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    LuaNova第1章 望月 チョコレート味の珈琲 ~井上詩織~第2章 朔月 雨上がり ~坂口優太~第3章 望月 夢の続き ~横山寛人~第1章 望月 チョコレート味の珈琲 ~井上詩織~
    「……おや、雨ですか」
     ふと思い出したかのようにつぶやかれた言葉。コーヒー豆を挽く手が止まり、窓の外の方に目が向けられる。照明の少ない建物の外には、傘をさす人たちがちらほらと行き交う。まだ明るい外の風景を虚ろな黒い目がしばらく追った。クセのある黒い髪が揺れ、彼は視線を手元に戻した。
    「あー! 本当だ! 雨だ、ねえ雨だよ、お兄さん!」
    「そうですね。見ればわかります」
    「ねえ、いつものまーだー?」
    「ご覧の通り、今豆を挽いているところですが」
    「チョコ多めにお願いね!」
    「はい」
     はしゃぐ声に、彼は無表情のまま頷く。少女はその虚ろで儚げな彼の顔を、ニコニコとカウンターに座りながら見ていた。挽かれた豆がふっくらと膨らんでいく様子を虚ろな目は映す。ゆっくりと白い手がポットを回してお湯を落としていく。ふわりと漂う豆の香りを少女は深く吸いこんだ。いい匂いがすると言うと、彼は目を細めた。
     白い手はやがてゆっくりとポットを置いた。
    「……はい、どうぞ、詩織さん。熱いのでお気をつけください」
    「わーい、ありがとう、お兄さん!」
     少女の前に出された少し大きめのコーヒーカップに注がれたコーヒーの上には、真っ白な生クリームがプカプカと浮かび、チョコレートソースが網目のようにかかっていた。彼女はポケットからスマートフォンを取り出すと、カシャカシャ音をさせながら写真を撮り始める。
    「……いつも写真撮ってますけど、同じ写真がいっぱいになりませんか、それ」
     淹れ終えた豆や使い終わった道具をカチャカチャと片付けながら彼は少女に問いかけた。少女は頬を膨らませる。
    「同じでもいいの! 来たっていう記録に過ぎないんだから! それにほら、ちょっと微妙に違うんだから!」
    「はあ……。まあ、微妙に違うでしょうね。いつも適当に、恐らく、多分、きっと美味しく淹れることができる感じにやっているので」
    「お兄さん本当、なんでそんなアバウトでこんな美味しいもの淹れられるのか私不思議だよ」
    「奇遇ですね。私もです」
     まあいいやー、と言いつつ、少女はコーヒーに口をつける。生クリームがタップリ入れられたコーヒーは香ばしくて濃厚で甘い。彼女は笑って、美味しいと言う。無表情を変えないまま彼は、ありがとうございますと応えた。
    「おーいしー! お兄さんのコーヒー本当美味しくて大好き!」
    「やっと詩織さんの好みの量がわかってきましたからね。最初の頃は生クリームが少ないの、チョコレートソースが美味しいだの、うるさ……ご希望が多くて」
    「お兄さんほかの人に対してはそのディスりやめようね。私は慣れてきたからいいけど」
    「善処します」
    「直す気ないね」
     やれやれと言わんばかりに少女は肩を竦めてみせた。この店主はいつもこの調子であることを少女は知っていた。それも含めて少女はこの店主が楽しくて好きだった。
     入口の鈴が鳴る。彼の視線が動く。そして、僅かに眉を寄せた。同時にそちらを見た少女は笑い、手を振る。
    「おー、詩織ちゃんじゃーん、お久ー」
    「やほやほー、お久、琴葉さんー。 元気してるー?」
    「相変わらず365日クズニートしてますよ」
    「働きなよ琴葉さんさー」
    「働かないで自分のそばにいろ言う奴がそこにいて」
    「え、そういう関係?」
    「違うから」
    「……どういう関係ですか」
    「あー、ほらー、星華君そういうことに疎いんだからいじっちゃダメだよ」
    「はーい」
    「…………」
     不快と言いたそうに寄せられた眉を見て、入ってきた狐目の男は苦笑した。手に持った白いビニール袋を彼に差し出すと、白い手がそれを受け取った。
