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    U凛まとめ1その口で、あなたの名前を愛を囁く言葉チェリー・アンド・ボーイ目は口ほどに花火をみにいく約束をムードって知ってる?伽藍堂に響くはIrisねじれた星座Lachryphagy悪趣味来年もスキだらけ夕立太陽の君このお別れに意味があるなら箱庭ここからもう一度Pity’s akin to Love幸福の食卓その口で、あなたの名前を
    「そういえばお前は、───と高校が同じだったな」
     知らない名前だった。
     宇佐美がふと思い出したというように口にした、ひとの名前とおぼしき音のならび。
     木崎は記憶の槽をひっくり返して浚ってみるが、やはりそんな名前は知らない。
     おそるおそる口をひらく。
    「……失礼ですが、どなたのことでしょう」
    「息子だ。私の」
     知らなかったか?、と宇佐美はさして興味もなさそうに言う。そして数字でも読みあげるような調子でしゃべりはじめた。
    「あの頃はまだ時折メールでやりとりをしていたのだったか。入学試験で主席に選ばれて式辞を読んだだとか、風紀委員として風紀を乱すものを取り締まっているだとか……。あれから送られてくるものなんて大抵、そんなおもしろくもない話題ばかりだったがね」
    「式辞……風紀委員……?」
     脳裡に月のない夜の髪をした、少年の姿がよぎる。長い前髪にさえぎられた、つまらなげで、時折ひどく悲しそうな色をみせる瞳。案外、子供っぽい罵倒をしてくること。
     あ、と木崎は口をあけた。声は出さなかったけれど。

    『所詮、夢は夢だ』
    『……だから、これからも……頑張れよ』
    『おまえの名前がいろんなところに載る日がきたときに……』

    「──、……」
     声には出さす、舌の上でその名前をころがしてみる。やっぱり、知らない味がした。
    (そっか。そんな名前だったんだな、おまえ)
     いけ好かない奴だったはずなのに、いつしか木崎の夢を認め、応援してくれた。また会えるか、という問いかけに、おまえ次第だと挑発的な笑みを浮かべていた。互い以外、だれもいない、橙に浸された教室で。
    (……おまえの口から聞きたかったな)
     もう、そんな日は二度とこない。自身の夢を持たず、ひとの夢に依存して生きることを決めた自分を、見られたくはなかった。そもそも、高校という狭い世界で一時交差しただけのかかわりだ。むこうはとっくに忘れていることだろう。聞けば彼は宇佐美の家を出たという。ますます再会の可能性はない。それでいい。いいんだ。
     ああ、でも。ほんのすこしだけ。夜明け前にみる夢のように、醒めれば消える程度の願いなら。ありえたかもしれない現在を想像するくらいは、許されるだろうか。
    (教えてくれるか。優等生クン)
    愛を囁く言葉
    「今夜俺の家に来ないか?」
     昼刻の、にぎやかな食堂でいきなりそんなことを言われたものだから、木崎は口の中の白米をおもいきり喉に詰まらせた。
    「んっぐ、ごほっ! うえ゛っほ、げほっ!」
    「おい、大丈夫か木崎」
     元凶のUJがもっともらしい顔をして向かいの席に座り、水の入ったコップを差し出す。ひったくるように受け取り、一息に飲み干して息を整えて、木崎は恨めしげにUJを睨んだ。
    「おっ…まえなぁ! ここどこだと思ってんだよ」
    「配慮はしてるだろう?」
     UJは涼しい顔でそう宣う。UJの最初の台詞から、二人が話しているのはフランス語である。共にフランスに留学していたため、会話程度なら不自由はなかった。内容を周囲に悟られることもない。いまも、二人を気に留める者はいなかった。が、木崎はぽこぽこと頭から湯気を出しそうな勢いで、しかし周りの注目を避けるように小声で食ってかかる。
    「オレが言いたいのはそういうことじゃなくてだなぁ……!」
     夜、俺の家に来るか、という誘いが意味するのはひとつである。その意味を取り違えるほど木崎は鈍感ではなかったし、二人の関係はその意味を成立させるものだった。
     木崎はぐむ、と口のなかで唸り、恥ずかしさやら憤りやらちょっぴりの期待やらで表情をくるくる変えた。UJは木崎の百面相を楽しげに眺める。実際、UJはこうして木崎をからかい遊ぶのが割と好きだった。
    「それで、返事は? Mon petit chiot?」
     男の木崎の目からみても文句なしに整った美貌。蕩けるような声。それらを一身に向けられて木崎の体温はぐんぐん上昇する。最後には林檎の如く顔を真っ赤にさせ、ぽそっと言った。
    「仕事……手伝ってくれるなら、行ってやっても、いい」
     UJはにこりと微笑み、日本語に切り替えて言った。
    「了解。……そら、午後は星夜くんたちのレッスンがあったろう。早く食べないと間に合わないぞ」
    「う、うるせぇ! おまえが変なこと言うからだろ……」
     ぶつくさ言いながらやけくそのようにご飯をかき込む木崎と、にやにやと見守るUJ。そんな二人の頭上から溜息が降ってきた。
    「あなた達ねぇ……そういう話はここでは慎みなさい? ピュアなボーイも多いんだから」
     木崎は本日二度目の喉を詰まらせ、さすがのUJもぎょっと振り返った。同僚の速水剛が空のトレイを持って呆れた顔をしている。
    「ごっ、剛姐!? い、いいいまの聞いて……」
    「……フランス語、分かるの?」
    「分からないわよ。でもあーんな桃色の空気ダダ漏れさせちゃ、察しちゃうじゃない。そ、れ、に、私の受け持つ子達を忘れちゃった?」
    「うっ」
     木崎とUJは同時に言葉に詰まる。彼女の担当アイドルI❤︎Bはインターナショナルバンド。そのメンバーの一人、リュカの母国はフランスである。
    「今日は彼がいなかったからまだ良かったけど。分かったら今度からはおやめなさいね」
    「はい……」
     UJもさすがにうなだれて反省の姿勢だ。木崎は何故自分まで怒られたのかまだすこし納得がいかない顔だったが、時間のことを思い出したらしく、はっと立ち上がった。
    「やっべ、オレもう行かないと。剛姐、ほんっっっとUJがすみませんでした! こいつにはあとでキツく言っときますんで! じゃ、失礼しまっす!」
     バタバタと走り去っていく木崎が視界から消えるまで見送ってから、速水はUJにそっと囁きかけた。
    「ほんと、気をつけなさい? りんりんの可愛いお顔、他の人に見せてもいいのかしら?」
    「……忠告感謝するよ、剛さん」
     それは確かに許容しがたいな。
     翠の目にちろりと炎を宿し、誘いをかける場所には気をつけることを誓ったUJであった。
    チェリー・アンド・ボーイ
    「差し入れにさくらんぼを持ってきたぜ。みんなで食べないか?」
     荒屋敷の提案で、職員室は休憩時間となった。その場にいたのは荒屋敷以外に、木崎、如月、速水、鬼丸。それ以外のマネージャーやプロデューサーといった面々は出払っていた。彼らの分は冷蔵庫にしまい、残りのさくらんぼを水で洗って皿に盛る。
    「ん〜甘くて美味しい〜!」
    「さくらんぼはいまが旬だものねえ。色艶も良くてキレイ〜、まるで宝石ね」
     早速口に放りこんで至福の表情を浮かべる木崎と、よく熟れた実をうっとりと眺める速水。
    「ははっ、喜んでもらえて良かったぜ。たまには砂糖じゃなくてこういう自然な甘さもいいだろう?」
    「ナイスな回復アイテムだわ。サンキュw」
    「みんな、軸と種はこっちの皿入れろよ」
     仕事中のはりつめた空気がゆるみ、場は和やかな笑い声に満たされる。だからだろう、こんな軽口も飛びだす。
    「さくらんぼといえば、軸を口の中で結べるひとはキスが上手っていうわよね。ウフフ、みんなはどうかしらぁ?」
     速水が口にしたのは飲みの席などで定番の俗説だった。プロデューサーがいるまえでは滅多なことではできない話題でもある。
    「へえ。そうなんですか?」
     知らなかったらしい木崎は、早速軸を口に入れるともごもごと動かした。キスが巧いことの証明ではなく、単純な好奇心からだろう。しばらく難しい顔で格闘していたが、諦めたように舌を出す。
    「うぇ、無理だぁ。難しくないですか? できる人いるんですかねこれ」
     悔しそうな顔をしながら新しい実をまたひとつ手にとって口に放る。そしてぽつりと。
    「あー、でもUJなら絶対できるだろうなぁ」
     たぶん。おそらく。きっと。うっかりしていたのだろう。さくらんぼの蜜で舌の滑りが良くなっていたのかもしれない。周りがそう察して微妙な笑いを浮かべるなか、果敢に突っ込むものがいた。速水である。
    「あらぁ? りんりん、随分確信に満ちてるじゃない? もしかして……何か知ってるのかしら?」
    「…………へ?」
     ごっくん。木崎が口の中のさくらんぼを種ごと飲みこむ。一拍おいて、実の色がうつったように頬が染まりはじめた。
    「あっ、あっ、あのっ、オ、オオオレ、……きゅ、急用を思い出したので! 失礼しまっす!」
     スチール椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、騒々しく机にぶつかりながら木崎は全速力で職員室から遁走した。
     のこされた四名は、各々に木崎の心境を慮り微苦笑を浮かべる。
    「……自爆乙ww」
    「コラましろ。それ絶対本人に言っちゃダメだからな。帰ってきても普通に接してやれよ」
    「へいへい。……ま、さすがにいまのは気の毒だわ」
    「剛、ちょっと意地が悪すぎたんじゃないか?」
    「そうねぇ、さすがに悪いことしちゃったわ……剛ちゃん反省♡」

     木崎はその後なんでもない風を装った荒屋敷に迎えに行かれ、職員室に連れ戻された。さらに後日、UJ達にさくらんぼが振る舞われたときには木崎の言葉が実証されてしまい、事情を知るものが再び変な笑いを浮かべる羽目になったことは、また別の話だ。
    目は口ほどに
     UJは、自身の容貌について過不足なく理解していた。自分は一般論として「美形」に分類される人間であると。その自意識の基盤となったのは腐れ縁の男によるところが大きいのだが、それはさておき。UJは美男であるがゆえに、他者からの視線には人一倍敏感であった。

    (見られているな)
     ちくちくと刺すような嫌な感覚ではなく、どちらかといえば陽光にあてられているような爽やかでしかし熱烈な視線だった。これが街中であれば、いつもの女性からの秋波と受け流すこともできたが、ここは職場である学園、しかも職員室である。ここで働く人間はアイドル育成に携わっていることもあり、良くも悪くも美形に慣れ切っている。UJをまえにしていまさら目を奪われるようなものはいない、はずであるが。
     UJはデスクトップパソコンから視線をあげ、そっと職員室を見まわした。騒がしくない程度に交わされる会話、せわしい足音、キーボードを叩く音。みな真面目に仕事をしている。ように見える。
     と、ひとり、席から立ちあがって職員室を出ていこうとする者がいる。赤銅色のすこし癖のある短髪に目を惹くオレンジのメッシュ。木崎だ。腐れ縁で、同僚で、……いまはもうすこし個人的な仲でもある。
     手洗い休憩だろうと誰の気にも留まらず職員室を出ていった木崎を視界の端で見送って、UJは脳内で数を数えはじめた。ゆっくり三十まで数えてから、UJも立ちあがる。そしてなんでもないふうに職員室を出た。

     職員用トイレは職員室から徒歩三十秒。用を済ませ、手を洗ってトイレから出てくるタイミングは……
     歩幅をはかりながら、職員用と札のかかったドアを押し開ける。すぐ目の前に木崎がいた。木崎は突如立ちはだかった壁の正体をみとめてぎょっと肩を跳ねさせる。
    「え、ゆ、UJ? ……んッ!?」
     名前を呼ばれたのとほぼ同時に、左手を顎に添えてかるく上向けた。声をあげる暇は与えず、唇を被せる。木崎の目がこぼれそうなほどに見開かれる。出合い頭の不意打ちに木崎は思考も体も停止したようだった。抵抗されないのをいいことに、UJはさして柔らかくもない木崎の唇の感触を味わう。
     被せるだけのくちづけは、五秒にも満たなかったろう。だが見下ろす木崎はうっすらと頬を色づかせ、呆然と口を半開きにしている。なにか言いたげに口がぱくぱくと動く。金魚みたいだな、と場違いなことを考えながらUJは一応確かめる。
    「違った?」
    「…………合ってる、けど」
     そんな見てた?、と木崎はきまり悪そうにごにょごにょと呟く。UJは笑いだしたくなるのをこらえて穴が開くかと思った、とだけ答えた。ぐう、と変な唸り声をあげて挙動不審になる木崎は見てて飽きないが、そろそろ限界だろう。
    「はやく戻れよ。遅いと勘繰られるだろ」
    「う、分かってるよっ!」
     踵をかえしかけた木崎の背にUJは声をかける。
    「木崎」
    「なに、はやく戻れって言っといて……」
    「続きはまたあとでな」
     木崎はふたたび体を硬直させると、ぶわりとさきほどの比ではない血の色を顔にのぼらせた。
    「ばっ、馬鹿! バーカバーカ!」
     小学生レベルの悪態をついて木崎は今度こそ走り去った。逃げだした、と言ったほうが正しいかもしれない。怒った、というより羞恥が限界値を突破したものと思われた。UJはくすくす笑う。
     さて、こっちは悠々と戻ることにしようか。


