ボーイミーツガールが起きても日の出はまだ遠くて
四月二十九日、日本では早朝と呼ばれる時間、強襲揚陸潜水艦トゥアハー・デ・ダナンは北朝鮮領海を南に向かって潜行していた。
同時刻、格納庫でカリーニンと別れた宗介は下士官用ベッドで横になっていた。他の隊員は今は誰もいない。哨戒艇の耳を逃れるために騒音規制が敷かれた艦内は静かだった。
床に直接寝るよりはマシなマットレスの上で、宗介の口はいつものへの字に結ばれている。
休め、と上官から命があった。ならばその通りにすることに異はない。なのに宗介は全くそういう気分になれなかった。包帯を巻かれた傷は鎮痛剤のおかげで痛くはなかったが、目を瞑っていても頭の中で何か色々なものが渦巻いて眠れなかった。護衛任務。ハイジャック。ガウルン。色々なことがあった。ウィスパード。アーバレスト。ラムダ・ドライバ。 わからないままのこともたくさんある。
一介の兵士に全てが知らされることなどない。よくあることだ。宗介も、今までそういうものだ、とわからないものはわからないまま、次の任務に移ってきた。
ごろりと寝返りを打つ。目を瞑っているのに、全く眠りに落ちていける気分になれない。
次の任務はどこだろう、いつもは気にならないことが宗介は無性に気になった。
だが、気にしてどうするというのだろう。命令されたとおりにそこに行き、命令されたとおりのことをやればいい。それだけなのに。
なぜなのか。
いつもは考えないことを宗介は考える。
考えて、そして、ふと思い当たる。なぜ、そうだと思ったのか。わからないまま。
……きっと、その次の任務の場所とやらが、日本になることはないからだ。
日本。
相良宗介という名前を使う自分の、おそらく故郷ではないかと思われる国。
故郷だなんて、おかしな話だ。自分は根無し草だ。これからもそうだ。たかだか名前がその土地風だというだけで、なんの思い出もない場所だ。
(いや……)
宗介の胸に、わずか一週間かそこらしかない日本での記憶がいくつも浮かび上がった。
通勤ラッシュの駅、学校という高等教育の場、街路灯と車道を挟んだ向かいのマンション。
これらの記憶の中心には、必ず彼女がいた。何も不思議なことはない、当然のことだった。彼女を護ること。それが今回の任務だったのだから。だから宗介にとっての日本の思い出は、すなわち彼女の思い出である、と言い換えても決して過言ではなかった。
彼女を狙う敵がいないか索敵する。危険が迫れば彼女を守るため対応する。しかし想定された<敵>は大概が宗介の勘違いで、ただ空回りに終始した。余波で周囲に大小の”致し方ない損害”を与え、そのたび彼女に怒られた。日本で行ったことは概ねその繰り返しではあったが。
彼女。千鳥かなめ。今は艦内の医務室で眠っている。緊急事態だったとはいえ、数十メートルも上空に生身で放り投げてしまった。彼女が起きたら、状況上仕方なかったことを説明しつつ、できるだけ丁寧に誠心誠意謝罪しなければ。と考えるものの、宗介はその機会がないことを知っていた。彼女は薬で眠らされたまま、東京の病院に運ばれる手はずだった。このトゥアハー・デ・ダナンを始めとした、様々な機密を知られないための措置だった。上陸して彼女を病院に運ぶ任務のメンバーに宗介は含まれていない。だから、宗介が千鳥かなめに謝罪する機会はもはや無い。
だが、きちんと謝罪したとしても、きっと彼女は怒るだろう。宗介には想像がついた。
『許可もなしに人を放り投げるんじゃないわよ!』
眉を吊り上げて怒鳴る声が今にも聞こえそうだ。
叱責されることを考えているはずなのに、宗介の心は不思議と穏やかだった。もうその叱責の声を聞く機会が無いと考えると、むしろ穏やかだった心の内がざわめく気さえした。
彼女の近くにいたこの一週間、宗介の心の中では様々な感情が呼び起こされては過ぎ去っていった、それらの感情について、宗介は初めて出逢った驚きというよりも、しばらくどこかにしまい込んで忘れてしまっていたような、そんな懐かしさのようなものを感じていた。
喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。
くるくると表情の変わる彼女を見ていると、そんなにも思うままに感情を表す人間がいるのかと宗介は目を見張る思いをしたし、自分が人からいつも無表情だと言われ続けていたことに対して、彼女に比べれば確かにそう言われるのも当然だと妙に納得もした。
納得と同時に、彼女から見れば、自分は酷くつまらない人間に違いない、と宗介は思うようにもなった。
