ふれたそのさき「で、めでたくカップル成立したんでしょ。私のアドバイスのおかげね。泣いて感謝しなさい」
「おめでとー。伏黒頑張ってたもんな」
いつぞや振りの再びの鍋パーティーで、俺は虎杖と釘崎の二人に自分の恋路の進捗発表をさせられる羽目になっていた。また散々つつかれた結果、相手は伏せたままだが事の顛末の一切を吐かされることになった。どうかもう、ただただ普通に鍋が食いたい。
「で?相手どんな子よ。話聞いてた分にはぶっちゃけ気が合わないと思うけど会わせなさいよ」
「な、俺も会いたい」
好奇心が宿る瞳が四つ、こちらを見ている。
わざわざ改めて席を設けなくとも、ここ数年二人にとってもかなり日常的に顔を合わせていた人間なんだが。
俺は、気もそぞろなせいで味が薄い気がしてしまう自分で作った肉団子を噛みながら、答えに窮する。
そんな、とても困った目に遭っていた。
「んー、まあ僕は構わないよ。ていうか、僕から絶対に言わないでとか言えないでしょ」
任務終わりに恵の家に寄るから、という連絡を貰っていて、ちょうど夕飯の時間頃に訪れた五条さんと、買ってきてくれたテイクアウトの食事を一緒にとったところだった。
今は、昨晩の虎杖と釘崎との鍋パーティーで散々付き合っている相手について聞かれ、あげく会わせろとせっつかれているという話をしている。相談に乗ってもらった手前、この件に関して二人を無下に扱う訳にもいかなかったが、五条さんの立場的に話していいものかを考えあぐねていたのだ。
「嫌なら…言う権利はあるんじゃないですか」
「は?イヤな訳あると思う?恵との仲を喧伝できるんだよ?世間に」
「いや、してどうするんですか……」
しかも世間といっても知らせる相手は虎杖と釘崎の二人だけだ。
「だって最強の手付きなら、誰も手を出そうなんて考えないから」
「ハア?なんですかその無意味な心配。そもそも誰が俺に手なんか出すんですか」
「僕!僕僕僕!!!」
「アンタは……例外でしょ」
「他にもいるかもしれないでしょ!てか僕の審美眼で選んだ恵が引く手数多にならないわけがないから!!」
自己評価が高すぎる。アンタがゲテモノ食いってだけだろ。
はあ、とため息をつくと、五条さんが何故か慌てた様子でまたまくし立ててくる。
「……あのさあ恵、ほんと、そういうとこなんだからね?世が世なら、その自覚の甘ちゃんさから絶対秒で檻に監禁されてるところだよ?」
「意味がわかりません。犯罪ですよそれ」
「ていうかさあ、正式に僕ら二人は『お付き合い』を始めたわけだし。それをつまびらかにしたところで何か問題ある?」
う、と言葉に詰まる。
「僕にはないよ。さっきも言ったけど、むしろ言いふらしたいくらい。恵自身はイヤ?」
「…………イヤ、では、ないです」
「うん、じゃオッケー」
さらりと了承が得られてしまい、困惑した。自分たちが恋人同士であることをはっきりと告げられると、今でも慣れなくてむず痒い心地がする。
こんな調子なのに、本当に二人にちゃんと話せるのだろうか。
「ふふふ、強気の恵がゆるんでるねえ。かーわい」
頬を人差し指でつつかれる。クソ、おちょくりやがって。
そのふざけたような笑顔がふっと解けると、じっとサングラス越しに見つめられる。
「ねえ、キスしてもいい?」
そうやって真剣に問うその言葉に、あの、とため息が出た。
「もう、いちいち聞かなくてもいいでしょ。そういう関係になったんですから」
「え〜〜そういう関係ってどういう関係?」
「……」
「黙んないでよ」
本当に毎度反応が面倒な人だと思う。
「さっき言ってたばっかなのに。まだ照れることある?」
少し呆れた顔でそう言われて、ムカついたので思わず顔をそむけた。
「わーごめんって、恵」
そんな簡単にスネないでよ、と伸びてくる腕に抱きしめられた。大きな身体が自分を包むように触れている。あったかい。少しぎこちなく息を吸えば、この人の香りばかりがしている。心地いい匂い。だけど、触れる近さにいまだ慣れない心臓が刻む鼓動が、耳にまで届く。
「……キスしてもいい?」
さっきよりも幾分か柔らかい響きで聞かれた質問に、声の代わりに小さく首を動かして答えた。
すると、五条さんの大きくて骨張った手が、頬を包むようにして伸びてくる。そうやって固定された俺の顔の前に、やたらと整ったパーツが並ぶ傾けられた顔が迫ってくる。こうやってキスをされるたび、唇をまるで迎えに来てくれているようだと、思う。
だけど、それはもう、卒業式の日に不意にされた触れるだけのキスとは、何もかもが違う。
唇が舌でゆるくなぞられて、入口を解かれる。初めはそれが何のことだかわからずにびくついていたけど、今はもう理解している。させられてしまった。
どうせいつかはこじ開けられてしまうそれを、緩く広げた。すると、侵食するようにして舌が入り込んでくる。歯列をなぞって、口内をかき混ぜて、その奥にある自分の舌を誘っている。こわごわと舌を差し出すと、ぬるり、と舐められた。何かを舐めるはずの器官であるそれが、同じものに舐められている。
