焔に消え逝く神の欠片と泡沫の夢・前編 五月晴れが続く穏やかな初夏の時節。
爽やかな風が吹き抜け、抜けるような青空が広がっているというのに、それと見合わぬ相談事が、主の鈴花と補佐の霧乃の元に舞い込んできた。
御手杵の調子が悪いらしい。
いつもはのんびりしているが、元気だけはある彼なのにどういうことだと思ったが、起きるのは元々遅かったとはいえ、五月に入ると更に遅くなり、一日中ずっとぼーっとしている。おまけに大食漢な彼がおかわりせずにやっと完食するのがほとんど。
ここ数日毎晩うなされていることが多くなったなどというのが続き、さすがに心配した三名槍の二槍とよくつるむ脇差組、同田貫が時間はずれてはいれど、霧乃や鈴花の元に相談しに来たのだ。
無論、二人も御手杵の変化も既に気づいており、これはただ事ではないと感じていた。実際に御手杵を呼んで話を聞こうとするも、その時最後に相談をしに来た脇差組によると、既に部屋で寝込んでいるようだ。この分では夕餉の時間になっても起きているかわからない。彼自身に話を聞くのが一番だが難しいだろう。
では手の打ちようがないかと言えばそうではない。彼らの相談事に一つ共通点があった。当たり前だが、彼らは皆御手杵にどうかしたのか尋ねる。その時、彼はこう言うのだ。
『最近変な夢ばかり見るんだ。俺はどこかの蔵の中にいて、火が辺り一面燃えてて、変な甲高い音が鳴って…その後大砲みたいな音が聞こえるんだ。で、俺にも火が燃え移るっていうところで覚めて…これが寝るたびに同じ夢なんだよなぁ…やんなっちまうな』
顔色はどこか青白く、表情も笑ってはいるものの陰りがあり、いつものほほんとした彼とはかけ離れている姿に、こうして相談に来る者が続くのも無理はない。
霧乃は話を聞き終えると、相談してきた者達一様にこちらで何とかするから普段通りにしてほしいと話していた。今は特に大きな任務もなく、御手杵が出陣するようなことはないが、いつ彼の力を借りる日が来てもおかしくはない。現時点で槍は天下三名槍しかいない。刀装を無視して直接敵の本体にダメージを与える彼らは戦力的に貴重で、早急な対応が必要なのは明白だった。
脇差組が帰り、二人だけになった執務室で御手杵の回復をどうするか話し込む。相談事の共通点から、明らかに御手杵の不調の原因は夢だ。その夢をどうにかする必要があるのだが、方法がないわけではない。
精神療法の一種で、トラウマや心に傷を負っている患者に対しカウンセラーの術師が幽体となり、患者の睡眠時に夢に入り込んで原因を探って治療するという方法がある。夢を見る時ほど、己の本性を曝け出し、普段なら深いところに根付く悩みや問題が浮かび上がることはない。だが、問題なのはこれが人相手ならいいのだが、御手杵は付喪神だ。 神と妖の狭間のモノの夢―もとい、精神世界の構造が人と同じ保証はない。下手に入り込んだら逆に引きずり込まれて、ミイラ取りがミイラになる可能性もある。されど、現時点で御手杵の不調を解決する手段で効果的なのがこれしかない以上、術師であり主である鈴花が一人決行を余儀なくされた。
ひとまず鈴花が一際よく眠れる成分を混ぜた薬草茶を薬研と一緒に煎じて御手杵に飲ませ、その夜に彼の夢に入り込むことに決めた。霧乃は術師でないためサポートが出来ないし、他の刀剣らに余計な心配をかけさせたくないが為に、鈴花一人に全て委ねるのは心苦しかったが信じるしかない。
かくしてその夜、鈴花は単身御手杵の夢に入り込むことになったのだ。
ほの暗く、月明かりだけが差し込む部屋で、自室には夢に入り込む為に紙に書かれた大きな陣の中に座っていた。風呂は既に入っていたが寝間着ではなく、普段着と化している巫女服のままだった。陣の中央には薬草茶を飲ませるついで、薬研にこっそり切り取ってもらった御手杵の髪が数本置かれている。
「上手くいくといいのですが…」
