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    誰がコマドリ殺したの<1187年 飛竜の節>


     今にも空が堕ちてきてもおかしくはない。そう思わせるような曇天が、頭上に重く広がっていた。
     遅れて到着した視線の先には、黒いドレスに身を包んだ女がいた。頭には未亡人を示す黒いベールを纏っている。
     でっぷりとした男からの乱暴な怒鳴り声を、まっすぐに姿勢を伸ばしたまま受け止めているその姿は、場違いにも凛々しく見えた。
     
     今日は、イングリットの夫――前夫の、葬儀だった。

     
    「お前が、お前が殺したんだろう!この悪魔どもめ!」
     
     口汚く罵る男は、前夫の父親なのだろう。旧帝国領の子爵だったはずだ。田舎貴族、と見下すファーガスへ厄介払いのように次男を押し付けてきたくせに、死んだら死んだで、怒りを露にするさまは滑稽極まりない。
     男の根拠のない暴言にも何一つ言葉を返すこともなく、じっと耐えるイングリットを見かねて、シルヴァンは一歩を踏み出した。
     
    「失礼。……お気持ちはお察し致しますが、死者の安らぎの為にも、一時怒りをおさめては頂けませんか」
     
     やんわりと、背後から声をかけると、振り返った男は明らかに狼狽した。
     
    「へ、辺境伯閣下……」
    「この度は、お悔やみを」

     継いだばかりの呼称には、未だ慣れない。へりくだる側だってそうだろう。目の前の男は明らかに、なぜこんな若造に、と表情に侮蔑を滲ませている。

    「なぜ、こちらへ……」
    「大切な友人の御夫君の葬儀ですから。それに、彼を引き留められなかったのは私の落ち度です」
    「引き留め……?」
    「ええ、カロン伯より伺ってはおりませんか? 事故の数日前、ご子息とはガルグ・マクで会いまして。ガラテアへ戻ると言っておられたので、道中を共にしたのです」

     それは、真実だった。

     男の息子――イングリットの前夫は、賊に襲われ死んだとされている。
     
     あの日、ガルグ・マクで出会ったその男は、これからガラテアへ戻るところだと言っていた。
     フラルダリウス領へと向かう予定だったゴーティエ家とは、途中で別れる事にはなるものの、道中の人員は多い方が良い。護衛を兼ねて、ガラテア領手前までの同行を申し出たのはシルヴァンだ。

    ――旅は道連れと言うではありませんか。ご安心下さい、ゴーティエの者は精強です。道中の野盗も魔獣も一掃してご覧にいれますよ
     
     にこやかに声をかけるシルヴァンの様子を、修道士達も、随行していた騎士達も目撃しているはずだ。同時に、何が気に入らないのか、身分を無視して声を荒げていた男の様子も。

    「その方がより安全に帰郷できるかと思いまして、声をかけさせていただきました。ガルグ・マクの修道士達に尋ねればお分かりになるかと。ですが、結局同行は固辞されてしまい……」

     辺境伯家の騎士団が目を光らせてくれるのだ、通常ならば断る手はない。
     しかし、男は頑なに頷こうとはしなかった。こちらの申入れを拒んだばかりか、まるで忌避しているかのような態度に、肩を落としたものだ。
     刺々しい態度は今に始まった事ではない。旧帝国領の貴族としては、珍しいものではなかった。
     帝国こそが至上と捉えていた貴族達からすれば、帝国解体のきっかけとなった自分達へ思うところがあったとしても、仕方がない。
     しかし、こちらが暴言程度なんともないと構えていたとしても、周囲がどう思うかは別である。不和の種を歓迎する者達は、どこにでもいるのだ。
     元が帝国貴族の次男坊という肩書きがあろうと、今は『ガラテア伯爵の夫』だ。そんな男の立場を心配していたこともあり、婚約が決まってからも折りを見て声をかけ親睦を深めようとしていたのだが、その願いが叶うことは、最後までなかった。

    「そんな……! 嘘だ!」
    「お疑いはごもっとも。当時は当家も困惑しました。遠慮されたのか、もしくは急いでいたのか……今となっては理由は不明ですが、当家も無理を押し通す事はできません。とは言え、このご時世、まだまだ危険も多いですから、距離をあけてご一緒させて頂くことにはしたのです」

     いくらなんでも、はいそうですか、と送り出すのも義にかける。相手の護衛に、顔見知りのガラテア家の騎士がついていたことも理由だったが、野盗などが現れてもすぐに助けに行けるような距離をあけたまま、同じ日に出立した。
     それは、破格の待遇だ。望んで得られるようなものではない。
     それを、目の前の男は理解しているのだろう。こちらの言葉が真実かどうかなど、人に聞けばすぐわかることだ。だから、嘘であるはずがない、ということも。

    「そ、それは……それでは……なぜ、息子は……」

     怒りをぶつける先を見失って、男の視線がシルヴァンとイングリットの間で彷徨う。
     話を聞きながら何を思っているのか、イングリットの表情は、ベールに隠されて窺えない。凛と伸びた姿勢だけを視界の端にちらりとおさめてから、シルヴァンは再び口を開いた。

    「……道中、雨足が強まったため、ご子息の一行に使いの者を走らせました。道がぬかるみ危険だから、途中の村で宿を取るべきだと。幸い、カロン領に入ってすぐの村には宿もありますし、私達もそちらへ逗留することにしました」

     伝令を運んだ騎士によると、声をかけた直後は渋ったらしい。しかし、側仕えの者や御者に諭され、最終的には村へと向かうことになった。
     村の宿屋で、シルヴァンは再度その男の無事を喜び、握手を交わしている。
     
    ――ご無事でなによりです、身体も冷えてしまった事ですし、いかがでしょう、少しお付き合い頂けませんか?

     と、友好的に酒の誘いをかけたところ、にべもなく断られてしまったことを覚えている。逃げるようにそそくさと部屋へと向かう後ろ姿も、そんな主の態度に頭を下げていた使用人達の姿も。
     もはや慣れたものだったが、頑なな態度に苦笑しながら、肩をすくめた。
     ガラテアまではまだ数日はかかる。本格的な冬には遠いとはいえ、秋に差し掛かろうと言うこの時期の雨は、体力を奪う冷たさだ。行軍に慣れた自分にはまだしも、箱入りの貴族の次男では、ファーガスの気候は辛いだろう。護衛は寒さからは守ってはくれないのだ。
     宿屋の主人には少し多めに金を渡して、男によくしてやってくれと差し入れを頼んだのは、震えていたその姿を心配したからだった。
     
    「ファーガスの騎士は武骨なせいか、どうも私もご子息には快く思われてはいなかったようでして……翌朝、雨が上がればまたご一緒できるだろう、と、その日はそれ以降声をかけることはありませんでした。それが……」

     翌朝、シルヴァンが起きてすぐ飛び込んできた報告は、どうやら夜中に出立したようだ、というものだった。
     あの大雨の中、更には視界も悪い真夜中だ。宿屋の店主は夜中にたたき起こされ、面倒な客だと思いながらも、危険だからと引き留めた。その言葉に一切耳を貸さなかったのは、男の方だ。
     本来なら、危険とわかっているのに送り出すような真似はできない。けれど、男は貴族で「女伯の夫」という身分があった。ただの宿屋の主人では、命じられれば動かぬわけにはいかない。
     しかも、店主が皆に気取られぬように準備を手伝ったのには、それだけではない理由があった。

    「宿を抜け出す際にご子息は、ゴーティエの者に知られぬように、と金を握らせたそうです」
    「は? そんな事をして何になるというのだ!」
    「ええ、私もそう思います。故に、気づくのが遅れたのです」
     
     しかも、とんでもないことに、元々ガラテアに使えていた護衛や側仕えは宿に残したままだった。実家より連れてきた、数名の者達だけで宿を出たと言うのだ。命知らずにもほどがある。
     護衛の交代の時を見計らったらしい。主人を行かせることになってしまった護衛騎士達の浮かべた苦悶の表情は、あまりにも哀れだった。
     すぐにでも追いかけると息巻く彼らを止めるのは忍びなく、残された使用人達はこちらがガラテアへ送り届ける事を約束し、そこで別れた。
     朝になって雨は上がっていたが、轍の跡も蹄の跡も、綺麗に洗い流されてしまっている。けれど、行き先は同じはずだ。ならば、街道を通っていけば、追い付けるはず。
     そう信じて馬を走らせる彼らを見送って、シルヴァン達は人数の増えた隊を編成し直してから、のんびりとガラテアへと向かった。