おかしいな、と思った。そして、おかしいくらいに気持ちがいい。
「…っ、……ふ、」
こんなことを、気持ちがいいことだと、この人から知らされなければ、きっと知らないままでいただろう。ぼんやりと溶けていく思考の中でそんなことを思う。
ん、と鼻にかかったような声をもらして、いつの間にか掴んでいた五条さんの腕に力を込めると、緩やかに唇はすっと離れていった。
「ん、ごちそうさま」
自分の唇をぺろりと舐めて、笑顔でそう言う。五条さんがよく言う、甘いものを食べたあとの言葉とは、それは決定的に違っている。熱と欲がのったそれは、唇のその先にあるものを想起させるからだ。
けど、前に、キスだけでは足りないみたいなことを言っていたくせに、キス以上のことをしてくる様子はなかった。
告白をされたあの日から二週間、未だにキス以上の行為は行っていない。この人が忙しくて二人で会う時間が取りづらいのもあるが、それでも会う度に身体は触れ合わせている。唇だけ、だけど。そう、結局キスだけだ。なのに何故か満足げなこの人を前にすると、何も言えなくなる。
あの日も、キスしか交わしていない。
互いに思いを伝え合って、それから初めて触れ合ったのがあの時だった。セーブなんてしなくていい、と言ったものの、どこまでやることになるのか期待だけじゃなく不安な気持ちも抱いていたのは、事実だ。その心を察してか、ただ触れ合うだけよりは深いキスをして、さっさと身体を離されてしまった。それからはただ五条さんと並んでベッドに寝転んで、朝起きて家に帰った。本当に、それだけ。
つまりは、手加減をされた。
今だってそうだろう。明らかに手を引いた感があった。
今のこの、徐々に境界を拡げるように行為が増やされていくそれは、多分、慣らしだ。手慣れない自分が、キャパオーバーで崩れ落ちないための。
自分だってもう子どもではないとはいえ、年数や経験でいえば、いつもちゃらんぽらんに見えるこの人だって、勿論自分より断然大人だった。この人の唇しか知らない自分とは違って、今までの経験値がこの人にはきっと当たり前にある。手慣れていることを感じるたびに、心のどこかがざわつくような心地がした。
そんな自分の複雑な心持ちを知りもしないまま、目の前の人間は何か言いたげな、機嫌の良さそうな顔を向ける。
「……なんですか」
「んーやっぱ、まだしばらくは聞いちゃうかも。キスしてもいい?って」
だからなんでだよ、と首を傾げる。五条さんはそんな俺を見て、目を細めて微笑んだ。
断る可能性があるとでも、思っているのだろうか。なのにどこか余裕ぶっている恋人の緩んだ顔に、またムカついた。
「……で?いつ来んのよ、恋人は」
「てかなんで先生いんの?」
「皆、久し振り〜!元気してた?卒業後もこうして結構な頻度で会っちゃうくらい仲良しで、元担任としては微笑ましい限りだね」
「おー元気元気。先生も元気そーだね」
「あーなんか、久々にこの軽いテンション浴びたわ」
都内某所のファミレス。恋人に会わせろという釘崎と虎杖の願いを叶えるべく、五条さんも納得ずくで席を設けた。
問題は、一体どのタイミングで恋人の正体について話すかだ。どうせなら大々的なサプライズのほうが良くない?という、数年前の嫌な記憶がよみがえるような提案をされたが却下した。なんでこの人は懲りてないんだろう、と呆然とした。そしてなんでこんな人のことを好きになったんだろう、と自分の心に疑念さえわき始めた。
手持ち無沙汰なのをごまかすように、メニューを開く。
「……なんか頼むか」
「はっ?伏黒アンタまさか、この期に及んで誤魔化すつもり!?」
「あー、でも俺も腹減ったな。んー俺はエビピラフにしよっかな」
「じゃあ僕いちごパフェにしよ」
「おい、虎杖!となんでかいる元担任!私パスタにするからメニュー寄越しなさいよ」
「結局食うんじゃん」
人差し指をクイクイと動かしてメニューを渡せと要求する釘崎。それを見て突っ込みながら笑う虎杖。
馴れ親しんだこの雰囲気。三人で会うのは、卒業後も数回はあった。だけど、ここに先生もいるというのは、最後がいつだったのか、定かではないくらい昔のことのように思えた。
その懐かしさに触れたことで、少し心がゆるく解けた気がする。
そして、出来る限りの自然さを装って、口を開いた。
「何でも頼んでいいぞ。……今日は俺の恋人の奢りだから」
「ハア?いくらなんでもそれはその子に悪いでしょ…………ハッッ、まさかヒモ!?ヒモとして目覚めたの伏黒アンタ!!」
「えー大金持ちのお姉さまだとしてもちょっとそれは俺も引いちゃうかも……」
自分の言葉に騒めく二人をよそに、五条さんは開いていたメニューを二人に差し出して、笑顔で言った。
「よーし、いいよ!皆と食べるの久々だしね。じゃんじゃん食べな〜」
「は…?」
「ん…?」
