He's home. 九時頃に戻る、という連絡があったのはついさっきだ。
予定よりずっと早い。だから、もう、一人分だけのご飯をつくって食べてしまっていて、冷蔵庫に食材は無くて、たまに言ってしまう「作り過ぎちゃったから」は言えなくて、そしてそのままその連絡事項だけで電話は切れた。
香港から帰ってきて数日、あたしたちの関係は全くもって変わっていない。変わったのは、まあ、なんだか自分が自覚しちゃったことくらいだけだ。
どうして。あたしが。よりにもよってあの戦争バカに。
おかげで「一度メリダ島に行かなければならない」とあいつが言い出したとき、「必ず君のもとに戻ってくる」なんて言葉に、しおらしく「うん」なんて答えてしまったのだ。映画か。(しかもこの場合、だいたい男は死ぬ。)
もう九時から五分経った。向かいの部屋はまだ暗い。何やってんだろ。
最近ぐっと寒くなってきて、部屋着にパーカーを羽織っただけでは結構辛い。
馬鹿みたい。早く戻って、ココアでも飲もう。
そう思っているのに、なぜだかそのままダラダラと、玄関先の手すりにもたれていた。
頭の中で、あの日の、彼の髪を切ってあげた日の「また明日」が浮んでくる。今度は大丈夫。だって、ついさっき戻るって連絡があったんだから。もう少し。もう少しだけ。そうこうしているうちに指先がかじかんできて、なんだか泣きたい気分になってきて……空から、大きな音が降ってきた。
ババババババババババババ!と今まで静かだった住宅街に場違いな騒音が広がる。驚いて空を見上げようとしたけど、突如強い風が吹いてきて、顔の前を腕で覆った。
腕の隙間から見える住宅街の空はさっきまでと全く変わらない。何も見えない。いや、黒い影が一つ、落ちていったような気がした。
吹き荒れた風は遠くなる騒音と共に去って、そして元の静かな住宅街。いや、突然の騒音と強風に、付近の住人たちが何事かと窓を開け始めた。
………………………………………………………………別の意味で泣きたい。
「千鳥?」
呼びかける声は下の方から。地面を見下ろすと、野戦服を着たあいつがこちらを見上げていた。あのバカ、普通に話しかけんなっ!
「なぜそんなところに? まさか、何かあったのか!? 部屋に爆発物…あるいは侵入者か!?」
「『何かあったか!?』じゃないわよ!!」
今、この手にハリセンがないのが悔やまれる。
「大問題が大ありよ! 何考えてんの!? タクシー乗りつけるんじゃないんだから、住宅街にヘリで……っ」
と、そこで外に出てきていた付近の住人の注目を集めていることに気が付いてしまって、慌てて声を潜めた。
ヘリはECS?というやつで姿を隠していたし、こいつがそこから降りてきたのは一瞬のことだったから、さっきの騒音の犯人がこいつだってことはたぶんバレてはいないだろう。でも、住んでるところでの悪評はこれ以上立てたくない。……過去の所業で、いくらかの悪評がすでに立っている事実が悲しい。
「……ともかくっ、こっちには爆発物も侵入者もないから! ウチのマンションに駆け込もうとしない! そして、今すぐその手の物騒なもんをしまいなさいっ!」
帰ってきてすぐにこれである。この戦争ボケが、出発前にあまりにもそれっぽい台詞を言うもんだから、もしかしたら、いやまさか、そうはいっても、なんてあれこれやきもきしたっていうのに、まあもちろんこいつが死ぬことなんてあるわけもなく、こうして元気にいつもの迷惑をかけまくるのであった。
「……本当に問題ないのか?」
訝しげに、一応渋々と手に持ったものを懐に収めながら彼が問う。
「ないって言ってんでしょーが」
「ならなぜ外に? もう遅い時間だ。外にいるのは危険だぞ」
今の騒ぎで出てきてたのよ、とでも誤魔化せばよかった。でも、なぜ、なんて聞かれてしまっても。理由なんて。
「べ、別にっ、なんだっていいでしょ」
「しかし…」
「あーもう、うるさい! 天気が良いから、ちょっと月とか星とか見たかったの! それだけ!」
あんたが帰ってくるって言うから、わざわざ玄関から出て寒い中待っていた、などとは言える雰囲気ではなかった。先日の件で、意地を張って、それで後悔したのはちょっと反省しようと思ったけど、さすがに今は無い。無いったら無い。
「ほら、さっさと帰った帰った!」
しっし、と手を振れば、彼は気圧されたかのように「う、うむ」と言いつつ空を見上げ(今日は曇り空だった)、何かを言いたそうにしていたが、結局「風邪を引くから早めに部屋に戻れ」という一言だけを残して、そして、自分のマンションに帰っていった。
何事かと外に出ていた付近の住民たちも、この頃にはそれぞれの家の中に戻っている。
そして、あたしの前に広がるのは、少しばかり前の、元の静かな住宅街。
(あ~~~~~~、もう!!!! あの根暗むっつり戦争バカ!!!!!)
