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    宇佐凛まとめ1オーダーメイド・プリズンOver!幕が下りる日蜘蛛の糸私の燕colorSecret Valentine悪い大人たちの密事知らない顔北風と太陽煙草の話オーダーメイド・プリズン
     頭部のないマネキンがガラスの向こうから木崎を見下ろしている。むろん、視線などないはずなのだが、どうにも居心地が悪い。
     ガラスには金の飾り文字で「TAILOR」とある。一目に富裕層を相手にする店とわかる。建物の重厚なたたずまいと、マネキンがまとうスーツが醸す雰囲気が、お前は場違いだ、とささやきかけてくるようだ。木崎はぎゅ、と上着の袖を握りしめた。
    「凛太朗、なにしてる。早く来なさい」
    「あ、はい、すみません……」
     磨りガラスのはまった扉の前から宇佐美が呼ぶ。木崎をここへ連れてきた張本人である宇佐美は、ぴたりとこの景色にはまっていた。丁寧になでつけた銀髪も、年の割に伸びた背筋も、身にまとうスーツも……。あつらえたように馴染んでいる。突然「ついてこい」と言われ、否やもなく諾々と従った木崎だったが、あきらかに自分はお呼びでない場所へと連れだされたことへの疑問は尽きなかった。それでも余計な質問はせず、木崎は宇佐美のもとへ駆け足で近寄った。
     宇佐美が石段をあがったさきの扉を開ける。カラコロとすずしげなベルの音が揺れた。店内も、外見にふさわしく、足音を吸いこむふかふかした絨毯や照明器具のひとつひとつが上品かつ優美に客を迎え入れる。
    「マスター。いるか」
    「はい、ムッシュウ。わたくしにご用命ですか」
     店の奥から、首にメジャーをかけた初老の男性があらわれた。宇佐美の言葉からも、彼がこの店のオーナーだろう。歳を感じさせないまっすぐに伸びた背や、やわらかな物腰は樹齢を重ねた大木を連想させる。
     宇佐美は既知らしいマスターに慣れたふうに告げる。
    「ああ。スーツを一揃い、仕立ててもらいたい。……凛太朗、こちらにきなさい」
    「え、はっ、はい」
     ぼう、と店内を眺めていた木崎は名前を呼ばれておもわず声を上擦らせた。雰囲気に圧され肩を縮めるように宇佐美の横に立つ。老紳士のしわにかこまれた優しげな眼が木崎をぴたりと捉える。木崎は自分がなぜ呼ばれたのか、見られているのか分からないまま、うろうろと視線を彷徨わせた。
    「……そうですね。髪色が綺麗にみえるよう、色は淡いグレーがよろしいでしょう。凛々しいお顔もきっとよく映えますよ。肩幅もあって腰も締まっていますから、どんなお召し物でも着こなせるでしょう。ふふ、腕が鳴りますなぁ」
    「あ、あの」
     木崎は老紳士の言葉の真意が分からず、助けを求めるように宇佐美に眼を向けた。よほど情けない顔でもしていたのか、宇佐美がすこしだけ笑った。
    「これからは私のもとで仕事をしてもらうのだからな。装いも、それに相応しいものが必要だろう?」
     木崎は顔が熱くなるのを感じた。いま着ているのは、なんの変哲もない、デパートで買った既製品のスーツである。これだって当時の木崎にとっては高い買い物だったのだが、宇佐美が常に身に着けているジャケット一枚にも及ばないことは明白だった。
    「でも、オレ、その……」
     木崎は預金通帳の残高をおもいだして口ごもる。どう考えてもここの商品は自分の身の丈に合う代物ではない。
     宇佐美は先につづく言葉を感じとり、言った。
    「……あぁ。お前は気にしなくていいよ。これは私からの贈り物だ」
    「え……?」
     木崎は宇佐美の顔をみつめかえす。
    「ひとは身にまとうもので心構えも変わるものだ。お前はどうにもうつむきがちだが、良いものをまとえば背筋も伸びる。それに、これは私からおまえへの信頼の証だ。受け取りなさい」
    「社長……ありがとう、ございます」
     信頼の証。その言葉はなによりも重く、すとんと胸のなかに落ちた。ぽっかりあいた空虚を埋めるような。心臓のあたりからじわりと熱がひろがっていく。
    「では、採寸をはじめましょうか。どうぞ、こちらへ」
    「はい。お願いします」
     木崎はどこか夢見心地で足を踏みだす。いつもなら耐え難いはずの肌の触れあいも、いまは不思議と気にならなかった。

     オレの居場所はやはりここなのだと確信する。だってこんなにも胸が熱い。
     どこへだって歩き出せる気がした。またここへ帰ってこられると信じられたら、怖いものなんてもうなにもなかった。

     完成したスーツに袖を通したときの、全身を守られているような感覚は忘れがたい。
    「いかがでしょうか、社長」
    「うん。よく似合っている。ああ、見違えたじゃないか」
     めずらしく機嫌がよさそうに、宇佐美は何度も木崎を誉めた。
     ジャケットの襟を正し、ネクタイのゆるみを手ずから直してくれもした。「頑張りなさい」「期待している」「おまえなら大丈夫だ」……と、いくつもの言葉をくれた。それらはいまでも耳の奥にしまわれて、いつだって取りだせる宝物だ。
     居場所も、心を守る鎧も、背を押す光も、すべて宇佐美からもらった。
     だから、木崎は今日も歩いていける。

    * * *

     サスペンダーの金具を留め、鏡で全身を確認する。あかるい橙のシャツ。緑と濃茶、それに山吹のラインが入ったベスト。鏡のなかの男に向かって、歯をみせて笑いかける。……うん、熱血系という第一印象を与えるには充分だろう。
     鏡の両脇に手をついて、虚像の眼をじっとみつめる。
    「おまえは誰だ」
     問いかける。
    「オレは木崎凛太朗。エルドール事務所所属のアイドルグループ、F∞Fのマネージャー」
     それがオレに与えられた役。F∞Fを愛する熱血マネージャー。たとえなにがあっても演じきる。どんな非道なことでも、それが社長の望むことなら、夢を叶えることにつながるのなら。なんだって。
     クローゼットのなかには、三つ揃えのグレースーツが掛けられている。薄暗いなかでも月の光を織りこんだように淡く輝くそれは、まるで、───
    「行ってきます。……社長」
     木崎はそう呟き、誰もいない部屋に背を向けた。
    Over!
     新人アイドルオーディション後、当然ながら硲ユーリとそのマネージャー木崎凛太朗は多忙な生活をおくることになった。雑誌のグラビア撮影、インタビューにテレビ番組への出演、エトセトラエトセトラ。
     その日も朝からコマーシャルの撮影後に二件の取材を受け、さらにボイスとダンスのトレーニングというハードスケジュールであった。夕方、明日に控えた宇佐美事務所主催のライブのために社長の宇佐美真司と合流し、ユーリと木崎は今晩宿泊予定のホテルへ向かった。
     ホテルへ向かうリムジンの車内でも、木崎は宇佐美とスケジュールの確認を行う。
    「……このあとの予定ですが、ホテルにチェックイン後、社長のお部屋でかるく打ち合わせを、ということでよろしいですか」
    「ああ。問題ない。おまえもいいな、ユーリ」
     宇佐美に話を向けられ、窓の外を眺めていたユーリがくるりと振り向く。花の咲くような、という形容がふさわしい微笑みが、陶器人形めいて整った顔を彩っている。
    「はーい。───ねえ凛太朗、今日泊まるホテルってどんなとこ?」
    「……ユーリさん、社長の話はちゃんと聞かないと」
    「聞いてたよ。打ち合わせでしょ。それより、どんなところなの。ご飯はおいしい?」
     木崎がたしなめても、ユーリはどこ吹く風で、隣席の木崎のほうへ身を乗りだす。無意識に窓のほうへ体を逃がしながら、木崎は淡々と答えた。
    「はぁ……五つ星のホテルですから、料理もきっとユーリさんのお口に合うでしょう。夕食は部屋に運ばせます」
    「え~、でもオレ一人部屋でしょ? 一人で食べるなんて寂しいな。そうだ、凛太朗、一緒に食べよ」
    「オレはオレの部屋で食べます。わがまま言わないでください」
    「むう。じゃあ朝ご飯は?」
    「……朝食はホールでビュッフェスタイルとなっています」
    「じゃあそのときは一緒に、ね」
     このくらいならいいでしょう?、とばかりに、ユーリが絶妙な角度で首をかしげる。桜色の髪がさらりと揺れ、ふうわりと花の香がたちのぼる。甘く蠱惑的であるその香は、いまは食虫植物が獲物を誘う匂いにも感じられた。木崎はぐ、と息を詰めたあと、細く吐きだした。無言は肯定の意である。ユーリは「決まり!」と、満足げな猫のように目を細めた。
    「遊ばれているな、凛太朗」
    「しゃ、社長……」
     宇佐美がくつりと含み笑いをこぼす。木崎は笑われたことに狼狽し、顔色を赤くしたり蒼くしたりした。宇佐美はユーリに向き直り、
    「ユーリ、凛太朗も急に仕事が忙しくなって疲れているんだ。あまり困らせてやるな」
    「……はーい、社長」
     ユーリが座席に元通り収まる。木崎も無理やり落ち着きを取り戻し、こほん、と咳払いをして「では、仕事の話は後程」と締めくくった。
     しかし、木崎の受難はむしろこれからなのだった。




