焔に消え逝く神の欠片と泡沫の夢・中編 風が吹き、カサカサと薔薇の葉が擦れる音だけが響いていた。時折ひらひらと花びらが舞い落ちてくるというのに、私の時間は止まっていた。
「…………恋?」
しばしの間の後、私は彼に聞き返した。完全劣勢の交渉とは言い難いやり取りをし、どんな無理難題を押し付けられるかと思いきや、彼から出た言葉が逢引。聞いた瞬間、斜め上過ぎる単語に唖然としてしまった。
「ああ、そうだ。俺は主を気に入り、こうして懸想している。だが、主が俺に恋をしていないから、嫁になることに気乗りしない。なら、逢引をし、語らい、互いを知れば、きっと主は俺に恋をする。それに夢の中での逢引というのも、最も秘した形で高ぶるものがある。何より主に一番迷惑がかからないだろう?」
だんだん目眩がしてきた。見知った仲間と同じ笑みを浮かべながら、本気で言ってるのだから、どう返せばいいのかわからない。その間に彼は指を絡めている私の右手をふにふにと撫で触ったりし、これもまた現で今の彼がよくしていることなので、余計困惑を加速させることとなった。
「そんなの…言われたからするものとか思っているのですか?」
「それはしてみないとわからないだろう。とにかく、俺は今晩から毎夜主の夢に入り込んで逢引をする。これは決まったことだからな、主が何を言っても聞かぬ」
「なんてめちゃくちゃな…」
かけられた呪術を解いてもらえない挙句、夢の中で逢引をすることまで決めさせられた。このままでは本当に彼の嫁になってしまう。こうして話が変な方向に流れてしまっては、いろいろと非常手段を取らなければならないレベルにまで来たと痛感する。
昼間、ただ周りに悟られないよう過ごしていたわけではない。雑務を片付ける傍ら、対策を練ってはいた。もっとも、それはほぼ物理的な対策と言ってもいいくらいで、かなり乱暴ではあったが。
「はあ…」
本当ならやりたくない気持ちでいっぱいだが、仕方ないかと諦めにも似た溜め息をついてしまった時、
「ああ、主。一つ言っておくが…」
ふと彼が声をかけてきたと思いきや、それまで遊んでいた右手をぐっと掴み、小指に結い付けられた髪をこちらの眼前に見せつけた。
「主は術師だ。呪術にも詳しいだろうから、俺が穏便にこの髪を解いてもらえないのならどうするか……呪いがかかっているのはこの小指、ならば切り落とすのはありなのか」
ぞくりと背中が総毛立つ。策を読まれている。彼は親指の腹で小指をすりすりと撫で擦った。
「主は傷を治す術にも長けているからな。この指を切って髪を解き、すぐ術で治せば何とかなるとでも思っていただろう?残念だが、これはそう簡単に解けるものではない。これはもう主の魂に結い付けたも同然。むしろ俺の嫁になるという運命を結んだようなものだ。甘くて見ては困る」
そこまで言われてしまっては終わりだ。実際、彼の言う通りのことを行おうと思っていた。
呪いがかかっている対象を壊すことで呪いを解く方法は、手荒いものの手段としては有効である。痛い思いをするが、背に腹は代えられない。そう覚悟していたのだが…
「…読まれてましたか」
「主のこの白魚のような手を、そう簡単に傷つけなどさせぬ。花嫁の身体は綺麗でなくてはな」
ふと私の手について、彼の比喩がどこかで聞いたようなと思えば、昼間に今の御手杵が同じ例えを言っていたのを思い出した。彼はどこかで聞いたと言っていたが、恐らくその知識は昔の彼からだろう。当たり前だが、今の御手杵が持っている知識や経験のほとんどはこの昔の彼を拠り所にしているようなもの。‘御手杵’という存在は、昔の彼と今の彼二人で成り立っているも同然なのだ。
「どうした?不思議そうな顔をして……さては俺が如何に良い槍か見惚れていたな??」
つい、いつもの没頭癖で思考が飛んでいたが、彼の見当違いな言葉に私は首を横に振った。
「いいえ……私の手のことを、今の御手杵さんが昼間同じように仰っていたので……ぼんやりとしたものですが、知識も共有してらっしゃるのかと思いまして」
「なんだ、そんなことか。前にも言ったが、俺は御手杵の過去そのものだからな。俺が成り代われば、松平の宝として培ってきたものを思う存分発揮できるぞ。少なくとも、今の俺よりずっと使える」
