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    Kaffee 1「ロイドさーん、コーヒー入りましたよ~」
     新聞を読んでいたロイドは声の主に顔を向ける。
    視線の先には、ロイドに見せるようにキッチンから淹れたてのコーヒーポットを持ち上げ首を傾けるヨルがいる。
    「最近ミルクと砂糖使ってましたけど、持っていきますか?」
     仕事の多さと同僚の暴走とで胃が痛くなっていたロイドは、ここしばらくコーヒーにはミルクと砂糖多めのカフェオレで飲んでいたため、ヨルが気を使いコーヒーを淹れるたびに聞いてくれるようになっていた。仕事の多さは相変わらずだが、同僚の件はとりあえず仕事が終わったのと、その胃の痛さの本人が山籠もりした今現在、とりあえずじばらくフォージャー家に近づくことがないのとで、ロイドの胃の痛さは前ぐらいに戻ってきてた。
    「今日はブラックでお願いします」
     お互いに敬語が抜けないままで過ごしているが、お互いがお互い自然に夫婦のように過ごす時間が多くなってきている。私生活で隣に人を置いたことがないロイド=黄昏にとって、それはとても不思議な感覚で、それでいて嫌ではないのだから困っているのだ。
    マグカップ二つとコーヒーポットをトレーに載せやって来たヨルは、先に作ったココアを飲んでいるアーニャの隣へ腰を下ろし、温めて湯気の上がるマグカップへコーヒーを注ぎ、一つは向かいに座るロイドの前へ、もう一つはヨル自身が手に取りにっこりと笑う。
    「新しい豆なので、きっと美味しいですよ」
     置かれたカップを手に取り香りを吸い込むと確かに香りが強い。焙煎したての豆を使ったコーヒーの香りがする。その華やかな香りを存分に楽しみ、一口含んで五感で味わい尽くしてから、ようやく嚥下する。
    「ふふっ、ブラックの方がロイドさんらしいですね」
    「え?」
    「ミルクと砂糖を入れて飲んでいる時はなんだが寂しそうな残念そうな顔をして飲んでいたので」
    「そんなにでしたか?」
    「ええ。でも今日はいつものロイドさんです」
     料理は全くダメなヨルだったが、流石に飲み物でとんでもない味のものを入れることはなく、料理はロイド、お茶の時間や一息つくときの飲み物の準備などはヨルがしていたから、準備の間、いつもこちらの様子を見ていたのだろう。
    「そうですね、俺はブラックが好きですから」
    「じゃあ、砂糖やミルクを入れるときはお疲れの時、でしょうか」
    「俺がブラック以外をお願いしたら、そうだと思ってください」
     自分の弱点を伝えたかもしれない。それでも彼女にならいい、と思うのはロイド・フォージャーという人間になりすぎているのかもしれなかった。でも、それは黄昏(自分)が演じているだけの人物。邪魔になるのなら、ロイド・フォージャー自身を含めすべてを切り捨てることなど容易い。例え、家の中であってもロイド・フォージャーでいて黄昏の仕事に支障をきたさずにいることが一番なのだ。
    「ちちー、ははがいれたこーひーのめ」
     黄昏の思考に入りかけていたロイドは、自分の膝の間に入り見上げているアーニャに飛び上がるほど驚き、手に持っていたカップの中身を危うく床にぶちまける所だった。そこはなんとか回避し、バクバクと大きな音を立てる自分の心臓を抑えようと大きく息をつく。
    「ごめんなさい、ロイドさん…… 危ないからと止めたんですけど」
    「大丈夫です……」
     アーニャの突拍子もない行動は、いつも黄昏の考えの斜め上をいく。たかが少し思考を切り替えていた時に、しかも黄昏である時にアーニャの気配に気づかなかったとは、不覚もいいところだった。だが、たるんだ身を引き締めるいいきっかけになったと考え、まずはアーニャの言うとおりコーヒーを飲むため、またロイド・フォージャーへと戻り、新しい豆で淹れたコーヒーの香りを吸い込んだ。
    「こんにちは、あるいはこんばんは、黄昏君」
    「こんにちは、管理官」
     任務後の一週間の休みが明け本部にやってきた黄昏は、ほとんど何も置いていない自分のロッカーの中にあるメモを取り、指定されたオフィスへやってきたのだ。そこには上司である管理官がおり、いつもの挨拶に対していつもの返しをし、そのまま黄昏は机を挟んで管理官の向かいにある椅子へと腰を下ろした。
    「おや、昼間だったか」
     若いながらもメキメキと頭角を現し、スパイとなってわずか数年でコードネーム持ちとなった若者に、彼らを統括する側である管理官でもやはり若手であるシルヴィアは、大いなる期待をかけている。
     コードネームは誰でも与えられるものではない。コードネームのないスパイはごまんといる。コードネームを与えられるのは、すべての事柄においてずば抜けて秀でたごく一部の者だけなのだ。〈黄昏〉のコードネームを与えられた青年は、誰もが認めるWISE設立以来きっての才能の持ち主であり、彼の扱いを任じられたシルヴィアは、彼を充分に扱えるか、彼女が彼の上司に値するか、彼女自身も組織から試されていることを承知の上で仕事と黄昏とに向き合っていた。
    「まずは、前回の作戦の成功、おめでとう。おかげで、膠着状態だった問題が一気に解決まで進んだ」
     眉一つ動かさずに聞いている黄昏の前に、淹れておいた代用コーヒーのカップを置き、自分のカップを手に取り、麦が焦げた香りのような湯気があがる代用コーヒーという名の泥水を啜る。それを確認した黄昏が、ようやくカップを手にとった。
    「ふふ、まだ私を信用してくれていないようだな」
    「……そうですね、まだまだ出来そうもありません」
     黄昏が頑なに自分が一口目を飲まないのは、そう訓練されているからではない。
    確証はないが、黄昏の最終試験に立ち会った者は、誰一人黄昏の信用を得ていないだろう。確証がないのは、その後、黄昏と関わりがあるのがシルヴィアただ一人のためであり、確認しようがないのだが、彼が晴れてスパイとなったあの日から比べれば、黄昏の態度も少しは改善されつつあった。大きな仕事後の休み明けに労をねぎらうのも、少しでも黄昏に作った心の澱を流すためにしているが、まだまだ会話が続くことは少ない。

