭まで下げられるんだもの、お父様も流石にお断りできないわよ」
「それは……うちの父が強引ですまん……」
何をしているのだあの人は。
父の言動が全て自分を売り付けるためのものだと知っているだけに、恥ずかしい。自分への話では、イングリットが都合が良いからだの、戦が近いだの何だのそれっぽい事を言ってはいたが、なりふり構わぬ様子にもしかしたら本当に自分を押し付けたかっただけなのではないかという疑惑すら沸き起こる。
この場にイングリットしかいなくて良かった。どんな顔をしてガラテア伯爵にお会いすれば良いのだ。
「本当にね。何かお考えがあるのでしょうけど、そんなこと私にはわからないのよ。核心には触れさせずに周りを動かそうとする、あなたと同じだわ」
イングリットの言葉がグサグサと突き刺さる。
断って欲しい核心だなんて、言えるわけがない。
お前が大事だから、あの家に入って欲しくはなかったんだ、なんて。
「……父上も、断って良いって、言ってるのか……」
「ええ、だから最終的には、お父様も私の意思で決めなさいと仰って下さったの」
「じゃあ……」
「私、あなたと結婚するわ」
「……えっっっ!」
清々しく言いきられた発言に、心臓が飛び出すかと思った。
望んだ結果ではないというのに、選ばれた事実に反応してしまう心がとても憎らしい。
「あのね、条件が良すぎると言うのも理由の一つではあるのだけど……」
うーん、と視線を少しさ迷わせてから、こちらを窺うように、イングリットが真っ直ぐに視線をあわせた。
「士官学校の授業で、盗賊に襲われて……陛下達が囮になった日があったでしょう?」
「今にして思えば、一番守られないといけない奴が囮って、無いよなぁ」
「本当よね」
くすり、と笑って、イングリットが壁に背を預けた。
あの日の夜、大きな木に背を預けて、所在無げに掌を組合せていた姿が重なる。
「今だから言うけど、あの時は不安で仕方なかったわ。怖くて心細くて、陛下に何かあったらどうしよう、って……けど、あなたは大丈夫だって笑ってくれたわ。陛下が戻るまで、一緒にいてくれた。だから、あなたが言うなら大丈夫かもって、思えたの」
あの日の野営地は、せわしなさに包まれていた。それも当然だ、それぞれの国の跡継ぎがこぞって行方不明だったのだから。
心配をしてなかったと言えば嘘になるが、盗賊風情にディミトリがどうこうできるとは思えない。だからあの時は、その背景ばかりを考えていた気がする。
そんな時に、一人泣きそうな顔で、佇んでいたイングリットを見つけた。今にも崩れてしまいそうな表情は、珍しく儚げで、元気づけようと声をかけた。すると、弾かれたように顔を上げた彼女の表情から、強ばりがほどけ、じわじわと安堵が広がっていった。そんな顔を見てしまったら、動けなくなった。
存在を許されているような、求められているような錯覚が心地よくて、あの夜は事態が解決するまでずっと一緒にいた。
木の下で、かがり火と空を見上げながら、取り留めなく話をして。陛下たちが戻ったと聞いた時には手を取り合って喜んで。
それだけの夜だった。
けれど、その些細な時間は、何かが変わる、きっかけだったのかもしれない。
「嬉しかったわ。だから、私はあなたと婚約して、結婚しても、大丈夫だって思えるし、そうすると決めたの」
「そっ………………」
そんなことで。
そんなことくらいで。
そんな、些細な事を支えにしてこれからの人生を送ろうだなんて。
「そんな、チョロすぎるぞお前は!……そんなことで、婚約とか、大事な事決めたらだめだろ! そんなんだといつか悪い男に騙されて泣く羽目になるんだからな!?」
