【7/23】storia dello sciocco【サンプル】注意
・人魚パロディです。人魚してるのでアイドルしてません。キャラ崩壊等もかなりしていると思います。
・設定の都合上ジュンくんが日和君のことをおひいさまと呼んでいます。
・ドドドドドドドド暗い話です。けど最後はハッピーエンドにします。本当です。
・実際には本当に死にませんが日和君の死、葬儀に関しての描写があります。
000 L'inizio
『ジュン、ジュン。愛おしい我が子。あの人との愛おしい息子。お前は人間になってはいけないよ。』
夢で見た彼女は、うっそりと微笑みながらオレの頬を優しく撫でつける。
『お前だってよく分かっているだろう。』
尚のことオレの頬を優しく、優しく撫でつけながら彼女はいっそうのこと笑みを深めた。
『分からないなんて言わせないよ。だって彼は、彼は人間になってしまったから———————』
もう耳にタコができてしまった、思うほどにひどく懐かしい彼女は毎日、オレに語り続けた。
『人間になってはいけない。』『お前と私だけが本当の事を知っている。』これは彼女が、……いや、オレの母親がオレに言い聞かせ続けてきたことだ。まるで食事前のお祈りをする宗教信仰の一家のように。或いは、毎晩歌ってくれる子守唄のように。
そんな不可思議な子守唄をうたうが如く、言い聞かせをし続けた唯一無二の肉親は果たして、もうこの世には存在しない。
父は人間になり、そして母は自殺をはかった。苦しまないように自ら安楽の薬を調合して、それを致死量摂取し、眠るように亡くなった。
親父のいない世界に耐えられなかったのだ。オレの存在だけではお袋の生を縛りつけておくことができなかったのだ。
親父の代わりにもなれないオレは、お袋にとって愛するに値しない存在であったことをまざまざと知ることになった。
あぁもう、最悪なんて言葉じゃ表すことができませんよ。誰のためにもならない、無駄な命だと実感することがどれだけ腹立たしいことか。どれだけやるせないことか。どれだけ虚しいことか。
こうしてオレは一人になった。人間なんかじゃ届かない、深い深い海の底。王国よりも、もっともっと深いところにある、深海の底でオレは、哀と怒りを背負いながらたった一人になったのだ。
母が残してくれたものなんて、耳にタコができるくらいの『言い聞かせ』とそれから薬の作り方。父が残した物なんて、正直言ってなにひとつなかった。
・〜・〜
程なくして、オレはとある屋敷へと引き取られた。深海での調査という名目で土地開発を進めているとある貴族の子が、興味本位でオレを首根っこ掴んで連れ帰ったのだ。
『さぁさぁ、早く帰ってその煤けた身体を洗ってしまおうね!今日からぼくの家族になるんだからね!』
なんて言いながら、まるで海に差し込む光のように美しく笑う彼。
オレが初めて見た美しいと感じられる物は他でもない、彼自身だったと思う。そのあまりの美しさに、自然と息を呑んだのを覚えている。アクアマリンの美しい世界に差し込んだ、爛々と輝く日差しにも劣らない、彼こそが太陽なんだと思えるくらい、煌々とした笑みを浮かべる彼。
こんなにも美しい彼は、果たしてなんといった?今日から家族になろうね、と言ったのか?ぐるぐると回る思考はどうやら顔に出ていたらしい。彼はまるで、きゃらきゃらと可愛らしく笑う。
『大丈夫、怖くないね。』
そう言って目を細めて笑う彼はさらに美しくって。光を反射し、ライトブルーに煌めく世界でふわふわととサニーブロンドの髪が遊ぶ。そして爛々と輝く彼の鱗はどこをどうしたって煤けたオレの鱗なんかじゃ比べものにならないくらい清潔で。最大の特徴は尾鰭だ。貴族特有の、これでもかというほどひらひらと悠々と舞っているその姿は、前にお袋が見せてくれた本に出ている、仙女の羽衣のようであった。
どこをとっても美や綺麗という言葉が似合う彼。
しかしオレは、そんな美しさに結局惚けてなんかいられなかった。なにせ、首根っこを掴む手の力がとんでもなく強いものに変わってしまったのだから。
本当にあの時は死ぬかと思いましたよ。ぎゅうぎゅうと掴むその力は一体細身な彼のどこから出ているのか。
果たして彼に連れられて来た屋敷で、オレはそのまま彼専属の使用人として働くことになった。
さらに月日が経ち、オレも仕事に慣れ始めた頃にようやく実家がどうなったのか。そしてここがどこなのか知ることとなった。
オレが仕える坊ちゃんのお父様は、人魚の国では相当な権力者であったということ。そしてお袋が残した研究成果の実権は、旦那様が引き継いだということ。
お袋がオレを放ってまで没頭していた研究の成果を、旦那様は金品にしていた、という事実。
しかしオレはそれを悔やむことはなかった。憎むこともなかった。むしろ、それなりに家族として成立していたオレたちを結果として引き裂いた物なのだから、むしろこうして世間の役に立ててくれてありがとうございます。こんなもん、くれてやりますよぉ、なんて。当時のオレは思ったものだ。
001 nessun problema.