    「大変申し訳ありません、お客様」
     ユーリ一行を出迎えたのは、慇懃に頭を下げる従業員たちだった。
     ホテルの支配人とおもわしき風体の男が進み出てくる。
    「宇佐美様、硲様、木崎様、それぞれお部屋の予約を承っておりましたが、我々の手違いで木崎様のお部屋にすでに別のお客様がはいってしまわれて……」
    「なにそれ。つまりオーバーブッキング?」
     ユーリが言うと、支配人がさらに恐縮して頭を下げる。
    「誠にお詫びのしようもなく……。折悪く当ホテルは現在満室状態でして、木崎様には我々が別のホテルにお部屋をご用意させていただいて……」
    「えーオレやだな。凛太朗だけ仲間外れなんて」
     ユーリがむぅと頬をふくらませる。が、木崎は平然と言った。
    「いえ、オレは構いません。打ち合わせのあとはそちらに移ります」
    「待って凛太朗。その代わりのホテルってどこなの?」
     木崎の言葉を遮るようにユーリがずいと前へ出る。支配人が告げたホテルは、車で十五分ほどのところにある、こことランクの変わらないホテルだった。ユーリは考えこんでいたがすぐ呟いた。
    「……それじゃオレと朝ご飯が食べられないよね。ねえ、もっと近いところはないの?」
    「ユーリさん、あまり困らせては」
    「だって凛太朗、オレとの約束はどうなるの?」
    「……仕方がないでしょう。それはまた今度の機会に……」
     ユーリの機嫌は傍目にも悪くなる。明日は本番なのだ。担当アイドルには万全のコンディションで臨んでもらいたい。木崎がどうユーリを言いくるめるか、頭を悩ませ始めたとき、沈黙を保っていた宇佐美が口をひらいた。
    「私の部屋はスイートだったな。なら彼を私と同室にはできないか」
     木崎とユーリが同時に目を丸くする。しかし口火を切ったのはユーリのほうが先だった。
    「社長ズルいですよ! それならオレが凛太朗とおなじ部屋でもいいじゃないですか」
    「おまえは一人部屋だったろう。それに……」
     宇佐美はちらりと木崎に視線をやる。
    「おまえと一緒だと凛太朗も気が休まらないだろう」
     ユーリがまなじりをつりあげる。なまじ顔が整っているだけに威迫があるが、宇佐美も冷厳な美貌の持ち主である。木崎は当の自分をさしおいて繰り広げられる冷戦にただ冷や汗をかくのみだった。
     と、ユーリが肩の力を抜いた。宇佐美から視線をはずし、手をひらりと振る。
    「ま、しょうがないか。たしかにまだ凛太朗と完全に打ち解けたとはいえないし。凛太朗が疲れてるのも事実だし。ここは譲りますよ社長」
    「聞き分けが良くて助かるよ。……では、そのようにしてもらえるか」
    「かしこまりました。ご配慮痛み入ります。サービスは無論最上を尽くさせていただきますので」
     ホテルの支配人が深々とお辞儀した。渦中の人間であるにもかかわらず、徹頭徹尾蚊帳の外におかれた木崎はただただ立ち尽くす。つまりなにがどうなったのか。
    (社長とおなじ部屋で過ごすのか、一晩……)
     それはそれで休まらない気がするな……
     そんなやや不埒な考えをもつ木崎であった。

     五つ星ホテルのスイートルームというだけあって、リビングと寝室に別れた間取りは二人が宿泊するに十分な広さを備えていた。問題はツインサイズのベッドが一つしかないことだが。
    「オレはこっちのカウチで寝ますから。社長はベッドをどうぞ」
    「悪いな。不便をかける」
     すばやくリビングのカウチソファを確保する。木崎が寝転んでもなお丈の余る大きさだ。睡眠をとるには充分だろう。
     正直なところ木崎は、宇佐美が同室を提案した真意をはかりかねていた。打ち合わせやユーリの心情に関わるところもあり、同じホテルに泊まる利点が多いのは理解できる。宇佐美は合理的な男だ。素直に受け取れば、益のみを追った結果だろう。しかし本当にそれだけで……?
    「凛太朗」
    「ひゃ、はいっ? なんでしょう」
     舌を噛んだ。木崎は情けなさに涙が出そうになった。自分ばかりがぐるぐると考えこんでいるのだと自己嫌悪が首をもたげる。
    「本当にそっちでいいのか」
    「はい……?」
     宇佐美はツインサイズのベッドを示して、言った。
    「こっちはまだ余裕があるぞ」
    「え」
     木崎はおもわず宇佐美の顔を凝視してしまい、すぐに後悔した。顔が熱い。赤面した顔をみられただろうか。いつもは洒落ただけの調度品なんて目もくれないが、いまばかりは間接照明のほのかな光源に祈りたい気持ちだ。どうかこの熱を隠してくれますように。
    「いっ、いえっ、オレはここでっ」
    「そうか。……私がそちらで寝るというのは、」
    「それはダメです!」
    「……そう言うと思ったからこその提案だったのだが」
     宇佐美は木崎にゆったりと歩み寄る。猫に追い詰められた鼠のごとく、木崎は指一本動かせない。
     木崎よりいくぶん背の高い宇佐美は、腰をかがめて木崎の耳元で一語一語を吹き込むようにささやきかける。
    「私と寝るか?」
    「…………っ」
     急に足元が頼りなくなった。床が突然乾いた砂に変わってしまったかのような感覚。耳のすぐ横で心臓が鳴っている。呼気の香りさえ感じとれそうなほど近くに、宇佐美の顔がある。木崎はからからに干上がった舌を必死に動かす。
    「どうか、ご勘弁を……」
     蚊の鳴くような声になった。ふ、と宇佐美が笑ったのか、前髪がかすかに揺れた。
    「……悪かった。ユーリの悪癖がすこし移ったかな」
     冗談めかして言って、宇佐美が離れる。
     木崎はへたりこまなかったのが自分で不思議なくらいだった。荒ぶる心臓をなだめすかし、呼吸を整える。
     宇佐美のサディズム傾向はいまにはじまったことではないが、ここまで絡まれるのもめずらしい。それとも、宇佐美のもとを離れていた期間が長かったからそう思うだけで、傍に置く人間に対してはいつもの戯れみたいなものなのだろうか。いやきっとそうに違いない。木崎はそう自分に言い聞かす。
     コツコツ、とノック音が響いた。我に返った木崎が迎えに出る。
    「社長、と凛太朗? ユーリです」
    「はい、いま開けます」
     ユーリは部屋に入るなり、わお、と歓声をあげた。子供のようにはしゃいだ目を隠さず、きょろきょろと部屋をみまわしていたが、ツインベッドをみるなり嫌そうな顔をした。
    「凛太朗はどこで寝るの?」
    「……オレはこっちのカウチで」
    「う~ん……寝心地はあんまり良くなさそうだけど」
     まあ添い寝よりはマシか、と意味の分からない独り言を呟く。木崎は聞かなかったふりをすることに決めた。
    「ではユーリさんもいらっしゃいまいしたし、打ち合わせをはじめましょう」
     ユーリはさっきまでのはしゃぎっぷりが嘘のように真面目な顔で打ち合わせに参加した。なんだかんだ、アイドルという仕事にかける情熱は真摯で嘘がない。木崎はユーリのそういうところを好ましく、そして眩く思っていた。明日のタイムスケジュールから、セットリスト、舞台挨拶の文言まで、細部をつき合わせていく。
    「……確認事項は以上です。ユーリさんは明日のライブが終われば仕事もひと段落ですから、頑張っていきましょう」
    「はーい。……あーでも、明日が終わればしばらく凛太朗とは会えないのか。ね、凛太朗は休みはどうやって過ごすの」
    「特に予定はありませんね。そんなことより、ユーリさんは明日のライブに注力してください。オレのことなんて気にしてる場合じゃないでしょう」
     木崎のとりつくしまもない言葉にユーリは頬をふくらませる。しかし次の瞬間には目と口を三日月型に変化させた。まるで『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のようだった。木崎にはこころなしかユーリの背で揺れる猫の尾をみた気がした。
    「凛太朗。お願いがあるんだけど」
    「お願い、ですか」
     木崎はこれ以上ユーリをこの場においていてよいのだろうかと宇佐美をうかがう。宇佐美は特に興味もなさそうな顔で静観の構えだ。仕方なく木崎は先を待つ。
    「明日のライブ、オレが凛太朗をドキドキさせられたら、凛太朗の休日を一日、オレにくれない?」
    「……なぜ」
    「予定、ないんでしょ? オレ、凛太朗のこともっと知りたい。これから一緒に厳しい世界を戦ってくれるマネージャーと親睦を深めたいっていうのは、理由にならない?」
    「…………しかし、その条件が“オレがドキドキさせられたら”なのは、オレに有利すぎませんか。オレがしていないといえばそれまでになってしまう」
    「凛太朗は隠し事はいっぱいするけど、オレに対して嘘は吐かないよね。そういうとこ、信頼してるんだけど」
     木崎は言葉に詰まる。そんなことはない。オレは本当は嘘吐きで卑怯な男なんだと、叫びだしたかった。しかしそれ以上に、信頼という言葉がきらきらと胸の裡で息づいて、心臓を痛くする。あれほどひとを傷つけてきてなお、失うことが、傷つくことが怖い、なんて。いまさらどの面さげて言えるというのか。
     視線を彷徨わせていると、宇佐美と目が合った。冷徹な印象をあたえるうすい唇は一文字に結ばれ、硬質な宝石を思わせる緑眼がさらに冷たさを増している。やっぱりこのなんの益もない時間が宇佐美を苛立たせているのだろうか。
     長引かせるのはまずい。そう判断した木崎は、ユーリに向き直った。
    「分かりました。期待、していますから」
    「その言葉、忘れないでね」
     ユーリは自信に満ち溢れた顔をみせた。もてるものの余裕ある笑み。当然自分がそれを成し遂げるであろうことを知っている笑い方だった。それでいて、木崎の「期待している」という言葉に心から喜んでいるのも本当。
     木崎はやはり、その笑みをみつめ続けることはできなかった。

