そしてロドになる───キュキュッ!
バスケットシューズが床を蹴る高い音が、体育館に響く。新横第一高校の体育講師ロナルドは、大きく手を叩き、顧問である女子バスケ部の部員たちに声をかけた。
「よーし。今日の練習はここまで〜! 集合〜」
「「はぁーい!」」
**
「じゃ! ロナせん、おつかれー!!」
部活帰りバスケ部員たちが、体育館を施錠しているロナルドに声をかける。
「おぉー!」
今日の体育館周辺の戸締まりの確認は、バスケ部顧問である自分の役割だった。
「よし。俺はドラルク先生のとこに日誌渡して、鍵返してくるから。みんな、ちゃんと帰ってな〜?」
「はーい。ねぇねぇ! ドラちゃんといえばさ〜!」
「こぉら。ドラルク『先生』、だろー」
ロナルドは慣れた手つきで、体育倉庫の古い扉を閉める。
いい加減、老朽化対策の経費か何かで、ここの扉も変えてもらわないとなぁ…。
「うん! ドラルク先生、今度結婚するらしいよ!」
…ん?
「じゃ、うちら帰るねー! みんなで桃フラペ飲んでくるわw」
バスケ部員たちは、そう言うと、ばいばーい! と手を振りながらそれぞれの自転車に乗って、夕陽の中に消えていった。
…んん???
部員たちの背中を見送る視界がゆっくりと歪んでいく。
「こら、寄り道しないで帰りなさい!」、生徒たちにそう言いたかったはずなのに、言葉がうまく出てこない。
あの、ド、ド、ドラルク先生が…、け、結婚…??
**
「おつかれさまでぇーす…」
ロナルドが日誌を届けに職員室に戻ると、すでに他の教員は帰宅したようで、数学教師のドラルクのみが残っていた。
「おや、ロナルド先生。こんな遅くまでお疲れ様です。そうか、バスケ部はもうすぐ夏季大会ですものねぇ」
ドラルクはそう言って、メガネを外しながら卓上カレンダーを見る。
「あはは…。まぁ、俺が顧問として出来るのは、これくらいですから。ドラルク先生は、確かクイズ研究部の顧問と…えっとぉ…TP…」
「ええ。クイズ研究部とTRPG同好会。クイ研も、どうやら夏に大きな大会が控えているようで、遅くまで頑張っているみたいですよ」
ドラルク先生はそう言うと、俺に全国高校生クイズ選手権のチラシを見せてくれた。
「わー! すごい。チラシありがとうございます」
「いえいえ」
ドラルクは微笑みながら、返されたチラシを引き出しにしまうと、元のパソコン作業に戻った。パシパシ、パシ、とキーボードを打つ音が職員室に響く。
その音を聞きながら、隣の席でロナルドは思いふけっていた───
昼休みに窓際で赤本を読む姿が、まるで邪悪な妖精…い、いや、深窓の令嬢のようだと、生徒たちに噂されている独身貴族の代表のような、このドラルク先生が結婚…?
(誰と…いつ…どこで…どうやって…)
ぐるぐると思考を巡らせながら、ロナルドは、横目でドラルクを覗き見た。
確かに、ドラルク先生ってスタイリッシュって言うか、腰のラインとか、スッと通った鼻筋とかがキレイで…。そ、そういえば! バレンタインには数こそ少ないものの、毎年、熱心な一部の生徒からチョコが贈られてるって噂も聞く。ドラルク先生が結婚…。『ある』のかもしれない…。
「あのぅ…。生徒たちから聞いたんですが、ドラルク先生って、ご、ごけっ…」
「?」
「ごけっ…。ご…」
「…はい?」
「……ご決断が、早いですよねぇ!?」
「はぁ…」
ドラルクはポカンとした顔でロナルドを見る。
「なんでも、先日のクラス会も生徒の文化祭の発案をうまくお取りまとめになったとか!!?」
俺は、滝のような冷や汗をかきすぎて、ついごまかしてしまった。
「ふふ、それはどうも。ただの年の功ですよ。生徒たちもアイディア出しを頑張ってくれていました」
ドラルクは社交辞令と受け取ったようで、すぐにモニターと向き合い、作業に戻る。
うおォン…俺の意気地なし…! いや、も、もう一回! もう一回だけ、聞いてみよう…
「あのッ…」
「よぅし!! 完成だ!!!」
カチャカチャ! ッターン! という音とともに、ドラルクが立ち上がる。
「うおぇえ!?」
「いやぁ〜。やっと出来ましたよ。明日の抜き打ちテスト! これで、うちのB組の奴らの度肝を抜いてやりますからね〜」
そう言って、ニヤニヤと笑うドラルク先生。どうりで、B組の数学の平均点はうなぎ上りなわけだ…。
「近ごろは教科書の先の方まで読み込んでいる生徒が多いですからねェ…。これなら、高校数学だけだと、なかなか解けないはずだ!」
プリントアウトした問題用紙をパシリと指で弾きながら、邪悪な顔でドラルク先生が笑う。
(そもそも高校数学で簡単に解けない問題を出すべきではないのでは…?!)
