輝ける海へ 普段は穏やかなアスクの陽光も、初夏ともあらばなかなかの日差しでもって照り付け、人々に玉の汗を浮かばせる。いかに精鋭揃いの特務機関とはいえ例外ではなく、涼を求めて日陰にたむろし、互いに暑い暑いと笑いあうのが日常であった。
さんさんと差し込む陽光に、特務の召喚師は寝台の上で瞼を開ける。
「んあ? 朝か……」
大理石の彫刻のごとき芸術的、あるいは珍妙な踊りのポーズで目を覚ました男は、上体を起こして大きく伸びをし、シャツの襟をパタパタとさせる。
「暑い……」
部屋の隅に置かれた桶の中では、ブリザーの書から出でた氷の成れの果てが日光にきらきらと反射している。男が欠伸をひとつすると、男が目を覚ますのを待っていたかのように低い声が降った。
「おはよう、エクラ」
「おはよう……」
慣れた調子で返事をする男を見下ろす金の相貌はガラス玉のよう。しかし、その無機質な瞳と低い声色には、地層のように長き年月をかけて形成された深くそして穏やかな思慕が滲んでいる。
「いつもの事だけれど、君たちは朝が早いね……そもそも朝も夜も関係ないか」
「私達は人の子ほど長く、頻繁に眠る必要がないわ」
「そっか。グルヴェイグの時はほかの二人は眠っているの?」
エクラの言葉に魔女はゆっくりと首を横に振る。
黄金の魔女グルヴェイグは一言でいえばエクラの伴侶の未来というべき存在であった。紆余曲折、奇々怪界、驚天動地あり、彼女はヴァナの女神セイズであり、同時にその幼少のみぎりたるクワシルであり、黄金の魔女グルヴェイグである。ひとつの肉体に、今このひとときにして彼女の一生涯そのものたる三つの精神が集まった彼女、あるいは彼女らは、いついかなる時いかなる姿であったとしても同じ存在であり同じ心であり、異なる人格でありながら同じ人格でもある。小難しい話にエクラ自身も正確に理解出来ている訳ではない。ただ彼女あるいは彼女らがいかなる姿いかなる時であっても自分に心を寄せているという事が分かっているのみであるが、エクラ自身はそれが理解出来ていれば十分と思っていた。
「いいえ。二人ともあなたの姿を見て、あなたの声を聞いているわ」
「そっか。じゃあ、セイズとクワシルもおはよう」
男の言葉に、魔女の金色の瞳に僅かな紫紺の光輝が宿る。灰白色の血色の悪い手が伸び、男の頬に触れる。黄金に変じた冷たい指先が少しばかり汗の滲んだ肌を撫でる。冷たく柔らかな口を男の額に触れさせるとグルヴェイグはかき消えるように姿を消した。
毎朝の事だけれど、どうして俺なんかにそこまで愛情を向けられるんだろう。
「三つ子の魂百まで……ってやつ?」
無限の円環の中で過ごした幼い女神の姿を思い出し、エクラは寝台から立ち上がった。
顔を洗い、男が食堂の境を跨ぐと、中は様々な人々でごった返している。窓を開け放してもなお熱気が渦巻く食堂にはそこかしこに氷の入った桶が置かれており、篭る熱にささやかな抵抗を試みていた。
「エクラさん! こっちですよ」
人に溢れた食堂の喧騒に負けないほど大きな少女の声に目を向ければ、アスクの王女が立ち上がりぶんぶんと手を振っている。軽く手を挙げてそれに応え、エクラは人の間を縫い長机に腰を落とした。
「今日はセイズと一緒なんだ」
男の言葉にシャロンは元気よく返答する。
「はい。中庭をお散歩していたら、セイズさんが迷子になっていらっしゃったので」
「シャ、シャロン。やめてください……恥ずかしいです……」
みるみるうちに顔を赤らめる年若きヴァナの女神の前には、アスクの王女と同じ食物が並んでいる。全粒粉パン、かぼちゃのスープにグリーンサラダ、挽肉のラビオリ。
「私は食事を摂る必要はないのですが……、人の子の厚意を無下にするのは女神としてあるまじき事ですから。ただ、人の子の食事はどういうものか分かりませんので……」
「わたしとお揃いのメニューにしました」
胸を張るシャロンはいかにも得意げに、身振り手振りを加えて続ける。
「セイズさんがご自分の注文の番が来てもどうしたらいいのか分からなかったみたいで、あわあわしていらっしゃったのでわたしと同じメニューにしたんです!」
「シャロン、早く食べないとラビオリが冷めるよ」
女神から渡されたパンを口に運びながらエクラは告げる。慌てて口に挽肉のラビオリを運ぶアスクの王女はしかし、食べる事よりも喋る事を楽しんでいるかのようによくよく口を動かした。
「セイズさん達は食べなくても大丈夫なんですか?」
「ええ。私達ヴァナの女神は生存に食事を必要としません。あなた達が交戦した時にネルトゥス様を下す事ができなかったように、私達は精神……人の子に分かりやすく喩えるならば、心が本質なのです。人の子では私達の肉体を破壊することは不可能ですし、たとえ傷をつけられたとしても、肉体を失ったとしても……精神が、心が生きていれば長い休眠を経て蘇生する事も可能です」
アスクの王女が萌黄色の目を見開いた。
「お腹は空かないんですか?」
シャロンの言葉を聞き、女神は蜂蜜色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「お腹が空く……、というのはどういうものでしょう?」
「ええ? じゃあ……食べたものはどこへ行くんですか? 消えちゃうんですか?」
若い女神はぽかんと口を開けた。
「……考えたこともありません。その口ぶりでは人の子の場合は消えないようですが。人の子は生きるために食事を摂る必要がある……とは知っていますが、口にしたものはどこへ消えているのですか?」
「えっ!?」
今度はシャロンが顔を赤らめる番だった。
「そ、それは……えーと、わたしが言うのは恥ずかしいというか」
「? なぜでしょう?」
不慣れなスプーンでスープを掬いながら若い女神は続ける。
「えーと、えーと……エクラさん、お願いします」
「エッ!? シャロンが撒いた種じゃん、シャロンが教えてあげなよ」
しっしっ、と男は手を払う。対するアスクの王女は赤らんだ顔でぶんぶんと首を横に振った。
「エクラ、いいニュースと悪いニュース。どっちから聞きたい?」