     無言の時が続く。
     普段から、何を振っても会話が続くことはないのだ。他のエージェントとも代用コーヒーや紅茶を飲んで他愛もない会話から仕事の話へと進めていく管理官も、黄昏とはこの泥水を飲み終わるまで一言も喋らないまま、飲み終わってようやく次の仕事の話に入るのが常だ。
    「早く豆で淹れたコーヒーが飲みたいですね」
     これまで一度も自ら先に喋ることはなかった黄昏が口にした言葉に管理官は目を丸くするが、黄昏がカップに目を落としていて自分を見ていなかったことに感謝し、下ろしていたカップを持ち上げた。そして黄昏自身も、自分の口から出た言葉に、自分で驚いていた。あえて律していたというのに、今回の仕事は子供の頃を思い出させる仕事だったせいか、言葉にできない何かが心に燻り、気づけば言葉が溢れていたのだ。
     あの戦争から一〇年を経て、ようやく戦争の傷が癒え始め、復興の兆しも目に見えて加速し始めた西国の街並みは日に日に彩りを取り戻し、戦場となり瓦礫の山と化した街で一人泣いていた少年が「子供たちが泣かない世界」を作るのだと決心した戦争という出来事は過去のものになりつつあった。それでも嗜好品はまだまだ戦時中のように代用品が用いられることの方が多い。
     コーヒーの需要が高い西国だが、自国でコーヒーの栽培は難しく、一〇〇パーセント輸入に頼っていた。戦争状態に入り、東国に海上の制空権を奪われてから、輸送船はことごとく撃沈され、陸路では生活必需品を優先して回した結果、国民的飲み物であるコーヒーであっても例外にならず、豆は枯渇し、それでもコーヒーを求めた国民は、タンポポの根やチコリ、そして東国とは反対の国境を接する隣国の一大産業である麦を使い、炒って焦がし細かく砕いてコーヒーのように抽出して「代用コーヒー」として飲み始めたのだ。ただし、味はコゲ味以外はコーヒーとは似ても似つかないコーヒー色の何かであり、味は泥水と言っても過言ではない。そしてなにより、カフェインが含まれていないため、眠気覚ましに代用コーヒーともいかなかった。
     そこに出現したのが、ショカコーラだ。
     ショカコーラの元であるチョコレートは西国と東国の国境の海岸線に突き出た半島にある国の名産であり、陸地を西国と東国に突き刺さるように接したこの国は、戦争が始まるとすぐにどちらにも付かない中立の立場を貫いた。そのため、中立国の輸送船は、西と東の争いに巻き込まれ誤って攻撃をされることもあったが、基本は攻撃対象にはならなかった。この国はコーヒーを飲む国ではなかったため、コーヒ豆を代行で輸入することは中立を宣言している手前やらなかったが、生活必需品の他に、自国の名産であるチョコレートのためのカカオ豆を西国に流すことは大いに手伝ってくれたのだ。そのチョコレートにカフェインをわざわざ添加したものがショカコーラだ。コーヒーがなくカフェインをとれない分をエネルギー供給に支給しているチョコレートに多く加えて、Win-Winにしたのだ。
     そのショカコーラは、円形の缶に八ピースが上下に入った一六ピースが入っており、どこでも手軽にエネルギーとカフェインがとれる補給食として兵士に支給されたのだが、戦後、これが一気に人気が出て、軍でも支給される通常のビターチョコタイプの赤缶と、ミルクチョコの青缶が民生品として売られているほどだ。
     そして、そのチョコレートとカフェインの効果が有用だとしてWISEでも支給されており、ビター味でカフェインの効果で更に苦味が増したショカコーラは黄昏も重宝している。それは、ショカコーラの効果に目を付けた東国がまるっきり同じものを作っている…… とあちらは思っているだろうが、東国にあるWISEの拠点のうちの一つの製菓工場で生産し、東国でも流通させたため、東国でもポピュラーなエナジー食であり、軍にまで卸すまでになっている。そのため、エージェントが食べていても怪しまれることはないという徹底ぶりだ。
    さらにその売り上げは、WISEの資金源の一つでもある訳だ。
     それでもコーヒー豆が流通しないのは、西国は国民的な飲み物であったコーヒーだけは自力で輸入することにこだわっているからだった。海上の制空権が国境のない万国共通の場所となった今でも、その他の解決すべき課題が山積みで、し好品であるコーヒー豆は、いくらに四国の国民的飲み物だったとしても、まだ輸入の活路が開けないでいるためだ。しかし、そうしてすべてを自分たちの手で取り戻すことにこだわるほどの飲み物なのだ。
     代用コーヒーとショカコーラ、これは戦時中に生まれ、これだけ復興した今でも入手しづらいコーヒー豆の代わりに飲まれ、食されている。それはまだ、あの戦争が終わっていないということだ。黄昏にとって、コーヒーが飲めた時代、彼はまだ子供で両親がおいしそうに飲んでいた記憶と、戦時中にコーヒーもショカコーラのどちらも口にしたことはなかった黄昏ですら思うことであり、そういった過去にできたことを取り戻すための組織でもあり、それは子供が泣かない世界を作れる。だからこそスパイになったのだ。

    ――豆で淹れたコーヒーが飲みたい。

     その思いはシルヴィアにとっても同じことだった。
     各方面をそれぞれ統括する管理官達の中では若い方だが、戦争が始まった時はすでに大学に通い、学生結婚をし、子を育てながら勉学に励んでいたシルヴィアにとって、コーヒーとは生活の一部だった。そのすべて失ってしまったが、これからの世代には自分と同じような思いをしてほしくない。だから、取り戻せるものは漏れなく取り戻したいと考えている。