コイツは一体何を言い出し始めたのか、と怪訝な顔と不思議そうな顔をする二人。
そこにダメ押しをするように、五条さんの口から言葉が重ねられた。
「伏黒恵くんの『恋人』として、ここは僕が奢ってあげる」
目も口もこれ以上ないほど開いた虎杖と釘崎が、じっと五条さんを見つめたのち、俺のほうを見た。
注がれる視線を避けるように目をあちこちに泳がせながら、ん、と小さく頷く。
「ア!?なに可愛く返事してんだ伏黒オマエ!!」
「えー!!マジでそういうことなの!?」
「だねえ」
「…………」
ワーワーと一際やかましく騒ぐ虎杖と釘崎を前にして、無言のままずっとうろうろと目をさまよわせていると、ハイ、と五条さんが釘崎にメニューを手渡した。
「さっ、野薔薇。パスタ何にするの?」
「…………いや、こうなりゃステーキにするわ。サーロイン400g」
「いくねー」
「食い過ぎでしょ……や、でもそれレベルの情報量っていうか……」
「じゃあ悠仁もいっとく?サーロインステーキ400g」
「…いいの?」
「勿論。わざわざ友達の恋人である僕に会いに来てくれたんだもん。なんでも食べなよ」
「そーよ。食べ放題チャンスよ!食え食え!」
「いやー…その、俺の友達で先生の恋人が今メチャメチャんなってるけど、大丈夫?」
思う以上に気恥ずかしくなってきたこの場の雰囲気に、どんな態度で座っていればいいのか分からなくなってきた。誰とも目を合わせられないが、他に目を向けるのに適切なところもない。自然と俯き加減で黙りこくる状態になる。
「まあ〜慣れたら大丈夫でしょ。慣れるまではちょっと大変かもだけど、生温い目で見てあげてよ」
へらへらと言うその軽口を聞いて、この人は一体何様なんだ、と思う。そして何故そんなにも平然としていられるのか。
口を閉ざす自分をよそに、それぞれがメニューを吟味して、五条さんが奢ってくれる予定のものを次々と注文する。タッチパネルから全員分の注文が通ると、僕ちょっとドリンクバー行ってくるね、と五条さんが席を立った。
一番気楽そうな人間だけが席を離れて、テーブルを囲む三人に微妙に気まずい時間が流れる中、釘崎がぽつりと零した。
「まさか、アイツとはね」
「……」
「あーそういえば、前にボロクソ言っちゃってたわね、私。ありえないとか、刺すとか」
「いや……あれは仕方ないと思う」
「それもそーね。まあたとえ本人と知ってても言ってるだろうし」
釘崎は前に話していた卒業式の件を思い出したのか、眉間に皺を寄せて複雑そうな顔をしていた。そりゃそうなるだろう。いやアレオマエら二人の話だったのかよ、と考えているに違いない。
それから釘崎は、じっとこちらの顔を見つめてきた。
「ねえ伏黒、アンタ今幸せ?」
「……それは」
「別にマイナスの意味で聞いてないから。シンプルで素直なただの質問よ」
だから思う通りに正直に答えろ、と言われたので、
「……ああ、まあ、…多分」
と答えると、
「でしょうね」
釘崎がはっと小さく笑った。
「なんかもう気が合うとか合わないとかいう以前の問題になったけど。……ま、ちゃんと紹介してくれてありがと」
その言葉を発すると、もう散々吟味したはずのメニューをすっとまた取り出してじろじろと眺め出した。それが釘崎の照れ隠しのように思えて、こっちまでむず痒い思いがしてきた。
「っつか、アンタはどうなのよ、虎杖。なんか反応示しなさいよ、ホラ」
空気を変えようとしたのか、釘崎が虎杖に話を振る。
「え?や、まあ、はじめはやっぱ驚いたけど……」
「けど?」
「なんていうか、先生なら、最強だから安心じゃない?」
「はあ?いくら最強って言ってもねえ……ていうか、恋人に強さ求める?」
しかも人外レベルの強さよ?と、釘崎は眉間に皺を寄せた。
「だって俺らの職業考えろって。万が一自分のせいで危険な目に遭わせたらとか考えたら、強い方が安心はするだろ」
「ていうかまんま同業者だろ。……んーでもまあ、仕事に理解はあるっちゃあるわよね…」
虎杖が、こっちを見てにこりと笑う。そこに生温い見守りの目線みたいなものを感じて、げ、と身構えた。
「俺は、良かったなーって思ってるよ。前にも言ったけど、伏黒のこと、ちゃんと見ててくれる人いた方がいいし」
「だからなんなんだよその保護者目線……」
「まあ〜だって不意打ちでキスかまされるくらいだし?」
釘崎の指摘に、う、と言葉が詰まる。というか、それをしてきたのがその相手なんだが。
にやにやした視線を双方から投げられながら、目を合わせないようにして頭をかく。こんな話を、相手を詳らかにして、コイツら二人と話す日が来るなんて。
慣れたら大丈夫なんて、慣れるまでは一体どうすりゃいいんだ。心の置き所が分からないし、やたらとむずむずして居心地が悪い。
そう思っていたら、黒尽くめの大男がご機嫌そうに、明らかに数種類の飲み物がブレンドされて変な色になっている液体の入ったカップを片手に戻って来た。