というロナルドのハラハラした心中を察したのか、
「なぁに、ご安心ください。そもそも設問には解法を示すように指示しています。さぁ、みんな! どこまで頑張れるかな〜☆」
ドラルク先生は悪い顔のまま、ガッツポーズをして上機嫌だ…。ただ、こうは言っていても、毎回、赤点の生徒には丁寧に補習を組み、その生徒に合わせた解説を用意しているのが、ドラルク先生だった。その様子は、まるでシミュレーションゲームでも楽しんでいるかのようで、そんな姿勢を、俺は少し尊敬していた。
「さて、と!」
ドラルクはノートパソコンを閉じ、セカンドバッグに荷物を詰める。そして手際よくジャケットを羽織ると、ロナルドに背を向けて職員室の扉に手をかけた。
「では、私はクイ研の部室の施錠を、念のため確認したら、お先に失礼しますね?」
俺は慌てて声をかける。
「あ、あの…!」
「はい?」
ドラルク先生が顔だけ俺の方に振り向いた。どうしよう、まだ例の結婚の件を聞けていない…。
「えっと…その…あの……」
焦って、うまく言葉が出ない。無理に聞き出すのは失礼だし…。でも…
「…あー。もしロナルド先生さえ、よろしければですが…」
そんなロナルドを見かねたように、ドラルクはひらりと体ごと振り返ると、右手で半円を作りながら口元でクイッと傾けて笑った。
「一杯だけ、飲みに行きます?」
**
さかのぼること、20分前。放課後の職員室で、小テストの問題用紙を作りながら、ドラルクは頭の隅で別のことを考えていた。
(──なにやら、ロナルド先生の様子がおかしい…)
体育講師のロナルド先生。彼は常勤講師という立場にも関わらず、いつも一生懸命で、(少し自己犠牲の精神が目立つが…)上から頼まれるやっかいな仕事にも真摯に取り組むことのできる、非常に優秀な教員だ。だからこそ、もし仕事にフラストレーションの芽があるのであれば、彼のためにも早めに摘んでおいてやりたい。
そう判断し、私から行きつけの店に誘ったのだが───
「ハッハッハッ!!!」
鋭い犬歯が見えるほど、大きく口を開けて、ドラルクは笑う。
「笑いごとじゃないですよぉ…」
コークハイと羞恥心で、耳まで赤くなったロナルドが、肩身狭そうにうつむいた。
「いやぁ、失礼失礼。でも…まさか…ふふ…」
「うぅ…」
「私が、今度譲り受けるマジロくんのことを…くふふ。私の結婚と勘違いされていたとは」
ドラルクは、赤くなったロナルドと、スマホのアルマジロの写真を交互に見て、またくっくっくっ…と笑う。
「お、俺じゃなくてぇ…生徒がぁ…」
「えぇ、えぇ。確かに『家族が増える』という話は、先週、一部の生徒にしましたよ」
ぐぅう…でも、まさかのアルマジロって…。いや、ごめん! マジロに罪はない!