     その後、やっぱり一緒に夕飯を食べたいと駄々をこねるユーリをなんとか説き伏せ、自室へ戻ることを承諾させた木崎は、せめてもとドアの外までユーリを送りに出た。別れる直前、ユーリがそっと耳打ちしてきた。
    「凛太朗、社長に変なことされたらオレの部屋に逃げてくるんだよ」
    「……ユーリさん、それはいくらなんでも社長に対して失礼すぎます」
    「いいから。絶対だよ」
     いつになく真剣な口調で言われ、木崎はおもわずユーリをみつめかえす。ぐさりと突き刺すようにみてくる一対の瞳に押されるようにうなずいてしまった。ユーリは満足げに笑って、「おやすみのハグ!」と一度木崎を抱擁してから、自分の部屋へと帰っていった。
     自分を抱きしめた力の強さに痺れたように立ち尽くしながら、さきほどの宇佐美の戯れは「変なこと」にはいるのか、しばし考えこんでしまった木崎であった。
     一方ユーリも自室への道すがら、考え事をしていた。
    「社長ったら、怖い顔しちゃって……」
     信頼、という単語にひどく心乱された様子の木崎と、ユーリをみすえた宇佐美の表情。そして宇佐美の顔をみた瞬間に「約束」をしてきた木崎。彼の心のなかの椅子には、宇佐美が居座っている。だが逆はない。あの主従はそういう歪な関係だと思っていたが。
    「嫉妬は緑色の眼をした怪物……ってね」
     おお怖い、と肩を震わせるユーリの顔はしかし笑っている。
     障害が多ければ多いほど、手に落ちてきたときの喜びは大きい。ずっと平坦な道を歩むことほどつまらないものはない。難易度は高いほうが、おもしろい。遊びも人生も。
     これは本気になっちゃいそうだなあ。
    ユーリはくすくすと笑いながら、廊下を歩いていくのだった。





     ルームサービスでの簡易かつ上等な夕食のあと、木崎は宇佐美のためにバスタブに湯を溜めることにした。ユーリに言われた言葉もあり、体を動かしていないとおかしなほうへ思考が傾きそうだったのだ。
    「社長、風呂の準備ができましたが」
    「ああ。ありがとう。使わせてもらうよ」
    「バスローブは脱衣所に用意しておきました。そのほか必要そうなものは揃えておきましたが、なにかご入用でしたら声をかけてください」
     木崎がそう告げると、宇佐美はかるく溜息を吐いて言った。
    「凛太朗、おまえは私の使用人ではないのだから、いまは体を休めなさい。そこまでする必要はないよ」
    「いえ、オレがやりたくてやっていることですから」
    「そうか。ならこれ以上は言わないが」
     宇佐美が浴室のほうへ消えてようやく、木崎は安息を感じることができた。
     いまならいいかと、リビングルームのカウチに身を預け、ふぅっと息を吐く。
     オーディションが終わってからは、怒涛の日々だった。いや、もっと前……エルドールに潜入してからずっと、心身に負荷はかかりっぱなしだったのだ。気づこうとしてこなかっただけで。
    (オレはLacerta……冷血で、感情なんて持たない……)
     木崎は自嘲の笑みを浮かべる。その言葉で自分を騙せるのも、あとどのくらいだろう。
    (いや、騙せるさ。騙してみせる。それが社長の夢のためなら)
     途端、猛烈な睡魔におそわれる。石をのせられたような瞼の重みに逆らえず、木崎は眠りの世界へ落ちた。

     はっと目を覚ます。がばりと体を起こす。夢もみないほど深く眠ってしまっていたようだ。いまは何時だと時計を探していると、
    「起きたのか。やはり、だいぶ疲労がたまっているようだな」
     宇佐美の声に振り向いて、木崎はぎょっと身を竦ませた。
    (に、似てる……)
     バスローブ一枚を羽織り、深紅の布張りの肘掛け椅子に足を組み座る宇佐美。高い頬骨や細い鼻梁、きわめつきは緑柱石のごとき双眸。普段はきっちりとうしろに撫でつけている銀髪が額におりて若い印象になったからだろうか。どうしても、違う誰かが目の前の光景にちかちかとオーバーラップする。
    「どうした? 凛太朗」
    「い、え……」
     木崎はようやくかすれた声で答える。宇佐美は静かに立ち上がり、カーペットを踏んで、木崎へ近づいていく。木崎は動けない。宇佐美の腕が伸びる。
    「…………」
     湯の温度がほのかにのこる指先がするりと頬をかすめる。木崎はびくりと身を竦ませた。ユーリのような過剰なスキンシップでないだけに、拒むのも躊躇われた。
    「あ、の」
    「うん」
    「オレの顔になにか……ついてますか」
     宇佐美は首を傾げ、
    「……口元によだれのあとがついているが」
     木崎はばっと身を引き手の甲で口をぬぐう。どれだけ失態を晒せば気が済むのかと、顔に熱を集めていると、宇佐美が笑って「冗談だ」と言った。木崎は目をまるく見開き、深く深く溜息を吐いた。いい加減、宇佐美のこの調子にも慣れなければ……。
    「そんなに疲れているのなら、さっきの約束も断ったらどうだ。私からユーリに言ってもいい」
    「いえ、社長にそこまでさせるわけには。大丈夫です、ユーリさんとの付き合い方もちょっとずつ分かってきましたし」
    「そうか」
     宇佐美は木崎の隣に腰かけた。自然な仕草で背もたれに腕をまわし、ゆるやかな動きで足を組む。木崎はその優雅な動作に目を奪われた。さきほども感じたばかりの、“血”をつよく意識してしまう。
    「しかしユーリにも困ったものだ。いや、たいしたものというべきか」
     独り言のように宇佐美は言う。手慰みというように指は木崎の耳にかかった赤銅色の髪を弄っている。
    「おまえの表情をああも引き出せるとはな。少々妬けてしまったよ」
    「は……?」
     なにを言われたか分からず、木崎は宇佐美をみあげる。いつもの氷のような冷たさとは違う、意地悪い、どこか子供っぽい光が瞳のなかで輝いている。それがよく知る誰かと似ているようで、木崎は思わず挑発的な気分に駆られた。
    「さ、さきほどから、社長はオレをどうしたいんですか」
    「ふむ。逆におまえはどうされたいんだね」
     つ、と指先が頬をすべりおりて髭のたくわえられた顎をとらえる。親指の腹でさりりと生え際をなぞられると、くすぐったさに肩が震える。なんと答えるのが正解なのかは分からないが、木崎は宇佐美に嘘を吐きたくなかった。宇佐美の手にそっと自身のを添える。
    「オレはあなたになら、なにをされてもいいです……」
     宇佐美の目がすこしだけ大きくなった。まばたきもせずに木崎を凝視する。
     嘘偽りない本心を言ったつもりだったが、言葉選びを間違えただろうか。
     木崎はびくびく宇佐美をうかがう。秒針がたっぷり一周半するほどの空白のあと、宇佐美が口の端をつりあげた。
    「いい殺し文句だ」
     ぽん、と頭に掌をおかれた。すこし癖のある短髪をかき混ぜられる。
    「おまえはやはりいい表情カオをする。舞台にのせられないのが残念だな」
    「それは……」
     褒められている、のだろうか。判然としないながら、言葉を続ける。
    「社長が役を与えてくれるのなら、どこであってもそこがオレの舞台です」
    「それなら、特等席は私のために取っておいてくれ。一番、おまえがよくみえるところを」
    「……はい。勿論」
     木崎はうなずく。宇佐美はうすく笑い、腰をあげた。
    「おまえも風呂にいっておいで。湯船のなかで寝ないようにな」
    「は、はい。すみません、失礼します」
     木崎も立ちあがり、着替えを抱えて脱衣所へ消えた。ほどなくざぁざぁと水音が聞こえてくる。
     宇佐美は肘掛け椅子に座りなおす。頬杖をついて、一人、物思いに耽る。うすい唇が歪む。
    「私も甘くなったな」
     と、ひとりごちた。

    (本当は観客など私一人で十分すぎる)