     職員室をはるかに行き過ぎた人気のない廊下で、木崎は壁に背を預けてずるずるとしゃがみこんだ。
    「こんな顔で戻れるかよ……」
     うずくまるように顔を伏せた木崎の、赤銅色の髪からのぞく真っ赤な耳を見るものはいなかった。
    花火をみにいく約束を
     F∞FとAlchemistの合同出演イベントの打ち合わせを終え、木崎とUJは夜道を並んで歩いていた。
    「あ゛っつぅ~……」
    「木崎、そんな腑抜けた声を出さないでくれないか。こっちまで暑くなる」
    「おまえ、夏の気温をオレの所為にすんなよ。ひとりだけ涼しい顔しやがって」
     これだからイケメン様は~、と木崎がぼやく。
     夏本番も間近、陽が落ちても気温はさがらず、ただ歩いているだけで汗がにじむ。UJは背に張りつくシャツの不快な感触を顔に出さないように、木崎に対していつものように小言をこぼす。
    「要は気の持ちようだ。涼しそうにしてれば周りも暑苦しくは感じないだろ」
    「あ、UJ、あれみろよ」
    「話を……」
     聞け、と言うのも聞かず、木崎が指さしたのは電柱だった。正確には、そこに貼られた広告。
    「納涼大会?」
     隣地区の名を冠されたそれは、所謂夏祭りの開催を知らせるチラシだった。イベント名と日時と場所、花火のイラストだけの簡素な広告。日付は今日のものだ。
    「屋台出てるかも。行ってみようぜ、UJ」
     目を輝かせていまにも走りだしそうな木崎の襟首をつかんで引き留める。蛙が潰れるような声が聞こえたが気にしない。
    「駄目だ。開催場所、よくみたか? この距離だと家にたどりつくのが深夜まわるだろ」
    「む……」
     チラシをみかえし、木崎は黙る。きっといそがしく頭をはたらかせているのだろう。UJは木崎が現実を理解するのを待ってやる。
    「こう…遠くから空気だけ感じるくらいなら…ダメ?」
    「……はぁ。おまえのそのどこから湧いてでるのか分からない祭りへの情熱には感心するよ」
    「なにが言いたいのか分からないけど馬鹿にされてることは分かった。ふん、もういいよ、ひとりで行くから」
     拗ねた子供のようにべえ、と舌を出して背を向けようとする木崎を再び捕まえる。首が締まって涙目になった木崎が振り返りUJを睨みつける。
    「なにすンだよ!」
     木崎の剣幕にもUJは澄ました顔で横に並んだ。
    「おまえをひとりにしておくと逆に厄介事が増えそうだからな。監視だ」
    「えぇー……?」
     不服そうな声をあげた木崎はしかしすぐににんまりと目を細めた。
    「なんだ、ついてきたいなら最初から言えよな」
    「なにを勘違いしてるか知らないが、おまえが他所に迷惑をかけないためだ。おまえは自分が面倒事発生装置なのを自覚したほうがいい」
    「はいはい。分かりましたっ」
     木崎はひらひらと掌を振って、鼻歌でも歌いだしそうな陽気で歩きだす。UJはちいさく溜息をついてそのあとを追った。

    * * *

     祭りは川向こうの隣地区でやっているようだった。帰路を逸れ、川沿いの道へはいると、どこからともなくお囃子の太鼓や笛の音が風に乗って耳に届くようになった。かすかに食欲をくすぐる焦げたソースの香りもただよう。浴衣姿の人影も増えてきた。
    「結構人が多いな。祭りは川の向こうじゃないのか」
    「さあ、なんでだろうな。あ、土手あがってみるか」
     川をみおろせる土手はさらにひとがひしめいていた。先へ先へと行こうとする木崎の後頭部を見失なわないように、UJが声をかけようとしたとき。
    「おい、木崎……」
    「あ」
     対岸から鈍い爆発音がして、空を切る高い音がつづく。そして、火薬の破裂音と、まばゆい色彩が目を焼いた。周囲からわっと歓声があがる。間をいれず、二発目、三発目と、空に大輪の花が咲き誇る。
     なるほど、このひとごみはこれが目当てかとUJは納得した。木崎はと振り向くと、まわりと同様にうすく口をひらいて空をみあげていた。花火がうちあがるたび、横顔をとりどりの光が照らす。瞳のなかで橙や緑の火花が爆ぜて踊っている。一瞬とはいえ視線を奪われて、UJは自分を疑った。木崎に見惚れるとか、まさかそんなわけが……
     自分を誤魔化すようにわざと強めに木崎の手を取って引いた。木崎がUJのほうを向くが、どこか反応が鈍い。目に陶然とした色がのこっている。
    「木崎、ちょっと移動しよう。ここはひとが多すぎる」
    「あ、うん」
     歩き出すが、やはり木崎の足取りはのろかった。上ばかりを気にして歩くので、何度も躓きかける。UJは仕方なく木崎の腕をつかんで転ばないよう目を配ることにした。やっぱり手のかかるやつだと嘆息する。俺がみていなければ、危なっかしくてしょうがない。
     ちらりとうしろの木崎をのぞきみる。進行方向から90度首を曲げてやはり空から目を離さない。おかげでUJはまだまともに花火をみられていない。なぜか木崎ばかりをみる羽目になっている。悪い気分でないのがまた複雑だ。横目で木崎の顔をうかがっていると、一際明るい光があたりを照らした。わ、と木崎が目を瞠る。
    「なあUJ、いまのっ」
    「っ」
     ばちり、と目が合った。心臓が跳ねた。鼓動の音が耳の奥でうるさいくらい鳴る。木崎にまで聞こえてしまうのではとUJは気が気でなかった。
    「UJ、いまのみたか? すごかったな!」
    「……みてなかった」
    「はぁ? なにもったいないことしてんだよ。綺麗だったのに」
     おまえの瞳のほうが綺麗だから。
     いまどきどんな伊達男でもつかわない口説き文句なんかが浮かんでしまい、UJは慌ててその台詞におおきくバツを引き脳の隅に蹴り飛ばした。恥ずかしさを憤りに変換して毒づく。
    「おまえが足元不注意だから俺がみてやっていたんだろう。逆に感謝してほしいくらいだ」
    「な、なにをー!? おまえはいつもそうやって……ん?」
     木崎が言葉の途中で不意に黙りこむ。視線がUJから外れ、どこか一点をみつめていたかと思うと、UJの手を振りきって駆けだした。
    「あっ、おい木崎っ!……なんだ急に!」
     UJはひとつ舌打ちをして木崎のあとを追う。子供かあいつは。でなければ犬だ。つかまえたら一度厳しく言ってやる必要があるな。そんなことを考えながら、ひとの波を掻き分けるようにしてどうにか進む。と、急に景色がひらけた。
     木崎が背後に女性をかばうようにして立ち、大柄なチンピラ風の男と対峙していた。チンピラは女性の片腕をつかんでいるが、女性は身をよじり明らかに嫌がっている。彼らを囲むひとびとは一メートルぐらいの距離をあけて成り行きを静観している。携帯端末を構えて撮影しているとおぼしき人間もいる。
    「このひとは、君の知り合い?」
    「ちがいますっ、急に手をつかまれてっ……」
    「ほら、彼女もこう言ってる。手を離すんだ」
    「うるせぇ! てめえ誰だよ! そこどきやがれ!」
    「どくのは君が先だ。これ以上彼女につきまとうなら警察を……」
     警察、という単語でチンピラはなにかの糸が切れたらしい。濁った目で木崎を睨むと、拳を振りかぶった。UJが飛びだす暇もなかった。ごつっ、と、拳が頬骨にあたる鈍い音がして、女性の甲高い悲鳴があがる。「誰か警察!」と叫ぶ声もあった。しかしUJの耳には入らなかった。
    「木崎!」
     女性の足元にうずくまった木崎に駆け寄る。「ぅ、ぐ、」顔をおさえている手からぱたぱたと液体がこぼれている。夜闇で黒々としたそれをみた瞬間、UJの血液はいっぺんに冷え切った。視界が狭まる。二人がかりで押さえこまれているチンピラを振り返る。
    「おまえ……」
     自分がどんな顔をしているか、考える余裕はなかった。チンピラに歩み寄る。UJの顔をみて、チンピラを押さえていた二人がぎょっと顔を強ばらせた。どうするかなんて決めてはいなかったが、UJは足を止めず、拳を握りこんだ。その手を、うしろからつつみこむ熱があった。
    「馬鹿。やめろUJ。オレなら大丈夫だから」
    「きざ、き」
     木崎は跪いた状態でUJの手を取り引き留めていた。両手でつつんだ握り拳を上から撫でて、ゆっくりと開かせる。鼻からだらだらと血が流れるままにしながら、歯をみせて笑う。祭りの警備員だろうか、複数の駆け寄ってくる足音がした。

    * * *

    「あー、ひとに殴られたの、ひさしぶりだな」
     木崎はしれっとそんなことを言った。祭りの空気を遠く離れ、UJの自宅付近にある公園まで、二人はやってきていた。UJはコンビニでクラッシュアイスを買ってビニール袋にいれてタオルでくるみ、即席の冷却材をつくってベンチに座った木崎に渡す。鼻血はすでに止まっていた。
     あのあと、木崎を殴ったチンピラは警察に連行された。被害者の木崎と、腕をつかまれた女性がどちらも大事になることを望まなかったため、厳重注意で済むだろうとのことだった。チンピラは当時酒に酔っていたらしい。だからといって、ひとを傷つけたことが許されるわけもないが、木崎はいま笑っている。UJにはそっちのが大事だった。
     UJはずっと、夢のなかを歩いている気分だった。救護所でかるい手当てを受けたあと、どうやってここまでたどりついたか、よく思い出せない。木崎の手を引いて、とにかく安全で静かなところに行こうと考えていたような気はする。
    「痛てて……うー、沁みるぅ」
     木崎は殴られたことに対してはそこまで混乱も怒りもしていないようだった。それに、自分の触れることのできない過去の存在を垣間見るようで、UJは落ち着かない。ただみていただけの自分が動揺しているのも、いたたまれなかった。
    「花火、最後までみられなかったな」
     UJがぽつりとそう漏らす。木崎は無事なほうの頬だけあげて笑って言った。
    「ん? あぁ、そうだな。ま、仕方ないさ。あのこが無事だったことを喜ばなきゃ」
    「そう…だな」
     ふと木崎が真顔になる。うつむくと、立っているUJからは表情が分からなくなる。ビニール袋のなかの氷が溶けてがしゃりと音をたてた。
    「……ごめんな、UJ」
    「なん、だ、いきなり」
    「結局おまえに迷惑かけた。花火、もっと楽しみたかったよな。オレの所為で……ごめん」
     違う、違うんだ。おまえにそんなこと言わせたかったわけじゃなくて、むしろ謝らなくてはいけないのは助けに入ってやれなかった俺のほうで。なのに、どうしても喉に言葉が張りついて出てこない。
    「また、行けばいいだろ」
     代わりにこぼれたのはぶっきらぼうな台詞。
    「夏祭りくらい、これからいくらでもある。次は、ちゃんと最後までみれば、それでいい」
     木崎はUJの顔をみあげ、へへ、と子供のように笑った。その直後には痛っ、と顔をしかめたが。
    「分かった。花火大会、探しとくよ。予定空けとけよ」
    「……ああ」
     約束だ。もう二度とこんなことは起こさせないという、自分への。あんな思いはごめんだった。血が一瞬で凍りついたような。唐突に暗い大海に放りだされたような恐怖は、もう。
     UJは木崎に気づかれないように拳を固めるのだった。
    ムードって知ってる?
    「ひっ、ぃ、ぁ……っ」
     腕に爪が食いこむ。服の布地越しとはいえ、わずかな痛みがはしる。
    「あ、あ、やぁ……そんなとこ……だめ、だめだってば……!」
     木崎の目にはうっすら涙の膜が張っている。照明を落とした部屋のなかで、薄青いかすかな光が瞳に映る。苦しげに眉を寄せて、でも決して瞼を閉じはしない。
    「痛っ、痛い、あ、うぁ、あ、あー、もうムリ……っ、も、だめ……」
     木崎の声が上擦る。UJもそろそろ我慢の限界だった。

    「木崎。ホラー映画見るときに変に喘ぐのやめてくれ。気が散る」

    「は、はぁ!!? 喘いでないですけど!?」
     途端に顔を真っ赤にして言い返してくる木崎にUJは深々と溜息を吐いた。
    「うるさい。だいたいホラー苦手なくせになんでこんなの持ってきたんだ馬鹿」
    「馬鹿って言うな! パッケージに騙されたんだよ!」
     木崎がレンタルビデオショップで借りてきたDVD。パッケージでは男女の恋人が仲睦まじく腕を組んでいる。たしかにタイトルからもホラー要素は感じとれないが、再生してみればなんとびっくり。遊興にやってきたカップルが次々に起こる怪奇現象に翻弄されまくる、真綿で首を締めるような緊迫感迫る恐怖映画だった。途中、これ怖いやつじゃないか、とそれとなく水を向けても引くに引けなくなった木崎が意地を張ったせいで鑑賞は続行、冒頭に至る。
     恐怖と羞恥で顔を蒼くしたり赤くしたりといそがしい木崎に、UJは言う。
    「映画で雰囲気づくりでもしようと思ったのか? 考えることがベタすぎてばればれなんだよ。……もう充分だろ」
     UJはリモコンを操作してテレビの電源を消して、ソファから立ち上がった。木崎は戸惑ったようにUJを見上げた。
    「最初からその気で来たんだろ。ベッド行くぞ」
     木崎はぶわりと頬に血を昇らせて、しどろもどろに言う。
    「おまっ……オレがせっかく……」
    「ホラーでそのせっかくもぶち壊しだがな」
    「くっ……!あーもう!」
     やけくそのように乱暴に立ち上がって、木崎はUJを追い抜いて寝室へ歩いていく。短い髪からのぞく耳やうなじまで赤く染まっているのを見てとって、UJはくつくつ笑うのだった。
    伽藍堂に響くは*高校時代