「すみません…。俺、生徒のウワサ話に、すっかり翻弄されちゃって…」
「んふふ…いや、結構! 生徒たちと砕けて話せている証拠です」
ドラルクは、楽しそうに日本酒をあおった。ふたりが並んで座っているのは居酒屋の木机のカウンター席だ。
「あぁ〜♪ ヨヨイ!!」
店内は縁日のような雰囲気で、ほっかむりを被った店主らしき男性が、女性客とジャンケンをしている。どうやらジャンケンで勝つと、チョコバナナが追加で貰えるらしい。
俺はその様子を見ながらトックリを両手で持ち、ドラルク先生の空いたオチョコに近づけた。
「でも、意外でした。ドラルク先生が行きつけのお店と伺ったので、てっきりお洒落なバーか、何かかと…」
「ええ。いい店でしょう」
ドラルクはロナルドからの酌を受けながら、バーも嫌いじゃないですけどね、と添えた。
「行きつけってなると、こういう懐かしい感じの店が好きかなぁ、私は」
「へぇー…」
ほろ酔いのドラルク先生は、いつもより頬が赤らんでいて、その艶やかな雰囲気に、何だかこっちまで酔いが回ってしまいそうだった。
「まぁまぁ♪ 今日の会計は私が出しますから。ロナルド先生も日本酒、いかがですか?」
「そんな…! あ、ありがとうございます。おっとと…」
俺は、ありがたくドラルク先生からのお酌を受け、お互いのオチョコをカチリと当てた。
「「かんぱ〜い!」」
夜がゆっくりと更けていく───
**
「う…うぐぅ…いいんです…。所詮、俺は『常識(J)の欠落(K)した人間』…略して『JK』ですのでぇ…」
えぐえぐと、日本酒の一升瓶を抱えたロナルド先生が泣きべそをかいている。
「おやおや…w」
ドラルクは面白がるように目尻を下げ、すっかりぬるくなったおしぼりで、口角のあがった口元を隠した。
仕事のグチでも聞いてみようとしたら、随分と面白いことになった。
「ふっふ…ロナルド先生はJKではありませんよ。落ち着いてください」
私は子どもをあやすかのように、左手でロナルド先生の背中をさする。
「まさか泣き上戸だったとはねぇ…」
私はそう言って、彼のふわふわとした髪を指ですくった。このまま様子を見ていても面白いが、残念ながら明日も仕事だ。そろそろお開きかな。
ドラルクは、空いた右手で店員に声をかけた。
「すいませーん。お水とお会計ください♪」
店を出るころには、ロナルド先生の涙もすっかり落ち着いていて、重そうなまぶたを開きながら、かわいらしい千鳥足で歩けるようになっていた。
帰り道に通る公園には、大きな池があり、昼間はスワンボートで遊べるレジャースポットだ。池の外周をふたりで歩きながら、せっかくなら…と私は質問をしてみた。
「ロナルド先生は、なぜ教員の道に?」
「あぁ。うち、両親がいないんです。そんな中、アニキが警備員の仕事一本で、俺と妹を育ててくれて。俺もアニキみたいに人の成長に関われる人間になりたいなぁ、なんて」
ロナルドは前髪の隙間から、まどろんだような青い瞳でドラルクを覗きながら答える。
「素敵なお兄さんですね」
「はい! …でも俺、高校のとき器械体操を頑張ってて、今思うと、もっとやってもよかったかもなぁ。…あ、せっかくだし、見ますか?」
「えぇ、今度ぜひ写真でも……って、えぇ!?」
ドラルクの目に入ったのは、池の方に駆け出し、スワンボートの屋根の上で器用に逆立ちをするロナルドだった。月光を浴びてキラキラと輝いた銀髪が、ドラルクの瞳にまばゆく映った。
「ぃよっと!」
両腕の力で大きく跳ね上がったロナルドの体が、空中でひねられながら後方に宙返りし、そのまま両足でスワンボートに着地する。衝撃を受けた水面に、ゆったりと大きな波紋が広がった。
「へへー!」
両手を上げて得意げに笑うロナルド先生と目が合い、私は思わずはにかむ。
「面白い男だねぇ…」
ドラルクはクシャリと笑ってそう呟くと、ロナルドに向かって軽く手を振った。すると、ロナルドもそれに応えるように、手を振り返し、うやうやしく一礼をする。月夜の下で、まるで客席に一人しかいない劇場のように、ふたりの間を、心地のいい時間が流れた。
「ドラルク先生、俺…」
静寂を破り、ロナルドが口を開いたとき───
「こらー!! そこの酔っ払い!! 何やってる!?」
「「あ」」
ツルッ
ドッボーン!!!!!