     宇佐美の心中をはかれるものは誰もいない。

    * * *

    「…………ユーリさん。そのホットケーキ、どこで?」
    「あっち。シェフが目の前で焼いてくれて、焼きたてが食べられるんだって。凛太朗ももらってきたら?」
    「……行ってきます」
     木崎はテーブルを離れていった。こころもちかるい足取りだったのは、ユーリの見間違いではないだろう。首尾よく休日をもらえたら、おいしいホットケーキのお店に連れて行こうかと画策する。
     朝食会場のホールは、高級ホテルらしくひとが多くてもどこか静かで穏やかな空気が流れている。約束通り、ユーリは朝になるやいなや、スイートルームに突撃をかけ、木崎を朝食へと連れだしたのだった。なぜか当然のような顔で宇佐美もついてきたが。
    「それで社長、昨日はよくお休みできました?」
    「ああ。よく眠れたよ。凛太朗が風呂を用意してくれてな」
     ユーリのじとっとした視線を春風のように受け流して、宇佐美はハムエッグを口に運ぶ。
    「それはそれは。凛太朗もあんな狭いところで休めるのかと思ったけど、ばっちり睡眠とれたみたいだし、よかった。それに、ご飯はおいしいし、凛太朗もいるし、今日のライブは大成功間違いなしですね」
    「おまえが出るんだ、当然だろう」
    「それはそうですけど」
     木崎が皿にホットケーキを山盛りにのせて戻ってくるのがみえた。トッピング用のホイップクリームやジャム類も一通りもってきたとみえる。休日に連れて行くお店は食べ放題がいいだろうか。
    「ユーリ」
    「はい社長」
    「凛太朗とはうまくやっていけそうか」
    「ええ。オレ、凛太朗みたいなひとは好きですよ。可愛いし」
    「……そうか」
     宇佐美は最後のハムをフォークに突き刺す。フォークの先が皿にあたり、カツン、と高い音をたてた。
    「だが、まずは、今日のライブで笑顔をみせてもらえるよう頑張りなさい」
    「……社長はみたことがあるんですか? 凛太朗の笑ってるとこ」
    「───さて。どうだろうな?」
     宇佐美は冷ややかに唇をつりあげて、皿の上を空にした。
     ユーリはひさしぶりに顔の筋肉を総動員して笑顔を維持した。この男……。
    (これはあれか。宣戦布告ってやつ?)
     ───おもしろい。やっぱり人生はこうでなくっちゃ。
     ユーリは花の如き容貌に似つかわしくないほど獰猛な眼光を閃かせる。
    「ええ。もちろん、そのつもりですよ」
    「ふふ、今日の結果が楽しみだ」
     平穏な朝の空気に、二人のまわりにだけぴりりと亀裂がはしる。互いの間でぶつかる視線合戦は、木崎の「……大事なお話中でしたか?」という声で中断されるまで続いた。
    幕が下りる日
    「お疲れさま凛太朗」
     言葉と共に抱きしめると、スーツの下の体が強張ってわずかに息を詰める気配がする。だが最近その強張りが解けるのが早まってきている。
    「……ユーリさん、誰が来るかも分からないのですから、離れてください」
    「ここオレたちの控え室だよ?」
    「だめです。ほら、もう」
     木崎が背を反らしながらユーリを手で押しやろうとしているところに、ノックの音が響いた。ほぼ同時に、扉がひらく。
    「ご苦労、ユーリ……おや」
    「っ、社長、お疲れさまです」
    「お疲れさまです」
     入室者が宇佐美と見てとるやユーリを全力で引き離そうとした木崎と、素知らぬふりで腕に力を込めたユーリの一瞬の攻防は、ユーリが勝利した。首に腕を巻きつけ抱擁する格好のまま、ユーリはにこりと宇佐美を出迎えた。
    「仲がいいようで、なによりだ」
    「ち、違います社長、これは」
    「えーひどいな凛太朗。仲がいいのはなにも悪いことじゃないでしょう?」
    「表現方法を選んでほしいだけです。オレはこんなこと」
    「なに、信頼されているのはいいことじゃないか。なあ? 凛太朗」
     糸を断ち切ったようにぷつりと、木崎が言葉を途切れさせた。腕のなかの体は、じかに反応が伝わってくる。ユーリは奇妙な違和をおぼえた。
    「は、い……そう、ですね。これからも信頼してもらえるよう努めます」
     緊張は徐々に解け、弛んでいくのがわかる。宇佐美の声はやわらかかった。なのに、なぜか、木崎の体がどんどん沈んでいくような気がした。
    「アイドルとマネージャー間の絆は大事だ。仕事もそのほうがしやすいからな。さてユーリ、凛太朗に仕事をしてもらうため、離れてもらえるかな」
    「……はぁい」
     解放された木崎は宇佐美に手招きされ、ひと言ふた言耳打ちされるとうなずいて、失礼します、と部屋を出ていった。宇佐美は横目で木崎を見送って、ユーリに向き直った。さすがのユーリでも、宇佐美の前では自然に背筋が伸びる。ひとをそうせざるをえなくする、冷厳といったものが宇佐美にはあった。
    「だいぶ凛太朗と距離を縮めたようだな」
    「はい、そう思ったんですけど」
    「なにか問題が?」
     さきほど感じた違和感。近いのに遠い。触れているのに、そこにいない。矛盾する感覚をあらわす言葉は容易には見つからない。
    「どういえばいいのかな、距離感がなんていうか、ううん」
     あごをつまんで考えこみ、唸っていたユーリがはたと顔をあげた。ぴたりとはまる表現を見つけた。
    「舞台と客席、のような」
    「マネージャーはアイドルにもっとも近いファンとも言えるだろうからな。妥当な距離感じゃないか?」
    「いえ、舞台にのっているのは凛太朗のほうです」
    「ほう?」
     宇佐美がおもしろそうにユーリの顔を見かえした。無言で先をうながされる。
    「オレは凛太朗を見ている。凛太朗もオレを見てる。オレを見ながら相応しい演じ方を探っている。ここは舞台で同時に客席だ。オレも登場人物のはずなのに、オレだけが脚本を知らない舞台がかかっている」
     ユーリはしゃべりつづけ、ふと口を閉じて宇佐美を見た。冷たい口元が左右対称にわずかに弧を描いている。とある確信がユーリの胸に落ちる。
    「演出はあなたですか」
     左右対称だった唇が歪んだ。冷厳は損なわれず、妖しいまでの凄艶さが立ち現れる。くつくつと喉を鳴らして笑う。
    「お前は本当に聡い子だ。ユーリ」
    「褒められている気がしないなぁ」
    「いや、本気で感心しているよ」
     宇佐美はユーリの前に立ち、肩に掌を置いた。いままでも何度かあった仕草だが、ユーリは鳥肌を立てた。耳の裏がざわりとさざめく。逃げ出したくなるような衝動を、唇を噛んで押しこめる。
    「この舞台は凛太朗が望んでいるものだ。お前がよい観客でいてくれるよう願うよ。凛太朗の望みなら、叶えてあげたいだろう?」
     ほとんど子供に言い聞かすように宇佐美は言った。背筋を冷たいものが流れるのを感じた。ユーリはトップアイドルを目指すものの矜持として、華やかに微笑んでみせた。
    「ええ。そうですね、社長」
     望む返答を引きだせて満足したのか、宇佐美は身を引いた。周囲に温度が戻ってきた。
     木崎はまだ戻らない。ユーリは客席の最前席に座る自分を夢想した。舞台は続いている。手の出しようもなく。ユーリは、いつか、幕が下りる日を待ち望んでいる。
    蜘蛛の糸
     どうしてオレを拾ってくれたんですか。
     そう訊いたことがある。宇佐美に救われ、居場所と存在の意味を与えられ、だが彼が聖人君子などでは決してないと気づきはじめた頃合いのこと。
     木崎としては勇気を振り絞って尋ねたのだったが、当人の宇佐美は余裕たっぷりにゆるやかに口の端をつりあげた。
    「私が善意で人助けをするようには見えないと?」
    「そ…のようなことは」
    「いいよ。私の性根はおまえも分かるようになったろう」
     答えられずに黙っていると、宇佐美はふたたび口をひらく。
    「カンダタを知っているか」
     不意をうつ問いかけに木崎は目を瞬く。そうして慌てて記憶を探った。たしか、中学だか高校だかの国語の教科書で見た──
    「え、っと。芥川の小説に出てくる」
    「そう。極悪人の大泥棒だ」
     宇佐美はわずかに顎を引き──うなずいたのだろう──乾いた声でつづけた。
    「おまえも知っての通り私は悪人だが、ひとつくらい、徳を積んでおこうかと思ったのさ。いつか地獄に堕ちたときのためにな」
     冗談なのか本気なのか。宇佐美の表情からはうかがい知れない。ただ、木崎は宇佐美のうすい唇に刻まれた笑みを、さびしい、と思った。
     木崎は溜息のように言った。
    「……オレは蜘蛛ですか」
    「蜘蛛は嫌いか?」
    「虫全般はあまり……いえ、それはどうでもいいのですが」
     重要なのは、そう、宇佐美が端から自分が地獄へ行くと決めてかかっていることだ。しかもそこへは、ひとりで行くつもりらしい。木崎の役目は天上でうつくしい銀色の糸を編むこと。木崎は目を伏せ、自分が高みから糸を垂らし、血の池に沈む宇佐美を引き上げる夢想をする。ああ、それはたしかに胸が震えるほど甘美な夢だ。いつかオレを救ってくれたひとを、今度は自分が救いあげる夢。でもたしか、かの小説では、蜘蛛の糸は切れるのだ。我も我もと糸に縋りつく罪人たちに怯え、ひとり助かろうとしたカンダタは、ふたたび地獄の底へ真っ逆さま。
     そんな結末ならば、いらない。うつくしいだけの頼りない細い糸など。
     木崎は静かな決意とともに目を開き、宇佐美を見つめる。
    「……蜘蛛よりは、役に立ってみせますよ」
    「そうか。期待しているよ、凛太朗」
    「ええ、社長」
     極楽浄土もオレには必要ない。地獄の果てまでも、貴方の傍に。
    私の燕
     木崎凛太朗が戻った。数年にもわたるスパイとしての任を終え、宇佐美のもとへ。エルドールにいたころの、全身から陽の気を発していた男はどこにもいない。いまここにいるのは、感情の亡い、内側が洞になった人形のようなものだ。仮面を脱いだ木崎の表情はどこまでも空ろだった。
     予選会場を出て、宇佐美と木崎は社用車で事務所へ向かった。エルドールのクマ社長は宇佐美に「うちの車に着ぐるみをのせるスペースはない」と言われてすこししょぼくれて自社の車で移動することになった。車内は宇佐美お付きの運転手と、宇佐美と木崎以外はいない。後部座席は運転席と隔てられており、エンジン音まで遮断され静謐な空間に保たれている。
     宇佐美は隣に腰かけた木崎をそれとなく見やった。伏し目がちに、無表情で膝に置いた拳を見つめている。いまの彼は演劇を愛したかつての木崎凛太朗がそのままに歳を重ねていたら、というIFに基づいて形作られた姿だ。派手な橙のシャツはよく日に焼けた肌になじんでいたが、宇佐美の好みからは外れている。それに加え、一番宇佐美の癇に障るのは髪の一部に入れられたオレンジメッシュだ。鮮やかな赤銅色に混じったその色は、見栄えを劣らせる錆のように宇佐美の目に映った。
     それにしても、……
    「……すこし痩せたか?」
    「え、そう…でしょうか」
     木崎は目をぱちぱちと瞬かせ、所在無げに腕をさすった。昔から肉づきの薄い男だったが、数年見ない間にさらにちいなくなったように見える。全体にしなやかで均整のとれた痩躯。スラックスに包まれた形のいい脚は細く引き締まっており、手首を掴めばきっと宇佐美の指がじゅうぶんに余る。試してみはしなかったが。
     代わりに肩に掌を置いた。木崎はこころもち顔をあげて、宇佐美の言葉を待つ姿勢をとった。瞳の中心に宇佐美を映す。
    「ご苦労だったな。みずから引き受けてくれた仕事とはいえ、辛いこともあったろう」
    「いえ…オレは貴方のために働けるのならそれで……」
     セルロイドのようだった肌に血の色が差す。宇佐美の言動ひとつひとつにこころを揺らがせる木崎は、巣から落ちた雛鳥のように哀れを誘う。それか、あるいは……
     宇佐美は一羽の燕を想起する。愛に狂い、言われるがままに願いを叶え、愚かにも冬の国に留まった燕。春の国へ渡れば、長生きできたものを。
     その想像は胸の奥に沈め、宇佐美は言った。
    「事務所に着いたら着替えておいで。その髪の色も、しっかり落としてきなさい」
    「……はい」
     用が済んだら社長室に顔を見せるように言いつけ、宇佐美は木崎と別れた。