     期末考査前の図書室は、紙とペンが擦れる音と、ひとのかすかな息遣いに満ちている。そのなかで、UJは纏わりつく視線に溜息をついた。
    「……うるさい」
    「えぇ? オレなんも言ってないだろ」
    「視線がうっとうしい。邪魔だ。失せろ」
    「ひっでぇ」
     傷ついたーと言いながら席を立とうとはしない木崎に、UJは嫌々ノートから顔をあげた。向かいの席に座った木崎のまえにはノートも教科書もない。頬杖をついて、UJをただじっと見つめている。UJは小声で苛々と言う。
    「ここは図書室で、いまは考査前。つまり勉学の場だ。用もないおまえはただの邪魔者だ」
    「だからさ。こうしてみることがオレのベンキョーなんだって」
    「はあ? 訳が分からないな。それが一体なんの勉強になるっていうんだ」
    「演技の。ほら、演劇だといろんな人間を演じなきゃいけないだろ。どんなに自分とかけ離れた人間でも、役を与えられたならやりきらないと。そのためにはいろんな人間を観察して、特徴を捉えないとな」
     UJは呆気にとられ、ついで先程よりも大きく溜息をつく。
    「あー、いま馬鹿にしただろ」
    「馬鹿を馬鹿と思ってなにが悪い。そんなこと、いまやることか」
    「いまやらなきゃダメなのー。今度あたらしい劇をやるんだ。それで俺の役があんたにちょっと似てるんだよ」
    「……なに?」
     視線がかち合った。木崎の、夜明けの空の色彩を全部とじこめたような瞳がUJをひたと見据える。UJは寸瞬言葉を失う。そんなふうに見つめられたことはなかった。胸のなかまでつきとおすような眼力に怯む。だって俺はからっぽだ。父に、みとめられたくて、見てほしくて頑張ってきたのがいまのUJなのに、それに胸を張れない自分に気付く。

     見てほしい 見られたくない 俺を見て 見ないでくれ 見るな───

     UJがおもわず立ち上がろうとしたとき、
    「あんたやっぱり……カッコいーよな!」
    「………………は?」
     にかりと木崎が歯をみせる。
    「肌なんか女の子みたいに白いしさ、髪の毛も真っ黒でサラサラだし、あと目! すげーキレイだとおもう! 宝石みたいだ」
     ぐ、と机の向こうから体を乗り出してくるのでUJはそのぶんのけぞることになる。
    「おいやめろ。……はぁ、もういい。俺は場所を変える」
    「お? 勉強はおしまい?」
    「これ以上おまえとここにいたら他の迷惑だろう。どこか空き教室でも探す」
    「…………それってオレも一緒についてきていいってこと?」
    「好きにしろ」
     やった、と歓声をあげる木崎を無視し、UJは荷物をまとめて立ち上がる。木崎が慌てたようにばたばたと椅子を片付けそれを追った。


    「義理で聞いてやるが、おまえの今度の役ってどんなのなんだ」
    「ん? 超真面目でー、優等生でー、クールでー」
    「……それミスキャストじゃないのか」
    「なんだとー! 実はウチに熱いものを秘めたカッコイイ男なんだぞ!」
    「……は、なんだそれ」
     やっぱりこいつにはなにもみえてない。
     安堵か落胆か。UJが胸にひろがる感情に名前をつけることはなかった。
    Iris*高校時代

    「う〜飽きたぁ……」
    「おいバカザキ、おまえから頼んできたのに先に諦めるな」
     中間考査のためにUJに助けを乞うたはいいものの、木崎は早々に匙を投げかけていた。UJは自身の問題集を解きながら時折木崎のノートを覗き、徹底的にこき下ろしてはまめまめしく解法を教えてやるなど忙しく手と目を動かしている。
    「もうやらないならさっさと帰れ。まったく余計な手間を……」
    「うぅ、薄情者ぉ……」
    「あ?」
    「ごめん」
     テストまえの優等生クンは怖い。一番の人間はいつでも一番でいないといけないらしい。なーんかタイヘンそうだなぁ、と木崎は思う。あまり怒らせたくはないが、一旦切れてしまった集中力をつなぎなおすのは難しいし、だからと言って彼を置いて帰るのも嫌だ。
     UJは数学の難問で詰まっているようだった。白いまま埋まらない紙を、穴が開く勢いで凝視している。眼鏡と前髪に遮られて隠れがちだが、木崎はUJの瞳が好きだった。伏し目がちになった瞳を、烟るような睫毛が縁どっている。その奥の、写真かテレビでしかみたことのない宝石の色。たしか、エメラルド、だったか。言葉の響きすらもどこか高貴で、優等生クンにぴったりだ、と思う。
     そこで木崎はふと、理科教師が授業中にしていた雑談を思い出す。
    「なー、優等生クン、知ってる?」
    「なんだ」
    「目の中にあるコーサイってさ、ひとそれぞれで違う形してんだって」
    「……へぇ」
     UJがちらと顔をあげた。自分が知らないことを木崎が得意げに話すのが気にくわないのか、眉が寄っている。逆に木崎はUJの興味を引けたと喜色を隠さない。
    「そうそう。なぁ、オレのコーサイどんな形してる?」
    「ん……」
     UJがそんなに幅のない机の対面から身を乗り出してくる。かすかに青みを帯びた白目、そこに浮かんだエメラルドが急に距離感を失って文字通り木崎の目と鼻の先に迫る。木崎はなんだか突然心臓が痛くなった。オレ、今朝歯磨いたっけ? 慌てて唇を引き結び、負けじとUJの瞳を覗きかえす。
     透き通った緑。うすく水の膜が張り、光をはじいている。硬質なのに、触れれば揺らぎ零れ落ちそうな脆さをも内包する。じっと見ていると吸いこまれそうで、すこし、恐ろしい。だが目を逸らすのは惜しいような……
    「えー、コホン。なにを睨み合ってるのかな? もしかして喧嘩? 一触即発?」
    「!!」
     ふたりは揃ってはじかれたように顔をあげた。図書室の司書教諭が困った笑顔で立っていた。
    「ご、誤解です! 私たちは別にその……!」
    「うん、喧嘩じゃないならいいのよ。むしろふたりは仲が良いのね」
    「良くないです!」
    「分かったから図書室ではお静かに」
    あらぬ誤解と居づらい空気を生み出してしまったふたりはこのときばかりは息を合わせてそそくさと退散したのだった。


    「おまえの与太話のせいでとんだとばっちりだこっちは!」
    「話にのってきたのはあんたの方だろ!? 全然離れないしさー、なんだったんだよ一体」
    「そ、それはおまえが……」
    「オレのせいにすんじゃねー!」
     帰り道でも、やいのやいのと遣り合うふたり。だがくだらない口論のおかげで互いの目を綺麗だと思ったことを言わなくて済んだことに、そろって胸をなでおろしていることは、彼らだけの秘密である。
    ねじれた星座
    「それではUJの誕生を祝して、かんぱーいっ!」
     荒屋敷の音頭で、各々がジョッキやグラスを掲げた。全員で乾杯を唱和し、硝子同士のぶつかる高い音が響く。本日の主役たるUJは長方形の机の短辺、いわゆるお誕生日席に座り、主役にふさわしい笑顔を振りまいている。乾杯が済むと、さっそく速水や鬼丸がUJのまえにサラダやメインの肉料理を取り分けていく。UJが恐縮してみせると、今日は貴方が主役なんだから、ほらほらどんどん食えよ、と、楽しげな声がはじけた。
     木崎は、祝いの席には似つかわしくない仏頂面で、ジョッキのビールを喉の奥に流しこむ。炭酸が口内で弾け、苦味が舌先に広がる。
    「ほら、木崎と、泡沫も。サラダ、食うだろ?」
    「あ、純太くん、ありがとうございます」
    「……いただこう」
     荒屋敷がサラダボウルを持って木崎とその隣のアイルに笑いかける。数種の野菜を混ぜた色とりどりのサラダをふたりの小皿によそうと、荒屋敷は「厚、そっち足りてるか」と向かいの席へも声をかける。
     こういうとき、やっぱり純太くんって頼りになるなぁ。
     木崎はもそもそとシーザードレッシングのかかったレタスを咀嚼した。隣の、年齢不詳でまかり通っているアイルも草食動物じみた速度できゅうりを齧っている。にぎやかな酒席で、そこだけがぽっかり浮かぶように静かだった。
    「おまえが、中心にならないのは珍しいな」
    「…………へ? オレですか?」
     ちょうど如月が鬼丸になにかを言って怒らせ、どっと場が沸いたタイミングだったため、あやうく聞き逃すところだった。木崎は横を振り向き、目をしばたたく。白黒の頭。黒づくめの奇抜ないでたち。さすがに食事時は外されるマスクだが、それでもアイルの声は耳をそばだてないと聞こえない。
     アイルは輪切りのきゅうりをさくさく齧りながら、木崎のほうを見ずに言う。
    「あいつと……UJとおまえとは、付き合いが長いと聞いた」
    「ああ。とんだ腐れ縁ですよまったく」
    「祝わないのか?」
     木崎はそっとUJのほうへ視線を流す。UJはぺたぺたと胸板に触れてうっとりしている速水の応対に困っているようだった。荒屋敷がやんわり引き剥がそうと苦戦している。どうにもならなければ厚の出番になるだろう。その横では鬼丸が可愛らしく包装されたプレゼントを取り出して、UJに向かってなにやら熱く語っている。おそらく、中身は鬼丸おすすめの化粧品と推測できた。
    「……いまは、忙しいみたいですし」
     木崎は尊敬するアイルに話しかけられて嬉しいというふうに、話を続ける。
    「オレとUJって、そんな仲良く見えますか? あいつオレにばっか口悪いし、上から目線で、オレとしては腹立つことばっかりなんですけど」
    「……だが、UJは……おまえのことをよく見ている。おそらく、おまえが思っているより」
    「ええ? まさかぁ」
     冗談めかして笑ったが、アイルの黄昏色の瞳が存外真剣だったので、笑みを引っこめる。そもそも、アイルは冗談が得意なひとではなかった。
     アイルはひとつひとつ言葉を選びながら話す、独特の口調でやはり独り言のように言った。木崎はますますアイルへ身を寄せて耳を傾ける。
    「ひとの関係は……星座のような、ものだ。星と星は遠く離れていても、結びつき、物語を生む。おまえたちも、そう。……違ったか?」
     急に言葉を向けられて、木崎はアイルに悟られないよう息を詰める。
     驚いていた。木崎の冷たい本性は、いまもどこか遠いところからこちらを俯瞰している。この場にいる誰からも離れて。地上からは近く見えてその実気の遠くなるほど距離を隔てた星同士のよう。そんなねじれの位置にある関係をよもや星座といって強引に結びつけようとするとは。どんなに手を伸ばしても触れない距離。それをひとの想像力は容易く繋いでしまう。……本当にそんな簡単な話だったらよかったのに。
    「木崎」
    「……ッ、え」
     上機嫌に、甘く響く声。夢から醒めたように木崎は顔をあげる。UJが、机の端から左右対称の笑顔でもって木崎を見つめている。
    「おまえからはまだ祝ってもらってない気がするんだけど」
     こっちの動揺など知らないような──知られてはならないのだ──余裕たっぷりのUJにムッとして木崎は立ち上がり言い返す。
    「お祝いを強請るなんていーい性格だなUJ! 言っとくけど、おまえの誕生日なんてこれっぽちも興味ないしプレゼントも用意してないからな!」
    「おまえの誕生日は祝ってやっただろ」
    「いつも持ち歩いてるのど飴と缶コーヒー一本奢ってもらっただけじゃねぇか!」
    「はいはいそこまでよ~」
    「そうですよ、木崎さん、UJさん、喧嘩はいけません。ほら、こっちのお刺身、美味しいですよ?」
     速水とクリストファーの仲裁で一旦場は収まる。木崎は腹の虫がおさまらないというふうに席に着きなおし、口論の間沈黙を決めこんでいたアイルに囁きかけた。
    「ね、星座なんて、見間違いでしょ?」
    「……おまえは、そう思うんだな」
     そう、ぼそりと言うと、アイルは真っ赤なトマトジュースをぐいと飲んだ。現実離れした風貌のアイルがやると、宴会中のヴァンパイアかなにかに見える。その後、会が終了するまでアイルが口を利くことはなかった。


     宴もたけなわ、というところで無事会はお開きになり、木崎たちはそろって店を出た。
     木崎も存分に楽しんで見えるように飲み食いしたが、頭にさっきのアイルとの会話が残響していた。ねじれの位置をつなぐ星座線。そんな話を聞けば、期待してしまう。もうすぐ燃え尽きるであろう星でも、届く声があるんじゃないかと。
    「……おめでとう」
     UJは振り向かなかった。おぼつかない足元をクリストファーに心配されている。たいして強くないくせに場の空気にのせられて飲むからだ。
     届かなかったことに、安心したのか失望したのかは、木崎にも分からなかった。
    Lachryphagy
     夢を見ているのだとすぐに分かった。それまでもこれは夢だとすぐ分かるような経験をしていたから。