勢い良く捲し立ててしまうのは、照れか。気恥ずかしさか。もしかしたら嬉しさのせいなのかもしれないが、頭の中のぐちゃぐちゃの感情のまま、わめきたてた。顔が熱い気がする。
「何よ! 私はもうあなたと婚約するんだし、問題ないでしょう? この場合、悪い男はあなたって事になるけど」
「そ、そうだよなあ……そうだった……」
考えも、感情も、まとまらなくて頭を抱えてしまう。
ただ、わかるのは、自分は嬉しいのだということ。
彼女を引きずり込んでしまう罪悪感は拭いきれないが、他ならぬ彼女自身が飛び込んできたという事実に半ば相殺されている。
それなら問題はもう、己の心一つだ。
けれどその心は最初から、わかりやすすぎるほどに事態を歓迎していた。
つまるところ、これまでの騒ぎは結局子供の癇癪でしかないのだと思い知らされ、顔が歪む。
これからの人生、戦場のようなそれを共に渡っていくのなら、背中を預けられる者が良い。
「だから、あなたが婚約を解消したいのなら、あなたが一人で頑張って。私からは、解消は、しないわ」
意思の強い光を宿した瞳が、挑むように細められて、笑みを象る。
「俺、は……」
答えなんて、とっくに決まっている。
相手がイングリットだと知った瞬間に、あの部屋を飛び出した時から。いや、きっと、ずっとずっと前から。
「毎日説教くらいそう、だな……」
へらっと笑いながら、茶化すつもりで零した言葉に、イングリットが眦を吊り上げて腕を腰にあてる。見慣れたその姿に、自然と背筋が伸びてしまう。
「もう本当にいい加減真面目にやりなさい、とは思うけれど……よっぽどの事がなければこれからもずっと一緒にいるんでしょうし、その都度叱り飛ばしてあげる」
「ほどほどに願いたいんだが……」
「それはあなた次第よ」
これからもずっと一緒に。
その一言に跳ねた心臓を、悟らせないようにシルヴァンは軽口を叩いて、笑顔を浮かべた。きっと、ぎこちない笑みの形でしかないだろう。まだ、完全に納得できたわけではないのだ。
あの家は、イングリットを迎え入れても良いと思えるような場所ではない。今は、まだ。
それは、自分の、これからの課題だ。
「あーあのさ、イングリット……」
「何?」
見上げるイングリットに視線から逃れるように、顔を背けて、シルヴァンは頭を掻いた。
「本当は、ガラテア伯爵にご挨拶を、と思ってたんだけど……悪い、また日を改めて伺う事にするな」
「あら、どうして?」
これまでの自分の非礼を詫びたい気持ちはある。けれど、言葉だけで頭を下げて、それで終わりだなんてそれこそ馬鹿にしている。
「流石にまだ、合わせる顔がないからな。もうちょっと、マシになったら……」
「マシになるつもりがあるの?!」
大仰に驚いたイングリットに、ぐ、と言葉を詰まらせた。
わざとらしく「ついにシルヴァンが……」などと目頭を押さえる演技までしているイングリットの眉間を指でぐいっと押して、顔を上げさせた。
「仕方ないだろ! 俺の評判が、お前にも影響するわけだし……だから、少し……待っててくれ」
子供のようにふてくされて、照れの隠し切れない顔で唇を尖らせて、情けない事この上ない。けれど、彼女には情けないところなんて散々見られている。今更取り繕う必要もないだろう。
だから、今の精一杯を、言葉にした。
その気持ちだけは伝わったのか、見上げるイングリットは嬉しそうに微笑んでいる。
「ふふ、待つのはいいけど、あまり時間をかけすぎると、直接発破をかけに行っちゃうかもね」
それはとても眩しい笑顔で。
「それは、怖いな」
と、今度こそ、自然に笑みを返せた。
◇◇◇
「あら、お父様、いらしていたのなら声をかけて下されば良かったのに」
「……いや、婚約者との逢瀬を邪魔しては、と思ってね」