「えぇ〜〜なになに?僕がいない間三人で何の話してたの?恋バナ?恋バナッ??」
「ステーキ来ましたよ。うるさいし邪魔です。早く座ってください」
ふふふ、と楽しそうに笑うその人の後ろから、ちょうど虎杖と釘崎が頼んだ肉厚のサーロインステーキが鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てながら運ばれて来ていた。
やかましい人間を腕を引いてさっさと横に座らせて着席すると、向かい側からはまた生温い視線が飛んで来る。
ああもう。どいつもコイツもにやにやするな、マジで。
おまけ番外編:虎杖と釘崎、ファミレス発表会後、二人の帰り道にて
「は〜〜〜やーーー、まさかだわ……。あんだけナシナシ言ってた相手が元担任って」
「まーびっくりしたよなあ。でもほんと、伏黒の恋が不倫じゃなくてよかったよネ」
「あーそういや道ならぬ恋とかどうとかも言ってたな?いや、道あんのか?これも??これはこれでどこまで突っ込んでいいのかわかんなさすぎんのよ」
「でもなんかさー、まあなんとーく年上だろうなーとは思ってたんだよな」
「あ〜わかる。しっかりしてそうに見えてどっかで弟気質が滲み出てるもの、アイツ」
「言われてみれば、本人は自覚なさそうだったけど、いっつも自然と先生に甘える感じだったのもなんか……納得っていうか?」
「そーいう親密さだったってわけ?」
「いや知らんけど」
「けどまあ、アレと付き合って幸せになれるかどうかなんて知んないけど、あんなふわふわした顔見てたら、あーなんも言えないなって思ったもの。良くも悪くもなんか言ったところで無駄そうって感じ」
「ん〜〜、だね」
「あーお腹いっぱいよ、もう」
「はは、二重の意味でってやつ?」
「うっステーキが口から出そう。……つーか、やっぱ呪術師に出会いなんてねーじゃねーか!近場中の近場で済ませやがって!」
「うんうん、まあまあ、これからがんばろ、釘崎サン」
散々五条さんの奢りで腹を膨らませた二人と別れて家に帰ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「でっかいため息だね〜」
何故かそのまま家までついてきた五条さんが、俺が座るソファの隣に腰掛けながらふふっと笑う。
「……疲れました」
「アッハッハ、だろうねえ」
あんな恵見たことなかったもん、と他人事丸出しで愉快そうに笑う姿に少し苛立つ。でも、と五条さんは続けた。
「僕は嬉しかったよ。もう堂々と二人の前では彼氏面ができるし」
それに一体どんなメリットがあるのか全然分からない。アイツら二人に俺の彼氏面を晒されても俺はただただ困るだけだ。
「僕と恵が恋人関係だって知っててもらえたらさ、隠したりしないでいいから、ヘンに嘘つかなくてもいいわけだしね」
三人にはずっと仲良くしてて欲しいんだよ、元担任のセンセーとしてもさ、と五条さんが笑顔を向けてくる。
「だって、恵もイヤでしょ、二人に不必要に嘘つくの」
バレるとか、立ち回りが上手くいかないとかじゃなくて、あの二人に俺が嘘をつくことについて考えてくれていたってことか。
「……その、ありがとうございます」
「んー?なにが?」
「半ば成り行きで話すことになったのに、すんなり了承してくれて」
そう言うと、五条さんが不思議そうに瞬きをした。
「恵ってさあ、マジでチョロいよねえ」
「は?」
「さて、悠仁と野薔薇は無事済んだけど、恵、津美紀にはいつ言うつもり?」
突然デカい鉄球をぶつけられたような感覚になったが、それを尋ねてきた五条さんは平然としている。至極当たり前の流れだとでもいうように。
「そ…れ、は……ちょっと、まだ考えられてない、ですけど……」
虎杖と釘崎に話すことになって、津美紀のことも頭に浮かんではいた。だが、二人に告げることだけでも手一杯だった上に、それはより困難な課題に思えて、保留とばかりに頭の片隅へと追いやっていたのだ。
「声かけてくれたらいつでも、お姉さんに弟さんを僕にくださいしに行くからね」
「…………」
「冗談だよ」
「本当ですか…?」
目が笑っていない気がするが。
はあ、とまたため息をついて頭をかいた。いつか来るだろうその日のことを思うと、また今からもう憂鬱になってきた。五条さんは何故かやたらと上機嫌だけど。やっぱりなんか腹立つな。
「ね、恵。キスしてもいい?」
また急な。会話の流れの文脈が読めない。思わず怪訝な顔で見つめてしまう。
「すごいジト目」
あはは、と眼の前の無駄に整った綺麗な顔が笑う。
もう聞くなと言っていたのに、やっぱり尋ねられるその言葉には、一体どんな意味があるというのだろうか。
「もーするなら勝手にしろって感じ?でも勝手にしろって言われると四六時中チューしちゃうけど」
そしたら恵の口ふやけちゃうね、と心底楽しそうに言われた。
「……飽きないですよね」
「ん?何が?……アレっ、もしかしてキスのこと?」