光が差し込み、アクアブルーに煌めく世界は相変わらず美しい。光差し込む海の世界。それは、同じ海の世界で生まれたはずなのに、たった数年前まで知るよしもなかった美しい世界だ。
光を反射して煌めく色とりどりの珊瑚も、それからふよふよと優雅に泳ぐ色とりどりの種類の魚も、すべてがすべて新鮮で。
そんな美しい光を、清潔な環境を、ありったけの愛情を一身に浴びてすくすくと育った坊ちゃんは、もう十歳になる。
オレと出会ったのが確か、坊ちゃんが八歳の頃でしたからもう二年以上のお付き合いをしているんですね。
「坊ちゃん、坊ちゃん。」
大人が二人寝転がっても余裕なんじゃないかと思えるほど大きな貝のベッドの上で、すよすよと寝息を立てている坊ちゃんはまるで起きる気配などなかった。オレの声に対しての反応はなし。規則正しい寝息を立てているだけだった。
「坊ちゃん、……坊ちゃん!」
すぅ、すぅ、と寝息を立て続ける坊ちゃんはやっぱり起きる気はないのだろう。もうここまでくると寝息だってわざとらしく感じる。
本当はこの人、起きているんじゃないか?というか多分起きてますよね。
というのもこの人は、オレから坊ちゃんと呼ばれることをひどく嫌がるタチで。この坊ちゃんって言われながら起こされる状況にひどく納得がいってないんだと思う。現に普段から、オレが坊っちゃんと呼ぶと無視をしますしね。
『ジュンくんは特別だから坊ちゃんは嫌だね!』
これは実際に彼から言われた言葉だ。だけど立場上、坊ちゃん以外で呼ぶことも許されない。例え日和坊っちゃんが許したとしても、他の使用人からの印象はよろしくないですから。
かといって下の名前をそのままで様をつけて呼ぶことも嫌がるのだから、もうどうやって呼んだらいいやら、分からない。手を挙げることしかできそうにないですよぉ。
そんな日和坊ちゃんに呆れつつも、うんうんと散々悩みに悩んだ結果、オレは一つの妙案を生み出した。
「おひいさま、起きてくださいよぉ〜。」
おひいさま。それが、オレが生み出した日和様に対する渾名だ。
お姫様のようにわがままって嫌味が込められているものの様付けをしているから敬っているように見える、最高の呼び方。嫌味と尊敬が共存しているいい渾名じゃないか。おひいさまは実際、この呼ばれ方をとても気に入っている。
だからだろう。おひいさまは、呼び方が気に入り、わざとらしく口をむにゃむにゃ、と動かしながら目を開けてみせた。
「……ジュンくん、おはよぉ。」
「はい、おはようございます。坊ちゃん。」
「おひいさまでしょ。」
「………………おひいさま。」
寝起きのフリしたおひいさまの口調は、ひとつ年下のオレなんかよりも舌ったらずで、まるで幼く感じてしまう。なのにちゃっかりと呼び方を訂正する辺り、この辺は演技なのだろう。
演技さえ抜けきってしまえばこの人はオレの手を引くお兄さんのおひいさまになる。
「さぁ、ぼくも起きたことだしご飯食べに行こうね♪」
「ちょ、まだオレおひいさまの着替えとか片付けてない……」
「そんなの後だね!今はぼくと一緒に朝食を摂るのが一番の優先事項なんだからね!」
オレが手に持っていたおひいさまの着替えを、自然な動きで取り上げ、そしてベッドの方に投げ捨ててしまったおひいさまは、笑ってオレの手を引っ張った。
「君はとりあえず、ぼくと一緒に行動していればいいね!まだ子どもなんだから。子どもは遊んでなんぼ!お仕事なんて、最低限やってればそれでいいね!」
貴族様特有で美しいライトグリーンのヒレをふわふわと揺らしながら、食堂へとオレを引っ張っていくおひいさまはやっぱりどうしたって、月並みの言葉しか出てこないが綺麗だ。
光が届かぬ深海というのは、いわゆる不成者が住む土地で、一般的にはスラムと呼ばれるところ。色んな海から金もなく、住む場所もなくと追いやられた人魚たちは、暗闇の中でひっそりと生活をしている。もちろん、オレたち家族も例外じゃない。
親父は元々深海の生まれだし、お袋は元々は人間であった。人魚に憧れて人間から人魚になったんですって。
深海に住む者たちは基本的に、魚などを狩ったり、物々交換で生活をしていた。お金なんて概念はない。むしろ無用の産物だ。食料や交換する物は基本的に自己調達でしたからね。
だけど、深海に住む者の中でだって光あるこの国で生きることを望むものがいる。深海は嫌だと、この美しい光差す明るい海の国を望むものがいる。もちろん、深海から光ある国に行って働いたり、生活することはできますよ。だけど生活水準が上がることはおろか、多分相当優秀でないと一般市民程度の生活すらさせて貰えないのだけれども。
深海生まれの人魚は基本的に、この光のさす人魚の国では悪待遇で働かされる。理由は単純、学がないから。
学校にいくことが義務付けられているこの国では、子どもだって数字の計算ができるのだ。文字の読み書きだってできるのだ。
だけど、深海には文字を見るための光がなければ物々交換だから、計算なんてできなくたっていい。
義務教育程度の学すらない大人が沢山いる。そんな状況下で果たして、勉強を自力でして国に働きに出ることってできると思いますか?
確かに絶対なんてない。あり得ないは存在しないが、そんな偉業を果たした人は少なくともオレが深海にいる間はいなかった。
だからオレはラッキーだったんだ、おひいさまに拾われて。
七歳の頃に深海から連れ出され、そのまま学校に行く事が義務付けられたのだから。国では子どもであるならば、たとえ使用人だって学校に行かなければならない。毎日昼過ぎまで授業を受けて、それから帰ってお仕事をする。これが大抵の子どもの使用人の生活習慣だろう。
深海にいるよりかはよっぽど健全な生活だ。
「おひぃさまぁ〜。」
学年の違うおひいさまを迎えに、上級生の教室へと向かった。教室の中を覗き込みながらおひいさまの名を呼べば、彼は窓際の席でクラスメイトたちと談笑していて。
おひいさまを囲むようにして、嬉しそうにお話する人は皆、立派な尾鰭を持っていて美しい。きっとおひいさまと同じ身分の高い人たちなのだろう。
周囲の人たちは楽しそうに談笑している。だけど、おひいさまだけは表情に色がなかった。
楽しくなさそう、だけど邪魔してしまったかな。もしかしたら大切な関係作り……なんてことをしているのかもしれませんし。そう思考しながらも一瞬だけ扉の向こうに隠れてしまおうとした。
しかし、流石はおひいさまだ。目敏くオレの姿を捉えたらしい。オレの姿を見た途端、抜けていた表情の色はパッと花付き、有象無象にもう用はないと鞄を持って颯爽と近づいてくるではないか。
「おかえりなさい、おひいさま。」
「うんうん!ただいま、ジュンくん!」
さぁ、帰りましょお。なんて言っておひいさまの手を取れば、おひいさまは嬉しそうにオレの手を取って先陣を切るようにして泳ぎ始めた。