     WISEに所属する誰もが、コーヒーについて、それそれがその数だけ思うところがある。
     管理官は代用珈琲が冷めて酷い泥水になる前に飲み干すと、顔を上げ黄昏の言葉に応えた。
    「ああ、好きなものを好きに買える世界にするための我々だ。さて、こんにちは、あるいはこんばんは、エージェント黄昏。次の任務だ」
     テーブルの下をくぐりロイドの足元に出たアーニャは、ロイドの足と足の間に入り見上げることで驚かせることに成功していた。
    ちちが仕事のことを考えている時に流れ込んでくる思考は、わくわくと見たくないものがあり、せっかくの団欒の時に見たくないもが流れ始めたのでいたずらに及んだのだが、見事、驚かせることに成功し、驚くロイドにアーニャはかえって驚いたのだ。
    ちちを驚かせるのは至難の業だというのに、テーブルの下から這い出で父のズボンの裾に触れていたのにもかかわらず、ちちはそのことに気づかない。それならとすっと立ち上がり、その動きにアーニャの方を見たロイドに、アーニャの見たくないちちの思考を止めさせるためにコーヒーを飲ませる使命が沸き上がった。
    「ちちー、ははがいれたこーひーのめ」
     ロイドがアーニャの出現に飛び上がるほど驚き、手に持っていたカップの中身を危うく床にぶちまけそうになったがなんとか回避して、驚きに崩れかけた顔を引きつらせ、大きく息をついた。
     ふだんはむっつりでも、アーニャの行動一つで父の顔は二枚目から簡単に三枚目になる。それが面白くもあり、アーニャにとってはむっつりちちより表情のあるちちの方が安心できるのだった。
    「ごめんなさい、ロイドさん…… 危ないからと止めたんですけど」
     アーニャが何かを思いつき立ち上がった時点でヨルは止めてはいたが、ヨルの手がテーブルの下に潜ったアーニャをつかむより先にテーブルを潜り抜け、黄昏の足元に這い出てアーニャが犯行に及んでロイドが目に見えるほど驚いたため、半泣きである。普段なら、そんなヨルをなだめフォローに回って労わるロイドは、驚いたからだけではなく、心ここにあらず、としか言いようのない態度でソファーにもたれ掛かるだけだった。
    「大丈夫です……」
     出てきた言葉はか細い声ではあったものの、驚いたロイドは普段のロイドではあった。だが、その反応に、ヨルはしゅんと小さくなってしまった。しかし、アーニャのココアのカップをロイドに差し出せば、いつものようにロイドははにかむ様に微笑み受け取るので、とりあえずは大丈夫ではあると、自分のカップを手に取った。
     そんな様子を見ていたアーニャは、ははを大事にしないちちなんてと思いつつも、ははの淹れたコーヒーを飲めと宣言し、そのままロイドの助けを借りてソファーへ上ると、ロイドの足の間にあるソファーへ座り丁度よく収まった。お気に入りである、ちちの足の間の空間の居心地にご機嫌で、ぼっとするロイドをよそにヨルとアーニャは一週間の出来ことを話しながら、ヨルがロイドに手渡しもらった飲みかけだったココアを飲んでいたが、先ほどまではちちの表情と同じ愁いを帯びたような記憶だったのに、今度は心地よい記憶が流れ込んできた。その記憶もちちのものだと気づくと、ちちが昔のことを思い返しているのを不思議そうに見上げるのだが、ロイドがそれに気づかない。でも、ちちの顔は少し和らぎ、微かに微笑んでいるようにも思えた。
     アーニャがロイドを見上げているので、話を止めロイドを見るヨルは、首をかしげてロイドの顔を穴が開くほど見つめるのだが、普段はヨル―― いや、いばら姫の時の視線を瞬時に察知するというのに、今日のロイドは、いばら姫としてのヨルの視線にすら気づかず、呆けているのだ。
    「アーニャさん…… ロイドさん、今日、変ですね」
    「ちち、いつもへんです」
    「アーニャさん! もうそんなことないですよ! ロイドさんは……」
     ヨルは慌ててロイドを見たのだが、普段ならこれだけワイワイしていればその談笑に混ざったり、時にはあきれ顔をするロイドが、アーニャが自分の足の間から落ちないようにと支えたまま、ぼんやりとどこを見るでもなくコーヒーを飲んでいる。
    「はは、ははがちょうしょくにへんなものいれたから、ちちがおかしくなったです」
    「入れてませんよ! ちょっとアレンジはしましたけど」
    「やっぱり入れたですね」
     逃げるように空いたアーニャのカップを受け取り、慌ててキッチンへと向かうヨルの後姿を見つめながら、アーニャはロイドから流れ込む思い出が変わったことに気づき、それを醒ましてはいけないような気がして、ちちを驚かせないようにゆっくりとちちの体へよりかかると、その思い出はさらに濃くアーニャの中へと流れ込んできた。
     組織が万年人手不足だというのは分かっているが、任務完了後に与えられた休暇を返上してまで働く気はなかった。
    組織に忠誠心がない、という訳ではない。任務の間に消耗しきった体を、休暇の間に元に戻しておかなくてはならないだけ。自分の技量では、誰かを演じることにまだまだ気力も体力も、精神的にも、あらゆるすべての事柄に激しく消耗し、任務後のまとまった休暇はそれらの回復に充て、引きこもっている状態だ。まだ、外部に部屋を借りられるほどのクラスではない今は、WISEの総合施設内にある寮で生活しているため、引きこもっていても食事は部屋まで運んでもらうこともできるし、情報も新聞やテレビ、気が向けば資料室へと行くか、こちらも頼んで部屋まで持ってきてもらうこともできる。それでも、任務が終わり自室に戻ると、一気に気が抜けてシャワーを浴びる気力もなく、なんとかスーツは脱いでベッドへと倒れこむ。そして気づけば丸一日寝ていた、などざらで、任務中に少しでも気の休まる間を見つけそこで一気に回復を図るなど、まだまだ出来ない芸当だった。
     休みも後半にもなれば、食事をしに食堂へ出てカフェテリアで美味しくもない代用コーヒーを飲みながらぼっとしていることも可能だが、そんな姿が見つかれば即休暇が切り上げられ、オフィスに呼ばれるという悲劇を一度目にしているため、今回も最後の日まで部屋に閉じこもっていたのだ。
     そして休暇が終わった今日、久々に食堂へ向かっている。
     二四時間空いている食堂の食事はビッフェ形式で、数種類のメインの他に、付け合わせやデザート、飲み物は自分の好きなものを選んで食事ができる。寮の者と外部から出勤する者と双方が使える施設のため、外部から出勤して利用する者たちでごった返す前、身支度を整える前の早めの時間に来たのだが、寮の者の朝食だけでなく、勤務明けの者、打ち合わせを兼ね仕切られたブースで食事をとっている者、果ては食べ終えたトレーを脇にどかしテーブルに突っ伏し寝ている者までいる。寝ている者は、あと一時間もしたら食堂勤務の職員に起こされてその場所をどかされるだろう。まだ朝五時を回ったところだというのに人の姿がそこそこあった。そんな光景を横目に取り分けた朝食をつつき、普段よりはゆっくり済ますと、部屋へ戻って身支度を整え寮を出た。
     外での仕事がなければ中で訓練の他に領収書をまとめるだなんだといった事務仕事もあることはあるため、一応は持ち場のオフィスがあり、ほぼ使われないデスクもある。事務仕事があるというのは建前で、チームで仕事となれば事務関連を取りまとめてやってくれる専門員もいるし、単独神武であればことあるごとに処理して痕跡はなるべく残さないようにする。だから、諜報員となると、そちらに向かうことはほぼないに等しく、出勤したらまずロッカールームにある自分のロッカーを開けることになる。この施設は不要なものは持ち込めないし、私物はほとんど部屋に置いてきているが、帽子とその他、外出時に必要となるものはロッカーにしまうのが鉄則だ。そして、早ければこの時点で次の任務で必要な小道具が仕舞われていたりもするのだが、目の前のロッカーの中にはメモが貼られた紙袋がハンガーラック上の棚に置かれてた。その適当な置き方は小道具ではないことを表しており、貼られているメモの文字は、腐れ縁とでもいうのか付き合いのある先輩の筆跡で、何か面白い物でも見つけて入れておいたのだろう。それを横目で見つつ、扉の内側に貼られたメモを手に取った。
     それこそ今回の指令だった。
     書かれている時間にはまだ余裕があり、一旦メモを戻し、帽子や上着をロッカーに仕舞いこみ、置かれた紙袋を手に取る。どっしりと重い袋に慌てて底に手を添え、その重みを感じてみるものの、中身は全く見当もつかない。そもそも、任務後に相手がどこに行っていたかぐらいは話してくれたとしても、何をしたかなどは職務規定で本人が直接話すことはないし後々に知ることもほとんどないため、どこに行っていたかなど分からない。土産があるというのも、全くない訳ではないが珍しいことで、よほど面白いものでもあったのだろうと閉じられた紙袋の口を開けてみる。
    「……角砂糖? に、カップにソーサー…… なんだこれは」
     袋の中に入っていたのは、コーヒー用のセットだった。
     コーヒー豆が入ってこないこの国では久しく見なくなったもの。
     コーヒーの代わりに飲まれている代用コーヒーはコーヒーには程遠く、砂糖やミルクを入れて飲もうとすれば、どんなゲテモノ好きでも即吐き出すような代物となる。香りもコーヒーとは言えない。麦の代用コーヒーなど焦げた麦の香りがする。そんなだから、コーヒーを飲む時に使われたものたちは姿を消し、カップやソーサーも、代用コーヒーごときにコーヒーに使っていた品のあるものは使えないと姿を見なくなっていた。戦争が始まる前はまだ子供だった黄昏も、両親が使っていたおぼろげな記憶があるだけのものだった。
     それが今、何故か紙袋の中に納まっている。
     もし任務先でこれを買ってきたなら悪趣味としかいえないが、確かに悪趣味な部分も持ってはいるが、こういうことをしてくる人物ではなかった。何か意図があってのことだろうが、次の任務で使用するのならば、個人的なメモをつけ、新品の物を袋に入れてロッカーに入れておくなどありえない。任務で使う物は新品でもすべて使用感がある加工を施され、手に馴染むようになっている。
    いたずらを仕掛けてくるような人物ではないが、この不可解な品物に首をひねるしかない。もしかしたら、今の様子をどこかでうかがっているかもしれないと辺りを見回してみたが、そんなことで見つかるなら、彼はこの世界に所属してはいないだろう。ため息をついて頭を掻く。
     考えても仕方がないことに後で彼を探して真意を聞くとして、謎の贈り物は棚に戻しロッカーに鍵をかけ歩き出した。