    「残された者達を放り出すのはあまりに哀れ、と、私も彼らを乗せて、ガラテアへと向かいました」

     街道側の門を出て、まっすぐ東へと進む。
     雨は上がっていたが、道の状態は悪い。しかし、進みこそ遅くはなったものの、道中はとりたてて大きな問題は起こらなかった。
     休憩の度に、同乗したガラテア家中の者には頭を下げられたが、古くから仕えている彼らは顔見知りでもある。礼を言われるほどのことではない。
     寝食を共にし、和やかに数日を過ごしながら進み、そして、何事もなくガラテアへと到着した。
     到着後、即、領主であるイングリットへと報告があげられたが、そこで初めて、先に出たはずの男がまだ到着していないという話を知ったのである。
     
     道中を共にした一行が皆、そんなはずはと首を傾げたのはまだ記憶に新しい。

     一足先に戻っていた件の護衛達があらかたを説明してくれていたようで、話の通りは早かった。こちらとしては、彼らが報告したであろう事の裏付けを告げるくらいしかできない。それは、道中に見かけることのなかった男の行方の手がかりとはならなかった。
     お守りできなかったと悔やむ護衛達は、探索に行く、ときかなかったらしいが、イングリットはそれを押し止めたらしい。
     この広い世界で、人を探すというのは簡単な事ではない。資材にも人員にも余裕のないガラテアにとっては、厳しい判断だ。
     そもそも、あの男がガルグ・マクへ行くことすら、イングリットは反対していたというのだ。
     それでも、危険だからと護衛をつけたのは、家族としての思いやりだったのだろう。それを無下にされた心境は、察してあまりある。

    「そんな、そんな事はおかしいだろう! そもそも使用人達が気づかないはずがないだろうが!」
    「ええ、仰る通りです。ですがご子息は、宿につくなり、ご実家より連れてこられた者達以外を部屋から追い出したそうなのです」
    「な、なんだと……」
    「その日空いていた部屋は全てこちらで押さえていたので、追い出された彼らにはこちらから一室を与え、その旨はご子息にお伝えしておりました」
     
     あの日、同じことをイングリットにも伝えた。同乗していたガラテア付きの者達も、自分たちの失態を詫びた上でゴーティエ家への感謝を述べた。疑いようのない現実に、イングリットは何かを耐えるように一瞬、唇を引き結び、そして素早くガルグ・マクへと使いを出した。
     その時のイングリットは、何を思っていたのだろうか。

    ――大丈夫だって

     悲壮な表情を浮かべたその様子に、思わず伸ばした。子供をあやすように、頭を撫でると、指先に柔らかく髪が絡んだ。震えがおさまった気がしたのは、こちらがそう期待したせいだろうか。

     彼女は、世話をかけたわね、シルヴァン、と疲れたような笑みを浮かべていた。

    「私はそのままフラルダリウスへと向かい、北へと戻ったのですが、そこで、お亡くなりになられたと聞きまして、飛んできたという次第です」
    「そんな……! この女があいつを叩き出したんだ、そうに決まっている!」
    「そのようなことは……」

     叩き出した、とは思わない。
     が、あの男が節の半分以上をガルグ・マクで過ごしていたことは隠しようもない事実だった。
     元々、帝国貴族は領地には留まらず、中央で暮らすのが一般的だ。領地には通常代官を設置し、ファーガスのように、直接統治することはない。
     そういった慣習の違いの上に、ガラテアは過ごすには厳しい土地だという事情もある。ファーガスの生まれでなければ、逃げ出したくもなるだろう。
     共感はしないが、理解はできる。
     
    「財産狙いの売女めが! 国に訴えて、持参金の返済を求めてやるからな!」

     無茶苦茶な暴論に、はあ、とシルヴァンもため息を吐いた。持参金など、そのほとんどがガラテアに使われることなどなかったと言うのに。
     いくら息子をなくした苦しみがあるとはいえ、冷静とは言えない反応に、シルヴァンはゆるりと首を振った。


     
     
     男の亡骸は、カロン領の南端、オグマ山脈の麓近くで発見された。シルヴァンと別れた村からは、およそ、一日程の距離だ。
     夜半に出立したことと道が悪かった事を考えると、実際にはもっとかかっていたと考えられるが、少なくともあの村で引き留める事ができていれば、死ぬことはなかっただろう。
     金品が根こそぎ奪われていたことから、最近オグマ山脈へと流れてきた賊に襲われたのではないか、と目されている。
     発見したのは、カロン領の巡回兵だ。賊の報告を受けていた彼らは、ガルグ・マクと連携して、重点的にオグマ山脈に巣くう山賊を警戒していたらしい。
     しかし彼らも万能ではない。まさか街道を離れてわざわざ山脈へ向かう馬車がいるなど思いもしなかっただろう。発見できたのは、雨が上がってからの轍の跡が残っていたからだ。
     不審に思い、辿った先で見つけたのは護衛の亡骸だった。そこからさほど離れていない場所に、横転した馬車があり、中は血の海だったという。
     めぼしいものは残されておらず、賊の仕業と目星をつけたところで、傷ついた馬車の紋がガラテアのものである事に気づいた。
     
     ガラテアへの道中で追い付けなかったのもそのはずで、街道をのんびりと進んでいたその頃には既に冷たくなっていた、というわけだ。
     ガラテアへ向かわず、来た道を取って返すようにガルグ・マクへ向かったばかりか、夜半に誰にも知られないように抜け出す……あの男がなぜそのような奇行に及んだのかは、今となっては知る由もない。

      
    「持参金を使い込まれたのはご子息ですよ。ガルグ・マクでの滞在費も馬鹿にならなかったことでしょうし」
    「う、嘘だ! 嘘だ、こんな……! クソッ! この婚姻は投資だったんだぞ! ろくな回収もできず、借金ばかり重ねおってあのバカ息子が……ッ!」

     事実を淡々と告げられて、怒りの矛先を失った男が、ダンダンと地面に踵を大きく打ち鳴らした。
     投資だなんだと皮算用を行うのは勝手だが、当人の前で――しかも、夫を亡くしたばかりの者の前で言うべき言葉ではない。
     男の背後に立つ使用人へ目配せを送ると、慌てて主人のもとへとかけよった。
     
    「だ、旦那様、御体に障りますので、ここは……」
     
     癇癪には慣れているのか、背中を押すようにして主人を引きずって行くその手際は鮮やかだ。去り際に使用人は頭を下げたが、父親の方は退去の挨拶すらもない。
     あのままあの場で暴れさせていたら、不敬を理由に処罰されてもおかしくはない状況になっていたかもしれない。
     シルヴァンとしてはそれはそれで構わなかったが、イングリットからしてみれば、僅かな期間ではあれど義父であった男だ。彼女に良心の呵責を覚えさせるくらいなら、あの程度の小者は無かったことにした方が良い。
     喚く声が遠ざかるに従って、墓地に再び静謐な空気が広がっていく。

    「ごめんなさいね、シルヴァン」
    「どうしてお前が謝るんだよ」
    「……同じことを何度も説明させて、手間をかけさせていることに、よ」
    「気にすんな。救えなかった事は事実だからな」

     あの宿で引き留める事ができていれば。
     いや、もっと早くに気づいていれば。
     
     ――もっと早くに動いていれば。

     彼女が心に傷を作ることは、無かったのかもしれない。ただの可能性だが、こうなってしまった以上、過去の分岐点を思わずにはいられなかった。

    「ねえ……泣けないのよ、不思議よね」

     ぽつり、と小さな声が響いた。
     隣を見下ろすと、伸びた背筋はそのままに、白い墓標を見つめている。
     
    「家族が死んだのに、涙の一つも零れないの。ベールがあって良かったわ。悲しくないなんて、おかしいもの」

     淡々とした声からは、感情は窺えない。いっそ本当に何も感じていないだとしたら。どんなにいいか。
      
    「お前の涙はグレンの時に渇れたんだろ」

     努めて軽い声で、何でもない事のように話す。

    「今は突然過ぎて、混乱してるだけだ。悼む時間はあるんだから、ゆっくり偲んでいけばいいさ」

     黒いベールに覆われた頭を、その上からくしゃ、と子供にするように大きく撫でた。

    「無理に泣こうとすんな。俺だって、兄上が死んだ時は泣けなかったしな」

     あの人は、ろくでなしだったが、確かに家族ではあったはずなのだ。けれど、涙なんて落ちなかった。いつか来るだろう日が来た、その程度の感慨しかなかった。
     
    「髪が、乱れるわ」
    「……どうせ隠れてるだろ」

     よしよし、と昔やっていたように、頭を撫でる。纏められた柔らかな髪が、ベールの下でどうなっているかなんて、誰にも見えやしない。
     くしゃり、とかき回していた手の甲に、ぽつり、と小さな雫が落ちて、天を仰いだ。
     