見回りの警備員の怒号が飛び、ふたりは現実に引き戻された。そして、警備員の声に驚いたロナルドは、豪快な水柱を立てながら、池に落ちていった。
「ブェエー!! も、藻が…」
鼻と口から藻を吐き出したロナルドが、池の水を吸って重くなったジャージを引き摺りながら、なんとか身をよじって陸に這い上がる。その一部始終を見ていたドラルクは、声もなく腹を抱えて笑っていた。
「この辺の会社員かー? ちょっとこっちに来なさい!」
警備員が懐中電灯で照らしながら、ツカツカとふたりの方に歩いてくる。
「やばい…。すみません、ドラルク先生…俺のせいで…」
ロナルド先生は半泣きになりながら、笑いすぎて涙ぐんでいた私に近づくと、小声で謝ってきた。
「ふふ、何言ってるんですか! さぁ、逃げますよ!」
あー、こんなに面白いのはひさしぶりだ。
ドラルクは、警備員に背をむけて、ロナルドの手を取り、走り出した。目を細め、口角を吊り上げ、これまでになく楽しそうな顔で。
「あ! こら!!? 待ちなさい!!!」
「アッハッハッハ!!」
ドラルクの高笑いが町に響く。それにつられて、驚いていたロナルドも次第に笑いがこみ上げてくる。
全身びちょびちょで青臭くて、下着までズブ濡れだというのに、ロナルドはなんだか、この上なく幸せだった。
**
「ドラちゃ〜ん!」
翌日、職員室の入り口には女子生徒たちが集まっていた。
「ん〜? どうした、諸君〜」
ドラルクは、クイ研から借りた大会規定から目を離すと、席から立ち上がり、彼女たちに近づいた。
「おぉっと。教頭が来たときは、ドラルク『先生』で頼むよ…?」
ドラルクは、空席のノースディン教頭の机をチラリと見ると、わざとらしく小声で囁く。
「おっけーw それで、バスケ部の夏休みの日程を相談したいんだけどさ。今日はロナせん、いないの?」
「あー…。実は今日はね…」
ドラルクは苦笑いしながら、昨晩のことを思い出して、目を泳がせた。
「えーと…、ロナルド先生、どうやら風邪らしい…」
「まじ?! あの人、風邪とか引くんだ!」
バスケ部員たちは、いっせいにドッと盛り上がった。
「悪いねぇ。何か渡すものがあれば、私が代わりに受け取っておくけど」
「ありがと! じゃあ日程案だけ、お願いしようかな」
バスケ部員の女子たちはそう言うと、ドラルクに日程表が挟まれた赤いバインダーを手渡した。職員室の扉を閉めたドラルクが自分の席に戻ると、遠くの方から「ロナせん、風邪だってー!!!」と廊下で叫ぶ女子生徒の声が聞こえてくる。
すまない、ロナルド先生。どうやら君の凶報は一日で学内に広まってしまいそうだ。
苦笑いしながら、ドラルクは目をつぶり、昨晩のやり取りを思い返した───
「そんな濡れネズミで帰ったら、風邪を引きますよ?」
警備員をうまく撒いたドラルクは、ロナルドのジャージの上着を預かって軽く絞ったが、その細腕ゆえか、あまり脱水の機能は果たさなかった。
「いえ、大丈夫です!」
ロナルドはそう言うと、ドラルクからジャージの上着を受け取り、力いっぱい絞る。じゃばー! と勢いよく水が流れ落ちた。
「ふぅーん。私の家なら、すぐそこなのに…」
「いやいや…! ドラルク先生のご自宅に行くなんて、そんなことはできません…」
「最近、親戚から空き家を譲り受けたので、かなり広いですよ?」
「いやいやいや!!!」
なぜかロナルド先生は、かたくなにそう断ると、丁寧にお礼を言って、歩いて帰っていったのだった。
「───回想、おわり」
ドラルクはゆっくり目を開くと、学級日誌を持って立ち上がる。
そろそろ、私が担任であるB組のホームルームの時間だ。今日は金曜日で夜間学校の授業もあるから、21時前には体が空くだろう。
「さて、どうしようかね?」
隣の机に置かれた赤いバインダーを見て、ドラルクはニヤリと笑った。
**
新横第一高校から徒歩40分ほどの四畳半のアパート。壁にうっすら残るシミや、階段の錆びれ具合など、決して優良な物件とは言えないが、ロナルドはこのアパートの雰囲気を気に入っていた。
「じゃ、うどんは食べられそうな感じ?」
「えぇーっと…」
ドラルクの問いかけに、ロナルドは戸惑いつつも、首を縦に振った。
実家暮らしのときに何だかんだで憧れていた一人暮らし。ささやかな四畳半の俺の城。そこになぜか今日、ドラルク先生がいる。
「あ、ネギあったか〜。買ってきちゃったよ、ごめんごめん」
しかもエプロンつけて、キッチンに立ってる。
「たまご、二個入れちゃおっか♪」
さてはこれ、夢かな?