そう思い至ると、ハアア〜〜〜!?と騒がしいくらいの大きな声を出す。
「そんなの、飽きるわけないじゃん」
自信満々に言うその言葉に、どんだけキスが好きなんだと呆れる。さすが、突然生徒にキスしてもいいかなんて、意味不明な質問を飛ばしてきただけある。
五条さんが眉間に皺を寄せながら、俺の顔を覗き込んでくる。
「わかんないかなあ、恵」
「何がですか」
「いや〜〜、わかんないか……」
盛大なため息とともに吐き出される言葉には呆れと諦念が込められていた。なんだかバカにされている感じがして、また苛立ちがわいた。
「ん〜〜、うん。で、キスしてもいい?」
この流れでなおも聞いてくるのがこの人だ、と思う。
けれど、イヤだとこちらからは断れない。
「……だから、好きにしてください」
「いいよ、じゃなくていいの?」
「何が違うんですか」
「本当に『好きにして』、いいの?」
被さるようにしてこちらを覗き見る瞳が、ぎらりと剣呑な光を湛えていた。
微かにびく、と自分の身体が強張る。
普段どんなにへらへらしていても、最強と呼ばれるこの人の迫力は、やはり並じゃない。最強の名を冠した猛獣が、時折こうして顔を覗かせると、こんなやり取りですら、どこか脅しめいた圧力を感じる。
それに怯まないよう、はい、と、喉奥から絞るように言葉を放つと、飛び込んで来るようにして唇を奪われる。かちりとはまる位置を探すように、何度も何度も角度を変えて、唇は重なり合う。その口内では、もつれ合うように舌がぬるぬると蠢く。熱がどんどんと上がって、息が苦しくなる。
「…っ、ふ…」
この人と気持ちを確かめ合う前、キスはこんなものじゃなかった。ただ、触れて離れるだけのものだった。
だけど、今のこれは通り過ぎてくれない。捕まえられた舌は、思うままにもてあそばれる。翻弄されている自分は、ただそれを受け入れることしかできない。なぞられ、吸われて、溺れる。息をするのもうまくできない。空気すらこの人に奪われている。
「ん、ぅ……っ」
気持ちがいい。
ふ、と息がもれる。もつれ合うところからぴちゃぴちゃとした水音が、耳に痺れるように響く。それらを防ぐように、ん、と力を込めると、今度は呼吸がよりままならなくなってきた。気持ちいいと苦しいの狭間で、飛びそうだ。
それを察したのか、こちらをひたすらに翻弄していた動きが緩やかになって、ゆっくりと静止した。
「……っは、ぁ、は…」
口の中から五条さんがいなくなる。震える自分の舌と荒い呼気だけがそこにそのまま残っていた。
好きにしていいか、なんて了承を得ておきながら、またこの人は。
だけど、そんな悪態も薄い酸素の前ではぼやけてしまう。距離を置いて離れてしまったこの人の顔が、それでもこちらをまじまじと見つめている。
「……前にさあ、なんでまだキスしてもいい?って聞くのかって言ってたよね」
整わない呼吸にくらくらしていると、親指の腹でするりと頬を撫でられる。くすぐったくて、空気を沢山吸い込みながら身をよじった。五条さんが、また小さく笑う。
「あの頃はさ、断られることが前提だったんだよ。でも今は全部、恵がいいって答えてくれるから」
蒼の双眸が、まるで、愛おしさに満ち満ちているような様子で、こちらを見つめている。
「わざわざ聞きたくなる」
「……馬鹿じゃ、ないですか」
「馬鹿になっちゃうんだよね」
恵のことだと。
ぎゅうと、背中に回された腕の中に閉じ込めるようにして、抱きしめられた。
身体と身体が密着していることには心が揺らされる。けれど、温かい身体の体温を感じることに安心もする。心のバランスが上手くとれない。
まだだ。
まだ、こうして抱き合うことも、キスも、何一つとして慣れていない。
「まだ聞いてもいい?」
耳元で囁かれた言葉は、懇願だった。
……そんなの。
言葉で欲しいと言ってもらうことは、自分だって嬉しいのに。
取るに足らないものじゃなく。この人から手を伸ばしてでも欲しいと思ってもらえるような。自分がこの人にとってそんな存在であれば、隣にいることを許されるだろう。
キスが好きなのはいい。自分も気持ちが良いから。自分としているキスでも、この人が本当に飽きないのならそれでいい。
けど、そんな保証はどこにもない。
だから、必死に受け入れる。
子どものように拙く、ただ与えられるものを零さないようにするだけで必死だとしても。
「……それも、好きにしてください」
目を伏せたままそう言うと、抱きしめられていた腕の力が強くなって、抱き潰されそうになった。
優しく触ると、くすぐったいとばかりに身をよじる。そんなふうに触れるなと言われても、宝物なんだから仕方がない。
恵と正式なお付き合いが始まってからというもの、僕は、本当にかなりこれ以上ないほどにご機嫌だった。
硝子から、あんまり若さのエキスを吸いとるな、手加減しろ、いい加減学べ、と実に様々な叱責を受けるくらいに。あと、浮かれすぎるな、ウザい、そのしまりのない顔をやめろ、とも。