あまりの言い方に私は顔が強張る。その様子に、彼はふっと冷笑した。
「主、怖い顔をしているぞ。俺はまだ不完全だと言っただろう?まだ時間はある……主にも機会はあるのだ、もっと俺との逢引を楽しみにしてもいいんだぞ。俺は夜が来るのが楽しみで仕方がない」
機会があると言っているが、要は毎夜逢いに行くから機嫌を取れということだろう。恐らく嫁になるその時まで髪を解く気などさらさらないだろうし、向こうが最悪の一手を仕掛けてこないだけマシと思いたいが、私に言うことを聞かせる為の最後の手段にでも取っておくのだろう。
彼の掌の上で躍らされまくっているが、いっそ踊り切ってしまうのも手かとも考える。相手もそれを望んでいるのなら、その隙を突くのもまた一手。もっとも、恋だなんて実感の湧かないもの、する気にもなれないのだけれど。
ふいにぐっと手を引かれて身体を抱き寄せられた。
「主よ、槍は突き刺し貫くのが本質。相手を仕留めるまで決して引かず、槍が引くのは刺した後……それだけはゆめゆめ忘れるなよ」
とんっ、と彼が右の人差し指を私の胸元に置きながら彼は言った。まるで私の心臓に槍を突き刺すように。それは宣戦布告。ふっとお互いの視線が交わった。
「……そこまでして、私が欲しいのですね」
「もちろんだとも。俺は主を気に入ったのだ、十分ではないか」
「申し訳ありませんが、ことに私は恋愛事に疎いのです……あなたの望むような語らいなど、出来ないかもしれませんが」
「随分と無粋な言葉だ。されど、初心な乙女に恋を教え込むのもまた醍醐味。 余計主との逢引が楽しみになった。主よ、このように下手なことを言うと男は燃え上がるものだ。もう少し恋の駆け引きを学んだ方が良いぞ」
図星を突かれ、私はぐっと唇を引き締める。昔の彼は私の様子に口角を上げると、すっと手を離した。
「さて、もう少し話していたいがもう朝になる。名残惜しいが、一時の間のこと。主、次の夜も楽しみにしているぞ」
そこでふっと周りが真っ暗になり、ガクッと身体が落ちるような感覚に陥った直後、私は布団から起き上がった。
障子を通して部屋に差し込む柔らかな光に、現に戻ってきたのだと知る。時計は6時を少し過ぎた辺りを指している。なんだか疲れてしまった。二度寝したい衝動に駆られるが、また彼が出て来たらと思うと寝る気が失せた。
どさりと身体を布団に沈める。ふとカレンダーを見れば、5月も中旬に入る一歩手前。彼の運命の日まであと十数日。昔の彼は件の日を過ぎれば鳴りを潜めるとはいったものの、自分がこうして枷を解いてしまった以上、むしろ自由になったことで力を増しているような状況だ。もしかしたら最悪の状況に成り得るかもしれない。その前に手は打ちたいが、正直言うとあの手のタイプは苦手だ。
徐に天井に右手を掲げれば、小指には忌々しい髪が変わらず結われている。そのままごろんと身体を横たえ、しばし目を閉じる。
一先ず頭を切り替えねば。昼間は何事もないように取り繕わないといけない。せっかく落ち着いた今の御手杵に余計な刺激を与えたくない。
「恋…」
ふと呟いた単語は自分にはひどく縁遠かったもの。したこともなければ、するにもそれがよくわからなかった。
そもそもするものではなく落ちるもの。気づいた時には既に遅く、何時しか心を焦がされる。とはいえ、やるべきことが多すぎて、そんなものに構っている余裕などなかった。恐らく今後とも縁がないと。
のそのそと起き上がり、そこそこに伸びた黒髪をかき上げる。あんなに脅しめいたことを言えば、落ちるものも落ちないだろうに。なのに、私の心には‘恋’という単語がいやに引っかかっていた。
それからいくつかの夜を迎え、彼は律儀に必ず夢に現れた。逢引をする場所はいつも私の馴染み深い場所だった。あの薔薇園はもちろん、父方の実家の神社、その裏手にある森、前に所属していた部隊の部署、通っていた学校の教室、よく過ごしていた図書室…そして、今夜は母方の実家の書庫。
かなり広い書庫には身長を優に越す高さの本棚にはありとあらゆる本がみっちり詰められ、見渡す限り整然と並んでいるのだが、その書庫の奥に読書するスペースがある。古く大きい木のローテーブルと、シンプルな意匠が施された、背もたれとクッションが紅いベロアのアンティークソファーがあるのだが、それに彼は寝転がっていた。