会議室に篭るうだるような暑さの中、広げた書類の前で特務の隊長たるアンナは問うた。
汗ばむ熱気にポニーテールを普段より高い位置に結った特務隊長の言葉に、男は嫌な予感を覚える。
「悪いニュースからお願いします」
「いいニュースからね」
「聞けよ、人の話」
エクラの辛辣な言葉を無視して、特務隊長アンナは腰に下げたポシェットから古びたメモの束をめくった。
「アスク王国の財務部が優秀な事が証明されたわ」
「悪いニュースはなんですか」
エクラは書類を片付けながら投げやりに言葉を発した。赤毛の女はポニーテールをふりふり、頭を振る。
「早ければ来月には我が特務機関は債務超過になるわ」
「もうアスク王国の国庫から予算もらいましょうよ」
「議会の承認なんて待ってたら決裁が降りる前に破産するわよ」
「アルフォンス王子とシャロン王女のポケットマネーからなんとかならないかなーって思うんだけれど」
「馬鹿ね、二人のポケットマネーなんてあるはずないじゃない。二人とも王族なんだから国費よ国費」
じゃあ、と続ける男の言葉を遮り、女は手を突き出した。
「私と私の親戚からは出資しないわよ」
「じゃあどうするんすか」
「稼ぐのよ、かーせーぐーの! ほら、考えてる間にお金稼ぐ手段考えるわよ。人手だけは有り余ってるんだから」
エクラの手から書類の束を引ったくって放り捨て、アンナは卓上にバラバラとメモを投げる。
「さてエクラ、あなたの意見を聞こうかしら」
「バイトする」
男の言葉に特務隊長は鼻で笑って応える。
「そんな非効率的な事なんてやってられないわよ。第一候補は手っ取り早く大金を手にしたい……、つまりセイズ、というかグルヴェイグにまた宝くじの当たりを引いてきてもらえると助かるわね」
「嫌ですよ。また同じ事頼むの」
男は思いきり眉間にしわを寄せる。
「どうして? 彼女はあなたの事が大好きだからあなたがお願いしたら文字通り御伽話のランプの魔人みたいに何でも聞いてくれるじゃない。あなたが危なくなると本当に降って湧いたみたいにすっ飛んでくるし。好意には全力で甘えていいと思うのだけれど」
「男として自分を慕う女性からたかるなんて最低じゃないですか。ヒモじゃあるまいし」
エクラはむっつりと腕組みする。女神の純粋たる好意を利用するような真似はいくら万年金欠の召喚師とて許す訳にはいかない。
エクラのけんもほろろな態度に、女ははあと大袈裟に息を吐いた。
「じゃあ私が自分で頼むからいいわよ」
ぶつぶつと不明瞭な小言を呟きながら、アンナは何もない虚空を見上げて口に手を添える。
「えーと、グルヴェイグ? いるなら来てちょうだい」
返答は沈黙であった。
「なによぉ。私じゃダメだっていうの?」
目を三角にして女はぷりぷりと不服を口にする。側の召喚師が同じように虚空に向かって名を呼びさえすれば、かの女神はたとえそこがアスクの執務室だろうと鍾乳洞の奥だろうと男湯だろうと姿を見せる。現した姿こそ幼い女神であったり金色に輝く魔女であったりするも、どの姿であっても同じ事であった。
「隊長の邪念を感じたんでしょ」
男をキッと睨みつけ、アンナはじゃああなたが呼んでみなさいよ絶対来るから、と毒吐く。
「なんで俺が……、まあ、呼ぶだけならいいよな……? おーい、グルヴェイグ、聞こえてるならこっち来てよ」
「何か用……?」
エクラと女の間に、あたかも最初からそこにいたかのように黄金の髪が翻った。髪と同じ黄金の瞳は無機質だが、しかし男に向けられたそれと発された言葉には確かな柔らかさを孕む。
「ほら、来た。あーあ、ずるいわ。それで、頼みがあるんだけれど」
下心ではち切れそうな笑みを浮かべるアンナに、グルヴェイグはガラス玉のような金の目を向けた。
「宝くじ引かせるのはやめてくださいよ」
「うっさいわね、させないってば。それでね、ありがたい女神様にあやかって、爪の垢を煎じて飲ませて欲しいなぁって。いいかしら」
エクラは渋面を作った。目の前の黄金の魔女の指先をチラチラと見やる特務隊長の目は、彼女の黄金に変じた爪をカラスのように狙っている。
その意図を明確にではなくともそれとなく察知したのか、魔女は軽く手を握り指先を隠す。だが、男と特務の隊長へ何度か交互に金の目を向けると、ゆっくりと手を持ち上げ指を差し出した。
「やった。ありがとう、恩に着るわっ」
「だめだよ、アンナ隊長に甘くしたら」
手を掴もうとする男に目を向け、魔女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「これであなたの助けになるなら、私はそれでいい」
喉から出かかった言葉を飲み込み、男は自らの体にぐりぐりと顎を擦り付けている黄金の蛇の頭を撫でる。
「ありがとう、助かったわ」
アンナが切り取った黄金の爪のかけらを両手に乗せて満面の笑みを浮かべる。
「これだけの重さがあれば借金返済どころかお釣りが来るわ」
「ついでに金の相場も崩れそうですけど」
ぼやく男にアンナはうっさいわね、と悪態をつく。そう言いながらも女が爪を切る際に長い金の抜け毛をくすねたのをエクラは見逃さなかった。
「本当に助かったわ。あなたがよかったらまた助けてくれるとこちらとしても嬉しい……あ、あれ?」
アンナの満面の笑みが夜明けを迎えた月下美人の花のごとく萎れる。手に乗せた黄金のかけらがみるみるうちに輝きを失い、くすんだ褐色の砂となって崩れ落ちた。
「ええええ……? 御伽話じゃあるまいし、こんな話ある?」
完全に砂の粒となってしまった金を指で摘み、アンナはすっかり色を失って意気消沈してしまった。
「そんなおいしい話ある訳ないでしょ」
「何よ、私は諦めないわよ。諦めない限り、希望はこの胸の内にあるわ」
鼻息も荒く胸を叩く特務隊長の横で、魔女が渋面を作った。
「うーん、やっぱりこっちがいいかしら……」
アスクの城下、特務のアンナのいとこが経営する雑貨店。ありとあらゆる物品が山のように積まれた店の試着室で、特務のアンナはあれでもないこれでもないと唸り声を上げていた。
「どれも同じに見えるのだけれど」
