くちびるにふれてもよかった 五条先生の距離感の近さに、慣れてはいた。
というより、初対面から今までの九年間でやたらと顔や身体が近かったりボディタッチが多いことにはもう慣らされていたから、そんなに気にするものでもなかったけど。
その日は、何故かより馴れ馴れしい、と言えるほどの密着具合でまとわりつかれるので、一体なんなんだと思いながら、耳元近くでぺちゃくちゃと話される他愛もない世間話をいつも通り右から左に流していた。
肩に乗せられた腕が重い。ずしりとした筋肉の重量が感じられて、その筋肉質の身体を羨ましくも疎ましくも思う。そういえば虎杖も五条先生ほど不遠慮ではなくとも、肩に腕をかけてくることがある。いつも他者との身体距離が自然と近い人間は、ボディタッチをコミュニケーションの一環とでも考えているのだろうか。
そう虎杖のことを考えてから、もしも五条先生が同級生なら、絶対に反りが合わなくて親しくはなれなかっただろうな、とふと思った。
同い年なら、今目の前にいる五条先生とはまた違うのかもしれないけど。それならそれでより、気が合わなさそうな気がした。仲が良いどころか毛嫌いでもされていそうだ。無愛想だとか、生意気だとか、今まで散々言われてきたことに、年が変わらないことでより嫌悪感を上乗せされるのかもしれない。
それに、そもそも仲が良いなんて言葉は、自分と五条先生の関係にはそぐわないものだ。
売り飛ばされるところを拾われた、恩人とその子ども。また、呪術の師弟であり、今は生徒と教師。この関係性には様々なラベルがある。
そこには、仲が良いとか悪いとかの指標が似合わない。相性の良さで結ばれた関係ではないから。クラスメイトの友人みたいに、自らが選べるようなものではないから。まあ、今までも誰も選んできたことはないし、ここ高専に至っては選べるほどの人数すらいない。
先生との関係性に、選択する、なんて贅沢なものが欲しかったというわけではない。津美紀が禪院家に行くことでろくでもない目に遭わされることを回避できるのなら、何度でもそちらを選ぶ。
だから、俺は必ず先生の手を取るだろう。
呪いの世界に身を置いて、契約通りに高専で経験を積み、呪術師として生きる人生。その道の上に結ばれた先生と自分との関係性には、他の形などないという事実があるだけだ。
先生の、長いのに内容はあんまりない話、今日は前行った任務で祓った呪霊の話と、駅前のカフェの新作スイーツの情報なんかをぼんやりと聞きながら適当な相槌でこなしていると、先生がふとそのご機嫌そうなお喋りを止めて、俺の顔をじっと見つめてくる。
目隠しがあるから、はっきりとどこを見ているとは言い切れないけれど、これだけ近い距離なので、間違えているということもないだろう。直接見られているわけではなくとも、至近距離で凝視されるのは落ち着かないものがあった。
「……なんですか?」
もっと真面目に耳を傾けろという注意でも飛んでくるのかと思った。もしかしたら、少し怒ってんのかなとか。
しばらくの沈黙の後、先生はゆっくりと口を開いた。
「恵、あのさあ」
「はい」
それから、自然にひと呼吸置いて、その言葉を口にした。
「キスしてもいい?」
今までしていた他愛のない話と同じトーンだった。けどそれは、予想の斜め上、想像の範囲外の台詞だった。あの長々としたどうでもいい話の何の流れにも沿っていない。唐突かつ、意味不明。
だから、反射的に思ったことが素直に口から飛び出てくる。
「は? イヤですけど……」
くちびるに
ふれても
よかった
本当に意味がわからなかったし、キスなんてしたくもなかったので、素直にありのままの返答をした。
そもそも、教師と生徒はキスをする間柄じゃない。セクハラだしパワハラも含まれる。更に言えば条例違反で犯罪だ。
キスをする間柄というのは、恋人同士や……家族、も含まれるのか?でも五条先生と俺は家族ではない。どちらにしろおかしい。冗談にしてもタチが悪いと思った。これをもしも釘崎にやっていたら本人からも周りからも非難轟々だし、普通に罰せられるんじゃないか。停職や懲戒免職とか?一般社会の物差しが働かない呪術界の一部である呪術高専でもまともな判断が下されるというのなら。
でもとりあえず、五条先生についてそういう苦情は聞いたことがないから多分俺が初めてなんだろう。それは良かったと思う。マジで、距離感はバグってるし飛び切り強い代わりに飛び切りイカれた人間だとは思っていたけれど、なかなかどうしてヤベェ人だなと思った。
しかし、唐突なその、キスしてもいい?とかいう頭のおかしい質問をされた日から、最悪なろくでもない日々が始まってしまった。
「ねえ恵、今手ぇ空いてる?」
「はあ、まあ」
「助かる〜! ちょうど良かった」
「なんですか」
「口貸して♡」
「…………」
おい。手はどこにいったんだよ、手は。
ちゃんと聞こえるように舌打ちをしても、先生はどこ吹く風だった。
そう、最悪なことに、五条先生が顔を合わす度にそれを聞いてくるようになったのだ。
手を替え品を替え、全く無駄な会話術で、台詞回しを巧みに変えて同じように、キスをしてもいいかと聞いてくる。あれは五条先生の、気の迷いの一回きりの冗談だったんだろうと思って流していたのに、いつの間にか定番のからかい文句になっている。
言われる度に苛立ちが募り、その返事も、しません、から、しねえ、に変わり、最近ではもう無視をしている。返答としてはうぜえ、が一番今の心情に近い。
まさか本当に俺とキスなんかしたいわけでもないだろうに。なんでこんな無意味な遊びをけしかけてくるのか。先生にとってはなんてことはない遊びでも、からかわれる側であるこちらとしてはたまったものじゃない。普通にウザいし腹が立つ。空気が壊滅的に読めない父親を持つ娘の気持ちのようなものの一端を知られたような気がする。全く嬉しくない。
「なんか最近伏黒気ぃ立ってんね。どうかした?」
「伏黒がトゲトゲしてるのはいつものことでしょ。態度的にも髪の毛的にも」
「お、棘?」
「しゃけ」
「そっちじゃねーだろ」
二年の先輩たちとの合同体術訓練中、俺が最近苛立っていることが話題に挙げられたが、なんかストレス溜まってんなら訓練で発散しろという真希さんの適当なアドバイスで締められ、続く会話の中に流されていった。それでも気遣わし気にこちらを見てくる虎杖にだけは、別になんでもない、と返しておいた。全然なんでもなくないのだが、虎杖にこんなことを相談するのは憚られた。
休憩中、自販機で買った飲み物を乾いた喉に流し込みながら、対策を考える。
今まで散々、NOの意思表示はしてきた。しかし、何の効果も得られなかった。むしろ嫌がる俺を見て楽しんでいる節さえある。だから無視に切り替えたのだが、それも先生は全く意に介さない。
否定も無視も駄目なら……いっそ、肯定ならどうか。逆張りだ。
先生のおかしさに付き合ってこちらもそれに引きずられている気がするが、本当にキスをするわけもないだろう。万が一されたとしても、犬に噛まれたようなものだ。冗談のからかいでしかないんだから。
それよりもこの、先生との意味のわからないやり取りをどうにかしてさっさと終わらせるほうが重要だった。自分の、今急激に高まっているストレス値的にも。
キスがしたいとねだるなら、本当にそれに応えてしまえば、満足するか、もしくはそのおかしさに目を覚ますかもしれない。
意味のわからないことを、そして無意味なことをしていると、そう気づいてもらえさえすればいいんだから。
「キスしてもいいですよ」
いつもの通り繰り出される、キスしてもいい? という内容の質問に食い気味で、最早乗っかるくらいの勢いでそう返した。
「え?」
五条先生は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
え?じゃねえんだよ、アンタが言ったんだろうが。
ほらやっぱり、キスなんてそもそもするつもりもなかったんだ。なら初めからそんなことを聞いてくるな、と言いたい。
狼狽える先生が、ぎこちなく口を開く。
「え? …………ホントに?」
「はい」
さっきまでのぺらぺら喋っていた勢いはどこへ行ったのか、先生は途端に無言になった。
「ほら、早くしてください」
固まったように動かなくなった五条先生を促す。こちらがペースを崩せているのなら、作戦は成功なのかもしれない。なら、駄目押しをしてやろう。
「目ェ閉じればいいですか?」
そう言って、瞼を閉じた。
瞼の裏の暗闇を見つめて、先生の出方を待つ。
しかし、もう数分は経っただろう頃にも、一向に動きはなかった。
堪え切れずに目を開けると、目の前にいたはずの五条先生の姿がない。
…………。
おい。
あの野郎、逃げやがった。
そうしてまた、ここに一人放置され、結果おちょくられたことに気がつくと、今までで一番腹が立った。
次の日、先生が急遽出張のために朝早くに高専を発ったことを聞かされた。手際良くこなせれば日中、長くても明日の昼までには帰って来られるから、その間だけは自習、自主訓練になると説明された。
俺は、久しぶりに先生から絡まれずに済んだこと、あの質問を聞かずに済んだことで、その日一日は久しぶりに心穏やかに過ごせた。
けど次、またあれを聞かれたら今度はどう返すべきかと対処方法を考えるのは止められなかった。なかなか解けない数学の問題じゃあるまいし、何をしているんだ、と思う。
でも、この問題にまともな解法がないのだとしても、いつの間にか意識が引きずられてしまう。せっかくやっかいな質問主はいないのに。
夕日が差しかかる廊下を歩きながら一年の教室を通りがかると、その教室の中に見慣れたデカいシルエットが見える。たまたま出くわしてしまったそれに、げ、と声が漏れた。スルーしても良かったけれど、何故かなんとなく足が向いた。
「出張、お疲れ様です」
「あ、恵」
普段座学の授業を受けている自分のその教室に、担当の教師がいることは何もおかしなことではない。けれど、不自然なことに、五条先生は俺の席にだらりと座り、机に突っ伏していた。そこは生徒の席だろうが。
「何してるんですか」
「んー?」
机をじっと見ると、はたと気づいたような素振りを見せて、わざとらしくもアハハこれ恵の席かぁと笑顔で答える。アンタはここで教鞭をとってるんだからそんなもん知ってるに決まってるだろ。
「強いて言うなら、学生ごっこ?」
強いて言うならってなんだ。突っ込み方もわからないようなボケをかまさないでほしい。
「……疲れてるんですか?」
「いや? 楽しくてやってるよ」
「そうですか……」
「あれ? もしかして心配してくれてる?」
「いや別に」
「緊急出張とんぼ帰りの多忙な五条先生のことが心配か〜。恵に気にかけてもらえるだなんて、なんだか嬉しいね」
ふふ、と笑う五条先生に、何も返せなくなる。
最近任務が立て込んでいるのは知っていた。数日とはいえ、遠方への出張も重なっていたみたいだったし。いつも忙しい人だが、繁忙期にあたる今、引く手あまたなのだろう。でも、そんな多忙の合間を縫ってしていたことが俺へのあんなからかいなのだと思うと、本当に意味不明な人だ。
今だって、出張帰りならすぐに部屋に戻って休めばいいのに。こんなところで一体なんの時間潰しをしているのだろう。
五条先生は昔から読めないところがあって、今もそれは変わらずにある。
自分が大きくなるにつれ、先生が隠していたりはっきりと口に出さない物事の大きさや多さにより気づくようになった。勿論その詳細はわからない。自分にそれが知られるとも思わない。ただ、呪術師として人より多くのものを持たされたこの人は、その分だけ余程抱え込む荷物が重いんだな、と思うだけだ。それを末端の力のない自分に何かできるはずもない。
「教室に何か忘れものでもしたんですか」
「あ〜、あぁ、忘れものね。そうかも」
してないな。本当に何しにここにいるんだこの人は。
「休まなくていいんですか?」
「んーそうだね〜。あっ、恵クンの席で寝たら頭が良くなりそうカモ!」
「ここで寝んな」
こんなどうでもいいやり取りをしている間に、本当に少しでも休んだらいいのに、と思う。それとも意外と元気なのか。
「あ〜でもほんと、ちょっと眠いなぁ……」
先生は、限界に近いとばかりの声を出した。眠気が滲み出たようなあくび混じりの声。やっぱり疲れてるんじゃないか。
目隠し越しでは、その瞳が開かれているのか閉じられているのかも判断できない。
でも先生は、最後の一言を境に動かなくなった。……どうやら本当に眠ったようだ。人の机で。
健やかな寝息を耳にしながら、普段の賑やかで騒がしい様や、呪いをその最強の力で無情に捻じ伏せて祓う様を思い起こしながら、それとはかけ離れた余りに穏やかな寝顔を見つめる。そこには不敵な笑みも苛立ちのこもった強張りもない。
ふと、先生の寝顔を見るのはもしかしたら小学校の低学年の頃振りじゃないか、と気づく。
自分と津美紀が小さかった頃、五条先生は差し入れと言っては任務の出張土産を家までわざわざ届けに来てくれた。多分あれは親のいない子どもだけの家に偵察に来ていたところもあるのだろう。
あの頃も、ちょっと疲れたから休ませてとかなんとか言って、うちの畳の上に転がって眠ることがあった。
寝ちゃったね、五条さん。疲れてるんだね。そう言いながら津美紀がタオルケットをかけるのが、いつもの光景だった。津美紀は労るように笑顔でそう言っていたけど、俺は、疲れているなら来なかったらいいのに、と思っていた。もしくはさっさと帰ればいい。
呪術師がどんなに過酷な職業なのか、それについてはそのときはまだほとんど知らなかった。けど、いつも来る度に、広くも柔らかくもないうちの畳の上でこんなに熟睡できるほどに疲れているというのなら。狭い俺たちの家なんかじゃなくて、もっとゆっくりのびのびと休めるところで休めばいいのに。
ずっとそう思いながら、髪も肌も白い、あたたかみの足りなさそうな先生の寝顔を見つめていた。
ふと、キス、と微かな呟きが聞こえた。
思わずびく、と身体が反応する。
けど、先生は変わらずに動かないまま、ゆったりとしたリズムでまた寝息を立てる。
……寝言か。どうしてまた。夢の中でまでって、相当な欲求不満ってことか?
そもそも、キスってなんなんだよ、と思う。
ただの唇と唇の接触だ。一体キスごときの何にそんなに振り回されることがあるのか。先生がそれにこだわる理由も、自分がそれに巻き込まれる理由も、たかがキスなんかにあるとは思えない。
……けれど、今までにキスをした覚えはなかった。自分には経験のないものであることは確かだ。
だから、キスをすることは特別なことでも特別じゃないことでもなかった。何も叩き台となるものがないから、何も言える意見がない。
それなら、と思う。
ふと、先生の寝顔の、唇に目がいった。
特別な手入れもしていそうにないのにかさつくこともなくやたらと潤んだそれは、白さが目につく先生の頭のパーツの中でも、唯一ほんの少しだけあたたかみのある色をしていた。
『キスしてもいい?』
今まで散々に聞かされた先生の問いが、何故か頭の中で急に再生される。
自分の身体が無意識に、何かに誘われるように傾いていく。
美意識なんてものが人よりも希薄だろうと思う自分でも、整ったかたちをしていると思うその人の顔が近づいてくる。
目の前の唇に、自分のそれを重ねようとする。
先生が、身じろぎをした。
途端、身体に電気が走ったようにびくついた。
飛び跳ねるようにして屈んでいた姿勢を起こす。
……先生は、起きてこなかった。目覚めてはいないようだ。
押し留めていた荒れた呼吸を解放して、ふーっと長い息をつく。
いや、マジで…………何しようとしてんだ自分。
こんな、先生に乗せられるというか、毒されて。
そもそも、こんなことをしようったって、無下限があるはずだ。顔がもっと近付くより前に俺の身体は弾き飛ばされるだろう。
でもとにかく良かった。命拾いした。
良かった。本当に。
血迷いに血迷った結果、愚行を起こさずに済んで、ほっとした。
けれど、良かったと思いながらも、緩むことなくずっと弾けるように波打つ心臓のうるささに、今すぐ耳を閉じたくなった。
先生を起こさないように注意を払って教室から出て行く。そこからある程度離れたら、廊下を走って寮まで帰った。吐く息が熱い。
どうしてあんな愚かなことに及ぼうとしたのか、胸の鼓動を宥めながら、今度は自分自身に意味のわからなさを強く感じていた。
今日は実戦練習として、任務にあたる日だ。
あれから家に帰ってきちんと休めたのか、だいぶ回復したように見える五条先生は昨日の事故未遂現場こと教室に現れると、昨日とは違いちゃんと教壇に立ち、俺はちゃんと自分の席について説明を聞いた。
虎杖と釘崎は呪霊の数が多いらしい現場のサポートに、俺は単独任務に向かわされるらしい。本当は三人仲良しこよしで行って欲しかったんだけどねぇ、と先生は残念そうな声を出す。
「おまけに、まーた僕にも任務が来てるから誰にもついてってあげられないんだけど、寂しいからってみんな泣かないでね」
「センセーなんかずっと忙しいね」
「今は特に。繁忙期だからな」
「まあ、打ち上げのシースーがないのは寂しいわ」
そうして一通りの簡単な説明が終わると、虎杖たちとともに教室を出る。
補助監督が車と待機しているところへ向かおうとすると、ふと目があった五条先生が手を上げた。
「あ、恵はこっち」
来い来いと手招かれる。ついてってあげられないんじゃなかったのか。
「さっき言い忘れてたんだけど、僕と方向途中まで一緒だから恵は同行ね。僕を下ろしたらそのまま恵の現場に向かってもらうから」
「はあ」
昨日の今日で狭い空間に一緒になるのは喜ばしくはなかったが、仕方がない、と思って出した返事が、不満さをありありと表したものになってしまった。それにしっかり勘付いた先生が、問いかけてくる。
「なあに? なんか不満?」
「いえ、問題ないです。運転は伊地知さんですよね。待たせたら悪いんで早く行きましょう」
早口でそう言って、さっさと足早に車の方に向かった。ここで変に追及されたら余計に面倒なことになる。
「あっ、みてみて恵。御神輿担いでるよ。お祭りの練習かな?」
車が出発すると、後部座席に並んで座らされた俺に、五条先生があれやこれやと話しかけてくる。目に入ったものを全部口に出す幼児か?
