林道兄弟「月面世界」「人類讃歌」の現行未通過×
次ページから本文。
俺の兄、林道文哉はプログラマーをしている。昔から機械弄りが好きで、多分将来はそれに近しい職業に着くのだろうと思っていたら、本当にそうなった。嫌なことは出来ない、なるべくなら好きなことを仕事にしたいというタイプの人だった。
俺はというと、幼少期に病気で入院した際に看護師にとても世話になったからという理由で、看護師を目指したという酷く単純な理由だ。苦しいことがあっても、誰かの為に優しくなれることに酷く憧れた。そうして今は念願の看護師をしているわけだが、果たして俺は、自分が思い描いた人間になれているだろうか。
お互いに成人して、何となく距離が生まれつつあった頃(実際は俺が一方的に反抗していただけなのだが)、ふと兄が帰って来なくなった。スマホのメッセージも、電話も通じない。職場にも友人にも、一切何の連絡も入っておらず、所謂行方不明という状態になってしまったのだ。
居場所を探している時に、兄貴の友人がぽつりと零していたことがある。
「文哉のやつ、月に行くとか何とか言ってたよ?多分ただの冗談だろうけど」
月、という言葉に、俺は少しだけ覚えがある。あの不可思議な体験の中で、何処かで、目にしていた筈だ。
俺は記憶を頼りに、東京タワーに来てみた。寂れたそこはかつての華やかさは無く、浮浪者達の住まいとなっている。あの時、過去で見た東京タワーは、これよりもっとずっと綺麗で、人々に親しまれているのがわかった。それがこんなにも変わり果ててしまうのだから、年月といのは残酷なものだ。
俺はそんな意味の無いことを考えながら、東京タワーの周辺をぐるりと歩いてみた。けれど、兄貴の手掛かりになりそうなものは何も無い。
「やっぱり、何かの間違いか…」
妙に嫌な胸騒ぎはするのに、それが何なのかわからない。別れる前に、俺は兄貴に何を言ったんだったか。
*
『お兄ちゃん、助けて』
あの異常な状況で自分は、久方ぶりに兄を「お兄ちゃん」と呼んだ。怖くて、目の前の現実を受け止めたくなくて、ただそこから助けて欲しくて、思わず口走っていた。
生意気に「兄貴」と呼びだすまでは、そんな風に呼んでいたことをぼんやりと思い出す。いつも彼の後ろを付いて回って、何でも真似したし、何でも頼っていたあの頃。
いつから、いつからそんな自分をやめたいと思ったのだったか。心優しく、けれど事なかれ主義で優柔不断な兄に、情けないと反抗しだしたのはいつからだったか。
本当は彼の優しさにも穏やかさにも、自分が一番救われていたというのに、それを認めるのがただただ悔しくて、気恥ずかしくて、出来なかった。
「何処に、いるんだよ」
殆ど輝きが減ってしまった星空を見上げて、俺はぽつりと呟いた。もし本当に月にいるんだとしたら、早く帰って来て欲しい。いつものように、何でもないような顔をして「ただいま」と言って欲しい。
…話したいことが、沢山あるんだ。