    * * *

     エルドールとの賭けの取り決めを終え、ひとりになったオフィスで、宇佐美はふたたび木崎を思った。
     木崎は帰ってきてしまった。宇佐美のもとへ。極寒の地へ。
     宇佐美には分かっている。本来の木崎は、“エルドールの木崎凛太朗”に近いはずだと。眩しく、太陽の照らすあたたかな場所が、木崎にふさわしいと、こころの奥では認めている。
     だから、木崎が戻ってきたときは、宇佐美を選んだと分かったときは、嬉しかった。同時に悲しくもある。ここにいれば、木崎が傷つき続けることは明白だった。
     長い長い、いつ終わるとも知れない冬が明けたとき、木崎が隣にいる保証はない。芸能界という厳しい業界で勝利者であり続けるために、冷徹な振る舞いでみずからを律してきた。見かけは輝かしい成功に彩られて見えるだろう。でも心臓は鉛だった。その鈍いこころは、その未来を迎えたとき、何を思うのか。
     宇佐美は首を振った。唇には自嘲が刻まれている。
     何を思うかだって? 何かを思う権利などないというのに。
     木崎が戻って宇佐美はたしかに喜んだ。自分の知らない色を疎ましく思った。それがすべて。この先に起こるのは木崎を手放せない自身の強欲さが生む結果だ。ならば、受け容れねばならない。人道を外れた人間として、受けるべき報いは受けなければ。そうでなければ、救われない。この世界は不平等だから、努力が実を結ぶとは限らないし、悪人が幸福を享受して死んでいくこともある。でも、そうじゃない、信じることで救われることもあるのだと、そう思ってほしいひとができたとき、宇佐美は、普段は見向きもしない神に祈りたい気持ちになった。可哀そうな燕が、せめて最期まで幸せなままでありますように。
     黒檀の扉が控えめにノックされる。
    「社長。木崎ですが」
    「入りなさい、凛太朗」

