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    しおり
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    しおり
    はじまる季節に この子は真面目だから、もし恋をするなら多分いつかは誰かひとりを選んで、まあ告白とかして付き合って、それから結婚でもなんでもするんだと思っていた。もしも恋愛や結婚に、価値を見出しているのなら。そうでないならそんな日も来ないのかもしれないけど。
     それなのに、目の前の現実ときたら。
    「結婚でもしますか」
    「え?」
    「俺たち」
     何がどうしてこうなったんだよ。

    ・・・

     ねえちょっと付き合ってよ、とアポもなしに恵の家に押しかけて、イヤだという間も満足に与えないまま人さらいのように街へと連れ出して、僕の休日の買い物に同行させる。
     別に買おうと思えばネット通販でも手には入るけど、時間短縮にはなっても味気ないし、誰かとあれこれ言いながらの買い物のほうがやっぱり張り合いがある。特別に今必要なわけでもないけど、久々にぶらつきたい気持ちであちこちに足をのばしていろんなお店をはしごした。服屋、靴屋、時計屋、インテリアショップに電気屋。昼食には回らないお寿司を、それから小腹満たしにお気に入りのスイーツがある喫茶店にも。買い物にそこまでくどくど悩むほど物に執着しないし、何より買えないものはまあないからさくさくとショッピングは進んでいった。
     散々連れ回された恵はどんどんとぐったりした顔になってってちょっと笑えた。幼い頃もそうだったな、とふと思い出す。小さい恵の手を引いて、生活に必要なものをなんでも買い揃えてあげた。今日みたいに沢山のお店を回り続けてくたくたでベンチで寝こける恵を、津美紀と二人で笑いながら眺めていたりもしたっけ。
     普段は多分お店といったら、ほとんどスーパーかコンビニか本屋くらいにしか足を踏み入れないだろう恵を、恩人特権で手を引いて、僕の領域に引きずり込む。どのお店でも恵はまあまあ興味もなさそうだったりもするけど、それでも要所要所での、これどお?どっちがいいかな?みたいな僕の質問には、結構真面目に答えてくれるところが律儀で好きだ。連れ回し甲斐があっていい。
     最後に、じゃあ今日付き合ってくれたお礼にと言って、お礼は要らないので早く帰りたいという恵をまた無理やり引きずって、恵くらいの年の子に合いそうな服屋に入って、店員に色々見繕ってもらった。何パターンか出してもらってから、僕もあれこれ口を出した。恵は結構なんだって似合ってしまうし着せる方は楽しいけど、ほとんど服に興味のない本人はただ着せられるがままで、ああ、はい、何でもいいです、しか返ってこない。僕の買い物より興味なさそうじゃん。恵、スタイルいいからまあなんでも着こなしちゃえるしねえ、と零したら、それをアンタが言いますか?と呆れた顔で返された。
     数着買ってあげようと思ったのに、いい加減子供じゃないんだからそんなにホイホイ買い与えてくれなくていいとかクローゼットが窮屈になるとかいう理由で一着だけにさせられた。貢ぎ甲斐がない。ちょっとつまんないと思ったけど、それでも一着はオーケーしてくれるあたり、僕の気持ちの落とし所を理解している感じはする。
     着る機会も大してないのにこんな高い服をと、服屋を出てからまた小さくぼやくので、まだまだ若い盛りなんだから、着飾ればいいじゃんと返す。それから、じゃあさ、今度僕と会う時今日買った服着てきてよ、と笑いかける。また買い物誘ったときは僕の選んだそれにして。そう言うと、恵からは、はあ、とため息なのか返事なのか、中間くらいの曖昧な声を返された。
     買い物終了後そのまま解散、という訳でもなく、恵は影の中に入れてくれていた僕の買い物袋たちを僕の家まで運んでくれた。荷物を持つのなんてまあどれだけあっても重くはないんだけど、運ぶのに両手が塞がるのはあんまり好きじゃない。じゃあ配送にしたらいいじゃないですかと恵に昔言われたけど、そんなに何店舗も荷物の受け取りが自由にできるほど僕は暇じゃないので却下で〜すと返すと、アンタもう職員寮に住んでるわけでもないんだから、宅配ボックスでもコンシェルジュサービスでもなんでも頼めばいいでしょ、とまた理屈をこねられた。え~なんで僕んちの事情にそんなに詳しいのお?僕は今生身の恵に運んでほしいんだってばと駄々をこねると面倒になったのかもう聞かれることはなくなり、はじめは渋々、今はすんなりと流れるように僕の荷物を預かってくれるようになった。そして僕んちまでの送迎付き。恵と買い物をすると、いろんな得が僕にある。
    「ねえ疲れたでしょ、いっぱい付き合ってもらったしコーヒーくらい入れてあげるよ」
    「……ありがとうございます」
     最強が手ずから誰かをおもてなしすることなんてまるでないことなのに、ありがたみのなさそうな返事が返ってくる。でも、なんだかんだ恵は僕の淹れるコーヒーが好きなことを僕は知ってるんだからね。
     二人して荷物を下ろすと、僕はキッチンへ、恵はリビングの方へと歩いていった。ラグに腰掛けて伸びをする恵をちらりと見ながら、水を入れた電気ケトルのスイッチを入れて棚からコーヒー豆の袋を取り出す。恵の姿は、僕の部屋の家具みたいに自然と馴染む。こうして恵が自分の家にいることは、なんでもない普通の光景だった。家族でも友人でも、ましてや恋人でもないのに。師匠と弟子とか元担任と元教え子とか、そこらへんが一番妥当な関係性だけど、一般的なそれらの関係性でのこの距離感は普通なのかどうなのかもよく分からない。だけどそれが、僕には普通のことだった。
     なんだか猫ちゃんみたいだなあ、と思う。首輪をしていない野良猫が、それでも人懐こく、不思議な図々しさで同じ人の家にしょっちゅう転がり込んだりすることがあるらしい。まるでそこの家の、家猫のふりをするように。まあ恵は、僕がそうさせているようなもんかもしれないけど。
    「恵ってさあ、今、なんさい?」
     キッチンから、ふとわいた疑問を投げかけると、リビングのウニ頭がくるりとこちらを向いた。
    「なんですか、唐突に。二十五です」
     ちょっと前まで子猫だったのに。二十五。本人の口から出てきたその答えに面食らう。完全に成猫だ。猫で言えば二歳がそれくらいなんだっけ?なんだかよく分からなくなってきた。
    「えー……恵ももう二十五かあ~。立派な青年じゃん。だって僕ももうアラフォー差し掛かってるもんね?……いや?僕はいつでもずっと若いけど??」
    「別に何も言ってませんけど」
    「……あれ?恵と出会ってから何年経つんだっけ?」
    「十九年です」
    「来年成人じゃん。やっば」
    「とっくに成人年齢は十八に引き下げられたんですが」
    「なに?時代に追いつけてないおじさん扱いしてる??」
     それくらい知ってます〜と返すと、ハイハイとあしらわれる。
    「そっか~~……十九年かあ…」
     初めに出会った頃の僕が、十九年先の未来でこうなっているとはまるで想像もできないだろう。今の僕にだって不思議だ。まさかこんな長い付き合いに、こんな形でなるなんて。
     物思いにふけっているうちにお湯が沸いたので、コーヒーフィルターに敷いた挽いた豆にドリップポッドから線を描くように注いでいく。本当はドリップで飲むなんて面倒臭いんだけど、コーヒーとかいう苦くて訳分かんない泥水をよく飲む恵をずっと見ていたら、一度思い立って真面目に淹れてみたくなってしまい、そしてそれがことのほか美味しく淹れられてしまった。やっぱり僕って天才だから。でも僕は角砂糖をぼちゃぼちゃと入れながらまあこんなもんかあと感慨深くもなく思っていただけで、おすそ分けしてあげたら小さな口でそれをすするように飲む恵がやけに嬉しそうだったので、気に入ったのかな、と思って時折はこうして甲斐甲斐しくコーヒーを淹れてあげている。優しい僕。
     いつの間にかうちに当たり前の様にある揃いのマグカップに注がれたコーヒーが湯気を立てる。自分の浅葱色のカップには砂糖を沢山ぶち込んで、スプーンでくるくるとかき回す。翡翠色の恵のカップには何も入れない。その二つをトレーに載せて、恵のそばのローテーブルまで運んでいく。
    「はい、どうぞ」
    「ありがとうございます」
     恵が細い指を取っ手にくぐらせると、まだ熱々のはずのコーヒーを少しずつ器用に飲む。昔はすぐやけどしちゃったりして、舌をべろっと出すところは本当の猫みたいだった。恵が成長した、なんてことはもっと他の大きなことでも感じてきているはずなのに、こういう生活の些細なことほど、幼い頃の姿を重ねて驚いてしまったりする。
    「なんかさあ、未だにこうやって恵と腐れ縁してるのも不思議だよねえ」
     恵の後ろにあるソファに座る。トレーから取ったカップにふうふうと息を吹きかけて自分のコーヒーを冷ましながら、もしかすると、一生こうなのかもしれないなという考えが過ったあと、それから恵が、ふいに口を開いた。
    「なら」
    「ん?」
    「結婚でも、しますか」
    「は?」
     なんて?
     微塵も予測していなかった言葉が突如耳に転がり込んできて、ぱちぱちと瞬きをしながら、その言葉を放った張本人を背後から回り込むようにして見つめた。
     だけど恵は平然とした態度で、先程までと何も変わらずコーヒーをちびちびと味わっていた。
     え?何、今の??
     幻聴?
    「えーと…………恵ってさ、付き合ってる子、いたっけ」
    「今までいるように見えましたか?」
     真顔でそう返された。
     いや、見えないんだけどさあ。
     そう。恵は多分、今まで僕の知りうる限りでは、誰かと付き合ってる素振りはなかった。けしてモテないわけじゃないし機会に恵まれなかったなんて訳でもないはずなのに、僕の休日に突然勝手に連れ回せるくらい、そういう人間の影がない。僕の知らない不特定多数との薄い付き合いくらいなら、もしかしたらあるのかもしれないけど。でも恵は真面目だし、もしそういう相手を作るんなら、きっちり手順を踏んで誰かを選んで丁寧なお付き合いをするもんだと……思ってたんだよ、僕は、ずっと。
    「え、恵、もしかして遠回しに僕に結婚して落ち着けって言ってる?」
    「結婚なんてしたところでアンタが落ち着けるわけないでしょ」
     ため息までつかれた。失礼だなと思ったけど、まあそれはそうだろうと自分でも思う。この僕に、結婚を契機に何か、を求めるのが間違っている。最近では、あれだけしつこかった家からも今は段々と諦められてきている気がするし。それは喜ばしいことだけど。
    「そっちこそ、何を遠回しに考えてるんですか」
     恵がテーブルにカップを置いて、すっと身体をこちらへと向けた。
    「俺とアンタですよ、結婚すんのは」
     僕の目を真正面から見つめられながら、はっきりとそう、言われた。言われてしまった。
    「…………恵さあ、」
     笑いを取るなら、もうちょっと柔軟にいかないと。苦笑した笑みが少しぎこちないのを自分でも感じながら茶化して言う。
    「大人になっても恵の冗談はマジでつまらないね、五点~~。これ百点満点中の五点だから」
     そうへらへらと笑っていると、真顔のままの恵が、ソファに寝転んでいる僕の上に、覆いかぶさるようにして身体を滑らせてきた。上から顔を覗き込まれる。恵の前髪が、僕の額にかかりそうな距離。瞬きをするのを忘れてしまった。
    「もう、冗談で片付けられる年数じゃないんじゃないですか」
     そこでもう、茶化すための軽薄な笑顔は引っ込まざるをえなかった。息がかかるほどの近さから、真っ直ぐに僕を見つめる瞳。逃げ出すことを許さない。
    「俺がずっと、アンタのことを好きだってことも知ってるくせに」
     びしりと、身体が強張った。ただ、目を逸らしたら負けだと思って、逸らせずにいる。
     十九年来の付き合いの子が。十三も年下で、六歳の頃から知っている恵が。僕に今、唐突に何の前振りもなくプロポーズを始めた。
     僕と、君が、結婚でもしますか、なんて言って。
    「……なんで、突然、僕に結婚しようなんて言ったの」
    「そうですね。一応死ぬまで言うつもりはなかったんですけど。伝える意味もあんまりあるとは思わなかったし」
     だったらやっぱり、なんで。
    「欲が出たのかも」
     目の前にある、翡翠の色をした瞳がゆっくりと伏せられて、微かに笑った。
    「あまりに長く居すぎたから、その先を見たくなったのかもしれないです。……アンタが年数の話なんてするから」
     何かを希うような、その熱ときらめきが、開かれた瞳の奥に見えた気がした。
    「……もしも、その結果、駄目だったとしても?」
    「はい」
     随分と軽やかに、いっそ晴れやかに返事をされる。今、僕のほうがこの関係性の終着点への決定権を持つ側になっているはずなのに、まるで恵のほうが僕を巻き込んでいるみたいな。いやまあ、そうだな、現状は。
     恵は僕の上からどくと、ラグの上に座り込む。それからまた、口を開いた。
    「こんなこと言った手前、もう元に戻れるとは思ってません」
    「え?」
    「もし断られるなら、これまで通りではいられないと思います」
     それって、どういう。
    「これまで通りじゃいられないって……具体的に、どういうこと?」
     そうですね、と恵は口元に手をやりながら考えるようにして言った。
    「まず、ここの合鍵は返します。俺の家のも返してもらいます。だから俺がこの五条さんの家に来ることはもうないです。あと、もしアンタが俺の家に来たとしても中に上がってもらうのは断ります。電話とかLINEも、頻度を抑えてもらえないようなら着拒とブロックします」
    「酷くない⁉」
     淡々と絶縁宣言のようなことを言うので、思わず抗議の声を上げた。ていうかなんか、まるで離婚した夫婦みたいじゃん。結婚もしてないのに。
    「高専とか任務とかで会うのは別に拒否しませんよ」
    「当たり前でしょ!だってそれ仕事じゃん!そもそも恵と僕が同じ任務にアサインされることほぼないでしょ!」
     僕が騒ぎ立てても、恵は素知らぬ顔だ。やっぱりすっきりしているようにさえ見える。
    「結婚できないなら、もう僕とは口きけなくてもいいってこと?」
    「まあ、今まで十分な時間も過ごせたから、いいかなと」
    「お、終わった過去みたいに言う……」
     思い出にされるのか、僕は。もし恵を振ったら。このプロポーズを受けなかったら。
     僕だって、恵には何があっても前向きに生きてほしいって思うけど。でもそのために、僕は過去にされるのか。
    「……今更僕とさよならできるの?」
    「できないと思うなら結婚してくれたらいいんじゃないですか」
     は?スゲー淡々と適当に言うじゃん。そんな第二のプロポーズみたいなのをさあ。
    「悩んでください、沢山」
     すっかり青年の顔をした恵が、大人びた笑顔でかすかに微笑む。
    「俺は散々、悩んできたので」
     ……仕返し?と言って、眉間に皺を寄せると、恵がまたくすりと笑った。目がちかちかするくらい、綺麗な笑顔だった。