無理。硝子が出来るだけ見ないようにしててよ。
そう一蹴すると、見ない振りが出来る人間ばかりでもないんだぞ、お前伊地知の顔を見てみろ、お前の様子がおかしいから最近常に怯え切ってる、と苦情を言い渡された。は?そんなもん知ったこっちゃない。
ようやく実った僕の恋だ。
信じられないと思うくらいで、だって手に入らないと思っていたずっと欲しかったはずのものが、本当に今、僕の手の中にやってきたんだから。
奇跡的に丸一日休日が被った日、僕の部屋に恵を誘って、ひたすらにベッドでいちゃいちゃしていた。
こういう関係になる前から、恵とはよく考えたらそこそこ距離は近かった気もするけど、『こういう関係』を前提とすると、全ての行為に色がついたように思える。好きと欲のフィルターを通すと、触れ合いの深度が身体の中で増す気がした。
昔罰ゲームでやらせた膝枕なんかも、今お願いしてやってもらえたりすると(まあめったにやってもらえないけど)全然違うふうに感じる。
僕ちょっと面倒臭い案件が重なっててさあ、本当に死にそうなくらいお疲れなんだよねマジでさあ~~、と勢いでゴリ押すと、甘くて優しい恋人は渋々膝を貸してくれた。
あの、一体何が楽しいんですか、これの、という不可解かつ困惑した表情の恵の顔が僕の顔の真上にあって、ふふっと笑う。僕よりうんと小さい恵が僕を見下げているのはなんだか面白い。その感覚は昔とあんまり変わらないけど、嬉しさとか可愛さとか愛しさみたいなものが、胸の中から泉のように溢れてくる。
多分それは、僕が枯らそうとした恋心の芽吹いた先にあるものなんだろう。失くそうとしたものが失くならずに今ここにあって、その結果一番欲しかったもののそばに自分が身を置けていることが、不思議だった。
寝転んだまま腕を伸ばして、人差し指の裏で、やわらかな頬をすりすりとこする。突然触られたことに驚いたのか、恵の口元が、きゅっとゆがんだ。は〜、なんかもう、そんなんでもいちいちかわいい。疲労がピークの中でも、幸せだな、をほわほわに溶けそうな脳みその中で感じていた。
「あ~毎日恵の膝枕で寝たいくらい…」
「枕役は御免被ります」
そんなふうに散々スキンシップをしたあと、キスしてもいい?といういつもの質問に、首を小さく倒すような控えめな返事を返される。もう何十回と聞いているのに、未だに恵は照れがくるらしい。
すっと、長いまつげが下ろされて、無防備な姿の恵が僕の前に晒される。
いつ見ても、喉の奥が鳴る姿。
初めて、この唇が、この身体が欲しいと、欲を自覚したあの日には、結局触れることもできなかった。でも今は、許されている。触れることをちゃんと。
唇を重ねて、味わう。今日は一段と柔らかい気がした。ゆるゆると舌を入れると、素直にひらいていく。
「…っ、ふ……」
いつもかわいいけど、今日はまた特別にかわいい。一生懸命こちらの意図を汲もうとしている動きだと分かる。たどたどしくも会うたびにしている僕とのキスを学んでいることが感じられ、座学10の頭ってこういうとこにも活かせるんだあ……といたく感動した。
抱っこをするようにして抱きしめながら、段々とキスを深めていく。行為自体の気持ち良さに加えて何よりも、自分を受け入れてくれようとしている恵を感じられることがこの上なく嬉しくて、その痺れがまた気持ち良さに還元されていく。
もつれ合う舌が一つの生きものみたいだなと思うと、息が少しずつ上がってくる。
もう離したくない。ずっと恵の中で溺れていたい。
欲望のプールが満たされていくと、更にその先へと熱はどんどんと発展していく。
「……ん」
あー、ちょっと、これは、とぼんやり思ったら、案の定ゆるく勃ち始めている自分のそれを、恵が見つめていた。
え?随分まじまじと見るじゃん…と照れていたら、信じられないことに、恵は不思議そうな顔で、そこに手を伸ばしてきた。
「は?恵??ちょ、え?あの、タンマ……ッ」
制止の声などガン無視の恵に、ただ触れるだけのような優しい手つきで、そろそろと布越しで触られた。
恵が、あの恵が。
自分の性器に触れている。それも、自らの意思で。
余りにささやかな触れ方だったので、直接的な刺激は少ないものの、初めて目にするその絵面による視覚的刺激には大変なものがあった。
その先の展開のことはもちろん頭にはあったものの、不意打ちのことにかなり狼狽えている。いや、年上の大人の威厳とか何もない。ダサすぎ。
慌てて手首をつかんで制止させる。恵を見ると、気の抜けたような、呆けた顔をしている。
「……アンタ、俺で勃つんですね」
「はっ?え、本気????何言ってんの?当たり前なんですけど……」
むしろ何故勃たないと思っていたのか。こちとら君の恋人なんですけど。
「だったらなんでしないんですか?」
かなり混乱している中で、恵は更に爆弾発言をしてきた。
え、セックスしないのかって言った?
あはは、恵の口からそんな言葉が聞けるとはね。いやいや、え?