御神輿にそんなにも興味が惹かれるのか、開けた窓から顔を出して覗き込んで見ている。先生のデカい図体がその御神輿があるらしい方角を覆っているので俺には何も見えない。伊地知さんが、窓から身を乗り出さないでください……とか細い声で注意していた。
「賑やかっていうか結構騒がしいね。平日なのに暇なのかな? もしかして騒がしいから平日の午前にやってるの?」
俺には見えない御神輿を眺めながら、延々とこの特に縁もゆかりもない町内で行われるだろう祭りの話をしている。先生がずっとこんな感じなので、俺も昨日のことをまるで幻のように思うことができた。もしかしたらあれは夢だったのかもしれない。
そういえば、キスをしてもいいと答えて逃げられてからというもの、一度もそれを聞かれていないことにふと気づく。
今だって、全く聞いてくる素振りもない。
まあ伊地知さんがいるからさすがにやらないだろうと思うけど。もしそんなやり取りを聞かれでもしたら、これから任務にあたっての補助監督は伊地知さん以外でお願いしますという苦情めいた嘆願をする羽目になる。
「ねえ恵、御神輿見た? もう行っちゃうよ」
どんだけ祭りが好きなんだ。そう呆れていたら、慌てたようにこっちを向いた先生の顔がやたらと近かったので、動揺する。
それに弾かれるようにして、昨日の熱を思い出す。
触れていたかもしれない唇。
いや、昨日だって今日だって、それは触れるはずもないもの。
「恵、聞いてる?」
先生の問いかけに、はっと意識を戻す。
「……俺は、御神輿はいいので」
「えー」
せっかくなのに、という先生の肩を押して距離をとる。
何がせっかくなんだ、これから任務だろ。この人は祭り見学ツアーのつもりか。
でも先生ほど強ければ、大抵の任務も物見遊山に近い感覚があるのかもしれない。油断をしたらすぐに死ぬような自分とは違って。
キスがどうこうってやつも、似たようなものなのかもしれない。こっちは散々に気を揉んでいるのに、先生にとっては思い出せもしない雑談の中の冗談の一つとかで。
まだ触れていた肩にかかる手に力を込めた。ドアに張り付かせる勢いで押す。
できるだけ、遠ざかってほしい。
どくどくと、変にリズムを刻む心臓の音を意識しながら願う。
せめて、祭囃しみたいに騒がしくてもいいから、その距離だけは遠くにあってほしい、と思った。
それから、俺は若干おかしくなってしまった。
今までは流せていたものが、なんでもないものとして扱えなくなった。
一度意識を得てしまうと、もう元の感覚には戻れない。いつも自然にしているはずの呼吸を自覚しすぎると、息を吸う量も吐くタイミングもよくわからなくなるみたいに。自動で働いていたものは、そこに動かしているという認識がないから何も考えずにオートで行えているのだ。
先生が俺の肩にかける腕が。
匂いさえ香るその近い距離が。
別段なんとも思わなかったはずの日常のそれが、俺の心臓の鼓動を狂わせるようになった。
家族でも、友人でも、ましてや恋人でもない間柄で、教師と生徒としても不自然な、五条先生と自分との物理的な距離感は、全ては先生がそう詰めてくる距離だからと、ただその一点だけで慣らされてきた。
けれど、今。
よくよく考えると近すぎることをはっきりと感じる。先生が近くにいればいるほどイカれ出す脈拍がそれを知らせてくれた。
今まではそれでも構わなかった。もう普通だと思わされていたし、先生が取る距離感はこうなんだと慣れてしまっていたから。
でも今は違う。側にいられると、おかしくなる。
だからできるだけ近くにいてほしくなかった。もともと、遠い人だったのだ。心の内がよくわからない。その強さも桁違いで。見えているものも考えていることもきっと、自分とは全然違う。五条先生と自分の共通点なんてものは、小さなもの。接点としてもただお互いの思惑と都合の良さだけで重なったポイントがあるだけ。
物理的な距離だけが、不釣り合いに余りに近すぎた。
そんな気もそぞろな日々に、精神は揺らいでいた。そのせいで今日、午後からあった単独任務中に雑魚の低級相手に無駄に時間を取らされてしまった。
怪我なんかは流石に負わなかったものの、小狡い知恵をつけた呪霊に振り回されたのはかなり良くない失態だ。あんな低級呪霊、素早く簡単に倒せるようにならないと。
そう考えて、ふっと白髪の後ろ姿が浮かぶ。追いつこうとも並び立とうとも思わないような相手のはずなのに。どうして思い浮かべるのがよりにもよってあの人なのかと、苦虫を噛み潰したような心地になる。
そんな苦い気持ちを抱えながら、もう真っ暗になった高専に帰り着く。遅くまですみません、と運転手の補助監督に頭を下げて、寮までとぼとぼと歩いていたとき。
「お。恵、今帰り? 遅くまでお疲れ様」
できれば今一番会いたくない人に遭遇して、ばつが悪くなる。
「お疲れ様です。……ちょっと手こずりました」
「珍しいね。今日の相手って確か低級じゃなかったっけ。なんかイレギュラーあった?」
「呪霊にはなかったですが」
「ん? 自分にはあったってこと?」
「少し、油断しました。もっと簡単に祓える方法をさっさと考えるべきでした。次からは気をつけます」
「ふーん、後手後手に回っちゃったって感じか。恵、頭回すのも判断下すのも早いほうなはずだけどねぇ。何か集中できないことでもあった?」
「別に……。ちょっと気が散ってただけです」
そもそもの原因はアンタ由来なんだけどな。負け惜しみすぎるし説明のしようもないので勿論言わないが。
「ところで恵、もうご飯食べた?」
「まだです」
と普通に答えてから、ぎくりとした。
まさか食事に誘われたりしないだろうな。
今の状態でどこかに二人で行くのは勘弁してほしい。
先生からの返答をかなり冷や冷やしながら待っていると、先生は軽く注意をするように言った。
「遅いからって抜かずにちゃんと食べなね。恵、ただでさえ細いんだから」
「細くはないです」
親みたいなことを言うなよとむっとする。それに別段細いつもりはない。ただアンタや虎杖が規格外なだけだろ。
そんなやり取りをしながら、ふと気づいた。
今、二人だ。
あの質問をされていたとき、完全な二人きりの密室空間ということは余りなく、夜も遅く人の少ない高専の敷地内という今の状態はかなり、今までの質問を繰り出されてきた場所の条件に近い。
やばい、と思った。
どうしよう、走って逃げるか?
余りに唐突過ぎるがそれでもまあいい気もしてきた。この窮地から逃れられるなら。
しかし何故か段々と身体は強張ってくる。硬直していく筋肉に混乱する頭をうろうろとさ迷わせていると、ねえ恵、と呼びかけられる。
しまった。
思わず微かにびくり、と身体を震わせた。
「あのさ、ちょっと……ん、そのままにしてて」
その、止まれの指示に何故か素直に従ってしまう。
いや、うまく動けないから動かないのか、動くなと言われたから動かないでいるのか、自分にもよくわからなかった。
あの質問が来る、と身構える。
先生が急遽朝から出張に行っていたあの日、どんな返答を返そうと考えていたのか。咄嗟のことに、何も記憶が引き出せない。
しかし、先生は口を開くことはなかった。
え?と思っている間に、先生の長い指が並んだ大きな手のひらが自分の首元に伸びてくる。それから、どんどんと、先生の顔が自分の顔に影をつくるようにして迫ってきた。
……え?
は?
これじゃあまるで。
と、気付いた瞬間、汗がぶわりと噴き出た。心臓の鼓動がどくどくと耳に届く。
自分が教室で寝ている先生にしようとしていた時と同じ。
キスされる────
首元に伸びていた手が、後頭部を微かに撫でるように動いた。
と、思うと、すっと戻ってくる。
「はい、葉っぱとれた」
髪についてたよ、と長い指に掴まれた木の葉が目の前に差し出される。
近づいていたはずの顔も、対面するのに適切な距離まで離れている。いつの間にか。
「…………飯食うんで部屋戻ります」
「えっ、うん。おやすみ」
顔を伏せてそう早口で告げると、今度こそその場から逃げるようにして走り去った。
今、先生の顔は見られないし、自分の顔も絶対に見せたくなかった。
……最悪だ。
いい加減にしろ。
やってられるか。
ふざけんなクソ。
あらゆる罵詈雑言と拒否の言葉を、頭の中の音にならない言葉で重ねた。
それは、先生に言っているのか、勝手に勘違いした自分の脳みそに言っているのか、急に壊れたように脈打つ心臓や死ぬほど汗をかいたりする自分の身体に言っているのか、もうわからない。
とにかく強い気持ちでこう思う。
これ以上、こんなことに、振り回されてたまるか。
だからもう。
気にしないことに、決めた。
決めてどうにかなることかどうかもわからなかったが、そうする。
先生との近すぎる距離感は、九年間の年月か何かでバグってるからただそうなだけ。
あのからかいの質問も、何一つとして意味なんか持たない。本当にただの冗句の一つ。
俺は、それらに対して何も思わない。
ただそう在るものとして自動的に受け入れて、同様にオートで受け流していく。
前と同じに、そう、元に戻るのだ。
強く強く念じれば、気持ちも固まっていくはずだと信じて、そうした。
もう、何も、気にしたりなんか、しない。
不思議なことに、そう心を決めてから、先生のほうからも余り距離を詰めてくることがなくなった。
そして、それと同時に、もうあの質問を尋ねてくることも、なくなった。
それはもう、ぱったりと。今までのしつこさはなんだったんだというくらいに。
俺は、やっとあの下らない冗句に飽きたのだと思って、ほっとした。
ようやく解放されたのだ。ここしばらくの自分の精神を乱す原因から。
けれど、それとは逆に、心の中からふつふつと浮き立ってくるよくわからないもやもやした何かは無視して、あらゆる平穏を波立たせるものを地中深くに埋めて、蓋をした。
見えないように。あったことさえ、忘れるように。
それは、どうかもう二度と、戻って来なくていい気持ちだった。
ハレの日にはやっぱり晴れが良いよね、できればさ。
と、今日のこの場にいない誰かが言った言葉通り、その日は見事に雲ひとつない快晴だった。
呪術高専の卒業式だ。
四年間、無事に生き残った俺たちは、今日ここを巣立つ。
巣立つと言っても呪術師はここを拠点に活動するので、この場所から縁がなくなるというわけではないが。
万年人手不足の呪術界、実戦練習も兼ねて任務にも幾度となく駆り出されてはきたが、学生だから、で免除されているものも少なからずあった。ここを卒業すれば、それもない。一年間はまだモラトリアム期間を用意されてはいるものの、学生という肩書きは外される。これからは完全に、いち社会人としての扱いで呪術師として生きることになる。
小学校の卒業式の記憶は薄く、中学の卒業式には出た覚えがない。だが人数が少ないといえど、式と言うには余りに短く淡白な高専の卒業式が、盛り上がりも余韻もないままさっさと締めくくられると、赤い花を胸につけた卒業生の俺たちは顔を見合わせて苦笑した。目出度く華々しいはずの式典には不釣り合いな、三者三様の盛大な苦い顔。
「去年真希さんたちが、高専の卒業式なんてわざわざ来る必要ねーよって言ってた意味が今わかったわ」
「入学式もそいえばなかったもんね」
「お前ら入学時期ずれてただろ。一応あったぞ。卒業式よりしょぼかったけどな」
夜蛾学長と五条先生が立ち会いのもと、学長が呪術師としての自分なりの信条と姿勢を持つ重要さを説き、その後五条先生がめちゃくちゃ適当な入学以降の説明をしてくれた。以上、一応入学式という名目の何か、人数三人、所要時間十五分。
それを思うと今日の卒業式はまだ少しは式典らしさがあった。まあどんぐりの背比べかもしれないが。
「こんなのただの、まあ運良く生き残ったな、ヨシヨシ、さあこれからもこき使うぞ式でしょ。本当に呪術界ってブラックだわ」
「まあまあ、これから俺たちで楽しい卒業式二次会でもしよーよ。一応めでたいんだし」
「よーっし、じゃあザギンでシースーすっか!」
「いや、俺はビフテキ食いたい!」
なんだか聞き覚えのあるようなやり取りに、ふと懐かしさが込み上げてくる。
あれから四年も経ったのか。
今日がその締めくくりの日であっても、実感は余りない。
だけど確かに、虎杖も釘崎も、この四年間で本当に見違えるほどにたくましくなった。
虎杖の中の両面宿儺は、その中で未だ眠っている。宿儺自身も探すことに協力的ではなかった宿儺の指はまだ、その全てが虎杖の中にあるわけではない。しかし今、その大部分を取り込んでも、虎杖は自身の身体を制御した。
指を探す過程で出会った強力な呪霊を倒すことで積み重ねられた経験値と、指の本数分だけ底上げされた呪力。虎杖は、『宿儺の器』としてだけではなく、名実ともに実力のある呪術師として知られるようになった。
だから、宿儺を完全に取り込めば死刑だとされていた虎杖の刑の執行は未だ延期となっている。その執行者である何がどうあっても死なない五条悟という存在がいる限り、最早大抵の相手ならば力で捻じ伏せられるようになった虎杖自身が安定さえしていれば、それはもう破られることはないだろう。
釘崎は、タフな性格が更にタフになった。とは言っても、釘崎の言うレディの気遣いのような繊細さがなくなったというわけではなく、それらを内包していても強く在れるという、精神と存在の強さが増した。
また、黒閃経験者ということもあって、今は歳下の術師からも一目置かれることもよくあるらしい。満更でもなさそうな顔で後輩の指導にあたっている姿を見ることもあった。釘崎の、豪快に見えて意外と細やかな呪力操作や技にはより一層磨きがかかっている。
俺は、津美紀の呪いの祓除を果たしたことが、四年間の中でも大きな出来事だった。
それがゴールではないにしろ、自分が呪術師として生きる意味の一つに、津美紀にかけられた呪いを祓うことは大きなウェイトを占めていた。
ようやく果たせた、一つの目的だ。
その身から呪いが消え失せた津美紀は目を覚まし、眠り続けたことで落ちた筋肉を戻すリハビリをしたのち、無事に学校にも通えるようになった。呪いのせいで喪われた年月分、津美紀はまだ学生でいる。負わなくてもいい大きな負債を負わされて、大変じゃないわけがなくても、呪われる前と何も変わらずに津美紀は笑う。
早く取り戻さなきゃ。恵にもすぐ追いつくからね、と。
津美紀が目を覚まさなかった間に自分も学べたものがある。だからそれを心の中で静かに抱きながら、素直に、ああ待ってる、と答えた。
四年間の、覚悟と生命力を問われる学生生活が終わった。悪運の強い俺たちは学生の殻を脱ぎ捨てて、これから先は呪術師として独り立ちしていく。殺伐とした死と隣合せのこの世界の、より深いところでその真価が問われるのだ。
俺自身は、どう変われたのだろうか。
強くはなった、と思う。
魔虚羅を除く全ての式神を調伏し、その扱いも実戦で大分こなれた。領域展開も、初めて出したときの不格好だったものとは比べものにならないくらい強固なものが引き出せるようになった。単純にできることの種類と幅が増えて、その分だけ力を得た。
けれど自分は、強さの確固たるかたちを知っている。それは、呪いを感知し始めた幼い頃から一番そばで見せられてきたのに、今の今まで、何一つとして揺らがないもの。
ふと浮かび上がる、白髪頭の大きな背中。
でも勿論、自分はあれにはなれない。他のどんな人間にも無理だとさえ思う。
だから、というわけではないが、自分は、自分なりの自分の強さを磨かなければならない。
それが、宝石ほどに目映く輝くような力にはなれなくても、多少不格好であれど自分で目を凝らして磨き上げたものを、信じられる力として確かに握っていられるくらいには。
その後は卒業生三人で、本編の式典よりも豪華な二次会やらを楽しんだ。
いつかのあの日と同じように、寿司とステーキで譲らない二人に、今日に限っては昼と夜で両方食べればいいと提案すると二人とも笑顔でのってきて、昼も夜も豪勢な食事をした。メンバーも変わらないのに場所を移し続けて五次会くらいになったカラオケ店でパフェをつつきながら、釘崎が愚痴をこぼす。
「つーか、あのバカ、マジで来なかったわね」
「あー、五条先生? でも突然わき出た特級呪霊でしょ? 他に動ける人いなかったっぽいし。……残念だけどしゃあないよね」
「私らよりよっぽど卒業式に向けてソワソワしてたくせに」
「多分日頃の行いだろ」
俺がデンモクをいじりながら呟くように言うと、釘崎がフン、と笑った。
「アンタ、ほんとアイツに対しては遠慮ってもんあんまないわよね」
「そうか?」
「でも、当日は晴れたらいいよね~って先生だけが天気予報やたらと気にしてくれてたおかげか、ちゃんと晴れたね」
「あの人が来なかったから晴れたんじゃねえか」
「辛辣すぎない?」
今度は虎杖が苦笑する。すると、釘崎が握りこぶしを手のひらに打ちつけて、何かを閃いたと言わんばかりのジェスチャーをする。
「あ、アンタもしかして、逆に来なくて拗ねてる系!? 図星ね!」
「あぁ〜〜そっか!」
「ちげぇよ!」
にやにやする釘崎に、なるほどと納得顔の虎杖。全力で否定した。んなわけねぇだろ。
昼も夜も、カフェでもカラオケでも食べ物を口に入れてきたお陰で、腹はかなり満腹だった。三人で散々騒ぎ合い、疲れ果てた頃に解散した。学生気分で遊ぶのはこれで最後なのかと思ったら、いつもにはなかった余韻みたいなものが残る。
部屋は余っているからと、まだ退去猶予を保たされている高専の住み慣れた寮の部屋に戻ると、ケトルを沸かして温かい飲みものを飲みながら、少しゆったりした時間を過ごす。
ちょうどマグを空にした頃、ドアをノックする音が聞こえた。それから、聞き馴染みのある呼びかける声。
「恵、ちょっといい?」
ドアを開けると、こんな夜にごめん、と珍しく殊勝にも謝る先生がいた。
それから笑って、言う。
「卒業おめでとう。……って、本当は式で言いたかったんだけどね」
「ありがとうございます」
「一人一人に言い回ってたの。ちなみに恵が最後だよ」
律儀なことだ。五条先生のくせに。
でも、先生は何故かやたらと行事やイベント事は大切にする。初めは、先生がお祭り好きだからだと思っていたが、先生自身が楽しみたいからというより、俺たちに楽しんでほしいという強い気持ちがあるんだろうということに気がついた。余程自分が学生時代に楽しんだ記憶があるのか、俺たちにも先生の言う『青春』を取りこぼすことのないようにといつも気を払ってくれていた。一般的な教師や先生と呼ばれる枠から大きく外れた五条先生も、そんなところは大人や先生らしいような気がした。
「特級呪霊のほうはどうでした?」
「余裕。ちゃっちゃと祓えたよ。まあ、君らの卒業式には間に合わなかったけど」
その言い方に、色濃い恨み節を感じる。どんだけだよ、と苦笑した。
良かったら中どうぞ、と促すと、じゃあお言葉に甘えて、と先生が部屋の中に入ってくる。夜も遅いので、断られるかと思ったがあっさりと了承された。自分としては礼儀として聞いたつもりだったのでどちらでもよかったが、少し意外だった。それに、そういえばそもそも、寮の俺の部屋に五条先生を招き入れた覚えなんてなかったから。
ちょうどさっき使ったお湯が余っていたのでそれをそのまま茶葉を入れた急須に注いだ。ブラックコーヒー派の自分の部屋には砂糖がなかったので、緑茶にする。見慣れたものとはいえ、いつもブラックで飲む自分には、先生のコーヒーは本当にコーヒーの味がしているのか疑問だ。
湯気の立つ緑茶の入った湯呑みを先生の前に差し出す。それを見て、何故か先生の顔が綻んだ。
「なんか懐かしいね、恵にお茶入れてもらうの」
「そうですか?」
「よく家に通ってた頃に出してくれてたよね。といってもほとんど津美紀が入れてくれてたけど」
今も昔も客をもてなすことに関して特別意識をすることもなかったから、薄い記憶で、フーン、という感じだ。先生の言う通り、俺はその頃かなり反抗的で、大体津美紀がやってくれていたんだろう。
「でも一度、お湯呑み割っちゃったとかで、あったかい飲みもの入れる器が他にないからって、恵が難しい顔してお茶碗にお湯入れて出してきたときは爆笑しちゃったよね」
「マナーも何もないガキですみませんでしたね」
今更わざわざそんなことを思い出すな、としかめっ面になる。対して向かいにいる五条先生は、やたらと機嫌が良さそうに見える。
「寒い日だったから、冷たいもの出すのはNGだって思ったんでしょ。子どもなりのおもてなしなんだろうなあって感じたよ」