    ・・・

     そしてそれから、恵は更に妙なことを提案してきた。
    「これから一週間、恋人……というか、夫婦の予行練習をしませんか」
    「ンー?」
    「もしも五条さんが俺との結婚を選ぶにしても、シミュレーションはしておくべきかと思うので」
     それから、と付け加える。
    「それが終わったらまた一週間、今度は結婚せず疎遠になったときのシミュレーションをします」
    「そっちもすんの⁉」
    「具体的なイメージがあった方が選択しやすいでしょう」
    「それは……まあ、そう……かな……?」
    「だから、二週間後に決めてください」
    「うん?」
    「俺のプロポーズを、受けるか、否か」
     そう言う恵の姿は平然として、何か楽しそうに見えて、だけど。
     恵、それは。終わりたがってる人間の目だよ。
     僕に告げてしまったことで吹っ切れたのか、恵には良い意味でも悪い意味でもどうとでもなれというような、自暴自棄の感情が潜んでいることが見てとれた。それを僕自身がどう受け止めたものか、悩んでもいる。
     断ればよかったのかもしれない。そもそもプロポーズも、プロポーズを断ったら縁を切るなんて脅しも、そんなのは全部ナシって言って、聞かなければ。
     だけど、恵が自分自身も関わることでここまで強引に行動を起こして、僕にお願いをすることなんて今までなかった。人のためになら強く出る子ではあったけど、自分自身についてはいつもなんでも簡単に諦めがちだ。それを思うと、僕はそれらの何もかもにノーを言う力を持てなかった。
     そうして僕は、その唐突さと恵の謎の背水の陣の圧に押され流され、半ば押し切られる形で条件を飲まされて、本当に、恵と僕との、夫婦生活(仮)が始まってしまった。
     しかしいざ当日ともなると、やるんだったらやってやろう、みたいな気持ちになってきていた。恵との夫婦生活(仮)、未だよく分かってないけど、ちゃんとこなしてみせようじゃないか。
     雰囲気を出すためにもということで、恵が僕の家に一週間、寝泊まりすることになった。つまりはこれが結婚後の同居生活のシミュレーションだ。別居をする夫婦もいるだろうけど、フリをするのに遠いところからやっていても意味がなさそうなので、できるだけぽさを大事にしてみた結果だった。
     そして恵は、一週間分の宿泊用の荷物を抱えて朝早くから僕の家にやって来た。それはいかにもお泊りセットという感じで、同居や同棲とはあまり結びつきそうもない。しかも、恵が僕の家に泊まったことは過去に何度もあったし。新鮮みが足りないなあと思っていたら、荷物を置いた恵が開口一番「今日からお世話になります。じゃあ、朝から新潟まで任務なんで。ちゃんと今日中には帰ってきます」と言って早々に出て行ってしまった。えー……と呆れた反応を返す間もなく、僕も僕で任務が入っていることを思い出す。
     でもまあ恵ほどは遠くないのでラッキーだったかな、と思う。ま~~朝からお互いの仕事について考えたりして、夫婦ってこんな感じ?いや、ンな訳ないだろ、とセルフ突っ込みをしながら僕もそそくさと身支度をした。
     夕刻をとうに通り過ぎて晩。宣言通り、ちゃんと今日中に帰ってきた恵は疲労の色がありありと表れていて、帰り着くなりすぐにお風呂へと直行した。晩ごはんも既に済ませたらしい。新潟のお米美味しかった?と聞くと、昼はコンビニ飯で晩飯は移動中の普通の弁当でした、という返答。悲しい。だってもう十一時を回っている。任務地が新潟の山村なら移動もかなりのものだ。及第点だろう。一日目からこれで先は思いやられるけど。
     僕の寝室の床に恵用の布団を敷いて、二人並んで寝た。恵、代わりにベッドで寝てもいいよ、ていうか一緒に寝る?夫婦だし、と言ってみたけど、布団でいいですと固辞された。なんかこのやり取り、前に恵を泊めたときもやってた気がする。ぼんやりと天井を眺めながら無言の時間が流れる。
    「なんかさあ……あんま、普段と変わんないんだけど」
    「そうですね」
    「恵も寝に来ただけだし」
    「お互い仕事があるんだしこんなもんでしょ」
     まあ、もしも結婚したところで、日常的な夫婦生活なんてものは多分こんな感じだろう。だったらよりリアルだというのはそうかもしれない。
     でもせっかくだから、しばし修学旅行生気分で恵が寝落ちるまで恋バナでもしようかと思い立った。
    「恵はさあ、なんで僕のこと好きになったの。いつから?」
    「むしろいつから俺がアンタのこと好きだって気づいたんですか」
    「質問を質問で返さないでよ」
     抗議の声を上げても、恵は黙り込んでいた。ずるいなー。
    「え~……多分、中学生くらいのとき?恵が一番荒れてた時期かなあ。僕がふらっと会いに行ったとき、普段もツンケンしちゃってたけどその時は特別に気が立ってて、僕が何言っても噛みつくような返事ばっか返されてさあ」
    「俺も若気の至りですけど、あの時のアンタも相当人の神経逆撫でしてましたよ」
    「そうだっけ?」
     そうだ、それで、その時の僕を見つめる恵の目が。
    「なんか、物欲しそうだなあ~って」
     物欲しそう……と小さく呟いて、それから恵は言う。
    「だったらそれくらいからでいいですよ」
    「なにソレ」
     本当なのかそうじゃないのか。煙に巻かれた気がする。でもその適当な返答に、なんだかこれ以上掘っても何も出してくれなさそうな感じがしたので、もう一つ別の質問をしてみた。
    「ところでさあ、恋人とか夫婦って、一緒に住む以外に具体的になにするの」
    「さあ……」
     ぼんやりと溶けたような恵の声が、眠気に満ちている。
    「ん、また明日考えよっか」
    「……そうですね」
     まああと六日もあるんだし、と思って、僕も恵もそれきり黙ってぐっすりと眠った。
     さて、二日目。今日もまあ、多忙な呪術師らしく二人とも朝から仕事だ。でも昨日ほど遠方ではないから、夜には二人の時間が取れるだろう。慌ただしく朝ごはんを食べて、今日も恵は僕より先に出かけていった。いってらっしゃいと言ってお手を振り振り送り出すのとかは、夫婦ポイント高いんじゃない?とぼんやり思ったりした。でもよく考えたら過去になくもない。結局恵がうちにいるのが普通なせいで大概のことも新鮮みがない気がしてきた。大丈夫かこのシミュレーション。
     そして夜は無事に、昨日は叶わなかった晩ごはんを二人で食べた。夫婦っぽいかと言われると、僕んちで恵が晩ごはんを食べる姿もまた幾度となく見てきたことなので、普通だなあ…という気持ちだけが湧き上がってくる。このままいくと、昨日と同じでお互いにお風呂に入って並んで布団に入ってちょっと会話して寝るだけで終わる。それは熟年夫婦のすることであり、今はじめて夫婦(仮)をしている僕らにとってはあまりに淡白だろう。なので、面白半分で自ら一石を投じてみる。
    「ねえ、恵。手でも繋いでみる?」
     お風呂上がりのリラックスした姿の恵が、はあ、と生返事を返してくる。
    「いいの?わるいの?」
    「別に構いませんけど……。もしかしてそれが夫婦っぽさってことですか?」
    「違うの?」
     恵に差し出そうとしていた右手をぎゅっぎゅと握ったり開いたりしてみる。
    「ていうか恋人とか夫婦って、家の中でも手なんて繋いでんの?」
    「知りませんよ」
    「立ち上がって移動するときとかどうすんの?」
    「手ェ離せばいいんじゃないですか」
    「じゃあなんのために繋ぐの」
    「俺に聞かないでください」
     恵はかなり呆れた顔をしている。そこで僕ははたと思い至った。
    「手って、外で歩きながら繋ぐのが普通なのかも」
     恵の呆れた顔が無に近くなった。
    「じゃあ、手は外で繋ごうか」
    「え」
     恵が、感情を取り戻した。びっくりした当惑の顔。
    「なに?」
    「いいんですか」
     なにが悪いんだろう。あ、恵がイヤってこと?
    「ダメならいいけど」
    「いや、別に……」
    「ならいいじゃん」
     変に煮え切らない恵はもしかして照れているのだろうか。あんまりそんなふうには見えないけど。
    「それなら、家の中ではこっちかも」
     そう言って、恵に向かって手のひらを外に広げて腕も開いた。
    「ほら、おいで」
    「……」
    「うわって顔すんなよ」
     恵が言い出したんでしょ、この夫婦生活(仮)。
    「夫婦なんだよ、僕たち今」
    「…………」
    「ほ~らほらッ」
     恵がそのまま無言を貫いて、僕のほうへとやって来た。タックルされても困るけど、あまりにぎこちなくゆっくり動くので、こっちまで恥ずかしくなってくる。ちゃんと胸の中におさまったところで、腕を閉じた。なんかクレーンゲームみたい。わーい景品(恵)ゲット~。
     茶化しながらも、手で触れる恵の身体が若干強張っているのが分かる。僕も、人とこんな大層なハグなんかそうそうしないので、変な気持ちになってきた。
    「なんかさあ、クソ恥ずかしいんだけど」
    「……だったらやんなきゃいいでしょうが」