「今日も主は戦装束か…凛々しい姿も好きだが、やはり主はあの異国の服が似合う。姫君は美しく着飾るのが仕事のようなもの、また着てはくれぬのか?」
彼の指摘の通り、私が今着ているのはいつもの軍服だ。あの薔薇園以降、私は軍服姿で逢引することが多かった。私なりの警戒心を示す意味でもあり、礼服でもあるから付喪神への畏敬を示す意味でもあった。
「私がどんな服を着ようがここは私の夢の中。私の勝手です……今夜はどうしてここをご所望で?」
「主の夢の中を歩いていたら気になったからだ。あちこち見ていたらちょうど待つのに良い場所だったから、ここにしてみた」
「あちこち歩き回るのがお好きで」
「主の世界は面白いからな。見たことがない場所ばかりで散歩のし甲斐がある。それに主も気に入っている場所だろう?」
どうやら私が夢を見る間……要は夜の間、彼は私の精神世界を見て歩いているらしい。自分の心の中を見て回るなど侵害にも程があるが、彼はただ‘見ている’だけだという。
『俺は主の世界に何も干渉はしない。仮に干渉してしまえば、昼間の主に支障が出るだろうし、仮にそれが原因で主や俺に危険が及んでは元も子もない。第一、不完全な状態の俺が出来ることなど、たかが知れている。ただの散歩だ』
とはいうものの、勝手に私の中を覗くなど気持ちのいいものではない。こうして私の精神的疲労は増えるばかりで、術の行使や維持に差し支えるので正直嫌気がさしていた。
しかし、逢引をして彼の機嫌を取らなければ、自分にかけられた呪術を解くことはもちろん、何時今の御手杵が昔の彼に成り代わられるかわからない。結局、私が彼に媚び諂えばいいだけの話なのだが、どうもそういう気になれない。恋愛的な好意なんてわからないのに、どう彼に向け振る舞えばいいのか。
そんな私に彼は何かと近づいては腕や肩に触れ、耳元に囁きかける。
恋しくて堪らぬ、早く夜になれといつも思う、好いている、こうしてお前の身を抱いていたい……
低く甘い声でわざと抱き寄せてまで聞かせる好意の羅列。まるで言葉だけでなく声にまで術がかかっているようで、思わず引き込まれてしまいそうになる。いや、引き込ませる気でいたのだろう。当然私は彼の術は見抜いていた。簡単にかかるわけがない。
彼も恐らく気づいているだろうが、何も言ってこない。言ってしまったら興が削がれるとでも思っているのか。私も下手に口出しして、彼の機嫌を損ねてしまう気がするので敢えて言わなかった。
「主よ」
ふと、彼はソファーに横たえていた身を起こし、空いたところをぽんぽんと叩く。ここに座れ、ということか。仕方なく指示に従えば、ぐいと肩を抱き寄せられた。
「さて、今日はどんな語らいをする?主はいつもつれない…どうすれば興味を惹けるか」
「私は寝たいのですが…」
「嫌だ、まさか主は条件を忘れたわけではあるまい?」
「…本当に辛いんです。寝させてくれないと、倒れてしまいます。私が倒れたらきっと霧乃や皆は私に何があったか尋ねるでしょうし…勘のいい人はいくら私が誤魔化しても何かあると思うでしょうね」
途端、彼は膨れ面になるが、実際眠かったの事実だ。何せ夢を見るというのは眠りが浅い証拠。ほぼ昼も夜も起きているようなものだ。時折軽く昼寝しても足りる訳がない。今なんて少しでも気が抜けば、あっという間に意識が落ちるだろう。それぐらい疲労が溜まっていた。
「ですので、大変申し訳ないのですが今宵は眠ってもよろしいでしょうか?」
「……まあ、主は昼も夜もずっと起き続けているようなものか。せっかくの逢引を気づかれては興が冷める。わかった、今宵は休むがよい。ただし―」
肩に置かれていた彼の手がするりと動き、私はそのまま彼の腕の中に閉じ込められてしまった。
「な……待ってください!」
「ここで休め。せめてこうして主に触れるのは許してもらおう」
「こんな体勢で寝るのは……」
「こうしていると人の子は落ち着くと聞くが…違うか?」
彼が不思議そうに首を傾げているが、男の人にこうして身体を委ねたまま寝るとか正直心臓に悪い。だが、彼の言っていることはもっともで、人の温もりというのは心地よい。もっとも、彼は人ではないのだが。