     管理官は毎回、別のオフィスを指定してくる。
     それは施設の構造を叩き込むために行われていることで、ここには施設のまともな地図はない。WISEに入った日から大まかな地図を頭に叩き込まれ、毎日あちこちの歩きながら施設の詳細を自分の頭の中に作り上げていく。メモを取ることや手書きの地図を作るなどもっての外だ。さらに、職員のレベルや持ち場によってに入れる場所や区域をも制限されているため、上層部でもほんの一握りだけが全体像を把握し、他は誰もが全体像を知らないというようにし、機密を保持している。
     今日も、指定の場所へ向かう通路の特徴をカメラで写真を撮るように頭の中と収めていく。たまに手が入り、変わっている場所もあれば、何かしらの装置が設置されていたり撤去されていたりもするし、この施設とて一〇〇パーセント安全だとは言えない。管理官が毎回違うオフィスと指定してくるのは、地図は渡せないが自分の頭に地図を組み立て書き換えろという意図があってだ。こうした日々の積み重ねがいつかの自分へと繋がっていく。
     頭の中にある平面図へ次々と情報を足したり消したりし、立体へと組み直しながら、目的の部屋へとたどり着いた。指定の時間に遅すぎず早すぎず、定刻通りだ。予測した時間と実際の到着がほぼ同じことに満足し、軽く身だしなみを整え、ドアをノックする。
     ノックの後、いつものように中の管理官の返事を待たずに扉を開けたのだが、中から漂う香りに思わず足を止めていた。
    部屋の中には珍しく立ち上がり何かをしている管理官がおり、いかなる時でも冷静さを失ってはいけないというのに、オフィスだからと気が抜けていたことにがく然と立ち尽くしていた。そんな亜相手に管理官は叱咤を飛ばすどころか、こちらの反応に笑顔を見せている。
    「こんにちは、あるいはこんばんは、エージェント《黄昏》」
    「おはようございます、管理官(ハンドラー)……」
     組織の挨拶に今の時間の挨拶を返すだけで精いっぱいだった。
     管理官は黄昏のいつもの返しに苦笑し、そしてドアを開けたままの態勢で固まっている黄昏を手招きする。それで我に返り、ぎこちない動きで部屋へと入った。ドアからそこまで距離のない管理官のデスクまで歩いていくのに何もないところでつまずきそうになるのだから、自分自身に呆れるしかない。椅子を引くのも座るのも、何もかもが思うようにいかず、椅子の高さすら目測を見誤り、勢いよく座ってしまう始末だ。
     平静を装ってはいるが、部屋に漂う香りに明らかにソワソワしている黄昏に、訓練中も任務に就くようになってからも隙の見せたことのない男が見せる隙だらけの姿に、管理官はますます微笑まずにいられなかった。
    「先の任務はよくやった。そして休暇中は引きこもっていたために今になった訳だが……」
     管理官の嫌味は痛いほどわかるが、ようやく単独での任務も与えられるようになった身だ。自分たちは使い捨てだと分かっていても早々に退場となる気はなく、少しでも自分の信念を全うするためにも与えられた最低限の休暇はまだまだ必要な時間だった。いちいち気にしてなどいられない。
     ソワソワしてはいるが、自分の嫌味には普段と同じく反応することのない黄昏に、管理官は安心したかのように息を吐いた。
    「君を中心に行われたこの前の作戦の成功により、コーヒー豆の輸入に活路が開けた。だから、今こうして……」
     管理官は、黄昏がドアを開けた時に止めた手を動かし始める。すると、流れ出てきたあの香りが一層濃くなった。ガリガリと音をたてながらコーヒー豆を挽く管理官はその香りを楽しむかのように、ハンドルを回している。黄昏は、管理官の動作を、まだ両親が居たころに見たことがあった。ハンドルを回すととても良い香りが家中に広がるのだ。
    「成功の立役者である黄昏が初めに飲むべきだと、こうして一週間待っていたんだよ」
     挽いた豆が入る引き出しを開けると、更に香りが華やいだ。
     驚きに目を丸くしたままの黄昏に、管理官は何も言わずコーヒーを淹れる作業に再度取り掛った。管理官は、後ろの棚から何やら仰々しい器具を取り出し机へ置くと、慣れた手つきでセットしていく。
    「市場に出回るにはもう少し先になる。それに豆についての情報は、今はWISEで止めていてね。我々は、政府のお偉いさん方より先に飲める名誉ぐらいは頂いても何も悪いことはない」
     ロッカーにあったコーヒーセットはこの為だったのだ。初めに飲むべきだと主張してくれたのは、多分あの贈り主だろう。
    と、突然、汽笛のような音が上がり、黄昏は腰を浮かし音と反対側へ飛び退ろうとしたが、音の正体はこの部屋には似つかわしくない簡易コンロとケトルだった。
    「いい反応だな」
     浮かした腰を落ち着けた黄昏に対し、管理官はコンロへと歩み寄る。
     蒸気と共に勢いよく鳴き渡る笛吹を開け、火を止め湯気を立てるケルトを持ってくると、二セットのコーヒーカップとフラスコへとお湯を注いでデスクの上にある敷物の上へ置いた。半ば呆気にとられていた黄昏も、ケルトが敷物の上に置かれると同時に浮かしたままだった腰を下ろしため息をつく。部屋の隅でコンロにかけられているケルトの存在にすら気づかないほどに見入っていたとはと、扉を開けてから歯車が狂ったかのようにおかしなことをする自分へのため息だ。
     そんな黄昏を咎めることなく、管理官はコーヒーを淹れる手順を説明しながら、ロートをフラスコへしっかりと差し込み、挽きたてのコーヒー豆を投入する。それだけでもまた香りがたち、黄昏の鼻孔をくすぐり、顔を上げ管理官の作業を食い入るように見つめた。管理官は、その豆を湿らす程度お湯を垂らすと、アルコールランプに火をつけ、フラスコの下へセットする。
     しばらくして、熱せられたお湯がロートの管を通り上へ上へと昇りはじめた。
    押し上げられたお湯は挽かれた豆を通りながら躍らせ、更に昇っていく。管理官はヘラで撹拌し手を引いた。黄昏はロートのコーヒーではなく、管を昇っていく湯の揺らめきに魅入られていた。フラスコ内の湯が昇りきり、その勢力に加われなかった湯が暴れ回るかのように必死に管を上がろうとするのだが、圧力の足りず、アルコールランプの熱から逃れようと必死になっているかのようだ。
     少しの間、湯を踊らせ、共にコーヒー豆を踊らせる。一分ほどそうさせていただろうか、アルコールランプが引き抜かれ火が消されると、ヘラでもう一度撹拌してコーヒーが落ちるに任せる。ロートからフラスコへ濾過されたコーヒーが降りていく。