前代未聞の付喪神の夢の中に入るなど、審神者だとか以前に術師としても初めてではなかろうか。術師として名門―あまりこの言い方はしたくないのだけれど―である一宮家であれど、この手のケースは聞いたことがない。恐らく西洋の方に長けている母ですらそうだろうし、逆に興味津々に尋ねられそうだ。少々不安が残るものの、早急に御手杵の不調の原因を探らねばならない。大きく深呼吸をし、気を集中させ、心を落ち着かせる。
『…縁辿り 夢現の境を超え 獏の導き 微睡む先の彼その夢』
呪文と共に淡く明滅する陣は、術の成功を意味する。そのまますっと目を閉じれば、身体がふわっと浮く感覚に陥る。この感覚が起きれば、自分が幽体になったという証だ。
周りはどこを見渡しても真っ暗闇。そんな中、自分がいるところから微かな光の帯が延々と続いている。これが御手杵の髪に残っている気の残滓。これを辿れば、自ずと御手杵の夢―精神世界に辿り着くはずだ。
まるで海を泳ぐかの如く、残滓を辿っていく。だが光は弱々しく、気を抜くと見失ってしまいそうだ。普通ならここまで弱いものではないのだが、御手杵がそこまで追い込まれているのかと一抹の不安が過る。
目を凝らし、慎重に進んでいく中、ふと遠く薄っすらと明かりが見えた。残滓はあの明かりへ続いていく。あれが御手杵の夢への入口だ。
徐々に近づいていくと、明かりはだんだんはっきりとしていく。ただ、明かりといえど日の光や、人工的な明かりとは違う。オレンジかかった、夕焼けのようだと思ったが、それともまた違う。確か炎の夢とは言っていたがまさか…と思考を巡らし、もうすぐで入口に着くというところで、突然誰かにぐいと腕を掴まれたかと思いきや、まるで海の底にでも引きずり込まれるが如く引っ張られた。
あまりのことに驚いて振り払う余裕もなく、どさりという音と共に鈍い痛みが全身を襲う。どこかへ落とされたようだ。
目を開ければ木の床が目に入るも、何事かと思う間もなく、こんどは身を焼くような熱風が吹き付ける。呼吸しただけで肺が焼けそうな熱さ。すぐさま熱風から身を守るために、氷の霧を纏う形の結界を張ればすいぶんマシになったが、それでも気を抜くと炎に包まれてしまいそうになる。
改めて周りを見渡すと、そこは大きな倉の中だった。自分が倒れていたのはどうやら入口だが、扉はすでに火に包まれ、様々な所蔵品が燃えており、あるものは灰に、炭に、鉄塊になろうとしていた。
「ここは……」
「ううっ……」
燃える音に交じり、ぐぐもった呻き声が奥から聞こえてきた。見ると奥に人影があり、どうやら壁にもたれかけて座り込んでいる。ひとまず、火の手に注意しながら慎重に人影の下へと近づいていく。進めば進むほど熱気がひどくなり、結界を張っているのに、歩くそばから氷が溶けて、ぽたぽたと水滴が床に落ちていく。
何故こんな夢を御手杵が見ているか、既に大体察していた。
彼は昭和20年、西暦1945年の太平洋戦争末期の5月25日、東京に在った。そこで空襲に遭い、保管されていた蔵は焼夷弾が直撃。火と熱でかの天下三名槍が一本は鉄塊へと変わり果て、焼失という形になってしまった。
だが、その後彼を復活させたいという人々の力で、複製という形で彼は作られた。そして御手杵という名を冠したことで、新しい槍でありながら、様々な逸話や歴史がそのまま彼に宿るような形で語られ、本当は自身は焼かれていないのに、失った日が近いことで無意識にこうして焼かれる夢を見る。それはかの複製に、本当に‘御手杵’の付喪神としての御霊が宿ったことに他ならない。現物が存在しない刀剣男士もいるが、ここまで稀有な存在も彼ぐらいだろう。だからこそ、今奥に居るだろう誰かは恐らく……
「誰か…誰かいるのか?」
彼が声をかけてくる。歩く度にギシギシと床が軋む音を聞いて気づいたのだろう。そのまま彼の前に立って見下ろす。姿を見て全てわかっていた。私は声をかける。
「…あなたは?」
「俺は…天下三名槍が一本、御手杵…松平家の宝……」