     中身をガサガサと取り出す彼をちらっと見たあと、男はそのまま少女の横の席に腰を下ろした。
    「詩織ちゃん最近来なかったけどどうしたの?」
    「あー、そうそう聞いてよ琴葉さんー。あのさー、私の学校超大変なことが起きてさー」
    「超大変なことー?」
    「うん、すっごい大変だったの。私の上の学年の人達なんだけどねー……」
     いつものように喋り出す少女。いつものように話を聞き始める男。自分から意識が逸れたことを確認した彼は、会話に耳を傾けながら淡々とビニール袋の中身を確認していく。

    「ねえ、琴葉さんとかはさ、"復讐屋"って知ってる?」

     その言葉に彼の手がピタリと止まる。ゆっくりと、あの虚ろな目が少女に向けられる。少女は彼のその様子に気付かず、目の前にいる男に話しかけ続けた。男はチラリと彼の顔を見た。そして首を横に振る。
    「えー、知らない。何それ」
    「うーん、やっぱりガセなのかなー?」
    「復讐屋とか、厨二病くせーな。それがどうしたのよ、詩織ちゃん」
    「うーんとねー、噂なんだけどね、その死んじゃった先輩の話聞いた私の先輩がね、復讐屋に頼んだからだ、って言ってさ」
    「うんうん」
    「でも、実際誰にどんなことお願いしたのかも覚えていないって言うんだって」
    「あらら。覚えてないのに言ってるんだ」
    「怖くない? 覚えてないのにその復讐屋さんに頼んだからって、言ってるって」
    「怖いねー。嘘ついてても、嘘ついてなくても怖いね」
    「自殺した子がいるし、自分のせいでってわけわからないこと言ってる子もいるしで学校がピリピリしててさー」
    「ふーん……大変だったねー」
    「大変だよー。それで、復讐屋ってものを調べたらなんか色々出てきてさー。よくわかんないからここでも聞いてみようかな、って思……」
    「詩織さん」
     静かな声。店主のその声は、冷たくて、少女の言葉を奪うには十分だった。少女の肩がびくりと震えた。少女はゆっくりと作業をしているはずの店主の顔を見た。
     じっと自分の目を見つめる無表情の瞳。今にも消えそうな程儚げなその色白な美しい顔に、少女は何故か、なんとも言い難い恐ろしさを覚えた。唾をゴクリと飲み込んだ。
     店主は口を開く。
    「お話もいいですが、コーヒー、冷めますよ」
    「あ、う、うん……」
    「お代は結構なのでプリンタルトも食べますか? 雨の日はお客様が少ないので余ってしまいまして」
    「あ……うん、食べたい」
    「かしこまりました」
     店主の声色の冷たさが嘘のようになくなる。相変わらず無表情だが、あの胸を掴まれるような冷たさは孕んでいない。ほっと息をつく少女。あの呼ばれた時の声は気のせいだったのだろうか。少女は少し冷めたコーヒーを啜った。
     隣にいた男は少女に向かって笑う。
    「まあ、でも、詩織ちゃん。あんま変なことに首突っ込んじゃダメだよー? 悪い人かもしれないじゃん」
    「うーん、でもなー……。……やっぱり気になっちゃうじゃんか。優しい先輩だったから、なんでそんなこと言うのかさあ……」
    「気になるのはわかるけど、それで詩織ちゃんが変なことに巻き込まれたらどうするの。あとは大人に任せなよ、なー?」
    「うー……」
     ダメだよ、と狐の形にされた男の手が少女の額をつつく。ごもっともな意見に何も言えず不満そうな顔をする少女の前に、彼はプリンタルトがのった皿を置いた。少し焦げ目がついた黄色いプリンタルトを見た少女は顔を輝かせた。
    「うっわ、美味しそう! お兄さん相変わらずお菓子美味しそうだね!」
    「ありがとうございます。お客様には食べれるもの出しているので」
    「食べれないもの出す時あるの……?」
    「聞きたいか、歴代でも強者の黒酢とポン酢のブレンドコーヒー……」
    「うわ、もうそれコーヒー要素ないじゃん……」
     いただきまーすと少女はプリンタルトを口にした。ふんわり甘くて、ほろ苦い。しっとりとしていて、しっかりしていて、少女はまた笑った。