「さあ、心置きなく休むがよい」
「あの」
「俺は主をこうして触れられるだけで満足だ。いくら嫁にしたくても、段階というものがあるからな。そこらへんの野暮な輩と一緒にしないでくれ」
彼は武家の家宝故にプライドが高い。その辺りはちゃんと礼儀を弁えているらしい。さらに彼が信じてくれと言わんばかりにこちらをじっと見つめるので、私は根負けして身体の力を抜いた。
「……では、お言葉に甘えて」
恐る恐る彼に身を預ける。私の身体など体格のいい彼の前では子犬のようなものだろう、すっぽりと抱き込まれ、私は彼の広い胸板に頭をつける。
現のような夢、ならば今感じている温もりも泡沫の幻なのであろうか。いや、元々ここは自分の夢―精神世界。そう思うのはおかしいとわかっていながら、気が緩み、人に抱かれ寄りかかれる安堵感と疲労から、一気に眠りに落ちていった。
相当疲れていたのか、かの戦乙女は早々に眠ってしまった。
警戒すべき相手なのだろうに、無防備に腕の中で眠る乙女に、男はため息をついた。
「現も夢も、主は難儀な奴だ」
その呟きを誰も聞く者はいない。それもそうだ、ここは二人しかいないのだから。
好奇心からか、男の手が乙女の髪に触れる。
美しい黒髪がさらさらと指から零れ落ちていく。次に男は顔に掌を当てた。そして輪郭をゆっくりと撫でていくと、首筋、肩、腕、腰、太腿へと下りていくが、乙女の眠りは深い。男は小さく息を溢した。その吐息はどこか切なげで熱を帯びている。すっと男は乙女の首筋に顔を寄せる。
「主……」
乙女を起こさぬように、そっと唇を落とす。静かにゆっくりと……だが、堰を切ったように耳に、髪に、頬へと。そして、最後は少し躊躇いながらも、唇へ。
一度触れてしまえば、もう留まることは知らない。
唇を離し、乙女を見つめる男の目には、情炎が宿っていた。
彼に抱かれながら眠った夜は、よほど疲れていたらしく、深く眠った上に寝坊してしまった。しかし霧乃や近侍、初期刀に管狐諸々誰も起こしに来ず、むしろ、
『日頃過労気味だったし、いっそ丸一日寝かせてもいいと思った』
などとほぼ全員に言われる始末で、実際起きた時の爽快感は半端なものではなかった。
一人自室で周りより遅い朝餉を食べながら初期刀に、
「君はもっと早く寝るべきなんだ。最低でも日付が変わる前に。君の仕事も研究も大事なのはわかってはいるけど、そもそも身体は何よりの資本だ。鈴花の主が倒れたら誰が手入れをしたり、運営指揮を執ったりするんだ。そもそも……」
と、小言じみた説教をされ続けた。それを部屋の障子の陰から霧乃がニヤニヤしながら眺め、食べ終わると同時にやっと説教も終わり、彼が膳を片付けて部屋を去っていくのを見届けると、滑り込むように代わりに入ってきた。
「随分言われたこと……まあ、歌仙が言いたくなるのもわかるけど」
「正直あんなに寝るとは思いませんでした」
「まあ皆日頃の仕事っぷりから、そういうこともあるさで済んでるけどさ。程々にしといてよ。もし続いたら、それこそ周りが心配するわけだし」
「そうね……」
ふと見た右手の小指には髪が結い付けられたまま。まだ逢引は続くであろう。彼が燃えた運命の日まで、十日を切ったのだが、どうも何か予感がする。良いのか悪いのかはまだわからない、ただ何かが起きそう。そんな身も蓋もないものだった。
ただ、そんなものほど昔からよく当たる。それは宮司の血をひく父の影響か、それとも魔女である母の影響なのかはわからない。
「ねえ、霧乃。御手杵さんの様子は?」
「一応本調子には近くなってる感じだけど、まだ出陣させられない。身体鈍り気味で、たぬとか獅子ちゃん達が軽く手合わせ相手してくれてる。その度に杵からあの気の抜けた返事聞かされるんだけどね。って、あ」
突然何かを思い出したのか、霧乃がすくっと立ち上がった。
「どうしたの?」
「手合わせで思い出したけど、むっちゃんに面白い技思いついたから付き合えって言われてたんだった。いっけね、ちょっと行ってくるわ」
そう話すと、霧乃はぱたぱたと忙しそうに部屋を出ていった。一人になり、差し迫った書類等もないので、研究を少し進めておこうと思った時だ。
「主」