彼はそう答えた。私の視線の先に、現にいる御手杵にそっくりな男が居た。そっくり、という言い方は彼の外見が現の方と違っていた。長い髪を赤い結い紐で上げていて、和装をしている。如何にも武家の者の恰好だった。そして何よりその風格。『東に松平の御手杵あり』と言われるだけの威厳があった。
だが、今その表情は苦悶に満ちている。彼の身は炎に身を焼かれつつあるのだから。
「なあ…どうして俺はお前が見えるのか?陰陽師か何かか??」
彼は不思議そうに尋ねる。それもそうだ、本来ならただの槍なのだ。本体は彼のすぐ真上に立てかけられていたのだが、もう柄に炎が燃え移り、刀身にも火が移りそうだ。その前にこの熱波で鉄が熔けてしまうだろうが…本体がそんな状態のせいか、彼は服や髪が小さく燃えていた。
「一先ず…付喪神の類が見える者であると」
「それならば、なにかの術が使える者だろう?なんでもいい、助けてくれ。早くこの火を消してくれ。俺が燃える、熔ける、ただの鉄になる……松平の宝である俺が、こんなところで失くなるなんて……!!」
悲痛な男の叫びが蔵中に響く。それは過去に起きた出来事の夢であれ、彼にとっては今起きていること。これが御手杵を苛ましている原因。ならば、今すぐにでも火を消すべく術を放つところなのだが、つい一歩踏みとどまる。
早くこの火を消せば全て丸く収まるというのに、術師としてなのか、それとも自分自身の勘なのか、ここで彼を助けてはいけないと訴えかけてくる。助けてしまえば、何かが起きるような気がする。だから、本当はこれはこのまま何もしないのが良い。それが正しい選択だと思えてならないのだが、彼の縋るような声は無視できるようなものではなかった。
「嫌だ、熔けて失くなるなんて嫌だ……助けてくれ!!」
男は必死にこちらに手を伸ばす。伸ばした腕には既に火が移っており、早く消さなければ腕が燃えて熔け落ちてしまうだろう。術師として気丈であらなければならないが、心がぎゅっと締め付けられる。大事な仲間と同じ顔の男が必死に助けを求めているのだ。しかし、未だに頭の片隅で、助けてはいけないという心の声はやまない。
早くと急かす悲鳴にも似た懇願の声、徐々に押し迫る熱波に、私はとうとう心を決めた。
「……わかりました」
右手を差し出し、力を集中させる。そのまま一気に解放すれば、巻き起こるような冷気の風が蔵中に吹き荒れた。吸えば身体が内側から凍るような風は熱波も炎も消し飛ばし、風が止めばすっかり火の手は消えていた。
「少々手荒で申し訳ありませんでしたが…大丈夫ですか?」
私は彼の前にしゃがんで声をかけるが、彼はぽかんと口を開けて呆然としていた。少し派手に術を使ってしまったが、手っ取り早く火を消すのがこれぐらいしか思いつかなかった。
「あ、ああ…少し痛むが、何ともない…礼を言おう。まことにかたじけない」
彼は感謝の意を述べると、座礼だったが長く頭を下げていた。そして、ゆっくりと顔を上げる。姿はそっくりなのに、やはり現の彼とは似ても似つかないのはその身に重ねた年月のせいだろうか。同じ‘御手杵’だというのに、こうも違うのかと少し驚いていた。
「しかし、よく見れば…ああ、そなたは我が主だったか。我を失っていて、よくわからなかった。重ね重ねすまない」
「いえ、気にしておりませんが…その、私をご存じで?」
「俺も‘御手杵’だからな。俺は焼ける前の、言わば過去そのものと言ってもいい。 俺がいるから、現にいる今の俺は昔のことを覚えている。だから、今の俺と昔の俺が現の記憶を共に有していても問題はないだろう?」
「…表の人格と裏の人格、ですか?」
「そんな捉え方でいい。ともかく、現の俺が見たことは俺もわかる。と言っても朧気なことが多いが…少なくとも主のことはな」
彼の話の大体は理解したが、やはり言動や雰囲気にどこか違和感を覚える。それが普段の御手杵がどこかのんびりとしているからか。御手杵の過去、即ち焼失しなければ存在するはずの本来の彼は天下三名槍が一本として、また有名な武家の家宝として、とても堂々とした態度だ。そして何より礼儀もしっかりしている。霧乃曰く、地味だけどいい奴と評され、周りからも信頼はされているが、もしこの過去の彼のまま顕現したとしたら、どうだっただろうか。気さくな雰囲気の今の彼と違い、恐らく畏敬を示される形になっただろうか。