その横で姿見の前に立つ黄金の魔女は、鏡に映っている自身の姿を覗き込みながら無関心に呟く。鏡の中の灰白色の肌の女は半ば無理矢理に着せられた水着を興味なさそうに見下ろしていた。
「……醜いわ」
思いきり露出した肌を眺め、グルヴェイグは陰鬱な声を漏らす。ゆっくりと繰り返す呼吸に合わせ、まばらに生えた金の鱗、その合間で灰白色の皮膚が蛇のように伸縮していた。
「あなた。外でそれ言ったら世の女性に殺されるわよ」
「人の子では私を殺せない」
そういうことじゃなくてね。パレオを物色しながら特務のアンナは続けた。
「はあ、自覚がないって恐ろしいわね。それと、あなたはそう言うけど。その格好を見せたらエクラは喜ぶわよ」
鏡を覗き込んでいた金色の瞳がちらりとアンナを見た。そのさまにアンナはパッチリとウインクをしてみせる。
「本当に……?」
「本当よ、本当。女神に嘘ついたらバチが当たるんでしょ? 誓って嘘はついてないわよ。エクラはいい加減で情けないけれど、あれでも男だもの。魅力的な女性の水着に喜ばない訳ないわ」
スルスルと流れるように飛び出すセールストークに、魔女は再び鏡の中の自分の姿に目を向ける。半ば異形と化した、醜いと思っていた己の姿に喜んでくれるかもしれない――魔女の脳裏にほんの僅かな期待が芽生えた。同時に、頭の中でわんわんと響くような激しい思考が渦巻き始める。
――ずるいです、私も一緒がいいのです
――わ、私も……、その、一緒がいいです
ひとつの器の中に同居している「二人の自分」がぴいぴいとさかんに囀る、自身にしか聞こえない音に魔女は頭を振った。
「どうしたの?」
「いいえ。少し、いいかしら」
ピン、と髪を跳ねさせ、目を輝かせたアンナは期待に胸を膨らませ――直後、目の前の光景にあんぐりと口を開けた。人型のシャボン玉に覆われたかのように魔女の輪郭が霞んだかと思うと、ぱちんと音を立ててシャボン玉が割れた。
「私もエクラに褒められたいです。私の分も用意して欲しいのです」
先程まで纏っていたパレオがはらりと落ちる。その金地の布に小さな足をもつれさせ、素肌を晒した少女の姿の女神が随分と縮んだ体で矢継ぎ早に捲し立てた。
「一番最初に見せて、エクラに……すみません、その、私の分もお願いします……」
突如少女の声が二重になり、アンナは混乱するばかり。少女がふるふると首を振ると、先程までの掠れたようなそれではなく、少しばかり低く深い声色を発した。
「……ごめんなさい。普段は誰かが話している時に他の二人は横入りしないように決めていたのだけれど……、セイズとクワシルとも話をしてもらえるかしら」
数日後。かんかんと照りつけるまばゆい陽光の下。アンナはサングラスを顔を掛け、風景を映し取る魔法器具を片手に、半ば引きずられてきた男を引き連れて熱い砂を踏んだ。
「しかし、驚いたわ。話だけは聞いていたけれど、本当に人格が複数あるなんてね」
「アンナさん達だって俺から見たらみんな同じ顔だし同一人物みたいなものっすよ」
余計な言葉を吐いた男の脛をサンダルで思いきり蹴り、アンナはサングラスを持ち上げて眩しい砂浜を見回す。
「それで、肝心の女神様がいらっしゃらないのはどういう事かしら」
「知らないよ。隊長が連れて来てくれたんじゃないの?」
二人はキョロキョロと周囲を見渡すも、熱い日差しが輝く浜辺には海を満喫する観光客ばかりである。
「まさか、すっぽかされた? ヴァナの神様って時間の感覚が私達と大分違うみたいだし、冬になってから来てもらっても困るわ」
「流石にそれはないでしょ……」
夏用のシャツの上に羽織った上着をくいくいと引かれる感触に男は目を向ける。エクラの羽織る白い上着と揃えたように純白のフードを被り、その下に紺色の可愛らしい水着を見につけた少女が見上げていた。フードについた外套は薄く透き通った紺色であるが、陽の光に虹色の光沢を放つ。同じ紺色の水着はたっぷりとしたドレープを備え、少女の華奢な体躯を楚々と隠しつつところどころに飾られた真紅のリボンが可愛らしさを添えていた。
「エクラ。似合いますか?」
飴色の瞳は虹色の輝きをたたえ、その中心では人と異なる白い瞳孔が期待に満ちている。
「よく似合ってるよ。アンナ隊長に選んでもらったの?」
てるてる坊主。あるいはクラゲという単語を頭から振り落とし、男はクワシルを褒め称えた。その言葉に満足したのか、少女はほぼ無表情のかんばせに僅かな笑みを浮かべる。
「はい。そこの人の子は私がこういう格好をするとエクラが喜ぶと言いました。だから、私が一番にエクラに見せたかったのです」
「そっか」
「エクラ、嬉しいですか? もっと褒めてくれてもいいのですよ」
幼い女神はくるりと回ってみせる。外套の透き通った紺色の生地が蛇の鱗のようにきらりと光る。
「かわいいよ。よく似合ってる」
「どういうところがかわいいですか? 似合っていますか?」
「ほら、お二人さん遊んでいないで」
ぱんぱん、と手を叩きアンナが宣った。女の言葉がいたく気に障ったのか、幼い女神は無表情気味の顔立ちに不服げな色を浮かべる。
「今日の目的は写し絵を撮ること。早速始めるわよ」
「私はエクラと話しているのです。邪魔しないで欲しいです」
「まあまあ。後で沢山話せばいいから」
男は幼い女神を宥めすかす。
「じゃあこっちを見てね」
魔導機がカシャ、カシャと音を立てる。少女の姿を写し取った映像が記録されている事を確認し、アンナが機械のネジを回した。
「エクラは写さないのですか」
「男なんか写し絵にしても買う人いないでしょ……じゃなくて、今回はありがたい女神様の御姿を残しておきたいの。ご利益あるわよ」
なんのご利益だよ。喉から出かかった言葉を飲み込み、男は曖昧な笑みを浮かべる。
「ありがと。じゃあ、セイズを呼んでもらえるかしら」
ネジを巻くアンナの言葉に、クワシルは小さな口を尖らせた。
「まだエクラとお話しし足りないです」
「ごめんな。また後で話そう」
男を名残惜しげに見上げ、少女が目を閉じた。輪郭がノイズがかり、シャボン玉のような虹色の泡が包み込み、ぱちんと弾ける。柔らかく豊満な稜線も露な若い女神が姿を現した。