     悪態をつきながらも、恵は遠慮がちにぴくりとも動かず固まっている。警戒している小動物をつかまえて抱きかかえているような気持ちがしてきた。ていうか肉が薄い。恵は細いのもあるけど、本当に薄い。筋肉がつきにくいんだなあ、かわいそう。しかし、この感じ。
    「なんか、恵がちっちゃい頃思い出してきたかも」
    「アンタに抱きしめられた覚えなんてないですけど」
    「恵が怪我したからだっこして運んだときに似てる」
    「…………」
     あの、もうそろそろいいですか?と恵がため息まじりに言うので、仕方なく腕の中から解放した。閉じ込めていた腕を開くと、そそくさと離れていく。ウ~ン、夫婦っぽくない。ていうか恵は本当に僕のことが好きなんだろうか。好きな相手とのこんな触れ合いチャンスがあるなら、手が滑ったーとでも言って僕を鷲掴みにするくらいのガッツがあってもいいんじゃないの?恵は死ぬほど奥手ってこと?
    「あのさ、確認なんだけど。恵は……僕とチューとかしたいんだよね?」
    「まあ…………そうですね」
     そんな欲求どこにもない、みたいな涼やかな顔をしているくせに、普通に肯定してくる。ハグも嫌がってる感じだったのにホントなのかよ。でも嘘つく意味もまるでないから本当なんだろう。こんな茶番めいた感じがイヤってこと?
     でも、キスかあ。人とまともに『交際』的なことをしたことはないけど、身体接触ならまあ一通りはしてきたので、今更この歳になってどうこう言うこともあるわけないんだけど、相手が相手過ぎるので、考えるのが難しい。
     恵のことは、かわいいっちゃかわいい。だってそりゃ、小一の、六歳の頃から見てきた子だ。情がわかない人間でもない。けど、恋心を抱くかと言ったらそれは分からないだろう。むしろ抱くには複雑すぎる対象だと思う。
     それにそう、そもそも僕はまともな恋心というものを知らない。恋心で誰かを欲したことがないから、まともに考えたこともなかった。え、でも恵は僕にそれを向けていたってこと?改めてそう考えてみたら、もぞもぞとした気持ちになった。
     多分この子は僕のことが好きなんだろうなということはまあ、恵に指摘された通り、気づいてはいた。だけど、恵が僕に向けるその感情はあまりにささやかで、思慕の情のちょっと強いバージョンくらいのものだと思っていたし、そしてそれを実際に僕自身にはっきりと示されることもないだろうなと思っていた。それはこの関係性の在り様と、恵の性格から勝手に推測していた。それなのに、全然そんなことはなかったらしく。出会って十九年目で突然こんなことになっている。本当に人生って不思議なもんだね。
     けど、キスならまあできなくはない気がする。多分。ぎこちないハグよりは『夫婦』っぽいんじゃない?
    「じゃあキス、する?」
    「……キスしたいですか?俺と」
     また質問を質問で返された。
    「無理にしなくていいですよ、そこまで」
    「無理にって」
    「夫婦でも、スキンシップはお互いの合意によるものです。もう今日は、ハグしたし、いいんじゃないですか」
     自分で夫婦シミュレーションを提案したくせに、常にどこか消極的で逃げ腰な恵のその言葉に反論したい気持ちがなくもなかったけど、そのときは、じゃあ明日以降またなんかすればいいか、と思って素直に引き下がった。
     が、それから、三日目四日目五日目六日目はなんと、僕の出張で全部飛んでしまった。いつも通りのこと、というよりまあ四日間で帰れただけマシ、すらある。一応会えない間もLINEで連絡を取り合ったりはしていた。僕たち引き裂かれた遠距離カップルみたいだね、とえんえん泣いているスタンプだのを送りつけまくったら、恵はめずらしく乗ってくれて、泣いている犬を慰めようと頭をなでている猫のスタンプなんかを送ってくれた。文面上も立派な夫婦の茶番劇だ。
     六日目の夜、というか最早七日目をまたいだ夜、恵は殊勝にも寝ずに待っていてくれた。それで、玄関で僕に「おかえりなさい」とまで言ってくれた。日が空きすぎてハードルが下がってるのかもしれないけど、これはかなり夫婦っぽくない?まあ、今までもこの家で恵の口から聞いたことがないわけでもなかったけど。どこまで新鮮みがないんだろうか。僕んちに馴染み過ぎなんだよ恵。
     目がとろんとして少し眠そうな恵は、いや、たまたままだ起きてただけですとかなんとか言ってたけど、でもやっぱり僕のためだと思う。夫婦だし。
     疲れた身体と心に染みたのか、なんかそれがやけに嬉しかったので、今日も普通に床の布団で眠ろうとする恵を、僕たち今夫婦だし!のゴリ押しで僕のベッドに引きずり上げた。キングサイズなので、一応二人並んで寝ても手狭ということもない。しばらく誰かとそういうこともしていないし、人と同じベッドに寝転がるのは久しぶりだった。くるりと首を横に向けると、恵の顔がすぐそばにある。視界に映る僕のベッドと恵の姿が、どこかチグハグに思えて、何故かどきりとした。あ、そういえば。
    「恵、この家に馴染み過ぎていろんな場面で新鮮みがなかったけどさあ」
    「はあ」
    「僕のベッドで寝るのははじめてじゃない?」
    「……そういえば、そうですね」
    「寝心地良いでしょ」
    「キングサイズのベッドとかはじめてかもしれません。…デカいな」
     僕と恵が寝転んでもなお余りのスペースがあることを見て、恵がぽつりと呟く。なんだかその様子が面白くて、ふふふと笑ってしまう。眠そうな恵と、お疲れの僕。はじめて同じベッドで眠りにつこうとしている。多分一番分かりやすく、恋人で、夫婦の距離感。
    「ねえ、明日はデートしようか」
    「……え」
    「なんで引いてんの?」
    「そんな時間あるんですか」
    「明日だけはこの一週間中なんとかオフだから」
     人差し指と親指で丸を作って、大丈夫なことを示す。それなのに何故か恵は戸惑った表情を見せた。
    「なに、どうかした?」
    「……正直、こんな俺の提案、すぐに飽きると思ってました」
    「あー」
     まあ、分からないでもない。そうなる気もしていた。僕って良くも悪くも適当だし、飽き性だし。それになんせ、夫婦生活ってものがよく分からなかったから。だけど。
    「なんかやけに、乗り気だし……」
    「そうだね」
    「そうだねって」
     どういう意味ですか、と訝しむ恵に、自分でも今気づいたことを言った。
    「なんか、楽しいからかも」
    「楽しい?」
    「夫婦ごっこが」
     恵が、目をまんまるにしてぱちぱちと瞬きをした。ああまた猫ちゃんみたい。ていうかそんなびっくりするようなこと?
    「でさ、明日のデートどこがいい?」
     恵の好きなところでいいよ、いつも僕が連れ回してるんだし。と、まるで夫婦のような気遣いを見せてみると、恵が少しだけ考え込んで言った。
    「じゃあ……動物園で」
    「あはは、好きだね動物園」
     小さかった頃、津美紀も連れて一番よく行ったのが動物園だった。
    「悪かったですね」
    「んーん。わかった、じゃあ明日は動物園デートね」
     すぐ隣にいる恵に手を伸ばして、頭をなでる。髪がくしゃりと崩れると恵はくすぐったそうにして、そのあと目を居心地悪くきょろきょろとさせていた。警戒が解けかけの小動物。やっぱり大人になっても猫ちゃんなのは変わらない。
    「さー寝よっか、明日に備えて、ねっ」
    「もう全然今日ですけど…」
     電気を消すと、また二人ともすぐに眠りに落ちた。
     明日の予定を同じベッドで寝転びながら相談して、翌朝一緒に起きてそれをこなす。悪くないんじゃないか。むしろなんか楽しいじゃん。なんて、眠りの縁で解けていく意識の中で僕は思った。
     そして翌朝。最終日にして、はじめてゆっくり二人で朝ごはんを食べた。たまたま食材があったから僕がエッグベネディクトを作ってあげると、恵は目を輝かせるでもなく、朝からこんな面倒臭いものを…という顔をしていたので、愛じゃん、喜んで食べてよと口をとがらせる。そこまでの手間でもないし。何より奇跡的に材料があったんだし。
     恵の小さな口に合わせて恵の手で一口大に切られたエッグベネディクトが口の中に入ると、恵は完全にあ、美味しいな、の顔をしていた。勝った。ふふん、と鼻を鳴らしながら、僕と結婚できたら毎朝作ってあげられるけどねえ、と僕が言うと、そんな時間ないでしょ、しかもこんな高カロリー朝から毎食食べてられませんと返された。恵はそんなだから肉がつかないんだよ。
     そろそろ出る時間なので客間にいる恵に声をかけに行く。鏡の前で、恵がシャツの襟を直していた。
    「あ、僕が買ってあげた服着てる」
    「せっかくなので」
    「うーんよく似合ってるよね。さすが僕の見立て」
     そんな軽口を言いながら、素直に嬉しかった。次一緒に出かける時にはそれ着てよって言ってたこと、律儀にも恵は覚えててくれて、行動にも移してくれたわけだ。そこそこ面倒な連勤明けでも、朝から軽く上機嫌になった。
     まったり電車で乗り継いで向かった動物園は、なかなか盛況だった。呪術師に曜日感覚なんかほとんどないから仕方がないけど、運悪く土曜日だったらしい。なんやかや何を見ても臭い動物がそこら辺をただのそのそ歩くだけの場所にこんなに集まる人間の気が知れない。恵が行きたいって言わない限り、僕は絶対に来ないだろうな。用がまるでないし。そういうのは、パンダや学長の呪骸で事足りてる。