イングリットの呼びかけに、穏やかな声を返すのは、ガラテア伯である父、グンナルだった。なぜか、手には愛用の槍を握り締めている。
そんな父の物言いがおかしくて、イングリットは大きく口を開けて笑った。
「婚約者だなんて。まだ名目だけです、そんなに急に関係は変わりませんよ」
「そのようだね」
「それよりも、お父様はどうして槍を? 訓練でもなさるのですか?」
訓練用の、先をつぶした槍ではなく、戦や狩りで使う、殺傷能力の高い槍だ。この王城の中で持ち歩くには、いささか物々しい。
「いや何、質の悪い虫がいれば叩き潰そうかと思っていただけだよ」
「はあ、虫、ですか」
虫を相手にするには、過剰……というよりも、小さな虫に大きな槍ではむしろ扱いづらいのではないか。
「駆除が必要であれば、私もお手伝いいたしますが」
「いや、大人しい虫だったようだから、君は気にしなくても良いよ」
「そうですか?」
生真面目な表情を微かに緩めて笑顔を浮かべる父に、曖昧に返すと、父は少しだけ寂しそうにこちらを見つめて、頭に手を乗せた。そのまま、よしよし、と子供をあやすように、頭を撫でる。
「お父様……」
撫でる手が暖かくて、父の優しさが伝わってくるようだった。自分の為に、父がどれだけの我慢をしてきたかを知っている。領を継ぐために、希望として、大切に育ててもらった恩がある。それなのに。
「ガラテアを出る事になり、申し訳ございません」
婚約は、家同士の結びつきだ。親同士が話し合いで決めるものだ。けれど今回の話を、最終的に了承したのは自分だった。その瞬間に、嫡子として育てられたにも関わらず、その責務を果たさない事を決断してしまったのだ。
その決断に後悔はないが、父の優しさを受け取る度に、申し訳なさにうつむいてしまう。
「そんな事はいいんだ。それよりも、これまで見合いの話をすすめていた時よりも、お前が辛くなさそうで良かったよ」
「まあ、シルヴァンの人となりはわかっていますから、気は楽ですね」
友人としての付き合いは長い。彼がこれまでの女性遍歴の中で様々な問題を起こしているのは知っていた。これからそれは、婚約者となった自分にも起こるのかもしれない。けれど、これまで何度も対処してきたのだから、見えない何かに怯えるよりも、ずっといい。
それに、不思議とそんな事にはならない気がしていた。
「しかし、そんな事がねえ……」
「え?」
「いや、すぐに結婚するわけではないのだから、ゆっくりと考えていけば良いよ」
父が、頭から手を離しながら、髪を撫でた。優しく見つめる瞳が、くすぐったい。
「はい……でも本当に良いのでしょうか」
「何がだい?」
「辺境伯殿に提示頂いた条件が、あまりにも破格で……私にはその意図が不明で、そこは、少し、不安です」
頭を下げてきた事も信じられない事だが、ガラテアにとって有利な条件ばかりだった。その上、すぐ結婚して次代の紋章を産めと言われるのかと思いきや、結婚の時期すらいつでも良いという。
むしろ辺境伯家にとっての利益なんて、紋章持ちという戦力が増える事以外にないのではないかとすら思える。
「いいんだよ」
言い切る父は、どこかおかしそうに目じりを下げていた。
「マティアス殿は不器用なお方だから。親の心、子知らずとは良く言ったものだが」
今にも笑いだしそうな、真面目な父には珍しい子供のような表情を見上げて、イングリットは首を傾げた。
「私は、お父様に大切にされている事は、存じています」
「……ああ、ありがとう。お前は本当に得難い宝だよ」
髪を撫でる手が暖かい。視線が、優しい。
「何にせよ、すぐに家を出ていく事にならなくて良かった。流石に私も寂しいからね」
父の笑顔が少し、泣きだしそうに歪むのを見て――
イングリットは笑顔を浮かべたまま、父に抱き着いた。