「でっか……」
「な、なんの話ですか?」
豊穣の女神もさもありなん。豊かなものを前に思わず呟くエクラに、娘はみるみるうちに赤くなった。周囲の人々が時折視線を向けては小声で「でっか」だの「うお……やば……」だの下世話な言葉を発する。
「ほら、セイズ。ばっちりポーズ決めて。人の子達が見てるわよ」
「そ、そうですか? ですが、なにか邪な意図を感じるのですが」
言われるがまま従う娘は魔道具をカシャカシャと切るアンナに訝しげな目を向ける。
「このままだと私達の特務機関は危機に晒される事になるわ。女神様の手助けが必要なのよ」
「セイズ、人間の世界はこういう世間知らずを騙す言葉で溢れ――イテェ」
男の言葉は向こう脛を蹴るサンダルによって阻まれた。
「そういうことであれば致し方ありません。少し、その……恥ずかしいですが。私の似姿が人の子の一助となるなら、手を差し伸べるのが女神としてあるべき姿でしょう」
娘が小さく咳払いをし、いかにもな女神然とした奥ゆかしい声色を発する。しかし、その蜂蜜色の瞳は期待に膨らんだ虹色の光を宿してちらりと傍の男を盗み見た。
「その……、いかがですか? エクラ。参考までに……、はい、参考までに、ですよ? あなたの意見を聞こうと思います」
少々気取った、高慢じみた声色である。しかしそこは勝手知ったる妻の態度。エクラはするすると流れるように娘の輝くような美しさを褒め称えた。
「すごいデカ……、じゃなくてすごく綺麗だよ。美人です、サイコーです。めちゃ綺麗です、めっちゃご利益ありそうです。ありがとうございます」
「そ、そうですか? そ、そう……ですよね。女神ですから」
男の言葉に気をよくした若い女神は、みずみずしい頬を薔薇色に染める。澄ました気品のある「女神らしい」表情をしているつもりであろうが、しかしその口の端は若干緩んでいた。
「うーん、いいわね。その調子その調子。迷える人の子にご利益があるように頼むわ」
カシャカシャと魔導機の音を立てるアンナに、言われるがままポーズを取る娘は少々困惑したように呟いた。
「あの……先程から繰り返しているご利益とはなんでしょう?」
特定の場所をクローズアップし、カシャカシャと音を立て続けている女は答えた。
「あら、知らないの? 人の子、特に男性はあなたみたいな女神様を目にすると『眼福』っていって体力が回復するのよ。リカバーくらいよく効くわ」
「そう……なんですか? 知りませんでした」
「そうそう。ヴァナの光の女神様なんてそうそうお目にかかれるものじゃないわ。眩い威光を纏う女神様の御姿とあったらそれはもう人の子にこうかはばつぐんよ。ペガサスナイトにロングアーチくらいよく効くわ」
三個目の記録媒体の魔導石を取り替えると、アンナは額の汗を拭う。
「はあ。たっぷりご利益もらったわ……威光が眩しすぎて目が潰れそうよ。ねえ、エクラ」
「ソウデスネ」
なぜか砂浜に体育坐りしている男はカチカチに固まったまま短く答える。
「エクラはどうしてしまったんでしょう」
「ああ、気にしないで。あなたの威光が尊すぎて動けなくなってるだけ。人の子のオスにはよくあるわ」
心配そうに男を見遣る娘に、アンナはぱっちりとウインクしてみせる。
「大丈夫。元気だから……お元気過ぎるかもしれないくらいよ。心配かもしれないけど安心して頂戴。それで、悪いんだけれど……グルヴェイグを呼んでくれるかしら? 彼女、私が呼んでも来てくれないのよね」
「はあ……、分かりました。あの、エクラ……、また、後で」
「ウン。マタアトデネ」
蜂蜜色の瞳が閉じられると、娘の輪郭がノイズがかり、シャボン玉のように虹色のゆらぎが包み込む。ぱちん、とシャボン玉がはぜれば其処には灰白色の肌に金色の角を生やした女が立っていた。
「ウッ……」
「わあ……」
エクラとアンナが言葉を失う中、グルヴェイグは己の髪の間からひょっこりと顔を出す蛇の頭を撫でる。通りすがりの若い男女の、男の方は魔女の姿に釘付けになり、女の方は男の脇腹を強くつねった。
「……似合わないかしら」
非常に際どい、体をこれでもかと見せつけるデザインの水着をまじまじと見下ろし、金の目が陰鬱げに沈んだ。
「チガウチガウ! オレ、ウソイワナイ! スゴクキレイ! オレノブレイザブリクガムゲンニキョウカサレテヴッッ」
「お黙り、おっぱい星人。今日のあなたは刺身のツマなんだから自己主張しない」
男を浜に転がし、アンナは夏の太陽くらい眩しい笑顔、あるいは営業向けスマイルを浮かべた。
「来てくれて嬉しいわ。歓迎するわよ、ほら人の子達も嬉しそうでしょ」
すれ違いざまに特定箇所をチラチラと見遣る本能に忠実な野郎どもと女達の嫉妬と羨望の視線に、魔女は困惑したように黄金の瞳を走らせる。
「……とてもそうには見えないわ。私はセイズとは違う……、この醜い体では――」
「違う!! 絶対違うから!」
砂浜と熱いキスを交わしていた男ががばりと身を起こし力説する。
「よく似合ってる!! とても綺麗デス! ハイ!」
語彙力を喪失した男の賞賛にアンナは呆れたように片眉を上げる。しかし、魔女は黄金の瞳を生娘のように丸めて呆気にとられたようにエクラを見るばかりであった。
「ね? 喜んだでしょ。男って本当、単純なんだから」
魔導機のネジを回し、女は続けた。
「じゃあ、刺身のツマは置いておいて、早速だけれど写し絵を撮らせて頂戴……、あー……」
魔女の金色の髪の間から顔を出した蛇を見つめ、アンナは少々バツが悪そうに呟く。
「えーと、気分を害したらあれなんだけれど……、その蛇、ちょっと退場してもらう事ってできないかしら?」
金の瞳がちら、と傍の蛇を見る。黄金の蛇は女の言葉に少々気分を害したのか、魔女と顔を見合わせ、赤い瞳でアンナを横目に見た。フーン!と鼻息を吐く蛇の顎を撫で、魔女がその鱗に覆われた蛇の胴をなぞる。八つの蛇頭が寄り集まり、円を描くようにくるりと丸まり――黄金の蛇を模した大きな浮き輪に姿を変えた。
「自分で頼んでおいてなんだけど……本当になんでもできるわね、あなた」