おひいさまは、オレを引っ張って移動することが好きなようで、オレが手を差し出すとおひいさんの機嫌は驚くほどに良くなるのだ。
「ねぇねぇジュンくん、今日もあそこに行きたいね!」
「えぇ、またですかぁ?オレ帰って朝残した仕事を片付けてしまいたいんですけど……」
「ダメダメ!ジュンくんはぼくの家族である以前にぼく専属の使用人なんだからね!ぼくの言いつけはしっかり守ってもわらないと困るね!」
「……けど、旦那様からにも言われてるんですって。坊ちゃんをあまり陸の方へと近付かせないでほしい……って。」
「君は父上とぼく、どっちの命令を優先するのかね!?君を拾ったのはぼく!それでもって君の直属はこのぼく!だね!」
だから大丈夫!そう言ってすいすいと先に進んで行くおひいさまに、何が大丈夫なんだか。とは次いぞ言えなかった。
おひいさまには陸に対しての強烈な憧れがある。
きっかけは小さな頃に読んだ絵本で陸に興味を持ったところから始まった。
とある陸にある国のお話。オレたちみたいに働いたり、遊んだり、それから食事をしたりするって書いてあった。それからお姫様と王子様の存在。
あぁ、クラスの女の子たちが好きそうだなって感じの話だと思った。お姫様と王子様が紆余曲折を経て、最後に結婚して、なんて話だ。
その話自体におひいさまは興味を持たなかった。だけど、オレたちと同じ様式で生活をする人間という存在に強い憧れを抱いたそうで。
『二本の足で歩くってどんな感じだと思う?ぼくたちみたいに泳いで移動するんじゃなくって、歩いたり走ったりすることで移動ができるんだって!すごいよね。』
『ひとたび海を出てしまうとぼくたちは呼吸ができなくなってしまうけど、だけど人間ってぼくたちが息できないところで生活しているんだって。ねぇ、その感覚ってどういうものなんだと思う?』
正直言って興味なんてなかった。むしろ、人間という存在には嫌悪すら覚えていた。
なにせお袋は元人間、親父は元人魚。人間という存在さえなければ、お袋は元々人魚として生まれていたのだろうし、親父は人間に強い憧れを抱くことはなかったはずなのに。オレたちは、貧しいながらもちゃんとした家族として生きることができていたはずなのに。
人魚の世界では、人間になった人魚のことは元々居なかったこととして捉える慣わしがある。もっと直接的に言ってしまえば、死んだ事にされてしまう。自殺と人間になるという行為は一緒の意味とされるのだ。
と言うのも、人間になった人魚は二度と、人魚の世界に戻ってくることはないから。人間の世界には人魚になる薬があるのだから、また戻ってくればいいのに。しかし、まるですべてを忘れてしまったかのように、人間になった人魚は海に帰る事はない。
無論親父だって戻ってくることはなかった。
「ねぇ見て!陸が見えてきたね!」
光が差し込む海の水面へと進むおひいさまの勢いは止まらない。陸を見たい、といったおひいさまはさらにスピードを上げる。オレはそれについて行くのに精一杯で。
あ、もうすぐ着く。そう思った直後、ちゃぽ、と水音を鳴らして顔が海から出る音がした。
「…………、」
あぁ、息ができない。だけど、髪を撫でる風が心地よくて、それから直接当たる陽の光がこんなにも熱いものだったと思い出すことができる。
「……!…………!」
果たしておひいさまも少しでも長く陸を見ていたいと、言葉を話すことはなかった。オレの腕を引っ張って陸に指をさして訴える。
おひいさまが指をさした方向、そこには大きなお城があった。
何でできてるんでしょう。土……というにはあまりにも頑丈そうだ。珊瑚?だけど人間には珊瑚を採る技術がまだ存在しない。
それじゃあなんだろう。
「……、」
程なくして、呼吸できないことが苦しくなってしまったオレたちは、海の中へといったん戻ることにした。
とぷん、と音を立てて潜ると、そこはいつも通りの海の中。
「見た!?ジュンくん見たかね!?あんな立派なお城!あれは何でできてるんだろうね!?それから、あそこにはどんな人が住んでるんだろうね!?ぼくみたいな貴族かな!?」
興奮気味のおひいさまの声音は、いつも以上に張っていた。
「確かにおっきいお城でしたけど……おひいさまのご実家と同じくらいじゃないですかぁ?」
「ウチと比べちゃお城に失礼だね!ウチよりも絶対ぜったいお城の方がおっきかったね!」
この人とは感性がどうしたって違う。そう思った瞬間であった。
あんな物よりも、おひいさまのご実家の方が立派なのに。
早く帰らないと旦那様が心配してしまう。オレのそんな思いが無意識に出てしまったのだろう。オレはおひいさんの手を引っ張っていた。
もう、しょうがないね。おひいさんは少し満足行かなさそうな表情をして、海の底へと戻って行ったのだった。
「ねぇジュンくん。ぼくね、十八歳になったら人間になろうと思うんだよね。」
「え、…………」
「人間になるお薬、確か十八歳になったら使えるようになるんだよね?なら、やっぱり十八歳の誕生日の日に人間になりたい。」
おひいさまはそう言った。十歳がもうすぐ終わる頃、彼は確かに言った。ただの戯言だと、その当時オレは思いましたよ。
子ども特有のただの夢。ほら、将来の夢と現実的に考えた夢って違うじゃないですか。深海暮らしの子どもが、この国の王様になりたい。そう言ってるようなもんだ。
実際なれるわけもないし、そしてその夢は大きくなるにつれて自然消滅していき、そして今度は現実的な夢を見始める。
人魚の世界においての人間というのは、残虐でそれでいて愚かな生き物だという認識だ。オレたちみたいに住む世界が違う生き物のことなど構わなければいいのに。オレたちにだって知能があるというのに。思考力があるというのに。なのに人間は、人魚を捕まえると愛玩動物として飼うらしい。らしいというのは、人間に一度捕まってしまった人魚が一人、命からがら逃げてきたのだ。満身創痍のその彼は、人間の世界で何があったのか話をしてくれた。
捕まって、人間から人間の手に渡った彼は最初、愛玩動物として自由に生きる権利を剥奪されたのち、見麗しくないからと、男だからと、歌うことができないからと食用にされそうになったのだと。
人間は人魚のことを食べるらしい。そういう文化であるらしい。そんな彼は、どういった経緯で海に戻ることができたのかは知らないが、とにかく生きて戻ることができたと。
そんな酷い話は人魚の世界において語り継がれており、だからこそそんな最低で劣悪で、それでいて愚かな人間になんて普通の人魚なら思うはずがないのだ。
だからこそ、夢物語だけを見て人間に憧れを抱いたおひいさまが到底、人間になりたいと願い続けるとは思えなかった。将来叶えることのない、子ども特有の夢物語だと思っていた。
