数学教師ドラルクの華麗なる朝【7時12分】
「いっけな〜い☆ 遅刻遅刻〜!」
やっほー☆ 私、ドラルク☆ ちょっぴり虚弱(笑)な、フツーの高校2年生!
──の副担任を務めている数学教師だ。
時刻は朝の7時12分。ドラルクは真顔で電動キックボードのアクセルを全開にして、職場に向かう車道を滑走していた。シルクのグローブをはめた両手の指は、道路の舗装に合わせて器用にアクセルとブレーキを切り換える。ストラップを通して、左腕にひっかけているセカンドバッグが、アスファルトのわずかな凹凸に合わせて小刻みに揺れていた。
やれやれ…。今日から教育実習生が来るというのに、まさか数学担当である私の到着がギリギリになってしまうとは…。
いつも乗っている市営バスに乗り遅れた日は、自宅アパートの駐輪スペースに今年から設置された、レンタル式電動キックボードで通勤するのが、ドラルクの最近のマイルールだった。
それにしても、やむを得ない状況だったとはいえ、今日はかなりギリギリの時間になってしまった。教師に遅刻はご法度だ…。
ましてや、教育実習生たちの中で、私が遅刻したとでも知れ渡ってみろ…。あンの、いまいましい教頭クソひげひげに、なンて嫌味を言われるか…!!
ドラルクは渋柿でも食べたかのように、顔面のパーツをキューッと中央に寄せて顔をしかめた。
間に合うだろうか…。いや、間に合わせる!
ひとすじの汗が伝う背中をシャキッと伸ばす。自然とアクセルを押し込む右手にも力が入る。まだ7月の初旬だというのに、今年は猛暑で、外はうだるような暑さだ。家を出る前にSPF50+の日焼け止めをしっかり塗りこんでおいてよかった! いくら私がダンピールだからといっても、この直射日光はさすがに体調に響く。
朝早く、車通りの少ない道は緩やかな下り坂になっていて、電動キックボードは順調にドラルクを運んだ。右前方にコインパーキングが見えたところで、若葉の萌ゆる枝垂れ桜を横目に右折する。そして突き当たりを左折、再度突き当たりを右折…。ぐねぐねと住宅街の細長い道が続く。
いつもは通学中の生徒とすれ違うこともあるが、今日は期末テスト明けだからか、道は閑散としていた。とはいえ、夏休み間近でテンションの上がった小学生が急に飛び出してくる恐れがあるから注意が必要だ。
道を直進してから向かい合う二叉路、ここからが問題だ。この貧弱泣かせの登り坂! でも大丈夫、私にはこの文明の利器がある。
電動キックボードが、重力に引かれて多少減速しつつも、ゴロゴロゴロと坂道を登っていく。その音を聞きながら、ドラルクはようやく近づいてきた高校の校舎を眺めた。
緩やかに山を切り開いて建てられた我らが学び舎は、周囲を木々と住宅街で囲まれた常夜町のささやかなシンボルだ。隣接している小学校では、児童たちが校庭で遊んでいる様子が見える。朝早くからご苦労なことだ。坂を登り切ったら、高校に向かう細い下り坂を一気に下りる。ここまでくればラストスパートだ!
ギャリリリリ!!
ドラルクは、電動キックボードの前輪を一瞬高く上げ、ハンドルを切ってドリフトさせながら校舎近くの専用駐車場になめらかに停車した。そして、走るまではせずとも、可能な限りの大股で『新横第一高校』という看板を掛けた校門横の職員通用路を通り抜ける。
「おはようございます! ドラルクです!」
元気いっぱいのドラルクの挨拶に、中庭の植木に水を撒いていた用務員は、汗で顔に張りついていた長い前髪をかきあげながら、片手をあげて挨拶を返した。ドラルクはそのまま歩くスピードは緩めずに、胸ポケットから出したコームで手早く髪を整えながら中庭を突っきると、正面の建物にある来客用の待ち合わせスペースに近づいた。
時刻は7時20分。教育実習生たちとの約束の時間ジャストだ!
(ふう〜…なんとか間に合った…!)
額にうっすらと滲み出た汗を、スラックスのヒップポケットから出したハンカチで押さえる。
ひと呼吸置いて、私がそっと待ち合わせスペースの中を覗くと、ベンチの前でスーツ姿の若者が、緊張した面持ちで立っていた。
「あ! お、おはようございます!!」
スーツを着た女性は、ドラルクと目が合うや否や、肩をこわばらせたまま勢いよく頭を下げる。その動作に一瞬面食らったものの、ドラルクは落ち着いた様子で挨拶を返した。
「やぁ、おはよう。本校の数学を担当しています、ドラルクです。君が、今日から教育実習の数学専攻の子だね」
私は爽やかに笑いつつも、自分の襟元でループタイがあらぬ方向に曲がっていることに気づき、ググイッと位置を正す。
「これから3週間、どうぞよろしく! おや。他の学生さんはどちらかな…」
「はい! すでに別の教科の先生方が、それぞれお連れになりました」
「おっと…! それはお待たせして、大変すまなかったね…!」
わざとらしく驚いたふりをして、私は口元に手を当てた。もちろん、各教科の担当教員がそれぞれの実習生を個別に案内することは事前に聞いている。我ながら、クサくて良い芝居だ。
「では、さっそくご案内しましょう」
ドラルクはそう言うと、微笑みながら右手の指をピッと2本立て、前方にある階段をスルリと指した。
「数学準備室は東館の2階です。どうぞ、こちらへ」
まるで案内人のように、ドラルクはうやうやしく足を運ぶ。丁寧に、優雅に、そして紳士に。
(危ない危ない…。まぁ、教師としての矜持は、十二分に保たれたんじゃあないか?)
ドラルクは階段を登りながら、背後の教育実習生に見えないように片頬を上げると、ほっと胸をなでおろした。
うーん、さすがは私!