     入園チケットを買う待機列で既に暇すぎて手持ち無沙汰だったので、すっと、恵に手のひらを向ける。
    「ほら」
    「……え」
    「外では手を繋ぐって言ってたでしょ」
    「本気だったんですか」
    「冗談で夫婦やんないでしょ」
    「なんですかそれ」
    「ほら、早く早くっ」
     特に急がせる必要性もなかったけど、恵は勢いで誤魔化すに限る。やけくそ気味の顔をしながら、そろそろと僕の差し出した手に恵が手を重ねてきたので、もう逃げないようにぎゅっと握りしめた。よし、手繋ぎ成功。ふと、なんだか懐かしい感覚が襲ってきたけど、恵の手はもう成人男性のサイズだし、背丈だってまだ小さいけど僕と隣り合うほどにはなっている。
    「恵の手握るの、いつぶりだろ」
    「……小学校低学年とかでしょ。あの時も無理やりでしたけど」
    「恵の手、ほんとにちぃーっちゃかったよね。すべすべぷにぷにで」
    「気色悪いんでやめてもらえますか」
    「ん、ああ、そっか。今はこっちのほうがいいか」
    「は?」
     握っていた手を緩めて、恵の指に自分の指を絡ませるようにしてまた繋ぎ直す。いわゆる恋人繋ぎってやつ。
    「ちょっ…」
    「ぽいからいいでしょ」
    「夫婦っていうより、カップルでしょう。ていうか、夫婦だろうが何だろうが、誰でも彼でも手を繋いだりするわけじゃないのに」
     こんな、と言って、恵が手を離そうとするので、また思い切りぎゅっと握ってあげた。
    「ヒッ」
    「ちょっと、なんでそんなビビってるの。色気なさ過ぎでしょ」
    「五条さんの力で握られたら俺の手の骨は簡単に砕けますよ」
    「ンなことするわけないじゃん」
     どんな見境のないゴリラだと思ってるんだよ。それに。
    「恵の商売道具なんだから」
     そう言って優しくぎゅっぎゅと握ったら、恵は諦めたのか黙ってしまった。
    「……もういいです」
     もういいのか。なら、好きなだけ握っとこう。そう思った。
     でも。無事入園してあちこちから家畜めいた臭いがし始めると、僕と恋人繋ぎしてることなんか忘れて、恵は動物に見入っていた。慣れられたことが嬉しくもあり、動物への意識が僕より強いことが悔しくもあった。動物なんか、大体が臭くて毛むくじゃらなだけなのに。すべすべでいい匂いのする五条さんのほうが綺麗だしかわいくない?
     ほぼ無言だけど、自分で希望して来ただけはあって、あちこちへと自然に足が向く熱心な恵に連れられて園内をうろうろしていたら、『ふれあいパーク』と掲げる看板の前に差しかかったので、自然に手を離してあげる。恵がちょっとだけ行ってきていいですか?と僕に尋ねてきたので、存分にどうぞ~と頷くと、そそくさと、丸まったり転がったり自由に闊歩していたりするあれやこれやの動物たちを触りに行った。普段散々式神たちともふれあいパークしてるのに。ところで、触ってもオーケーとされる動物とそうじゃない動物ってどこで線引きされてるんだろう、と、どの動物を触りに行っても簡単になつかれている恵を見ながら、ぼんやりと考えたりした。
     しばらくして、分かりにくいけどかなり満足げな顔をして戻ってきた恵の手に僕はニコニコ顔で自然に触れて、また恋人繋ぎにしてやった。びくり、と恵の手が震えて、僕の顔を反射で見上げてきたので、満面の笑みを返してあげた。ああそういえば園内でずっとこんなことしてたんだっけ、ということがようやく思い出されてきたのか、恵はそれから静かになってしまった。あのさあ、悟くんがなついたらテンションが低くなるのっておかしくない?
     帰り際、動物園のお土産物屋を冷やかしで覗くと、当たり前だけど動物グッズで溢れていた。一番人気はぬいぐるみらしく、園内の動物を模したぬいぐるみが沢山積み上げられている。恵が、そのふわふわの山をちらと見ていた。
    「ぬいぐるみ、買ったげよっか」
    「いいですよそんな。子どもじゃあるまいし」
    「子どもっていうか、カップルは記念に買うでしょ、ペアとかで」
    「…………」
     マジでペアでぬいぐるみを買うつもりなのかよ、というヤバい目で見られた。
    「記念って、カップルごっこのですか」
    「夫婦ごっこのほうがいい?」
    「結婚する気がないのなら、そんなもん買わないほうがいいですよ」
     恵が、さっきまでとは明らかに違う低いトーンでそう言い放つ。
    「一週間後に後悔することになる」
     こちらに顔を向けることなく言った。
    「……そだね」
     触れている恵の手が、さっきよりも冷たく強張っている気がした。
    「でも、気になるお菓子があったから買ってくるね。自分用のお土産に」
     そう言って、僕は恵から手を離して、お菓子が固まったコーナーへ行き、パンダのお菓子を手に取るとレジへ向かった。
     会計を済ませると、またフリーになった手を定位置と言わんばかりに恵の手に添えた。するりと指を絡ませても、素直に応じる。アラ。そうして、動物園を出てもそのままにしてくれている。やけくそ気味なのかもう慣れたのか、恵はもういやがりもしなかった。
     朝から出かけてきたのに、あっという間に夕日が沈んでいる。動物園をこんなに満喫するなんて。僕一人ならやっぱり有り得ないだろうな。恵と来なかったら、今日みたいな日はきっと永遠に存在しない。
     それから、動物園の近くの公園をぶらぶらと歩いた。晩ごはんというには少し早くて、解散するには気持ち少し足りないみたいな、中途半端なあわいの時間。
     何にも足りないような、そんな時間は、ただやり過ごすだけでもどこか少し、心がそわそわする。相変わらず手を繋いだまま、何故か二人とも景色をただ見守るように見るだけで黙って、公園にある湖の周りを歩いていた。
    「五条さん」
     恵がふいに、立ち止まって僕の名前を呼ぶ。
    「最終日だし、しますか。……キスのひとつくらい」
     あれだけスキンシップを拒んでいた癖に、恵は最後の日だからなのか、急にやけに強気でそんなことを言ってくる。一日中手を繋いでいたから、何か慣れでもしたんだろうか。
    「ん?いいよ。夫婦だしね。するんでしょ、夫婦は普通に」
     そう言って茶化すように笑ってみせる。恵もつられたように小さく笑った。微か過ぎて、親しい人間じゃないと見逃しがちな、恵の小さな笑み。
     恵がゆっくりと僕の方に寄ってきて、顔を近づける。反射で目をつむった。それから、頬に柔らかいものが、ほんの少しの間だけ触れた。思わずぱちぱちと瞬きをする。
    「……これがキス?」
    「ごっこ遊びですから」
     恵がふ、と笑った。
     おい。何歳だよ。いい大人でしょ僕たち。何か逆に恥ずかしいわ。
     思わず脳内で突っ込んだけど、それは言葉として口からは出なかった。
     おままごとみたいな恋人ごっこで、夫婦ごっこ。だけどこれは本当におままごとでシミュレーションであり、仮契約のこの関係性は今日で解消されるものだった。
    「名残惜しいですか」
     図星をつかれたような気がして、思わず顔の筋肉がこわばる。
    「冗談ですよ。じゃあ、夫婦ごっこは今日で終わりです。明日からは、必要最低限の関係を保ちましょう」
     あっけなく、どこか突き放すようなその言葉に何も言えないまま、恵が早々と話を進めていく。
    「返します」
     そう言って目の前に差し出されたのは僕の家の合鍵だった。
     もう、いつ恵に手渡したのかも覚えてないくらい、第二の家人として、愛用してくれていたもの。僕のネコちゃんのと揃いでいつも、ワンちゃんのキーカバーを付けて恵は使っていた。それが所々擦れていたりと大分薄汚れていて、使い込まれた年月の長さをものも言わずに表している。
     それを突き返されると、流石に少し動揺した。
    「……別に今、返さなくても」
    「何かのときに、鍵があるから、って思うかもしれないので」
     何かのときって、何。
    「それに、もし答えが『そう』なら、改めて返さなくてもよくなるでしょう?」
     そう言って、恵は繋いでいた手も解いてしまった。僕も、機械的に、目の前に差し出された、かつて僕が恵にあげた鍵を手に取る。それは冷たくて、軽いのに、やけに手にずしりと沈む気がした。
    「それじゃあ、一週間後に答えをください」
     またあの吹っ切れた笑顔で手を振る恵の姿は、やけにあっけなく、すぐに小さくなっていった。手を振り返す、間もないほどに。どこか取り残された感覚を味わいながら、ぼそりと独り言が出る。
    「……なにこの、本当に円満で別れた夫婦みたいな」
     どこからやって来たのか、突然胸にあふれ出した寂しさを抱えて、もう見えなくなったはずの恵の後姿を探す。だけど、やっぱり恵の姿はどこにも見えなかった。
     今、さっきまで夫婦だったのに。一緒のベッドで寝起きして朝ごはんを食べてデートして、ずっと手を繋いで、キスまでしたのに?
     もう恵の帰る場所は、鍵を突き返された僕の家じゃない。だから、家に帰ったって、恵は当たり前だけどいないのだ。
     離婚ってこんな感じか、と思う。ずっとともにいたはずの存在が欠けたような、謎の喪失感。
     僕らまだ、結婚すら、していないのに。

