冬の灯火
二度と来たくないと思っていた場所に来てしまった。仕方がない、そうはわかっていてもオリクスの憂いた心は晴れない。
大きな黒塗りの門、らんらんとした灯火に目を細めながら、オリクスは門をたたく。すると、横から衛兵がこちらを覗き、オリクスを確認してから開けるように指示を出す。個人の家にこれほどの厳重警備とは、とオリクスはかわいた笑みを浮かべた。
「クソジジイ」
オリクスは吐き捨てるように呟いて、門をくぐった。
***
豪華な部屋だと思う。王宮に通い慣れたオリクスですらそう思うのだから、かなりのものだ。ざっと見た限りでも高くて繊細な調度品ばかりがそろえられている。屋敷といい、部屋といい、貴族のそれとまったく見劣りはしない。
部屋の奥にいる初老の男をオリクスは見やった。部屋が暗くて男の細かい表情は分からない。星が煌めくこの国――隣国である帝国領ではお目にかかれないほど、王国では星が見える――でも、今日は曇っていて星が見えない。男はオリクスを確認して、口を開く。
「久しぶりだな、オリクス」
「俺の名前、気安く呼ぶんじゃねえっつの」
男の言葉にオリクスは低く威圧的な言い方をする。普段の彼からはとても考えられないものだ。オリクスは普段、間延びするような言い方をわざと行っているし、物腰も柔らかいとよく言われる。もしもこの場に普段の彼を知っている人物がいれば、ぞっとして身をすくめただろう。
「なんだ、父親に向かってその言い方は。誰がその名前を付けてやったと思っている」
「んなことどうでもいいんだよ。俺は、許可を貰いに来ただけだ」
オリクスは憮然(ぶぜん)とした態度を崩さず、部屋に置いてあった――これまた高価そうな――黒い革のソファにどしりと腰をかけた。
オリクスの目の前にいる男は、彼の義理の父親だ。国防軍幹部のひとりで、密輸されたオリクスを保護し、スパイとして教育した。落ちていた子供がいたので拾い上げ、自分の手足としたわけだ。
「ちゃんと事前に申請しただろ。俺はそれを受け取りに来ただけだ。お前と会話するためじゃない」
低い声にぐっと抑えられた抑揚。彼の苛立ちがぴりぴりと肌に伝わってくる。
オリクスは、自身の父親にある書類の受理を依頼した。その書類とは、オリクスとの親子の縁を切るというものである。
「せっかちだな、お前は」
オリクスの父親はそう言って、オリクスが事前に準備していた書類を、秘書づてにオリクスへ渡した。オリクスは、漏れや間違いがないか念入りに確認したあと
「あばよ」
そう言って立ち上がり、そそくさと部屋を出ていく。
「北領の容姿である、白い肌、赤髪に緑の目。そして、親譲りである癖のある髪。あいつは本当に母親に似ている」
オリクスがいなくなった部屋で、男はぼそりとつぶやいた。
***
「オーリークースー」
トレスティアが呼びかける。
「ん……なぁに。<ruby><rb>俺の奥さん</rb><rp>(</rp><rt>マイ・レディ</rt><rp>)</rp></ruby>」
オリクスが答えると、トレスティアはえへへと笑った。そして、オリクスの膝の上にちょうど彼と向かい合わせになるように乗った。
「どうしたの?」
「もう。どうしたのはオリクスだもん! 今日はなんだか、ぼうっとしてるよ?」
そうかな、とオリクスは曖昧にごまかそうとしたが通じなかったらしい。トレスティアは、彼女に似合わない難しい顔をした。
「ごまかしちゃダメ! オリクス、何か隠しているでしょう?」
オリクスはため息をついて苦笑した。
「ごめんね。怒らないで?」
「むむー」
トレスティアが頬をふくらませてリスのような顔をしているので、オリクスはその頬をつついてみた。
「ちゃんと話すから。許して?」
「む……許すの」
心配そうな顔をして、トレスティアはオリクスにぎゅうっと抱きついた。
***
「今日ね、父親と縁を切ってきたんだよ」
「オリクスさんのお父さんと?」
「うん。俺の実父じゃなくて、義父ね。俺を拾った人」
「うーん……?」
トレスティアにはよくわからないかもしれない、オリクスはそう感じた。
オリクスはあの男に拾われる前も、拾われた後もひどい扱いを受けた。義理の家族に大切に育てられたトレスティアとは違う。オリクスにとって生母も義父も大差はない。
「まあとにかく、嫌なやつに会ったせいで、気分悪いだけだから。気にしないで?」
オリクスがそう言うと、トレスティアは悲しそうな顔をしてうつむいた。そして、また顔を上げるとぎゅうっとオリクスの首元に抱きついた。どうしたの、とオリクスが声をかけて背中をさすると、トレスティアはうううとうなった。