「どうした?何かおかしなところでもあったか??」
「す、すみません…その、今の御手杵さんと言葉や雰囲気がとても違っていたもので…少し戸惑っておりました。申し訳ありません」
「ああ、そんなことか。確かに昔の俺と言われても今の俺とはかけ離れていると言っても過言ではないからな。ゆっくりと慣れていけばいい」
さらりと言った彼の言葉に、私はふと引っかかるものを感じた。そのまま私が頭の中であれこれ思い巡るも、私の顔が硬いものになっていたのだろう、彼は不思議そうな顔をしてこちらを覗き込んだ。
「どうした?主もこんなところまで来たんだ、どこか身体に無理でもしたのか??」
「身体のことなら大丈夫です、心配には及びません。その……」
私はこの引っ掛かりをどうすべきか一瞬迷ったが、この際だと私は意を決した。
「……慣れるとはどういうことですか?」
単刀直入に私は尋ねた。彼はきょとんとした顔でこちらを見ている。
「変なことを聞く主だ、さっきも言った通り今の俺と昔の俺とは―」
「あなたは過去の記憶そのものであり、裏の人格のようなものだと言いました。けれど、まるであなたが私とこれから何度でも会うような言い方です…何を企んでらっしゃいますか?」
その時彼がふっと真顔になったと思いきや、にやりと笑った。いや、嘲笑ったといった方が良いだろう。はははっ…と彼は高く笑った。先ほどの武士としての毅然さはどこへやら、今の彼には傲慢さが滲み出ていた。
「なるほど…さすが我が主。なかなかに聡い。若い娘だというのに感服した。敬意を表し、主の問いに答えよう。俺は普段意識の海の奥底に眠っている。時々微睡んでいるような形で起きたりもするがな。だが、俺が焼けた日が近づいてくると、俺はだんだん意識の水面に浮かび上がるのさ。それは今の俺が無意識にあの日を恐れているのか、それとも昔の俺という存在が失われた日だからこそなのかはよくわからない」
「…要はあなたが失われた日が近づくと、あなたという意識がはっきりと目覚める…ということですか?」
「大体そうだ。去年は顕現されて日が浅かったから俺もよくわからなかったが、今年は違う。人の身に慣れ、力も増した。それは今の俺だけではなく、俺自身もだ。俺はもういつでも今の俺と成り代わろうと思えばなれる。どうしてか?主、お前のおかげだよ」
にやにやと嫌な笑みを浮かべながら、彼は話を続ける。
「俺を縛っていたのはあの炎だ。何度も何度も炎に身を焼かれ、熔かされる。御手杵の付喪神として慣れた今の俺は、より俺と同調しやすくなり、あの灼熱地獄を夢で追体験する形になった。現の俺の調子が悪かったのはそれだ。しかし、それも一時的なものだったんだよ。あの日が過ぎれば、俺はまた鳴りを潜めるからな」
彼の言葉で、先ほど炎を消す時に自分の勘が騒いだ理由がわかった。あの炎は昔の彼の意識を留める封印で、無暗に消してよいものではなかった。自分は目の前で起きている惨状に流され、とんでもないことをしたのだと自覚した。
今更ながら去年のこの時期、私は御手杵に変な夢を見るという相談を受けたのを思い出す。その時の夢も炎に焼かれるというもので、一先ず話を終始聞き、気分が落ち着く薬草茶を飲ませ、彼の張りつめた良くない気を和らげるお呪いを数日繰り返し、やがて件の日を過ぎてからというもの彼はいつもの元気を取り戻したのだ。
「何かを今更思い出したような顔をしているな。一つ言っておくが、主を此処に引きずり込んだのは俺だ。術師の主ならあの炎をどうにかしてくれると思ったからな…だが、さすがにわざわざやってきたのには驚いたが」