彼は人間について語ることが好きだ。人間に対しての知識をひけらかすことが大好きだ。それをオレは聞くのが正直いって嫌いだった。
人間なんて碌なものではないと。それからお袋に散々、聞いてもないのに聞かされ続けていましたからね。
おひいさまの話す人間の知識全て、昔むかしにお袋から聞いてますよ、なんて嬉しそうに語る彼には、到底言えなかった。言えるはずがなかった。
なにせ、嬉しそうに語るおひいさまの表情がオレは何よりも好きだったから。話の内容は最低ですけど、話すおひいさまは最高だ。
あぁ、この穏やかな日がずっとずっと続けばいいのに。
002 Starei bene.
おひいさまが十三歳になった。
少年らしい体躯は、みるみるうちにしなやかさを残しつつもしっかりとしていって、なんというか。とはいえ十三の少年なのだからやっぱり子どもだ、と思う。
オレも七歳の頃を比べるとかなり大きくなったと思う。とはいえ子どもの成長の範囲内で、だ。
『ジュンくんジュンくん!』
ハイトーンボイスだったおひいさまの声音は、声変わりして少し低いものに。だけどそれは、テンプテーションボイスへと変わり、その声音を聞くもの全てを魅了していった。
現におひいさんは、ティーンになった頃に一気にモテ始めた。声はおろか、容姿も美しければ家柄だって完璧なのだ。
現にオレの方にもおひいさまの情報を流せとおひいさまの同級生から圧を頂いている。
使用人だから仕方がないとはいえ、おひいさまの隣にいるなんて生意気だ、というお言葉付きで。それはもうネチネチと言われ続けていた。
おひいさまがご立派にすくすくと大きくなっていく一方、オレも一緒に少しは大きくなった……んですかねぇ?尾鰭の大きさは相変わらず、平民と同等に貧相でおひいさまと肩を並べるのが恥ずかしいくらいなんですけど、それでも体格は随分としっかりしてきた……はず。
それこそまだしなやかさが残っている体つきではあるものの、多少の筋肉量は増えた。多分おひいさまより骨格はしっかりとしている自信がある。……どうにも、おひいさまの身長を越すことはできないんですけどね。
さて、身なりのこともそうなのだが、情緒面や知識面でも成長したオレたち。そんなオレたちには主従という関係以外にもう一つ、新たな関係が加わったのだ。
「ジュンくん。」
ベッドでくつろいでいたおひいさまが呼び掛ければ、オレは掃除の手を止めて振り向く以外の選択肢はない。
主人に呼ばれている。一見強制力も何もないそれは、オレにとっては従うに値する絶対であり必然だ。
「ねぇジュンくん、退屈だね?」
退屈だなんて。それはおひいさまだけでしょう。そう言ってやりたいのは山々であるが、そんなのいうまでもないだろう。実際おひいさまは暇を持て余している。旦那様からの言いつけを悉く片付けたおひいさまは、とにかくやることが今はないらしい。
ベッドの上で頬をつきながらも、オレが仕事をしているのを眺めるほどに退屈そうだ。
閑話休題。
結局のところ、主人の戯れに付き合うことこそ最優先事項だ。だからオレは、掃除の道具をいそいそと端に避けて、おひいさまの命を待った。
「ジュンくん、ねぇジュンくん。」
「なんでしょう?おひいさま。」
「おいで。」
まるでハートをたっぷりと煮詰めたかのように甘い甘い声音に、こくりと喉を鳴らして唾液を飲んだ。これから始まる甘い甘い時間に、期待するようにゆったりと、ゆったりとおひいさまにオレは近づく。
そして、腕を伸ばせば届くところまで来れば、たちまちおひいさまは素早く手を伸ばしてオレの腕を掴んだ。
「っ、」
その腕を引っ張られれば、たちまちオレはおひいさまのベッドの上に倒れ込んでしまう。
泳いでいるのだから、こうして引っ張られても人間のように転んだり、なんてことは人魚の世界にはないのだけれど、こうして相手の力に身を任せることだってある。こういう相手を信頼して体を預ける行為は、相手をよっぽど信用していないとできないこと。
要するになにされてもいいと思っている、と体現しているということだ。これこそが絶対の示し。オレがおひいさまにならなにをされていもいいと、語っているようなものだ。
おひいさまはそんなオレの様子にうっすらと笑ってみせた。艶やかに、淫靡に、そしてうっそりと笑ってみせたのだ。
「ジュンくん、ねぇ。大好きだね。」
「オレもですよぉ、おひいさま。」
間髪入れずにオレも愛を伝い返せば、ますます笑みを深め、そして頬を染めるおひいさま。あぁ、オレまで釣られちまいそうですよぉ。
本来、使用人が主人のベッドに寝転がる、という行為はあまりにも不敬極まりなく、すぐにでも厳しい罰が与えられるはずなのであるが、おひいさまはむしろそれを望んでいる。
主人が使用人をベッドに上げるのは、夜枷を頼みたい時か、それとも使用人と特別な関係になっているか。
おひいさまとオレの関係というのは、もちろんのことながら後者である。夜枷はおひいさまが何よりも嫌う行為であり、いわゆる愛のない行為はおひいさまの主義、思考に反する行為なんだそうだ。
大層言い寄られる中で、女の人たちが「思いが通じ合ってなくてもいいから隣にいたい。」と言っているのを聞いたことがある。
おひいさまは愛を大切にする人だ、だからそういう言い草をする女の人には嫌悪を抱いていた。
閑話休題。
ベッドの上に仰向けにされたオレに、おひいさまはゆったりと覆い被さった。
そう、まるで好物を前にしている獰猛な鮫のようにじっとりとオレを見つめている。いつもの彼らしくもない。普段明るく爛々と輝いている瞳は、鈍色にうっすらと光を帯びていて。それから、うっすらと開けられている唇から覗く蠱惑的な舌がまるで情欲を掻き立てられた。
あぁ、食べられる。そう思考するオレを置き去りに、おひいさまは早急に唇を重ねてきた。
「っん、……」
おひいさまの舌がオレの唇をこじ開け、そして咥内を舐め回す。
そんな行為を享受することに慣れてないオレは、どうしても小さく嬌声をあげることしかできない。
「ふぅ、……っん、ぁう……」
上顎を擦り、その感覚が気持ちいいとオレが感じ入り始めると今度は歯の裏を愛撫するかのように撫で回したり。
少し意地悪なおひいさまは、オレがおひいさまのすることに対して感じ始めると、また新たな刺激をよこしてくる。
全くもってひどい話だ。だからおひいさまのすることにオレはどうしてもついていくことができなくて。
「ぁン、……う、ンン…」
おひいさまは舌でオレの舌をつついて訴えてくる。それがこれからの、長い長い快楽の始まりだとオレは知っている。だから期待してしまうのも無理はないでしょうよ。オレはおひいさまがくれる気持ちいいが大好きなのだから。
おひいさまの舌に、媚びるように絡めればおひいさまもそれに答えてくれる。
まるでひとつになるような感覚は、どうしたって頭がおかしくなるほどに気持ちがいい。
「ん、ふぁ、……ン、」
くちゅくちゅと部屋に鳴り響く水音が欲を掻き立てる。変な気分になる。だけどそれ以上にやっぱり幸せだ。
おひいさまがくれる愛というのは、こんなにも心地がいい。おひいさまが与えてくれる快楽はこんなにも気持ちがいい。親父が人間になって、人魚の世界では死の烙印を与えられて、お袋は親父の後を追って自殺して。
だから、こうして愛されるという感覚がどうにも慣れなくてむず痒いのだが、心地よくて仕方がないのだ。
「っ、ンンン、〜〜!!」
酸欠。息ができない。もう無理。鼻で息をすることを覚えたとはいえ、まだまだ上手くいかないから長時間のキスは無理。おひいさまに訴えるよう、力の入らない指でおひいさまの腕をかりかりと引っ掻けば、おひいさまはパッと唇を離してくれる。