    「お、雨」

     見上げた顔に、また小さな冷たさを感じる。案の定暗い雲から水滴が落ち始めていた。
     隣を見ると、まだイングリットは墓標を見つめている。礼拝堂へと戻る気配はない。今はまだ雨足は弱いが、打たれていれば風邪を引いてしまうだろう。
     礼服の上に羽織っていたマントの紐を緩めてほどく。分厚く作られたそれを広げて、動こうとしないイングリットの頭からすっぽりと羽織らせた。

    「まだ戻らないなら、着とけ」
    「……重いのね」
    「丈夫に作っておかないと、何があるかわからないしな」

     ベールの向こう、マントの影になった表情は一段と暗く、窺うことはできない。けれど、凛とした背筋とは裏腹に、声色はどこか茫洋としていて、力なかった。
     涙は出ないと言ってはいたが、平気というわけではないのだろう。仮にも、夫であった男が死んだのだから。

    「怪我は、もういいのか?」
    「……あんなの、すぐに治るわよ」

     重ねた右手が、左手の手首をするりと撫でた。レースの手袋に包まれたそこには、包帯が巻かれている様子はない。

    「そうか、そりゃ良かったよ」

     心のそこからの安堵と、込み上げる苦味を同時に飲み下して、シルヴァンは常と変わらぬ笑顔を浮かべた。



     思い出すのは、終戦後のある日の事だ。
     
     
     フォドラでの統一戦争終了後、好機と見たスレンとの小競り合いが続き、北に縛り付けられていた。なんとか停戦を取り付け、やっとの思いで戻ってきたら、幼馴染みの結婚が決まったという。
     紹介されたのは取り立てて特筆するようなところもない、平凡な男だったが、こちらを見たその一瞬だけ、父親と同じように顔をしかめていたことは見逃さなかった。

     いつかはそういう日がくるだろう、と覚悟も理解もしていたはずだったが、いざその事態に直面すると、衝撃は想像以上に大きかった。その時に、自分が何を考えたのかすら、覚えていないほどだ。
     
     しかし、めでたいことである。祝福せねばなるまい。
     
     そんな義務感から、凡庸な男に笑顔を向けて、シルヴァンは人好きのする態度で握手を求めた。やるべき役割を完璧にこなすことは得意だ。

    ――統一国家となったのです、敵対していた過去など忘れ、共に国のため手を取り合いましょう

     そういって差し出した手を、男は握り返した。まだこの頃は、あの男は大人しかったように思う。
     これが、半年ほど前の話。
     終戦から、たった数節で決めた相手との結婚だった。
     話は当時のガラテア伯が持ってきたものだったらしいが、婚姻自体はイングリットが自分で決断したのだという。
     しかし、少し調べただけで、あの男はそう褒められた部類の存在ではないことはすぐに明らかになった。けれど、他家の、しかももう決まってしまった話に口を挟めるはずもない。
     シルヴァンにできることは、これまでと変わらずガラテアを、イングリットを支えることだけだ。
     彼女の夫となった男にも、なるべく繋がりを作ってやろうと、会うたびに人に紹介した。それが目的でやってきたのだろうし、その願いくらいは叶えられても良いだろう、と。様々な貴族達や同盟の大商人に至るまで、ガルグ・マクで出会うたびに男の名と立場を売り込んだ。
     そう、ガルグ・マクで、だ。
     
     結婚して間もないというのに、あの男は大半の時間をガルグ・マクで過ごしていた。まあそれはいい。ガラテア領にはガラテア領のやり方があるのだろう。
     たとえあの男が、実家からの援助で遊び歩いていたとしても、婚約前から通いつめていた娼館に未だ入り浸っていたとしても、だ。苦言を呈するほどの仲でもなく、何かを言えるはずもなかった。
     心中は、別として。
     
     それから、丁度事故の二節ほど前の事だ。
     王城で出会ったイングリットの様子がおかしい、と気づいたのは偶然だった。左手の手首を庇うような様子に聞いてみると、農作業中に捻っただけだと笑っていた。
     その笑顔のぎこちなさを、見逃せるはずがない。

    ――お前は、嘘が下手だな

     何もかもが悲しくて、そう溢した自分に、イングリットもまた眉を下げた。

    ――ごめんなさい、心配かけて……でも今は、放っておいてほしいの
    ――俺は、信用ない?
    ――違うわ、信用してるからよ。話せる時がきたら、その時は……

     無理をして笑うその顔に、否やを返せるはずがなかった。

     けれど、言葉通り放っておくことなど、できはしない。
     武に秀でた彼女が農作業で怪我をするとは思えず探ってみれば案の定、どうやら原因は夫婦喧嘩らしかった。まともにやりあえば、彼女が勝つだろう。家族としての遠慮と躊躇から、判断を誤ったのだろうか。
     家族思いの彼女は、非情になりきれなかったのかもしれない。まさか、戦場でもないのに怪我をするなんて。させられるなんて。
     助けることなど何一つできていない自身に、ため息が溢れた。ままならぬ立場に苛立ち、何も考えずに過ごしてきた過去の日々への後悔が胸を締め付ける。

     話せる時がきたら、と彼女は言った。それならばせめて、その時は全力で受け止めよう、と心に刻んだのは、夏も終わろうとした夕暮れ。部下から受けた報告の紙を灰皿の上で火にくべて、揺らめく炎を瞳に映して。


     
     そして……問い質す間も無く、あの男は、死んだ。
     


     今はこの、白い墓標の下に、静かに眠っている。

     
      
     墓標へと視線をやると、まだ祈りを捧げていなかったいなかった事を思い出した。ぱらぱらと落ちる雨の雫を厭うことなく、名を刻まれた墓標の前へと踏み出した。

     掌を合わせて、指を組む。瞳を閉じて、今は亡き男に、心の中で祈りを捧げた。

     
     この墓の下には、あの男の一部の骨しか入っていない。賊に殺されたあと、魔獣にも襲われたのではないか、と聞いた。未だ行方不明の側仕えと共に、失われた身体は喰われたのだろうと目されている。

     
     どれほど、無念だった事か。
     どれほど、恐ろしかった事か。
     まだまだ若い。やりたいこともたくさんあっただろう。このような無惨な末路を、望んでいたはずがない。
     ああ、なんと哀れな男だろうか。

     
     固く組み合わせた拳を口元へ運び、頭を垂れる。唇が震えないように、強く引き結んだ。

    ――安らかに、眠れ
     
     もしも、やり直せるのなら、次こそは――






     
    ――俺がこの手で、殺してやるよ
     自室の執務机に向かい、イングリットはくたびれた一枚の紙を、じっと見つめていた。「愛しの君へ」との書き出しから始まるそれは、いわゆる手紙というものである。
     差出人は、先日不幸に見舞われ儚くなった夫。しかし、その宛先は妻である自分ではなかった。
     その事実に対して、何の寂寥感も覚えなかったのだから、自分達はやはり真の夫婦となれるはずもなかったのだ、と。この手紙を見た時には、肩の荷がおりた心地すらしたものだ。

     彼とは、絵に描いたような政略結婚だった。
     国を捨て、教会の次期大司教に与したその先見の明を評価されたのか、終戦後は驚く程の数の縁談が舞い込んだ。ファーガスが帝国からの侵略を受けていた時には、ぷつりと途絶えていたというのに、皮肉なものだ。
     数が数だけに、自分で選ぶのも面倒だった。選定を父に任せたのは逃避に他ならなかったが、気の進まぬものを決断するのは精神力をひどく消耗する。
     当時は国の再編により、当主の入れ替りが相次いでいた。ガラテア家も例外ではなく、爵位を継いだばかりのイングリットは、慣れぬ仕事に忙殺されていた。父や兄達の手助けはあったが、やるべき事は山積みである。意識の大半はそちらに割いておきたい。戦が終わったとは言え、ガラテアが突然豊かになるわけではないのだ。
     そうして選ばれた、年齢や家格の釣り合った男は、初対面の時には「真面目で頭の固い人」という印象を受けた。
     典型的な旧帝国の貴族といった体で、ファーガスを田舎と見下しているふしはあったが、それは彼に限った事ではない。統一国家となったとはいえ、先の皇帝の求心力、アドラステア帝国貴族という自尊心は容易く消えるものではないのだから、仕方のない事だ。
     
     それに、イングリットにとっては、そんなことはどうでもよかった。
     結婚相手など誰でも同じ、持参金が多く、早く結婚できる相手が良い。そう言って憚らず、その言葉通りに父の薦める相手に頷いた。
     