「…言い訳と捉えても仕方がありませんが、状況が状況でした。今は平穏ですが、何時状況が一変するかわからない。明日突然総力戦を言い渡されるかもしれない。それに御手杵さんは貴重な戦力です。いろいろと危険はありましたが承知の上でした」
突然彼に肩を掴まれたかと思うと、空いている手が私の顔の輪郭をなぞりながら、まじまじとこちらを見つめた。
「そして何より周りの連中が心配して士気が下がるのを懸念してだろう?……くくっ、お人好しにも程がある。だが、それが愛おしい。家臣を思う主のそれはむしろ好ましい方だ」
「御手杵さんと私の間柄は主従もありますが、それ以前に私の仲間、大事な一兵です。この本丸内で、例え代わりがあると言えど、誰が欠けてもいけないのです。第一、苦しんでいる仲間がいるというのに、どうして放っておけましょう」
「なら、主は俺が解き放たれたことに後悔しないのか?俺が好き勝手する事で現がまたややこしくなるかもしれないのだぞ??」
「それもまた私の行為で招いた事態なら、私の手でどうにかするだけです。責任は主である私にあります」
そう答えながら私は輪郭を撫でていた彼の手を外し、睨み返した。すると、彼はふふっ…と小さく笑う。まるで愚かだと言わんばかりだ。
確かに彼の話を聞いて、私は余計なことをしたという自覚はある。しかし、それを後悔するなんてとんでもないことだ。もし、あのまま彼を助けずにいたならば、現での御手杵はより弱っていただろう。正直、あの日を迎えていたらどうなっていたかわからない。私は私なりに最善を選択した。向こうの意図がどうあれだ。
「主よ、お前は術師としての才もだが、なかなかに頭もキレる。顔もいい、品も教養もある、臣下を気遣う優しさもだが、何より愚かなほどその務めを果たそうとする健気さ…気に入った。なあ、我が主。俺の嫁になってはくれないか?」
「…………はあ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。一体、こんな場所で彼は何を言っているのだろうか。
「嫁って…あなた、正気ですか?」
「正気も何も俺は本気で言っている。俺は主をとても気に入ったんだ。なんで、今の俺はこんないい娘をさっさと嫁にしないのだ」
何だか頭がクラクラしてきた。先ほどまで炎に焼かれながら必死で助けを求めていたくせに、今度は嫁になれと。いい加減にしてほしい。前言を撤回するような形だが、やはり助けなければよかったと彼の言う通りお人好しな自分に泣けてくる。
「馬鹿なことを言わないでください!あなたが解き放たれてしまった以上、今の御手杵さんに支障が出ないように―」
「…仕方がないな」
私が話している最中に彼はぽつりと呟くと、徐に彼は自分の長い髪を一本引き抜き、私の右手を掴んで小指に髪を結い付けようとする。唖然とすると同時に、彼の行為の意味に気づき、さっと血の気が引いた。
「や…やめてください!」
空いている左手で彼の手を止めようとするが、私の力ではびくともしない。結ぶ邪魔をしようとがむしゃらに手を絡めたりするのだが、あっという間に私の右の小指に髪が結われてしまった。
「あ……」
「本来なら赤い糸があればいいのだが、手元にないものでな。しかし、結納の証としては十分なものだろう」
「身勝手なことを……!」
あまりにも自分勝手な言い方に小指に結ばれた髪を取ろうとしたが、彼の大きな手が私の手首を掴んだ。
「無駄な足掻きはやめろ。これはもう絶対に取れない。さあ、もう目が覚める時間だぞ。また、夜にでも……な」
「待っ―」
がくん、と落下するような感覚に心臓が跳ね上がり、驚いて目を開けるとそこには陣が視界に入った。チュンチュン…と雀の鳴き声と、夜明けの光が差し込みつつある自室に、私が現へと戻ってきたのだと知る。ふと、時計を見れば6時を指している。そろそろ皆起きる頃合いだ。大きく息をつき、一先ず心を落ち着かせる。
そこへぱたぱたと誰かが廊下を歩く音の後、自室の障子に見慣れたシルエットが現れた。
「鈴花、起きてる?」
「霧乃?ええ、起きています」