だけどまだ離れ難いと銀糸が互いの唇を繋いでるではないか。オレだっておひいさまとまだまだ唇を重ねていたかった。
「っは、……随分トロトロになってかわいいねぇ、ジュンくん。」
離れたといえど、笑いながらも獰猛な目つきでオレを見つめるおひいさまは、オレの頬にするりと手を這わせる。
それだけでも気持ちがいい。甘えるようにおひいさまの手に頬を擦り付ければ、さらに笑みを深めるおひいさま。
「かわいい、かわいいね。あぁもう、身体を重ねることができないのが本当に悔しいね。」
「……セックスは十八からじゃないとダメです。それは守らなくちゃ……」
「もちろん。人間になる前に、ね。」
人魚の成人は十八歳。十八歳になると、いろんなことができるようになる。例えば性行為や、人間になること。それから親元を離れて暮らしたりと、大人のための嗜好品だって。子どもに対しての制約が多すぎるんですよぉ。そう思えるくらいに子どもにはアレしてはだめ、コレしてはだめが多いのである。だから、大人になったら色々とやらかす人が多いらしい。よく大人になりたての人が、警備隊にしょっ引かれる話をよく聞く。
むしろ、この国においての犯罪率は成人になりたての人が起こすものが多い。
さて、おひいさまも何度も言うようであるが、成人になったらやりたいことがいっぱいあるタイプのお方だ。その筆頭は人間になること。
そう、おひいさまは将来の夢を抱き続けていた。人間になるという夢を忘れることなんてなかったのだ。
むしろその夢は歳を追うごとに強い憧れへと変わっていった。
夢が願望に変わり、そして強い憧れは酷い羨望へ。
だけどその逆、オレは歳を重ねるごとに真綿で首をどんどん強く絞められるほどに苦しくなっていく。
おひいさまの人間に対しての願望は、羨望は、そして希望は最早止めることができない。
なにせ、毎年毎年その願望が強くなっているんですから。毎日聞かされる人間に対しての研究成果だって、毎年毎年深いものになっていくし。人間に対して恋をしてるんじゃないか、と思うほどに彼は人間になるということに焦がれ続けた。
あぁ、お袋も親父のことをこんな感情で見つめていたんですかね。
引き留めたくても、自分の存在では到底人間に対しての願望には太刀打ちできない。
だから結局オレは、諦めておひいさまを笑顔で送ることしかできないのだ。諦念するほかあるまい、観念するほかあるまい。
何よりもオレは、おひいさまの恋人である以前に従者なのだ。主人の願いは絶対だし、そして何より従って当然なのだ。
おひいさまが望んでいることを私情で止めることなんかできやしない。
その事実を抱えた上で彼から人間の話を聞くことがどれだけ苦しいことか、どれだけ虚しいことか。
まぁ、そんな苦しみだって慣れてきてはいるんですけどね。
さて、おひいさまの成人を迎えてからの最優先事項はもちろん人間になること。それはおひいさまの夢であり、強い願望であり希望。それからオレと体を重ねること。これら二つは絶対にやり遂げると、おひいさまから毎年宣言されている。
とはいえだ、おひいさまと体を重ねるとなるとオレ自身は成人を迎えているわけじゃないのだから、おひいさまは下手したら罪に問われることだろう。一歳の差とはいえ、未成年との性行為をしているわけだから。
しかし、おひいさまは人間になってしまうのだ。その事実は最早、覆ることはない。つまりはだ、結局人魚の世界で彼は、十八で死の烙印を押されることになるのだ。
死人に対してどうやって罪を追求することができるのか?死してなお、罪を追求するというのか?
人魚は馬鹿じゃない。少なくとも、光が差す海に住む人魚は馬鹿ではない。意味のない罪を追求するほど暇ではない人魚は、死んだら全て罪はなかったことになる。
だからおひいさまはどう足掻いても、身が潔白のままに人魚になることができるのだ。
「早く十八歳になりたい。そうしたら、君ともっと愛し合うことができるのにね。」
「そうですね。……オレも、その……早くおひいさまがほしいです……」
「素直で可愛いねぇ!そんな可愛い子はぎゅうぎゅうの刑に処するね!」
「っぎゃ、!」
まるでさっきの淫靡な雰囲気とは打って変わって、彼はパッと明るい雰囲気を纏った。それはもういつも通りのおひいさまで、瞳もいつも通り爛々とした光を取り戻していた。
オレに覆い被さっているおひいさまは、さらに密着するようにオレの上に倒れ込む。そう、オレを潰すように倒れ込んだ。そしてオレの首筋に顔を埋めたり、逆にオレの顔を自らの胸に押し付けたりとなんとも忙しい。
「ちょっ……とぉ…………苦しいですってぇ……」
「ジュンくんが可愛いのが悪いね!甘んじて享受するといいね!」
「もう……」
しまいにはオレの頬に頬擦りをし始めるものだから、随分と過剰な愛情表現だ。だけどそれくらいが正直言ってちょうどいい。
全てが心地のいい愛だった。おひいさんが与えるもの全てがオレにとって、気持ちがいいものだった。彼の与えてるくれるもの全てが宝物だ。
だけどこの愛を享受できるのだって、十八歳まで。彼は人間になる。その事実がどうしたって手放しでオレを喜ばせてくれない。
「ジュンくん、愛してるね。ずっとずっと、これから先も。」
「オレもですよぉ、おひいさん。」
オレの首筋に顔を埋めながら愛を囁くおひいさんは、きっと蕩けるように、幸せそうに微笑んでいるに違いない。首筋をくすぐる吐息がやたらと熱く、それでいて触れるおひいさまの頬が熱いから。
だけどオレは、どうしたって笑えそうになかった。瞳を閉じて、終わりを憂い、ハッピーエンドを諦念して、今の幸せを享受するオレの表情はまるで幸せとは程遠いほどに暗いものになっているだろう。
終わりなんて来なければいいのに。この幸せがずっと続いてほしいのに。
だけど、それを許さないのが現実なのだ。だからこそ何度も言うようであるが、やっぱりおひいさまの愛に手放しに喜べない。終わりがある幸せを全力で喜ぶには感情が追いつかない。
あと五年。あと五年はこの幸せを享受できる。諦めるには十分に与えられた時間をオレは果たして有効に使うことができるのだろうか。
死の烙印を押されることが決まっているおひいさまをオレは、オレは諦めることができるのだろうか。気をやらないのだろうか。平静を保ちながらも、おひいさまのいない海の世界で生きて行くことができるのだろうか。
そんなの無理だ、無理に決まっている。忘れたくない。おひいさまがくれたものも、おひいさまがしてくれたことも、おひいさまに対してのオレの好きを諦めるなんてそんなの、できるわけない。
おひいさまと離れるくらいなら、オレも人間になればいい。そう思う奴もいるかもしませんけどね、だけどオレにはどうしたって人間になりたくない事情っていうのがあるんですよ。
オレは人間が嫌いなんです。人間になんか、なりたくないんです。
オレから肉親を奪った人間という種を、これからおひいさまを奪う人間という存在をオレは許せないんです。
あぁもう、人間なんていなければ。あんな生き物、この世から消えてなくなってしまえば。おひいさまが陸になんて興味を持たなければ。
今さら恨みごとを言っても仕方がないのは理解してるんですけどね。
とにかく、オレには時間がない。おひいさまと過ごすための時間がない。とはいえ、足掻くことも許されないのだからせめて、彼からもらった愛を、物を、全てすべて忘れないように大切にしよう。
オレには、それくらいしかできることが残されていないのだから。
003 ……arrivederci.