    ―――――

     少女は友達に手を振る。持っていたハンドバッグを背負い直す。ずっしりと重いそれにため息が出た。スマホを手に取り、コミュニケーションアプリを開いた。
     少女の横を誰かが通り過ぎる。その誰かの腕が、少女のバッグに当たる。その衝撃に少女は手からスマホが滑り落ちた。慌てて拾おうとしてしゃがみかけると、重いハンドバッグが中身を吐き出す。
     そこら中に散らばる紙。呆然とそれを見たあと、彼女はなんだか泣きたい気分になった。周りを見ても誰もいない。ぶつかった張本人はどこかに行ってしまったようだ。少女はやり場のない怒りに地団駄を踏む。落ちて散らばった紙を拾って手に重ねていった。
    「手伝おうか?」
     不意に聞こえた声。顔を上げると、金髪の男が、ニコニコ笑いながら拾った紙を少女に差し出している。少女はお礼の言葉を口にした。男の手から紙を受け取る。
    「さっきぶつかった人酷いねー。謝るくらいすればいいのにねー」
    「あ……うん」
     妙に馴れ馴れしい男の言葉。少女はその態度に違和感を覚える。何が変なのか、よくわからない。男はニコニコ笑ったまま、綺麗に整えた紙束を作る。
    「はい、これで全部かな?」
    「……はい、ありがとうございます」
    「よかった。今度からああいう人に会わないといいね。君もあまり道端で携帯とか見ない方がいいよ。意外と人って見えてないからね」
    「……はあい……」
     立ち上がった背の高い男。少女は顔をあげた。その男の顔を見て、頭を下げてお礼を口にした。男はいやいや、と首を横に振った。
     男の足が反対を向いた時、不意に狐の形にされた手が少女の額をつつく。うっすらと開かれた狐目からは綺麗な明るいグリーンが見えた。
    「じゃあ、バイバイ、詩織ちゃん」
     男はそう言って少女に背を向け、すぐそばの角を曲がった。言葉の理解ができず、少女はただただその姿を見ていた。そして、自分の名前を知っていたことに気づき、背筋に悪寒が走る。
    「え、なんで私の名前知っているの……」
     呟くと余計に寒気がした。知らないはずの人に自分のことを知られていることに恐怖を覚えた。少女はとりあえず友達にこのことを相談しようと携帯を見て、邪魔になった紙の束を仕舞おうとした。
    「……あ」
     宿題のプリントに書かれた自分の名前。そういえば名前が書いたものなんていくらでもあったことを思い出す。点数が良くなかった数学のテストに、ちょっと頑張った英語の小テスト……。これだけあるプリントを見れば、自分が井上詩織だなんて少し考えればわかることだ。
     びっくりしたー、と安堵する。知らない人が教えていない名前知ってるだなんて気持ちが悪い。それと同時に、こうやって名前知られるのって嫌だな、と思う。数学のテストを見られたのが何だか恥ずかしくなってきた。プリント類はほかの人に見られないよう気をつけよ
    う。そう思った。
    「……あれ……?」
     少女は紙に落ちた水滴に気づいた。ぽたぽたと、紙にシミをつけていく。雨でも降ってきたのだろうかと上を向くが、曇っているだけで雨が降ってくる様子なんてない。
     頬を伝う液体の感覚。指で顔に触れるとしっとりと濡れている。自分が泣いているのだと気づくのに時間がかかる。
    「え……え、なんで私泣いてるの……?」
     やだ、と袖で顔を拭う。服の袖が涙で濡れる。なのに頬を伝う液体の感覚は消えない。何度も何度も拭うのに、感覚は消えずに、袖だけがただただ濡れていく。
    「……うー……」
     自分でも理解ができなかった。涙だけが止まらなかった。しゃがみこんだまま泣きじゃくる。どうしてか、さっきの男の言葉がどうしようもなく悲しかった。あの言葉がどうしてか、唐突に好きだった人に突き放されたような、好きだったものが壊れされたような、好きだった場所が無くなってしまったような、そんな風に感じた。
    「っなんなの……なんなのほんと……意味わかんない……」