    ・・・

     そして本当にそれから、ぱったりと恵からはなんの連絡もなくなった。
     疎遠期間。喧嘩別れをしたわけでもないのにわざわざ連絡を取らないこと、会わないことを示し合わせてそれを行うなんて、馬鹿げていると思った。けど、恵は僕と結婚できなければずっと同じようなことをする気らしい。
     馬鹿じゃないの。僕、恩人なんだよ。恵の。顔を見る権利くらい、あると思いますけど。
     心の片隅にずっと湧き続けているむかむかした気持ちをずっと手ごね麵のようにもみほぐしたり伸ばしたりしながら、淡々と仕事をした。面白みのない一日一日が音もなく静かに積み重なって、恵がやけに近くにいたあの日々が、確かに遠くなっていく。
     呪いを祓って、ご飯を食べて、呪いを祓って、ご飯を食べて。
     それから、僕しかいない、誰も待ってないがらんどうの家に帰って眠る。勿論広々としたキングサイズのベッドで。
     自宅に帰れないこともままあるけど、今はそっちの方がよかった。忙しいとかだるいからとかいう理由で、寝室に置きっぱなしの律儀に畳まれている恵が寝ていた布団も見ずに済むから。
     一人暮らしの生活も、呪いを祓う日々も、今までとなんら変わりないのに、恵からのプロポーズとあの一週間のせいで、同じものには思えなくなってきている。恨めしい。今、LINEを適当に送りつけまくったら本当にブロックされるんだろうなあと考えて、あえてやってやろうかと思ったけど、あんまり乗り気にはなれなかった。
     そんな中、本当に、本当にたまたま街中で恵の姿を見つけてしまった。
     探していたわけじゃない。ただ、恵の呪力の雰囲気がそこに在ることを感じてしまった。
     この馬鹿げた隔離期間の何日目だったか、定かじゃないけど。僕は当たり前の様に恵の名前を呼んだ。
    「恵」
     街中で、見間違いようもないその子の姿をこの目で見た。そんなに日も経っていないのに、飛び切り懐かしいような、そんな気持ちで。
    「……何、普通に話しかけてるんですか」
    「別に本当に絶縁したわけでもなし。フリだからいいじゃん」
     ゆっくりと振り返って怪訝な顔でそう言った恵は、多分きっと振り返る前から僕の気配にちゃんと気づいていた。そして、僕は恵をスルーすると思っていたのだろう。それなのに僕があまりに普通に向かってきたから。フリだからこそ、徹するべきなのだ、みたいな顔をして不服そうなのが僕は僕で気に食わなかった。
    「ていうかさ、誰?アイツら」
     さっきまで恵と一緒にいた集団の遠のいていく背中を見つめる目が、思う以上に何故か険しくなる。恵がそんな僕を見つめながら、少し呆れたように言った。
    「術師の後輩ですよ。既知の仲か一級術師以上の上澄みしか見えてないアンタはほとんどの術師のことを知らないんでしょうけど」
    「何してたの」
    「食事ですけど」
    「なんで」
    「誘われたので」
    「僕、術師の後輩にご飯なんか誘われないよ」
    「日頃の行いじゃないですか」
     あまりに刺々しい物言いだと思ったのか、まあ、特級のアンタなんか普通にめちゃくちゃ誘いにくいだろうし、そもそも誘われたところで行きませんよねアンタは、と恵が続けて呟く。いや、僕が後輩から誘われないことは今はどうでもいい。
    「今までも機会はあったんですけど、今回上手く予定が合ったので」
    「……楽しかった?僕と食事するより」
     恨めしさがこもったような口調になってしまった。なんでだろう。恵ははあ、とため息をつく。
    「何で訳の分からない対抗心燃やしてるんですか」
     無言のままの僕を見ながら、恵はゆっくりと口を開いた。
    「……こうやって、これから五条さんと普通に会わなくなると思ったら、時間の使い方考えないとと思って」
    「は?」
    「今まで俺の休みってアンタに連れ回されることが多かったから、それがなくなるとしたら時間余りそうだし、これからまあ何でもできると思ったら、新しいこと始めるのもいいかと思ったんで」
    「はあ?」
     まるで今まで過ごした僕との時間が束縛であったかのように言う。それに。
    「もう、僕と買い物とかは行かないってこと?」
    「言ったでしょう。断られたら、もう必要以上には近づかないって決めてるんで」
     必要以上。必要以上ってなんだ。恵にとっての僕への必要の範囲って何?
    「今まで僕と買い物するの、迷惑だった?」
    「楽しかったこともありましたよ」
     なんだその回答。曖昧だし。また過去にされてる。
     ていうかさあ。
    「なんで」
     なんで、断る前提でもう既に動いてんの。
     何故か少し苛立ちながらそう問い詰めた。だって、と恵はまた微かにため息をつきながら話す。
    「受けてもらえる前提で動くなんてこと、馬鹿みたいじゃないですか。しかもこんな人生に関わることで」
    「僕なら受けてもらえると思って意気揚々と一人で本屋にクソ分厚いゼクシィ買いに行くよ。結婚式場のこと考えてめちゃくちゃドッグイヤー作る。一人で先に下見に行ったっていい」
     ヤバい奴を見る目で恵がこちらを見ている。まあ別に結婚式自体は僕にとってはどうだっていいことだけど。
    「ホームランを打とうと思って、僕は打つから」
     恵が眉間に皺を寄せた。
    「またそんな、懐かしい話を……。呪術師として強くなるどうこうとこれは別でしょ」
    「違わない」
     だって欲が出たから、恵は僕に結婚しようなんて言ったんでしょ。ちゃんと欲張るなら、つかんだビジョンを持って過ごすべきだろ。
    「恵は僕のことが欲しいんじゃないの」
     恵が、目を見開いた。
    「好き勝手なことを……」
    「ア?」
    「ちゃんと分かってますか?俺に発破をかける意味。欲しがったって、アンタはアンタだ。アンタのことを決められるのはアンタだけです。人と人は合意がないと、一緒には生きていけないんですよ、普通は」
     普通は。
     ……まあね。だから、夫婦みたいな関係性ではないにせよ、僕と恵がこうして今までずっと一緒にいたのは異常だからだ。異常な始まりを経て、その後も何故だか保たれ続けた異常は、ようやく今になって変化の兆しを見せている。
    「俺は……あなたが、あの夫婦ごっこを思いの外真面目に取り組んでくれたことに驚きました。ほとんど、遊び半分だったんでしょうけど。それでも少し、嬉しかったです。だけど、上っ面だけ浴びて楽しいと感じたものだけ勝手に享受しないでくださいよ。アンタ、結婚自体のことを、本当に考えてますか?」
     図星をつかれた。
     今ではもう遠い昔に、もっと欲張れと、彼にそう発破をかけた。近くで満足して簡単に諦めたりしないで、ここから先、もっともっと遠くへ行くために。
     人間を突き動かす動力は、あらゆる種類があるにせよ欲だと僕は考えているし、欲しがれなければ得るための行動も起こせない。
     だから、欲しがれるものを、いつも自由に思い描けるようになってほしかった。
     その先で今何故か、欲張ってでも欲しいものが僕自身になっている。応援はしたい。欲しいものを取りにいける恵でいてほしい。
     だけど。
    「アンタは、俺と同じように、俺のことが欲しいと思いますか?」
     恵は、真っ直ぐに僕の目を見てそう問う。僕が口ごもるのを見透かしながら。
     だけど、そう。その通りだ。
     僕は恵に返す言葉をまだ持たない。