ついに、おひいさまが十八歳を迎えた。
それ以上語ることはない、人魚にとっての成人を迎えたという事実。本当にたったそれだけのことだ。だが、おひいさまにとってもオレにとっても、この十八歳という年齢が節目になる。
おひいさまにとっては、誕生日を祝われ、そしてオレと体を重ねたあと、人間になると誓った日。切に願い続けた願望を叶える日。
そしてオレにとっては、太陽が朽ち果て、そして骨のないまま彼を土に埋める、葬儀が行われることが確定とした日。
誕生日を迎えたおひいさまは終始ご機嫌であった。通り過ぎる使用人には「お誕生日おめでとうございます。」なんて必ず言われ、大好きな家族からのおめでとうという言葉。それから、色んな人にいただいた誕生日プレゼントだって部屋が半分埋まるほどもらって。
そんなプレゼントの梱包だって適当に破っては、中身を見て喜んでと繰り返して楽しんでいた。
オレからの誕生日プレゼントは、昔からおひいさまと約束をしていた人間になる薬。オレ自身調合できることから、小さい頃からおひいさまにせがまれていたのだ。だからこのプレゼントの山から外された、おひいさまのデスクの上に丁重に置かれている。それはまるで特別だと言わんばかりに。
そんな特別が、今は苦しくって仕方がない。
ねぇおひいさま、どんな気持ちでオレが薬を調合していたか分かりますか?貴方を人間にする薬を、貴方に人間になってほしくないオレが、どんな思いで調合したのか貴方には分かりますか?
母さんも、こんな気持ちだったのかな。引き止めることができなくて、それに加えて自ら行って欲しくない道を進む手伝いをしているこの状況。
愛する人だから、大切な人だからこれからも一緒に生きていたいと願っているのに、なのにそれが叶わないと決まっていて、その一端が自分なんですよ。
下手な調合をしておひいさまの身になにかあっては良くないから、オレはどうしたって正真正銘、異物混入などしていない、完璧な調合の人間になれる薬を作るしかなかった。
今からでも、あんなもの捨ててしまえばいいのに。だけど、おひいさまの部屋を埋め尽くす高い高いプレゼントよりも、随分と丁重に扱われているところを見ると、どうしたって希望が持てない。
おひいさまの誕生日を笑顔で祝ってあげたい。成人、おめでとうございます。そう言って笑って盛大に喜びたい気持ちとは裏腹に、やっぱりどうしてもおひいさまが人間になってしまうのが嫌で嫌で仕方がなくて。
だからなるべく笑顔を作るように努力をした。少なくとも、おひいさまがオレを見ている時は笑顔を作り続けたのだ。
そんな一日だった。おひいさまの誕生日パーティーでも、そのあと二人でこっそりと開いた誕生日会でもなんでも。
終わるのが早い一日だった。すぎるのが早い一日だった。
だけど、おひいさまと二人きりの時は、永遠と思えるほどに長く感じたのだ。
出会った頃に比べるとオレよりもほんの少しだけ大きくなった体躯。それが覆い被さった瞬間、オレは何よりも幸せを感じることができた。
幸福を噛み締めた。気持ちよかった、心地よかった。
身体をゆったりと重ねて、おひいさまを感じて、何度も唇を重ね合って。
セックスってこんなに気持ちがいい物なんだって初めて知ることができた。身体を重ねることって、こんなに幸せなんだって。絶頂を噛み締めながら、おひいさまの体温を、おひいさまの表情を、それからおひいさまの愛を記憶に刻みつけた。
あぁ、こんな時間が永遠に続けばいいのに。この時間がずっとずっと、続けばいいのに。
なのに現実はこれだけ。このたった一回だけしか幸せを噛み締めることを許さない。
現実とは残酷だ。別れなんてあっという間に訪れる。
月が海の真上に来た頃、世界に静寂が訪れる。使用人も寝静まり、廊下も含めて明かりがすべて落とされたこの大きな屋敷で起きているのは、きっとオレとおひいさまだけだろう。
そんな耳が痛くなりそうなほどの静寂の中、オレたち二人はそうっと屋敷から抜け出した。使用人に気付かれないように、綿密に練られたルートを辿って、慎重に慎重に抜け出した。
静かに静かに泳ぐおひいさまの両手はオレの手と、それから薬で埋まっている。だから目の前にある物をどかしたりとか、そういうのができなくなってしまって。
だから代わりにオレがおひいさまの手を引っ張った。オレが先に行く形で、おひいさまを引っ張った。
扉を開けたり、邪魔な海藻をどかしたり。とにかくオレの片手はおひいさまの希望への凱旋の邪魔を退かすべく、色々な物を押し退けた。
おひいさまの道を自ら切り開き、そして行きたくない方へ率先して進まなければいけない事実に、果たしてオレは涙を流すことはない。正直、未だに実感が湧かないのだ。これからおひいさまが人魚の世界では死んでしまうという事実が。それから、オレはおひいさまの熱をこれから感じることができなくなってしまうということが。
なにもかも現実離れしている。明日を、……いいや、夜が回っておひいさまの生誕の日は通り過ぎてしまっている。だから今日からのことを一切として想像ができないのだ。
屋敷から街へ、それから水流でうねる海藻の森を抜けて、そしてオレたちは屋敷どころか国を抜け出した。ここまでくればもう大丈夫だろう。
これ以上先は人間の領地だ。人間が網を張り、魚を獲り、そして捕食をする。
陸地に動物がいるのであれば、それだけ獲って食べてりゃいいのに。なのに人間は海にまで侵食してこようとする。
月明かりが差し込む海の中は、煌びやかな日差し差し込む美しい日中の光景とは違って、静寂という言葉が似合うほどに静かで、それでいて荘厳な雰囲気を漂わせていた。
深海とはまた違う、だけど少し不気味な雰囲気は深海とまさに一緒だ。
こんな夜中に屋敷を抜け出したことがないから、こんな海の世界を知らなかった。
「ねぇジュンくん。」
ほんの少しだけ怖気付いているオレの様子に気付いたのだろう、おひいさまは繋いでる手を強く握ってオレに声をかけた。