「なんでもは出来ないわ。私に出来ることだけ」
浮き輪のつやつやとした表面をひと撫でし魔女は単調な声色で返答した。
「じゃあさっそく……」
カシャカシャと魔導機械の音を立てるアンナであるが、しばらくするとその横からニュッと氷菓子が姿を見せた。
「あら、エクラ。あなたのブレイザブリク、もう暴発の危機は脱したの?」
「おかげさまで……」
ネジを巻く女の横で刺身のツマ――エクラは半分に切られた西瓜に砕氷を山と乗せた菓子を手にしていた。差し出されたそれと男を交互に見比べ、灰白色の手がそろそろと受け取る。
「君たちで食べてよ。アンナさんに付き合うの、疲れただろ……ヴッッ」
「お黙り。***して動けなくなっていた男が何言っても説得力無いわよ」
見事な肘打ちのひっさつのいちげきを食らった男を見遣り、魔女は黄金の瞳を瞬かせる。
「……ありがとう」
「あー、はいはい。ほんと、ずるいわよね」
鳩尾をさすっている男を横目で睨み、アンナは呆れた声色を出した。
「じゃ、私はちょっとひと稼ぎ……じゃなくて、文化研究会に参加してくるから。エクラはあとよろしく」
ぶつくさと何事かを呟く女を見送る男のまえに、先程手渡した西瓜が現れる。
「どうしたの? あ、そっか。君たちは食べなくても生きていけるんだっけ……」
男を見る金色の瞳は無機質なそれであるが、しかし柔らかく直向きな感情を僅かに含んだそれである。
「いらなかった?」
ふるふると首が横に振られた。
「……どうやって口にしたらいいのかしら」
ぶっと吹き出す男に魔女は眉を顰めた。
「ごめん。そうだよな、セイズもクワシルも人間の食べ物を食べる時に苦労してるもんな」
さんさんと照りつける浜辺の太陽の下、人々が波打ち際で戯れる様子を眺め、男はパラソルの下で横たわっていた。
正確にいえば、膝枕されていた。
「アースッゴイ!! ナニモミエナーイ!」
直視できない南半球に男は己の神器が暴発しないよう理性で押し留めるのか精一杯であった。対して、魔女はといえばいたく満足そうであった。
「こうしてまた傍にいられるなんて、夢の中にいるようだわ」
「俺も今、夢の中にいるみたいだよ」
破廉恥です!と騒ぐどこかの妖精が脳裏を過ぎるも、エクラは男冥利に尽きるシチュエーションに幸せを噛み締める。視界の大半は南半球の西瓜で埋まっている。だが、少し離れた場所から明らかに嫉妬と思われる人の子の怨嗟の声が聞こえてきた。
「そういえばさ、君の話ってあまり聞いたことないよね」
人の子らの刺すような視線を感じながらエクラは呟く。
「いや、君もセイズだしクワシルだから俺も知ってるは知っているんだけれど。でも、君自身の口から聞くのは別じゃん? もっと話をしたいなって」
「何を聞きたい……?」
南半球に神器が反応しないように本能を切り離し、男はうーんと唸った。
「楽しかったことは?」
照りつける日差しにキラキラと輝く水平線を見やり、黄金の瞳がゆっくりと瞬く。
「……私がセイズであった頃の記憶は、みな楽しいものだったわ。何も知らない愚かな私だったけれど、大切な妹と……あなたと、同胞達に囲まれて……、とても、幸福だった」
側の浮き輪を血色の悪い手のひらがひと撫でした。
「でも」
「でも?」
「……よく覚えているのは、クワシルだった時の記憶。何も無かった、空っぽだった私が、初めて楽しいと思った。あなたが話す『御伽噺』の続きを知りたくて仕方がなかった。古い記憶だけれど、今も覚えている」
「そっか……俺に会う前はひとりぼっちだったんだ」
ほとんど見えない男の視界の外で、ええ、という肯定の言葉が返った。
「あなたが初めて会った人間だった。そして、はじめて好きになった人だった」
「……もっと良い人ってたくさんいると思うんだけれどなぁ」
緩く首が横に振られた。
「考えたこともないわ。クワシルだったとき、セイズだったとき、グルヴェイグだったとき。その全ての時で、あなた以外の想い人なんて考えたこともなかった」
「今すっごい愛の告白されてる気がする」
黄金の瞳がちらと男を見下ろした。グルヴェイグはそのまま背を丸め、エクラの顔を覗き込む。
「ええ。愛しているわ、エクラ」
「すごい情熱的……」
ともすればいかがわしいドラマの一幕のごときやりとりである。しかし、エクラを見下ろす黄金の相貌には人の子の持つような肉欲の影はなく、その白い瞳孔の奥にただ直向きな思慕と愛情を宿していた。
「……私がまだセイズだった時、妹を……ヘイズを手にかけたその瞬間。身を蝕む呪いそのものと思うほど恐ろしい感情が膨れ上がった。絶望だった。ヘイズとの思い出を塗り潰して広がっていくそれがたまらなく恐ろしかった」
「そして、ヴァナの王の言葉を聞いた時、絶望ではない恐ろしいものが芽生えた。憎悪だった。真実の残忍な影を語る王を……この手で、殺したかった。ヘイズの味わった苦しみと恐怖の全てを思い知らせて、あの子を苦しめた絶望を刻みつけたかった。でもそれは『グルヴェイグ』が成した。そして私もまた『セイズ』の目の前で……ニョルズをこの手で殺めた。あの男が最も恐れた方法で」
「ヘイズを手にかけた私は絶望の味を知り、ニョルズを手にかけた私は憎悪を知った。そして……グルヴェイグとなり、あなたを手にかけた私は無力を知った。諦めない限り、希望はこの胸の中に……、いつどこで知ったのか分からないこの言葉が、ニョルズの言う色褪せた光のように思えた。もう私に出来ることは何もなく、ただ呪いだけがこの身を動かしている……、死ぬことも、目を背けることもできず、ただ『次の私』になるための因果を紡ぐことしかできない。愛する全てが砂となり、私も呪いの入れ物……ただの抜け殻となり、すべては滅ぶ」
「だから……、こうして未知の未来を得た事が、円環が断ち切られたことが、この上なく幸せ。セイズだった時に恥ずかしくて言えなかった言葉を言う『未来』が私に残されていることが幸せ。だから、何度でも言いたい。愛しているわ」