「アンタ以外あの家に人なんか来なかったですからね。そんなもんを学ぶ機会も俺たちガキにはなかったんですよ」
子どもだった自分には、手本とするおもてなしの作法もわからなかった。身近にそれを見せてくれる大人もいない。そもそも、小学生が家主の時点で狂っているのだろう、本当は。
「いや、けなしてるわけじゃなくて。小さい恵のかわいいエピソードだよ。それに僕は嬉しかったし」
「茶碗で白湯すするのがですか?」
「冷たい水じゃなくて、僕にあったかい飲みものを飲んでもらおうって恵の気遣いが」
本当に嬉しそうな雰囲気で言うので、言葉に詰まって、何も言えなくなる。
それから先生は、唐突に頭を下げた。
「卒業式、出られなくてほんとごめんね」
えっ、何かと思ったらそんなことか、と驚く。
この五条先生が頭を下げることなんてあんのかという戸惑いと、卒業式にそれほどの思い入れが?という不思議な気持ちを抱く。もしかしてその詫び入れに虎杖や釘崎のところもこうして回ったのだろうか。
「いや、知ってんでしょ、ここのしょぼい式のこと」
「それはそれ。れっきとした目出度い門出の日だよ? 担任の僕がいないのは僕が僕を許せないよ」
先生は目隠し越しにもわかる険しい顔をして、ホンット空気の読めない呪霊ってキライ!と憤る。
「はぁ〜あ、恵が高専に入学してそれから卒業するときのこと、入学前からどんな感じになるのかなって何度も想像してたのに。結局僕が見られたの入学式だけになっちゃった。で、どうだった?卒業式」
「どうもこうも……卒業しました」
「なあにそれ。とうとう……ようやく? 卒業できて、感慨深さとか、ないの?」
「……まあ、それなりに」
「歯切れ悪いなあ〜。僕はあるよ。式には出られてないけど、あんな豆のようにちっちゃかった恵がねぇって」
そう言いながら、先生は人差し指と親指で見えない何かを測るようにした。そこまでは小さくねえ。
それから、サイズの違いを確かめるようにその手を今の俺の前に掲げる。うん、ほんとに大きくなったねえと先生は穏やかに笑った。
「……五条先生はまだ一応教職続けるんでしょう? そんな、先生まで卒業して何もかも終わるみたいな雰囲気出さなくても。来月新入生もちゃんと来るって聞きましたし」
なんだか余りにセンチメンタルな雰囲気を醸されたので、それを払いたくてそう言った。それに先生なら、終わっていくことなんかには目もくれずに先を見て、これからが本番だよ、呪術師としてもっと本格的に力をつけてねとでも言うのかと思ったのに。
んー、と少し考え込みながら先生は言う。
「いやでもさ、ホラ、恵の先生も後見人も今日で終わりだからね」
それは、少し珍しい真面目なトーンの声だった。
……そうだ、俺は今日からはもう五条先生の庇護下を離れる。確かに、そういう意味では一区切りだ。
親のいない子どもと、それを拾った恩人であり後見人。
幼い頃から呪術を教え込んだ師弟。
今日巣立った学び舎で、教鞭をとった担当教師とその生徒。
俺はもう子どもではないし、学生でもなくなった。完璧や十分というにはまだ遠いものの、十三年の間に彼から仕込まれた力で、独り立ちする。
どれからも、一区切り。
その関係性は在るものから、かつて在ったもの、に変様する。
だんだんと、それらは全て過去になる。
今、急に卒業式の重みみたいなものが感じられてきた。節目の行事にはちゃんと意味があるんだな、と思った。あんな簡素なものでも。
そしてふと、思い浮かんだことを尋ねてみた。
「五条先生って呼ぶのも、今日までですか」
「ん~~、でも、昔の恩師をそのまま先生って呼ぶのは普通じゃない? 悠仁や野薔薇に五条さんとかって呼ばれるの違和感あるなぁ。いやでも野薔薇とかはそもそも大して五条先生って呼んでくれてないか……。憂太は別として、真希たちなんか一度も五条先生とか呼んでくれたことなかったし。まあ、恵はもともと五条さんって呼んでたからむしろ先生のほうが新しい呼び方だよね」
散々喋ったあと、どっちでもいいんじゃない?とそう結論付けられると、それならばと返す。
「五条さんにします。先生だと学生気分が抜け切らないかもしれないので」
「了解。懐かしい響きだね、恵の五条さん呼び」
でもこれからは先生呼びのほうがレアになるってことだよね?と五条さんは笑った。俺が呼びかける呼び名に希少価値を見出すなんてやっぱり五条さんはおかしい。そもそもまた先生と呼ぶ機会は来るのだろうか。
「なんか今日は、思いもかけず懐かしいもの、いっぱい貰っちゃったなあ」
五条さんが、少し冷めただろう緑茶をすする。
不思議な静寂が流れた。
時計の針の音が聞こえる。普段、自分一人でいるこの部屋では普通に聞いている音でも、ここには今五条さんがいる。ただそれだけで、何か別のもののように聞こえた。
その静けさにいつもは落ち着くはずなのに。
何故だか、心臓が小さく揺らめきながら波打っていくような気持ちがした。
「ねえ、恵」
五条さんがこちらに顔を向けて、目隠しをするりと首元まで下ろした。六眼を宿す瞳があらわになる。宝石のように輝く光が湛えられた、透き通るような海を思わせる蒼。
目隠しをしているときは、どこを見ているかがこちらからはわからない。けれど、それがなくなっても、その瞳から読み取れるものは少なかった。その外形に囚われて、目映さ以外の何かを拾うことができない。
その瞳を吸い寄せられるように見つめていると、五条さんの口が開いて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「キスしてもいい?」
それは、懐かしくて、遠い言葉だった。
反応した身体が、は、と息を詰める。
それに付随する気持ちと一緒に、昔、深く深くへと、記憶の奥へと埋め込んだ言葉。
どうしてだ、と思った。
どうしてこんな、卒業式の、最後の日に。
塞いでいたはずの封印が解かれたように、気持ちが揺れる。ぎしりと、心臓が軋んだ。
目の前で完全に固まった俺を見て、五条さんが少し慌てたように口を動かす。
「あーその、みたいなことを……昔、恵に言ってたことがあったよね?」
ばつが悪そうに、軽薄な笑顔を顔に貼り付けて。
「懐かしさのあまり……なんか、思い出しちゃって。恵はあれ、覚えてる?」
冗談みたいに、ぺらぺらと喋った。
その様を見て、肩が、手が、頬が、強張った筋肉がじわりと熱を持ち始める。
「……アンタ、なあ……」
腹の底から、怒りが込み上げてくる。
一体こちらが、どれだけそれで困らされたか。
ムカついて、戸惑って、苦しくなって。
……一体、どれだけ。
上手く制御することができなくなったものを、なかったものとしてずっと封じ込めていた。
本当は、葬り去りたかった。だけど、それは叶わなかった。
叶わなかったことが今、わかってしまった。
二度とこうして蘇らないようにと、願っていても。
「忘れられるわけ、ねえだろ」
非難の気持ちを込めて睨みつけると、突然身体がふわりと揺れた。先生の手が俺の肩を掴んで、引き寄せる。
訳のわからないままに、顔に柔らかいものがあてられた。
唇。
自分の唇に、五条さんの唇が触れている。
……どうして。
散々尋ねられたときも、それに了承したときも、寝込みを襲いかけたときも、勝手に勘違いしたときも、結局一度も触れるはずのなかったもの。
でも今はそれが、自分の唇に重ねられている。
それも、多分、五条さんの意思で。
ほんの少し触れているだけなのに、自分のものじゃないあたたかさが確かにそこにあった。
けれど、柔らかいそれがふっと遠のいて、あっという間に感触が消えていく。ゼロ距離に近くなっていた五条さんの身体も離れていった。
顔が見られる程度まで離れると、その、感情がぐちゃぐちゃに入り混じったような表情が目に貼り付いた。
一度も見たことがない顔。
一緒に過ごした十三年間でも、全然知らない。
こんな顔は、見たことがない。
「ごめんね」
それは、今日二度目の、先生には珍しいはずの懺悔の言葉だった。それもまた、聞いたことのない囁きのような響き。
唐突に起こるわからないことが余りに多すぎて、頭も身体も自由にならない。
俺はその場に、ただ佇んでいた。
「……卒業、おめでとう」
二度目の祝辞を貰ってそれに何も返せないまま、先生はするりと手を離すと、固まって動かなくなった俺を置いて静かに部屋から出て行った。
遠のく足音が完全にしなくなった頃。
とうとう、したことがなかったキスからも卒業させられてしまった日になったと、頭の端の方でぼんやりと思った。
俺は高専の寮を出ると、部屋を借りて一人暮らしを始めた。
津美紀と暮らしたあの家と、隣室には虎杖がいて人の気配を感じるのが容易だった寮くらいしか住んだ家の記憶はない。だから、完全に自分一人だけの家に住むのは初めてだった。
津美紀から、一緒に暮らそうか、と持ちかけられたこともあるが、津美紀自身は今学校の寮暮らしだ。寮を出ることもできるけれど、津美紀がやっと今馴染んでいる環境を自分の一言で変えたいとは思わなかった。それに、一人での暮らしを過ごすことで、ようやく大人になれるという気もしていた。
誰もそばにはいない家では、静かな時間が今は多い。
高専卒業後に与えられる一年間のモラトリアム期間は、任務に縛られ続ける呪術師にとって唯一それから逃れることが許される時間だ。
釘崎は、ずっと行きたかった海外旅行に行くと言って、卒業式から数日も経たないうちにでかいスーツケースを引きずりながらすぐさま海を渡った。
未だ要監視扱いの虎杖はそれほどの自由は認められておらず、引き続き宿儺の指の探索と称して任務に駆り出されることも多いが、本人はそれで納得しているらしい。
どうせ他にやることもないからと、そう言って静かに笑っていた。
同様に俺も指の探索には足を運んでいたが、それでも細々とした任務は明らかに減っていた。モラトリアムをこうして急に手渡されたところで、持て余すような思いでいる。どうせ、死ぬまで呪術師として生きることを強いられた人生だ。他に選べる道もない。身体を鈍らせないためにも、自主トレや、虎杖や真希さんとの手合わせを定期的に行った。
休日の予定が合えば津美紀に会うこともあるが、成人した姉弟がそうべったりと付き合うわけもない。津美紀には、津美紀の生活がある。
柔らかく表情を変えながら自分に笑いかける津美紀を目の前にしていても、未だに、静かな病室で一人、瞼を下ろしたまま眠り続けていたかつての姿を思い出すことがある。忘れられない冷たく暗い記憶。だからこそ、取り戻せた今ある普通の日常が、余りにもあたたかで光に満ちたものに思えた。そうして彼女が何にも脅かされず、楽しそうに暮らせているのなら、ただもうそれで良かった。
基本的に任務を受けなくてもいい、ということになっているだけで、万年人手不足の呪術界が動ける呪術師を完全に余らせておくわけもない。
だから、大掛かりな案件には本格的な召集がかかることもあった。モラトリアムとは言いつつも、結局はそんな予備の弾薬のように扱われていた。海外に逃げた釘崎はもしかすると利口だったのかもしれない。そんなわけで、顔見知りの先輩たちなんかとはたまに合同任務で被ることもあり、皆の元気そうな顔はその場で知ることができた。
それとは逆に、五条さんとは、本当に顔を合わせる機会が減った。というより、ほとんど、ない。
風の噂で聞くところには、日本にいない期間もしばしばあるようで、特級かつ最強の忙しさここに極まれりといった感じだ。
卒業式の日、本当に初めてキスをされてから一度だけ、用事があって足を運んだ高専でたまたま顔を合わせたことがある。
不意打ちのようにふらりと現れたので、身構える時間もなかった。
もしも次会ったとき、自分は何を言われるのだろうかと、散々悩んだ。でも、わからない人のわからない行動の先を考えたって、答えが出てくるはずもない。
そんな準備態勢ゼロの自分に、五条さんはまるであの夜の出来事が夢だったかのように、普通に話しかけてきた。
「やー恵。久し振りだね。元気してた?」
「……まあ、それなりに。そっちも相変わらずですか」
「そうだね。まあ連日出張とかは辛いとこだけど」
いつもの軽薄そうな笑顔。軽い声のトーン。
なんだ、と思う。
おかしいくらい、普通だ。キスをされる前のやり取りとなんら変わりがない。俺の記憶違いだったのかと思うくらい、先生の態度も俺への接し方も変わらない。
先生は、俺の顔を少し覗き込むようにして首を傾けた。
「恵、ちゃんとご飯食べてる? 今一人暮らしなんだよね」
「食べてますよ」
「ご飯は身体の資本だよ。しっかり食べなね」
前にもそんなことを言われたな、とぼんやりと記憶が巡る。けれど、それはうまく掴めなかった。
どこかもやもやする気持ちのまま、食べてますんで、と返すと、そ?と答えて傾けた首を元に戻す。
『キスしてもいい?』
あの頃先生から、よく聞かされていたその言葉が、ふいに聞こえた気がした。
けど、目の前の唇は閉ざされたままだ。
その音の響きは、ふっと記憶の亡霊のように浮かんで、消える。
それは本当に、はじめからどこにもなかった幻のように思えた。
「あ、そういえば外で学長たち待たせてるんだった」
「こんなとこで余計な道草食わないでくださいよ」
「じゃあね、恵」
五条さんが、ひらひらと手を振った。
「さよなら、五条さん」
それに別れの言葉を返す。
そうして歩き去っていく背中を、見ていた。
どうか遠くにあってほしいと、いつしか願っていたその背中は、今はその祈りなしにどんどんと離れていく。
今の願いもそうかはわからないのに。
元々ずっと、遠い人だと思っていた。だけど今、明確に届かないところにいる人なんだと気づく。今日の五条さんの態度を見て、あの卒業式のことはもう、あの人の中ではなかったことなんだな、と思った。
だけど、と思う。
もう二度と、聞かれることがないのに。
もう二度と、触れることもないのに。
自分が覚えていたとしても、仕方がないのに。
心臓の奥、小さな鼓動がうずく。
一度だけ触れた柔らかくて熱い唇が離れたあと、あのこわいくらいに綺麗だと思っていた蒼い瞳が、揺らぐように震えていた。
恩人でも、後見人でも、師匠でも、先生でもない、俺の見たことのない、あの人の顔。
知りたい、と思ったのだ、確かに。
自分なんかにはわかるはずもない、知ることもできないだろう、そうずっと思っていたはずのあの人の心の内を。
あの響きと、あの熱が、何故だかずっと、忘れられない。
意味のわからないそれを、自分は消し去ることができない。
「キスって、どういうときにするもんなんだ」
高専卒業後、初めて虎杖の家で同級生三人で集まって夕食会を開いていた。海外へ渡り、あちこちを転々としていた釘崎がようやく帰国したとの知らせを受けて、久々に顔を合わせることになったのだ。やっぱり囲むなら鍋だと全員の意見が一致したので、美味しそうな湯気の立つ鍋をつついていると、口が緩んだのか自分が今抱えている一番の疑問がぽろりとこぼれた。
「は? ちょっとアンタ、どういうこと?」
「伏黒サーン、しょっぱなからジャブがデカいよ」
釘崎が何故かキレ気味で、虎杖が軽く困り顔でそう言ってくる。
「鍋食べ始めのときにかます話題じゃないわよ、それ! お陰で私の一口目が迷子だろーが!」
「スマン、なんとなく……今口から出たから」
「んー、とりま、よそっちゃった分食べよっか」
虎杖がそう言って、自分の小皿に大盛りによそわれた野菜や肉を口に運ぶ。釘崎も、それにならった。俺も肉団子を頬張る。
「やっぱ美味しいわね。真希さんたちと初めて食べたあの時は、虎杖死んでると思ってたからちょっと苦い思い出でもあるけど。今はしっかり味わって食べられる」
「うん、美味いな」
「え? 俺死んでたとき鍋パなんかしたの? えー今更初耳なんだけど。ずっりーな」
「ずるいも何も、アンタが死んでないのに死んでたからあの鍋パでは問題になったんだからな」
もぐもぐと口を動かして食事を楽しむ。四年間を共に過ごした二人との馴染んだ空気は居心地が良い。
鍋から小皿に盛った一杯目をさらって箸を置くと、釘崎はぎろりとこちらを見てくる。
「そんで? アンタ何ちゃっかり行動してんのよ! こちとら海外駆けずり回ってたっつうのにお土産話始める前に見事に話題かっさらいやがって!」
「いつの間に恋人できたの、伏黒!?」
切り替えが急だな。
そして、色々と誤解を生んでいることに気づく。
「高専卒業して即色気づいたの? つか、一体私らのどこに出会いがあんのよ……マッチングアプリか? まさか妄想じゃないわよね。アンタの恋人画面の中に住んでない?」
「でもマジそれだよね。呪術師ってどこにそんな縁あんの?」
食い付きが良すぎるのは、二人とも出会いに飢えてるってことなのか。まあ、わからないでもない。呪術師に新しい出会いの場なんてそうない。狭いコミュニティだし、仕事上機密も多い。それを証明するように、俺のしている話の相手は十何年も前から知り合いだし、二人もよく知る人間だ。
「違う。ちょっと待て。俺に恋人なんていない」
「えぇ?」
「はあ? やっぱ妄想ってこと?」
戸惑う虎杖と、呆れ声を出す釘崎。
そこで、はたと気づいた。恋人なんていないのに、キスの話を振るのも不自然だ。どういう流れに持っていけばいいんだこれ。
そして何も言えずに若干冷や汗をかき始めた頃、虎杖がぽんと手を叩く。
「あっ、今から良い仲になっていきたいって子がいる的な?」
「はーん、これから口説くってか? まあまだアンタがゴールするには早いわよね」
虎杖と釘崎が答えを得たり、と言わんばかりに顔を見合わせて頷き合う。いや、それも違うけど。
「へー伏黒、好きな子いたんだ」
「写真ないの? 写真。もったいぶらないで見せなさいよ」
「お前ら、鍋冷めるぞ……」
こちらが口を挟む隙もなく、わいわいと騒ぎ立てられる。釘崎の言う通り、食べ始めるときに話す話ではなかった。失敗した。いや、そもそも話すことすらすべきじゃなかったのかもしれない。口を滑らせるとは正にこのことだ。
「てか、まだ付き合えてないんなら、まず告白の仕方からじゃない?」
「そだねー」
なんでキスから聞いた?と釘崎が呆れながら言う。
「あと、先に言っとくけど間違っても盛って同意のないキスとかすんじゃないわよ」
「え……」
思わず漏れた声に、場の空気が固まった。
やってしまった、と思う。もう遅いけど。
「ハ~~~ァ!? もうやっちまった後ってことォ!?」
「いや、」
「えー伏黒クンたら、情熱的♡」
「おい」
荒れ狂う釘崎と、茶化す虎杖。
話が余りに変な方向に走り出したので、待ったをかけようとして慌てる。
「だから! ……その、違う」
「お?」
「ん?」
「したんじゃ、なくて」
同意のないキスをしようと、自らが試みたこともあったが、それは未遂だし、今の本題じゃない。
自分が今思い浮かべているのは、卒業式の日、あの人が仕掛けてきたあのからかいの日々を苛立ちながら覚えていると答えたら、なんの脈絡もなく、勝手にされたあれのことだ。
肩を強く掴んできた手のひらの感触すら、今も忘れられないでいる。
「…………やられた」
へぇ、ほう、と、何故かそれぞれ神妙に相槌を打ってくる、二人のほうを見られない。
急に、顔が熱くなってきた気がする。思わず視線を遮るように手をかざした。
なんでこんな話までしているんだ、俺は。
「……どうやらこの感じは」
「本気っぽいわね」
虎杖と釘崎が、探偵とその助手かのような雰囲気を見せながら、俺の顔を見た後に二人で顔を合わせて謎の視線を交わしている。
「………………鍋、冷めるぞ」
ようやく捻り出した俺の二度目のその一言に、二人は軽く頷いた。
「それはそうね、ちょっと食べましょ」
「野菜ひたひたんなっちゃうね、食お食お」
「うどんもふやけるわ。こうなるとお椀によそうのも一苦労なのよね。ぶよぶよだし」
「あ、肉団子追加あるよ。伏黒いっぱい作ってくれたから」
普通に進行する鍋の話にも入ることができず、ただ二人の会話を聞いていた。
喉が、というより口の中が渇いてきたので水を飲み干す。まだ顔が熱い気がする。
「で、話の続きだけど」
釘崎が箸をこちらにびし、と向けてくる。
律儀にまた戻ってくるな。もういいから鍋だけに集中してくれ。
「つか、そんな同意のないキスなんかされて、ヤじゃなかったの?」
私なら刺すわ、と容赦のないことを言い添える。刺すってなんだ、釘をか?