「ロナルド先生?」
ドラルクは布団に近づくと、ペチペチとロナルドの頬を優しく叩いた。
どうやら現実らしい。
「一応、薬も飲んでるみたいだけど…。頭とか痛みます?」
ドラルク先生はそう言うと、俺の額の冷えピタをペロリと剥がし、新しいものに貼りかえてくれた。
「うん、これでよし!」
やっぱり夢かもしれない…。
俺は、風邪でぼんやりした頭をどうにか振り絞り、おそるおそる聞いてみた。
「あの…ドラルク先生? どうして、ここに?」
「いやぁ、バレー部の生徒たちが、ロナルド先生に日程表をどうしても、って言うものでね〜」
「いや、それでも、それを、わざわざ…?」
「…それと」
よっこいしょ、とドラルク先生は立ち上がり、キッチンから煮込みうどんを持ってきてくれた。
「私もロナルド先生のことが、心配だったのでね」
「あ、ありがとうございます…」
「いえいえ!」
ロナルドは煮込みうどんを受け取り、ふぅふぅと冷ましながら勢いよくすすった。
「う、うまいです!!!」
「それはよかった」
ドラルクは、うどんをすするロナルドを見ながら、満足そうに笑った。
「じゃあ、私はキッチンを片付けてるから」
「すみません、ありがとうございます…」
「あと、冷蔵庫にみかんのゼリーもあるから、食べられそうなら食べちゃって」
「は、はい!」
俺、こんなに幸せでいいのかな…。
ロナルドは、たまごの黄身にうどんを絡ませながら、一瞬そう悩んだが、口に運んでいるうちに、その悩みすら薄らいでいった───
「私の母は国際弁護士をしていてね。秘書を兼ねている父と一緒に、世界中を飛び回っているんです」
食器を洗い終わったドラルクは、自分のみかんゼリーを食べながら、布団に横たわるロナルドにそう話した。
「すごい! ご夫婦で仲がいいんですね」
「まぁね。でも、ひとりだと、つい作りすぎてしまって。今日みたいに、君に毎日食べてもらえたら幸せだろうな」
「え…!」
「そうだ。今度はうちにご飯食べにきてくださいよ」
「い、いいんですか…? いやぁ、一緒に住むアルマジロくんが羨ましいなぁ…」
「ふふ。……君も一緒に住んでみる?」
ドラルク先生はそう言うと、ふんわりと笑った。冗談なのか本気なのかわからないその言い方に、俺は思わず息をのむ。
「えっと…あの…その……」
「なんてね!」
ドラルクは、おどけたように両手を広げた。
何だか安心したような、残念だったような。
「そうだ。面白いお土産がありますよ」
ドラルクは、自分のセカンドバックからA5サイズの薄い冊子を取り出した。
「私が学生時代に書いていた文集です。昨日の素晴らしいパフォーマンスのお礼にどうぞ」
「えぇ! ありがとうございます?!」
「実は学生時代は、物書きに憧れていたんです」
「わぁ。さすがドラルク先生、多才ですね…」
ロナルドは目を輝かせながら、受け取った本をまじまじと眺めた。
「では、月曜日に元気な姿が見られることを祈っていますね。よい週末を」
「は、はい! 本当に来ていただいてありがとうございました! うどんもすごく美味しかったです…」
「とんでもない。私も楽しくて、つい長居をしてしまいました」
ドラルクはバツが悪そうに片目をつぶって笑う。
「こちらこそ、たいしたお構いもできませんで…あの…」
「?」
「嬉しかったです…。そばにいていただけて…」
俺はまどろむ意識の中で、何とか、そう伝えたのを覚えている。お腹がいっぱいになったのと、ドラルク先生の匂いに何だか安心してしまって、俺の意識は徐々にフェードアウトしていった。
寝息を立て始めたロナルドの頭をドラルクは愛おしそうに優しく撫でた。
「ロナルド先生はかわいいねぇ」
しかし、この数分後、ドラルクは、ロナルドが自分のエプロンの端を絶対的な握力で掴んでいたことに気づき、諦めてエプロンを置いて帰るのだった。
**
「ドラルク先生、先週はありがとうございました!」
ロナルドが頭を下げながら、クリーニング店のタグがついたエプロンの入った紙袋を、ドラルクに手渡す。