     異常なほどに慌ただしく婚姻を望む娘の姿に、父である前ガラテア伯は怪訝な表情を浮かべたが、元々学生の頃から薦めていた経緯もある。今さら止めるのもおかしな話だ。結果的に、物言いたげな父の雰囲気を察しながらも、イングリットは強硬した。

     身も心も焦がすような恋だの愛だのは、もう、自分には必要ない。
     ……そう、割りきって。

     そんな覚悟をもって挑んだ婚姻すら、結末は円満とは程遠いものだったのだから、人の生というものはままならぬものである。
     せめて、問題が夫婦関係のみに限定されてくれていれば、どれ程に良かっただろう。
     
     ふう、と小さく息を吐いて、手紙を折りたたみ、丁寧に麻布の袋に戻した。かわりに、その中からもう一つの封筒を取り出す。
     中には、端の焦げた紙切れが入っている。かろうじて残った文字は、何度目にしても、怒りのような哀しみのような、表現しがたい感情を沸き起こさせた。
     これは、結婚して間もなく、前夫に届いた手紙――その破片だった。
     
     この破片を見つけたのは、偶然だった。
     
     領の視察とは名ばかりの、農地の開墾から帰宅すると、普段からガルグ・マクでの生活を主にしている男が、珍しく戻ってきているという。それなら、と部屋を訪ねたところ、あいにくと不在であった。窓の外からは慌ただしく馬車を用意する音が聞こえている。どうやら入れ違ったらしい。今なら引き留められる――そう思いはしたが、そうする気は起らなかった。ため息をついたのは、寂しさからでも悲しさからでもない。
     夫婦とは、最初から完成された形であるわけでないと知っていたし、お互いに関係性を育むものだと考えていた。けれど、その接点すらない男との間に、情が湧くはずもない。そしてそれはきっと、お互い様なのだ。
     あの時は結局のところ、農作業の労働力が増えたらいいな、その程度の期待だったのだろう、と今になって気づく。
     ため息を吐きはしたものの、消えた夫よりも、消えていない暖炉の火の方が気にかかった。
     炭も薪もただではない。節約のために暖炉に残っていた種火を崩して灰をかき出すと、その中に燃えきらず残っていたのがこの紙片だ。
     書類を誤ってくべてしまっていたのなら大事だ。燻る火を潰してからつまみ上げると、そこには文字が記されていた。やはり、と慌てて優しく煤を払い、その文字に視線を滑らせたところで、息を飲んだ。

    ――帝国の復興を

     ぞくり、と懐かしい冷たさが背筋を走った。
     小さな紙片だ、その一言しか記されていない。けれど、そのたった一言の持つ意味は大きい。
     慌てて暖炉の炭を全て掻き出して他の紙片を探しだした。見つけられたのは、僅かな部分のみ。それらもほとんどは焼け落ちていて、全体像を知ることはできなかった。
     けれど、単語だけ抜き出してみてもただの手紙とは思えない。
     
    ――教会の暴挙
    ――武器を集……
    ――予定……の、……

     まるで何かを起こす為に、何かの情報を求めるような内容にしか思えなくなっていた。
     決定的な言葉が記載されていたわけではない。これはただの勘でしかない。
     けれど、戦場で鍛えられたその勘が、けたたましく警鐘を鳴らしている。

     こんな証拠を残してしまっているくらいだ、生粋の間者というわけではないのだろう。誰かに誑かされたか、何かを吹き込まれたか。もしくは、最初からそちら側だったのか――
     だとすれば、婚姻という形式を甘くみた自分の失態である。
     この計画が、万が一外に漏れでもしたら、ガラテアは無関係では済まされない。紙片は厳重に保管し、真意を探る行動に出るしかなかった。
     
     その日から、表面上はこれまで通りに、証拠を掴めないかと奔走する日々が始まった。
     といっても、元々夫はほとんどガルグ・マクで過ごしている。その為、ガルグ・マクには人をやり、身の回りの世話をさせつつ動向を報告させた。その一方で、領の運営もおろそかにはできない。
     身内を疑わねばならぬ日がくるとは、とため息を吐いたことは数えきれないが、この頃にはもう「身内」ではなく「容疑者」として見ていたような気もする。

     しかし、努力の甲斐も虚しく、結果は芳しくはなかった。
     前夫が優秀で、こちらに尻尾を掴ませなかったのではなく、臆病で慎重が過ぎるあまり、情報源として活躍することが叶わなかったためである。この点に関しては、感謝している。
     事故の直前に盗み出した手紙にも、怯えた様子はよく記されていた。

     
    ――愛しの君へ

     もう無理だ。俺にできる事はない。
     俺たちの事がバレた。
     そう伝えてくれ。
     ガラテアの奴らは確かに真面目なだけでやりやすかったよ。あんなに自由でいられるとは思わなかった。
     けど、もうだめだ。
     俺の仲間が教えてくれた。
     赤い死神は、決して逃さないって言うんだ。
     俺も危ない。もう怖いんだよ。このままここにいたら、俺は殺される。
     クソみてぇに寒いこの土地も、面白くもなんともねぇ生活も、全部捨ててやる。
     一緒に逃げよう。
     アンヴァルまで行けば、別の仲間が何とかしてくれるはずだ。
     待ち合わせの場所は――

     ………… 


     
     何度も何度も繰り返し読み返したその手紙の内容は、一言一句違わず覚えてしまった。
     送られたのは、死の直前。ガルグ・マクにて馴染みの娼婦にあてて書かれたものだ。
     店に運ばれた手紙は、買収しておいた小間使いの手によって、娼婦の部屋から盗み出された。こちらは手紙を受け取り、複製した後、見つかるまでに元に戻す……そういう計画だったのだがそれは叶わなかった。どころか、盗まれた事実に、当人達が気づくことすらもなかった。
     その後すぐ、当の娼館が火災に見舞われたからだ。
     南方から輸入したと思われる、粗雑ではあるが薄くて安い植物紙は、燃えやすいという利点と欠点がある。盗み出していなければ、これもきっと一瞬で灰になっていたことだろう。

     死神と聞いて一番に思い出したのは帝国の将であった死神騎士だ。あの戦争で死んだはずだが、仮に生きていたとして、狙われるような事をしたというのだろうか。
     娼館の火災も、事故ではなく、今回の件は関係しているのかも知れないが――情報が足りなさすぎる。
     
     この火災で、宛先の娼婦が亡くなったのか、はたまた無事に逃げ出せたのかは定かではない。公的な記録では死亡したこととなってはいるが、どこまで信用できるかは不明だ。
     手紙の内容から、何らかの計画にはこの娼婦も関わっていたのだろうことは明白だ。生きていれば、調べることも可能だったかもしれないが、一手及ばなかった。
     文面の焦りようから、こちらが察している事には気づいている。おそらくは、彼と志を同じにする者達も、そうだったのだろう。
     
     ちょうど火災のあった日も、前夫はガラテアにはいなかった。その日は、手紙に記載された待ち合わせの日でもあった。夫は指定の場所で待っていたのではないだろうか。そんな彼にもたらされたのは、火事の事実。
     偶然の事故とは思うまい。
     察していた危機が目前に迫って、相当に怯えていたのだろうことは、想像に難くない。
     女と合流できたのかどうかも不明だが、その直後にシルヴァンと出会い、一旦はガラテアへと向かったというのは事実だ。手紙の内容を信じるのなら、アンヴァルへ逃げるという案を捨てたということになるが……カロン領で別れたのは、気が変わったのか、状況が変わったのか、やはりアンヴァルへ向かうことにしたのだろうか。


     その道中で、本当に賊に襲われたというのなら、



     ……ガラテアにとっては、僥倖だった。


     
     
     葬儀で涙なんて、こぼれるはずがなかった。

     あの時、胸をしめていたのは哀しみではない。安堵だ。
     行方知れずとなった時には、監視のためにつけていた護衛も側仕えも外されたと聞き、焦っていた。大した事はできずとも、身分はガラテア伯爵の夫である。もしあのまま逃げられて大々的に反体制組織として名を出されては、被害は免れない。

     震える自分はきっと、夫の身を案じる妻として映っていたのだろう。

    ――落ち着けよ

     困ったような、優しい笑顔で、幼馴染みが頭を撫でた。子供にするように、乱れるのも構わずくしゃくしゃと髪をかき混ぜる。
     昔と変わらぬ仕草に、胸が痛んだ。

    ――大丈夫だって

     優しい声音に、泣きそうになった。
     根拠なんてないだろうその言葉に、どれほど慰められたか。
     本当に困った時には、いつも何でもないような顔をして寄り添ってくれていた。大丈夫だと言われて、大丈夫でなかったことなど、一度もなかった。
     その優しさに甘えていたら、いつか依存しきってしまうと気づいたのはいつだったか。これ以上弱くなりたくなくて、急いで結んだ婚姻だったというのに。こんな無様を晒しても、情けない姿を誂う事もない。
     それなのに自分ときたら、夫の無事を願うでもなく、心中で思うのは領への影響だ。人でなしと罵られても仕方ないとすら思う。こんなにも冷ややかな事を考えているなんて悟られたくなくて、無理に笑って礼を言った事を覚えている。