そして釘崎の言葉を受けて、はたと気づく。
……嫌か、嫌じゃないか?
そんなこと、そういえば今まで考えたこともなかった。
からかい文句でおちょくられていた日々には苛立ちも募っていたけど、本当にされたキス自体には怒りの感情はわき立たなかった。
ムカつくとか許せないとかよりも、何故?の気持ちが勝っていたから。わからない、の大きさが、他の全てを覆っている。
「嫌っつうか……キスされる意味が全然わからなかった」
ぼそ、とそう答えると、その五百倍くらいデカい声で釘崎は言う。
「キスされる、意味!?」
指をパチンと鳴らして、また口を開く。
「OKイタドリ、キスって一体何のためにすると思う!?」
「ん~~、好きだから? 愛情確認のため?」
「ヘイ、サンキューイタドリ!」
そういうことよ、というような満足顔で釘崎は頷いた。虎杖は少しだけ照れたようにはは、と笑っている。
いや、全然わからない。
好き……?愛情……確認……??
余りにも五条さんと自分の間には似つかわしくないものだった。
好きだからキスをする、というのは理解できる。恋人同士が愛情確認のためにする、というのも。どちらも経験したことがないのでなんとなく、というものでしかないが。
けどそれは、俺とあの人の関係性のどこにもかすらない。
「いや、それはないと思う」
「じゃあセクハラね。訴えな」
「極端だなあー」
放り出したような釘崎の答えに苦笑する虎杖。相変わらず感情の起伏が激しいヤツだ。
匙を投げた釘崎とバトンタッチをするようにして、今度は虎杖が尋ねてくる。
「んーじゃあさ、キスされる前後でなんか言われたりした?」
「……別に。普通に会話して、……ああそういえばキスの後、」
そうだ。
キスをしてきた後、普段の軽薄な笑みも、不機嫌そうな強張りも潜められた、俺には推し量れないいろんな感情が入り混じったぐちゃぐちゃの表情を崩すように動かして、あの人は言った。
『ごめんね』
ごめんねって、なんのごめんねなんだ。
その時も強く思ったし、今でも思う。
おい、長考して勿体ぶるなよと、釘崎に小突かれる。どうにかもっと浅いところでこの話を打ち切れないかと考えていたが、どうにも叶いそうにないので、半ば自棄糞で話す。
「あー、……謝られた」
「ハア!? 有罪!!!!」
「判決が早いよ釘崎裁判官!」
「同意もなくキスかましといて謝罪だぁ〜? ないわね」
謝るくらいならすんな、と吐き捨てるように言う。
本人の預かり知らぬところで、五条先生が教え子にボロクソに言われている。
「バッサリいくなあ〜。てか、伏黒的にはどうなん? その人」
「……? どうって?」
「キスされる意味はわかんなかったかもだけど、結局イヤではなかったってこと?」
「だってキスよ? キス。キモ〜いとか、ありえねえ〜刺すとかってヤツ、あるでしょ」
「……それは…………」
突然、知らぬ間に押し付けられていた唇。
キスというものが、どういうものなのか、知らなかった。今も知っているとは言い難いが、自分がしたことがあるキスといえば、あれしかない。
嫌か嫌じゃなかったかと言われたら、わからない、が一番だけど。
……おかしいのだろうか。そう思えないことのほうが。
あれは、承諾も得ず、不意打ちのことで、よりタチの悪いもののはずだ。
だけど何度思い出してみても、嫌悪感といったものが呼び起こされることはなかった。
ただ、言葉を封じて身体を触れ合わすその行為からは、その真意はわからなくても、感情の熱だけは確かに伝わってきた気がした。
だけどその正体もやはり、わからない。
「……相手がなんで、ってことばっか考えてて、……何も…………」
ぽつぽつと考えながらそう話すと、二人からのじりじりとした視線を感じた。顔を上げると二人ともに目を逸らされる。なんなんだ。
はぁーあ、と釘崎がこれ見よがしなデカいため息をつく。
「された、って聞いたときから、なんとなーくわかっちゃいたのよね」
「んー、釘崎的にはやっぱなし?」
「ないわよ。ろくでもなさそうじゃない」
「……お前ら急に何の話してんだ?」
あのさ、と虎杖が苦笑しながら聞いてくる。
「伏黒、まだお酒飲んでないよね?」
「? ねぇ」
唐突な質問に、面食らった。呂律が怪しかったりしたか? だが特に飲酒はしていない。
「アンタの恋愛の趣味が悪そー、って話よ」
釘崎が二度目のクソデカため息をついた。どういうことだよ。
それから、虎杖と釘崎が顔を突き合わせて何やら小声で相談めいたことを始めた。おい、人を目の前にして二人だけでボソボソ喋んな。
少しすると、何かの決着がついたのか、釘崎にけしかけられた虎杖が頬を指でかきながら、俺に向かって言いづらそうに話す。
「あー……伏黒はその、気づいてないかもしれないけど。多分、その人のことが、好きなんじゃないかなあ?」
医務室に備え付けの椅子にもたれると、ぎぎぎ、と悲痛な叫び声みたいな音がした。
硝子これ古いんじゃない?と抗議の声を上げると、五条が重いからだよ、あと備品の新調は高専に掛け合ってと返される。
「……硝子さあ、昔僕に恋のアドバイスくれたこと覚えてる?」
「私が? 五条に?」
恋の?アドバイス???と、思い切り眉間に皺を寄せながら怪訝そうな様子で尋ね返される。
「記憶にないけど」
「まあそんなもんだよね。硝子飲んでたし」
「じゃあない」
そこそこアルコールが入ると硝子は都合良く記憶を飛ばすことがある。全然飲めない自分からすると、ザルなのにそれ程酔えるのはいいなと思う。まあ、本人が言うなら多分本当に何も覚えてないんだろう。
「成功したの? ていうか昔っていつ。学生時代とか?」
「んー、まあそれなりに昔かな」
「結局いつだよ」
椅子の背もたれに顎を乗せて、硝子の残り半分の質問に答える。
「で、まあ盛大に失敗して……でも、一応成功した」
「んん?」
なんのこっちゃ、という反応。
「成功したんならいいんじゃない?」
「まだ続きがあってさ。失敗して、成功して、……結局最後にはまた失敗したんだよね」
「で? 私のアドバイスが役に立たなかったって言いたいの? 何を言ったかも覚えてないっていうのに」
「違うよ。むしろ硝子のアドバイスはそりゃもう絶大な効果をもたらしてくれた。ただ……まあ、そうだね。僕が焦って、……ダメにしたってだけ」
「ふーん。それで? オチは?」
「いやー、ないんだよねえ、それが」
「よし、もう帰りな」
椅子をくるりと回した硝子から、背を向けたままそう言われた。意味の通らない回りくどい物言いは自分も大嫌いなのでその気持ちはよくわかる。でも帰らないで話を続ける。
「その、盛大に失敗した相手に久々に会ったらさ、なんか……気持ちがぶり返しちゃうところがあったっていうか」
「何? 結局恋愛相談?」
眉間の皺が深くなる。めちゃくちゃ目が悪い人みたいな顔をした硝子に睨まれる。完全にめんどくさがられてるな、僕。
「意味がわからないし、気味が悪いし、回りくどくて腹立つけど、なんか意外」
「何が?」
すごく沢山色々言われたけど。
「そうやって、恋愛感情で一人の人間を引きずるようなこと」
「………………」
「そんな一般的な恋愛みたいなことを、五条もするんだなって。まあ、なんだ。今の私からもアドバイスをやろう」
「……何?」
「もう一度当たって砕けてみれば。半端に引きずるくらいなら、こちらから引導を渡すくらいの勢いでいっそのことぱーっといけ。むしろ砕けろ。以上」
「なーんか、いい加減だよねえ。他人事っていうか適当っていうか」
「他人事だし。五条にそんなことを言われたら終わりだな」
「硝子、僕が失恋して立ち直れなくなったらどうしてくれるの? 泣いちゃうかも」
「知ったこっちゃない」
背を向けたままの硝子に、思う存分枯れるまで泣け、干からびろ、と言われた。
仕方なく医務室を後にして、廊下を歩く。今日は午後から任務が二連チャン。食いっぱぐれないよう、お昼を早めにとっておくことにしよう。
昼食を食べに店に向かうその道すがら、硝子の二度目のアドバイスなのかなんなのかを思い起こす。
当たって砕ける。それも、もう一度。
既に大失敗を重ねているのにまた更に砕けにいくのって、死に体で地雷原に突っ込んで行くようなもので、それはただもう死ぬだけなんじゃないの?と思う。それで派手な無駄死には余りに辛い。
だけど、硝子が覚えていなかった彼女の一度目のアドバイスは、本当に役に立った。
役に立った、というか、絶大な効果があった。そもそも役立たせる気なんか欠片もなかったし。ただ、何もかもそこから始まったのだ。僕が気づいたことで、それは始まってしまった。
あの時、与太話なんだけどね、と言って、硝子は話し始めた。
まあ硝子が覚えていないのも無理もないと思う。おそらく硝子は、あの話を恋のアドバイスとは認識していなかっただろうから。
なんせ、僕自身もそうだったし。
硝子と二人、外にご飯を食べに行ったときのことだ。
僕はお酒は飲まないけど、今日は硝子が飲まないとやっていられないというので、硝子のすすめるままに個室のお酒が飲める店に入った。硝子は初めからハイペースでお酒をあおり、そのうわばみっぷりに下戸の僕はいつもの通り凄まじいなと思いながら、次々に空になっていくジョッキやグラスを見つめていた。
いい感じにお酒が作用してきたのか、硝子が饒舌になり始めた頃、前に人にしていた話なんだけどと、不思議な話を口にした。
人間関係って、いつもそんなに決まった形をしていなくて、ちょっとの力を加えたり、少しの傾斜をつくったり、些細な変化のきっかけだけで、その様相を大きく変えてしまうこともできる、みたいな。
なに?どういうこと?と僕が首を傾げてみせると、硝子は説明を続けた。
自分も、恐らく相手も苦手意識があるような仲の良くない相手に、毎朝笑顔で挨拶をすることを意識して繰り返したら、相手もだんだんとそれに応えるようになり、互いに態度が軟化したとか、そういうやつ。
大抵の人間は保守的だし、些細なコミュニケーションも面倒臭がる。けれど、人間の心の作用からすると当たり前ともいえるこの話を、割合興味を持って聞くのだそうだ。
でも、変化をつけるということは、必ずしも良い結果だけを生むものではない、本当のところは運次第だったりもするという、これまた当たり前のことを言い添えると、保守的な人間たちは皆苦笑して、話はそれきりで終わってしまうのだという。
「ま、少しの変化でおかしくもなっちゃうような脆いものを、わざわざ形を変えに触りにいきたくなんかないんだろうね、大抵の人間は」
そう言う硝子の顔が、かなりつまんなそうな顔をしていたのを覚えている。
僕はそのとき、その話を、メロンソーダをちびちびと飲みながら、本当にただなんとなく聞いているだけだった。
だから、あの日のあれは、本当にちょっとした思いつきのいたずらで。
その時、近くにあった恵の顔の、特に唇に目がいった。
今まで意識もしたことがなかったし、まるで考えもしなかったこと。
だけど、ふと過ぎった。
どうしてそんなことが過ったのかは、わからない。もしかしたらそれを『本能』と称するのかもしれないけれど。
でも特にその感情の深いところは掘り出さないまま、僕はおふざけめいて尋ねてしまった。
「キスしてもいい?」
なんちゃって、とすぐに続けようと思ったのだ。
でも、その質問に恵はすぐさま敏感に反応した。悪い意味で。
「は? イヤですけど……」
明らかに不可解かつ嫌悪の表れた表情。
ちょっと、至近距離で見るものじゃない。
……はいわかる。わかるよ。まあそんな返答だろうね。そりゃそうだ。普段からおふざけにもなかなか乗ってくれない恵らしい。
だけど、僕の心は不思議としっかり傷ついてしまっていた。最近とんと働いていなかった感情の哀の部分がきりりと傷んだ気がした。
…………いや、あのさあ。
そんなにはっきり拒絶しなくてもよくない? ただの冗談だよ?
それにだって、僕と、恵の仲なのに? 浅からぬ仲なはずでしょ、僕ら、それなりに。
イヤ? そんなにあからさまにイヤそうな顔するほどイヤ?? まあ、僕らの間にあるどの関係性においても、普通はマウストゥマウスでキスはしないけど。
まあ、でも、なんやかやこういうことに疎そうで結構ちょろいところのある恵が、こうしてはっきりと断れたのはいいことだな、とも思った。正にかどわかそうとしている側の僕が言うことなのかというのはあるんだけど。
恵は元々頑固で芯が強いし意見も言える。個が強くないと、呪術師は簡単に死ぬ。個を伸ばすにはまず我の強さが必要だ。だから恵のそれは喜ばしいことだし、九年間の付き合いで僕が叩いて伸ばした部分も少なからずはあるはずだ。だから、僕を即座に拒否る強いマインドを有した恵になったのも、僕のお陰っていうのも無きにしもあらずでしょ。
思考を無理矢理別の方向に誘導させながらも、ちくちくとした心の痛みは継続していた。自分でも謎の落ち込みを抱えている。背中にずしりと乗っかってこちらをじわじわと苛む低級呪霊みたいに。まあ、そんな経験ないけど。
軽薄だとそう称されるのには慣れていたし、実際、自分が軽くて薄い部分を持ち合わせていることにも自覚的だった。物事は、信用を得ることや信頼を築くことより、それらに足りない真逆の印象を持たせることのほうが余程簡単なのだ。
……薄れさせよう。
重ねることで、塊を叩いて伸ばす。そうすれば、この僕の謎の心の痛みも和らぐはず。
だから、何度も質問することにした。
多分、なんでそうなると周りからはそう突っ込まれるだろうけど。僕の結論はこう達してしまったのだから仕方がない。
その結果、……むしろなんだか段々と、楽しくなってきた。
手を替え品を替え、キスしてもいいかを尋ねる台詞が毎日沢山湧き出てくる。硝子や七海や歌姫辺りには、最悪の才能、悪趣味で悪辣な遊び、最低の大人であり教師、と酷く罵られそうだけど、僕の口から出てくる言葉はいつも蝶の羽のように軽やかに恵の唇を請う。
それと反比例するようにして恵の反応はどんどんと鈍く、虚ろになっていったけれど、それでも恵が返してくれる反応はちょっとワクワクするくらい新鮮で、とか言ったらなかなかアレな感じなのでまあちょっと言葉にするのは止めとこう。
でも、そろそろ壊滅的にウザがられて嫌われてしまう気もしたので、もうこれでこの遊びも終わりにしようと思い始めたときのこと。
「キスしてもいいですよ」
高専の廊下でたまたま会った恵に、最早自然と口からするりと出てくるようになった、キスしてもいい? の何かしらの文言を口にすると、恵が、イヤです、でも、しねえ、でも、無視でもなく、何を思ったのか初めてイエスの返答を返してきた。
えっ?