    ・・・

     結婚自体のことをまともに考えているのかと問われて、押し黙るしかなかった。
     恵との結婚生活ごっこは、楽しかった。
     でもそれは、前提にある、これがフリでしかない、ということのお陰だった。
     おままごとみたいなごっこ遊び。ロールプレイ、茶番劇。全部がちゃんと『本当』にはならない。
     ぬるま湯みたいに君とする、共に生きる日常の模倣は、もしかしたらあったかもしれない世界を覗くみたいな、そんな楽しさにあふれていた。
     ずっと、ぼんやりと、あの子に好かれているという自覚はあった。何か浮いた話もなく、恋人の影もなく、僕が都合よく君を連れ回せるっていうことにも。『物欲しそう』だと僕が言った、何かを求めるような、希う君からの視線にも。優越感じみた気持ちを、僕はずるい気持ちで抱えていたんだろう。
     好きじゃないのだとしたら、十九年、僕とこうして一緒に過ごしてくれるわけもないだろうから。
     だけどあってなお、その先があるとは思わなかった。君の気持ちを知っていても、ずっと僕がそれをずるく享受していても。
     何故って。
    「僕は」
     君の、僕に対する気持ちを変質させるカードを、ずっと隠し持っているからだ。
     君と出会ったあの日。
     遮られた言葉を再び手渡すときがその時だと、ずっと思ってきた。
     いつか君は大きくなって、本当の真実を知る。
     そうしたら僕からは何かしら距離を置くだろう。それは心情的には自然なことだ。
     だから、君を縛るような面倒な恩人になんて絶対になりたくなかった。
     だって恩を感じれば感じるほど、知ってしまった後で苦しむだろう。恵は真面目だからね。こんなことを考える僕だって、少しはそうなのかもしれないけどさ。
     いつか、は今ここが潮時なんだろうなと思った。ずるずるとこんなところまで来てしまったことがむしろ間違いだった。
     勝手だよね。でも僕はいつだって勝手だった。
     君の父親に勝手にぽんと託されて、それから僕も勝手に、君を迎えに行った。
     心情的にはつまむとか、拾うに近い感じだったと思う。僕が気まぐれに差し出した手を、君が取ってくれたから、今の日々がここまでに在る。
     だけど。恵が僕のことを好きなんだと感じていても、それをいずれひっくり返す日が来るのなら、この関係性にはどこにも先なんてないと僕は思って、君とずっと過ごしてきた。それが十九年先かよって、適当で勝手な僕なんだもん。許してよ。
     ねえ、恵。
     君が知らないことを君に最後に、教えてあげる。
     そうして、プロポーズは断る。君にさよならを言う。
     そう、答えはもう、用意した。
     
    ・・・

     今度は、自ら恵の呪力を探して会いに行った。
     あの、と、困惑と苛立ちがないまぜの恵の顔が僕を見上げる。
    「会わないって約束でしたよね。前も破ったくせに、今度は故意ですか?」
    「疎遠ぶるなら、駄目押しがしたくて」
     何だそれは、という目で恵がこちらを見てくる。
     翡翠の瞳。
     その綺麗な深翠は、大昔他の人物の中にも見留めたことがある。そして、はじめて見たときから感じていた、本当によく似ているその顔。
    「恵、君にずっと話せなかったことがあるんだ。せっかくの機会だから今話すね」
    「一体なんなんですか、突然」
    「君の父親を殺したのは、僕だよ」
     恵には、ちゃんと聞こえたはずだった。だけど顔が見られなかった。 大事になってしまったから。
      初対面のときはあんなにも悠々と、考えもなしにあからさまに悪し様に、告げられたというのに。
     言えなくなっていた。いつの間にか。
     自分でもずっと、その理由も分からないまま。いつか、告げられればいいと思って。そのいつかを僕は、いつに設定する気もなかったことに、今、気づいた。
    「…………じゃあ、それだけ、だから」
     そう言って、その場から逃げるようにして立ち去った。
     唐突な遭遇の中で、唐突に突飛な告白をした。何の準備もないだろう恵に。
     寝耳に水だし、お試し期間中のプロポーズ相手にされるには最悪の所業だ。でもどうせ、これで、終わりなんだから。
     どうせ終わりだから、みたいな自棄になる感覚、僕は今まで持ったことなんてなかったのに。
     自分が何をしたって、もうどうにだってならないことを受け入れることは容易だった。過去に犯した最大の後悔を知っているから、僕は僕なりにその傷を背負って、ずっと、ただ僕ができることをやってきた。だから、それ以上のことはもう、受け入れるより他がない。自暴自棄になるほど昂れるものはなく、諦観することが常だった。
     僕の気持ちに偽りはなく、ただあるがままを思う分だけ行って、世界のあるがままを呑み下す。だから恵が持ってるような、どうせ駄目なんだから、っていう自嘲的で拗らせたような感覚なんて分かりもしないものだった。
     でも今は、確かに分かる。
     どうにでも、なれ。
     帰り道が分からなくなった家に帰りつけない猫のような気持ちで、好き勝手に歩いていた。
     帰りつけなくたって、いい気だってしている。誰もいない家。ただいまもおかえりもない。
     恵が寝ていた布団が、未だに畳まれるだけでずっとそこにある家になんて。
     なのに。
    「……っ、何を、逃げてるん、ですか」
     息を切らした恵が、僕の腕をつかんでいた。
    「なんで」
    「なんでも、なにも……アンタが、会話の途中で、勝手に逃げるからでしょ」
    「そ、疎遠週間なんでしょ。離してよ」
    「本当に嫌なら、術式使えばいいでしょう。先に二度も破ったのは、アンタのくせに」
    「……っ、アラフォーは、臆病なの」
    「臆病なんて感覚、アンタにあったんですか」
    「ないよ」
    「おい」
    「……ないと思ってたよ。……思ってた、けど」
     僕だって、物事をよくは知らない頃、数ミリくらいなら怯える感情もまだ持っていただろう。でも、年を重ねて多くのことを知り、自分がこの世界で絶対の強者としての立ち位置にいることを知って、こわいものなんてあるわけもなくなってしまった。
     だけど、強さだけではカバーしきれない、僕がほんとうに恐れるものは、僕の心の内にこそ、知らない間にうまれてきて、その上で、僕にはどうしようもできないものだった。
    「……臆病になる理由って、俺が何を言い出すか、とかですか」
     耳を塞ごうかな、と思った。恵には殴られそうだけど。
     また逃げるかどうか逡巡していると、恵は少しだけ息を整えて、僕が耳を塞ぐ前に静かに言った。
    「知ってましたよ」
    「……は?」
    「知ってました、五条さんが俺の父親を殺したこと」
     マジ?と、シリアスな空気の中でも素っ頓狂な声が出かけた。
     だけどしっかり血の気は引いていて、予想だにしなかった恵の返答に、僕は一瞬でのどがからからになる。
    「…………いつ、から……」
    「高専を卒業したくらいの頃に、自分で調べました」
     結構前じゃん。その時から何年も恵は、僕と自分の父親のことを知ってたってこと?……知って、いながら?
    「そのために、というより、たまたま知った、みたいなところが強かったですけど」
    「なんで……」
    「アンタに直接、問いただせばよかったんでしょうけど」
     それをされていたら、一体僕はどんな顔をしていただろう。何の準備もなく。今だって、不意打ちのビンタを食らってるみたいだっていうのに。
    「まさか、復讐でもするかと思いました?」
     俺に責められたところで、痛くも痒くもない癖にという顔をする。
    「知ってたのに、なんで……プロポーズなんかしたの?」
     親の仇だよ、と昏い瞳で語りかける。
    「イカれてるって思いますか?今更でしょう。……親父のことは、多少、調べました。やっぱり俺の父親はろくでもない奴です。どこかでいつか、死んでも仕方ない生き方をしてきた人間だと思います。実際に接触した記憶もほとんどないようなもんですが、俺にとってまともな親じゃなかったっていうのも事実です」