霧乃が障子を開けると、まだ寝間着のままだった。起きてすぐに様子を見に来たのだろう、どこか心配そうだった。
「杵、どうだった?」
「…恐らく療法は成功だと思います。ただ、こればかりは様子を見ないと…」
「そっか、まあ仕方ないか…とりあえず、朝礼どうする?ほぼ寝てないのと一緒だから、パスして寝ててもいいけど」
「いえ、御手杵さんの様子を見たいのと、皆を心配させるのもいけませんから…朝礼はちゃんと出ます」
「あんたも真面目ねぇ。なら、さっさと支度しちゃいなよ」
霧乃は呆れ気味だったが、私がこういう性分なのは十分知っている。いつもの口調でそれだけ言うと、障子を閉めて立ち去っていった。
とりあえず陣を片付け顔だけでも洗おうかと思って立ち上がろうとした時、右手に目が行った。一本の髪が小指に結われている。私は目を疑った。咄嗟に外そうとするも、髪の毛の感触がない。
彼がやったのは‘運命の赤い糸’。由来等は様々あれど、これは彼が夢で言ったように結納の証として結び付けられたもの。そして赤い紐がなかったから己の髪で…それも相手は付喪神。もうこれは立派な呪術だ。私の手ではどうにもならず、結いつけた本人に外してもらうしか手立てがない。
「……どうにかしないといけませんね」
彼の言葉が正しいなら、夜に話を付けなければいけない。このままでは私は本当に彼の嫁になってしまう。私はぎゅっと穿いている緋袴を握りしめる。
障子を開ければ私の張りつめた重苦しい気持ちとは裏腹に、5月の朝は快晴でとても爽やかで清々しいものだった。
いつもの霧乃主導のゆるい朝礼が終われば、朝餉を食べ、その後遠征や内番、非番の者は適当に過ごす形になる。
今のところ大きな任務などはない為、出陣などもない。
御手杵は朝礼には出ていた。若干眠そうだったのは、眠りが浅かったのだろう。昨夜があんな風であれば当然かもしれないが。午前中、私が自室で事務処理をしていると、彼は訪ねて来た。
「鈴花の主、その他の連中から聞いたんだが…俺の為にいろいろしてくれたんだな。すまなかった、礼を言う」
彼はまず最初に頭を下げた。顔色はまだ全快とは言い難いが、それでも随分と良くなったものだ。
「いえ、大したことしておりません。身体の調子はどうですか?」
「まだ少し身体が重いが、昨日までの気持ち悪さとかが嘘みたいだ」
「そうですか…ならば、それに効く薬草茶を後で淹れましょう。一緒に飲みましょうか?」
「いいのか?じゃあ……」
「では、準備いたしますので少々お待ちください」
せっかく訪ねてきたので、気分転換も兼ねて厨房でお茶の準備をしに行く。普段なら近侍の長谷部がするのが、現在彼は畑当番の真っ最中だ。霧乃が御手杵が訪ねて来るのを予期して、わざと本来の当番から変えたのだ。もし彼がいたらゆっくり話も出来ないだろうからと、彼女の配慮は有り難かった。
お茶を用意して自室に戻れば、しばし御手杵と話をしていた。うなされていたということで話を振ってみたが、去年と同じ炎に焼かれる夢を見ていたということだけだった。昨夜のことは昔の彼だけが知る、と捉えていいだろう。覚えていたらいたで大変なことになっていただろうが。
ともあれ、彼の様子を見ながらお茶のみは続いた。別段変わったところはなく、体調を除けばいつもの彼にしか見えない。昔の彼の‘いつでも成り代われる’に警戒していたが、まだ完全ではないのか。いろいろ憶測は尽きない。
やがてもう少しで昼餉の時間というところで、お茶のみはお開きになった。御手杵はどうも私のお茶を気に入ったらしく、少し続けて飲んでみたいということで、後で作り置きを用意しておくと伝えた。
「鈴花の主のお茶美味いんだよなぁ。薬草茶っていうから苦くてうぇ~ってなるのかって思ってたけど、そうじゃないんだな」
「品種とお茶の配合にもよりますよ、苦いのは本当に苦いですし。 でも、その分効果はありますけれど」
「うへぇ……俺はさっき飲んだのがいいなぁ」