情熱的極まりない愛の告白に、男は命中率32%のストーンが決まってしまったかのように硬直した。耳が熱くなるのを感じ、ニフルの万年氷のごとくカッチンカッチンに固まった口を動かす。
「アリガト、スゴクウレシイヨ。デモ、チョットダケ、ハズカシイカラ、オテアライ、イッテ、イイカナ」
「……? 私も行く」
「アッ!! ヤメテ! ちが、君が嫌なんじゃなくて、トイレ、トイレ! ちょっと人に見せられない場面だから!」
金色の眉がきゅっと寄せられる。
「……言っている意味が分からない」
「あああ、そっか! 食べる必要無いから食べても出るものも無いよね!」
人の子の体の作りから生理的反応までを一通り(婉曲的に)教え、男はようやく厠へたどり着いた。あわやブレイザブリクが爆発してしまうところであったが、すんでのところでそのような悲惨な事態は回避された。
パラソルへ戻る男の目に、わいわいと騒ぐ人の子の集団が目に止まる。
「ああ……、かわいい! やっぱり来てよかった、ここにも、そこにもかわいい人の子がいっぱい!」
伴侶に負けず劣らず素晴らしく豊満な体つきの女性が、幸せを絵に描いたような笑顔で――若い男女を抱きしめている。なかなか異様な光景であるが、女性の顔は猫だらけの喫茶店に初めて行った時のシャロンのそれのごとくまばゆい幸福に満ち足りていた。
「ちょっと、あんた何デレデレしてるのよ」
抱きしめられている女の方が、豊満な美女に抱き締められて鼻の下を伸ばしている若い男に噛みつく。
「ちょっと美人な女の人見るとすぐこれなんだから!」
「あら、あなた。嫉妬してるの?」
豊満な美女――光の神々住まう国、ヴァナの現国王代理ネルトゥスはキイキイと怒る女を見下ろし、実に愛おしげにその頭を撫でる。
「私に恋人を取られると思っているのね、かわいい! 心配しなくても大丈夫よ、かわいい人の子。愛情は誰かにあげても無くなったりしないわ。むしろ誰かにあげると増えるのよ? ほら、怒らないで? せっかくのかわいいお顔が台無しよ? 不安にならなくてもあなたが受けるべき愛は減ったりしないわ、もっと自分に自信を持って?」
「あの、ネルトゥスさん。人の子達が困惑してるので勘弁してあげてください」
頬擦りせんばかりに愛玩する地の女神に、エクラはそっと声をかけた。くるりと振り向いた女の顔に、ぱっと花が咲いたような笑顔が浮かぶ。
「あら、エクラ。久しぶりね……いえ、こちらでは1日も経っていなかったかしら?」
人の子達を放し(ネルトゥスはとても名残惜しそうであった)、男と地の女神は近くのパラソルの下に腰を降ろす。
「お変わりなさそうで何よりです。その節はお世話になりました」
「うふふ、堅苦しいわね。セイズにするような態度でいいのよ、かわいい人の子。あなたこそ変わりなくて何よりね……人の子達の時間はとても速いから、気がついたら皆、土に帰ってしまうわ」
くすくすと笑う女神の顔に離別の悲しみの色は無い。紫水晶を思わせる瞳には己より遥かに小さく弱々しい生き物に向ける慈悲の色があった。
「ああ、本当は海はあまり好きではないのだけれど……でも、人の子達を見られたから、来てよかった」
じっと己を見る男の視線に、女神はふ、と笑みを浮かべる。
「お兄様は……ニョルズは海の神でしょう? だから、大地の女神の私には肌が合わないの」
「あの……、なんて言ったらいいか」
男の前に手のひらを翳し、女神は言葉の続きを封じた。
「いいの。お兄様のこと、好きではないけれど……いなくなると少しは寂しいものね。でも、あなたが気にする事ではないわ」
男が沈黙する。人の子をじっと見つめ、ネルトゥスはキラキラと輝く水平線へ目を向けた。
「誰のせいか、なんて考えても仕方のないことよ。ふふふ……何か言いたそうね。セイズのことを考えてる? それとも……残りの二人のこと?」
エクラは目を背けた。
「憎んでいないわよ。でも、お兄様が消えてくれてせいせいした、ありがとう!とも思えないわ。グルヴェイグはお兄様を殺した、それは動かしようのない事実だもの……そんな顔しないで?」
「うーん……、ごめんなさいね。私、同じヴァナの神々に対しては人の子達ほどかわいいって思えないの。嫌いではないのよ? ただ、人の子達ほどかわいいとは思えないだけ」
「難しいですね」
そうかしら、と女は呟いた。
「簡単なことよ。あなたも子犬はかわいいと思えても、同じ人の子のことは無条件でかわいいとは思わないでしょう?」
「……すみません、俺が力不足だったせいで。伴侶の責任は俺の責任です」
「エクラ。あなた、勘違いしているわ。意地悪な質問をするけれど……あなた、グルヴェイグの一件で誰が一番悪いと思う?」
男は答えなかった。
「グルヴェイグかしら? 確かに彼女は世界を滅ぼす原因ね。でも彼女はああなっては自分の意思では動けない。意思なき人形に責を問うのはいい大人のする事ではないわね」
「ではお兄様かしら? お兄様は逆恨みで人の子を憎んで、セイズをグルヴェイグに変えたわね。でも、お兄様はその報いを受けた」
「では黄金の蛇かしら? 確かにあの蛇が全ての元凶ではあるのだけれど。エクラ、あの蛇に悪意があると思う? 思わないわよね。あの蛇には悪意や企みなんて無いわ……そうなる運命に従って行動するものと定められているからそうしているだけ」
「クワシルもそう。そうなる運命の道を逸れることを許されない存在。みな、そうだったのよ。私達はただ運命という恐ろしいものに抗って、勝利した。それだけよ。それに」
花が開くようなにっこりとした笑みを浮かべ、女神は続ける。
「さっき聞いたでしょう? 愛情は減らないのよ。奪い合えば足りず、与えれば余るの。私がグルヴェイグや、セイズや、クワシルを憎んで何になるというのかしら?」
紫水晶の瞳が輝く水平線を見る。
「……いずれ、私達も光となって消滅するのよ。あなたたち人の子に分かりやすくいえば『土に返る』の。あなた達人の子から見ればずっと、ずっと先の未来になるけれど、いつかは私も……セイズも、死ぬのよ。憎んでいる暇なんてないわ」
輝く水平線は遠く光り輝くヴァナの地に満ちる光のよう。輝石のように光を反射するそれに目を細め、女神ははたと思い出したように告げた。