     天穹は天鵞絨に砂屑をぶちまけたように豪勢な星空で、大地はどこまで目を凝らしても足首まで覆う丈の草原が広がっているのだった。UJは空を見渡し、北斗七星を探そうとして、すぐ止めた。夢のなかで方位が分かったところでなんだというのだ。あらためてぐるりと首をめぐらす。遠く、椀を伏せたようななだらかな丘、というよりは起伏が見えた。それより高いものはこの景色のなかにはないようだった。とりあえず、UJはそこへ向かって足を踏み出す。

     夢のなかならなんでもありだ。一歩ごとに景色が飛ぶようにうしろへ過ぎ去り、起伏のふもとへは三歩で着いた。それは案外大きく、傾斜はゆるやかなのに頂上が見えない。星に触れそうなその天辺はほのかに明るいのだった。他に目指す場所もない。UJはその傾斜に足をかけた。
     今度は夢のなかだというのに現実的な苦しみがUJを襲う。どれだけ歩いても頂上に着かない。汗が額をすべりおち、息があがる。でも諦めるわけにはいかなかった。なぜかは、分からないけれど。諦めたくなかった。
     歯を食いしばりあと一歩、あと一歩と足を進めるUJの視界が、急に開けた。頂上。

     頂上は、真昼のように明るかった。頭上の星がかすむくらい。その原因は、白く発光しながら飛ぶおびただしい数の蝶だ。どういう成分の鱗粉なのか知らないが、星明りを受けてそれをしのぐほどに輝いている。音もなく翅がはためくたび、ちらちらと光る粉が舞った。うつくしい光景なのかもしれないが、UJはむしろひやりとした怖気すら感じた。それは、視界の中心に現れた、ひとつの影のせいかもしれない。
     UJほどではないにせよ、均整のとれたしなやかに伸びた手足。細身で、肉づきの薄い身体。こちらに背を向けた後頭部は赤銅色でわずかに癖のある短髪。よく見知った立ち姿。───木崎。
     木崎は虫が苦手なんだ。あんなのに大量にまとわりつかれたら絶対大騒ぎする。子供みたいに、泣き喚いて、すがりついてくるに違いない。助けて、やらないと。
     でも、そうはならなかった。
     木崎が顔を仰向ける。蝶の群れに向けて差しだしたようにも見えた。なにかに導かれるように、まっすぐ、蝶たちが舞い降りてくる。蝶たちは、あっというまに木崎の顔を覆いつくす。……いや、その大半は顔の上部に、両眼に、群がっているのだった。

     木崎。

     声を出そうとして、出せなかった。どころか、手も足も、まばたきひとつ思い通りにならない。思考だけが高速で、視覚から入る情報を無情に処理していく。
     木崎、木崎、きざき。泣いてるんじゃないか。刷毛の毛ほどの蝶の足が顔面を這うのは気持ち悪くないか。鱗粉に肌が傷ついているんじゃないか。なんで振り払わないんだ。なんで、……「たすけて」と言ってくれないんだ。一言、言ってくれたなら、俺は。
     その心の声が聞こえたわけではなかったろうが、木崎が振り向いた。UJは息を呑む。
     頬が濡れて、蝶たちの光をかすかにはじいている。やっぱり、泣いてるじゃないか。またひとつ、涙の粒がころがりおちて、それを追いかけるように蝶がはたりと頬にとりついた。ナトリウムを含む水分をとりこむため。蝶たちは足りない塩分をそうやって補うのだと、なにかで読んだ。

     やめろ。離れろ。それは、その涙は。

     舌は干上がってしまったようだった。ずぶり、と前触れなく膝が沈む。足元が底なしの泥に変わってしまったかのよう。沈む。木崎の姿が遠のく。唇が弧を描く。最後に視認できたのはそんな景色。
     そして、暗転する。



     汗ばんだ身体にまとわりつくシーツを押しのける。最悪の目覚めだった。眠気は潮のように引いて、代わりに動悸と酷い自己嫌悪が押し寄せる。
     UJは両の掌で顔を覆い、嗚咽とも苦悶ともつかない呻き声を漏らす。
     傷つけたのも失ったのも、全部俺の思い上がりのせい。一番長く、一番近くにいながら、結局のところあいつのことなんてなにも分かってなかった。手を伸ばしたこともないくせに、その姿が消えてはじめて、なぜ言ってくれなかった、だなんて。笑えるほどの、傲慢。

     ……でもいまはその傲慢さをなんと言われてもいい。次、なんて甘い言葉もつかってやる。
     だから、次会ったときは、そのときは。

     俺にその涙をぬぐわせてほしいんだ。
    悪趣味
     定期報告は車の中で行われる。宇佐美がおくりこんだスパイ、木崎凛太朗による妨害工作は概ね順調にエルドールの人間を揺さぶっているようだ。一通りの報告が終わったあと、木崎は一度口を噤んでから、ふたたび開いた。
    「社長、最後に、よろしいでしょうか」
    「どうした」
    「ひとつ、ご報告がございまして」
    「なんだ」
    「"エルドールの木崎凛太朗"はUJと……社長のご子息と交際することになりました」
     さすがの宇佐美もその時ばかりはすぐに二の句が継げなかった。結構本気で聞き間違えであってくれと願った。
    「ど……」
     どうしてそんなことに、と問おうとして、一度咳こんでしまう。思ったよりも衝撃は深い。仕切り直して、訊きなおす。
    「どうしてそんなことになったんだ」
    「成り行き……といいますか。向こうから告白されまして」
    「それで受け入れたのか」
    「はい」
     何故、と思わずにはいられなかった。彼らも子供ではない。交際、だなんて言葉を使っても、要は肉体関係を伴うものだろう。上下についてはこの際おいておくとしても、男同士の性行為だなんてストレートの木崎には荷が重すぎる。木崎にスパイとしてエルドールに妨害を、非人道的行為をはたらかせている宇佐美だが、そこまで体に負担をかける必要はない、と思った。しかもよりによって自分の息子と……真面目に受け止めようとすると頭痛がするので思考をそらす。
    「……仮にその関係を結ぶことでより疑われにくくなるとしてもだ、少々心身の負担が勝ちすぎるのではないかね。そこまでする必要があれにあるとは思えないが」
     木崎は淡々と用意していた台詞を読みあげる単調さで答えた。
    「社長がオレに与えた役は、もしオレが夢を追い続けていたらという、一種のifでしょう」
     肯定する。エルドールの社風や環境に馴染みそうな人間の背景として、木崎の過去は実にはまり役だと思った。だから利用した。木崎と自身の息子が高校の同期というのはあとから知った事実だが、より木崎という人間の地を覆い隠す幸運な偶然と喜んだくらいだ。実際、今日まで彼は木崎を昔とまったく変わらないと無邪気に信じこんでいるらしい。
     木崎はふ、とからっぽな笑みを浮かべる。
    「もし……もしオレが夢を手放さず歳を重ね、自然にあいつに出会っていたら、と考えたんです。オレは、きっと、あいつを当然のように好きになったでしょう。だから役として不自然でないよう、告白を受け入れました」
    「……凛太朗、おまえ」
    「ご心配なく。社長の下に戻るとき、"エルドールの木崎凛太朗"は死ぬのですから。だから、問題ないでしょう?」
     自分が何を言っているか分かっているのだろうか。それは、その感情はきっと。たぶん、理解していない、または理解していてもそれを見て見ぬ振りをしているか。どちらにせよ、木崎が自身を破滅に追い込もうとしていることは確かだ。
     舞台の上の人間は死んでも、感情は死なない。"エルドールの木崎"が死んだとき、行き場をなくした感情は、すべて木崎に襲いかかるだろう。そのときが来たとき、彼が壊れずにいられるかは、宇佐美にも分からない。
     宇佐美は深々と溜息をつく代わりに、木崎に言葉をくれてやる。
    「おまえの趣味の悪さには今回目をつむるが……あまり入込むなよ。戻れなくなるぞ」
    「……はい。ご忠告いたみいります」
     木崎は慇懃に頭を下げる。
     さて、あいつは自分の愛で木崎を壊していることに気づくだろうか。
     宇佐美は子供に愛されぼろぼろになっていく人形を想起した。引きずって、抱きしめて、口にいれて、共寝して。おおきい子供だ。宇佐美は木崎には気づかれないように、昏く笑った。
    来年も
    「蕎麦茹であがったぞ」
    「おおー」
     UJがほあほあと湯気をたちのぼらせるお椀を炬燵の上に置く。下半身を炬燵布団のなかに飲みこまれて、つきたての餅のように脱力していた木崎は、むっくりと体を起こした。鰹出汁の香ばしいかおり、きつね色の衣を輝かせる海老天と紅白かまぼこがのっかった、それは見事な年越し蕎麦だ。
     フランスから日本に戻ってきて初めて迎える大晦日。仕事も納め、晴れやかな気持ちで木崎はそのままUJ宅に上がりこんだ。
    「いやぁ、年越し蕎麦とか何年ぶりだろうなぁ」
    「フランスでは蕎麦なんて滅多に食べられなかったしな」
     UJは木崎の対面に座り、炬燵布団に足を入れた。
    「いただきます」
     合唱して、箸を手に取る。木崎は出汁のきいたつゆを一口すすって、かおりの良さと温かさに頰が思わず弛む。つゆを吸った海老天の衣はふわふわで、中身の海老はぷりぷりといい歯ごたえだ。
    「ん〜、美味しい〜」
    「そうか。良かった」
     ふ、と笑うUJも、リラックスしているのかいつもより表情がやわらかい。
    「蕎麦は細くて長いことから、長寿を願う縁起担ぎの食べ物となっている。それから……」
     UJは言葉を切ると、意味ありげに唇を吊り上げた。
    「木崎、ちょっと端寄って」
    「え? な、なになになに」
     UJが蕎麦の椀を持って立ち上がり木崎の横に体を入れようとするので、ずりずりと木崎は端に追いやられる。長方形の机の長辺に大の男ふたり並んで座るのは、対面よりも当然狭く、肩がどうやってもすこし触れ合う。いまさらこんなことで、とも思うのだが、木崎はむずむずと炬燵のなかで膝を擦り合わせた。
    「せ、狭いだろ、離れろよ」
    「俺は別に?」
    「オレがなんかやなんだよ。いつもは暑苦しいとか言う癖に」
    「今日は寒いからな」
     炬燵のなかで、UJの脚が木崎のに絡む。ひやりとした足先が触れて、木崎は肩を揺らした。なにか言いたげに口をもにょもにょさせる木崎をよそに、UJはどこか愉しげにすら見える。
    「つまり、こういうことだ」
    「は? なにが?」
    「年越しに蕎麦を食べる意味」
     いつのまにか伸ばされていた腕が腰にまわされ、木崎はひえっ、と悲鳴をあげた。ぐ、と力を込めて引き寄せられ、肩にもたれかかる格好になる。耳元に口を寄せて、UJが囁く。
    「来年もおまえのそばにいたい」
     UJの声色は極上の調べにも例えられる。そんな声で愛を囁かれて、全身の血が瞬時に沸騰するような心地だった。木崎はようやくのことで蚊の鳴くような声を絞りだす。
    「恥っずかしい奴……」
    「でも、嫌いじゃないだろ、おまえ」
    「おまえのそういうとこは大嫌いだよ」
     べりりと体を引き剥がして、木崎は精一杯ふんぞりかえってみせる。
    「ま、まあ? おまえがそこまで言うんなら、付き合ってあげないこともないけど」
    そのうちそんなことも言ってられなくなるだろうし。本心は胸の奥の奥にしまいこんで。
    「意地っ張り」
    「う、うるさいな。ほら、蕎麦が伸びるまえに食べたいからいい加減離れろって」
    「断る」
    「おっ、おいこら馬鹿こぼれるこぼれる!」
     箸がからんころんと落ちて転がる。木崎は天井を見上げながら、このあと冷えて伸び切った蕎麦を食べる羽目になる運命を、粛々と受け入れることにした。
    スキだらけ
    「おまえオレのどこが好きなの」
     それは何度目かに情を重ねた夜のこと。木崎は事後のけだるい体を横たえながら訊いたのだ。恥ずかしがろうと変態と罵ろうとおかまいなしのUJに肚の中の精を掻き出され、汗やらなにやらをすみずみまで拭われ、交換された清潔なシーツに寝かされたあと。UJはそれらの後始末を消耗した様子もなく行うから、いつも木崎は後ろめたい思いに駆られる。無理を強いてるのはこちらだからとUJは気にしたふうもない。
     UJは生まれたままの肢体を惜しげもなく晒して木崎の問いかけにもわずかに首を傾げるのみだった。
    「どこ、と言われてもな。俺が好きなのは木崎だから、全部と言ってしまえばそれだけなんだが」
    ぎし、とスプリングを軋ませてUJはベッドに乗りあげた。木崎の隣にもぐりこんで、向かい合わせに抱きこむ。
    「その答えは反則。ちゃんと言って」
    「ん……そうだな、強いて挙げるなら、顔?」
    「はっ?」
     木崎は苦虫を噛み潰したような顔をする。街を歩けば十人中十人が振り向くようなイケメンに顔が好きと言われても、嫌味かとしか思わない。とりたてて醜いとも思わないが、自分の容姿が十人並なのを木崎は自覚している。
    「目が大きくて、視線が力強いところとか。全体的に見れば童顔で、それを自分で気にしてるのも可愛い」
    「はあ?」
    「意地っ張りで素直じゃないところも好きだな。そのくせ嘘が下手で隠し事ができないところも。あと……」
    「ま、まま待て!もういい!ストーップ!」
     UJは素直に言葉を止めた。このままだと本気で夜が明けるまでつらつらと好きなところを挙げ続けるんじゃないかと思った。UJがくすりと笑う。
    「だから言ったろう。俺はおまえの一部分だけ好きなわけじゃない。おまえの全部が好きなんだ」
    「もういい……分かったから黙って……」
     なんだか先ほどよりも疲れた気がして木崎は寝返りを打った。肩を越えて前にまわされた腕に手を添わせ、掌に自分のを重ね合わせる。指を絡ませて遊びながら、ぽつ、と言う。
    「……おまえは、訊かないの」
    「うん?」
    「オレがおまえのどこが好きなのか」
     一拍おいて、UJの熱が近くなる。パズルのパーツが正しく組み合うように体の凹凸が埋められる。落とされるささやきは甘く優しい。
    「訊かないよ。おまえがおとなしくこうしているのがなによりの答えだと思うから」
    「随分愛されてる自信があるようで」
    「おかげさまでな」
     UJの笑んだ吐息が首筋にかかって木崎は肩を震わせた。ぎゅっ、とUJの手を握り、目もかたくつむる。
    「もう寝る。おまえも早く寝ろよ」
    「ああ。おやすみ、木崎」
     背後の呼吸が深く一定になるのを待ち、木崎はもう一度瞼を押し開けた。
    「そうやって油断して、寝首を掻かれても知らないからな」
     唇からこぼれる言葉はシーツの上をてんと転がり、静かに夜の空気に溶けていった。
    夕立*高校時代