彼の呑気な言葉にくすくすと笑いながらも、大分調子が良くなったと実感する。ただ、何時昔の彼が動き出すかわからない以上、油断がならなかった。
「鈴花の主、どうした?難しい顔して??」
「え?いえ…なんでもありませんよ」
「今日は主も早く休んでくれよ。俺の為にいろいろ大変だったんだろうし」
「ええ、今後に差し支えますからそのつもりです。お気遣いありがとうございます」
「鈴花の主はいつも早く寝るって言いながら、術の研究するからなぁ…」
「ちゃんと寝ますよ。私が寝込んだら皆に心配かけてしまいますから」
「約束だぞ?」
「ええ」
そんなやり取りをしていた直後、短刀たちがお昼ご飯だと騒ぎながら庭を駆けていく。時計を見ると、もう正午だ。
「そろそろ昼か……鈴花の主も飯食いに行くだろ?」
「はい、一緒に行きましょうか」
こうして、彼と一緒に昼餉の準備に忙しい大広間へ向かおうと立ち上がる。その際、ふと右手の小指が目に入った。今まで誰にも指のことについて指摘されていない。
「…御手杵さん」
私は部屋を出ようとする彼に声をかける。んあ?と気の抜けた返事をして振り返る彼に、私はすっと右手の甲を上にして差し出した。
「私の手、何か変なところないですか?」
御手杵はまじまじと手を見る。私はその反応をドキドキしながらじっと見ていた。
「…………何もないぜ。どうしたんだ、鈴花の主?」
「そう、ですか…いえ、昨日薬草の調合をしておりましたところ、調合した粉が手にたくさん付いたもので、何分色が濃いものですから、まだ手に色が残ってるのかと思いまして」
「ふうん…綺麗な手だぜ。白魚のような手、とか言うんだっけか?」
「御手杵さん、どこでそんな言葉を?」
「どこでだったっけかな…それより、鈴花の主。早く昼餉食いに行こうぜ」
「呼び止めてごめんなさい。行きましょう」
気を取り直して、私は彼と一緒に大広間へ向かう。同じ‘御手杵’なのにどうして見えないのだろうか?やはり今の彼と昔の彼は力の波長みたいなものが違うのだろうか?
様々な疑問が渦巻く中、彼の大きな背中を見る。このまま何事もなければいいと、叶わぬことを願っていた。
夜、風呂に入り寝間着に着替え、その後はいつも自室で少し術の研究をしているのだが、昨夜のこともあり既に疲労が溜まっていたのか、ひどく眠かった。
昔の彼のあの言葉が気になったが、構っていられないほど眠気がひどい。早めに布団に入れば、落ちるように眠ってしまった。やがて、ふと気がついて目をゆっくり開ければ、濃い紅が視界に入った。
「うん……?」
よく見れば、濃い紅は布地の色だった。自分の服を見れば、それは薔薇色のドレス。術師の力を十分に引き出してくれるという、母から贈られた術式礼装だった。
私はその姿でベンチに座っていて、周りは一面に紅い薔薇が整然と咲いている。
ここは薔薇園だ。そして、私はこの場所をよく知っている。
母の研究室がある洋館の庭。私のお気に入りの場所。それも一番薔薇が綺麗なちょうど5月の頃の。眩しい日差し。涼しい初夏の風が吹けば、薔薇が揺れる。芳しい香りに包まれながら、私はこのベンチに座って庭を眺めるのが好きだった。ちょうど季節の頃だから、こんな夢を見ているのだろうか。ああ、なんだかこの庭を見る為に、現世に一度所用で戻ってもいいかなと思っていた時だ。
「ほう、此処がお前の夢の中か。色鮮やかな庭だな、とても眩しい」
突然男の声がして振り返ってみれば、そこには場違いな人物が立っていた。
「あなた……どうして、ここに……」
私の視線の先、炎のように紅い薔薇が咲き乱れる中、和装の昔の御手杵が立っていた。あの時は燃えていてところどころ焦げていた衣服は綺麗になっており、彼は悠々とした足取りでベンチに歩み寄る。
「どうしてって…また夜にと言っただろう。お前のその指に絡んである髪を頼りにな。簡単に辿り着けた」
「……魂だけでここに入り込んだと?」
「ああ、昨夜お前が俺を解き放ったおかげでな。今の俺の器の枷も取れたようだ。これで毎晩主の夢に入り込める」