     大丈夫だ、と告げられた言葉は、事故の報を受けた時に現実となった。

     ずっと気をはっていたからか、耳にした瞬間はソファに座り込んでしまった。
     
     無事な姿を見られなかったからではない。

     
     無事じゃなくて良かった、と。

     事故で死んでくれて良かった、と。



     だって、そうでなければ。
     国賊として……いつか自分が処断していたかもしれないのだ。




     

     紙片を戻した封筒も、麻の小袋に入れ直した。その袋を持って立ち上がる。
     執務机のすぐ隣には、昨日まではなかったハンガーラックが用意されていた。そこに掛けられているのは、艶やかな天鵞絨のような光沢を持つ黒いマントだ。
     これは先日の葬儀の際に、幼馴染みに被せられたものだ。見た目は柔らかく優雅だが、中に薄く伸ばした革を仕込んでいるようで、ちょっとした革鎧くらいには重い。威力の弱い攻撃なら防げるだろう。
     当の本人は、雨避けの為にこちらに押し付けて、祈りを捧げた後はさっさと戻ってしまった。即座に礼を口にできなかったのは、動揺していたからだ。
     他の男のマントを羽織り、髪を乱される。亡き夫の墓の前で。そこで平常心を保てる程、愚鈍にはなれない。
     忌避しなかった自分にも……そして、そんな行為を誰にでも行ってしまえるあの男にも腹が立って、そのまま雨に打たれ続けた。

     ずぶ濡れになってしまったマントを手入れし直して、返却できるようになったのが今朝の事。簡素な礼状をしたためて、マントの胸にピンで刺した。
     広げて内側を探ると、二重になった物入れがある。合わせるとちょうど心臓の位置にあるそれの用途は、おそらくそういうことなのだろうが、そこに麻の袋をしまいこんだ。
     これから自分は一年の間、喪に服す事になる。公の場に顔を出すことはないだろう。もちろん領主としての仕事はするが、前夫が関わっていたかもしれない存在を探ることは難しい。
     これを渡せば、きっとあの男はその意図を汲んでくれるだろう。そもそも前線に立ち槍を振るうことを得意とする自分よりも、頭を使う仕事は彼の方が向いている。
     これも甘えなのかもしれないが、悪いようにはならない、と思えた。それでも悪い結果になったとしたら――その時はその時だ。

     ちょうど良く、部屋の扉がノックされた。入ってきたのは、お茶を乗せたワゴンを押すメイドだ。
    「お嬢様もお疲れでございましょう、少しお休み下さい」
     優雅な仕草で茶を淹れる年嵩のメイドは、自分が生まれた頃からずっと世話をしてくれている。伯爵となっても、休憩時間や仕事以外の時はいつでも「お嬢様」だ。その一言で、肩の力が抜けるのも事実。用意されたテーブルについて、爽やかな香りの茶に口をつけた。

    「それ返すから、手配してくれる?」
    「はい、畏まりました」
    「本人に直接渡して欲しいのだけど」
    「では、そのように伝えておきます」

     理由を深く尋ねる事はない。

     本当なら、あの手紙も紙片も燃やして、知らなかったことにするのがガラテアにとっては得策だ。けれど、統一国家となったばかりのフォドラにとっては、貴重な情報源となるかもしれない。死ぬ前にもっと詳しく調べる事ができれば良かったのだが、もうそれはかなわないのだから、隠蔽することはできない。

     茶を口にすると、頭にかかっていた靄が少し晴れていく気がした。
     森で取れる薬草を煎じた茶だ。高い茶葉を常飲する余裕は、伯爵家と言えど、ない。客が来た時に提供できる分のみ保管している。
     相変わらず土地は貧しく、領民には、満足に食べるものも与えられない。
     けれど終戦によって、やっと植物学者や地質学者を送ってもらえるように手配が完了した。食料の配給も受けられるのだ。今年の冬は、例年よりも死者は少ないはず。いや、少なくせねばならない。
     伯爵として生きると決めたときから、優先順位は決めている。
     頭の中で、今後の計画を練りながら、ぬるくなった茶をまた一口飲んだ。

     

    ***

    <1188年 赤狼の節>

    「イングリット!」
     背後からかけられた声に振り返ると、懐かしい顔が手を振っていた。
     ここはガルグ・マク大修道院の廊下だ。実質的に、フォドラ統一国家の中枢となったこの場所には、多くの者達が行き交っている。
     美しい姿を取り戻したその荘厳な有り様は、崩れ落ちていたありし日こそが幻であったかのようにすら思わせる。

    「あら、シルヴァン。あなたも来ていたのね」
    「俺も色々忙しくてなあ。」
    「北を空けててもいいの? いつまでも前辺境伯殿には甘えてられないでしょう」
    「いーんだよ父上は。仕事人間だから、俺がいない方が生き生きしてるくらいだ」
    「またそんなこと言って……」

     ゴーティエ領からガルグ・マクは遠いだろうに、身軽なことだ。いない間は前辺境伯に任せているようだが、スレンと停戦条約が結ばれたことが一番大きいのだろう。

    「お前こそ、もういいのか?」
    「いつまでも籠ってられないでしょ。喪は明けたし、今日は猊下へのご挨拶と、今期のガラテアについてご相談に伺ったのよ」
    「おっ、伯爵が板についてきたんじゃないか?」
    「あなたはいつまでも『辺境伯閣下』という気になれないわね」
    「そうかあ? これでも凛々しくて素敵だって評判なんだがなあ」
    「本当に相変わらずね」
     
     軽口を叩きながら廊下を歩き、入口の大きな扉をくぐる。

    「あなた、しばらくこちらにいる?」
    「あと数日はその予定だが、どうした?」
    「時間あるなら、マントのお礼をしたいのだけど」
    「あんなの一年も前の話だろ? でもまあ折角だし――では、今からお食事でも一緒にいかがですか? レディ」

     いつもの調子で、軽口を叩きながらシルヴァンが優雅に腕を差し出した。その姿に呆れて、こちらに向けられた掌をぱちんと叩く。

    「そういう気障ったらしいのは余所でやってくれるかしら?」
    「お、今回は殴られなかったな」
    「そんな古い話……あれは、悪かったわよ」

     終戦直後、今と全く同じやりとりをしたことを思い出して、ばつの悪さに眉を下げた。

    「まあ、うちの連中もお前の事心配してたし、顔見せてやってくれよ、肉も用意するからさ」

     礼というのは建前で、本当のところはその後どうなったかの詳細を聞きたいだけだ。それならば、外で話すより、確かにゴーティエの別邸に伺った方が良い。
     フェルディアからきた顔見知りの使用人達の顔見せ云々は建前であるのだろうが、知らぬ仲でもない彼らが自分の事を気にかけているというのも本当なのだろう。
     肉に釣られた顔をして、イングリットはふむ、と大きく頷いた。
     
    「じゃあ、門の前でちょっと待ってて。修道院じゃなくて別邸の方なんでしょ?」
    「ああ、こっちだと先生――猊下がなんだかんだ仕事振ってくるからさあ」
    「頼りにされてるのよ、良いことじゃない」

     ひらりと手を振って、天馬の厩舎へと向かう。久しぶりの気負わぬ会話は、仕事に追い込まれていた心を少しだけ軽くさせた。
     もう二年も前の話になるが、シルヴァンからは、終戦直後に同じように食事に誘われた事があった。

     ――やっと気兼ねなく女の子と遊べるな

     そういってへらりと笑った幼馴染みに、なぜか無性に腹が立った。そんな言葉のすぐあとに、自分に向かって差し伸べられた手は、とても不誠実なものに見えた。

     ――ひとまず、お食事でもいかが? レディ

     遊び相手の女の子達と同じような扱いをされて、これまで特別だと思っていた関係性を叩き壊された気がした。もしかしたら、特別だなんて感覚すら、こちらの思い上がりだったのかもしれない。そんな事まで気づかされて、怒りのままに頬を張った。

     ――いい加減、真面目にやりなさいよね

     もっともらしい言い訳を付け足して、足早にその場を去ったのは、表情が崩れるのを見せたくなかったからだ。
     衝動的に振り抜いた掌はじんじんと熱くて、自身を責めているようだった。