宗介は人にどう思われるかについて思い悩むことなどほとんどない。自分は自分。他人は他人だからだ。任務に差支えが出ない程度にコミュニケーションがとれていれば問題ない。
しかし、千鳥かなめにどう思われているのか、を考えることは、否応無しに宗介を平常心という言葉から引き離した。
ベランダ侵入の一件で彼女に嫌われたとき、嫌われたというだけのことが酷く気分を憂鬱とさせた。
山の中で彼女に『来ないで』『近付かないで』と言われたとき、身体の傷よりももっと深い痛みを感じた。
あのときは、彼女に厭われても仕方ない、ということはわかっていた。
自分にはどうしようもない何かの欠陥を、彼女は明確に感じ取っていた。それは自分の生き方に現れているものだった。
しかしそれはもうどうにもならない。
宗介はこうやって生きてきたし、そういう生き方しか知らない。今更どうにもならない。
けれど。
……そんな自分に、彼女は「一緒に帰ろう」と言ってくれた。
あの言葉は、宗介にとって、かつてないほど魅力的な誘いだったのだ。
彼女と共に帰ることができたら。生きることができたら。
それは、なんと素晴らしいことだろう。なんと、喜ばしいことだろう。
何かが変わった気がした、目的地もわからないまま歩む身体に、道しるべができた気持ちだった。
目の前にどんな障害があろうと、なんだってできる気がした。
溢れる高揚感が、自分はどこにだって行けるのだと叫んでいた!
……だが結局、今の宗介は海中深くを進む艦の中で、次の任務を待っている。
連れていかれるまま、流されるまま、おぼつかない思考はさまよっていく。
彼女は、約束を破った自分を責めるだろうか。
彼女は、姿を消した自分のことをどう思うのだろう。
彼女は、自分がもうあの学校に通うことがないことを惜しんでくれるのだろうか。
意味の無い問いが漂って、意味が無いのだから仕方が無いと所詮は根無し草の己を思い知る。
そもそも自分はあの場所にいるべきではなかったのだ。彼女がいるべき場所に自分は似つかわしくない。だから、良かったんだ。
千鳥、俺は――。
『あのねぇ! 言いたいことがあるなら直接はっきり言ったらどう!?』
は、と気が付いた宗介の目に入ったのは、見慣れた二段ベッドの天井だった。
いつの間にか眠ってしまったのか?
起き上がりベッドから出た。ブーツの底を、硬い床が押し上げる。
時間を確認したが、さほど時間は経っていない。
そのまま軽く身体を動かした。
痛みは少々残っているが、特に問題はなかった。多少は体力も回復したようだ。怪我のため十全とは言えないが、それでも横になる前よりはずっとマシになっただろう。
(それにしても、夢の中でまで彼女に叱責されるとは)
宗介のへの字口が、少しだけ緩んだ。それは苦笑した、と言えるのかもしれなかった。
(別れがたいなら、もう少し好意的な夢を見たっていいだろうに)
(もう、彼女に会うことはないのだから)
衝動的に宗介の身体は動いていた。
それがどういった衝動なのかは宗介本人にもよくわかっていない。わからないまま、潜水艦の狭い通路を急ぎ足で進んでいた。
騒音規制中でなければ、おそらく思いきり走り出していたに違いなかった。
なにかが宗介の心臓を鷲づかみにしていたのだ。その”なにか”はあの駐機場で、トレーラーの中から銃声が聞こえたときに彼が感じた恐怖に似ていたが、違っていた。
ここはデ・ダナンの艦内で、確かに北朝鮮の哨戒艇に追われてはいるが見つかってはいないし、見つかるはずもない。何も脅威は迫っていない。
かなめも多少の怪我はしたが、医務室で眠っているだけで、死に瀕しているというわけではない。
彼女が打たれた薬も後遺症は出ない。彼女は、元の危険のない生活に戻るだろう。
何の心配もない。何の憂いもない。
しかし確かに彼は焦っていた。冷静ではなかった。あの駐機場でのときのように、考えなどもなく、身体が動き出していた。
彼女が死ぬわけではない。薬によって、彼女の人格が壊れされたわけでもない。
彼女はこれからも怒ったり、笑ったり、悲しんだり喜んだりするだろう。今まで通り。元の通り。
それを宗介が見ることが二度と無いだけで。その場に宗介がいる未来は無いだけで。
自分の胸の内を暴れ支配し今にも爆発せんとする感情のことについて、彼は一切考えなかった。
ただ、彼女に、千鳥かなめに会いにいかねばならない。彼は強くそう感じていた。
鉄の床を蹴るように急ぎ向かう。彼女のいる医務室へ。彼女のところへ。
あの角を曲がれば――!