    「……だからって」
    「でも、アンタと過ごした十九年は、今も目の前にあるものです」
     恵は揺らがない瞳で言う。
    「あなたは、俺の父親を殺したことに、何か後悔がありますか?」
    「…………ないよ、なんにも」
     こんなこと、実の息子の前で言うことじゃない。
     なのに、恵は。
    「だったら」
     目を逸らしたくなるのに、恵はずっと僕を見ている。それだけで、僕は見返すしかなくなる。
     一対一で話す相手の言葉を聞くのが、こんなにも苦しい。そんな感覚、人生で二度目があるなんて思いもしなかった。
    「五条さんがそう言うなら、それでいいんだと、俺は納得します」
     耳に届いた恵の言葉は、何も鋭いところがなかった。僕の心臓を刺さない、傷つけない。どこにも血が、出ていない。
    「……は、」
     恵は、最後まで僕の目を真っ直ぐ見てそう言い切った。
     僕は君にとって恩人で師匠で最強で。そして君の親の仇だった。
     だからこそ絶対に、僕のイエスマンにだけはしたくなくて。
     賢く聡くて、自分できちんと判断ができる。その君が、考えた末、出した答えだった。
     こんな。
     こんな、あっけなかったのか。
     僕が十九年、成人させてしまうほどに抱え続けた秘密って。
     いや、あっけなくはないな。喉元過ぎればで、超速で安心にダイブしたおかげで、今までの葛藤や冷や汗脂汗を吹き飛ばすみたいに忘れてしまっただけだ。
     でも、だって。
     恵が。
     目の前の恵が、なんも変わんない。
     変わっちゃったのかもしれないけど。表面的にはよく分かんない。
     親の仇だよ。勝手に託されたからって好き放題にしてきた恩人(仮)だよ。ねえ恵。知っちゃったんでしょ。知っちゃったのにさあ。
    「なんなんですか、その顔」
     恵が、不思議そうに僕の顔を見ている。なんだか怪訝そうなのと、ほんの少しだけ心配そうな表情で覗き込んでくる。
     今、どんな顔してるの、僕。
    「恵……、恵さあ」
    「なんですか」
    「僕のこと、きらいにならないの?」
     ものすごく驚いたように目を見開いてから、ふ、と緩むように恵の口から息がもれた。かと思ったら、もう震えだすほどに笑っている。
     え、あの恵が。え?つーか、ハ?何笑ってんだよオマエ。
     お腹を抱えて小さく息をもらしながらひとしきり笑った恵が、涙まで出てきていたようで、目尻を指で擦っていた。それからしばらくしてようやく笑いが収まると、息を整えて言う。
    「……今の今まで、俺が五条さんに問いたださなかったのと、あなたが俺に告げられなかったのは、同じだと思いませんか?」
    「……同じ、って……」
    「この関係性が、壊れるのが怖いって」
    「あ……」
    「それにアンタ、自分に対して俺が物欲しそうな目をしてたとか言ってましたけど。俺から見える景色も同じでしたよ」
    「……え?」
     瞬きをした。思わず大きく。
     恵は少しだけ目を細めて、小さく息をついてから、言った。
    「あの、疎遠期間の日数、数えてなかったでしょう。今日、最終日なんです」
    「あ」
     知らず、答えを出す、その時が来ていた。
     ……恵は、僕のことがずっと好きだった。僕が知りうる限り、中学生の頃から。
     でも恵が言うには、僕もずっと恵のことが好きらしい。
     だけど、恵にとって僕は親の仇で。でも、恵はそれを知っていたし納得した上でずっと僕のそばにいた。恋人の一人だって、ずっとずっと作らずに。
     でも…………あれ。え、どうしよう。抱えていた問題がない。それどころか。
     今、胸の奥で、バクバクと音を鳴らして、心臓が弾けていた。
     仕事中とか、運動後にも感じたことのないこと。何か、よく分かんないけど、これって胸の高鳴りってやつ、なのかも。
     じゃあ僕は今、ひとつ、恋心を学んだってこと?プロポーズに返答するこの段になって?
    「じゃあ、改めて言います。結婚しませんか。十九年も続いた腐れ縁に今、決着をつけましょう。結婚しないんなら、俺はもう金輪際あなたには会いません」
     会いません、って言い切りやがった、と思った。
     この狭い呪術界で、そんなこと不可能だろうに。だけど僕にだって分かってる。そういう茶番だ。
     だから僕は、もう覚悟を決めて、それに答えた。
    「絶縁しません。僕は恵と結婚します」
     もう絶対に逃れようのないこの流れなのに、恵は目をまあるくさせて、驚いていた。なんで今更この期に及んで驚いてんだよ。だけどまあ、今更恋心をインストールして心臓を壊しかけてる僕に言えることでもない。
    「恵からのプロポーズを、受けるよ」
     だって。
    「……僕の未来に恵がいないのは、ヤダ」
     そう言って、目の前の恵の身体を抱きしめた。
     ごっこのときとは違って、僕から素早く、もう逃さないようにと思いながら。
     だって、本当はずっと、考えたこともなかったんだもん。
     僕のそばから恵がいなくなることなんか。
     恵が僕以外の誰かのものになることなんか。
     確かに、君は、いつか誰かを選ぶと思っていた。だけどそれは、その対象と選択肢が生まれたら、だ。
     自由にさせていると見せかけて、その実僕はずっと君のそばに居続けた。誰より長く、誰より近くで。そう居続けることが、君の未来の、いるかもしれない相手に対しての最大の牽制だった。僕以外の誰かが生まれる余地なんか、僕はずっと、僕の手で、きっと故意に握り潰してた。
     だから恵も、いい加減僕のもとから離れないとって気持ちもあってこんな強硬手段に出たんでしょ。僕より先に、僕のおかしさに気づいていて。
     転がったその先は、こうなっちゃったけど。
     胸の中の恵が、顔を上げて言った。
    「やっと認められました?」
    「え?ヤダこわい。なにを?」
    「アンタは、俺のそばを離れる気がないってこと」
    「……うん」
    「人のこと、こんだけ長い間飼い殺しにしておいて、責任も取らないようなら宣言通り絶縁しようと思ってました」
    「イヤ……本当にこわいこと言うじゃん……」
    「だから、いますよ。一緒に。一生」
     そう涼やかに言う恵が、男前過ぎて痺れた。
     惚れ直しちゃう。
    「腹くくってくれたんでしょう」
    「うん。……恵のことが欲しいよ、僕も」
     僕のその言葉に、恵が、くしゃりと、崩れるようにして笑った。
     どこか綺麗な、大人の笑顔じゃない。子どもが見せるような無防備な笑み。
    「ねえ恵」
    「はい」
    「キスしてもいい?」
    「……いいです、けど…」
     返ってきたのは、煮え切らないイエスの返答。さっきまでかっこよかったのにこのギャップ。
    「けど、なに?勿論口にするよ」
     恵とキスがしたいから、と言うと、恵は数度の瞬きの後、僕からすっと目を逸らした。
     それだけだと、まるでイヤみたいな反応だけど、そうじゃないことを僕は理解している。君の頬が赤くて、照れてるだけだってわかるから。
     それから少しの時間が経つと、心の準備ができたのか、前とは違って、恵が先に目を伏せた。
     閉じられた瞼の先の、長い睫が震えている。
     結局、交際0日で結婚する僕たちは、手を繋ぐ以外に恋人らしいボディタッチはほとんどしてこなかった。
     恵はきっと、どこかしら、僕に触れられることを恐れている節があったから。
     でもねえ、恵。これは推測だけど。
     僕が触れることより、僕が触れることで何を思うかについて懸念してたんでしょ。本当に馬鹿だね、オマエは。
     肩をつかんで、恵に顔を寄せていく。
     もう、偽物じゃない。頬じゃなくて、同じ場所に。
     本物のしるしに。
     未来への契りとしての、誓いのキスを。