     そう呟く。胸の中から何かがせり上がって詰まる。少女は耐えきれず声を上げた。悲しい。悲しい。悲しい。
     どうして。どうして。どうして。 誰か、教えて。
     その言葉に答えるものはいない。

     握られたスマホの待ち受け画面は、見覚えのないコーヒーの写真が写っていた。
    ―――――

    「いやー、詩織ちゃんオレ結構気に入ったんだけどなー」
     ニコニコと笑みを浮かべた男。店主に向かってペラペラと喋る。店主は変わらない無表情の瞳でじっと男を見つめていた。洗い終わった食器を片付けながら店主はため息をついた。
    「仕方が無いでしょう。私たちの仕事に差し支えますから」
    「んな事言ったってさー、オレ詩織ちゃんのあのノリ好きよー? おつむ弱そうで」
    「クズが」
    「罵倒どうも、自覚してるよ」
    「とにかくあのままでは少々厄介になったでしょうし、あれでいいんです」
    「あーあー、詩織ちゃん可哀想! お前にすっごい懐いていたのにさー。
    ……あー、懐いていたからこそ、か」
    「……無駄口叩いている暇があったらお皿拭いてください」
     店主に言われ、男ははいはいと席を立つ。布巾を持つと渡された皿を拭き始める。
    「詩織ちゃんがあれでどうにかなればいいんだけどねー」
    「…………」
    「にしてもやっぱ復讐屋ってワードをここで聞くだなんて確信犯かと思ったよ」
    「…………」
    「……美味しかったか? 詩織ちゃんの自分に関する記憶は」
     その言葉に店主が手を止める。静かに、低い声で、琴葉、と男の名を呼んだ。にんまりと笑っている男の足を思いっきり踏む。いってえ! と男は悲鳴をあげながらも笑みは崩さなかった。
    「……黙れ」
     低い声。不快そうに寄ったまゆを見て、男は喉を鳴らす。はーい、と返事をするその目は狐目が嘘のように開かれていて、店主は不快そうにさらに眉を寄せた。舌打ちをして、店主は店の奥へと消えていった。
    「……な、詩織ちゃん言っただろう。首を突っ込んだらダメだって」
     だってオレらは悪人なんだから。
     男は楽しそうな歪んだ笑顔をしていた。

    「チョコレート味の珈琲」 終


    第2章 朔月 雨上がり ~坂口優太~
     なんてことないカフェだった。少しわかりづらいところにある小さな建物だ。古ぼけた看板に時代を感じさせるガラスの窓。本当によくある昔ながらのカフェだ。息を吸って、お店の中に入る。
    「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
     薄暗い店内の誰もいない空間から声がした気がして、足が止まる。よく目をこすってみると、毛先が少しクルッとした黒髪の色白な男性がカウンター向こうに立っている。店内では彼は闇に溶け込んでしまっていた。彼に少し頭を下げて、改めて店内を見回してみる。
     木でできた床、木のテーブル、ソファーのような大きめの椅子。カウンターの向こうにはコーヒー豆が詰まった瓶がずらりと並んでいて、可愛らしいカップやガラスのコップがキチンと等間隔に伏せられていた。
     1歩1歩踏み出すと、床が微かに軋む音がする。静かな店内に響くその音を聞きながら、店の一番奥の席に腰を下ろした。
     男性がトレーに水の入ったコップとメニューを乗せ、目の前に置いていく。手書きらしい、絵も写真もないメニューが渡される。きちんとした綺麗な文字が連なっていた。
     顔を上げ、男性の方を見る。出てきた声は、少し、震えていた。
    「狐ケーキのチョコレートかけ、ホイップ抜き下さい」
     男性が、静かな目で、じっとこちらを覗き込んでいる。静かに閉じ、彼はため息をついた。
    「……いいんですね?」
     その言葉に胸が締め付けられる。ドクドクと心臓が耳元で鳴った。男性の開かれた瞳は真っ黒だ。頷いて見せると、男性はまた小さなため息をついた。くるりと背を向け、男性が入り口の扉を開けた。どこに行くのかと声をかけようとした。