     ───おまえに春はやれないが、居場所と救いだけは、約束しよう。
    color
    「ねえ、それって凛太朗の趣味なの?」
    「……はい?」
     ユーリの投げかけた質問の意味を捉えかね、木崎は曖昧な声を返した。狭い通路を挟んで隣りあった席、ロケバスには木崎とユーリのふたりしかいない。他のスタッフは撮影場所を押さえるために降車している。すこし予定より長くかかっているらしく、連絡用の端末はさっきから沈黙を保っている。
     今日の仕事は主婦層に向けた昼日中に放映されるのんびりした旅番組の企画ロケで、海沿いの観光地を巡るのが主な内容だった。撮影行程は半分以上を過ぎ、疲れが見えてきてもいい頃だが、ユーリはそんな素振りひとつ見せず、造花じみて色褪せない微笑を浮かべたままだ。
     そのような顔でユーリは続ける。
    「スーツのこと。いつもそのグレースーツでしょ? 気に入ってるのかなぁって」
     木崎は言われて自分の体を見下ろした。上質な布で仕立てられたそれは、着れば着るほどに身に馴染む木崎の一張羅だった。それ以上に、木崎にとって意味を持つ代物でもある。教える気はさらさらなかったが。
    「……こういう仕事をする上で、服装は重要ですから。品質のいいものをまとうようにしているんです」
    「そうなんだ」
     あたりさわりのない説明にユーリは納得したようにうなずいたが、次の瞬間には通路を越えて身を乗りだしてきて木崎をのけぞらせた。
    「そういうグレーもクールな伊達男って感じでオレは好きだけど、もっと明るい色をいれてみてもいいんじゃないかな。たとえばー……オレンジとか! どう?」
    「オレンジ……ですか」
     ああ、またあの顔してるな。
     ユーリは軽い口調とは真逆の冷静なまなざしで木崎を観察する。
     時折、木崎は自分を見なくなる。どころか、ここにいない誰かの姿を幻視するかのように瞳を揺らすことがままあった。うつむくように顔を傾けると、深い陰影が頬骨のカーブに落ちる。物思いに沈む木崎は、自分が艶っぽく見えていることなど意識したこともないだろう。言えば、汚れを拭きとるように一瞬でその表情が失われてしまうことは分かっていたので、ユーリは黙って堪能する。過去繰り返してきたいくつかの質問から、ユーリは、木崎が虚空にまなざすその誰かを、大方把握していた。木崎の指が不意にトカゲを模した銀のタイピンに触れた。無意識にだろう、つるりとした表面を撫でながら、ぽつりとこぼす。
    「その色は……好きではないので」
    「ふぅん。……誰が?」
    「っ」
     木崎が瞠目する。唇がわなないた。きゅっと丸められる拳が、如実に木崎の動揺を表している。
     ここまで期待通りの反応されちゃうとオレも嗜虐心みたいなのが湧いてくるな。
     いけないいけないと疚しいこころを自制してユーリは冗談めかして笑った。
    「ごめんごめん、でも、服くらい自分の好きなもの着ればいいのに」
     ふい、とあごをそむけて木崎は唇を尖らせる。
    「オレはこれが好きで着てるんです。余計なお世話です」
    「凛太朗、怒った?」
    「すこし」
    「ごめんってば。そのスーツも似合ってるよ。カッコいい~!」
    「茶化さないでください。はぁ、もういいですから」
     外の空気を吸ってきます、と立ちあがる木崎を、ユーリは追いかけなかった。浅く日に焼けた肌がほんのりと色づいているのが見えたので。それで十分と思うことにしたのだった。
     ぽつねんと残された車内に、聞く人間のいないつぶやきが落ちる。
    「もう、妬けちゃうな。ちっともオレには染まってくれないんだから」
     ひとりごちながら、ユーリは脳内に“社長はオレンジは好みじゃない”、と付け加えた。
    Secret Valentine
     ある日、身に覚えのない急な呼びだしを受けた木崎は、やや緊張の面持ちで社長室の扉を叩いた。
    「社長。木崎です」
    「来たか、凛太朗。まあそこへ座りなさい」
     都会のビル群を一望できる窓をバックに背負った宇佐美は、手に持っていた書類から目をあげた。来客用のソファを指し、宇佐美は顎をしゃくる。木崎ははい、と硬い表情のままうなずいて革張りのソファに腰かけた。
    「まあ、そう硬くなるな。なにも叱ろうというんじゃない」
     宇佐美はデスクの引き出しからなにやら取りだすと立ち上がり、木崎の対面の席へ腰かけた。そして間に挟んだローテーブルに小包を置き、木崎の方へと押しやった。両手で持ち運べるサイズの、矩形の紙包みだ。宇佐美が包みを解くと、なかから銀色の光沢を放つ、飾り気はないが高級感のある箱があらわれた。上面中央には筆記体のアルファベットが並んでいる。フランス語のようで、渡仏経験のある木崎にも見覚えのあるものだった。
    「これは、……チョコレートですか」
     書かれていたのはフランスでは有名なショコラトリーの名。フランスでも指折りの高級店で、富裕層向けの贈答用として喜ばれる代物だ。それがなぜ、自分の目の前に置かれたのか、木崎は内心首をかしげる。
    「貰い物なのだが、私は甘いものは苦手でね。おまえにやろう。食べなさい」
    「は……」
    宇佐美の言葉に、木崎はしきりに目をまたたいた。焦りと混乱。そろりと上目遣いに宇佐美を窺っては、チョコレートの納められた箱と見比べる。相変わらず、真意の読めない緑の目はいたって平静で、なにかの冗談とは思えなかった。そもそも宇佐美は滅多に冗談を口にしない。
    「……では、ありがたく、頂戴します」
     意を決して箱に手を伸ばし、引き寄せようとしたのを、宇佐美の掌が上から押さえた。木崎は電流がはしったように身体を硬直させた。なにか粗相をしただろうかと全身に冷や汗が噴きでた。
    「いま、ここで。食べなさい。そして感想を聞かせてほしい」
    「え……?」
     宇佐美は手をどかすと、教師のように縷々説明を始めた。
    「これはさる企業の上役からの頂き物でね。毎年毎年、飽きもせずこの時期にチョコレートを贈ってくるんだ。先方の好みなど把握してしかるべきものを、まったく考慮もしない、浅はかな人間さ。さらに面倒なことに後日顔を合わせれば必ず味の感想を求められる。私としては向こうの機嫌を損なうわけにもいかないし、下手な嘘ではすぐぼろがでる。だから去年までは好きでもないチョコレートを味わされる破目になっていたんだが。今年はおまえがいるからな」
    「はあ」
    「甘いものは好きだったろう? 遠慮しなくていい。全部食べていいんだぞ」
    「はあ……」
     律儀に相槌を打ちながら、木崎はようやく事態を飲みこみはじめていた。要は身代わりだ。ゴーストライターならぬ、ゴーストテイスティングとでも言うべきもの。馬鹿らしい、と一蹴してしまえばそこまでだが、立場上言えるわけもない。それに、“甘いもの”という可愛いものとはいえ、自身の弱点を見せてくれるくらいには、信頼されているのだと、嬉しかったから。木崎は丁重にうなずいた。
    「そういうことでしたら、微力ながらご協力させていただきます」
    「うん。頼む」
     紙箱をひらく。一口サイズのチョコレート──フランスではボンボンと呼ばれる──がざっと10個程度、収められている。甘い香りが立ちのぼり、鼻腔をくすぐった。宇佐美の言ったとおり、甘いものは嫌いではない。木崎は浮きたつ気持ちを表にのぼらせないよう気をつけつつ、整列したボンボンをひとつ、つまみあげて口に運ぶ。歯を立てるまでもなく、舌の上で溶けだして濃厚な甘さがひろがった。
    「どうだね」
    「……おいしいです」
    「もう少しなにかないのか。おまえの感想は私の感想にもなるんだぞ」
    「う……すごい、なめらか、です。口のなかで蕩けていくような」
    「ふむ。じゃあ次はこれだ」
    「…………」
    「不味いのか?」
    「苦い、ですね。コーヒーの味がします」
    「なるほど。では次」
    「あっ。これはイチゴですね。なかにクリームみたいなのが入ってて、おいしい」
    「イチゴ、好きなのかね」
    「す、すみません、つい……」
    「構わんさ。よく味わいなさい。チョコレートも私がいやいや食べるより、よほど本望だろう」
     こうして、無い語彙力を振り絞った木崎の品評はボンボンを完食するまで続けられた。
     ナッツをキャラメリゼしミルクチョコレートでコーティングしたもの。ガナッシュにリキュールが練りこまれた香り高いもの。ローストした香ばしいアーモンドの食感が楽しめるもの。などなど、ひとつとして同じものはなかった。味はさすが高級ショコラトリーと言うほかないもので、幸福感で木崎を満たしたのだった。残らず感想を聴取した宇佐美も満足げに笑う。
    「ご苦労だった、凛太朗。礼はまた別にしよう。楽しみにしていなさい」
    「いえ、そんな。お気持ちだけで十分です」
    「私が好きですることだ。おまえの気にすることじゃないよ」
    「…はい。ありがとうございます。……では、失礼します」
     木崎は丁寧に辞儀をして社長室を辞した。
     すっかり甘さに麻痺してしまった舌をどうにかしようと、どこかでお茶を買おうかと考えながら廊下を歩いていると、担当アイドルの硲ユーリとばったり行き会った。向こうはこちらを探していたらしく、ぱっと顔を華やがせ、小走りに寄ってくる。
    「あ、凛太朗、やっと見つけた」
    「ユーリさん? どうしてここに。なにか確認したいことでも?」
    「そうそう、来週の撮影スケジュールについて……うん?」
     ユーリは木崎を見、自分の口をとん、と指先で叩いた。
    「凛太朗、口、なんかついてるよ」
    「あ……失礼しました、さっきのチョコレートが……」
    「……チョコ?」
     慌てて指でぬぐおうとしたのを、ユーリの低く沈んだ声が止めた。なんの気もなしにユーリの顔を見た木崎は、その冷たさに思わず吐こうとした言葉を引っこめた。表情の消えた顔貌は、もとが綺麗に整っているがために、凄味がいや増す。木崎はごくりと生唾を飲みこんだ。
    「チョコって、バレンタインのチョコ? 凛太朗、誰かから貰ったの?」
    「あ、いえ、そういうのじゃ」
     否定しようにもユーリがぐいぐい距離を詰めてくるせいで言葉が濁る。徐々に壁際に追いつめられて、木崎は逃げ道を失った。ユーリはめずらしいくらい真剣な顔で木崎に迫る。
    「誰? 誰から貰ったの」
    「いや、だから、これは社長に……」
    「社長⁉」
     ユーリはのけぞって、目を丸くする。やられた、と呟くのがかすかに聞こえた。その意味を問うまえに、ユーリはぐるりと木崎に向き直る。
    「凛太朗、ちょっとオレは社長に用を思いだしたから」
    「え、確認したいことというのは」
    「あとで!」
     ばっと手を振りあげ、ユーリはぱたぱたと木崎がいま来た方向へ走り去ってしまった。なにが起きているのかさっぱり理解していない木崎はひとり廊下に立ち尽くした。