「大丈夫だね。」
「……なにがですかぁ?」
「怖くないね。」
なんだよ、こんな時までお兄さんぶりやがって。オレは決しておひいさまを振り返ることはなかった。振り返ることなく、先を進んだ。だけど返事の代わりにおひいさまの手を握り返して、オレはさらに陸の方へと進んだ。
程なくして尾鰭が砂浜についてしまうんじゃないかというほどの浅瀬に到着したオレたちは、気づけば強く、強く抱き合っていた。
陸に一等近づいた所でオレはこれ以上先に進むことができない。だから、お別れをするのはここだけだ。
ここはそう、人魚であるおひいさまの生と死の境目だ。もしくは、人間になったおひいさまの生誕地。
おひいさまの手がいつの間にかオレの手から外されて、そしてオレのことを抱き寄せた。そしてオレも、間髪入れずにその背に腕を回して、思いきり抱きしめた。
「……ジュンくん、ねぇジュンくん。」
「……はい。」
「人間になってもね、ぼくは絶対海に帰ってくるからね。」
「…………。」
笑顔。オレは笑みを崩さずに頷いてみせた。
「知ってる?人間には船っていう乗り物があってね、それがあれば海の上にいることだってできるんだよ。」
「……………。」
笑顔。オレは笑みを崩さずに肯定してみせた。
「それがあれば、君にいつだって逢いに行けるんだよ。すごいよね、人間って。」
「…………。」
笑顔。オレは笑みを崩さずに賛成してみせた。
「だからね、ジュンくん。絶対ぜったい、君にまた逢いに行くから。」
「…………。」
笑顔。オレは笑みを崩さずに肯いてみせた。
「だから、……忘れないでね。ぼくのこと。ぼくも君を忘れないからね。」
「……忘れません、絶対に。」
「愛してるね、ジュンくん。ずっとずっと、人間になっても君だけ。」
「…………オレもですよぉ、おひいさま。」
お互いになにも言わなかった。なにも言わずにおひいさまとオレは、お互いの指を絡めて手を繋ぎ、そして唇と唇を合わせた。
まるでそれは、誓約のキスだ。おひいさまはオレに会いに行くって誓約を。それから、オレはおひいさまのことを忘れないって誓約を。
一方的な約束のようなものだ、おひいさまは果たしてこの誓約を守ることはないのに、オレばっかりが守ることが確約されるものなのに。
だけどオレは、オレだけはこの約束を守ろう。オレはおひいさまのことをずっとずっと、忘れない。
静かに、そして果てしなく長いと感じられた口付けは、おひいさまが身を引いてしまったことでお開きとなった。
触れていた熱が、離れることに恐怖を覚えた。この熱にもう触れることがないと思うと、身体が慄き今すぐにでもうずくまってしまいたくなってしまった。
だけど、最後だ。最後なんだ。これが最後の仕事で、最後の恋人との時間なんだ。
オレにはおひいさまを笑顔で、それでいて心地よく送り出す義務がある。オレは恋人として、おひいさまを気持ちよく送りだす責任がある。
これはおひいさまが夢を叶える瞬間でもあるのだから。おひいさまがずっとずっと願って、それでもって切に祈って、叶えたいと思ってきた希望であるんだから。
だからこそ、おひいさまにとって気持ちがいいものにしなくては。
嫌な思いで終わらせたくない。最後の最後、おひいさまの人魚としての生命を暗い気持ちをおとして終わりにさせてあげたくない。
「ジュンくん、ぼくが人間になったら君はすぐに海に帰りなさい。じゃないとみんなが君を疑ってしまうからね。」
「…………。」
「大丈夫。置き手紙を残しているから。ぼくは人間になるって、薬をどうやって手に入れたのか、それからジュンくんには計画のことを秘密にしていたって。ジュンくんにも読んでほしいって。」
「…………。」
「君に罰がくだることはないね。だから、安心して。」
「……。」
「それじゃあね、ぼくは行くね。……またね。」
おひいさまは最後に手を振って、それから陸へと向かって泳ぎ出した。
きっと少ししたところで薬を飲んで、人間になるつもりなのだろう。
人魚と人間の境界線。それをゆうに超えて行ったおひいさまを、オレは果たして声もなく見送ることしかできなかった。
立派な綺麗でひらひらの尾鰭も、美しいサニーブロンドの髪も、それから太陽の似合うあの笑みも、なにもかもが陸へと連れ去られてしまったのかのよう。
陸に近いはずなのに、もうそれはすぐに見えなくなってしまった。
「……………、」
おひいさまの姿が見えなくなった頃にようやく泳ぎ出すことができたオレは、まるでふわふわと現実味もなく泳いでいた。
まるで自分の身体の感覚がなくなってしまったかのようだ。
そんな感覚のない身体であるのに、脳はしっかりと機能しているようで、さっきから脳裏に浮かぶのはおひいさまの姿ばっかり。
オレに与えてくれた熱も、オレに与えてくれた愛も、オレにくれた光も、オレに与えてくれた笑顔も、全部全部初めましての頃から今に至るまで全部がまるで走馬灯のように流れていて。
だけどその熱は、もう与えられることはない。だけどその愛は、もう感じる子はできない。だけどその笑顔は、もう二度と見ることはできない。
もう二度と、オレはおひいさまに触れることができない。
あぁ、もうおひいさまはいないんだ。
「っ、………………!」
感情がまるで滝のように止めなく溢れ、ついにそれが涙となってぶわりと溢れ出る。
そこでようやく、震えるくらいにこの先が怖いこと、おひいさまのいない世界でどうやって生きていけばいいのか分からないこと、それから、それから。
いろんなことに気付いた。見えていない現実を直視した結果、オレは、オレは。
感覚がなかった身体は果たして、屋敷にいち早く戻らないと、と泳ぐ速さをぐんぐんとあげる。
おひいさまの最後の命令だから。おひいさまが最後にオレにお願いしたことだから、死んでもオレはそれを守りたかったから。
ねぇおひいさま、どうして人間になった人魚が、もう二度と戻ってこないのか知っていますか?