帰ってきたら、あれを言おう、これを言おう、と色々考えていたのだ。これでも。だというのにあいつときたらとんでもない方法で帰ってくるわ、開口一番爆発物だの侵入者だの言い出すわ、ロマンチックさの欠片も無い。おまけに「風邪を引くから部屋に戻れ」? 本当に余計なお世話だ。ほんっとうに余計なお世話だ。本当に。
…………本当に、何をやってるんだか。
恋というものは、もっとふわふわと甘く楽しいものだったはずだ。苦しいときもなくはなかったが、それはきゅ、と切なくなるようなそんなしっとりしんみりした感覚で、けしてヘリだの爆弾だの襲撃だの物騒な単語は出てくるはずもなし、それがどうしてこうなるのか。
はぁ~~~~、と大きく溜め息をつくと、一気に夜の寒さが戻ってきた。
早く部屋に戻ろう。温かいココアにしこたま砂糖を入れよう。そしてさっさと寝て……明日に備えよう。どうせ、またあいつが問題を起こすのを、あたしが叱る毎日なのだ。
玄関に向かって振り返ったとき、パーカーのポケットからPHSが音を立てた。
「はいはい。どなた~?」
相手先を確かめもせず通話に出た。こんな時間にかけてくるのだ。どうせ恭子か瑞樹……
「……俺だ」
ではなかった。それは、ついさっき自分の家に帰ったはずの彼の声だった。
「へ? ソースケ?」
「ああ」
扉の方へ向いていた身体をもう一度振り向かせる。向かいのマンションの、今あたしがいるところより少し高い位置の部屋の電気が点いていて、そして、ベランダに人一人分の影があった。
目が、合った。
互いに明かりを背にしていたから、顔なんて見えるはずもなかったのに、わかるはずもないのにわかった。
なんだか、映画見たい。
夜半、向かい合わせの建物の上階で、男と女が互いに見つめ合っている。
『……………………………………………………』
『…………その(あのっ)、』
被った。
「そ、ソースケから、どうぞっ」
「あ、いや、君から……」
「いや、あたしは、別に……っていうか、そっちからかけたんじゃない。なに?」
「う、うむ……」
そこで彼はまた黙ってしまった。なんなんだ、この雰囲気は。妙にそわそわとしてしまう。
「その、さっきの話なのだが……」
「さっき? だから、爆発物も何もないわよ」
「いや、そうではなく、その、」
「なによ。歯切れが悪いわね。さっさと言いなさいよ」
どうにも彼は緊張しているようだった。いや、だの、その、だの何度か言い淀んで……そのうち意を決して、口を開いた。
「……待っていてくれたのか?」
「……え?」
「その、到着時刻を知らせていたから……少し、遅れてしまったが。だから君が……俺の帰りを、待っていてくれていたのではないかと、そう思って……いや、すまん、勘違いだ。忘れてくれ」
急ぎ電話を切ろうとする彼に「待って」と声をかける。
とは言ったものの、なんて続けたらいいのかわからない。
「……千鳥?」
いや、何を考える必要があるのか。ちゃんと、今度こそ、変な意地を張らずに。
「……待ってた、わよ」
「なに?」
「待ってた、って言ったの! わ、わざわざ時間知らせてくるから、何かあるのかと思って……ひ、暇だったし!」
「……そうか。待っていて、くれたのか」
「そ、そうよ! ていうか、待ってたからって、なんだっていうのよ!」
ああ、全く、あたしというヤツは。結局どうして、こんな態度になってしまうのか。折角ちょっとは、素直になれた気がするのに。
「……変な気分だ」
「へ?」
「戦場では、仲間のもとに生きて帰るのは、時には難しいことがある。だからこそ、仲間は俺が戻ると喜んで迎えてくれた。彼らのために、と考えて死地から生還することも何度かあった。だが、その……なんというか、君が、俺を待っていてくれていた、というのはそういうときとは少し違った風に気分が高揚するというか…………上手く言えないな。とても変な気分なんだ。ああ、いや、悪いという意味ではない、むしろ、その、喜ばしい、というか……」
電話越しに、彼が必死に説明する声が聞こえてくる。
なんだか耳が熱い。PHSの熱でも伝わった? さっきまでの寒さはどこいったんだろう。
なぜか心臓がぎゅぅっとして、ドキドキとしている。
「……すまない。支離滅裂だな」
「……ううん。なんとなく、わかる、から……」
「……そ、そうか」
「……うん」
……マンション越しの会話でよかった。
すぐ近くで向かい合って、なんて状況だったら、きっと恥ずかしすぎて耐えられなかったと思う。なんでなのかは、よくわからないけれど。
「……ともかく。あー……その、折角待ってもらっていたのに、遅くなって……すまなかった」
「……ううん。いいの」
「そうか。……助かる。……身体が冷えただろう。早く、戻った方がいい」
「そう、だね」
さっきと違って、忠告に反発心が起こることもなかった。ただ、この時間が終わってしまうのは、なんとなく名残惜しかった。
向かい合わせの建物の上階で、あたしは彼を見上げていて、彼はあたしを見下ろしている。
相変わらず顔はよく見えないけれど、あいつのむっつり顔は……今はちょっとは、緩んでいるのかもしれない、なんて、なんとなく思ったりして。
『……………………………………………………』
『…………その(あのっ)、』
被った。
「き、君から、話すと良い」
「あ、いや、ソースケから……」
「いや、俺は……もう、伝えたいことは、伝えた、と思う」
「そ、そう……」
そこであたしは黙ってしまった。そもそも、何を言おうとしたのだったか。
……いや。色々考えていたはずだ。あたしは。帰ってきたら、あれを言おう、これを言おう、手がかじかんて、ちょっと泣きそうになるまで待ってたのは、それを言うためじゃなかったのか。
「…っ、あの、さ」
「……なんだ?」
そしてそれは、最初に言う言葉だけは、決まっていたのだ。
「おかえり、ソースケ」
「……………………ああ、」
「ただいま、千鳥」
きっと、今日の「また明日」が破られることは絶対にないだろう。そんな気がした。
またあいつが問題を起こすのを、あたしが叱る毎日なのだ。