     屋上の手すりの向こうは青みがかった灰から濁った黒色までのグラデーションになった雲が積み重なっていた。傾いた太陽は覆い隠され、あたりは時刻の割に薄暗い。昼間熱された空気を不吉な風がかきまぜ、UJの長い前髪をばらばらに乱した。うっとうしげに髪を押さえ、眼鏡の位置を直して、UJは眇めた目で前方約三メートルの地点に立つ背中を見た。
    「あ・え・い・う・え・お・あ・お──……」
     重たく曇った空模様と裏腹に、軽やかで空の果てまで届きそうな声だ。UJの眉間にはしわが寄る。誰が聞いているとも知れない学校の屋上でこんな大声を出す無神経さも、思ったことがそのまま言葉に出てしまう衝動的な短絡さも、UJは持ち合わせていない。羨ましい、とは思わないが。自由と簡単に言い換えるには少々、彼に対して含むところが多すぎた。
    「おい、空が見えないのか。夕立ちがくるぞ」
    「……お、優等生クン。気づかなかった」
    「目を開けながら夢でも見てるらしいな。まあ、雨に降られたところで馬鹿は風邪も引かないだろうが」
    「ちょっ、ひでぇなぁ。夢ならいつも見てるけどさぁ」
     木崎は、ひどいひどいと言いながら笑っている。能天気な顔に腹が立った。わざわざ苛立つために足を運んだような格好に、自分自身嫌気がさす。UJはどす黒い感情をやっと飲み下して、踵を返しかけた。
    「屋上からおまえの声が響いてうるさいんだ。もう練習はやめてさっさと……」
     言い終えるまえに、黒雲がびかりと光った。それを合図にしたようにぽつと降り始めた雨は、瞬く間に大粒となり屋上に叩きつけた。UJは舌を打って校内へ駆け戻ろうと数歩踏み出し、ふと木崎を振り返った。
    「っ、おい木崎、なにしてる」
    「ぁ……う、」
     雨音はすでに騒々しいまでに響いている。木崎の口がなにか動くが、意味のある言葉は聞き取れない。UJがもう一度名前を呼ぼうとしたところで、がらがらと大量の岩が崩れるような雷鳴が空から轟いた。木崎ががばりと身を伏せたのが同時だった。
    「お、おい木崎っ」
     とっさに引き返してうずくまった木崎の腕を引っ張る。ぐ、と抵抗され、UJはまた舌打ちした。
    「おいっ、なにやってるんだ馬鹿、早くなかに、」
     空が光る。数秒おいて雷鳴が鳴る。さきほどよりも近い。木崎の全身に緊張がはしるのが見て分かって、UJは耳元に顔を寄せて音に負けないよう声を張り上げた。
    「木崎!おい、しっかり、──ッ!?」
     べしゃん、と水溜りに背中がついた。木崎に抱きつかれて押し倒されたと理解するまで数秒要した。密着した木崎の身体は濡れそぼっているのにやけに熱い。妙に荒い息遣いが首筋にかかった。
    「ごめ、ごめんなさ……」
     ようやく聞こえた木崎の声が硬直した思考に活をいれた。蝉のようにしがみついてくる木崎を力任せに剥がし、脇に両手を入れて入り口まで全速力で引きずり運んだ。一瞬の出来事のようだったが、二人揃って濡れ鼠になるには十分すぎる時間だった。壁を隔ててすこし遠くなった雨と雷の音を聞きながら、UJはぜえぜえと息を吐く。木崎も床に縮こまっていたが、恐慌状態は去ったのかさきほどまでより呼吸が落ち着いている。ズボンの裾から、髪から滴る滴でいくつも水溜りを作りながら、すこしおさまった呼吸の中で言う。
    「木崎、おまえ……」
    「優等生クン……ごめん、オレ……」
     湿った声音で逆に火がつくようだった。からりと太陽のような声しか、いままで知らなかったから。
    「っ……ああなるなら、最初から言え!自分でどうしようもないことなら助けを呼ぶことを覚えろ!この、バカザキ!」
    「う、えぇ……?」
     木崎は涙も引っ込んだというふうにぱちぱちとまばたく。その度水滴が流れて頰を伝った。俺が来なかったらどうするつもりだったのだ、とか、横断歩道の真ん中でもおなじ事をするのかとか、言いたい文句は山ほどあったが、喉が引き攣れてうまく言えなかった。身体中に、押しつけられた木崎の形の熱が残っているような気がして、落ち着かない。大きく息を吸って、絞り出すように言う。
    「……今度から気をつけろ」
    「う、ん。……優等生クン、ごめん。……ありがと」
     小さく感謝の言葉を述べた木崎の顔を、UJは見なかった。そのまえに、早足で階段を駆け下りていたからだ。雨で冷え切っているはずの身体の奥底は、なぜかかっかと熱い。風邪の前兆かもしれないと、UJは夕立を呪った。
    太陽の君
    「おっはようございまーす!」
     にぎやかな声が職員室に響き渡る。朗々と響く、場の光度を否が応でもあげる類の声だ。騒々しいと眉をひそめられることもあるが、今日はそんな同僚はお休みである。木崎はすでに出勤していた面々からの「はよー」「おう、おはよう木崎」という返事を清々しい気持ちで受け取った。
     自分の席に荷物を置いたところでふたつ隣の席から声がかかる。おなじアイチュウマネージャーの速水剛だ。速水はいつもの甘い声色で木崎に向かって言う。
    「りんりんー? ちょーっといいかしら」
    「? はい、剛姉、なんですか……っと、うわっ!?」
     その細腕のどこにそんな力があるのかという勢いで引っ張られ、木崎は素っ頓狂な声をあげる。よろけた木崎もなんなく支え、速水は「ちょっと付き合ってちょうだい」と語尾にハートマークすらついていそうな台詞と共に木崎を強引に職員室から連れ出したのだった。


     木崎が連れていかれた先は、普段生徒も教師もあまり使わない辺鄙なところにある紳士用トイレだった。なんでか電球の光も弱々しく、薄暗くてじめっとしている。木崎の苦手な雰囲気だ。
    「あ、あのー……剛姉? なんでこんなとこ……」
     おそるおそる、といったふうに速水をうかがうと、速水はさきほどのにこやかさはどこへやら、やや厳しい顔つきになって木崎を見つめた。
    「今日はUJお休みだったわよね」
    「へ? あ、ああ、そうですね」
    「それに、りんりん今日はいつもより来るの遅かったんじゃない?」
    「今朝はすこし寝坊しちゃって……、えと、それがなにか?」
     速水はんもう、と怒ったように唇をとがらせる。それから自分の首の付け根あたりをマニキュアの塗られた爪先でとんとん、と叩いてみせた。
    「貴方、いつもそんなとこ吸いつかせるの?」
    「へっ……」
     ばっ、と反射的に首に手をやった木崎は、なにかを回想するような間をおいて、茹でダコのように真っ赤になった。それだけで想像はつくというものである。速水はふぅっと溜息をつき、いつでも持ち歩いている化粧ポーチを取りだした。
    「そんなのつけてボーイズのまえに出ちゃダメよ。私のコンシーラー貸してあげる。今日一日くらいなら隠せるわ」
    「た、助かりマス……」
    「ほらうしろ向きなさい。自分で見えないんじゃやりにくいでしょ。剛ちゃんがやってあげる」
    「うう……」
     木崎は塩を振った菜のようにしおれて、速水の言う通り背を向けてネクタイをゆるめ、襟をくつろげた。首筋の赤黒く変色した痣があらわにされる。速水は指先に取ったクリームを鬱血痕を隠すように塗り広げながら、隠されたシャツの下にも思いを馳せた。
    「もしかして、背中はもっと?」
    「あー……たぶん」
     あいつ自分が休みだからって調子に乗ってたので……。もにょもにょと言いにくそうに木崎は答える。速水は嘆息してひとりごとのように呟いた。
    「見かけによらず執着強いタイプなのね、UJって」
    「執着、ですか?」
    「痕をつけるってそういうことじゃない? 自分のものだって目印をつけておきたくなるんでしょう」
    「自分のもの、……」
     鸚鵡返しにして木崎は黙りこむ。なにか悪いことを言っただろうかと、速水が顔を覗きこもうとすると、木崎はおもむろに口をひらいた。
    「そうですね。きっとこのオレは、UJのものだ」
    「あら。惚気? いいわよぉ、剛ちゃん聞いてあげちゃう」
    「そんなんじゃないですよ。どっちかっていうと愚痴です」
     木崎はふ、と笑みを含んだ吐息を漏らす。速水は太陽が雲に隠れたように、空気がすぅっと冷えるのを肌で感じた。木崎は、いつもと真逆の、抑制のきいた声音で淡々と話す。
    「あいつは、オレが馬鹿なまんまでいてほしいんです。子供っぽくて、馬鹿で、抜けてて、『俺がいてやらないと駄目なやつ』って。だからオレは、その通りのオレをあいつにあげることにしたんです」
     速水は寸瞬絶句した。それは、あまりにも。
    「……苦しくない?」
    「そう…ですね。そうかもしれない。でもいいんです。オレは結局受け入れることを選んだ。選んだからには責任はとらないと」
    「今日はずいぶん大人っぽいことを言うのね、りんりん」
    「ふっふっふ、見直しましたか」
     首の痣はほとんど目立たなくなった。はい完成、と速水は満足げに告げる。ありがとう、と振り向いた木崎に、さきほどの声に感じた陰はない。にかりと歯を見せて笑い、襟を整えてネクタイを締めなおせば、いつもの木崎凛太朗がそこにいる。
    「変な話聞かせちゃってごめんね、剛姉。今度飲みに行きません? UJのおごりで」
    「それはいいわね、ぜひ誘ってちょうだい」
    「オッケーです! 楽しみにしててくださいね」
     さーて仕事仕事~、と上機嫌に場をあとにする木崎の背を眺め、陰りが晴れたことに安堵している自分に速水は気づく。その雲の裏に、もっと目を凝らさなければならなかったのだと速水が後悔するのは、もうすこし先のことだ。
    このお別れに意味があるなら
    「……ん?」
     個人練習の帰り、星夜はふと耳が捉えた音に足を止めた。……ピアノの旋律。即興らしく、耳慣れないメロディだ。
     星夜は頭のなかでピアノを弾ける面々を思い浮かべる。朝陽、鷹通、あとマネージャーのクリストファーも楽器全般が得意だった。しかし聴こえてくる旋律はその誰ともイメージが一致しない。明るく弾む曲調であるのに、底辺に物悲しさが暗渠のように流れている。星夜は是が非でも演奏者を突き止めたくなった。踵を返し、ピアノが置いてある音楽室に向かう。