     まるで儀式の様だ。

     濃い色をしたその液体は濾過され磨きがかかる。
     香りまでもがフラスコへ封じ込められていくかのよう。

     コーヒーが降りきると、管理官はロートを左右に捻り外した。それでも香りはあまり逃げないようで、香りの到来を待っていた黄昏は身を乗り出しそうになり、慌てて背もたれへと体を押し付ける。
     そんな、熱心に見入る黄昏を横目に、管理官は温めいていたカップのお湯を簡易シンクに捨て軽く水気を切り、デスクへと置いた。そしてフラスコを手に取った。フラスコからコーヒーカップへできたてのコーヒーが注がれると、フラスコの狭い口から開放された香りが一気に部屋中に広がり、豆やロートの中を泳ぎ回っていた時より優しくなったその香りに、黄昏の心臓は跳ね上がっていた。なぜかはやる気持ちが抑えされない。今まで、仕事や私生活で感情を殺すのをどうやって行っていたのか思い出せないほどで、まるでそこだけどこかに落としてきてしまったかのようだ。

     二つのカップに入れられたコーヒーをソーサーへ乗せ、そのうちの一つを黄昏の前に置き、持ち手を回し右利きの黄昏が取りやすいように置くと管理官は席につく。
    「私も淹れたのは久しぶりだから、味の調整が少し心配だが」
     黄昏は目の前に置かれたカップを手に取る。
     今まで、出されたものは全て相手が先に手を付けない限りは一切口にしたことが無かった。それは、様々な理由があってのことだ。自分に課したことであって、強制や命令で行っているわけではないが、それを破らなくてはならない事態になっている。管理官が何か毒を盛ることはないと分かっていても、自分で決めたことを今回の成果とて破っていいものかと、決心がつかない。