    「看板をしまうだけだよ。途中で人が入ってきたら困るからねー」
     すぐ近くから知らない声がした。ばっと前を向くと、いつの間にかカメラを持った狐目の男が座っていた。机の上にはケーキが乗っていて、男はそれをざっくり切って口に運んでいた。
    「ようこそ、と言うべきかな? その注文して、星華君が看板しまいに行ったのならそういうことだろうけどさ。
    とりあえず、名前と年と、来た理由話してちょうだいよ」
     はいどうぞ、とマイクのように向けられるフォーク。その行動に戸惑っていると、先程の男性が戻ってきて、金属のトレーで男の頭を叩く。いい音がした。
    「……失礼しました。お客様に飲み物もお出しせず。
    今用意するので少々お待ちください」
     それはとても静かな声だった。何かを察したような、そんな感じがした。ふーんと男はフォークをくわえたまま見ている。クリームがタップリ入ったケーキをまたもう一口食べる。
    「星華君ー、ケーキってまだあったっけ」
    「ショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブラン、プリンタルト、コーヒーゼリー」
    「なー、君どれが好き?」
    「……モンブラン……?」
    「だってー」
    「琴葉、うるさい」
    「そんなー、オレ注文取っただけじゃーん」
     ひどいよなー、と笑う琴葉と呼ばれた男はまた一口ケーキを口に運んだ。ちっ、と舌打ちが聞こえた。思わず身構えた。琴葉は苦笑いをする。
    「ほら、そうやって威圧するから怖がってんじゃん」
    「知りませんよ」
    「気に食わないと舌打ちする癖本当直せよ」
    「検討した上で善処します」
    「直す気ねえなお前」
     挽かれる豆の音と匂いは離れていてもわかるほど漂ってくる。懐かしい気分になって、鼻の奥がツンっとする。
     やがて、星華と呼ばれた店主の男性がトレーに載せてやってくる。
    「お待たせしました。コーヒーとモンブランです。砂糖、生クリームをお好きに入れてお召し上がりください」
     静かに置かれた真っ黒なコーヒーとモンブラン。淹れたてで、まだ湯気が立っている。チラッと彼らを見ると、星華が再び席につくところだった。
     恐る恐るコーヒーを啜ってみる。思った以上に苦くて、顔をしかめた。琴葉が楽しそうに笑い出す。
    「苦いかー。やっぱり子供にはこの苦味はきついかー」
    「あなたはただの味音痴でしょう。
    苦かったら生クリームとお砂糖を入れれば苦味はだいぶ和らぎますよ」
    「は、はい……」
     そう促されてコーヒーカップのそばに置かれた小さな器を手に取る。真っ白な生クリームが真っ黒なコーヒーに吸い込まれていく。その白さはやがて花を開くかのように広がった。
    「もう一回聞くけど、君、名前はなんていうの?」
    「……坂口優太」
    「そっかー、優太君かー。あー、飲み食べしながらで全然いいから」
     琴葉は相変わらずの読めない笑顔を浮かべつつ、勧めてくる。星華という店主は涼しい顔でコーヒーを啜る。少し頷き、いい出来、と呟いた。
    「それで、優太君何年生? 見たところ中学生?」
    「……西部小山中学です」
    「あー、あそこか。遠い所からよく来たじゃん」
    「……」
    「まあ、いいよ。じゃあ、もう早速本題いっちゃうか。
    ……どこでこんなもん知って、どうしてそれを利用しようと思ったの。遊びのつもりじゃないんだろ?」
     琴葉の声色が変わる。その表情は一変して、笑ってはいなかった。ちゃんとまっすぐこちらを見ていた。星華もコーヒーのカップを置いて見ていた。
     顔を伏せる。ズボンをぎゅっと握る。体が震えた。踏み入ってはいけない場所に入ったような、そんな気がした。息を深く吸い、二人をまっすぐ見た。
    「……復讐したい人がいるんです」
     声は震えていた。決して大きくもない。けれど、はっきりと告げられた言葉が本気であると、二人を見る目から感じ取れた。しばらく沈黙するが、琴葉がふーん、と頷く。