「恵、やたらめったら直截的な物言いするじゃん」
「ほとんどの恋人同士はセックスするものだと思ってました」
「その喧嘩腰なセリフがもしかして誘い文句なの?」
「……だったら、なんなんですか」
目を合わせては言ってくれないそれは、色気の欠片もない。艶やかさみたいなものとはかけ離れた自暴自棄だけが透けて見えた。
だけど、真っ赤になった耳から、確かな熱も感じられる。
喉奥がぐ、と鳴る音がした。
「…………あのさあ、僕なりに大事にしてんだけど」
「意気地がないだけじゃないんですか」
「煽るね〜」
はは、と笑いながら答えると、不服そうな顔が歪んだ。そんな顔さえもやっぱりかわいいと思えるのは、それを見慣れるほどに小さい頃から見てきたからか、盲目な恋人だからか、そのどちらもか。
いや、さあ。
ぶっちゃけ、したいかしたくないかでは勿論したい。そんなさあ、したくないわけ、ないでしょ。
だけど、何年も押し留めていた感情は、焦らされることには随分と耐性ができていて、キスだけで十二分に楽しめた。
それにだって、まだまだまだまだ、何度唇を触れ合わせても、それははじめからは柔らかくない。慣れることを未だ知らない初心な唇を解かせることは、心の内にある壁をゆっくりと剥がしていくような行為でもあった。
やわらかくうるんだ唇を重ねて食むと、それは素直にゆるりと解かれていく。やがて奥から、おずおずとした舌が僕のもとへと伸ばされる。僕はそれを、いつも喜んで奪いに行く。
ねえ、そんなにも美味しい魂を無防備に差し出しちゃいけないよ、恵。
だけどそんな注意を飛ばすことはもうしない。
唇を塞いで、更には逃げないようにと抑え込んでいる腰から、段々と力が抜けていく。息をするのも下手くそな、ん、とか、ふ、とか、詰めた吐息が耳を侵す。
ああ、あの聡明で清廉な、穢れを知らない目や耳や首筋や身体のすべてが、自分のこの手で暴かれては淫らな性を発露していく。熱い水音が、絡み合う唇から漏れ続ける。
何も知らなかったはずの身体が、僕の手によって拓かれていく。そんな優越感めいたものが、ずっと胸の内にある。僕のせいでそんなふうに、めちゃくちゃになっていくこの子を感じることが、いつもこの上なく幸せだった。
唇の交歓。キスってこんなに楽しいものだったんだ、と、ただ行為の飾りのように思っていたそれを、今は思うままじっくりと味わうように楽しんでいる。
だから、キスだけでいい、とは思わないまでも、キスだけでも僕は今のところは満足だったのだ。
それに、性急に事を進めないのは、もしかしたら僕の傲慢なのかもしれない。
どうせこの目の前の人間は、永久に僕のものなんだから、と。
逃さないし、逃げるわけもないと思っている。
もしも逃げたとしても、地獄の果てまで追いかけよう。
だってもう、逃せるわけがない。
一度手放そうとしたのに、まんまとこの手の中に自ら望んで転がり込んでくれたものを、別のどこかへなんて、やれるわけがない。
天上天下唯我独尊。
僕が僕のものと決めたものは、もう、ずっと一生、僕のものだ。
恵は、そんな僕の心の内を未だ知らない。
「前は、勝手にキスしてきたくせに」
尖った口調でまた過去の罪状を突きつけられる。う、と思うも、いや、レベルが違くない?と突っ込みを入れる。
「無理やりされたいの?」
「は?そんなこと言ってないです」
「ん〜〜、えっちな子に育っちゃったな……」
「おい、止めろ」
なだめるように、唇に小さくキスを落とす。
「ま、急がなくてもさ」
「……」
こっちを睨みつける、誤魔化しやがって、みたいな顔。
「順番に、やってこ」
僕はゆるやかに微笑んだ。
でも、やっぱり恵は全然納得がいっていない様子だ。
うーん、と頭をかく。
でもさあ、だって恵はずっと僕のものでしょ。
もう手の内にあるものを、がっついて食べない自由は、この上ない贅沢なんだから。
「好きだよ、恵」
僕の宝物。
ぎゅっと、力を込めて抱きしめる。自分より随分と薄いその身体は、すっぽりと自分の中に収まった。
すっごくちょうどいい。パーフェクトフィットってこういうことじゃない?もういっそ、ずっとこんなふうに僕の中に閉じ込めておければいいのに。
「どうして、そんな、なんの脈絡もなく……」
「え?好きだから。言って減るもんでもないでしょ。事実なんだし」
はあ、とため息。それから、なんだかもぞもぞとしはじめた恵が、ゆっくりと時間をかけて沈黙を破ってから、囁き声のように言葉を放つ。
「…………それって、……ずっと、ですか」
背中におずおずと回された手が、弱い力で何かを訴えるように握られる。なんだかんだ、抱きしめ返してくれることが少ないので、おお、と思った。
「ずっと?」
「……その、俺のことを、好きか……って」
「えー?ずっとずっと。当たり前じゃん」
「……軽」
怒るどころか軽く引いたような恵の返事に、アレーと頬をかく。
腕の中から見上げる、揺れる瞳を見つめた。
まあ、気持ちというものは、証明しようもない。形として見えるし残る契約書みたいなビジネスライクなものならまだ何かしらの効力もあろうが、そんなものの話をしているわけでもない。まあ恵は特に、過去、意味不明で不誠実な行動を取り続けた僕のことを信用し切れないのだろう。
未来はまだ来ないもので、約束なんてしたところで、なんだって本当の証明には成り得ないかもしれない。だけど、今の気持ちを未来へと結ぶためには、意味のある行為だとも思っている。少なくとも僕は、今までしてきた約束に、自身でもいくつかの願いをのせているから。
それなら。
「ん、じゃあ。左手、貸してね」
ぎゅう、ともう一度抱きしめてから、身体を離して、恵の左手を取る。
薬指の付け根をかるく喰むようにして、口づけをした。
「好きだよ。それこそ、僕が死ぬまで」
今のところの指輪の代わり、と囁く。
と、僕なりに最上級の多分すごく恋人っぽいロマンチックなムードを演出したはずなのに、それに全くそぐわない恵の顔が視界に入ってくる。
「何その、ハァ?って顔」
「……いや、そんな小説かドラマみたいなこと、マジでやるんだなって……」
えー。呆れられてるの?引いてるの?