     黄昏は長い間、湯気の上がる艶の美しい黒い液体を眺めていた。真っ黒のようで、実はとても深い茶色である水面から漂い出す白い湯気。その湯気とともに立ち昇る芳醇な香り。香りが鼻腔をくすぐると、昔、死んだ両親がコーヒーを飲んでいた風景がよみがえってくる。懐かしい、それでいて思い出せなかった景色。その景色が、コーヒーの香りで戻ってきたのだ。
     そんな黄昏を管理官は何も言わずただ見つめている。スパイとはいえ成りたてのころからベテランの様に何事にも動じない男が、今、勤務中ということを忘れ、自分の目の前で出されたコーヒーから視線を動かせないでいる。黄昏が徹底して飲食物は人より先に手を出さないことを一番よく知っているが、今回だけは黄昏が初めに飲まなくてはならなかった。

     西国の人間なら誰もが待ち望むコーヒー。

     それを取り戻した立役者。

     その立役者の名前は表に出ることも歴史にその名が刻まれることもない。すべてが政府の外交努力として持っていかれてしまう。そんな立役者に報いられる行為は、最初に届いた豆で一番初めに飲んでもらうこと。そんなことができるのは、政府がやっていることと思われている仕事のほとんどにWISEが関わっており、WISEが足掻けるのは、政府にも手を出せない部分でこうやって褒美を頂戴することぐらいだ。
     管理官もカップを手に取り、本物の豆で淹れたコーヒーの香りを楽しんだ。裏のルートから手に入れようと思えば出来なくもなかったが、正規のルートで元のように市井にも行き渡らせられることが出来ることが分かったら飲むのだと決めていたもの。その管理官の動きに黄昏が顔をあげた。
    「君の働きでこのコーヒー豆の市場が戻ってきたんだ。『正規のルートから入った初めの豆で淹れたコーヒーを一番初めに飲む権利は黄昏にある』と言われてな」
     黄昏は手に持ったコーヒーカップをおずおずと持ち上げる。
     憧れていたコーヒーだ。コーヒーのある国へ任務で行ってもあえて飲まずにいたコーヒー。まさか自分の仕事の成果でこの国でも飲める日が来るとは。報酬として、初めに飲む権利を得た。普段のように飲まずに待つことはできない。
    自分のため、そして未来のため、飲むのだ。

     その立ち上がる香りを大きく吸い込む。
     香りが早く飲めと自分を誘っている。
     その香りに誘われ、黄昏はようやく覚悟を決めた。
     香りを深く吸い込みながら、深く濃い茶色の液体を口にする。
     その一口目はとても苦く、想像以上の苦さだった。
     舌が、大人になって始めて口にする苦さに慌てている。しかし、それが通り過ぎると舌がその苦さを美味しさだと主張し始める。
    いつの間に目を閉じていたのか、体の力を抜き、大きく息を吐きながら目を開けカップの中の液体を見つめた。その蠱惑色の液体は香りまでも蠱惑的で魔物だった。たった一口飲んだだけで既に魅了されている自分がいる。誰もが待ちわびるその飲み物に魅了され、黄昏とて逆らったり、やめられるわけがない。

     更に一口。
     香りが体中に満ちていく。その美味しさにため息が出た。

     今、自分がいる場所も自分の仕事も身分をも忘れ、黄昏はコーヒーを楽しむだけに没頭する。
    そんな黄昏に、管理官が嬉しそうに微笑み、ようやくコーヒーを一口含み口内いっぱいで味わい嚥下する。管理官にとっても十数年ぶりのコーヒーは、記憶に残るコーヒーの思い出に、このコーヒーの記憶が新たに刻まれていく。そして、色あせていた記憶が鮮やかによみがえっていく感覚に、管理官は目を閉じ力を抜いた。学生時代に語り合った喫茶店で飲んだコーヒー、戦争が始まる前の不穏な状況の中でもそこだけは穏やかであった家族と過ごした家で飲んでいたコーヒー。思い出の味は、思い出のまま、今ここにそのままある。全てが記憶のままで、色を取り戻していく。
    「また一つ、前の負の遺産を潰せた」
     管理官の呟きに、黄昏は上の空で口を開いた。
    「訓練中に軍に放り込まれた時、演習中に薄いコーヒーを淹れてもらったことがあって……」
     カップを包むように持ち、その水面を見つめながら黄昏はしゃべり続ける。管理官は声を出さず、そのまま黄昏が語るに任せた。
    「派兵されて色々と付き合いのある軍人だったようで。本来なら一杯分の豆を十人に飲ませるために割るから、カップの底が見える茶色のお湯でしたよ。味なんて分からない。香りも割る前に香ったのが流れてきた程度で。それが……」
     WISEの訓練所だけでは身につけることができないことは多々ある。軍人なら軍に所属したことがなければ分からない仕草や行動がある。それは日々の訓練で刷り込まれ作り上げられていくものであって、小手先の知識や技術だけでは身につくものではなく、身についていないエージェントを使うのは組織全体の質を落とし寿命を縮ませる。そのため、軍にはWISEの為の小さな部隊が編入されており、黄昏もことあるごとに軍のその部隊で訓練を受けていた。その中の佐官や尉官は、軍人でありながらWISEに所属する者たちで、彼らの身分は軍人であるため紛争地帯や平和維持活動など軍の仕事もこなしている。
     黄昏がついた上官は紛争地帯にも行っているようなガチガチな軍人だったが、スパイという仕事にも理解がありWISE所属となった人物だった。彼が派兵先でコーヒー豆を手に入れても必ず一杯分の豆だけとし、エージェントが初めて軍の訓練にやって来た時の演習場の夜、やって来たエージェントの分だけその一杯を薄めて皆で分かち合うと言っていた。
    こんな風に薄めず飲める日が来るといいなと笑う男の思い出がよみがえり、黄昏は管理官を見る。
    「あの時の教官に……」
    「急くな。軍なら市井に広がるより先に飲めるようになる」
     ここまで自分をさらけ出す黄昏を見たのは初めてで、彼にとってもコーヒーとは諜報員であることを忘れてしまうほどに思い入れのある飲み物だというのを、シルヴィアだけが目撃している。彼とて西の人間の一人なのだ。今ここでコーヒーを飲み、素をさらけ出しているのは、黄昏ではなく黄昏の前の彼。だが、管理官はそのことを咎めるつもりはないし、この出来事もそれこそ思い出としてしまっていたのにコーヒーと共に戻ってきた管理官自身の過去も、またコーヒーとともに腹へおさめ、それで終わりだ。
     しかし、黄昏ですらこうなってしまうのなら、WISEも少しの間、お祭り状態になるに違いない。
     自分を押し殺すことのプロである彼らですらそうなるのなら、市井に行きわたったらどうなることだろうか。その頃には、WISE内ではお祭り騒ぎは収まっているだろう、市内のお祭り騒ぎに東の行動も活発になるだろうから、こちらもおおいに仕事ができるようにもなる。そんな考えを、黄昏の声が管理官を現実に引き戻した。
    「こんなにも」
    「ああ、こんなにも美味しいものなんだよ」
     今はコーヒーを楽しむだけの時間だ。野暮なことは考える必要はない。
     