     音楽室の扉はうっすらと開いていた。そこから音が漏れていたものらしい。星夜はおそるおそる扉の隙間から室内をのぞきこんだ。
    「あ、……」
     UJ。
     声に出したつもりはなかったが、ピアノの演奏はぴたりと止んだ。さら、と音を立てそうな黒髪を揺らして、演奏者が顔を上げた。
    「……おや、星夜くん。どうかしたかな」
    「あ、いや、ピアノの音が聞こえたからさ。入ってもいいか?」
    「もちろん。どうぞ」
     にこりと微笑んでUJは自分の隣に椅子をもってきて示してくれる。星夜はそこに座り、さてなにを言おうか迷ってしまう。予想もしてなかった人物との邂逅、演奏に対して感じたことを素直に言ってもいいものか。UJはそんな星夜の戸惑いを察してか、気遣うような笑みを浮かべて言う。
    「扉、きちんと閉めたと思ってたんだけどね。うるさかったかな。ごめんね」
    「いや、そんなことないって! すごいキレイだった。UJピアノ上手いんだな」
    「ありがとう。ボイストレーナーとして、アイチュウのマネージャーとして恥ずかしくない程度には弾けると思うよ」
    「へえ。……さっき弾いてた曲、もっかい聴いてみたい」
    「……どんなのだったかな。即興だったから、自分でも覚えてなくて」
    「えーと、こんなかんじの」
     ふんふん、と星夜がハミングすると、UJはしばらく耳を傾けてから分かった、と言って鍵盤に手をかけた。たしかにさきほどの曲の続きのようだ。星夜はその旋律にやはり、胸が締めつけられる悲しさを感じとる。心臓のところを、寒風が吹きすぎていくような、それではじめてそこが空洞であることに気づかされるような。
    「あのさ、UJ、なんか……無理してる?」
    「……はは。君はなんでもお見通しなんだな」
     ぽろぽろと、旋律は次第に途切れがちになり、ついには最後の音色が空気に吸いこまれて消えた。UJは鍵盤から手をおろし、だらりと横に垂らす。星夜はUJの横顔がひどくやつれて見えることに気づく。仕事では常に完璧な手際を見せる彼が、どれだけの無理を重ねていたのか、思い至って星夜は自分の胸を掻き毟りたくなった。
    「……凛太朗の、こと?」
     頬の筋肉が緊張したようだった。その名前を、学園で口にするのはほとんどタブーみたいになっていた。誰もが少なからず傷として抱えている名前。星夜の傷だって、いまもまだじくじくと血を流している。UJは失った箇所が痛むような顔をして、誰に聞かせるでもない言葉を落としていく。
    「不思議なんだ。俺は誰より長く、近くにいた。あいつがいなくなるなんて考えもしなかった。なのに、あいつがいなくなっても朝は来るし、俺たちに立ち止まることは許されない。これからもこの日々が当たりまえに続くのかと思うと」
     UJは瞼を閉じる。密に生えそろった睫毛が風もないのに震える。
    「毎晩、夢を見るよ。あいつの夢だ。あいつはなにも言わず、俺を見ている。それだけの夢なんだ」
     苦しげに息をついてUJは自分の肩を抱いた。星夜にUJの苦しさは分からない。過ごした時間も積みあげた信頼も段違いすぎる。だが底なしの沼にずぶずぶとはまりこんでいきそうなUJを見捨てることは到底できなかった。
     星夜はUJの両手に自分のをそっとのせた。
    「大丈夫だ。UJ、大丈夫だから」
    「……星夜くん?」
    「前に進むことは忘れることじゃない。思い出はなくならない。痛いのだって、それってつまり忘れてないってことだろ。だから大丈夫だ。いっしょに歩いてこうぜ」
     な!、と言って肩をばしんと叩く。勢いでUJの上体がまえにつんのめった。
     UJはかるく咳きこんで、星夜の顔を見つめた。屈託ない笑顔の裏で、いったいどれだけの激痛を隠しているのか。UJにすら測りかねた。それに比べて、俺は。
     情けないな。
     自身を叱咤し、UJは唇をつりあげる。それがいま星夜のまえでできる唯一だった。
    「強いね。君は」
    「えっ? そ、そうか?」
     急に褒められるとは思っていなかったのだろう、星夜は大きな目を瞬かせる。
     終わらない暗闇のなかでも、光るものはある。見えなくても、空には星が、銀河が広がっているのだ。UJは自身の胸に灯ったあかりを自覚する。
    「君の言う通りだ。この痛みは、忘れられるものじゃない。……忘れない、絶対に」
    「うん。俺も」
     見えているものも歩んできた道程も違うけれど、このときだけはふたりの目指す場所はおなじと思えた。これからは、大人として彼らを支えなければ。UJはこころに誓う。
    「心配かけて悪かったね。今度お礼もかねて食事でもしようか。もちろん奏多くんと晃くんも誘って」
    「おっ、いいのか? やったぜ!」
     すっかり年相応の振る舞いに戻った星夜を微笑ましく見つめ、UJはふと別のことを考えた。

     今夜もあいつは来るのだろうか。来るのならば、言わなければならないことがある。



     *



     いつもの夢だとすぐ分かった。乳白色の世界。濃い霧のなかに立ち尽くす。目の前にかざした自分の手すら見えない白のなかに、影が浮かび上がる。それは徐々に人間の輪郭をとり、やがて見知った姿かたちへと変わった。
    「……今日はずいぶん若いんだな」
     おもわず呟く。そこにいたのは、初めてであった時分、高校生の頃の木崎凛太朗だ。なつかしい学生服に明らかな校則違反のピンクのパーカー。くりくりと大きい瞳。あの頃は眩しくて、受けとめ続けることもできなかった、まっすぐな視線も健在だ。いまは記憶にはない表情で、唇を一文字に引き結び、詰るような目をUJに向けている。
     UJは彼が現れた意味を悟り、泣くのをこらえているようなへたくそな笑顔を作った。
    「うん、……うん。そうだな。そろそろ行くよ」
     ここは出発点だ。忘却を恐れるがゆえにいつまでも足踏みをしていたここが。
     木崎は沈黙したまま唇を噛み、UJを見据えた。なんとなく、大丈夫か、と問われている気がした。
    「大丈夫だ。俺の始まりにはおまえがいつもいてくれる。いなくなったりしない。そのことに気づけたから」
     木崎はなにも言わない。だが肩の荷が下りたとでも言いたげな、力の抜けた笑い方でにかりと歯を見せた。UJも笑い返し、うなずいた。そして、踵を返す。UJの前には黒々と影が長く伸びている。一歩を踏み出す。もう一歩、二歩と足を前に出す度歩幅は大きくなる。影は、木崎から遠ざかるほど短くなっていく。でも、怖くはなかった。
     進むべき道なんてない。ただ前に足を出すだけだ。なにが待ち受けているのかも知らない。記憶は幾度も再生され、擦り切れてしまうかもしれない。それでも歩みを止めない理由は、もうもっている。ずっと、もっていた。
     この先にはおまえがいる。別れに意味があるとすれば、それは再び会うためだ。
     痛みと後悔を十字架のように背負ってゆく。その旅路の果てに再び会えたなら。

     伝えたかったことがあるんだ。
    箱庭*3部後メリバ

     部屋は午後の光が放散して明るかった。窓から斜光が差して家具の輪郭をくっきりと浮き彫りにしていた。ナチュラルウッドのローテーブル、焦げ茶色の布張りの三人掛けソファ、ファッション雑誌のささったマガジンラック── そのなかに、木崎自身の持ち物といえるものはひとつもなかった。自分の身体ですら。

     ここは箱庭だ。UJのお気に入りを集めて組み立てた、等身大の。その中心に木崎は据えられていた。

     エルドールに恥を忍んで戻り、この部屋へ越してきた当初は、まだ違っていた。フランスに留学していた時分から使っていてどうしても捨てられなかった思い出の品と呼べるものだとか、日本に戻ってから買い足した生活必需品らが、たしかにあったはずだった。それらは、いつのまにか姿を消して、買ったおぼえのない代替品に置き換わっていった。古い細胞が死んで新しいものと入れ替わるように、部屋のすべてはゆっくりと変わっていった。UJがそれを為し遂げた。

     木崎は、床に座りこんで、ソファの座面に首をもたせかけて、宙を舞ってきらきら光る細かな埃をぼんやりと目で追いかけた。この部屋は時間の流れが遅いようだった。薄く引き延ばされ、一瞬を永遠のようにも感じる。
     からし色の丸首シャツを見下ろす。通気性に優れ、肌触りもいい、サイズもぴったり。自分のためにあつらえたようでいて、これもまた、UJが用意したものだ。クローゼットから自分の服が残らず消えて、代わりに見たことのないブランド物の服がハンガーに吊り下げられているのを見たときは、慄然とした。全身を蛇が這いまわるような寒気がした。
    「木崎」
     振り返るとUJが立っていた。光輪を冠した濡れたような黒髪が、白い顔を縁どっていた。透明度の高い鉱石じみた双眸がひたひたと木崎を見つめていた。足元に、区指定の可燃ごみの袋が膨らんでいた。中身は確かめるまでもなかった。
    「UJ、どうして」
     UJは眉尻を下げて、情けない顔で力なく微笑んだ。ほとんど頬の筋肉が痙攣したようにしか見えない昏い笑み。
    「ごめんな、木崎。明日からはそれを着てくれ」
    「そうじゃない。おまえは、俺をどうしたいんだ。なんでこんな、服も、家具も、なにもかも貢ぐような真似までして」
    「こうでもしないと安心できない!」
     矢のように放たれた叫びが木崎を貫いた。大声を出したことを後悔するみたいにUJが両手で顔を覆った。指の間から、苦しげな呻き声ともつかぬ囁きがこぼれた。
    「俺の世界にいてほしいんだ。木崎。もうどこにもいかないでくれ、頼むから」
     なんだよ、それ。
     怒りも沸いてこなかった。代わりに、嘲笑が唇にのぼってきて、舌を動かした。
    「まるで人形遊びだ。おまえの父親そっくりだよ」
     糸の獄に身体を閉じこめて木崎を操ろうとしたあのひとと違い、UJは木崎を自分の世界の一部としてとりこもうとしている差異はあれど、本質は似ている。自己満足と理想の虚飾。木崎の本当は、どこにもない。そのうち自分のなかからすら失われる。
     UJは引き攣った喉で笑った。ややヒステリックで乾ききったさみしい声だ。足を引きずりながら木崎に歩み寄り、腕をのろのろともちあげた。木崎の頬を包むように添える。
    「でも、あいつはこんなことはしなかっただろう。こんなふうには、おまえを愛さなかっただろう?」
     手は氷のように冷たかった。触れたところから凍てつきそうなほど。
     木崎はその手に頬を擦り寄せる。
    「オレを愛してるっていうのか」
    「うん。俺はおまえを愛してる」
    「そう」
     UJは壊れている。どんなに水を注いでも、ひび割れ欠けた隙間から水は漏れだし溜まることがない。安寧が訪れることは、きっとない。
     そんなふうにしたのは、オレだ。
     一度目を閉じ、再度開く。
    「分かった。いいよ。責任取ってあげる」
    「セキニン?」
     こてり、とぎごちなく首を傾げたUJは、しかしすぐ思考を止めて木崎を腕に囲いこんだ。
    「俺の傍にいてくれるのか」
    「うん」
    「ありがとう」
    「どういたしまして」
     それからはずっと箱庭暮らしだ。

     気づけば太陽の位置は変わって影が移動していた。物の輪郭はにじみ、部屋が薄暗くなってきていることに思い至り、電気をつけようと立ち上がろうとして、行動を先読みされたように頭上の照明が点灯した。スイッチの方へ眼を向けると、穏やかな顔のUJがいた。
    「ただいま、木崎」
    「おかえり。今日の晩御飯はなに? UJ」
     ここでは口に入れるものもUJが作ったものだけと決まっている。木崎の身体を構成するものは、UJの手で入れ替えられ、木崎もまたそれを許した。名実ともに、木崎はUJの一部だ。
     UJは幸福そうににこにこと笑っている。だから、木崎も幸せだった。
    ここからもう一度
     ぱしん、と乾いた音は思いのほか大きく響いた。職員室にいた数人が、音の発生源へ首を向けた。
     UJは叩かれた腕を押さえ、数歩後じさった。叩かれた痛みより、振り払われた驚きと衝撃のほうが勝っていた。
    「……ッ」
    「ぁ、木崎……」
     肩に触れようとした手を振り返りざまに叩き落とした張本人である木崎は、まるで叩かれたのが自分自身であるかのような顔をして、UJの方も見ずに立ちあがり駆け去った。残されたUJは所在なく、主の消えた椅子を見下ろした。木崎が立ちあがった勢いで、椅子はきぃ、と悲しげに軋んだ。
    「UJ、大丈夫?」
    「……剛さん。ええ、平気です、俺は」
     一部始終を見ていた速水が気遣わしげに近寄った。平気、と言っても、傷ついたような顔をしているUJを放っておけないのだろう、ひそひそとUJの耳に口を寄せる。
    「りんりんね、ひとに触られることを嫌がるみたいなのよ。誰に対してもすこし距離をとってるし。まえはあんなに人懐っこかったのにねぇ」
    「そう、ですか」
    「あ……昔のほうがよかったというわけじゃないのよ。私たちはいまのりんりんを受け入れると決めた。でも、だめね、私。どうしても前のりんりんがちらついちゃって……」
     悔いの表情を滲ませる速水に、UJは微笑みかけた。
    「いえ、それは俺も一緒ですから。……すみません、俺、木崎を探してきます」
    「……ええ。任せるわ」
     速水は職員室を出ていくUJを見送った。
     UJだって、どんなにか辛いだろう。彼のこころの中心にはいつも木崎がいた。憧れ、追いすがったものが虚像過ぎないと知って、どれだけ苦しんだか、速水は知っている。でもそんな彼だからこそ、届くものがあるだろうと、速水は信じているのだ。