「これはわざわざ! ご丁寧にありがとうございます。ロナルド先生の快気祝いです、ぜひお茶でも、と言いたいところですが…」
ドラルクは、体育倉庫の入り口をちらりと見る。
「やはり、開きませんか」
「…すみません、開きません」
月曜日の放課後、ロナルドとドラルクは体育倉庫に閉じ込められていた。
「うぅ、申し訳ないです…。俺がもっと早く体育倉庫の扉の交換を申請しておけば、こんなことには…」
「かまいませんよ! 元はと言えば、めずらしく体育倉庫に遊びに来た私が、間違って扉を閉めたのがよくなかったんです」
ドラルク先生は積み上げられた体操用マットに腰掛けて笑った。
ロナルドの復帰を聞いたドラルクは、放課後、体育倉庫で備品を整理していたロナルドのところにふらりと遊びに来たものの、自分が閉めた扉が、その後、びくとも動かず、スマホも無く、仕方なくロナルドと待ちぼうけを食らっていた。
「ちなみに、今日は夜間学校の授業はありますか?」
「はい。3限ですが…」
「それなら安心だ! 誰かしらが心配して探しに来てくれるでしょう」
ドラルク先生はそう言って、体操用マットにゴロリと寝転がった。こういう楽観的なところは本当に見習いたい。
「ロナルド先生もおかけになっては?」
「は、はい…。失礼します…」
俺は内心ドギマギしながら、ドラルク先生の隣に腰掛けた。先週、うどんをご馳走になってからというもの、何というか意識してしまって、ドラルク先生の顔がうまく見れない。今日も一日、無意識に顔を合わせるのを避けてしまっていた。
そんなロナルドを横目で見つつ、寝転んだドラルクが口を開く。
「それで、考えてくれました?」
「へ?」
不意に聞かれたロナルドが、思わずキョトンとドラルクの顔を見る。
「うちに住むこと!」
「どうぇえ!?」
動揺した俺は、叫びながら体操用マットからずり落ちてしまった。
「か、からかわないでください…」
「からかってるわけじゃないのに〜…」
ドラルクは渋々といった様子で、エプロンの入った紙袋を開けた。
「…おや? これは?」
紙袋の中にはエプロンの他に、一通の封筒が入っている。
「あぁ、それ、先日いただいた文集の感想文、というかファンレターです!」
「わぁ! 嬉しいな…」
ドラルクは封筒を開くと、便箋に目を通した。
「…うんうん。あ〜! 確かにあの話はロナルド先生がお好きかもしれない…」
「…」
自分の感想が目の前で読まれるのは、何だか照れ臭い…。
ロナルドは、ドラルクの様子を見つつ、口を開いた。
「それで…俺たちって…」
ガチャ!!
「ロナルド先生、ドラルク先生!? 大丈夫ですか!?」
倉庫の扉をこじ開けた用務員が、慌てた様子でふたりに声をかける。
「あ! あぁ、はい! 大丈夫です!」
ロナルドも元気よく返事をする。
とほほ…。タイミングは重要だ。がっくりと肩を落とした俺に、ドラルク先生が横から耳打ちをする。
「『俺たちって』?」
「え?」
「その続きは言ってくれないの?」
「え、あの、それって…」
「まぁ、今夜うちで言ってくれてもいいですけど。もともと、お夕飯をご馳走する約束だったので」
「は、はい! あの…ぜひ!!」
それから3年後───
ドラルクは、昨日見つけた一通の封筒を思い出して笑っていた。
「んふふ」
「どうしたんですか?」
「いえ。掃除してたら、昔、好きな人からもらったラブレターが出てきてね…」
「ラァ!?!!!」
教師になったロナルドは、ドラルクの持ち家である日本家屋で一緒に暮らしていた。帰る時間が揃った日には、こうしてふたりで買い物しながら帰るのが習慣だった。
「あ、あの…ドラルク先生? ラブレターっていうのは…その…」
「まぁまぁ。今夜、ゆっくり説明しますよ」
ドラルクはそう言って、ロナルドの手を握った。
「さぁ、帰りましょうか」
家に帰れば、もうひとりの家族であるアルマジロが待っている。
今日の夕飯は何にしようかな、そんなことを考えながら、ドラルクは踊るように闇夜に解けていった。
おわり