    「二、三ヶ月もすればカフェでコーヒーが飲めるようになるだろう。そうしたらこれからの連絡手段が一つ増えるというわけだ」
     カフェで提供されるだけでなく、道端にコーヒースタンドも立つようになるだろう。WISEが運営しているキヨスクでもコーヒーを取り扱い始めるだろうし、コーヒースタンドもやり始めるのは確実だ。そうすれば、そのコーヒースタンドも連絡を取り合う場となる。コーヒーが自然なまでに日常に戻ってくるのも、もうすぐなのだ。
    「淹れ方を教えよう。という口実だがもう一杯、楽しませて欲しい」
     管理官の申し出は黄昏にとっても願ったり叶ったりである。ある程度見ていたとはいえ、目の前で淹れられるコーヒーが魔法に思え、ただただ目の前で起こることを見ているだけでいっぱいいっぱいいだったせいで、詳しくは見ていなかった。
     魔法だなんてと思われるかもしれないが、魔法だった。そして、何か機会があれば自分でも淹れてみたい。
    それよりも、もう一杯飲みたい。
     その湧き上がる思いに、黄昏ではない、捨てたはずの自分が居ることに気づいた。
     どうして? と自問しかけ、それでも、今日の今この時だけは、俺は黄昏ではなく自分で居たいと、終わればまた脱ぎ捨てればいいのだと、自分が自分で居られる今があってもいいのだと、黄昏をたしなめる。コーヒーを飲むのは俺であるため。これが終われば、俺は俺をやめて《誰そ彼》となる。昔の自分のために、もう一度、黄昏に生まれ変わるために、今は俺は俺でコーヒーを味わうのだ。


     淹れ方を教わり淹れた二杯目は、特に会話もなく二人はただ純粋にコーヒーを楽しんでいた。
     フラスコに残るコーヒーが冷めてしまうほどに味わい、残ったコーヒーを分けると、それをまた楽しんだ。代用珈琲は温かいからこそ飲める代物で、冷めてしまったものなど飲めたものではない。しかしコーヒーは違っていた。冷めれば苦みが前面に出てくるが、温かい時とは違う刺激と味わいが押し寄せてくる。それがカフェインがもたらすものだと、今は知る由もないが、冷たいコーヒーはそれはそれで味わいがある。
     思わず笑みがこぼれた。
     美味しいものをいただくのは、それだけで自分の糧になるのだと改めて感じながら、黄昏は冷えたコーヒーを味わった。

     部屋に漂うコーヒーの香りが薄れ二人には感じられなくなったころ、管理官が立ち上がりコーヒーカップを片付けたかと思うと、奥の部屋からなにやら荷物を持ってきたのだ。デスクに置かれた物はかなり大きな物だ。次の任務の道具の場合、大荷物ならそういったものを管理している倉庫で受け渡しとなるが、そのレベルの大きさで、かなりしっかりとした箱に入っている。
    「私からはこれを」
     黄昏は管理官が何を言っているのか分からなかったが、ロッカーに入っていた荷物を思い出し、それに関連するものを管理官が自分に持ってきたのだと気づいて驚きに眉を上げる。
    「開けてみても?」
     頷く管理官に頷きかえし箱を開けてみれば、紙の箱が数個中に入っている。パッケージには写真が載っており、先ほど管理官が使っていたコーヒーを淹れるための器具だという見当はついた。
    「これは?」
    「サイフォンと使用する道具一式。ネルドリップ用の道具も入っている。それとミル」
    「コーヒーを淹れる?」
    「成功報酬は出るが、これは私からの現物支給ということにしといてくれ。アルコールは酒保に準備させてあるから、寮に戻るときに受け取っておけ」
    「今日は…… 驚くことばかりで」
     目の前で起こる数々の出来事に、管理官からのプレゼントから手を離し、椅子にどっかりと沈み込むと、背もたれにもたれかかった。
    「豆も後で届けてくれるそうだ」
     肝心の豆がないことに気づかない程に混乱していたが、管理官の言い方に引っ掛かり眉をしかめた。
    「逸る周りを抑えてお前にと言ってくれたヤツだ。一杯飲ませてやれ。それを聞いたから食堂でも提供開始する」
     自分が考えていた者が、自分に初めのコーヒーをと言ってくれたのだ。彼だってすぐにでも飲みたかっただろうに、それを耐えてまで黄昏を推したのだ。