それは人間になった人魚は、人魚の頃の記憶を一片たりとも残さず忘れちまうんですよ。それはもう、跡形もなく消えちまうんですよ。
万能なんてこの世に存在しない。なにかを得るためには、それ相応の対価を払うことになる。
お袋が作った薬に欠陥はないんです。お袋は、あまりにも完璧な薬を作っちまったんですよ。
親父が人間になっても困らないようにって、人間として生きるためのノウハウを人間になった瞬間から得られるようにと。そういうものを作ってしまった。
その副作用がね、記憶を失っちまうことだったんです。その記憶をすり替えることによって、人間になっても人間として生きることに苦労しないように、その人の能力に応じてその知識やノウハウを叩き込まれるんですって。
だから、オレはもう二度とおひいさまに会うことはない。おひいさまは死んだんだ。人魚としてのおひいさまは、もう死んでしまったのだ。
「…っ、おひいさまぁ……!」
屋敷について、それからおひいさまの布団に潜り込む。彼の残り香が消えてしまう前に、彼を一つでも忘れないように。
本当はオレだっておひいさまに着いて行きたかったんですよ。おひいさまと一緒に人間になって、それから一緒にいたかった。この先もずっとずっと、おひいさまと一緒にいたかった。
だけどおひいさまのことを忘れてしまうことが何よりも嫌だった。おひいさまと出会ったことも、それから過ごした日々も全部が全部嘘になっちまいそうで、それが嫌で嫌で仕方がなかった。
だからね、オレは一緒には行けなかったんですよ。
薬の副作用については、オレとお袋しか知らない。こんな副作用があるって知って、人魚の国が使用禁止にしないわけがないのを理解していたから。もし仮に、使用禁止にでもなったらおひいさまが人間になるという夢が潰えてしまうだろうから。
本来なら、副作用について話しても良かったのだ。だけど、おひいさまの夢がだんだんと強いものになっていくにつれて言い出すことができなくて。
オレが行かないと言った時点で、おひいさまもやめるって言ってくれなかた時点でオレは諦めなければいけなかったのだ。結局オレの存在は、おひいさまの夢には勝てなかったのだ。
あぁ、副作用のことを知ってなお、おひいさまの人間になるための夢を手伝わなければならないのがどれだけ苦しかったことか。真綿で毎日首を絞められる思いだった。おひいさまが人間について話す時、耳を塞ぎたくて仕方がなかった。
それでも彼が楽しそうに、それから嬉しそうに話すのを見るとどうしたって同調することしかできなかった。
オレの弱さだ。おひいさまがすることを止める勇気がなかった、おひいさまに我儘を言うことができなかったオレの弱さのせいだ。
だからおひいさまに副作用について伝えることができなかった。
おひいさまのベッドを汚してはいけないと分かっていても、どうしたって溢れる涙を止めることができない。
声をあげることはなかった。声をあげることすらできなかった。
大好き、だいすき。愛してます、ずっとオレは、オレだけはおひいさまのことを忘れません。人魚のおひいさまのこと、一つも取りこぼさないように、全部全部オレが覚えていますから。
さようならおひいさま。大好きです、ずっと大好きです。愛してます。
・〜・〜
結局、おひいさまがいなくなってからという日々は休む暇もなかった。
おひいさまの置き手紙という名の遺書を読んだ旦那様がおひいさまの死を悲観し、そして使用人も親族も、それからご学友の方も悲観し、嘆き、まるでお通夜のような雰囲気が当分の間、屋敷の中を包み込んだ。
もちろん、手紙を読んだ旦那様の頭は悲哀に埋まりながらも「葬式をしなければ。」と現実的に考えることができたようで。
用意をされたおひいさまの葬儀は、早急に用意されながらもそれはそれは豪勢なものとなった。
参列者は彼の人魚としての死を嘆きながらも、惜しみなく別れをして。
オレもそのうちの一人であった。旦那様からの「お前は日和によく尽くしてくれたから。」というご好意で、親族の中に入れてくれたとはいえ、だ。
旦那様はオレにお写真まで持たせてくれた。おひいさまが満面の笑みで笑っているお写真だった。オレの知ってる、太陽のような美しい笑顔のそれは、まるでこの葬儀という場に見合わないものだった。
骨のない棺が運ばれていくのをオレはただただ見送った。
胸元にある立派な額に入れられたお写真を強く抱きしめながらない骨を見送り、そうっと目を閉じた。
そうしておひいさまの棺が埋められた頃、屋敷ではおひいさまのお写真はおひいさまの部屋に置かれることとなった。
おひいさまの部屋は残しておいてくれるんですって。そしてオレには、おひいさまの部屋を維持させてくれる権利を旦那様は下さいました。
それから、自由にお部屋を出入りする権利も下さいました。なんでも、おひいさまの一等お気に入りだったオレが、おひいさまの死に深く傷付いていることだろうという計らいで。
それから、忘れたくないのだろう?と言う旦那様の一言で、オレはおひいさまの部屋を自由に使用する権利を下さいました。
おひいさまのお写真を飾る場所だって、オレが決めていいんですって。
だからオレは、おひいさまと初めて、そして最後に体を重ねたベッドに置くことにしました。
「……おひいさま。」
ベッドに置く直前、たったお写真をベッドに置くだけの行為に躊躇って手を止めてしまう。
これが置かれたら、もう二度とおひいさまが戻ってこないような気がして。
そりゃ、帰ってくることはないんですけどね。わかってるんですけど、どうしてもおひいさまがまたここに帰ってきてくれるような気がして。
「…………、そうですね。もう、お別れしたんですもんね。」
受け入れるしかない事実を簡単に受け入れることはできない。しかし、それでも受け入れるふりをしなければ。
お写真を置く際に、オレは最後にもう一度笑顔の彼を抱きしめた。それから、触れるだけのキスをお写真に送った。
改めて誓ったんだ。おひいさまを忘れないって。おひいさまの思い出を大切にするって。
お写真をベッドの上に置いて、それからオレはおひいさまの部屋を後にする。
涙は出なかった。だけど、笑うことも顔を顰めることもできなかった。表情がまるで動かなかった。
おひいさまの部屋は、まるで主人を失って随分と退屈な部屋になってしまったように思えた。