「ところで、シャロンは一緒に来ているの?」
地の女神ネルトゥスと別れた男は、黄金の蛇を模した浮き輪を掴んで海に入っていた。浮き輪にしがみつくように乗った幼い女神が波にゆらゆらと揺れる。
「エクラ、離してはだめですよ」
飴色の瞳はおっかなびっくり、自らの足がつかない深い水を眺めている。いっぱいに足を伸ばしても底に届かないことにクワシルは目を丸くした。
「……私より大きいのです。人の子の世界は大きいのですね」
「ヴァナって海の世界だったと思うけれど、君たち泳げないんだ?」
クワシルのしがみつく浮き輪を掴み、男は立ち泳ぎのまま不思議そうに呟いた。
幼き女神らの住まう光の国、ヴァナは光の神々が住まう国であり、一面を温かな海に囲まれた世界である。潮の匂いのする風に吹かれる赤と青に輝く花は燐光を散らし、透き通る青い海は白くまばゆい光にキラキラと輝く。神々が住まう神殿は海底を思わせる群青のタイルで煌びやかに飾られ、たっぷりとした薄布が潮風に吹かれて涼しげに揺れる美しい世界である。
幼きクワシルが住まう谷もまた入り組んだ海岸にあり、男がかつて介抱されていた洞窟も夜になれば微かな潮騒が聞こえる場所であった。
そのような世界であるからさぞそこに住まう神々とあらば当然のように泳げるものだと思っていたのであるが、男の予想は大いに外れた。
「私達は浮遊できますから、泳げないのは仕方ないのです」
「前後繋がってなくない? あっ、ごめん、ごめん」
ぺちぺちと叩く小さな手のひらは痛くはないが、伴侶の機嫌を損ねたことに男は謝罪する。
「エクラだって浮遊できないでしょう? 誰にだってできないことはあります」
「セイズごめんって」
少女の口からやや大人びた声が漏れ、エクラは謝罪を重ねた。
「ほら、機嫌直してよ」
ぷっと頬を膨らませたてるてる坊主の手を握る。
「では、またお話を聞かせてください。そうしてくれたら許してあげるのです」
「はいはい、次はニザヴェリルとヨトゥンの話だったかな」
「……と、……ラ! エクラ!」
立ち泳ぎをしながら男が振り返ると、波打ち際に立つ米粒ほどの大きさの赤毛の女が叫んでいるのが見えた。
「波が高くなっているから! 危ないわよ! 戻って!」
水平線に目を向ければ、白い波がいくつもの筋を作り、静かに忍び寄って来ているのが見える。
「やば……。クワシル、手を離したらだめだよ」
慌てて浮き輪ごと伴侶の手を引いて浜辺へ戻ろうとするも、男の背に風に煽られ高くなった波が打ちつけた。
「エクラ? どうしたのですか?」
男のただならぬ様子に、飴色の瞳が不安げに揺れる。なかなか近くならない砂浜にエクラは焦りを覚えた。浜辺で叫ぶアンナが手を振っている。
「アンナさん、救援を呼んで。彼女、泳げないんだ」
波は既に男の頭より高くなっていた。浮き輪にしがみつく小さな手のひらが震え始めていた。エクラはその手を掴み懸命に水を掻く。人の子の無力を嘲笑うように水は重かった。
ひときわ高い波がエクラの頭に覆い被さると、男の手から小さななにかがすり抜けた。さっと血の気が引くのを感じ、男は水の滴る視界を乱暴に拭う。金色の浮き輪が波の間に漂っていたが、少女の姿が見えない。
男が浮き輪を掴むと、浮き輪は解けるように蛇に姿を変えた。怯えたように体を巻きつける蛇達や頭を撫で、男は海に潜る。少し離れたところを漂う虹色の外套へ向かって水を掻いた。パニックによって自我が激しく入れ替わっているのか、少女の輪郭が何度もノイズがかり、赤へ青へ、金色へ色と形を返る。
器の主導権を奪ったのか、少女が金色の輪郭に変わり、灰白色の腕が水面に逃れようともがく。その手を掴み、エクラは力の限り砂浜へ向かって水を掻いた。二人と蛇を逃すまいと、重い水が引き潮となってその手足を引っ張る。
(そんなに憎いなら俺で勘弁してくれよ。彼女はもういいだろ)
頭の中で誰にともなく怒鳴り、男は朦朧とする意識で水に抗った。蛇達が不自由な身で必死に男の背を押し、手足を引っ張る水を追い払った。赤毛の女の叫ぶ声がエクラの耳に届く。
アンナが男を掴んで砂浜へ引きずり上げると、エクラは浜へ突っ伏したまま動かなかった。
「エクラ、しっかりしなさい。もうすぐ救援が来るからそれまでは意識をもって」
男を仰向けに転がすと、水を飲んだらしいがらがらという音が響く。
「え、くら……?」
鉛のように重い体をもたげ、グルヴェイグは男を覗き込んだ。返事はなかった。
血の気が引く冷たい感覚、そして絶望が湧き上がった。器の中で自我が激しく乱れ、恐怖と混乱が湧き起こる。震える手が男を揺さぶる。黄金に変じた指先が、腕が、灰白色に、乳色に目まぐるしく変わり、輪郭がノイズがかる。
「エクラ……? エクラ? 返事を、してください」
飴色の、蜂蜜色の、黄金の瞳からぼたぼたと海水ではない、しかし塩辛い水が滴る。
「あなた、セイズ? それともグルヴェイグ?」
アンナの切羽詰まった声に女は答えなかった。
「あ、ああ……っ、エ、クラ、」
「ちょっと、あなた!」
女は答えず、ぼろぼろと涙を溢した。
「エクラが……、エクラが、死んでしまったら、どうしよう……っ!」
「しっかりしなさいっ」
絶望と混迷の極地に陥る声に、アンナは鋭く叱りつける。
「あなた、女神様でしょう?! 人の子のピンチにしっかりしないでどうするの」
涙を溢す金の目を見据え、女は厳しい声色で続けた。
「いい!? このまま放っておいたらエクラは絶対に死ぬわ」
「そ、んな……、え、くら、どう、したら」
「一応セイズって呼ぶけれど! セイズ、あなたは今、あなたの体の中に人格が複数あるんでしょう!? あなた達は時間に干渉出来るんだから、三人で力を合わせて、エクラが『溺れ死なない』事象になるように他の起こりうる事象を全部排除して!」
「で、きない、です……、いもうとも、すくえなかった、わたし、などでは……」
「やりなさい。いいわね。グルヴェイグが『あたりの宝くじを引く』事象を弾き出すまで試行してくれたことがあるんだから、できないなんて言わせないわよ」