     ところ変わってふたたび社長室。ノックと同時に扉を開けて飛びこんできたユーリに、宇佐美は一瞥をくれる。ユーリは、特に表情を変えない宇佐美の座るデスクの前につかつかと歩み寄り、仁王立ちになった。
    「社長! 抜け駆けはズルいじゃないですか!」
    「どうしたユーリ、そんな血相変えて」
    「凛太朗に聞きましたよ、バレンタインチョコあげたんでしょう」
    「…………ああ、あれはそういうことになるのか」
     宇佐美ははたと気づいたふうに、宙に目をやった。そんなつもりは毛頭なかった、と言ってもこの少年を納得させることはできないだろうと冷静に考えてそれ以上の説明は諦めることにする。ユーリは頬をふくらませて、ぶうぶうと恨み言めいたことを述べたてる。
    「もおー、オレだって凛太朗にあげたかったのに」
    「あげればいいじゃないか。凛太朗はビターよりもスウィートのほうが好きらしいぞ」
    「ちゃっかり好みまで把握してる……」
    「もっと教えようか」
    「くっ……いいえ結構です、自分で聞きますから」
     ユーリはまるきり反抗期の息子のような態度で、来た時と同様足音も荒く社長室を飛び出していったのだった。嵐のような騒ぎが去って、宇佐美はふと物思いに耽る。嘘偽りなく、バレンタインデーのことは頭になかった。たぶん、木崎も。よってお互いに意図しないままバレンタインを執り行ってしまったわけだが。
     ふむ、と宇佐美は顎に手を添える。
    「三倍返しを期待するのは……さすがに意地が悪いかな」
     うっすらと唇に刻まれた微笑を、見る者はいなかった。
    悪い大人たちの密事
     眠れない。
     もぞりと、幾度目かになる寝返りを打って木崎は閉じていた瞼を押し開けた。清潔なリネンシーツは既にしてくしゃくしゃである。ほどよい重みで木崎の身体を包む羽毛布団も、今夜はなんだか暑苦しく感じる。
     眠気を呼び寄せるのは諦め、ベッドをそっと抜けだした。寝間着の上に肩掛けを羽織り、自室を出た。
     時刻は深夜に近い。広い邸内はほとんど照明が落とされ、廊下の端は闇に溶けこんでいた。台所に行って水でも飲もうかと思っていたが、これではたどり着けるかどうか、そもそも部屋から離れることすら危うい。あまりに静かで、自分まで息をひそめてしまう。いまにも廊下の奥から何者かの足音が聞こえてきそうだった。……いや、この音は? 木崎は戸口に立ち尽くして耳を澄ます。
     聞こえる。かすかな衣擦れと、カーペットを踏む足音。木崎の足は根でも生えたように動かない。まばたきも忘れて音のする方向を凝視する。胸が痛いほど心臓が鳴る。音の主が姿を現す。
    「……凛太朗?」
    「社、長」
     仕事時とはまったく違う、額にふわふわと落ちる前髪、シルク製のルームウェア。誰あろうこの家の主人であり木崎の雇い主、宇佐美真司だ。風船がすぼむように緊張が解けた。羽織った肩掛けを握り締めていた拳が汗に濡れていることに気づいて、宇佐美にばれないようズボンになすりつける。
    「どうしたんだ、こんな遅くに起きているなんて」
    「眠れなくて、水でも飲もうかと思っていたんですが、」
     暗い廊下が怖くてここで迷ってました、などとは言えず、木崎は話を逸らす。
    「社長こそ、なぜ」
    「仕事だ。海外のクライアントとの仕事は、時差が生じるものだ。珍しいことじゃない」
    「それは……お疲れさまです」
     ぺこり、と敬意を表して頭を下げた木崎の後頭部に、低い笑い声が降ってくる。
    「フ。さすがに今日は私も店じまいだ。もう寝ようかと思っていたが、さて」
     宇佐美はあごに手を当ててしばし考えこむ素振りを見せ、ややあってひとりうなずくと踵を返した。
    「おいで、凛太朗」
    「は、はい」
     歩幅を合わせて宇佐美のあとにしたがう。連れていかれた先は、当初の目的地でもあった台所であった。木崎が見ている間に、宇佐美は冷蔵庫から牛乳のパックを出して小鍋にそそぎ、砂糖を加えて火にかけ始めた。あまり手慣れているようなので、木崎が口をはさむ隙もなかった。
    「あの、」
    「なんだ」
    「いえ、……料理をされるんですね」
    「こんなの、料理のうちには入らないだろう」
     宇佐美は“こんなの”がくつくつと煮えてくると素早く火からおろし厚みのあるマグにそそいだ。そして戸棚の奥からブランデーの瓶を取りだして、片方に数滴垂らし、木崎に差しだした。
    「ほら。これを飲めばよく眠れるさ」
    「……ありがとうございます」
     木崎は礼を言って受け取った。厚手のガラスから掌にじわりと熱が伝わった。どこか安心する温みだった。一口すするとブランデーの甘い香りが口内に広がる。ほぅ、と溜息を吐いた。
     宇佐美は残ったマグに、ブランデーを今度はどぼどぼとそそいだ。牛乳とほぼ同量、むしろブランデーの方が多いのではと思えるくらい。
    「社長、いれすぎでは」
    「いいんだ。私は悪い大人だからな」
     ふふん、となぜか得意げな顔をされる。木崎は自分のすこし減ったマグを見下ろして、ブランデーの瓶を手に取ると初めの量に戻るまでそそぎこんだ。宇佐美はおもしろそうに木崎を眺める。また一口、くらくらするほどの芳醇な苦みを味わう。自然と唇がつりあがっていた。
    「オレも……悪い大人、ですから」
    「そうか」
     夜も更けゆく台所、ふたりの悪い大人はどちらからともなく、マグをかちんと触れあわせた。その乾杯にどんな意味が込められたのかは、ふたりだけの秘密事だ。
    知らない顔
     硲ユーリのマネージャーこと木崎凛太朗は、空気のような男である。冷淡というほどではないが愛想はなく、仕事ぶりは有能だがどこか決められた公式に数字を当てはめて解くような、機械的なところさえあった。ユーリはマネージャーのことを優しくて面白いひと、と言って憚らなかったが、初めて木崎に会う人間は大抵その食い違いに戸惑った。そして内心、彼にはユーリにだけしか見せない顔があるのだろうと自身を納得させるのだった。総じて木崎の評価は、掴みどころのない、だがいなければ困る空気のようなひと、というところに落ち着いた。
     ユーリは無論、ひとびとが自分のマネージャーをどう見ているかよく承知していたが、あえてそれを自分の知っている像に近づけようとはしなかった。それは可愛い独占欲のようなものかもしれないし、哲学者じみた達観であったかもしれない。ただユーリが木崎を心から信用し、慕っているのは確かなことだ。



     ユーリが撮影を終え、マネージャーの待つ控え室へ戻ると、扉がわずかに開いていた。そこからかすかに漏れ聞こえる声に、ユーリは足を止めた。
    「はい……ええ、その件は無事……」
     なにか受け答えする木崎の声。相手方の声は聞こえないので電話中だろうと、邪魔をせずに扉の外で待つことにした。低く抑制のきいた声音は、無感情というひともいるが、ユーリは好きだった。木崎が応じるだけのやりとりがいくらか続いたあと、話はひと段落ついたらしい、切り上げるような声色に変わった。
    「承知いたしました、社長」
     ああ、相手は社長だったのか、と思ったのもつかの間、木崎がふたたび社長、と呼びかけた。
    「いつこちらへお戻りですか」
     ユーリはおぼえず、肌を粟立てた。背骨を伝ってむずむずと電流が走ったような気がした。社長の宇佐美は、先週から海外出張中で日本を離れている。木崎が発したのは、単純に上司の予定を伺う台詞に過ぎないはずだ。なのに、それだけではない、艶とでもいうべきものが含まれているように聞こえた。勘違いなどではない、とユーリは訳もなく確信した。その瞬間、木崎はユーリの知る木崎ではなかった。
     その後の木崎の声はいっそう低められ、戸外のユーリまで届かなかった。心臓がばくばくと脈打っていた。初めてステージに上ったときですらこんな胸が鳴ったことはない。前触れも心構えもなく、恋人同士の逢瀬に鉢合わせてしまった居心地の悪さだ。参ったな、と額に手を当てていると、室内で物音がした。外に向かおうとしている気配に、ユーリは慌てて数歩部屋から離れた。まるでいま向こうから歩いてきたというふうに。
    「ユーリさん。お疲れさまです」
    「あ、凛太朗、お疲れ~」
    「もう撮影は終わりでしたか、付き添えず失礼しました」
    「ううん、いいよ。凛太朗も仕事とかあったんでしょう」
     木崎はいつも通り、ユーリの知るマネージャーの木崎凛太朗だった。さきほどの声音のなかに見えた艶の影も匂いも見当たらない。じっと注がれる視線に、木崎は身動ぎした。
    「……どうしました。オレの顔になにか」
    「いや、相変わらずオレのマネージャーさんは男前だなぁって」
    「……はぁ」
     相槌とも呆れともとれるため息をついて、木崎はちいさく肩をすくめた。唐突に、間欠泉のように感情が湧きあがってきて、ユーリは衝動に駆られるまま木崎を抱きしめた。腕のなかで、木崎が息を詰めるのが分かる。
    「う、こら、ユーリさんまだメイクを落としていないでしょう」
    「ん、ごめん」
     なお離れないでいると強めに肩を押されたので、ようやく解放して、ユーリは朗らかに笑った。木崎はいつもに増して脈絡のないユーリの行動に迷惑よりも心配が勝ったようで、「疲れてらっしゃいますね」とぽつりと言ったのみで特に小言もなかった。車をまわしてきます、着替えて帰る支度を、と言い置いて木崎は歩き去る。
     さて、残ったユーリはといえば、別にいつもと変わらなかった。不敵にして無敵、頂点に立つことを宿命づけられたアイドル・硲ユーリである。そして明快な事実として、ユーリは木崎が好きだった。
     別にいま、誰のことを思っていてもいい、思ったままでもいい。それでもいつか、とユーリは思うのだ。