何言ってるの恵?
どうしちゃったの??
恵からすると僕のほうがずっと頭どうしちゃってんだコイツって思ってたかもしれないけど、その時の僕の狼狽えぶりといったらなかった。
だって、「はい」と言われることを一度も想定していなかったから。
そもそも、初めて尋ねたときだって、はいいいですよなんて返事を予想していたわけじゃない。
ていうか恵がそんなこと言うわけないじゃん。有り得ないでしょ。
僕だからどうとかじゃなく、恵がそんなふうに受け入れるわけがない。いや、恋人関係になった相手にならそれくらいデレる恵も……いる?いるの?そんな恵が?
だんだんと脇道にそれていく思考の軌道を戻す。
何言ってんスか、ふざけんのも大概にしてください。
面倒臭そうなことをさらりといなそうとするいつもの恵のスタイル。これがあのときの僕の予想だし、理想の返答だった。
でも現実はそれよりも厳しかったし、予想外に僕の心は苦しんだ。完全なる拒否をされたし。
なのに今、その真逆の肯定の返事を返された。
僕の考えでは、恵はそんな明確な、身体を許す方向の答えなんて返すはずもない、があったっていうのに。
ねえ。
キスしてもいい?なんてせがまれて、キスしてもいいですよなんて、けして返してはいけない。
いけないんだよ恵。わかる?
まあ僕が言えることじゃないんだけど。
そう、頭の中でぐるぐると長考していたら、いいと言ったきり黙っていた恵はまた一言、こう言った。
「目ェ閉じればいいですか」
え?と思う間もなく目の前の恵がその薄い瞼を閉じた。
深い緑の瞳が隠されて、代わりに長い睫毛がふるりと下りてくる。
え…………?
……は?
キス待ち顔じゃん。
完全なるそれに、頭が真っ白になる。
無防備にも、その口づけするには準備万端な姿をさらす恵は余りに据え膳過ぎた。
思わず唇に目がいく。
形の良い小さな口。
柔らかそうに潤んだ唇。
え。
触れてもいいのか、これに。
気がつくと、僕は、走っていた。
目を閉じたままの恵を一人、その場に置いて。
無言で逃げ去った僕に気づいた恵が、怒声を上げているのが後ろの方で聞こえる。
いや。
無理無理。無理だ。
あのままあそこにいたら、確実にキスしてた。
僕も最初は、え?あれ?恵がしてもいいって言うなら、じゃあ……まあ…………キスしても、……いっか……??と思い切り流される形でそう思っていたけど、良くないでしょ、さすがに。
それは、ここが校内だからとか、教師と生徒だからとか、条例違反で犯罪だとか、そういうこともまああるけど、何よりも自分自身でブレーキを利かす考えが降ってきたから。
してもいい、じゃなくて。
瞼を閉じてその唇をさらして、僕のことを待っているような恵の姿に、確かに今までになかったスイッチを押されてしまった。
しても、いい……じゃ、なくて。
その考えからは、『したい』の気持ちが完全に覗いていた。
恵にキスをしたい。その唇を奪いたい。
いたずらでも思いつきでもなんでもなく。
それは、明確な欲だった。
それが、恋愛的なものなのか、性欲的なものなのか、何から生まれたものなのかの判断はつかない。
ただ、欲望の熱のゆらめきは何よりも確かにある。
その自分の内にふいに湧き出てきた熱さに驚いて、僕はいつの間にか猛ダッシュしていた。
……困ったな。
そこで僕はようやく、はたと気づく。
硝子の話。
少しの力、小さな傾斜で、変様する人間関係とその感情。
僕は知らぬ間に、自分でも気づかぬ内にその力を加えていて、正に今、自らを転がる石へと変貌させようとしていた。
あの恵を相手に、この僕が。
今でもまだ子どもで、出会った頃なんか、本当に子どもそのものだったのに。
まだ僕のお腹くらいまでの背丈だった頃、彼に初めて会った。
ランドセルを背負った、棒切れみたいに伸びた細い手脚の子ども。
目つきの悪い丸い瞳が、警戒心を抱きながら見上げるように僕を見つめていた。自然と、自分のことを何度も刺してきたあの術師殺しの顔がそこに重ねられる。
ホント、似てんな。イヤになるほど。
自分は、この目の前の子どもと確かな血の繋がりのあるその父親を、この手で殺めている。しかしその事実を告げる言葉は遮られて、彼は何も知ることのないまま、姉を実質人質に、彼の人生を担保に、禪院からその身を奪い去った。
全部僕がしたくてしたことだ。
『一応』恩人。
どこかで聞いたことがある、恵からの僕という人間の評。
恩を売りたいわけじゃない。感謝が欲しいわけじゃないから。
僕が彼に持ちかけたのは、ただの取り引きだった。
僕の中のまともさなんて、イカれてる部分より余程持ちものの種類の中では少なかったけれど、それでもイカれてるなりにまともであるようにとも思いながら、結んで育ててきた関係だと思っていた。
僕にはそこに、確かな願いもあったから。
だから。
心を注ぐにも身体を触れ合わせるにも、余りにもこの関係の、その前提は、複雑だった。
だからそう、色恋とか、キスしたい、なんて。
挟まるようなものだとはまさか思ってなんかいなかった。
……こういう気持ちって、楽しいものだっけ、苦いものだったっけ。
他者に触れたり触れたいと思うことで自分の内から湧き出す気持ちを感じるのはかなり久し振りだった。その記憶の遠さからか、今あるものが、今まであったものと似ている気がまるでしない。それはどこか、危ういものであるような気がした。
相手が恵だから?
九年間も普通に過ごしてきたのに今更急にって、その変様が受け入れ難いから?
いや、そもそも既にある崩されちゃ困る関係性に、それを組み入れるのはリスキーすぎるだろ。
初めは興味本位だった。
ただ、強く、聡い仲間が欲しかった。
自分が奪った親の肩代わりをなんて、そんな気持ちではなかったけれど、自分なりに手を差し伸べようとした。
伸びやかに育ってほしかった。今もそう、思っている。
心の中が、ざわざわする。相反したものが弾き合うように、騒がしくぶつかり合っている。
僕は振り払うように頭を振った。
いや、でも、大丈夫。
これはそういった類いのものじゃない。
……少なくとも今は、抗えない力を持つほどに育った何かじゃない。まだただの芽だ。芽は摘める。そしていずれ、種は腐る。
それに、そもそも恵には何の変化もない。
僕にキスしてもいいと返してきたのだって、質問攻めに耐えかねてのことだろう。雰囲気が投げやりなところもあった。だからってあんな対応どうかしてるけど。恵は頭が良いのにどこか抜けてて危なっかしい。
そう、僕のことやこんな遊びのやり取りをなんでも簡単に流せていなせるような人間じゃない。まだ、子どもなのだ。信用していないとかじゃなくて、これは経験の数と単に生きてる年月の話。
心臓がへんに鼓動を揺らしている。
だけどそんな、一石を投じることによって起きる変化は、僕にだけしか現れなかったみたいだ。
それを良かったと思いながら、その真逆の気持ちを感じているような自分もいるのが、少しこわかった。
ふっと、ひとつ息を吐いた。
脳裏に浮かぶ、少し前の嘘みたいな光景。
閉じられた薄いまぶたと、すっと通った鼻筋。
その下にあるゆるく閉じられた潤んだ唇。
僕のために晒された無防備なその姿。
目を閉じて、記憶に蓋をする。
心の中でさえも、それにはもう触れることのないように。
揺れて戸惑う表情を脱ぎ捨てて、それ以外には何も読み取れない軽くて薄い笑顔の仮面を貼り付ける。
ただ今までと何もかも同じように、いつも通りに過ごすことと、もうこれ以上、転がる石にはならないこと。
僕はその日からひっそりとその二大ミッションに明け暮れた。
彼が、僕のもとを離れる、その日まで。
恵たち三人の卒業式の日は、僕が望んだ通りの快晴だった。
まだ寒さの残る三月にしては気温も暖かい日で、絶好の卒業式日和だった。
担任の僕が特級案件で、急遽仕事に駆り出されたことを除いては。
可哀想な僕はその日、教え子たちの晴れ姿の代わりに、デカくてグロい呪霊を沢山眺めさせられた。憎しみを込めつつも冷静に、瞬殺に瞬殺を重ねたが、それでも式には間に合わなかった。神様どうして、と言いかけたけど、嘆願を聞いてくれるような神様が本当にいるなら、世界はこんなに呪われていない。嘆く代わりに盛大に舌打ちをした。
高専に戻ると、三人は仲良く卒業打ち上げに繰り出したらしい。ウンウン、仲良しで良いことだ。そんな青春の終わりを満喫している皆の帰りを僕は大人しく待った。そうして、手持ち無沙汰なために珍しく真面目にもくもくと雑事をこなしていたら、めちゃくちゃ満喫した様子の三人が戻ってきている姿が見えた。
さあ、担任の先生からの万感の思いを込めたおめでとうの祝辞を届けなければ。
卒業式はまだ終わらない。
でもそんなふうに、『先生』の顔をしていられたのは、恵と顔を合わせるまでだった。
最後に恵の部屋を訪ねた僕は、愚かな失敗を犯した。
結局、坂道の傾斜を、自ら下ってしまった。
転がるどころか、飛び下りる勢いで。
最後の最後で、緩んだ。懐かしさに溺れて、足を取られてしまった。
ひょんなことから思い返してしまった、彼と重ねてきた小さいけれど大切な思い出たちによって。
冬の寒い日。
かじかむ指を擦りながらいつもの通り出張帰りに、恵と津美紀の住む埼玉のアパートに向かった。
冬にここを訪れるのは初めてで、そのとき中に通された僕は仰天した。
外と気温が変わらない。息が白い。屋内なのに。
寒すぎ。エッ死なない?これ。今までどうやって過ごしてきたんだこの二人。
断熱材もなく壁も薄い隙間風がびゅうびゅう吹くような余りに頼りない二人の子どもの家は、二重の意味で温室育ちの僕には、さながら家の形をした冷蔵庫のようだった。
僕はその時すぐに思った。無理無理無理。これは人間の住む家じゃない。改築しよう。
しかしさすがに賃貸アパートの内部を勝手に改装することはできないので、出来る限り部屋の中に暖房器具を導入してやることにした。まず、すぐに用意できて子どもでも取り扱い易そうなハロゲンヒーターを買ってそれを手に提げて持って行ったら、恵から、こんな施しは受けない、と言われた。
施し。そんな言葉のレパートリー、どこで覚えてくるんだろうな。
六歳の無力な子どもが、確実に困っている場面で施しを受けて何がおかしいんだろう。変なガキだ、と思う。
でもそれは恐らく、彼の生きるための術の一つだった。
隙を見せない、頼らない。
一番に頼るべき、頼れる相手であったはずの親が自分たちを見捨てた以上、彼にとってはそんな道は取るべき手段ではなかったんだろう。
正しい。ある意味では。
誰かに頼ることは、弱みを見せることでもあるし、借りを作るという意味でまた弱みを握られることにも繋がる。更には依存という関係にもなり得る。
けど、どこまでいってもまだ力のない子どもが、今一番すべきは拒否じゃない。
「子どもは風の子かもしんないけど、僕は無理」
「アンタがここに来なければいい」
「うーわー、ホンットかわいくない。コレそれなりに運ぶの面倒だったのに」
「頼んでない」
どこまでも頑なな言い方をする割に、恵の小さな鼻の頭はしっかりと赤くなっていた。
ホーラ、やっぱり寒いんじゃん、風の子のくせに。
その恵の隣に、どかりと新品のハロゲンヒーターの箱を置いた。薄くて小さい身体は、その衝撃で浮いたりするんじゃないか、とか思ったりしたけど、さすがにそこまでではなかった。
「……君に将来なってもらう呪術師はさあ、身体が資本なんだよ。それに、こんなやたらと過酷な環境で育って万が一死なれてもコッチとしても困る訳」
「死ぬ訳ないだろ、家の中なのに」
「死ななくても、寒いのは寒いだろ。それにこんなじゃ津美紀も風邪引いちゃうし。もちろん恵もだけど」
そう言うと、言葉に詰まっていた。津美紀のことを引き合いに出せば、恵は簡単だった。一人っ子の自分にはわからない、姉思いの弟で助かる。
「ま、将来出世払いしてよ。僕んち広いから暖房器具無限に置けるし。十倍にして返して」
全くその気のない言葉を付け足して、恵をどうにか丸め込むことに成功した。
そうして、無事に暖房器具が働くようになった家の中はそれなりに暖まるようになった。滞在する僕としても助かる。
それでも雪が降るような日は本当に寒くて、僕は茶の間に座ると即ヒーターを全部一番強い『強』にした。うんうん、僕最強だしね。
慎ましい恵と津美紀はいつも弱にして動かしているみたいだった。どうせ電気代は高専払いなんだし使えるものはじゃんじゃん使えって言ってるのに。
珍しくその日津美紀は用事でおらず、一人僕のそばにいた恵は、僕のそのスイッチを捻る動作をまじまじと見ていた。
エッ何これ、怒られるやつ?
小学生に怒られるのヤダな……と思っていたら、恵はぷいと振り向いて台所の方へと歩いていってしまった。あ、何だ?気のせいか。
ホッとしてちゃぶ台の上に伏せるようにして寝っ転がっていたら、恵がお盆を持ってこっちに帰ってきた。
「……ん」
ことり、と、頭をどかして普通に座った僕の目の前に、恵は茶碗を置いた。
……茶碗?
それは、僕がここで夕飯をご馳走になったときに出てきたご飯茶碗だった。でも、今入っている中身はご飯じゃない。ほかほかと湯気の立ったお湯だ。
白湯?飲めってこと?
どうリアクションするか、の前に現状分析に時間がかかった。ちらりと恵のほうを見ると、眉間に皺を寄せてなんだか難しい顔をしている。困ってる感じの雰囲気もする。
「…………湯呑みが、割れた、……から」
口からボソボソとこぼれ落とすように恵がそう言うと、全てを理解した僕は、腹を抱えて爆笑した。
突如、弾けるようにして笑い転げ出した僕のその様に初めは驚き、目を白黒させていた恵が、段々と恥ずかしさと怒りをあらわにして顔を赤くした。
茶碗を下げようとする恵を制して急いで白湯を飲んだら、口の中を少しやけどしかけた。てか無下限なかったらしてた。
それは僕の大事な、楽しくて、嬉しい思い出だ。
それから、もうアンタに茶なんか二度と出さないと言われて、その後本当に一度も恵からお茶をもらったことはなかった。
でもそれは、それ以降津美紀がいるときにしか家を訪ねることがなかったからで、しばらくの間、顔を合わせる度に恵は僕を睨みつけていたけど、津美紀は毎回僕を歓待してくれた。でも多分、恵だけだったときがあったとしても、恵は僕にお茶を出してくれたのかもな、と思う。
そしてあれから、幾年月。
卒業式の夜、恵は招き入れた僕に対して、実にスムーズにお茶を出してくれた。そこには、あのときに見て取れた、手慣れない動作なんて微塵もない。
あーあー。あんな恵が、こんなに立派になっちゃってさあ。
寂しくも、喜ばしくもあった。そしてなんだかそれは、親みたいな目線だ、と思う。
でも親代わりであったことなんて一度もないし、そうなりたいとも思わない。
手を差し伸べた人間と拾われた子ども。
呪術の師弟。
教師と生徒。
父親を殺した人間と、殺されたその子ども。
僕たちの関係性は事実としてあるそれらだけ。
……最後の関係性だけは、恵だけが知らない、事実としてあるのに情報認識としては不均衡な関係性。
端から見たら、恵は親の仇に助けられてしまった子どもだ。正しい正しくないなんてことを、判断すべきともできるとも思っていない。ただ、歪みの形がそこにはないとは僕には言えなかった。
僕らの関係性に、所謂世間一般でいう正しさなんて、存在していないのかもしれない。
だけど、僕も恵も、生まれたときから呪いの世界に身を置くことが宿命づけられた因縁の血を持つ呪術師だ。
正しさの立て方は、その個人の中にしか、ない。
しかもそれは、きっと非術師であってもそうだろう。何かの外付けの規範も、命のやり取りをするその土壇場に立ったとき、必ず助けてくれるようなものには成り得ない。何かしらの結果が出たときに、それが何を招くにせよ、自分自身が納得できるようにするためには、自分で考えて、その上で選択をするしかないのだ。
たとえ選べる選択肢が余りに限られていたとしても、その中で何を選ぶかは結局は自分次第だということを、僕は過去から嫌というほど知らされてきた。
恵の部屋で恵と二人、お互いに黙ったまま僕は、そんなことを考えていた。
……今思えば、もうそこでタガが外れかかっていたのだ。
外れかかっていた、というより、僕は、外してしまいたかったのかもしれない。
今日のこの、卒業式という節目で、あらゆるものがリセットされる。
それは目に見えたりわかりやすいものばかりでなくとも、確かに。
僕は恵の先生ではなくなるし、学生でなくなり成人した彼の後見人という立場からも退くことになる。
どこか浮足立つような、寂しいような、そんな感覚が、僕の思考を滑らせた。目隠しの覆いを破って再び生まれた芽から、押されるように思考がするすると進んでしまう。きっと、もう取り返しのつかないところへと。
向かい側に座る、静かに瞬きをする恵のことを改めて見つめる。
十三年間、ずっとこの子を見てきた。
特別か、特別じゃないかと聞かれたら、わからない。
他に比べられる同じような立場の人間が、恵以外に誰もいない。十三年間、目と手をかけてきた人間なんて、他のどこにも。
数多ある思い出をなぞって、それから今目の前にいる恵の輪郭をまた自分の目でなぞる。
過去も、今ここにいる恵のことも、ただ、愛おしいと思った。
……それから。
自分の中から湧き上がってきた熱を、素直に形にする。
キスがしたい、と思った。
初めてその気持ちを抱いた、あのときより強く。
唇に触れたい。その肌の熱さを感じたい。それは悪戯でも思いつきでも、もうなかった。
僕は熱に弾かれるようにして、記憶の中から再びあの懐かしい質問を引きずり出した。
「キスしてもいい?」
それを聞いた恵は、初めて僕が尋ねたときと同じように、意味がわからない、というような呆けた顔をしていた。
僕はそこで、慌てて気づく。
もしも前みたいにイヤですと、そうはっきりと拒否をされたら、きっと前以上に傷つくに違いない。
だから恵の口が動く前、何かを返される前に、軽口を重ねた。
そんなような、随分と迷惑なからかいをしてたこと、覚えてる?