     あの時と同じように、大修道院の石畳を早足で歩くと、掌の熱が蘇る。あの日の熱は痛みだったが、それでは今日のこれは、一体何だというのか。

     もうこれ以上惑わぬように、と。あの日、あの時、すぐに、結婚を決めたというのに。


     ***

     グラスに注がれたのは、深い赤が美しいワインだ。

    「美味しく頂いておいて何だけれど、私の方がお礼を言いに来ただけなのに」

     確かに礼は口実ではあったが、想像以上にもてなされてしまうと申し訳無さで身が縮む。どれもこれも美味しくて、ぺろりと完食してしまった自分も自分だが、これでは何のために来たのかがわからなくなってしまう。
     そう思い、食後に話があると彼の自室にやっては来たはいいものの、今度は酒と軽食まで用意されてしまい、流石にこれではいかんと気を取り直した。
     
    「旨そうに食ってる顔見られただけで充分」
     
     そう言って、す、と向かいのソファに座る男が、グラスを差し出す。
     その揺らめきを視界の橋にとらえたまま、イングリットは姿勢を正した。
     
    「単刀直入に聞くけど……例の件について、教えて」

     声が震える。
     証拠となる手紙は、彼に渡したままだ。どのように使うも自由だし、信用してはいるが、それと沸き起こる不安は別問題である。
     ソファに浅く腰かけて、揃えた膝の上で掌を組み合わせた。向かいに座る男がどんな顔をしているのかすら見ることができなくて、俯いたまま、祈るような気持ちで言葉を待った。
     
    「……あの紙か」
    「ええ」
    「燃やした」

     あまりにも軽い口調で言うから、聞き間違えたのかと思った。

    「どうして……証拠でしょう?」
    「証拠が必要になるのは断罪の瞬間だけだろ。本人はもう死んじまった。お前もガラテアも悪くない。なら情報だけ使えばいい」

     そんな甘い話があるはずがない。

    「普通なら……私も、仲間だと、思われるわ」
    「思うわけないだろ。一緒に皇帝を打ち倒したのに」
    「……それでも、よ。疑う人は、きっと出てくる」
    「そんな奴らが出る前に燃やしたし、もうお前を疑う根拠がない」
    「……そんなの、間違ってる……」
    「そうかもな。それでも、情報自体は有効に活用されて、組織の解体に一役買ってるし、ガラテアは無傷で残ってる。あいつの実家の子爵家も汚名を被らずにすんで万々歳だ」

     シルヴァンの言っていることは理解できる。けれど、その行為はきっと正しいことではない。本来なら全てをつまびらかにし、断罪されるべきなのだ。けれど、自分はそれをしなかった。
     領民を守るためと言えば聞こえは良いが、こんなものはただの保身でしかない。間違った事をしている自覚があるのに、その間違いを正すこともできずに、ずっと胃の奥に重苦しいものを抱えていた。
     一人でそれを抱えきれなくて、きっと、誰かと分かち合いたくて、あの手紙を忍ばせたのだ。彼なら、悪いようにはしない、と勝手な期待を、して。
     今みたいに、お前は悪くないと、言ってくれるような気がして。
     浅ましい自分の考えが恥ずかしくて目を伏せた。彼の行動にも言葉にも、きっと純粋な正義なんてない。けれど、もたらされた結果に安堵している自分も確かにいて――じわりと視界が滲んだ。
     
     慌てて指先で拭うと、溢れた雫が溢れ落ちる。ほろほろと溢れる涙を隠すように、両手のひらで覆った。
     
    「お前、ずっと一人でがんばってたんだろ?」

     すぐ隣から、優しい声が降り注いだ。向かいに座っていたシルヴァンが、こちらの涙に驚いたのか、隣に移動してきたのだと知れた。こういうところは、子供の頃と何一つ変わっていない。
     頭の上に乗せられた柔らかな温もりが、よしよし、と幼子をあやすように頭を撫でて、髪をかき乱す。
     どんなに素行が悪くなっても、どんなにいい加減な態度をとっていても、自分が本当に困った時には必ずそばにいてくれる。

     それを知っていたからこそ、自分は――

    「……あなたに甘えに、来たみたいだわ」

     涙声で絞り出された声は、最後の抵抗。こんなにも自分勝手で、弱い姿を、他の人に見せられるわけがない。
     けれど、そんな強がりもきっと笑って許してくれるだろうなんて打算を抱えていたから、今自分はここにいる。
     そしてきっと、その想像通りに腕の中におさめてしまうから、本当に質が悪い。

    「俺も普段お前に甘えまくってるし、お互い様だろ」
    「……何よそれ……」

     確かに子供の頃から世話はしてきた。その自覚はある。けれど最近は、もうずっと落ち着いていて、自分の手なんて必要なくなっていた。それでも、これまでの積み重ねの分だけ、許されるというのなら。

    「じゃあ、今だけ……甘えさせて……」

     小さく吐いた弱音に、自分も心底驚いた。きっとシルヴァンだってそうだっただろう。
     けれど、何も言わずに、頭を撫でていた手をそのまま肩に滑らせて、ゆるく引き寄せてきた。その力に抗うことなく、胸元に顔を埋める。
     涙で汚してしまうのでは、なんて浮かんだ考えすら抱えるように強く回された腕に、よろよろと縋りついた。
     ほろほろと涙を溢しながら、思うのは、これまでの道。
     大人になれば、怖いことなんてないと思っていた。一人で生きていけると思っていた。
     でも現実は逆で、成長すればするほどに、信じた理想の形があやふやになっていく。

     先の戦争で、国を捨て、領地を飛び出し、教会に与したのは自分勝手な判断だった。けれど、父の反対を振り切って飛び出すほどの気概があったわけではない。別れの挨拶をしに訪れた幼馴染み達に、無理やりついて行っただけに過ぎない。
     背を任せられる仲間がいたから、飛び出せたのだ。

     そんな事にやっと気づいたのは、一人で立ってからだった。

     



    「見苦しいとこ、見せちゃったわね」

     もう大丈夫、と身を起こして笑うと、頭上からも笑い声がおちた。

    「まあ、俺の胸は、お嬢様方の涙専用ですし?」

     おどけた物言いは、こちらの気を軽くさせようとしてのものだ。その気遣いがありがたく、今度は怒りは湧かなかった。
     それどころか

    「私……あなたを、好きになれば良かったわ」

     そんな嘘まで溢れ落ちて。
     もうとっくに、好きになっていたのに。
     そうすれば気兼ねなく胸を借りられたのかしら、なんて。冗談を続けようとして、顔をあげると、ぽかんと目を丸めた表情に驚いた。
     酒に口をつけたわけでもないのに、その顔は、真っ赤に染まっている。

    「い、今からでも、おそくないけど」

     いつものような流暢な口説き文句でも、軽い冗談でもなく、どちらかといえばぎこちないその口調に、こちらの顔にも熱が集まっていく。
     何を質の悪い冗談を、と。真面目にやれ、と。
     そう口にするつもりで開いた唇は

    「……じゃあ、試してみようかしら」

     頭とは裏腹な言葉を紡ぎだす。
     伸ばした腕はゆるやかに絡めとられて、驚きに見開かれたままの瞳を見つめながら、唇を寄せた。
     
    <1189年 大樹の節>

     終戦から三年が過ぎた。
     統一国家の新たな王となった大司教猊下は、元は傭兵だ。清濁併せ呑む度量を持った存在であったことは、ユーリスにとってはありがたいことだった。
     アビスは封鎖されず、配下の多くを欠かすことなく、終戦の混乱期を乗りきれたのである。
     長い付き合いをしてきた有能な部下達の居場所がなくなるのは、ユーリスとしても頭が痛い。そうならなかったことには感謝しているし、報酬次第では仕事を受けてやってもいいと思っていた。

    「よう、遅かったな」
    「……来るなら事前に言え」

     ここは旧ファーガスのゴーティエ領。その本邸の来賓室である。勝手知ったるとばかりにユーリスはソファに行儀悪く足を伸ばし、皿に乗せられたチーズを摘まんだ。
     仕事が忙しいのか、巷の噂の的である辺境伯閣下は、疲れた表情を隠しもしていない。だらしなく襟元をくつろげながら部屋へと入ってきた。

    「報告に来てやったのに、あんまりじゃねえか」
    「頭が直接来るなんてな、暇なのか?」
    「まさか。お前んとこはついでだよ。イングリットのとこに行ったら、な~んかお前の顔も拝みたくなってなぁ」