     誰もが待ちわびたもの。
     それが日常に戻ってくるきっかけを作れた。
     その報酬は、この国で誰よりも先にコーヒーを飲めたこと。

     人々に余裕ができれば泣く子供も減る。子供が泣かない世界を作る、それは黄昏の夢だ。その夢を一つ叶えられた、と、スパイになると決めた青年が自分の心の中で泣いている子供の頭を撫でた。と、泣いている子供が泣くのをやめ、青年を見上げている。二人は自分であって自分ではなくなった自分たち。青年は先ほどまでコーヒーを飲んでいた黄昏ではない自分だ。自分は彼と別れ、また黄昏として二人の様子を見つめながら、安堵する。
    「今日はこれで終わりだ。明日、新たな任務が回ってくる」
    「分かりました。部屋に呼べますか?」
     管理官がデスクの右側に置かれたキーボードを叩き、パソコンの画面を確認し、黄昏を見る。
    「ああ、今日は居るな。内線を入れておく」
     管理官の言葉に頷き、黄昏は立ち上がる。
    「平和のために」
    「平和のために(子供が泣かない世界のために)」
    「ちちー、ちちのこーひーにがい。アーニャもおとなになったら、ちちとおなじこーひーのめる?」
     アーニャの声に我に返った黄昏は、一瞬にして《黄昏》からロイド・フォージャーへと切り替わる。コーヒーの香りのせいで、やけに昔を思い出すと、ロイドは頭を振り、アーニャの言葉で少し前の事件を思い出した。アーニャは以前、ヨルがロイドへと入れたコーヒーを間違って飲んでしまい、子供の舌では認識できない味と苦さと刺激に即口を開け零してしまったのだ。
     普段、細かいことですぐ怒るちちが、この時は、はは以上に慌ててポンコツとなり、二人を驚かせたのだった。また物思いに耽るロイドの心を読んでいたアーニャは、ちちの飲むコーヒーに深い過去があり、いつも飲んでいても、毎日特別な飲み物なんだと知り、アーニャ自身も早くちちの特別を飲めるようになりたいと思ったのだ。
    「ああ、これが美味しいと思えるようになればな」
    「アーニャまえにちちのだいじなこーひーのんじゃって、おいしくなくてこぼしたのおこってる?」
     ちちにとって特別な飲み物をこぼしたこと、特別なのだと知った今なら聞いてもいいんじゃないかと口にする。
    「怒ってないぞ。俺も子供の時に飲んで同じことをやったから、驚いたんだ」
     特別という言葉に驚き、確かに特別な飲み物ではあるがそんなことは一度も言ったことはないというのに、アーニャの、子供の洞察力に驚きながらも、新しい豆のその香りのせいで、やけに感傷的になっていると思いつつ、アーニャの髪をなでる黄昏の表情は、父が子に見せる優しさそのものだった。仮初めの家族であっても、その表情に偽りはない。
     その表情は、アーニャの中に流れ込んできたちちの思い出の中の、ちちと同じ顔をした青年が泣いている子供に見せていた表情だった。ちちが見つめていた、ちちと同じ顔をした別の人だと思っていた青年は、ちちだったのだ。流れ込む記憶では分からながったが、あれはアーニャも知らないちちですら忘れた名前のちちなのだと、確信する。今は聞けなくても、もしかしたら、いつか聞けるかもしれない。でも今は聞いてはいけない気がするから、コーヒーのことを聞く。
    「ちちはぶらっく。なんで? おしえて」
    「いつかな……」
    「ええー私も聞きたいです」
     洗い物を済ませたヨルが戻ってきて、ロイドの隣に腰を下ろしにぎやかになる。もう、物思いにふける黄昏はおらず、いつものロイドがそこにいた。

     誰もがそのいつかは来ないことを知っている。黄昏もアーニャもそしてヨルも、それを知っていながら、こうやって家族でテーブルを囲みコーヒーを飲んで談笑する今の生活が続くことを望んでやまないのだ。


    〈完〉
    未定/未定 Link Message Mute
    2022/07/23 19:23:18

    Kaffee 1

    ##スパイファミリー #スパイファミリー #SPYFAMILY #フォージャー家 #WEB再録
    こちらはSPY×FAMILYのフォージャー家でロイドがコーヒーを飲んでいるだけの話で、
    37話時点で判明している部分以外は、すべて書いている人の捏造です。
    2020年12月に書いたものなので、スパファミの連載が始まって1年9か月の時点なため、過去について等、現在原作で明らかになるずっと前のことなので、色々と相違がありますがその点を考慮にいれ読んでください。

    more...
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    • C100サンプル/この素晴らしき世界What a Wonderful World as Shitty #スパイファミリー  #C100 #コミックマーケット100  #サンプル  #クロスオーバー #ブラックジャック
      C100 13日(土) 東6ホール「カ13b」未定
      SPY×FAMILYでスペースいただきました。
      ///////////////////////////////////////////////////////////
      この話は、SPY×FAMILYの〈黄昏〉と、ブラック・ジャックのブラック・ジャックとDr.キリコ(ふたりの黒い医師:通称ふた黒)のクロスオーバー小説です。
       SPY×FAMILYの世界にブラック・ジャックやDr.キリコもいる設定です。
       SPY×FAMILYの作品時間より五〜一〇年後で〈オペレーション・梟〉は遂行中のためフォージャー家も継続中
       ブラック・ジャックの作品時間では一九七五年〜一九八〇年頃に相当し、ブラック・ジャックは二九〜三四歳(無免許医になったのが二六歳)。ブラック・ジャックと名乗っている時間にずらしています。(ふた黒の設定はブラック・ジャックの方の年表から有り得そうな歳で作っていますが、SPY×FAMILYの時間軸にいるます)
       ■■■少年が巻き込まれた西国と東国の戦争と少し重なって、東南のとある国を二分した泥沼の戦争が終結しています。
       西側陣営・東側陣営があります
       某合衆国のような国もあり、西側陣営で影響力は強いです。
       ふた黒は極東の島国に住んでいます。
       Dr.キリコに関しては、ヤングブラック・ジャックとDr.キリコ〜白い死神〜の設定も入っています。
      年齢:Dr.キリコ>>〈黄昏〉>ブラック・ジャック
      コミケ後、通販予定です。
      https://undecideddown.booth.pm/items/3991490
      未定/未定
    • Under pressure (Kaffee 2) ##スパイファミリー #スパイファミリー #フォージャー家 #SPYFAMILY #WEB再録
      2021年3月20日開催のおぺれーしょん:ぴーなっつMISSION:01で頒布した記念アンソロジー「OSTANIA or WESTALIS,Home is Best...?」に寄稿した小説です。
      完売したため、公開(再再販の予定はありません)

      黄昏にまつわるコーヒーの話「Kaffee」(コピー本)の番外編のイメージで書いたもの
      この頃は黄昏とコーヒーの話ばっかり書いてました
      未定/未定
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