なんて、クッションを挟むように誤魔化すように、半笑いで尋ねてみる。
恵にとって、僕とのこんなやり取りは、ただ面倒なものでしかないと思っていた。忘れてもいい他愛もない記憶か、ただただ良い思いをしなかった、ろくでもない記憶。
つまりは、できれば忘れたいもので、本当にどうでもいいような記憶だ。
なのに、恵はどこかくすぶるような熱をもって、僕に答えた。
「忘れられるわけ、ねえだろ」
顔を真っ赤に染めて、こちらを睨みつけて。そう、僕に向かって言い放つ。
あーあ。
……恵さあ。
可愛すぎるよ、そんな反応は。
脳が勝手に僕の手に信号を送って、恵の肩を掴んで引き寄せた。
傾けた顔をゼロ距離まで近付ける。
柔らかい唇に、自分のそれを押しあてた。
それは、あれだけ言い続けたものの、一番ささやかなかたちだった。それでも、触れるだけでも、ばちりと火花が散るような感覚があった。
散々了承を請う体をとって尋ねてきたくせに、最後の最後で僕はその答えなんて待たずに、奪ってしまった。堪え性があるんだかないんだか、自分でもよくわからない。
僕は一体どの立場で、何から来る気持ちに突き動かされて、こうしているんだろう。
往生際悪くそう思いながら、今ある恵との関係性と自分の感情を探って考えて出た答えはやっぱり簡単で。それは、新しく貼るラベルがなければ許されないものだと、そう感じた。
唇を、手を、距離を離して、恵に向き直る。
キスをした後言うような言葉は多分、好きだよ、とかだよなあ、とドラマの脚本家みたいなことを考えながら、ごめんね、と力なく言った。
ふざけるなと一発イイのが来るかもしれない。一発で足りてくれるかな、と無下限を切ったまま待つ。
だけど、予想に反して、恵は手も出さないし、声も出さない。
ただただ、固まったようにそこにいた。瞬きをすることすら忘れて。
そのとき、冷やりと、心臓か胸の辺りに氷を投げ入れられたみたいに感じた。
僕が滅多と抱かない罪悪感が、更に増していく気がする。
ああ。
そして僕は、ようやく気づく。
わからないという顔をしたこの子を目の前にして。
馬鹿すぎた。
余りにも。
また拒否をされたら傷つくからなんて、自分のことだけを考えて。
……ずっと、混乱を手渡すことしか、僕はこの子にしてあげられていない。
キスなんか、しちゃいけなかった。
お遊びのように尋ねるだけならまだどうにか踏み止まれていたのに。
僕がこの子にキスなんかしちゃ、いけなかったんだ。
強い後悔の念に襲われる。でも時間は不可逆で、何も元には戻らない。
謝罪の言葉は、もうかけてしまった後だった。
だから、自分のせいで動けなくなった恵に、最後にもう一度、声をかけた。
卒業、おめでとう。
それは君にとって、何者としての顔もできなくなった自分からの、巣立ちへの祝辞だった。
あれから、一度だけ恵に会った。
卒業後、モラトリアム期間で任務をセーブしている恵と、出張続きの僕は幸いにも顔を合わす機会が全然なかった。だけど、ふいに高専でその姿を見かけたとき、身がすくむ思いがした。
声をかけないでいることもできたけど、その方が不自然な気がした。恐々としたそれを気取られないよう、必死に隠す。
臆病な僕は、それ以外他に振る舞う道もないと、いつも通りの軽薄な態度で接した。
恵は初め固い顔をしていた。話す内にそれはほんの少し緩みはしたけれど、僕のことを探るような揺れる瞳は変わらなかった。
でも僕は、それには何も答えなかった。
……ずるい大人って、本当にこういうこと。
言葉には何もしないまま、卒業式のあのことはあれで終わったのだと、僕はそうして恵に伝えた。
それが、恵にとっては一番いいと思った。忘れてほしいと願った。
たとえ僕たちの関係に様々なラベルが今もなおあるとしても、成人した彼の後見人ではもうないし、とうに卒業した彼はもう僕の受け持つ生徒でもない。
完全に解消される関係ではなくとも、薄れたり古びたりするものは、弱まっていつかはゼロに限りなく近づいていく。距離も、心も、記憶さえ、遠のいていく。
それでよかった。軽薄な、キスを遊びと捉える人間として、彼の元から、離れていくんだ。
だけど。
それでも。
他愛のない会話をしてすぐに別れた恵を、一度だけ振り返って見てしまった。
この瞬間が、何か、確かな最後に繋がるのかもしれないと思うと、後ろ髪が引かれた。自分で蒔いた種を、自分でぼろぼろにしたくせに。
いつの間にか根を張ってしまったその欲深さに頭を抱えたくなる。目を逸らそうとしても視界の隅で捉えてしまう、肥大した、僕の欲望。
本当は。
……本当には、またあの日みたいに、何度だって唇を重ねたかった。
あんな触れるだけのキスじゃなくて、本当は、奪い尽くすように貪りたいとさえ、思う。
その純粋な欲望だけは、心の濁流の中を激しく流れていく。
そんなものの存在すら何も知らないあの子に軽薄な笑みを浮かべて、向けるべきではないそれを自分の心の内側で殺して今、生きている。
愛は呪いだと、そう口にした自分の言葉が蘇る。本当に、その通りだと。
それは、たとえお互いが思い合っていてもなお、暴力のように振る舞う恐ろしい力にも成り得る。それが一方的なものであれば、尚更だ。
人に言い聞かせた言葉が今、そうして、自分の頭を叩くようにして戻ってくる。
自宅でソファにかけながら、目にも耳にも残らない流しっぱなしの映画をただ眺めていると、玄関のチャイムの音が鳴った。
今日は誰からのアポイントメントもないし、そもそも人が訪ねてくるには余り適切といえる時間ではない。夜のそれなりに深い時間で、事前連絡も約束もない相手。いい予感はしなかった。
それに、目を凝らせばそれが誰かはもう分かり切ってはいたけれど、意を決して玄関のドアを開ける。
「すみません、夜遅くに」
「……どうしたの、恵」
僕を見上げる、翡翠の瞳。声が必要以上に固くならないよう、気をつけた。
「今って、時間大丈夫ですか」
大丈夫か大丈夫じゃないかと聞かれたら、大丈夫じゃない。
時間がどうこうではなく、こうしてわざわざ恵がアポもないまま僕の家を訪ねてきているという状況がだ。最強として自他共に認められているはずの僕の心臓には、明らかな動揺の色が見て取れる。滑稽なくらい。
……だからといって、今はちょっと、とここで恵を追い返すのは違うと思った。
なんせあの恵が、僕に行動を起こしている。悲しいかな、切迫した状況下で必要に駆られないと僕のもとへなんて来てくれないあの恵が、だ。
小さい頃からずっとそう。
他人の手なんて不要だと、本当には必要なときでもはねつける子だった。
心を許してくれるようになって、少しずつ頼ってくれることも増えていったけれど、それでも大きくなるにつれて稽古をとかかる声も減っていった。
そんな恵が、時間も構わず家にまで突撃してくるのだから。
それほどの理由があるのなら、僕はただ、迎え入れるべきだと思った。
「ん、いいよ。入って」
すみません、と小さく頭を下げる恵を中へと招き入れた。気取られないようにしてはいるけど、今も内心バクバクだった。
「恵何飲む?」
「……お構いなく」
「じゃ、お茶にしとくね」
恵はむ、とした顔になった。お茶を用意する時間くらいは欲しい。少しくらい、心の準備させてよ。
そうして、いつもよりゆっくりめに入れた二人分のお茶を運んでテーブルに置く。
ふっと、卒業式のあの日、恵が逆に僕に差し出してくれたお茶を思い出す。そしてあの日をきっかけに、坂道を転がり落ちてしまった僕自身のことも。
あの時と状況は真逆だ。僕の家を訪れてきたのは恵で、そして今は僕らの間には大きな爆弾がある。
「で、どうしたの。こんな夜遅く」
「単刀直入に言います」
「うん」
「なんでキスしたんですか」
う、と声が漏れそうになった。
驚くほどの右ストレート。単刀直入の意味に相違ない。なさ過ぎるほどにない。そのまんま。
「…………」
恵が僕のもとを訪れてきた意味を、そりゃなんとなくは理解はしていたけれど、余りにもすぐ、かつありのままに尋ねられたので、思わず沈黙してしまう。
こちらの返答を待つ、恵の眼差しを感じる。
本当にすごい子だな、臆さないんだ。
というよりも、ただ真っ直ぐなのかもしれない。回りくどいことをしない分無駄がない。そしてそこには駆け引きの一つさえない。
恵はきっと本当に、答えを求めに来ている。
……けど。
「昔の、あの一連のやり取りも……一体、なんだったんですか?」
「…………あの、その前にさ、ちょっと言っておきたかったことがあるんだけど、いい?」
「言っておきたいこと?」
「ずっと思ってたんだけど……」
「なんですか」
こちらを訝しむ恵に、切々と説くようにして言う。
「あのさ、恵。キスさせてなんてねだられて、いいですよとか答えちゃ駄目なんだよ本当は」
そう。それは僕が恵にずっと注意したかったことだ。
恵は眉間に思いっきり皺を寄せて僕を睨む。
「はあ……? そもそもアンタが自分で言ってきたんだろ?」
「ウン……。それは……そうなんだけど……」
鋭い視線が余りに痛い。百パーセントの正論が刺さる、地獄のような問答だった。
「アンタ、俺がなんにでもいいですよなんて言うと思ってるんですか?」
「う」
怒気のこもった声に怯む。
や、でもまあそうだよね、恵はちゃんと断ってるし、真っ当だ。
…………。
いや?ちょっと待って。ついさっき僕も注意したけど、一度、確かにこちらにOKの許可を出して、わざわざ瞼まで閉じてパーフェクトな据え膳の態勢を整えてくれたじゃあないか。
「え、だって一回はキスしてもいいって」
「ウザかったから。一回こう言うか本当にキスでもなんでもすれば我に返るだろうと思って」
己の為してきた最悪の行いにより最悪の返答が返ってきてしまった。
「……ごめんなさい」
「それ」
チッ、と舌打ち音の後に、ものすごく不服そうな恵の声がした。
「? えっと……謝罪し足りない? 土下座のほうがいい?」
「卒業式のとき……アンタが、してきたときも、どうして謝ったんですか?」
「えっ、…………と」
それは、選択肢として、まずすべきが謝罪だろうと思ったからだ。
勝手にキスをしてごめん。君の気持ちをかき乱してごめん。僕の気持ちを押しつけてごめん。
それもあんな、卒業式の日に。
一方的なキスと同じく、自己満足でしかないような謝罪だった。だから、そんなことで許してほしいとは言えないけど、恵には、何も伝わっていなかったのだろうか。
「困らせて、ごめん…………って……」
言葉の最後が弱々しくなり、思わず目も逸らしてしまう。
すると突然、首元にするりと手が伸びてきた。恵の前だと、ほとんどいつも無下限は切っているから、その細い指は容易に僕の皮膚へと触れる。
そうして、力を込めた手のひらに、寄せられた。恵のほうへ。
恵の閉じられた瞼が、ぐんと僕のほうに近付いてきた。
え。
あたたかくて、柔らかい。
僕の唇に重ねられた、恵の唇がそこにある。
ほんの一瞬、触れるだけだった。それでも、それは、キスだった。
目蓋を閉じることもできず、瞬きもできずにただ固まっていると、僕から少し離れた顔が、ふるふると震えている。
「……っ、アンタも、困ればいい!」
琥珀の双眸が揺らいで、怒声が放たれる。
「、恵」
混乱したままの僕を恵が睨みつけると、背を向けて勢いよく出て行った。叩きつけるように閉められたドアの音が響くと、ドタドタという足音が重なりながら遠くなって消えていく。
僕は一人リビングに取り残されて、未だに瞬きもできない。
……真っ赤だったな、恵の顔。
呆けた頭ですぐに考えられたのはそれくらいだった。
ゆるゆると身体を動かせるようになると、右手の人差し指で、自分の唇に触れる。ぐいと、押しつけられるように恵のそれが重なっていた場所。
恵も僕も揃って、キスされたあと相手には逃げられて呆然としちゃってさ。
……似た者同士じゃん、僕ら。
暫くしてようやくまともに動こうという気になった僕は、結局恵は一口も手をつけなかったお茶を、自分の分を飲み干したあとに飲んだ。なんだか二人分のお茶は苦く感じたし、お腹の中が水分で満たされて苦しい。
苦しいけれど、それよりも頭の中が上手く働かないことに困っている。頭脳明晰の僕なのに。
恵とだと、予想外ばかりが起こる。この転がる石の行き着く先がわからない。
……一体、どうしようか、これから。
やってしまった。
前は踏み止まれたのに、今回は完遂してしまった。
五条さんに、本当にキスをしてしまった。
へらへらと、またごめんなんて言って俺に謝るから、どんどんとムカムカして苛立ちがたまってしまった。
こっちはどれだけ、アンタがしてきたキスで悩んでると思ってるんだ。
アンタも、同じようになればいい。もっともっと、困ればいい。
そう思ったら、いつの間にか手が伸びていた。
伏黒はさ、その人のことが好きなんだと思うよ。
あの夕食会の日に虎杖にそう言われて、初めは何言ってんだ、と思った。
好きってそれは、恋愛感情としての好きだろ。
相手があの人である以上、そんな訳がなかった。
自分がガキの頃からずっと一緒にいる人で、恩人で、先生で。お互いが呪術師であるからこそ敷かれた関係に、恋だの愛だのが、そこにあるなんて考えたこともない。
だけど、あらゆる『そんな訳が』を取り払ってしまうと、自然と見えてきてしまった。
キスしてもいいかと突拍子もなく問える精神は理解できない。勝手にキスしてきたり、それをないもののようにスルーしたかと思えば、昨日みたいにばつ悪く狼狽えていたり。自分からキスしてもいいかなんてしつこく尋ね続けたくせに、そんなことに応えてはいけないなんて説教を今更垂れたり。
正直今も、あの人が何を考えているのかはよくわからない。
でも、自分の気持ちは、探せば自分の中にある。
初めてキスをしてもいいかと聞かれたとき、唐突だし意味もわからないしで、ただ拒否をして。しつこく聞かれるのをどうにか止めてほしかったから、してもいいなんて答えて。一体キスがなんなんだと思って実践しかけたり、勝手にキスされると勘違いしたり。今までずっと、なんでもなかったはずの近すぎる距離に、困らされるようにもなった。
卒業式の日に突然されたキスも……別に、イヤじゃなかった。
いつの間にか『キスしてもいい?』なんて、あの言葉が聞かれなくなったことに、戸惑いを感じている。あんなに困らされていたその言葉に。学生の頃にはそれがなくなったとき、自分はほっとしていたはずなのに。
それなのに、全部を、まるでなかったことのように振る舞うあの人がわからなくて、戸惑った。
なんだったんだ、と思った。本当に、俺のことをおちょくっていただけだったのか。それならそれで本当にムカつくけれど、仕方ない、という思いもあった。あの人がよくわからないのは今更だし、それを追及しても自分に理解が得られるとも思わなかった。
でも。
だけど。
だったらなんで、あんな顔を見せたんだ。
そっちから勝手にキスなんかしてきたくせに、なんであんな、胸が詰まるような苦しい顔をしたんだ。
……知りたかった。
今までは、自分には知られるとも思わなかったあの人の心の内を、初めて。
封印していた言葉を再び投げかけられて、戸惑ったり反応に怒ったりしていたら勝手に唇を奪われて。
ただ、どうしてと、その理由が知りたかった。
なんで、俺にキスしてもいいかなんて聞いてきたのか。なんで、勝手にキスしてきたのか。なんで、それらをまるでなかったことにしようとしたのか。
前に五条さんのことを考えていたとき、たまたま鏡の前にいて、そこに映る自分の顔を見たことがあった。すると、頬を紅潮させた、熱でもあるみたいに見える、赤い顔の自分がいた。なんの表情も浮かべているつもりはなかったのに、鏡の中の自分は直視するのが躊躇われるような熱を火照らせた顔で、なんだかとても情けない顔をしていた。
夕食会のとき、虎杖や釘崎が自分から目を逸らしていたのはこれか、と思い至る。今更だが恥ずかしくて、居たたまれない気持ちになる。……それと、見たことがあった。これに似たような表情を。
中学の時、散々不良共をボコっていたために周囲からは腫れ物扱いを受けていた頃、それでも物好きな奴が自分に声をかけてくることがあった。その中で、二、三回ではあるが他愛ない言葉を交わしていた女子が、ある日、自分にとお菓子を渡してきた。
熱と、情のある顔だった。
そして初めて、その時感づいた。
あれは、恋をしている人間の表情だった。
目の前の鏡の中の自分も今、あの熱と同様のものをまとっている。
相手が何を考えているのかを知りたくて、触れてほしいと熱を持つ。
好きってやつなんだろう、これが。
頭が熱に浮かされているようになって、それがまともや正常ではないことは確かだから。ただ単純に、シンプルに考えればそういうことだった。
どうして、と自分でも思う。
だってあの五条さんだぞ。
好きとか嫌いとか、そんな物差しで測るような相手じゃないと、ずっとそう思ってきた。でも、あの人自らが投げてきた小石が、静かだったこちらの水面を波立たせたのだ。
相手にはそんなつもりはなかったと、しても。
そんなふうにあれやこれやを抱えて悩んでいたとしても、世の中には日々新たな呪霊が生み出される。