振り向くと、そこには御手杵の姿があった。霧乃の言う通り、大分普段の元気を取り戻したように見える。
「御手杵さん、どうしました?」
「いや、何となく通りかかったから来たんだが……入ってもいいか?」
「ええ、いいですよ」
彼が部屋に入ると、私の前に座る。見たところ、至って普通だ。
「どうしたんだ、主。寝坊とか珍しいな」
「どうも疲れが溜まっていたようで、深く眠ってしまいました」
「やっぱり鈴花の主は無理ばかりしてるじゃないか。歌仙が朝餉の時に文句垂れてたぞ」
「さっきここで説教されました。没頭癖といい、いけませんね」
そう答えると、御手杵も笑みは浮かべていたものの呆れていた。もう何度もこのやり取りをしてきたし、気をつけようとしてもまたやってしまう。そろそろ、強制執行もとい強制就寝でもされそうだ。
「鈴花の主はなぁ……」
御手杵がへらっとして何か私に言おうとしたが、突然彼から笑みがすっと消え、目も虚ろになっていく。
「御手杵さん?」
明らかに様子がおかしい彼に近づいたその時、突然大きな彼の手が私の両手を掴んで押し倒した。
「えっ」
一瞬、何が起きたのかわからず彼の顔を見つめることしか出来なかったが、突然彼の雰囲気がガラリと変わるのを感じた。虚ろだった目に光と表情が戻るが、その顔は先ほどの彼ではなかった。高貴と傲慢を漂わせながら嘲笑を浮かべ、艶然とした目でこちらを見下ろしている彼は、昔の御手杵のそのものだった。
徐に彼は顔を近づける。彼が何か囁いた。それをかろうじて聞き取れた時、私はぞっと身をすくませた。手を掴まれ、体格の差もあって身動きもろくに取れぬ中、そのまま何かしてくるのではないかと思ったのだが、また彼の目が虚ろになり、今度はきょとんとした顔になっていた。
「う……ん、ふぇ、あるじ……うええええっ!!!?」
と、気の抜けるような変な叫び声を上げながら、御手杵がばっと手を離し、仰け反るような勢いで後ずさった。
「あ、主、俺何してたんだ?なあ、なあ??」
「御手杵さんは、何も覚えてないんですか?」
私が尋ねると、御手杵はぶんぶんと首を横に振った。
「わからねぇ、俺、突然意識が遠のいて……何も覚えてねぇ。主、俺まだ変なのか?」
「大丈夫です、御手杵さん。大丈夫……」
気が動転し、顔が蒼くなっている御手杵を落ち着かせてはいるものの、内心こちらも動揺していた。じりじりと胸の奥が焼き付き、朝の予感が嫌なものに変わっていく。それを物語るかのように、右手の小指がじんわりと熱を帯びていた。
主はとても難儀な者だ。
昼は昼で周りに心配をかけぬよう取り繕いながら責務を淡々とこなし、夜は律儀に自分の相手をしてくれる。強引に縁を結んだものの、すぐに嫁にしてはつまらぬと始めた逢引。かれこれ数日続けているが、やっと彼女から術を解いてほしい以外の望みを聞いた。
彼女はつれないながらも、こちらの話に付き合ってくれるぐらいで何もない。こちらに身体を預けている彼女を眺めているうちに、疲労で普段は明晰な彼女の頭がろくに回らず、己の勘違いも甚だしいのは承知しているが、やっと気を許してくれたのかと思ってしまう。散々意地悪な駆け引きをしてしまい、警戒されるのも自業自得なのだが、それでもこうして彼女に触れられるのを嬉しく感じていた。いつもは抗われてしまうので、より長く触れていたいと、頬に、髪に、首筋に、やがて身体を撫でていけば、ふっと胸の奥に何かが灯った。徐に唇で触れたくなり、髪や首筋で留まればいいものの、結局は口づけをした。
その間に灯ったそれは静かに大きくなり、己の中で何かでがらりと変わる。触れてしまったが最後、もう言葉の戯れだけでは物足りぬ。
宿った衝動に駆られるがまま、まだ微睡みが抜けぬ意識で昼の現の身体を乗っ取り、偶々眼前にいた彼女を押し倒した。驚き、身を固くし、こちらを凝視する滑稽な娘の様子に、自然と口の端が吊り上がる。わざと顔を近づけさせ、こう囁いた。
『さあ、主。夢を現にするぞ』
それだけ告げると、保つのに限界だった意識を手放し、そのまま眠りにつく。もう身は燃えてはいないというのに、この胸の内は焦がれて仕方がない。何をどうしようがこの焔は、消えることなどないだろう。
焔の名はもう、とうに知っている。