     ああ凛太朗、君ほど落とし甲斐のあるひとはいないよ!
    北風と太陽
    「おはよう凛太朗、今日も格好いいね」
    「おはようございますユーリさん。体調に変わりがないようでなによりです」
     目の前で繰り広げられる寸劇めいたやりとりを見たのは幾度目か、宇佐美はもう数えていない。硲ユーリが、宇佐美が特別目をかけていて社長である自らがプロデュースを手掛けるアイドルとはいえ、現場に付き添う回数はそう多くない。その少ない機会のなかですら頻繁に見かけるのだ、目の届かないところでも似たことを繰り返しているに違いなかった。
     その日は朝一番に音楽番組の収録のため、テレビ局にやってきていた。スタッフに楽屋に案内され、ヘアセットとメイクを済ませたあとは慌ただしく打ち合わせに入る。
    「今日の予定は頭に入ってますね。やや過密なスケジュールなので、合間の休息はしっかりとってください。終盤に体力を切らさないように」
    「はーい。ふふ、凛太朗が見てくれてるんだから、最後まで格好いいオレでいないとね」
    「それと、今日の現場は社長も同行されますので、粗相がないように気をつけてください」
    「うん。ね、今日は他のアイドルや歌手もいるけど、オレを一番に見てくれなきゃ嫌だよ」
    「あなたの仕事が滞りなく運ぶよう努めるのがオレの仕事ですので」
     成立しているのか不安になる会話だった。ユーリの聞いている方が赤面するような台詞を、木崎は柳に風とばかりに受け流す。ユーリの言葉は飾りがなく、率直で、熱烈だ。まるで太陽のごとくであるが、それはいまのところ木崎の内側までは届いていないようだった。宇佐美はちぐはぐなキャッチボールを続けるふたりを眺めやり、混ざりあわない水と油を連想した。
     所用で木崎が外した折に、宇佐美はユーリに尋ねた。
    「凛太朗とはうまくやれているかね」
    「ええ、なかなかお堅いひとみたいですけど、そのうちこころを開かせてみせますよ」
    「自信があるんだな」
    「それはオレはトップアイドルになるんですから。一番傍にいてくれるひとに好かれないなんて、アイドル失格でしょう」
     もちろん、オレが凛太朗のこと好きだからというのもあるんですけど。
     いっそ作り物めいた完全無欠の笑顔で宣う。その声色に偽りや強がりは一切感じられず、実績に裏付けられた自信に満ち溢れていた。宇佐美は自分が見出した原石が本物であることに満足を感じつつ、別のことも考えていた。
     なにも太陽ばかりが旅人のコートを脱がせるわけではない。砂漠においては太陽から肌を守る布が必須なように、強すぎる光は害毒にもなりうる。ユーリがそれに気づくかどうか。
     宇佐美がそんなことを考える傍らでユーリはあごをつまんで悩みこんでいる。
    「んん、とりあえず、オレが本気だって分かってもらわないとな」
    「おまえはアイドルなんだ、特定個人に入れ込むのもほどほどにな」
    「はーい。分かってます」
     会話がひと段落したところでちょうど木崎がもどってきた。ユーリと宇佐美の分の昼食を調達してきたらしい。まだ温かい仕出し弁当のパッケージを受け取って、ユーリは首を傾げた。
    「あれ、凛太朗の分は?」
    「オレはまだすこし挨拶などまわらなければいけないので、あとでいただきます」
    「ええ、大丈夫? 今日はこのあとも忙しいって、凛太朗自分でも言ってたよね」
    「ご心配なく。最低限の栄養は摂っています」
     あくまで慇懃に気遣いを遠ざけられて、ユーリも引き下がるしかない。ユーリの立場ではここまでが限度だろう。いまのユーリに、木崎の仕事をどうこう口出しできる権限も資格もない。木崎の疲労はどうあれ、マネージャーがいなければユーリの仕事はまわらないのだ。
     ふと、宇佐美はひとつ試してみたくなった。北風が勝てるかどうか。
    「凛太朗」
    「はい、社長」
     呼ぶとよくしつけられた犬のように傍らまで寄ってきて常識的な位置で待機する。さらに近くまで寄るよう指で指示すると、木崎は一瞬もの問いたげな表情をしたがすぐに従った。身体を傾けると耳を傾ける姿勢をとる。
    「おまえ、朝から気にはなっていたが、すこし頬が痩けたのではないかね」
    「は、はぁ……」
     木崎は忙しなく目を瞬いた。視線が泳ぐ。自覚はあったらしい。仕事を用意しているのは誰あろう宇佐美なのだが、それを指摘できるほど木崎が不遜になりきれないことは先刻承知である。木崎は宇佐美の鋭い眼光に耐えかねたようにうつむき肩を縮めた。ユーリが怪訝そうな顔で窺っているのを察しながら、宇佐美は追及の手を緩めない。
    「食事は三食摂っているか。今朝はなにを食べたね。言ってみなさい」
    「は……あの、栄養バーを一本……」
    「そういったものはあくまで補助として用いるもので、それのみで栄養がまかなえるわけじゃない。以前も言ったと思うが」
    「はい、いえ、あの……申し訳ありません」
     木崎はますます身体を縮こまらせた。年少者のまえで詰られて、屈辱と思ってもいいはずなのに、反抗的な目つきひとつ寄越さない。むしろ視線がそそがれること、言葉に打擲されることに喜びすら感じているようだった。
     欲しかったものは得られた。宇佐美は声音をやわらかく変化させる。
    「おまえに倒れられては困るんだよ。私がおまえをいかに信用し頼っているか……知っているだろう」
     木崎は濃く生え揃った睫毛を震わせ、上目遣いに宇佐美を見た。
    「おまえの身体はおまえだけのものじゃないんだ。分かるね?」
    「は、い」
    「よし。ではおまえも挨拶まわりが終わったらきちんと昼食を摂りなさい。ユーリの面倒は私が見ておくから」
     ちろり、と木崎がユーリを流し見た。職務への責任と上司の指示と、どちらを選ぶべきか、逡巡するように黙りこみ、やがてはい、と小さな声で答えた。天秤は宇佐美の方に振れたらしい。
    「では、失礼します……」
     やや酩酊したような足取りで退室していった木崎を見送り、部屋はふたたび宇佐美とユーリが残される。宇佐美が見やると、ユーリは分かりやすく不服げだった。口の端がつりあがるのを堪えようとし、うまくいかずに唇を歪める。
    「……まあ、こういう手もあるということだ」
    「なんかズルくないですか社長」
    「ずるいものか、自分の持っているものを最大限活用してこそだろう」
     宇佐美は悪びれず言う。むう、と頬をふくらませているユーリを横目に、北風がコートを剥ぎとる結末の寓話は、きっとバッドエンドだろうと、そんなことを考えていた。
    煙草の話
     シリンダー錠がまわる音を聞くと、家のどこにいてもなにをしていても体が反応する。リビングにいた木崎は読みさしの雑誌をテーブルに放るように置いて玄関に急いだ。この家の主人を出迎えるためだ。
    「おかえりなさい、社長」
    「うん、ただいま凛太朗」
     もう習いになって当然のように渡される書類のどっさり詰まった使い込まれた鞄を受けとって、控えめにお疲れさまでした、とねぎらいの言葉をかける。
    「お手伝いさんが夕食を作ってくださってます。食事の支度をしましょうか」
    「うん、頼むよ」
     衣服の管理は木崎の担当だった。宇佐美の脱いだ上着を受けとった瞬間、鼻腔をかすめた煙っぽさに、木崎はくん、と鼻をひくつかせた。特徴のある、苦みのあるにおい。時間にして一秒もなかった仕草を、宇佐美は目敏くみつけてたずねた。
    「におうか」
    「あ、いえ。ただ珍しいなと。煙草吸われるんですね」
    「付き合いでな。あんな不味いもの、好んで吸うものか。においも付くし……今日だって相手が相手でなければさっさと帰っていた」
     よほど不本意だったらしい、宇佐美は眉間にしわを寄せた。
    「おまえもやめておけよ。健康に悪い」
    「そうですね。でも、煙草って格好いいイメージありますし、社長は似合うのでしょうね」
     スポンサーや仕事相手など付き合いの多い宇佐美なら煙草をたしなんでいても意外でもなんでもないが、プライベートで吸っているところは見たことがなかった。煙草はあくまでビジネスの道具ということだろう。なんの気もなしに言った言葉に、宇佐美は木崎を振り向いた。
    「じゃあ吸ってみせようか」
    「え」
    「灰皿は、と」
     リビングに向かう宇佐美を追いかける。宇佐美は来客用の灰皿をもってきて、テーブルに置いた。ソファに腰かけ、隣を指さす。座れ、ということだ。
     紙箱を一振りして一本取りだして吸い口をくわえ、宇佐美は木崎にライターを手渡した。
    「火、もらえるか」
    「あ、は、はい」
     ふたを開けるときんっと高い音がした。ホイールに親指を当てて押し下げる。初めてのことで勝手がつかめず、三度目でようやく橙色の炎がゆらりと立ちのぼる。左手で火を消さないようかばいながら先端に近づけると、宇佐美が顔を傾けた。唇をとがらせ空気を吸いこむと、ぽうと先端が赤く灯った。
     ふう…っと煙が吐き出された。節くれだった指で細い紙巻き煙草をはさみ持ち、すこし顎をあげて、紫煙を吐く宇佐美は、木崎の想像通り、よく絵になっていた。
    「どうだ」
    「え」
    「え、じゃない。おまえが見たいと言ったんだろう」
    「あ、う、その……かっこいいです」
    「そうかい」
     宇佐美はふたたび煙草をくわえ無言でふかした。木崎も無駄口をきかず、映画のワンシーンのような時間を贅沢に味わっていた。
    「おまえも吸ってみるか」
    「え?」
    「ほら」
     宇佐美が人差し指と中指ではさんだ煙草を、くるりと掌を返して木崎に差しだした。かすかに唾液に濡れた吸い口が光っている。じり、と先端が燃える。
     木崎はそろりと顔を近づけ、煙草を唇にはさんだ。ほんのすこし空気を吸いこむ。煙が流れこんでくる。舌の上に苦みがはしる。派手にむせるかと思ったが、そんなことにはならなかった。口内にためた煙を吐きだす。宇佐美の顔が一瞬白い煙に覆い隠されて見えなくなる。
     煙が散って、宇佐美の顔が見えるようになると、宇佐美は手をひいてまた深々と煙を吸いこんだ。不味い、と言っていた割に、おいしそうに喫む。
    「……ふふ、おまえの肺を汚してしまったな」
    「気にしません」
     あなたにつけられた汚れなら……
     それは伝えるにはあまりに不健全で褒められたものでないとわかっていたので、木崎はうっすら笑うだけにとどめた。
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    2023/03/23 22:31:21

    宇佐凛まとめ1

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