「っ!?」
「うわっ」
急に人が現れ、衝突しかけた。気を付けろ、と宗介は口に出し掛けた。だが騒音規制中の艦内なら、誰もがむやみに音を立てないよう、衝突など起こらないよう気を付けているのだから、むしろ今のは宗介が不注意だった。
ぶつかりそうになったのはヤンだった。ヤン・ジュンギュ。陸戦コマンドSRT(特別対応班)所属。階級は伍長。コールサインはウルズ9。宗介の同僚の一人。
「ああ、ソースケ。ちょうど良かった」
ヤンは宗介とぶつかりそうになったことは特に気にしていない様子だった。
彼は宗介に次のブリーフィングの予定を伝えた。また、その前にカリーニン少佐の執務室に行くように、とも付け加えた。つまり、次の任務があるのだ。
任務が。
ヤンの後ろ、彼の左肩の向こうに、医務室の扉が見えている。
「時間がないよ。行こう」
早速歩き出したヤンは、宗介が来ることに疑いを持っていない様子だった。
宗介は任務が楽しいわけではなかったが、任務よりも何かを優先したことはなかった。例外は一度だけあったが、ミスリルで宗介を知る誰もが、宗介が指令を無視するなんてことがあるわけがないと思っている。宗介自身も、そう思っている。
『任務』は宗介の行動を決める重要な指針の一つだ。上官の命令があるならそれに従うものだ。
だから、当然のように彼は思ったのだ。
任務があるなら、そちらに行くべきだろう、と。
宗介の胸の中にあった、かなめに会いたい、という強い衝動がにわかに萎んでしまっていた。
ついさっきまで、何よりも、どんなことよりも優先すべきことのように思えていた切望が、任務より優先すべきことだとはどうしても思えなくなっていた。
『言いたいことがあるなら、 直接はっきり言ったらどう!?』
一言くらい、なにかを言う時間は、なくもない。
けれど彼女は眠っている。ベッドの傍で宗介が独り言をこぼしても、彼女には伝わらない。
それとも、彼女を起こしてまで、伝えたいことがあるのか? 言わなければならないことがあったか?
(……わからない。彼女に、言いたいこと。が、何なのか)
何かはあったはずだ。だがそれは任務より優先すべきことか? わからない。だが、ここに来るまでに確かにあったはずの情動はもう霞のように捉えどころなく無くなってしまっていた。そこから宗介自身にも掴むことができない感情について、輪郭を与える言葉を取り出すことは、もはや彼にはできなかった。
数歩進んでいたヤンが、ついてくる様子のない宗介に気がついて訝しげに見る。
「ソースケ?」
「…………今行く」
宗介はそのまま医務室の扉に背を向けた。
何も言えなくても、せめて一目彼女を見ることくらいはできたかもしれなかった。
けれど、そこにどんな意味があるのだろう。
彼女は元の生活に戻り、自分もまた元の生活に戻る。何も変わらない。何の問題もない。
それ以上の何かが、あるとでもいうのだろうか。
未練と呼ぶにはそれはもはや些細な事柄だった。心の隅の僅かを無視して、宗介はカリーニン少佐の執務室へと向かう。
何かを手放してしまったような気がしたのは確かだった。こぼれてしまったことを惜しむ心持ちになったのも確かだった。けれど、あえて取り戻そうと思うには、その何かを望むには、まだ、彼の心は陽が射し込まないどこかを誰かの命令で歩いている。