ぐすぐすと鼻を鳴らす若い女神の頬を両手で掴み、女は穴が開くほどその整った顔立ちを見つめる。
「出来るのはあなたしかいない。出来なければエクラは死ぬわ。やるしかないの。さあ、泣き虫の女神様。泣いてないで、人の子に神様たる威光を見せなさい」
「エクラ、え、くら……」
涙を溢し、若い女神は男の手を握る。意識を集中し、ひとつの器に収まる三つの精神をより合わせる。男を心配げに覗き込んでいた蛇達が娘の元により集まり、長く伸びた金毛の合間に潜り込む。周囲がじらじらとノイズがかり、数百枚もの半透明のフィルムを重ねたように不安定にチラつく。男の姿が消え、また現れ、激しく点滅するかのように「存在する」と同時に「存在しない」が入れ替わる。
溺れ死ぬ事象を排除する。波にさらわれ沖合へ流され帰ること叶わなかった男の未来を抹消し、救援も虚しく命を落とした事象の時を巻き戻す。幾百幾千の「エクラの死」が巻き戻り、取捨選択されて「無かったこと」となる。
(恐ろしい)
融合した三つの意識が、絶命して生白くなった男の肌に戦慄した。人の子の死はヴァナの女神とは異なり、醜く歪んだ亡骸を晒す。死と共に光に還る神々と異なり、その亡骸は腐り、数多の生き物の餌となり、土に還る。それを「無かったこと」とするのはその死を直視する事に他ならない。
(こわいです)
(私も、恐ろしい、です。人の子は、こんな……ひどい、死を、迎えるのですね……)
(もうこの人の死を見ることはないと、思っていたのに)
青白く変色し、水に膨れた「それ」に総毛立ちながら、セイズらは時を巻き戻し、事象を取捨選択し、改竄し、無かったことにしていく。
どれほどの時が経ち、どれほどのエクラの死体を見続けたのか。ひとつにして三つの女神らが流す涙が海を作るほどになり、神々の黄昏を過ぎて人間の時代が訪れ、神々が忘れられるほどの時が過ぎた頃。
ばちん、とシャボン玉が弾ける音と共に、エクラは勢いよく水を吐き出した。
「ゲヘッ、げっほ、ごほ、し、しぬっ」
頭がガンガンと痛み、意識が朦朧とする。猛烈な頭痛は大量の水を飲んだせいかと思われたが、過去に覚えたような「違和感」が男の直感に訴えかけていた。
「ちょっと、大丈夫!?」
男を浜辺へ引きずり上げた赤毛の女が、切羽詰まった声で叫んでいる。
「だ、大丈夫、なんとか生きてる」
「少し目を離した隙に高波が来ているんだもの。驚いたわよ。二人とも無事で良かったわ……奇跡的に波が避けてくれたけど、もし高波に飲まれてたらお陀仏だったわよ。彼女、泳げないんでしょ?」
「そうだ。セイズ達は」
女の言葉に、エクラはがばと体を起こし――己を覗き込む金の目に安堵した。
「ああ、よかった。泳げないから怖かったよな。無事で良かった」
しかし、安堵する男とは裏腹に。目の前の女神は輪郭が激しくノイズがかり、声は三重にもぶれていた。
「ほ、ほんとう……なのです。本当に、よかっ、た……。また、あなたを、喪うかと、思った……」
瞳が飴色に、蜂蜜色に、黄金に変じる。内側に溢れる衝動のまま、少女は、娘は、魔女は伴侶を押し倒し、力の限り抱き締めた。
「ええ……っ? ご、ごめん、そこまで怖かったなんて。それはそれとして、今、誰が表に出て来てるの??」
大変柔らかく重いものを感じながら男は困惑したように謝罪を繰り返す。青白くぶよぶよに膨れていない、健康そのものの男の手を黄金の蛇がはむはむと食んだ。
後日。セイズらはやはり泳げないままであった。そして海は好きだが近づき過ぎるのは怖いから砂浜で遊ぶことを要求した。エクラは不思議がったが、セイズらは一貫して「海に嫌われている」からと言い張った。
アンナが散々に撮影した写し絵は、遠路はるばるやってきたヴァナの光の女神様のありがたい御姿を表した大変縁起の良いものとして飛ぶように売れた。特務は財政危機を脱したが、あまりにも売れ行きが良かったためにアンナは不自然であると訝しんだ。
――人の子達がまた私たちの写し絵を買っているのです
「そう、ですねぇ……」
蜂蜜色の瞳をあさっての方向に向けて、セイズはふよふよと宙を漂いながら己の意識に答えた。
――そんなに欲しいものなのでしょうか? ただの絵なのです
「あ、あはは……、私も、正直……よく、分かりません。それに、少し恥ずかしいです……」
途切れ途切れのコメントをするセイズの遠目に、自分の水着姿の写し絵が見える。魔導機に視線を向けてにっこりと笑っている姿は大変ありがたい……通常の意味ではない「ありがたい」姿で映っており、世の殿方はなぜかそこかしこで体育座りをしていた。
――あなたの写し絵はともかく、私の写し絵を買うのは物好きね
最もよく売れている黄金の魔女の写し絵など、なぜか「大変縁起の良い女神様の姿であり、目撃すると金運と恋愛運が上昇する」などという謎の信仰が起こり始めている始末である。
「でも、アンナには……助けてもらいましたから、少しくらい……私たちの力をこういう事に使ってもいいですよね」
周囲がノイズがかり、写し絵を売るアンナの横を通り過ぎた若い男が、前を向いたまま巻き戻したように後ろへ進む。再びアンナの前を通った若い男は写し絵を一度見て目線を逸らしたが、戻ってきて三枚のありがたい姿絵を購入した。
「まいどあり〜〜っ、ほら、エクラ。早く次の写し絵を出して」
「もう俺無理。腰がイきそう。死ぬわ」
「これくらいじゃ死なないわよ」
「隊長の鬼!悪魔! なにが悲しくて俺の妻のブロマイド売る手伝いしなきゃなんないのさ!」
「あなたが特務機関の隊長のしもべだからよ。わかったら早く手伝いなさい!」
「あぁああ、もう嫌だああ、グルヴェイグ、セイズ、クワシル、助けて!聞こえているなら来て!」
泣き言を言う夫を屋根の上でふよふよと浮きながら見下ろし、若い女神は申し訳なさそうに呟いた。
「ごめんなさい、エクラ。普段は、いつどこにいても、どんな時でも……聞こえています。どんな時だって、あなたを愛してますし、あなたを助けたいと思っています。でも……、今日だけは聞こえなかった事にさせてください」