    ・・・



    ~おまけ~

    「はい恵、これあげる」
    「これって……」
     差し出したのは、デートで行った動物園のキーホルダーだった。
    「ぬいぐるみ買うなって言われたけど、言われたからこそなんか買ってやろって思ったから」
    「アンタなあ……」
     呆れた顔の恵にガッツポーズをする。よし、更にダメ押しだ。
    「お揃いだよ、ちゃんと」
     同じだけど恵にあげたものとは別のものを、僕の顔の横で揺らしてみせた。
    「お揃いでスマホとかに付けようね♡」
    「…………」
    「えっ、キーホルダーやだった?じゃあまたデートしに行って、次こそぬいぐるみ買ったげる」
    「……いいです、もう」
     それから恵と僕は、スマホには付けていないにせよ、二人ともお揃いを持ち歩くようになった。
     さあ、じゃあ次は、ペアルックとか?
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    2024/05/24 0:00:00

    はじまる季節に

    人気作品アーカイブ入り (2024/05/24)

    付き合ってないしキスすらしたことないけど、めぐみくんの雑プロポーズからお試しの新婚ごっこと離婚ごっこをはじめる五伏。
    ※渋谷事変と死滅回游は存在しない世界線です。

    今年のインテで出していた本です。
    もともとネットに上げる予定だったので再録ともちょっと違うのですが、いつの間にか上げる機会を見失っていたため524の日に合わせてのっけておきます。満足したら消えるかも。

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    • くちびるにふれてもよかったキスをきっかけに始まる、五条先生と恵くんの、それぞれが恋に至るまでのお話。
      両片思いすれ違いドタバタ五伏劇場~ゆじとのばと硝子さんを添えて~、みたいな感じです。シリアスとコントが入り混じってます。

      ※渋谷事変も死滅回游も起こらなかった平和時空です(そのための設定改変が所々あります)
       とにかく、みんな、元気
      ※五条先生は恵くんの後見人ということになっています
      ※高専卒業式と高専卒業後のモラトリアム期間捏造してます

      つづき→『ふれたそのさき』(https://galleria.emotionflow.com/122468/674305.html
      kanimog
    • かがやきはきみのひとみにだれかに恋をしている恵くんに気づいてしまった先生のお話。

      五伏のはっぴ~えんど恋愛コント。
      シリアスにみせかけたギャグなので、さらっと読めます。
      kanimog
    • ふれたそのさき『くちびるにふれてもよかった』(https://galleria.emotionflow.com/122468/639036.html)のつづき。

      卒業後、無事に付き合い始めた二人が、虎杖くんと野薔薇ちゃんの二人にご報告をしたり、キスのその先を考えたり、五条さんがわかってなさそうな恵くんにわからせようとがんばったりします。
      前作で、キスの話にもかかわらず二回くらいしかキスをしなかったので、これでもかというくらいキスをしています。
      kanimog
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