    「……続けてください」
     星華が促す。静かなその声に感情はない。息が緊張で苦しい。ズボンを握る手はさらに強くなる。
    「名前は……わかりません」
    「あらら、復讐すべき相手がわかんないの?」
    「別に……よくある話でしょう。特に珍しくもない」
    「まあ、そうだけどさー。あー、めんどくさい、スタートラインがそこからって言うのがめんどくさい。別にいいけど、星華君が引き受ける気なら」
    「黙りなさい、琴葉」
    「……。
    ……僕には、あっ君っていうのが幼馴染がいたんです。家が近くて、小学校の時はよく、あっ君と遊んでいたんです。あっ君は頭が良くてとても優しくて……僕の憧れでした」
    「あー、いるね。うんうん、よくいる」
    「僕は自分の言葉を形にするのが苦手だから……いつもあっ君の後ろに隠れてばかりで……あっ君はいつも、そんな僕を守ってくれました。今思えば、僕はあっ君に甘えていたんです。あっ君がいるという安心感に、甘えていました」
    「……」
    「……あっ君は頭がいいから、僕とは違う中学校に行きました。あっ君は部活をやっていたから、僕と違って朝早く起きて出て、夜に帰って来てました。あっ君は忙しくて、僕も、今の学校の人達と遊ぶようになって……あっ君と殆ど顔を合わさないようになりました」
    「……それで、あっ君どうなったの?」
    「……」
     唇が震える。涙がこぼれる。言葉は形にならない。星華はじっと見つめている。すみません、と声にならない言葉を吐くと、彼は首を横に振る。
    「いえ、ゆっくりでいいですよ。急かしませんから」
    「まー、その感じでだいぶ察しはつくけどねー」
     へらりとした笑顔を浮かべる琴葉。そんな琴葉に星華は軽く眉を寄せる。
     息が苦しくなりながらも、言葉を何とか続けた。
    「……あっ君……いじめられて学校に行けなくなってしまったんです……」
    「……あー……」
    「僕とあっ君会わない時間が増えて……あっ君が行けなくなっていたことを知るのが遅くて……気づいたらあっ君……部屋から出なくなったんです」
    「……」
    「僕は……それを知ってから毎日あっ君の所に行って……声をかけるんです。でも……あっ君から返事は殆どなくて……。
    聞けたのは、あっ君がいじめられていることで……。殆ど内容も人も教えてくれなくて……」
    「ふーん?」
    「あっ君……いつも明るく笑っていたのに、今は……。
    っ……僕は……僕は無力で……なんにも出来なくて……。
    あっ君は僕のためにしてくれたこといっぱいあるのに、僕はあっ君のためになんにも出来なくて……」
    「だからせめて、あっ君とやらをいじめた相手に復讐をしてやろう。そういうことですか?」
    「……」
     こくんと頷く。目を細めた星華はコーヒーを啜り、そしてため息をついた。心底嫌そうな顔に変わる。その目に冷たさが宿る。思わず体がびくりと震える。
    「事情はわかりました。そうですね……あなたも臆病で卑怯な方ですね。復讐をしたいと言うのに、他人に全て任せるつもりなんですから」
    「っ……」
    「自分の力で誰か探し求め、復讐を遂げようともしない。そして、本当のことがなんなのかも自分で知ろうとしない」
    「……それは……」
     言葉に詰まる。星華はコーヒーカップをカチャンと置く。その中は既に空っぽで、底に僅かなコーヒーの水滴が残っているだけだった。琴葉が吹き出し、手厳しいと楽しそうにゲラゲラと笑う。
    「払うだけ払えば、勝手に我々が復讐してくれるとお思いでしょうね。
    あなたのために危険を冒して、誰がどんなことをしたのか知り、そしてその上で復讐をするのです。ほっておけば復讐が完了する。何も知らず、何も痛い思いもせずに。
    ……そのようなふざけた考えなら、思い直した方がいいでしょう。彼はともかく、私は暇ではありません」
    「オレも入れろよ、星華君。まあ、普段ニートなのは認めるけど」
    「…………」