一応これでも頑張ったつもりなのにさあ、と口を尖らせたけど、目線を下に落としたままの恵は緊張しているようにも見えた。
握ったままだった手の、指と指を絡ませて、ゆるゆるともてあそぶ。どこか強張っていそうな手を解そうと、撫でるように指の腹でさする。恵より大きな僕の手にされるがままにされていた細い指が、だんだんと緩んでいく。
赤ん坊みたいに無防備にして。恵の大事な商売道具なのに。
「ねえ、こんなのが聞けるのは恵だけの特権だよ。自慢しなよ、皆に」
「…………」
「そもそもこんな、人に好きとか言ったの、初めてなんだけど」
「…えっ」
恵が、目を見開くほどにびっくりしてる。えっ?えって何?
「不服?」
「……いや、いいんですか、そんなこと。……その、俺なんかに」
「なんで?いいよ」
いいに決まってる。
聞いてきたのも確かめにきたのも恵なのに、実際に手を伸ばすと逃げようとする。
頭が良いのに馬鹿な子だなあ、と思う。
早くちゃんと、僕の恋心に気づいてほしい。
「恵にしか言わないしやんないよ。まーこんな恥ずかしいこと」
「恥ずかしいなら、言わなきゃいいのに」
「は〜?伝わらないならってわざわざアプローチ変えたんだよ?」
ここまで言っても、なんで、みたいな顔をしている僕の恋人。
「……わかんないかなあ」
わかってほしい。
だけど、なんだかもう、そんな顔さえ愛おしい。
君がわかるまで、それこそもう、死ぬまでずっと、隣にいよう。
「う〜ん、恵は頭がいいから逆にわるいのかも」
「ハア?」
「するよ」
「…は?」
「キス」
「…っ」
急に覗き込んだ翡翠の瞳がほんの少し揺れた。
返事を聞かなくても、顔を傾けたら、恵の綺麗な瞳は瞼の裏に隠された。いいよの合図。
キスで始まった『恋人』なんだから、僕の気持ちの一片でも、どうかキスで伝わるといいなと思った。
初めてキスを許された日、自分が気付いてしまったその時。
一歩手前で立ち止まって、何も動かさないままそのままにしようと思っていたのに、結局その数年後、僕は欲に負けてしまった。
重ねられた唇に、わからないという顔をした君を見て、愚かなことをしたと、僕にとっては本当に珍しく反省をして、後悔をした。
同じ場所に、けして君は歩いてこないと思っていた。
なのに、君は追いかけてきた。
だから覚悟を決めて全てを開示した。拒絶されるならそれまでで、ただそれを受け入れることにした。
それなのに君はまた、伸ばした僕の手を払わなかった。
欲しいものをねだって、いいと許されて。
僕らのかたちがこう収まったことを、僕は未だにこれでいいのかと思うこともある。歪さを取り除くことは多分できない。
でも、傲慢はもう直んないんだよ。
もう手放せない。僕のものだから。
多分、本当はずっと、勝手にそう思っていた。本当に小さな子供の頃から。知らず引いていた枠の中に、ずっと恵だけを入れていた。
僕のもの。宝物。
簡単に許さないで。全部許して。
甘やかすから甘やかして。
手放せないから、ずっとそばにいて。
まるで子どもが要求する駄々のような願いが、溢れては止まらない。
かわいそうにね恵。勝手な僕に手を引かれてこんなとこまで来ちゃって。
だけど、ごめんね。
「好きだよ」
唇を離して、額をくっつける。最中は閉じられていた瞼が開いて、うるんだ瞳がこちらを見つめている。
かわいそうなはずの恵は、紅潮させた頬を緩めて、
「俺も……、です」
と、すごく言いづらそうなのに、戸惑いに揺れながらも幸せが滲んだ声で言った。
ああ、やっぱり、わかってないだろうなあ。
恵がどれだけ僕を満たしてくれているかなんて。
わからせるつもりでいたけど、もしかしたら一生わからないかもしれない。
額を離して、恵、と呼びかける。
「いつか、エッチさせてね」
そんな堂々と、と恵は複雑そうな顔をする。
「それは……だから、してもいいって言ってるじゃないですか」
「アレ準備とか大変なんだよ。僕っていうより、恵の」
「…………」
「何その沈黙?あっ……逆?逆がよかった?」
いや〜確かに話し合いも何もしてないけど、でもちょっと簡単には承服しかねるな……と考え込んでいたら、
「準備のアレコレなんて知ってます、……それぐらい」
と真っ赤に染まった頬を歪めながら、恵が言った。
思わずぱちぱちと瞬きをしてしまう。
あ~~??
いいんだろうか、ほんと。
この子のこんなかわいい顔の、一番目もそれ以降の全てもずっと、僕だけが見れちゃって。いや、他にそんな奴がいたとしてその存在を許せるわけもないけど。
「うんうん、それもさあ、またゆっくりやってこ♡」
「……ムカつく」
そっぽを向いた恵の肩を寄せると、離せとばかりに身をよじらせた。
君の甘い赦しも、じゃれるような反抗も。
あんまりに全部が愛おしくて。
キスの先が待ち遠しいような、まだまだ来なくったっていいような。思わず笑みが浮かぶくらい。世界一贅沢な人間だなと思ったりした。
おわり