    「やっぱり、ここにいた」
    「……なにしにきたの」
     授業時間中の屋上は当然ながらひと気がない。その給水塔の陰になったところに、木崎は膝を抱えこむようにして座りこんでいた。日陰でも分かるほど、顔が蒼褪めていた。上目遣いにUJをみとめると、不機嫌そうに眉を寄せた。
     UJはすこし悩んでから木崎の前に腰を下ろした。近すぎず、遠すぎず。握手はできないが会話はできる距離。なるべく目線を合わすように、訥々と語りかける。
    「さっきは……急に触ったりして、悪かった。嫌だったんだよな。今度からはしない。気をつける」
    「別に、いいよ、そんなこと」
     突き放すような口調のさなか、木崎の手に力がこもるのが見てとれた。言葉通り、いい、と思っていないことはあきらかで、かすかに震える指先からは恐怖、といったものが感じとれた。UJの記憶のなかでは、すくなくとも高校卒業までは、速水の言うように人懐こく、馴れ馴れしく、軽率にひとの身体に触れてくるやつだった。父親から取り戻したいまも、木崎の身に起きたすべてを知っているわけではない。むしろ、知らないことの方が多いのだ。話すことが辛いなら、話せるようになるまでは、と思っていたが、……
    「もし嫌でなければ聞かせてほしいんだが。……昔から、ひとに触られるの、嫌だったのか?」
    「昔って?」
    「おまえが、俺たちの前で演技をしていた頃」
    「そんなこと聞いて、どうすんの」
     そっけない口調に突き放されても、UJはめげずに手を伸ばす。
    「俺の知らないうちに、傷つけていたのかと、思って」
     は、と木崎の口から空気の音がこぼれる。笑いになりきらない、できそこないの息遣い。
    「なに。おまえまさか罪悪感なんて感じてるの」
     木崎はゆっくりとした動作で立ちあがる。主人を見上げる犬の純粋さにも似た表情のUJを見下ろして、口を開く。
    「だとしたら、それは大間違いだ。傲慢で勘違いも甚だしい、馬鹿げた考えだよ。いいか、オレはおまえらを騙そうとして騙したんだ。おまえが気づけなかったとしても、それはおまえの落ち度じゃない。オレの演技が巧かったってことの証明にしかならない。おまえは無関係なんだよ。オレの罪も、痛みも、全部オレひとりのものだ。おまえに渡せるものなんてなにもない」
     常とは似合わぬ激情で一息に言葉を迸らせた木崎は、大きく肩を上下させ、ふと視線を自身の爪先に落とした。
    「だからさ、……そんな顔するなよ、UJ」
     自分がどんな顔をしていたか確かめるすべはない。それよりもなによりも、いま目の前で泣きそうな顔をしている男を抱きしめたいという衝動と戦うほうがよほど重要だった。握り拳を固めてUJも立ちあがる。そうするとUJの方がちょっとだけ背が高い。うつむいて表情が隠れてしまった木崎に、届く言葉を模索する。声を生業にしているのに、ままならなくて、もどかしい。
    「おなじ言葉を返すよ、木崎。俺の痛みまで奪わないでくれ。おまえになんて言われても、それでも俺は、おまえを大切にしたい。おまえが好きだから」
     結局、口にのぼるのは単純なことばかりだ。一歩、木崎に歩み寄る。磁石のおなじ極を近づけたときみたいに、木崎は退く。ふたりの距離は変わらない。迫るような衝動が口を突き動かす。
    「俺にはいまのおまえとか、昔のおまえとか、関係ない。俺が好きなのは木崎なんだ。おまえがどんなに変わっても……変わらなくても。俺の気持ちは変わらない。俺は、」
    「っも、いいっ、いいから……」
     告白を遮られて、UJはちょっとむっとして口を閉じる。木崎はといえば、よろめくように後退り、背後の壁に肩をぶつけている。掌で顔全体を覆って、だが指の隙間からのぞく目元は赤い。
    「……もう分かったから」
     動揺したみたいに震えた声。視線はひとところを見ず、うろうろとさまよい続けている。
     完全に照れているな、これは。嬉しくなって、UJは調子づく。
    「抱きしめてもいいか?」
    「それはちょっと」
     さきほどまでの照れはどこへやら、拭い去ったように真顔に戻り、木崎は深く溜息をついた。呆れたふうだが、諦観のようなマイナス感情はない。むしろ、どこか吹っ切れたような、明るい微笑が口元に浮かんでいる。
    「……とりあえず、握手から、やり直そうか」
     求められて、UJはとっさに利き手の左手を出した。木崎の利き手は右手。当然、これでは握手はできない。互いに宙に浮いた手を見て、一拍おいて笑い声がはじけた。
    Pity’s akin to Love
     さすがにパリと東京では、おなじ十二月でも寒さが違う気がする。
     空港から出てタクシーを待つ間、叩けばひびが入りそうにぴんと張り詰めた青空を見上げて、木崎は白い息を吐いた。パリの冬は曇天が多い。空はぼんやりとした白い雲が覆い、地上はセーヌ川から立ちこめる冷たい霧が体温を奪う。鈍く停滞する湿った季節。それと違って日本の冬は乾いている。どちらがいいとは言えないが、木崎には慣れ親しんだ日本の気候が懐かしかった。
     空港から吐きだされる観光者や自分とおなじ里帰りとおぼしき者、これから旅行に繰り出すと見える明るい顔のひとびとの群れを見るともなしに見る。それらすべてのひとに、目的地があり、帰る場所があるということを考える。不思議な心地だった。自分にそれが与えられていることも。
     長い長い列の先頭にようやくたどり着き、タクシーに乗りこんで、運転手に目的地を、自分の帰る場所を告げた。



    「凛太朗。久しいな」
    「ご無沙汰しております、社長」
     数時間後、木崎はみずからの雇い主にしてすべてを与えてくれた主人のまえに立っていた。エルドールの木崎凛太朗としての衣装は脱いで、モノクロの、彼の気に入る服装に着替えた。宇佐美は書斎の机越しに、手の込んだドールを鑑賞でもするかのような目で木崎を眺め、その出来に満足したように鷹揚にうなずいた。
    「では、聞かせてもらおうか? おまえの仕事ぶりを」
    「はい」
     木崎は語りはじめた。エルドールに潜入しおおせた首尾。フランス渡航の経緯。対象との接触した顛末まで。小説のあらすじを語るように、客観的な事実のみを述べた。
    「ご子息はいまの仕事をずいぶん気に入っているようです。社長の名前を出して説得するのは難しいかと」
    「そうか。チッ、よりによってあの男の事務所とはな。いまいましい」
     不機嫌に鼻を鳴らす宇佐美に、木崎はそぅっと視線を送る。
    「あの、社長は……ご存じだったのですか」
    「なんの話だ」
    「オレと……、いえ。なんでもありません。たいしたことではありませんから」
     怪訝そうに片眉をはねあげ、木崎を見つめ返した宇佐美は、机の上で指を組んだ。細く骨張った十本の指の流麗な動きに、木崎は目を奪われる。宇佐美は父親ほどにも年齢が離れているが、全体に均整のとれた体躯と若いころはさぞと思わせる冷たい容色はまったく色褪せず、指先まで行き届いた所作は艶美とすら感じる。同時に、蛇がゆらゆらと鎌首をもたげて獲物に飛びかかる寸前のような緊張感がただよった。
    「私の息子に、思うところがあるようだな」
    「い、いえ……そのような」
    「話してごらん。おまえはまた彼らのところに戻らなければいけないんだ。懸念材料は取り払ったほうがいい」
    「懸念、というわけでもないのですが。ただ、」
    「ただ?」
     木崎はこくんと喉を鳴らして、バイオリンの弦が共鳴するようなかすかさで呟いた。
    「可哀そうだな、と」
    「ほう」
    「彼はオレを見かけ通りの男と信じています。子供っぽくて、馬鹿で、抜けてて、だから俺がいてやらないと、とまで考えているようです。そんな簡単に騙されて、油断しきっている彼を見ていると、あまりに愚かしくて、哀れだと……」
     ばらばらと、思い付きをしゃべるようにして一息に吐きだす。宇佐美は黙って木崎の言うことを聞いていたが、おもむろに指を解き、こつ、と机をたたいた。
    「それは人形には過ぎた感情だな」
     自分の息を呑む音が鮮明に聞こえた。間違えた。稲妻のようにその理解だけが脳裏を駆け抜ける。
    「も、申し訳あ……」
    「なにが悪いのかも分かっていないのに謝るものじゃない」
    「っ、あ、……ぅ」
     とっさに出かかった謝罪の言葉を封じられ、情けなく口を噤む。四肢の先から血が冷たくなる。ぎっ、と椅子を軋ませ立ちあがった宇佐美の足音が近寄ってきて、冷や汗が噴きだした。うつむいた視界に爪先がはいりこむ。鎖骨から喉仏、そして頤(おとがい)までを、硬い爪の感触がなぞりあげた。すい、と顎を持ちあげられ、強制的に視線を合わせられる。しんと冷え切った硬質の翠に見据えられ、首の周りになにかが巻きついているかのように、呼吸が苦しい。宇佐美の乾いた指が、顔の輪郭をたどって頬に添えられる。
    「おまえは私の人形だろう? 人形はそんなことを考えなくてもいいんだ。おまえはなにも感じない、傷つくこともない。ただ私に従っていればいい……」
    「社長に、従えば……オレは、人形だから……」
    「そう。分かったね?」
    「は、…い」
    「うん、いい子だ」
     たわむれのように指が耳介をなぞって離れる。ぞわりとうなじの毛が逆立った。
     踵を返して木崎に背を向けた宇佐美はそのまま言った。
    「さて、久しぶりの再会だ。食事にでも行こうか。準備しなさい」
    「ぁ……、はい、すぐに」
     木崎はややぎごちない動きで辞去の礼をして退室していった。
     ひとりになればあっという間に室温が下がる気がした。意味もなくうろうろと歩きまわって、机をこつこつと指の節で叩く。
    「あいつが可哀そうだって。く、ははは」
     可哀そうなものは、どうしたって可愛く感じるものだ。そして同情なんて、愛していなければできない。
    「愛情を正しく扱うには、おまえは少々脆すぎる。凛太朗」
     ならば早く捨てさせてしまうことだ。彼を傷つけるものは、自分一人でもう十分だ。直すのも、自分ひとりでいい。
    「可哀そうになぁ」
     宇佐美は届く相手のいない囁きをこぼす。言葉はすぐに、部屋の空気に跡形もなく溶けた。
    幸福の食卓Side U