当たり前だ。俺の都合で回る世界じゃない。そして、呪術師の仕事はそれを祓うこと。だから、どんなに己の心の内がもやついていようと、解決に至っていなかろうと、関係がない。
俺は、五条さんと最後に会ってから、余計なことを考えないようにとひたすらに訓練と任務をこなしまくった。そして今日もまた、至極従順にそのサイクルを無事に歯車の一つとして回してきた。良いことといえば、特にトラブルもなく順当に事が済んだことだ。
ぺろりと呪霊を平らげて仕事を終えた玉犬をひと撫ですると影の中に戻し、どこにも呪霊のいなくなった建物を後にする。すると、タイミング良く同じくして出口に向かっていた虎杖と合流できた。
「お疲れ、伏黒」
「お疲れ」
「一級呪霊二体、どっちもサクッと終わったな」
「オマエの実力からしたら順当だろ」
「その言葉そっくり返すわ」
虎杖が笑いながら言う。
「でも、俺達二人に組ますって随分贅沢だな。それほど大した強さでも規模でもなかったのに。モラトリアムタイム特有の甘さ?」
「上がそんな優しいわけないだろ。こっちの式神とは相性も良かったし、まあ、今回はたまたま運が良かったのかもな」
虎杖のほうを見ても、特に怪我もなさそうだった。本当に言葉の通りに楽勝だったようだ。
「……そいえばさ、なんか進展あった?」
そう、少し控えめなトーンで聞いてくる。気遣い半分、好奇心半分といったところだろうか。
「あの、前に鍋パで聞いてた人」
察してはいたが、やはりあの件についてだった。ずっと心に住みついているかのように居座る、自分の懸念事項。
「……家にこの前行った」
「えー! 伏黒さんカッケェ。即断即決なの?」
直情的な行いだったとは思う。自分はそれを浅慮でもあったと思っていたけれど、虎杖は違うようで、何故かキラキラとした目でこちらを見てくる。
「それからそれから?」
「なんでキスなんかしてきたのか、聞いた」
もうこの前ほとんどをさらけ出してしまったようなものだったから、完全に開き直って包み隠さずそのまま話した。
「そんなストレートに!?」
「けど、はぐらかされてわからずじまいだ」
「え、ん〜〜そっかあ……」
残念そうな顔をする虎杖。人の話でここまで一喜一憂できるところには、本当に持ち前の人の良さが表れている。
確かに、あの人の心の内は何もわからなかった。でも、その訪問と虎杖たちとの会話のおかげでわかったものもある。
「俺は、相手のことが好きなんだと思う」
オマエらの言う通り、と呟くように言った。
「お、自覚したんだ」
「なんか、腑に落ちた。オマエと、釘崎のお陰だと思う」
「そっか。伏黒が自分でも納得してるんならよかった、かな」
なんだか含みのあるような言い方だった。疑問を投げるようにして虎杖を見つめる。
「んー、もしかしたら、好きだって気持ちに気づいたりとかを、あえてしないようにしてるのかもと思って」
「……あえて?」
「や、伏黒がさ、ずっと、相手の気持ちがわからないって言ってたから、よっぽど恋愛対象外みたいな相手だったんかな、とか」
恋をしちゃいけないような相手。
好きになってはいけない相手。はなからそんな可能性はないものとして、前提を張るような。
確かに、そんな気持ちもあったのかもしれない。
だけど。……そもそも、俺があの人のことを好きだとしても、あの人自身は、きっと俺のことを。
その先を考えるより先に、あのさ、と、虎杖がものすごく言いづらそうに口をまごつかせながら言った。
「……不倫とか、してないよね?」
「あ゛?」
「違った?」
「んな訳ないだろ」
「ごめん! 違うんならよかった。いや、鍋パの後さー、釘崎が突然『アイツまさか……道ならぬ恋とかしてんじゃないでしょうね。初心だから』って心配してたから」
初心だからってなんだよ。
「既に人をものにしてるような人間にはその分だけの余裕があるから、簡単に篭絡されたりするのよ、特に伏黒みたいな初心な輩は、って」
「してねえ」
マジで釘崎はどこ目線からのアドバイスをしてんだ。
「俺個人としては伏黒が幸せになってくれたらって思うから応援はするけど、不倫の行く先は修羅の道だよ」
「だから、してねえ。オマエまで存在しない事実で勝手に心配すんな」
パイナップル頭がふっと過り、なんか変な影響出てんじゃねえか、と逆に虎杖を心配した。
と、そんな他愛もない会話を吹き飛ばすように、それはやって来た。虎杖も俺も、咄嗟に身構える。
ぞわ、と、身体を舐めるようなイヤな感覚。
呪霊の気配だ。
……だが、おかしい。ここの呪霊は確かに全て倒したはず。
イレギュラーだろうか。
どこから来るか神経を研ぎ澄ませて周囲を警戒する。そこでふと、何かが繋がった気がした。
随分と、楽な仕事だった。どうして、俺達二人で。
まさか、ととある考えが過る。
補助監督から聞いた報告に上がっていたのは二体。そしてその二体ともをさっき虎杖と自分で一体ずつ祓った。だが、まだ何か、ここには確実にいる。
それが、猛然とした勢いで迫ってきていた。さっき祓った一級か、それ以上の相手。
「っ伏黒、後ろ……!」
焦りを含んだ虎杖の声に被せるように、肉を引き裂く感覚がした。
「家入さん、今大丈夫ですか」
ノックをしてから、引き戸を開けて部屋の主に声をかけた。ここを訪れるのは、随分と久しい。
「おや、君か。久し振りだね。ここ最近は突飛な無茶もしなくなったと思っていたものだけど」
怪我で負傷した左腕にじりじりとした視線を感じる。咄嗟の処置で止血はしてあるものの、浅いとは言い切れないそれが、刺さる視線も相まって痛みと熱を伝えてくる。
「……すみません」
「師が不調なら、教え子も不調か」
家入さんはそう言って微かに笑った。
「……師?」
「ん。まあ、その話はおいおいしよう。先に怪我の具合を見せて」
あれから、俺は初手から負傷したものの虎杖と二人がかりだったので、突然現れた恐らく特級相当の呪霊もなんとか無事に祓えた。
手数の多い式神使いには相性の良い相手と、虎杖のようなパワータイプに弱そうな相手、それぞれが戦いやすい呪霊二体と、報告には上がっていなかった三体目の呪霊。楽に戦いを終え気の緩んでいるところで、それらより強い呪霊をやって来させる。相手は宿儺の器と、そいつと懇意にしている禪院家の外に位置する人間。
なんて、出来すぎたシナリオを引いてみても、答えは闇の中だ。
それが、上からの嫌がらせだったのかどうかは結局わからない。ただ、今呪うべくは、こんなことでわざわざ怪我まで負った自分の未熟さだ。
虎杖は、自分が無傷なのも相まってなのか怪我をした俺をやたらと心配していた。すぐにここをちゃんと訪れるようにと、見送りまでされた念の入れようだった。
ほっとくと、伏黒は自分のことは後回しにしたり、気遣わないから。伏黒が自分で考えない分、もう俺が言っとく。
強い視線が真っ直ぐにこちらを見ている。オマエも大概そういうとこあんだろーが、と思うも、自分だけ負傷している今の現状では口にしづらい。
「それに、今はもう五条先生もいないんだから」
あれ、死んだみたいな言い方しちゃったな、と虎杖が頭をかきながら言う。
「全然気にかけてくれてないってわけじゃないだろうけど。まあ俺は器だし……でももう俺たちの担当の先生じゃないじゃん」
五条さんが一体どう関係があるんだ、と思った。そのままを虎杖に告げると、きょとんとした顔をして、返される。
「無理するなって伏黒に声かけて、それにちゃんと従うの、今まで五条先生相手だけだっただろ」
「いや、だけなんて……ことは……そもそも、あの人自体がこっちにしょっちゅう無茶振りかましてきてただろ」
「んーそれもあるよね。でもさあ、伏黒が一番目をかけてもらってたのは先生なんだろ。高専入る随分前から知り合いらしーし?」
「……それはそうだが」
「その先生の代わり、なんてほどは無理にしても、今んとこはじゃあまあ出来る限りで伏黒のことは俺が見守るから。あ、津美紀の姉ちゃんとか伏黒の好きな人も適役かもしんないけど、そっちは俺が頼みようもないしなー」
「…………」
「スゲエ顔すんなあ……。それがイヤなら、ちゃんと怪我は治せよ。そんで、ちょっとはちゃんと自分を大事にすること!」
約束だかんな!と、そう言って、今のこの場所まで連れて来られたのだった。
家入さんが、左腕の傷の様子を確かめる。
「その、虎杖がちゃんと診てもらえって聞かないので。そこまででもなければ普通に病院か自然治癒に任せます」
「……ん、いいや、今から処置をしよう。椅子にかけて」
医師であり、高度な呪力操作である反転術式を使いこなす彼女が示したその指示に、そのまま素直に従った。
反転術式の光が左腕に浮き上がる。ずきずきと痛んでいた傷が徐々に塞がり、その痛みが和らいでいくのがわかる。治療を施しながら、家入さんが呟くように言った。
「最近、五条の様子がおかしいんだが、君は心当たりある?」
さっき、師、と言っていたのはやっぱり五条さんのことだったのか。
五条さんの様子がおかしいって、どういうことだ。
ちらりと先日の件を思い出して、まさか、と思ったけれど、違うに決まっている、とすぐに振り払った。
そりゃ、過去の教え子にキスなんてされたら動揺も困惑もするだろうけど、そんなことで不調を来たすような人じゃないだろう。……原因となるのが自分じゃなければ、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれないが。
「いえ、わかりませんけど……。それって、どういうふうにですか?」
「なんだかいつでも上の空な態度なのと……まあこれは通常時でもあるにはあるね。興味のない話は右から左って意味で。あとはそうだな、やたらシリアスを背負っているというか考え込んでる様を周囲に撒き散らさんばかりに表に出してるね」
「それってわざとですかね」
「いや、天然だと思うよ」
私の見解だが、と家入さんは付け足した。
「何か懸念事項でもあるんでしょうか」
「んー恐らくだが、呪い関係では、ないかな」
「……?」
呪い関係じゃなく、五条さんがそれだけ思い悩むことって、なんだ?
「あれでアイツも周りの目を見ているところもあるからね、アイツがフワフワしてると周りも不安になるだろう、二重の意味で」
呪術師最強が揺らいでいる、そしてあの五条悟が揺らいでいる。確かにどちらも怖い。
「でもそれが今は無自覚に出てしまっているんだろうな。はた迷惑な話だが。……最近五条の顔を見たかい、伏黒君は」
「いえ」
「そうか」
その返答に、やはりな、というような感覚を感じるのは何故なのだろう。
「家入さんは、五条さんがおかしい理由に何か察しはついているんですか?」
「うーん、そうだね。……上手くつつけば解決に繋がるかもな」
本当か?とどこか不安に思いながら少し怪しい雰囲気で笑う家入さんを見ていると、施術が終わったのか、光が消えた。
「よし、終わり。君の今日の残りの仕事は安静にすることだよ。じゃあ、しっかり休んで」
そう言って、さっさと医務室から出されてしまった。
その言葉に素直に従うように今日はもう家で過ごそうと思い、高専を出て帰り着いた家のベッドで読書をしていたら、いつの間にか午睡を貪っていたようだった。怪我とともに任務後の疲れが出たのか、思ったよりも深く眠ってしまったらしい。外はすっかり夜に暮れていた。
時刻を確認しようと携帯電話に手を伸ばしたら、電源が切れていた。帰ってきてからはプラグを繋いで充電していたはずだったが、いつの間にか外れていたようだ。小さな失態に心の内で舌打ちをしながら再びコードを刺す。
渇いた喉を潤すためにベッドから下りてコップに水を注いだ。それを喉に流し込むと、ごくりと音を鳴らして飲み干す。しばらくして少し電池が回復した携帯電話の電源を入れた。立ち上がりの画面から待機画面に推移すると、そこには五条さんからの電話も含めた連絡の表示がずらりと並んでいた。
思わず、げ、という声が出る。
寝起きの頭がその不穏さにすっと覚める。恐る恐る頭から送られてきたメッセージを確認する。
『恵、怪我したんだって?』
なんで知ってんだよ。
『たまたま会った硝子から聞いた。大丈夫?』
こちらから問い質す必要もなく、次のメッセージに答えは記されていた。
大丈夫かどうかなんて、家入さんから聞いているだろうに。過保護すぎる。アンタは俺の母親か。
なんて思ってみても、母を知らない自分は母親というものが本当にはどんなものかもわからないけれど。
『返事は?』
『おーい』
『既読もつかないんだけど』
『ねえ、電源切れてる?』
『恵ってば』
『恵、寝てるの』
……寝てたな。
それは確かに、自分が寝ている時間に来たメッセージたちだった。
『起きたら、何時でもいいから連絡して』
『一言でもいいから』
『無事です、って』
今度はまるで、家出した子どもを心配する親のようだった。なんでそんなやたらと切羽詰まった文面なんだ。無事に決まっているのに。
これが冗談なのか、はたまた本気なのか、いまいち判断がつかなかった。
先生のメッセージや電話がしつこいくらいなのは、昔からだ。だけど、今回はどこか、様子が違う気がする。
『恵』
なんのメッセージにもなっていない自分の名への呼びかけで、その一連のメッセージは終わっていた。
電話は、一番早かったものがメッセージより先にかかってきていて、その後も履歴が数度あった。
携帯に表示されている時計の時刻は深夜二時。ほんの少しだけ考えて、いつもなら緊急を要しない連絡は遠慮するところだが、一言くらいならいいだろう、と思った。
『無事です』
送信ボタンを押すと、二秒後に電話がかかってきた。『発信者・五条先生』の文字。
怖え。素直にそう思った。
恐る恐る応答のボタンを押すと、「塩!!」という声が耳に飛び込んできた。
「夜中なんですが」
「肉声の一言目、それ!?」
「無事って言えって、アンタが指定してきたんじゃないですか」
「正論嫌いなんだよね、僕」
でも、と息を吐くようにして言った言葉には、安堵の色が滲み出ていた。
「元気そうで、よかった。いつも通りの恵だね」
笑顔でその言葉を口にしているだろうことがはっきりとわかるような、柔らかな響きだった。
何故だか心臓が、ぎゅうと、締まるような気持ちになる。
「……ていうか、何をそんなに心配してたんですか。人のことをまるで瀕死みたいに」
「だって硝子がそんな感じで匂わせてきたんだよ!! アイツ!!」
家入さん……?一体何のつもりで、と頭を抱えた。
「でも、家入さんの治療を受けてるとも聞いてたんじゃないんですか?」
「……」
五条さんが、電話の向こうで押し黙る。
「どうしたんですか、一体」
「…………」
「五条さん?」
「……いや、大丈夫なら、それでいいんだ」
歯切れの悪い言葉が続く。その雰囲気から、自分から何かを話してくれそうな気はしなかったので、なんとなく思い当たるところでカマをかけてみる。
「もしかして、また何か、昔のこととか思い出したりしてました?」
「血がだらだらの怪我した小さい恵連れて、硝子のとこ走り込んだ思い出?」
そう問われてすぐ出てくるということは、考えてたってことか。
「……恵もやっぱり覚えてる? 痛そうだったもんね」
「いや、怪我のことはあんまよく覚えてません。今よりずっと昔のほうがよく怪我してたし」
ただ、頭から血を流したら、今より更にもう少し落ち着きのなかったこの人が慌てふためいていたことはよく覚えている。
五条さんからよく稽古をつけてもらっていた頃、手加減を知らないこの人の前では自分は虫けらも同然で、手を合わせる度に怪我は増えていった。
あの頃、自分は弱いけれど、痛みに耐えるのは得意だと思っていた。それは環境が与えた力でも、単なる麻痺でもあったのかもしれない。だから別に構わなかった。それに、無茶をする度強さが積めるのなら、無力な子どもからは早く脱却できる。吹っ飛ばされようとも、それを全然ダメだとなじられようとも、痛みはありこそすれ、早くやめてほしいと思うことはなかった。
普通の人間の埒外にいるようなこの人は、飛び切り強くて頑丈で、だからこそそうじゃない人間のことなんてどうでもいいのだと、そう思っていた。
でも初めて、稽古中に負った傷の血が止まらなくなったとき。
……なんでこれくらいで血なんか流してるの?どういうこと?
とてもまともな大人とは思えないその物言いに、ぽかんとして口を開けた。
そこで初めて、ああ、どうでもいいというより、本当にわからなかったんだ、と思った。
頭割れた?脳みそ出てない?いちたすいち、わかる?なんて、質問が見当違いのふざけた方向に向かい始めた頃、言動とは反対にどんどんと青ざめていくその人の顔を見て静かに答える。
頭のどこかが切れただけです、たぶん。病院行きます。
しかし五条さんは立ち上がろうとする俺を突然無理やりおんぶしたかと思うと、こう言った。
病院じゃ遅いよ、きっと。口は悪いけど、腕がいい医者がいるからと言って、運ばれた先が家入さんのところだった。
そのとき、背負われながら、五条さんが心配しているのか生存確認のためなのか、しつこく俺に声をかけてきた。
恵、生きてる?
生きてます。
死んでない?
……死んでません。
いくら子どもでも、そう簡単に人は死なねえよ、とその時は思ったけど、この人からしたら、全ての人間が等しく脆くて弱い存在なのかもしれない。
痛くない?大丈夫?