ベンチのすぐ近くまで来ると、彼は私の隣にどさりと座り込んだ。足を組み、ベンチのひじ掛けで頬杖を突きながら、こちらを上から下へ舐めるように眺めた。
「随分と肌を出した服だな…異国の服か。よく似合っている、この花の色か?」
「何が目的でここに?」
「好いている女の下へ来てはいけないのか?もっとも、主の目的は別だろうが」
読まれていて当然かと溜め息を吐きつつ、私は姿勢を正して彼と向き合い、すっと右手を前に掲げた。
「この呪術、解いてくださってもよろしいでしょうか?」
「呪術とは酷いな。結納の証だぞ」
「いえ、完全に呪術です。これはもうかけた相手じゃないと解けない部類…ですから―」
「交渉したいのだろう?我が主」
ひと際強く風が吹き、薔薇が揺れ、花びらが舞う。男は笑みを浮かべていた。絶対的な優位が崩れないと確信しきった、力を持った者の笑みだ。完全に足元を見ている。だからこそ、弱いところは見せられない。もし見せたならば、一気に突かれる。そういえば、突くは槍の本質か…思わず自嘲した。
「言っておくが、俺は指の髪を解く気など全くない。これ以上解けと騒ぐのなら、今の俺とすぐにでも成り代わる… と言いたいところだが、残念な事に枷が無くなったとはいえ、俺はまだ不完全だ。昼はまだ微睡んで仕方がない。馴染めば時機に成り代われるだろうが、主は戦に差し支えたら困るという話だろう?」
「それもありますが、嫁になるというのも了承しておりません」
「主、了承も何も俺が気に入った時点で嫁になるのは決まったようなものだ。大名の側室なぞ、気に入られたら即輿入れだぞ」
「成すべきことがあるのに、嫁とかという話に構っている余裕などありません」
「ほう…務めを果たす為、身も心も戦に捧ぐか…主のような乙女が戦場で散るなど勿体ない」
「あなたは槍でしょう?それも天下三名槍が一本…主の志を邪魔するのですか??」
「槍であれど人の身を持つ今、それなりに欲はある。そして俺は付喪神。主よ、我らは主従の前に人と神妖の間柄ぞ」
ズレる、だんだん話がズレていく。完全にあちらのペースだ。結局主導権があちらにある以上こちらが劣勢なのに変わりはない。今は不完全とはいえ、やがて今の彼と成り代われるようになるのは時間の問題だ。成り代わりを私が恐れているのは危惧していることが一つあるからだ。恐らく相手もわかっている。その話題が出た瞬間、私は頷くことしか出来ない脅しを受けることに他ならない。まだ出ないのはこのやり取りを愉しんでいるのか、はたまた私をおちょくっているのか、ろくでもないのは間違いない。
「では…私に選択の余地はないということですね」
「元からそうだとわかっていただろうに。主は術師としては確かに練度が高い方だろうが、些か甘いところがある。己の力だけでどうにかなると今も信じているだろう?はて、どちらが傲慢か」
すっ…と彼の視線が冷たくなる。ここまで見下されて、激昂しない者はいないだろうがしたら負けなのだ。ぎゅっと拳を握りしめ、決して相手の視線を逸らさず見据えることしか、私が出来る唯一の抵抗だ。
「ほう、怒らぬか。これまた高潔な娘だ、ますます気に入った。ならば俺もそれなりに応えよう。主を苛め過ぎた。さっきも言ったが俺は不完全だ。夜にこうして主の夢に出てくるのが精いっぱい。だから……」
それまで頬杖を突いていた身体を起こしたかと思うと、私の手を取り、強引に抱き寄せた。
「逢引がしたい」
「は?」
また変な声が出た。それにも構わず、彼は話を続ける。
「このお前の夢の中で、若い男と女がしていたような語らいがしたいのだ。考えてみれば、主は今の俺を知っていても、昔の俺は知らないだろう。互いを知らぬことに他ならん。だから、毎晩俺は主の夢に入り込んで、主と語らえたらそれで俺は満足だ。どうだ、簡単なことだろう?」
にやりと不敵な笑みを浮かべ、髪が結われた右手の指を絡ませるように手を繋ぎ、彼は言い放った。
「この天下三名槍が一本、御手杵と恋に落ちてもらおう。我が主」