「ほんとうにそれだけ?」
トレスティアにじっと見つめられて、オリクスは困惑する。
「……まったく、君は何でもお見通しだね」
「えへん、だってリリーはオリクスの妻だよ。わかるもん」
胸を張ってニッコリと笑うトレスティアが愛おしくて、オリクスはトレスティアにキスをした。
***
父親に会って、オリクスが考えたこと。それは自分が何者なのかということだ。他人にはそうでなくても、彼にとっては重大な問題であった。
自分は何者なのだろう。母親には売られ、自分を受け入れてくれた人を裏切り、スパイとして生きてきた。王国に移住してからは、彼は抜け殻のように生きていた。それが変わったのは第一騎士団(アリエス)に入って自分を受け入れてくれる人に出会ってからだ。
それでもよく、わからない。自分が何者なのか。親にすら捨てられてしまう自分は何者なのだろうか。
「馬鹿なこと考えてるでしょう、俺。笑っていいんだよ?」
「笑わないよ。それにね、オリクスはオリクスだよ」
トレスティアは下からオリクスの顔を見上げてそう言う。
「リリーは難しいことがよくわからないけれど、オリクスはオリクスなの。リリーのかっこよくて、強くて、優しい旦那様だよ」
朗らかに笑うトレスティアの顔をオリクスはじっと見つめる。苦笑したように顔を歪めたあと、困ったように笑って、トレスティアをぎゅうっと抱きしめた。
「君がいてくれて良かった。俺は、君がいないとやっぱりダメみたいだ」
オリクスはトレスティアの顔を上に向かせてキスをする。一度離れてから、二度三度とくりかえした。トレスティアはずっとやさしく微笑んでいた。オリクスはトレスティアを抱きしめて、満足そうな安心したような笑顔を浮かべた。
オリクスにとって、トレスティアは暗い道を照らしてくれる光だ。初めはまぶしすぎて目を細めてそらしてしまったけれど、今は違う。彼女の持つ暖かで柔らかい光に気がついて、自然と彼女を求めてしまう。彼女を手放したくないと愛おしく感じる。
「誰よりも愛しているよ、<ruby><rb>俺の奥さん</rb><rp>(</rp><rt>マイ・レディ</rt><rp>)</rp></ruby>」
オリクスはずっと冬の道を歩いていた。誰もいない真っ暗で孤独な道。過ぎ去っていく灯(あかり)は自分を見ても、助けてはくれなかった。けれど、オリクスは今確かに雪がしんしんと積もる冬の道で、足元を照らし温める、光のような存在を見つけることができたのだ。
***蛇足***
「えへへ、あのね、オリクス」
「なあに?」
「オリクスに伝えたいことがあるの」
突然なんだろう、とオリクスは首をかしげ、トレスティアを抱きしめていた腕を少しゆるめた。トレスティアはぐっとオリクスに自身の顔を近づける。
「リリーね、オリクスに俺の奥さん<ruby><rb>俺の奥さん</rb><rp>(</rp><rt>マイ・レディ</rt><rp>)</rp></ruby>って呼ばれるの、とっても好きなの!」
オリクスが理由を尋ねると、トレスティアは少し頬を赤らめた。
「”ティア”っていう愛称の人はたくさんいるし、”リリー”や”トレスティア”も他にオリクスがそう呼ぶ人がいるかもしれないの。同じ人の名前がいないって言い切れないもん。でもね、オリクスが"マイ・レディ"って呼ぶのはリリーだけなんだよ。それにね、リリーはオリクスと結婚してるんだ! って実感できるの」
えへへと幸せそうに笑うとレスティアの言葉に、オリクスは思わず噴き出しそうになったが、なんとかこらえた。そう言われてしまえば”エクラティア”も”ハーティア”も愛称が”ティア”である可能性はあるし、実際にそう呼ばれていてもおかしくはない。現に、初めてオリクス、トレスティア、エクラティアの三人で過ごしたとき、”ティア”という愛称を聞いたエクラティアはびくりとした。
「ふうん。ねぇ、ティアも俺のことダーリンって呼んでよ」
オリクスはトレスティアの髪をもてあそびながら、いたずらっぽく呟いた。その言葉を聞いたとレスティアの頬は先ほどよりも真っ赤になった。そして、トレスティアはぶんぶんと首を横に振った。
どうして嫌がるの、とオリクスが尋ねると、トレスティアは口ごもりながらも小さい声で答えた。
「それは……リリーが恥ずかしいから、ダメなの」
「じゃあさ、ティアが俺のことダーリンって呼んだら、いっぱいキスしてあげる」
「ううう」
赤い顔でとても困っているとレスティアをオリクスは愛おしそうに見つめた。似たようなやりとりを数度繰り返したあと、ふたりは眠りについた。