焦りの滲んだ、心配そうな声色を、広くてあたたかな背中で聞いていた。今思うと、誰かに背負われた記憶は、あれが最古のものだった。
それから家入さんに治してもらったあとで、五条さんは、もう少し手加減というものを知れ、と随分と怒られていた。
そんな姿はとても珍しかったので、おかしくて少し笑ったことを、覚えている。
自分にとってはそんな笑い話だが、一応自分が見ている子どもが血まみれになった五条さんからしたら恐怖の思い出なんだろう。
電話口で未だに沈んだトーンを醸すその人に問い質す。
「なんか、落ち込んでます?」
「いや、僕、いまいち保護者気分が抜け切れてないのかなあ、なんて……」
それはまだ、自分のことを未熟だと思われているからだろうか。またそんな、子どもの頃のことなんかを思い出させるほどに。
虎杖が言っていた。もう俺達の担任じゃない。先生は元担任で、俺達は卒業生。そこに監督責任はない。
それなのに、こうしてまた、こんなにも。
未だに心配の対象だということが情けなく思えて、もう塞いだはずの傷口がじわりと疼いた気がした。
「そんなに信用ないですか」
「だって、無茶するじゃん、すぐにさ」
「しませんよ、そこまでの無茶は」
「恵の嘘つき。っていうか、それを嘘だときちんと自覚してるんならまだいいけど、恵は本気で無茶とすら思ってない時があるからね、ヤダヤダもう」
「……アンタに言われたくないです」
「僕の無茶は通る無茶なの。かわいい無茶。恵のはかわいくない無茶」
「……」
「あ、電話だと聞こえてないと思ってるでしょ。ちゃあんと聞こえてるよ、面倒臭そうなため息」
あれだけ僕の連絡無視して待たせてたんだから付き合ってよ、と軽口を言う五条さんに、今何時だと思ってるんですか、とまたため息交じりで答える。
「最近、調子良くないって聞きましたけど」
「僕が? ……なんで?」
「家入さんが言ってました」
「また硝子じゃん」
「だから早く休んだほうがいいんじゃないですか」
「心配し返してくれてるんだ、恵」
「早く寝たいだけです」
「ねえ、無下限あるから怪我もしてないし万が一してたとしても反転で治せるのにそれを知らないから僕が怪我したと思って一生懸命絆創膏貼ってくれた小さい恵の話、してもいい?」
「電話切りますね。おやすみなさい」
「ちょっと!? なんで!?」
深夜だというのに。特別な用事なんてどこにもないのに。
ただ、他愛もない、会話をしている。
そういえば俺、この人に自分からキスしたんだよなということをふと思い出した。
急に心臓がどきりとする。
普通、恩人と恩を受けたその子どもも、元教師と元教え子も、キスをし合ったりはしない。
そう、おかしい。
俺達二人はずっと、おかしいんだ。
改めて、考える。
俺とこの人の今の関係性は、なんなんだろう。
それを表す名前は、どこかにあるのだろうか。
「恵、あのね」
そう考え込んでいると、電話の向こう側から、静かに呼びかける声がする。
それはこの人には珍しく、やたらと改まった声色だった。
「恵に、……話があるんだ。どうしても聞いてほしい話が」
俺に、聞いてほしい話。
今までの流れを考えても、それはあの件についてだろう。
けど、それにどう触れるのか、何を俺に伝えたいのか。それは考えてもわからなかった。
ただ、ようやく、先生からの言葉を聞ける。
何を聞かされるのだとしても、それは俺にとって待ちわびたはずの言葉だ。
明るくはない予感はずっとしていて、進んで聞きたいとは思えなかったとしても、何年か越しにやっと気づけたこの恋に、きっと何かしらの答えが出る。
それは、喜ばしいことのはずだった。
「ありがとう、時間空けてくれて」
前、急に押しかけたときとは違って、今度は自分が招かれる側だった。
リビングに通されるとすぐ、お茶入れるからかけておいてと言って、五条さんはキッチンに引っ込んだ。
言われた通り、五人掛けくらいの高そうな革張りのソファに腰掛ける。思ったよりも身体が沈んで、不意のことにほんの少し身体が強張った。そんな些細なことでさえ、今は緊張を増す装置と化す。
前は、勢いで押しかけてスピード勝負で仕掛けにいったので余り細かいことを意識していなかったが、そういえば、五条さんの自宅を訪れたことは、数えるほどしかなかった。
小さい頃は埼玉のアパートを五条さんが訪れ、呪術の稽古をつけるなら高専内の道場を借り、高専入学後はもっぱら高専で顔を合わせるしで、こんなプライベート空間に足を踏み入れる必要性がなかったからだ。
ローテーブルもソファも、奥に見える一人掛けの椅子や間接照明も、恐らく先生がいつも身につけているような衣服と同様に一流のもので、家具に詳しくもなく特に興味のない自分にもそれらの質の良さは見て取れた。
シンプルだけど、その分雰囲気がまとまっていて落ち着く部屋だ。
あの人が、ここで寝て起きて、そうして日々を暮らしているのかと思うと、不思議な気持ちがした。そんな五条さんの生活の場に、今、自分もいる。
そんなふうに考えながら部屋をぼんやりと眺めていると、お茶を載せたトレーを持った五条さんが現れた。
「んー、恵が僕んちにいるの、なんか不思議だなあ」
「前も、上がらせてくれたじゃないですか」
「二回じゃまだ馴染んでくれないよ」
まるで馴染んでほしいみたいな言い方をするので気にはなったが、何も突っ込めなかった。
「はい、どうぞ」
そう言って、お茶を差し出される。ローテーブルの脇の方に、空になったトレーが置かれた。
「……それで、なんですか。俺に聞いてほしい話って」
「うん。僕から二つ、恵に伝えなきゃいけないことがある」
単刀直入に言うね、と口にした言葉は、前に言っていた自分の真似のようだった。
「突然だから戸惑うこともあるだろうけど、どうか、最後まで聞いてほしい」
それまでは少し緩んでいた空気が、すっと引き締まった。
それから、五条さんがゆっくりと口を開く。
「恵の父親、禪院……伏黒甚爾を殺したのは、僕だ」
サングラスの向こう側、蒼い瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。けして、その重さや大きさや意味を揺らがせたりしないように。
静かにそう告げられた言葉は、こちらの予想の範囲外のことだった。
「このことについては、本当は、初めて会ったその日に僕の口から話そうと思ってたんだけどね。……いつか、君が僕に尋ねてくるか、自分で調べるか、どこかから耳にするときが来るかもしれないと思いながら、今まで話せずに来たんだ」
今更で、遅くなってごめん、と、重く響く謝罪の言葉。それからまた、説明の続きが始まる。
「彼は、術師殺しだった。呪術師専門の殺し屋ってやつだ。そして、その時僕が為そうとしていた任務を妨害してきた彼を、僕は殺した」
淡々と話されるその話に、心も頭も追いついていかない。
五条さんが……自分の父親を、殺した?
うろ覚えでしかない父親の姿が、もたげた頭を持ち上げるようにして立ち、影のようにゆらりと現れる。そしてそれが、ふいに背後から現れた五条さんの影に真っ二つに割られて、雲散霧消した。五条さんのかたちをした影だけが、形を変えることなくそのままそこに佇んでいる。
これは今、混乱した自分の頭が映し出した、ただの妄想だ。けれど、当たり前だが、嘘でもなんでもない。五条さんがしている話は、きっと本当の話だ。
「それから、彼が死の際に恵の情報を零したから、暫くしてから僕は君に会いに行った。ただ、強い仲間が欲しくて、恵に会いに行ったんだ。僕にはそれが、何よりも必要だったから」
自分の瞳に語りかける言葉が終わると、静かに瞼が伏せられた。
「……以上、一つ目」
そう言って、息を一つ吐いた。
この人でも、緊張みたいなものをするのか、と、その息の擦れる音を聞いて、初めて思った。
人より多くのものを持ち、才覚だけは表に出して、その他の荷物はほとんど隠すようにして内に秘めていた、この人の抱えていたもののその一つに、自分も関わっていた。
奇しくも、自分は今、この人が俺に会いに来たときと同じだけの年齢を重ねていた。その時の早さに、驚いた。
白い頭をした軽薄な態度のサングラスの男を見上げる、六歳の自分の記憶が思い出される。
任せなさいと言い切って、乱暴に頭を撫でられた感触が懐かしい。
そうして自分が父親を殺した子どもを、その秘密を抱えたまま、この人はずっと今まで見守ってきたのだ。
「……術師にとって、術師殺しは敵でしょう」
「まあ、ね。……正直強かったよ、君のお父さん」
昔とはいえ、五条さんが言うなら相当だったんだろう。多分、生け捕りや手加減なんて望める相手ではなかった。だから、殺した。
「俺の父親の説明は受けたじゃないですか。ろくでもないやつって。俺もそれを否定しません」
邪魔になった俺と津美紀を捨てて、津美紀の母親と二人、のうのうとどこかでまだ生きていると、ぼんやりとそう思っていた。
過去に禪院家から出奔したことはこの人から聞かされていたが、そこからまさかの、呪術師の仇敵である術死殺しを生業として生きていたとは。
そして、その仕事の最中に、目の前のこの人に殺された。それは彼の、呪術師の、仕事として。
「どっかで悪さをしてるより、もう死んでるなら、よかったのかもしれません」
言外に、あなたが殺めた事実を責めることはしないと、そう含めていた。
けれど、五条さんは苦い顔をして、言った。
「僕が君に初めて会ったとき……あの時君を迎えに行ったことを、僕自身は今も昔も欠片も後悔していない。だけど」
恵は?
今の話を聞いて、今の君なら。
そう問われた。
だから俺は、自分の心を探って、考えて、ありのままの答えを今、目の前のこの人に返さなければならないと思った。
正直に言って、父親のことはほとんどまともに覚えていない。おまけに、善い人間であったとは、とても言えなかった。
まともな親ではなかった。津美紀も自分も、苦しめられた。
津美紀の母親も消えて、二人だけの柔くて脆い紙の箱庭のような生活に、あの日、もたらされた変化。
どんなに怪しくて、敷かれたレールが理不尽で、抱えた秘密が歪でも。
答えは、同じだ。
「俺は、きっと五条さんの手を取ります」
心のままに、答えた。
「津美紀を禪院家に巻き込まずに済んだのも、生活費を高専から回すように話をつけてくれたのも、全部……五条さんのお陰です」
幼い頃からの稽古、高専でのしごきも、全ては強く、力を蓄えるため。
父親を殺したことが事実であっても、こうして今の自分があるのは、自分を生かしてくれたのは、確かに目の前のこの人だった。
運命だなんていうものがあるのだとしたら、それは変えることのできない道筋のようなものだろうか。
そんなものがあるかどうかはわからない。けど、何一つとして変えられない過去は、どうあってもただ今を導き出すのだと思う。
未来すら見通せそうで、だけどそれはできない六眼を宿す瞳が、俺の答えを受け取ると、二、三度瞬いた。
「……聞いてくれて、ありがとう」
五条さんは、少し頭を下げながら、静かにそう言った。
一つ目らしい、話の決着はそこでついたんだと思う。
だが、なおもどうしてか引っかかることを尋ねたくて、口を開いた。
「なんで今、話したんですか」
「恵の気持ちも考えずにごめん、でも僕から話すなら今しかないと僕が判断した」
決然とした物言いだった。
でも、俺がその話を聞くタイミングとしては良い悪いではなく、何故今、という疑問が大きかった。
どうして、今。
突然?
「……僕は、恵にとって近しい事実を知らせないままでいるのは、フェアじゃないなと思ったから」
フェアじゃ、ない。
情報を知る側と知らない側がいるということで言うなら、それはずっとそうだったはずだ。
なのに、どうして今、それが重要だったのか。
そう考えて。ふっと、全てが腑に落ちた。
……わかった。
何故、このタイミングでこの話をしたのか。
自分はお前の父親殺しだと開示したのか。
……それは。
清算をするためだ。
俺と、この人との関係についての。
全ては、あのキスへの答えを、はねつけるためだ。
決定的な一言を、今から俺に放つために。
心の中に、氷を投げ込まれたような思いがした。
家入さんの言葉が蘇る。困ってた、ってそういうことかよ。
自分の中で、戸惑いの熱が急速に温度を下げていった。
「あと、もう一つ伝えなきゃいけないことなんだけど」
「わかりました」
「え?」
「もういいです。大丈夫ですよ、こんな、わざわざ改まって言ってくれなくても」
この前とは違って、この人の目を見て言葉を発することができない。
怖いからだ。
自分がこの人のことを好きだと自覚してしまった今、何もかもを直視することが、怖い。
俺はまた、ごめんねと言われるんだと思った。
ごめんねの意味が、はじめはされたキスと同じでわからなかった。
けど、キスのあとに言われた謝罪の言葉を考えれば考えるほど強く、謝るな、と思った。イヤだったし、ムカついた。
だけどどうしてそれがイヤなのかはわからなかった。
釘崎は、謝るくらいならするな、と言っていた。
俺も確かにそう思う。でもそれだけじゃなくて。
……俺は、この人にしてほしかったんだ。
俺が欲しいと思ったキスを与えてくれたこの人に、謝ってなんかほしくなかった。
謝られたら、俺のその気持ちは、その行為ごと否定されるってことだ。
馬鹿みたいだった。
この人の口から、そんな謝罪の言葉はもう二度と聞きたくなかった。
近くに置いていた上着を掴んで、素早く羽織る。
「恵、待って」
五条さんの手が、玄関へと向かおうとする俺の腕を掴む。
「待って、わかってない、いや、もしわかってても、今日ばかりは僕は絶対僕の口から君に伝えるつもりでいた」
「……いいですって」
「ヤダ」
そんなのもう、聞きたくない。
「何、駄々こねてんスか」
「どうしても、言おうと思ったから」
もう、いいのに、そんな。
「……釘を差すようなこと!」
掴まれた腕を振り払おうとするのに、びくともしなかった。握られたところが、熱くて、痛い。
「今度こそ言わせてよ、恵。キスしてもいい? なんて、そんなこと聞く前にさ!」
イヤだ。謝罪の言葉なんて要らない。ごめんねなんて、もうその口から、聞きたくない。
耳を塞ごうとするより先に、強い言葉が飛んできた。
「好きだ、恵」
「……は?」
言葉の意味が取れない自分が咄嗟に発したその言葉に、その人は傷ついた顔をしていた。サングラス越しにも見える、蒼い瞳が揺れている。
そのとき、掴んでいた腕を、はっと気づいたようにして、離してくれた。怪我をした腕だと思ったのかもしれない。
この人は今、……何を。
それは、言われると思っていた言葉では、全然なかった。
俺は逃げない意思表示に、五条さんの瞳を、真っ直ぐに見つめる。
震える瞳が、ゆっくりとこちらを見返す。
「……初めて会ってから、今まで、恵のことをずっと見てきた。特別で、大事だった。今も」
壁掛け時計の秒針の音が、急にボリュームを上げたように大きく聞こえる。
「キスしていい? なんて聞き始めたのは、まあ、最初はお遊びだったよ。恵にははた迷惑だっただろうけど、でも僕は大切なことに気づけた」
秒針のリズムを追いかけるように、自分の鼓動の音も強く、早く、響いてくる。
「君のことをそんなふうに考えたことは一度もなかった。でも、それが、『ある』ってことに、気づいてしまった」
まるで自分と同じじゃないか、と思った。
いつからあったのかさえも知らない、その感情。
「君のことが好きだよ」
今度は、その意味がちゃんと理解できた。
けど、目の前の震える瞳は、怖がっているように思えた。俺の、一挙手一投足を。
「嫌だも、気持ち悪いも、嫌いも、全部聞くから。散々勝手して、言いたいこと言ったのは僕だし。殴ってくれたって良い。そもそも前に、それは貰う前提だと思ってたから……」
そう言って自分に向けて振るわれる拳を待って、粛々と瞼を閉じているその人のことを、抱きしめた。
見た目よりも厚い身体を自分の腕でくるむように、背中に腕を回して、力を込める。
少し前までキスだってしたことがなかったけど、こんなことも、誰かにした覚えがなかった。
人間の身体って、あったかいんだな、とそう思った。
遠い日の背中を思い起こす。
そうだ、誰より強いこの人だって、弱さや脆さがどこにもないわけじゃない。
どこもかしこも、生まれた季節に合わせたみたいに色が薄くて冷たそうに思えたこの人も、その皮膚の下には温かい血の流れる、同じ人間だった。
衣服越しに触れていても筋肉が固く、緊張している気がした。耳にあたる胸の鼓動が早鐘のようだ。上ずった声が、頭の上で弾ける。
「えっ? え? 恵???」
抱きしめられている理由も知らないその人は、酷く狼狽した顔をしていた。
……嬉しかった。
自分と同じように困っているこの人の、その様を見るのが。
思わず緩んだ頬で笑いかけると、サングラス越しの瞳が驚いたように見開かれる。
「…………その、えっと……」
「なんですか」
「……え、あの、殴らないの?」
「殴ってほしいんですか」
「いや……痛いのは、イヤだけど……」
うう、とうめくこの人の跳ねるような心臓の音が自分のすぐ近くにあって、どくどくという音が自分のもののように聞こえる。
自分の音だって相当早い。混ぜ合ってしまえば、最早どっちがどっちだかわからなくなるのかもしれない。
同じ理由で鼓動を揺らしているのなら、きっと混ざり合って一つになるのだって、可能な気がした。
「なんで、キスしてもいいって言ったのに、逃げたんですか」
全部聞くからと言われたので、本当に聞いてやろうと思った。さっき逃げ出そうとした自分のことは棚に上げて、どこへも逃げ出せないように抱きしめたままの格好で。
「ぅっ……それは、あの、怖くなって……」
「? 怖い? どういうことですか?」
「本気でキスしたくなっちゃったから……」
「…………じゃあ、卒業式にキスしてきたのは」
「えっ? ……や、その、恵がかわいくて、我慢できなくて……」
「……なんで、全部なかったことにしようとしたんですか」
「恵にとってはそっちのほうがいいだろうと思って……でも、そんなの結局は、僕が臆病だったから……」
「…………」
「答える度に、コイツ……って顔してるのに無言なのやめてよ恵! せめてなじって!」
わあわあ喚く五条さんは、赤くなったり青くなったりとせわしない。
それでも、俺は腕の中から解放しようとはしなかった。
見上げるようにして見つめると、ばつの悪そうな顔がこちらを見返す。もぞもぞと、腕の中の五条さんが身じろぎをする。
「ねえ、この拷問から、僕はいつ釈放してもらえるの……?」
「俺と抱き合ってるのは拷問ですか」
「……いや、恵、あのさ。わかってて言ってるよね……」
そしてまた、あの、と遠慮がちに聞いてくる。
「ホントに殴らなくていいの?」
本当は殴ってほしいのか? とも思ったけれど、別に自分は今は殴りたくないので違うことを望んだ。
「殴らせてくれなくていいから、あれ言ってください」
真っ直ぐと目を見て、そう言った。
聞きたかった。散々困らされた言葉。
だけど、俺のことが欲しいと、そう求めてくれている言葉を。
長い睫が、音がしそうなほどに上下に揺れる。
強張る頬。震える瞳。初めてキスをされた時の表情が蘇る。
ああ、そうか、これは。
恋をしているこの人の顔だ。
「……恵。キスしても、いい?」
「いいですよ」
そう答えると、恐る恐る、でもようやく、自分の背にも腕が回された。
今が、この人との一番近い距離。ぎゅうと抱きすくめられて、それからまた距離を離される。それをするのに適切な距離。
そうして、触れるだけのキスを返される。
閉じていた瞼を開いて、まじまじと蒼の双眸を見つめた。
「……いや、何こんだけですか? みたいな顔してるの」
不服そーな顔して、と五条さんが眉間に皺を寄せる。
「そこまで察してるならしてください」
「ダメだよ、セーブきかないから」
「セーブってなんですか」
「あのさ、ここ、僕んちだよ? わかってる? 恵さぁ」
こちらから目を逸らして逃げ腰になっているその背中に回していた腕にまた力を込める。う、と困ったような声。
「俺も五条さんのことが好きです」
泳いでいた瞳をこちらに引き留めることに成功した。と同時に、みるみる赤く染まっていく五条さんの顔。
「これ以上、自制をきかせる理由が要りますか?」
「ずるい……」
広い手のひらがするりと俺の頬を包んだ。
「恵、本当に男前になったよね……」
五条さんは、ため息の吐息と共にぽつりと呟く。
誰が見ても一瞬で目を引くような、そのやたらと整った綺麗な顔も、今は見事に崩れている。ざまあみろだ。
こんなに情けないこの人の顔を見るのは俺だけでいい。
「キス、してください」
「……本当に加減できないよ?」
「いいです」
だって。
「ずっとそれが、欲しかった」
そう言って笑うと、望んだものが向こうから飛び込んでくるようにしてやってきた。
くちびるに
ふれても
よかった
終わり