     ニヤニヤ笑って、ワインボトルを抱えたままチーズを一口かじる。その姿を見下ろしながら、ゴーティエの若き当主は向かいのソファに腰かけた。

    「とっとと報告して帰れ」
    「つれないねえ」
    「やかましい。遊びに来たんじゃないだろ。アンヴァルはどうだ?」

     向かいに座る赤毛の男――シルヴァンが嫌そうな表情を取り繕う事もなく、話を促す。遊びのない態度に肩を軽くすくめて、ユーリスは口を開いた。

    「あの組織はご要望通り瓦解させといたぜ。壊滅させなくていいんだよな?」
    「ああ、完全になくしてもどうせ似たようなのが湧くだろ。把握できてるほうがいい」

     旧帝国の復興を願う集団というのは、終戦直後から掃いて捨てる程ある。その事実を知ったら今は亡き皇帝陛下も泣いて喜ぶだろうが、残念ながら頭を張れる程の貴族は根こそぎ戦死している。有象無象が旗を振ったところで反体制組織なんぞがうまく立ち行くはずもない。
     そこに仲間を送り込むように依頼を受けたのがちょうど2年ほど前だったか。小規模でしかなかった組織同志を合併させて管理して、大きく成長させた。反体制の手綱を握って下剋上でも果たす気かと思いきや、その後、成長し隠し切れなくなった組織の詳細な情報を教会と共有し、正式に大司教猊下の命という大義名分を掲げて討伐を行ったのだから、恐れ入る。
     膿を出し切るだけでなく、そこに正義を乗せて処断する。どちらが悪党なのか、わからない程の悪辣さに、思わず笑いがこみあげた。

     すわ内乱勃発かと思われた帝国復興運動は、規模のわりには驚くほどの鮮やかさで、瞬く間に鎮圧された。事前に金の流れを管理し、戦にたけた存在は排除するといった行動を、事前に年単位で行っていたからである。叩き壊すために育てられた組織は哀れでならなかったが、それも仕事だ。
     
     これが数節前の事だ。
     今はまた水面下でその残党の処理を行っている。
     討伐を行ったとはいえ、全滅させたわけではない。こちらも事前に指示を受けていた。生き残った貴族を撒き餌にして、再びよからぬ事をたくらむ者たちを集めようというのである。

    「俺もびっくりの悪党だな、お前は」
    「俺ほど土地を思い国を思うやつはいないと思うけどな」

     音もなく近づいた使用人が、テーブルの上に酒とつまみを追加していく。シルヴァンの前に優雅にカトラリーを用意して、傍らに寄せた小さなテーブルの上には革張りの箱を置いた。

    「あーそういえばあいつ、デアドラに行かせたやつ。そろそろ戻していいか?」
    「お前がいいと思うならそうすればいい」
    「信用どーも」

     とある子爵家の次男坊に取り入るだけの簡単な仕事だった。
     特別な仕事は何もしていない。やらせた事は、とにかく信頼を勝ち取る事と、その上で恐怖と猜疑心を植え付ける事。
     あとは勝手に自滅する――そんな眉唾ものの仕事は、目論見通りに完了した。

     その男から受け取っていた情報は、組織内の武闘派に流していたようだから、同時進行で別の計画も動いていたのだろう。おそらくは「子爵家の次男坊が間者であることがバレた」だとか「口を封じなければ組織自体が危ない」とかそういった類ではないだろうか。憶測でしかないが、自分ならそうする。そうすれば、きっと「事故」が起こるからだ。

     その男の最後の仕事は、森の中に仮の雇い主であった子爵家次男を残したまま、逃げだすといったもの。その後の事は、知らない、という事になっている。
     逃げ出した男はユーリスに仕事の報告を行い、顔がばれないようにデアドラへ行かせたのだが、あれから二年近くも経過したのだ。そろそろ戻して別の仕事をさせても良いだろう。

    「しかしまあ、あいつも良い仕事しただろ?」
    「そうだな」
    「ちゃんと死んだしなあ」
    「……何のことだ?」
    「あいつだよ、子爵の次男。……ああ、あの時はガラテア女伯の夫、だったなあ?」
    「……あれは痛ましい事故だったな」

     シルヴァンは表情一つ変える事なく、パンを齧りながら、ホットワインの注がれたカップを持ち上げている。
     白々しく取り繕っているのではなく、本当になんとも思っていない可能性もある。

    「事故、なあ……まあそーだな。お前なら自分の手で~とか言い出しそうだし」
    「どうして俺が。理由がないだろ」
    「理由かー、ああ、そうか」

     やはり、と合点がいった。

    「お前、殺す理由を作ってたのか」

     なんの事だと言わんばかりにわざとらしく首を傾げる男に、乾杯するようにボトルを掲げた。


     二年前、ちらつかされた報酬は、ユーリスにとっては頷かざるを得ないものだった。

    ――ヌーヴェル領、いるか?

     何でもない事のように、さらりとかわされた会話。今日は肉でも食うか、と同じ程度の軽さで投げられた言葉に、一瞬面くらって、そして即座に食いついた。
     この男は、何を考えているのか腹の奥底は知れないが、仕事相手としては信用に足るからだ。その男がヌーヴェルをくれるという。それなら、何だってやってやる。そう思って交渉の席についたところ、受けた依頼は反体制組織の育成だった。
     曰く、今のままだとただ教会への不満を水面下でまき散らすだけの存在で、大きな害はない。けれど、環境を整えた上でちょっと突けばその不満は爆発するし、そうしたところで刈り取れば、旧ヌーヴェル領は空く。空いた土地は、功績のある貴族へと拝領されるのだ。
     今のままでは、どれだけ望んでも貴族籍への復権がせいぜいだ。旧ヌーヴェル領は先のアランデル公が管理しており、現在も別の領主がその椅子に鎮座している。くれ、と言ったところで、はいどうぞとくれるわけがない。土地はパイの奪い合いだ。けれど、奪うに足るだけの理由がなければ、仕掛けた方が罪に問われる。
     そのチャンスがあるというのなら――やらない選択肢は、なかった。

     ガラテアの前夫も、土地と同じだ。
     どのようにすれば奪えるか。
     一つしかない椅子に座るためにはどうすれば良いのか。

     今、その椅子に座る者を、まず消さなくてはならない。

     幼馴染みが結婚したと知った時も、顔色一つ変えなかった。それどころか、にこやかに挨拶して、事あるごとに相手の男の事を気にかけていた。
     会う場所ごとに、色々な貴族に紹介をして、顔を繋いで、結束の強さを見せつけていた。

     ――ガラテアもこれで安泰ですね。彼は旧帝国の忠臣でしたし、これからはきっとガラテア、ひいては統一国家の為に尽くしてくれるでしょう。

     二年前、そう言いながら朗らかに笑って、貴族同士を繋げていた。……数節前に反体制組織のリーダーとして討たれた男にも。

     全て、偶然だ。
     この男はただ顔を合わせただけだし、人を送りはしたものの、直接的に手を下してはいない。
     疑心暗鬼に陥った男が、恐怖にかられた臆病な男へ追手を差し向けただけ。もしくは本当に賊だったのかもしれないが……犯人が見つかっていない以上、調べようはない。
     どこをどうやっても、この男に繋がる証拠なんてない。
     自分が口を割れば、話は別だが……

     目の前で革張りの箱が開けられた。中には一目で高級とわかる羊皮紙が二枚納められていた。

    「お前が何を言いたいのか、俺にはさっぱりわからないな。それよりこれだろ?」

     差し出された二枚のうち、一枚に目を通す。ゴーティエ辺境伯からの、ヌーヴェル領の拝領への推薦書だった。これまでの功績が事細かに記されている。これを大司教猊下に渡せば、現在接収された領地の割り振りに関して考慮してもらえるだろう。
     もう一枚は、カロン伯宛の推薦書。こちらもこちらで推薦をしてくれそうな貴族に繋ぎは作っていたが、後押しがあるのはありがたい。材料は多ければ多いほど良いのだ。

    「良かったなあ、ユーリス」
    「何がだ」
    「無事にヌーヴェル領が空いて」

     先ほど掲げたボトルのお返しだろうか、満面に笑みを浮かべて、カップを掲げている。
     領が空くと言うことは、頭が死ぬと言うことだ。死ぬ理由を作った者同士、腹の奥で笑う。

     自分が口を割らなければ、一連の流れが繋がる事はないだろう。もちろんそんなつもりはない。これは仕事だ。お互いに得られるものがあった。国も平和になった。良いこと尽くめだ。
     ボトルから直接ワインをあおって、皿の上に追加されていた豆菓子をぼりぼりと噛み砕く。