     早朝の光が部屋を蒼く沈ませている。肌寒さに身動ぎすると、自分が下着一枚でベッドの隅に追いやられていることに気づく。寝返ってみると真白いシーツに埋もれた赤銅色の髪がみえた。まったく、欲張りなやつ、と呆れたが、自身の昨晩の行いを振り返れば、まあ、大目にみてやってもいいかという気持ちにもなる。
     俺は木崎を起こさないようにベッドからおりた。素足に触れるフローリングはひんやりとしている。床に落ちたズボンとシャツを拾い集め、ひたひたと足音を隠してリビング兼ダイニングへ。ズボンを履き、シャツに袖を通して、ついでにコーヒーメーカーに豆と水をセットして電源を入れた。機械仕掛けのミルが起動して豆を挽くかすかな音が響きはじめる。
     昨晩は、すこし無理をさせてしまった。いつになく嫌だとか駄目だとか素直じゃないことを言うものだから、つい意地悪をしすぎた自覚がある。最後には子供のようにぽろぽろと涙をこぼして意識を飛ばしてしまって、ようやくやりすぎたことに気づいた。正体のないものを相手してもちっとも楽しくないので、今度からは加減しないとな、と柄にもなく反省する。その詫びというつもりでもないが、朝食でも作ってやろうと俺は冷蔵庫を開けた。
     卵と牛乳、生クリームにバター、ホットケーキミックス。木崎の大好物。
     まずはバターをボウルに入れてレンジであたためる。泡立て器で生クリームを撹拌する。すこし固まってきたところでクリーム状になったバターを投入してさらに混ぜる。これでトッピング用のホイップバターの完成だ。
     次にホットケーキの種をつくろうとしたところで物音に振り返る。シーツを体に何重にも巻きつけてシーツのおばけみたいになった木崎が半分も開いていない目をして立っていた。鼻をくん、とうごめかして「……ホットケーキ?」とかすれた声で呟いた。
    「おはよう木崎。もうすこしでできるから、座って待ってろよ。あとその格好だと風邪ひくぞ。そのへんにあるやつ、着てていいから」
     こくん、と素直にうなずいたのをみとどけて、作業に戻る。
     卵と牛乳をよく混ぜ、ホットケーキミックスをふるい入れる。弱火であたためたフライパンにバターを敷き、おたまですくった種を均等な厚さになるようひろげて焼く。表面にふつふつと気泡ができるようになったらひっくり返して両面に焼き目をつける。焼けたら皿へうつす。これを繰り返すこと三回。
     木崎はさっき言ったとおり、俺のパーカーを素肌の上に羽織って、ダイニングテーブルまえの椅子につくねんと座っていた。パーカーのまえは開きっぱなしだし、下半身は変わらず下着一枚なのでどうも寒そうだが本人は平気らしい。鎖骨の近く、服を着たときにみえるかみえないかの位置に虫刺されのような赤い跡が散らばっている。木崎は、まだ気づいていないようだ。気づいたときの反応を予想していまから愉快な気持ちになる。
     平皿に重ねたホットケーキにホイップバターをたっぷりと添え、木崎のまえにサーブした。ちょうどよくできたコーヒーもマグに注いで置いてやる。木崎用のミルクと砂糖の壺も。自分のマグにもコーヒーを注ぎ、木崎の対面に座った。
     嬉しがるかと思ったが、木崎は皿をまじまじとみたあと、俺のほうをちらりと上目遣いに窺って言った。
    「……おまえは?」
    「俺は、いいよ。朝はいつも食べてないし」
     む、となにか言いたげな顔をした木崎は、無言で立ちあがると皿をもう一枚出してきた。この家のどこになにがあるかはすでにだいたい把握されている。
    「半分、やる」
     三枚のホットケーキを一枚と半分に分けて、俺の皿に寄越してくる。ホイップバターもきっかり半分。
    「いいのか? 好きなんだろ、ホットケーキ」
    「オレだけ食べてるとこみられるの、なんか不公平だろ」
     憮然とした顔のままそう言う。ぱんっ、と手を合わせて、いただきます、と唱える。やわらかそうなきつね色をした生地にナイフをとフォークをいれてちいさく切り分け、ホイップバターをのせてほおばる。ゆっくりと咀嚼して、飲みこむ。ごくり、と喉仏が上下する。
    「……うまい」
    「それはなにより」
    「おまえもみてないで食えって」
    「じゃあいただこうかな」
     まあ作ったのは俺なんだけど。俺も木崎にならってナイフとフォークを手に取った。一口サイズに切って口に運ぶ。ほんのり甘い生地がブラックコーヒーによく合う。コクのあるやわらかなホイップバターも、舌にのせた瞬間ほどけて消えていく感覚が案外楽しい。ナイフとフォークを操るささやかな金属音だけが、しばらく互いの間に響いていた。
     朝は食欲がないとはいえ、一枚半のホットケーキをかたづけるのにそう時間はかからなかった。早々に皿の上を平らげて、マグカップ片手に木崎を眺める。木崎はなおも食べ続けていて、傍目にも食が進んでいるようにはみえない。俺にとってこれは想定外だった。さぞ喜んで笑顔をみせてくれるだろうと期待していたのに。
    「……どうした、木崎。腹でも痛いのか?」
     後処理はぬかりなくやったはずだが。泣かせてしまったとはいえ痛めつけた記憶はない。あくまで木崎が喜ぶことしかやっていない、と思う。
     木崎は、苦い顔でコーヒーを飲み下したあと、しばらく迷うように視線をうろつかせた。なにかを探している顔だ。俺は黙って待ってやる。闇雲に手を振り回すのではなく、慎重に、川底から砂金を浚うように、木崎がぽつりと言葉を落とす。
    「…………なんか、怖くて」
    「怖い?」
     予想もしていなかった言葉に、俺は虚を突かれた。木崎は視線を落として皿の上のホットケーキをフォークでいじりまわす。
    「おまえ、朝弱かったよな。なのに俺より早く起きて、朝ご飯なんか作ってくれてるし。それも俺の好物をさ。なんなんだよおまえ……優しすぎて、怖い」
     呆然とする。俺が、怖い? その間にも木崎のホットケーキは切り刻まれていく。
    「なに…言ってるんだ。おまえらしくないぞ」
    「分かってるよそんなこと」
     木崎は無残なホットケーキの残骸をまとめてフォークで串刺しにして、口へ押しこんだ。あっというまにすべて平らげてしまうと、「ごちそうさま!」と怒ったように言って立ちあがり、皿を流しに運んだ。
    「待て、おい、木崎待てって」
    「なんだよ。味は良かったぞ。洗い物ならオレがやっとくから……」
     木崎の手から皿をとりあげる。あ、という短い声を飲みこむように、唇をのせた。うしろに逃れる木崎を追いつめて、背を冷蔵庫の扉に押しつける。
    「んっ、ン、はっ、ぁ……」
     冷蔵庫の低いブゥ…ンという唸りにかき消されそうなあえかな息遣いをもっと堪能したくて、歯列を割り、舌をさらに奥へと伸ばす。木崎の舌はほのかに甘い味がした。こわごわとさしだされるそれをやわく噛み締め、唾液をすする。
     リップ音をたてて唇を離す。木崎の複雑な色相を宿した瞳は熱で潤み溶けだしていた。昨日散々吐きだしたというのに下腹がまたずくりとうずいた。
    「これでもまだ、怖いか?」
     そう言ってみると、木崎は目をすこし大きくして、ふはっ、と噴きだした。
    「そんなコドモみたいな顔するなよ。UJ」
     笑ってくれた安堵と笑われた恥ずかしさがないまぜになって、俺はむっとして言い返す。
    「してない」
    「いいやしてたね、オレみたもん」
    「きーざーきー……」
    「ぎゃわぁっ、やめろばか、耳噛むなっ」
     笑い合う。胸に火が灯ったみたいにあたたかい。愛おしさとか、きっとそういうものだ。心に任せて木崎を抱きあげる。驚いた声をあげる木崎も、その声は笑っている。
     木崎が肩にしがみついてきて甘えたように言ってくる。
    「次はジャムも欲しい。リンゴのやつ」
    「もちろん」

    幸せだ。こころからそう思う。

    Side K

     あたたかい泥につつまれているみたいな眠りから浮上する。感じる熱は一人分。シーツを押しあげて体を起こす。大人の男二人が寝られるベッドは、いまはオレ一人だった。そっと隣の空白に手を触れる。まだあたたかい。その温度に安心を覚えるのも、一種のバグなのだ。
     壁掛け時計は六時を過ぎたところを指している。休日の朝としては早起きの部類にはいるだろう。今日は珍しく二人揃っての休日である。新人アイドルオーディションが近づいてきて、なかなか時間が取れなくなってきた矢先のこと。最近はご無沙汰だったからか、昨夜のUJはやけにしつこくて、……思い出すだけで胸焼けがする。
     自身のめくるめく痴態を思い出してしまい強制的に思考を打ち切ったところで、リビングのほうからかすかにウィー…ンという機械音がした。UJだろう。ベッドからおりる段になって体の違和感がうすいことに気づく。昨日は途中で意識を飛ばしてしまったから、相当好き勝手をされたと危ぶんでいたが、どうやら後始末も完璧に済まされている。そういうところが、あいつはムカつくのだ。
     リビングへ行くとちゃんと服を着たUJがキッチンでなにやら料理の最中だった。オレの足音に気づいたのか、くるりと振り返って、笑う。寝ぼけ眼には眩しい。あたりに漂う甘い香りから、UJの作っているものにあたりをつける。
    「……ホットケーキ?」
     昨晩酷使した喉はうまくはたらかず声はすかすかだったが、UJはしっかり聞き取ってうなずいた。
    「おはよう木崎。もうすこしでできるから、座って待ってろよ。あとその格好だと風邪ひくぞ。そのへんにあるやつ、着てていいから」
     そこでようやく自分が下着一枚にシーツで簀巻きという夜中に起きだして徘徊する子供のような状態であることに思い至る。そのへん、と言われてあたりをみまわすと、ご丁寧にハンガーに掛けられたパーカーをみつけた。遠慮なく借りる。肩回りがすこし余ってしまうのが、ちょっと腹立たしい。
     腹立ちをおさえてダイニングの椅子に座る。UJは危なげない手つきでホットケーキを焼いている。

    『 どうしてオレはここにいる? 』

     唐突な、いや、UJと関係するようになってから幾度となく繰り返してきた問い。
     オレの存在、意味、すべては、あのひとのためにある。決してUJあいつのためじゃない。オレはあいつのためには生きられない。なのに。
     甘い言葉を囁かれ、嫌というほど(嫌と言っても)愛を注ぎこまれて、こんな、優しい空気のなかに置かれているのが、なんでオレなんだ。違うだろ。間違っている。そう、叫びたかった。
     UJがホットケーキを盛った皿をオレのまえに置く。コーヒーの注がれたマグ、ミルク、砂糖の壺も次々に卓上にならぶ。UJは自分のマグだけを用意して座った。
     たっぷりとクリームの添えられた、まん丸でふかふかのきつね色のホットケーキは、まだほわりと湯気をあげている。まさしく幸せの形だ。
     UJの顔を窺う。猫の子でもみるように細められた目。おだやかな微笑がうすい唇に刻まれている。ぞっとした。
    「……おまえは?」
    「俺は、いいよ。朝はいつも食べてないし」
     あまつさえそんなことを言う。自分では食べない、オレ一人のために、これを用意したのだと。そう言う。
     オレは立ち上がって平皿をもう一枚出した。いちいち聞かなくてもどこになにがあるか分かってしまうのが、また自分への苛立ちを加速させる。
     三枚を一枚と半分に。UJの皿へ移動させる。
    「半分、やる」
    「いいのか? 好きなんだろ、ホットケーキ」
    「オレだけ食べてるとこみられるの、なんか不公平だろ」
     適当なことを言っておく。本当は、その優しさをすべて受け止める自信がないからだ。
     いつもの癖で手を合わせていただきます、と唱える。一口サイズに切り分けクリームをのせて口に運ぶ。特別なところのない、素朴な味。ホットケーキの味にだけは嘘がない。この空間で唯一真実といっていい。
    「……うまい」
    「それはなにより」
    「おまえもみてないで食えって」
    「じゃあいただこうかな」
     UJもナイフとフォークを手に取った。所作は洗練されていて、優雅で、口元を汚さず食べものを口に運ぶ姿はいっそ官能的とすらいえる。金属同士がぶつかり擦れ合うカチャカチャという音だけが、しばらく続く。
     再び、どうして、という問いに思考を占められる。おいしいはずのホットケーキはゴムのような食感に変わる。
     この生活はいつか終わる。しかも考え得るかぎり最悪の形で。裏切り。偽りの絆。いままでの幸せが絶望に塗りかえられる。幸福の量が多ければ多いほど、絶望も、濃く、重く。互いに無傷じゃいられない。そんなの、最初から分かっていたはずじゃないか? それなのに、なんでオレは、ここに居続けてしまうんだ……
    「……どうした、木崎。腹でも痛いのか?」
     思考をみすかされたようなタイミングで声を掛けられ、心臓が跳ねる。気を紛らわせようと口をつけたコーヒーが、ミルクも砂糖もいれていなかったことに気づいて顔をしかめた。
     UJは心底オレが心配だという顔をしている。可哀そうだなあ、と思う。高校時代のあいつを知っているから、なんとなく分かる。UJはきっと踏みこみ方を知らない。ひとの心に踏みこめばお互い血まみれになることも、でもそれが時には必要なんだってことも。そして気づいたときには、多分もう手遅れだ。
    「…………なんか、怖くて」
    「怖い?」
     UJが目を見開く。予想外、という顔だ。オレもそうだった。唇が、舌が勝手に動く。
    「おまえ、朝弱かったよな。なのに俺より早く起きて、朝ご飯なんか作ってくれてるし。それも俺の好物をさ。なんなんだよおまえ……優しすぎて、怖い」
     さらさらとこぼれるのは、本音だった。どれだけ嘘っぽく響くとしても、これは本当の。
    「なに…言ってるんだ。おまえらしくないぞ」
     UJは困惑の表情をいっぱいに浮かべている。その通り。これはおまえの知る『木崎凛太朗』の言葉じゃない。オレの台本にはこんな台詞どこにも書いてない。
    「分かってるよそんなこと」
     おまえが決して理解しないことも。気づけばホットケーキはばらばらになっていた。フォークでまとめて突き刺して口に放りこむ。よく味わいもせず飲みこんでしまうことを内心詫びながら皿の上を綺麗にする。
    「ごちそうさま!」
     皿を流しへ運ぶ。水につけようと蛇口をひねろうとしたところでUJに追いつかれる。
    「待て、おい、木崎待てって」
    「なんだよ。味は良かったぞ。洗い物ならオレがやっとくから……」
     肩の上から腕が伸びてきてオレの手から皿をとりあげて、シンクへ雑に落とす。おい、割れたらどうする、と口をひらこうとしたところで、強引に振り向かされて、唇を奪われた。勢いにたたらを踏む。後退ったぶんだけ空間を詰められ、背に冷蔵庫のひやりとした感触を感じて逃げ場のないことを悟った。
    「んっ、ン、はっ、ぁ……」
     目を閉じてしまうと、淫猥な水音ばかりが耳につく。上顎をくすぐられ、頬の内側を噛まれると、膝から力が抜けそうになる。UJは直前にコーヒーを飲んでいたからか、舌先に痺れるような苦さがあった。
     唇が離れていく。緑柱石の瞳がオレをみおろしている。形のいい眉が情けなく八の字にさがっている。
    「これでもまだ、怖いか?」
     視線から、声の響きから、あふれんばかりのオレを傷つけたくないという感情が伝わってくる。日常的な憎まれ口は、結局はオレが傷つくことなんてないと勝手に信じる傲慢さの裏返し。
     ───UJ。それが、おまえの駄目なところだよ。愛おしいところでもあるけれど。
    「そんなコドモみたいな顔すんなよ。UJ」
     おもわず笑ってしまって、案の定UJは口をへの字に曲げる。むきになって言い返してくる。
    「してない」
    「いいやしてたね、オレみたもん」
    「きーざーきー……」
    「ぎゃわぁっ、やめろばか、耳噛むなっ」
     UJが本当に楽しげに笑うので、オレもつられて笑う。うまく、笑えていればいいんだが。かと思えば急に腰に腕をまわされて抱きあげられる。UJめ、ちょっと浮かれすぎじゃないか? オレは一日ベッドコースを覚悟する。
     人生は夢と、誰かが言っていた。でも夢のなかでも夢はみられる。なら、ほんのすこしの間でも、いい夢をみせてやってもいいだろう。血を流す覚悟も、ひとを傷つける覚悟も、とうの昔に済ませている。いまさらひとり、増えるくらい。
     オレはUJの分厚い肩にしがみつく。
    「次はジャムも欲しい。リンゴのやつ」
    「もちろん」

     むせかえりそうな多幸感のなかで、オレはこみあげる吐き気を必死におさえている。

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    2023/03/23 22:00:21

    U凛まとめ1

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