    「ま、これからもよろしく頼むぜ」
    「お前もヌーヴェル伯の身内になるしな、もうこの仕事やめるのか?」
    「いいや? 配下はそのまま、仕事もそのままだ。あんまりあくどい事する気はもうねぇけどな」

     自分の行動が周囲へ与える影響を、今後は推し測っていかなくてはならない。一人で生きるのではないのだから。

    「そうか」
    「ああ、そうだ、それともう一つ聞きたい事があるんだが」
    「答えられる事ならな」
    「お前にしかわからん事だが、イングリットのところの……あいつは、誰の子だ?」

     瞳をぱちぱちと瞬かせた男は、驚くのか動揺するのか、そんな反応を期待していたのに、予想に反してあっさりと破顔した。

    「俺だよ。可愛かっただろ」
    「イングリットにしか似てなかったな」
    「そうなんだよなーそこがまた可愛いんだよなー」

     でれでれと、締まりのない顔を晒しているらこの男は果たして先ほどまでの男と同一人物なのか疑いそうになる。
     言いたい事は多々あるが、無理やりというわけではあるまい。イングリットがそれを許すとは思えないし、戦事ならば盤面遊戯のように進められるこの男が、御しきれないのがイングリットという女だ。
     うまくやったな、という思いはあるが、結婚するでもなく別れて暮らしているのだから、てこずっているのが見てとれる。

    「あっちの親兄弟には殴られてきたか」
    「いやそれがなー、聞いてくれよ。知っての通り俺はこのところずっと結婚を申込み続けているわけだが、イングリットが頷いてくれないどころか、子の父親も俺じゃないって言うんだよな」
    「ほー! そりゃあいい!」
    「良くないだろ……」
    「これまで女弄んできたツケが回ってきただけじゃねえか、甘んじて受けやがれ」
     
     心の底からの笑顔を浮かべると、赤毛の男の表情が歪む。けれどそこに悪意はなかった。こちらの言葉は正論だし、何よりうまくいかない関係性を本人こそが楽しんでいるふしがある。
     ぺしょ、と情けない顔を惜しげもなく晒す男は、返事もせずにカップに口をつけた。
     弱弱し気な様子は嘘ではないのだろうが、その姿をこちらに見せるという行為には、意図があると考えた方がいい。

    「まあイングリットが認めてなくても、調べればわかるからな。ちゃんと殴られてきたさ」
    「イングリットは何て?」
    「あくまでもお父上方の勘違い、というのを譲らんそうだ」
    「調べたんだろ?」
    「いや、それが正式にはな~」

     調べる、というのは、紋章の事だ。何も持ってなければ、イングリットが何を言っても通るだろう。覆せるだけの根拠がない。
     けれど、紋章があれば、血の繋がりは言い逃れようがない。ダフネルであれば良かったのだろうが。

    「前辺境伯殿は喜ぶんじゃねーのか?」
    「スレンとの停戦中に紋章持ちが増えたら事だろ。……ってのもあって、あいつは認めないんだろうな」
     正式には、という言葉から、内々には確認済みなのだろう事が窺えた。かくいう自分も、シルヴァン本人に確認はしたものの、実は事前に調べはついている。
     
     数節前に、ガラテア領には新たな命が誕生した。伴侶を一年以上前に亡くした女伯の子である。身ごもった事が発覚した際に、相手は誰だと騒然となったのは当然の流れであった。そこに飛び込んで来たのが、以前より付き合いのあったゴーティエ辺境伯である。
     放蕩息子と名高い男が大事な娘の相手と知った時のガラテア家の面々の怒りは想像に難くないが、当の本人であるイングリットが決して認める事はなかったそうだ。
     本人が認めないのだから、家族も責めようがない。もしかしたら本当に違うのかもしれないし、とまだ腹が目立たない娘の意思を尊重し、一旦は矛を収めたガラテア家であったが、ここで引き下がらなかったのがシルヴァンの方だ。
     脈がないのかと諦める事などさらさらなく、絶対に自分が相手だし仮にそうではなかったとしても、と喜び勇んで結婚を申し込んだのは、ここ最近では有名な話だ。放蕩息子と名高いゴーティエ辺境伯の真実の恋だのなんだのといった噂がまことしやかに広められている。誰が流した噂なのやら。
     物語であればここで「めでたしめでたし」となるところであったが、一筋縄でいかないところがイングリットという女である。なんと、情熱的な口説き文句になびくことなく、あっさりとその申し出を袖にした。シルヴァンもそれを覚悟していたのか、一度や二度でくじけることなく事あるごとに婚姻を申し入れ……現在のところ、連続玉砕記録を更新中である。
     そうこうしているうちにも時間はすぎ、命はすくすくと成長していく。
     生まれた子は、金の髪と翠の瞳をもつ、愛らしい男の子であった。イングリットを含む、ガラテアの血を色濃く引くその子の姿に、祖父となった前ガラテア伯爵も涙したという。
     数日前にユーリスも抱かせてもらったが、ふくふくとした小さな命があまりにも愛らしくて、思わず顔が綻んだ。母親であるイングリットやその兄たちにそっくりで――しかし、彼女達よりも幾分ふにゃふにゃとした表情に、どこかの誰かの面影を感じながら――懐に忍ばせた簡易的な紋章鑑定機を動かした。

    ――じゃあな、身体には気をつけろよ。俺はこれからシルヴァンとこに酒をたかりに行くが、何か言いたいことあったら伝えとくぜ?

    ――ありがとう、ユーリス。別に何もないわ、どうせまたガルグ・マクで会うのだし

     なるほどな、と納得して、馬に跨った。拗れたわけではないのだろう。あの距離がきっと、今の彼らにはちょうど良いのだ。
     ガラテア家から離れた後で懐の鑑定機を取り出す。紋章学の権威である教師が、簡易的な機能に絞って小型化を成功させたものだ。範囲内にいる紋章持ちを計測するというそれに表示されている紋章は、三つ。
     一つはオーバン。これは自分のものだ。それからダフネル。これは傍にいたイングリットだろう。
     最後は、――ゴーティエの紋章だ。
     このフォドラで唯一だったはずの、ゴーティエの紋章を紋章を持つ男は、今は遠い北の地にいる。それならば、ここに表示されている紋章は、誰に反応したのか。答えは一つしかない。
     
    「お前がてこずってんの見るのは楽しいぜ」
    「楽しませてやってんだから、その分働けよ」
    「こっちはこっちでまた忙しくなるから、手が空いたらな」

     手渡された羊皮紙をくるくると丸めてシルヴァンへと返すと、箱の中から真鍮の押し型を取り出した。手紙を紐でぐるぐると巻いてから、その繋目に溶けた蜜蝋を垂らして、押し型で判をつく。鮮やかな赤の中に、ゴーティエの紋章が浮かび上がった。
     再度受け取った二通を抱えて、ボトルに残っていたワインをぐい、とあおる。空になった事を確認してから、ユーリスは立ち上がった。

    「さってと。じゃあ酒も飲んだし帰るわ」
    「次は事前に連絡寄こせよ」
    「連絡係より俺様の足の方が速いんだ。仕方ねえよな」

     はぐらかして笑うと、それを聞いたシルヴァンは肩をすくめた。口うるさく続けるつもりはないようで、こちらとしてはありがたい。
     手を振って部屋を出ると、そっと使用人が付き従う。放っておいてくれても勝手に出ていくが、そういうわけにもいかないのだろう。貴族というものも大変だ……と口にするのは簡単だが、もうじき他人事ではなくなる。
     今回の仕事は長期間かかってしまったが、それに見合うだけの報酬が手に入った。これを使えば、自分の戻る「家」が手に入る。アビスのようないつなくなってしまうかわからない場所ではなく、きっと死ぬまで羽を休められるような場所だ。
     
     泣き言のような惚気を聞いていたら、無性に「家」に帰りたくなった。
     
     ガルグ・マクへ戻る前にカロンへと寄って、そのついでに酒場に入る事もあるだろう。道々出会う商人たちと、会話をすることもあるだろう。そこで、ガラテアの生まれたばかりの赤子の父親について、話題にのぼったところでおかしくはない。楽しませてくれた礼として、外堀を埋める手伝いくらいはしてやってもいい。
     
     これは、これからも楽しませてもらう前払いだからな、と。
     内心でほくそ笑んで、ユーリスはひらりと馬に跨った。
     
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    2022/12/31 17:05:00

    誰がコマドリ殺したの

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    銀雪ルート後のシルインです。
    イングリットちゃんがモブと結婚したのち、バームクーヘンエンドをシルヴァンがどう乗り越えるのかという、読む人を選ぶ作品ですが、シル→インではなく、シルインです。
    微妙にユリコニ前提です。


    #FE風花雪月 #シルイン

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