     言葉が出なかった。星華の冷たい無表情の声が、心にグサリと刺さる。どうしたらいいかわからなくて、頭がぐるぐるする。手から汗が沢山出てズボンを濡らす。シワだらけになったズボンを見て震えた。
     コーヒーのお代わりを持ってきた彼が再び席に着く。乾いた唇から、言葉が零れた。
    「……僕は……僕は確かに臆病です……。そんなのわかってます……わかってるんです……」
    「……」
    「でも……でも、僕に何一つ出来ることなんかないんです。違う学校だし、僕は……子供で……大人が思っている以上に何にも出来なくて……」
    「……」
    「……悔しいじゃないですか……。いじめられて行けなくされたのに、いじめた方は涼しい顔してると思ったら……あっ君は救われないじゃないですか……」
    「……」
    「だから……復讐の方法を考えて……探して……そして、ここにたどり着いて……。僕に出来るのは、それをお願いすることだけで……」
     つまり気味の言葉。星華は軽く頷き、そして、首を傾げる。あいも変わらず、無表情のまま。
    「……そうですか。それで?」
    「っ」
     コーヒーを啜る星華。その顔を見て、酷く、憤りを覚える。星華に理解しようとする様子などなかった。バッグを引っつかんで席を立つ。無駄だ。この人に何を言っても、無駄だと感じた。
     バッグをぐいっと強い力で掴まれる。驚いて振り向くと、へらりとした笑顔の男がバッグを掴んでいた。
    「離してください!」
    「まあまあ、落ち着いてよ、坂口優太君」
    「っそうですよね、復讐屋だなんてもの信じた僕が馬鹿でした! そうですよね、こんなの、嘘に決まってた!」
    「嘘じゃないよ。オレらは復讐屋。復讐をしたい人の復讐を代行する」
    「っだったら! 僕の、あっ君の復讐だってやってくださいよ! 助けてくださいよ! 聞いただけで、そんな、そんな……!」
    「人の話を聞かないなー、この子。まあ、星華君も? ちょーっと言い方が遠回しだよねー?
    オレらは別にやらないとは言ってないよ。ただね? コレ、リスクがあんのよ、星華君が説明した通り」
    「っだからやらないんでしょ!?」
    「違う違う。むしろ余裕の部類。ぜーんぜんオッケー。らくしょー。
    けどね? けどね?
    ……お前、自分のお願い訴えるだけで人様動かせると思うのが間違いだってわかってないだろ?」
     ぞくっとする声。ニコニコと笑う狐目の男の明るい声がいきなり急激に低くなる。バッグを持つ自分の手から力が抜けた。琴葉はにっこり笑ったまま、座りな?と言った。その声に、つい、従った。
     星華は再び彼を見た。その黒くて、吸い込まれそうなその瞳を睨みつけた。座り直した琴葉が大袈裟に手振りをする。
    「まあ、さて、ストレートに言わせてもらえば、君はこの復讐になにか差し出せってことだよ。オレ達は君らが傷付け合おうが何だろうが正直どうでもいいし、相手にとっちゃオレらは他人だ。他人にぶん殴られるとか嫌なことされるって理不尽極まりないだろう?」
    「……」
    「だから君は、オレらを利用するというのであれば、まずは君が使うのは復讐するための道具ってことを理解しなければならない」
    「……? 復讐するための道具……?」
    「そうだよ、オレ達は復讐のための道具だ。ああ、失礼とか考えなくていい。むしろそう考えちゃいけない。
    君がここを利用するということは、君自身がナイフを持つのと同じことだ。
    誰かを刺したものがナイフであった時、責任はナイフにあるか? 僕は持っているだけで悪くないか? ナイフが全部悪いって言い張れるか?
    答えはNO。ナイフは道具に過ぎない。使った君自身がすべて悪いし責任を負わなければいけない。勝手にナイフが傷つけただなんて言い張るのは、ガキの理屈だ。
    オレ達はナイフとなって君の復讐を代行するが、その復讐を決意したのは君自身だ。どんな結果になろうと、君がそのナイフを握る以上、全ての出来事は『お前のせいだ』」
     その言葉1つ1つが重い。背中を冷たいものが這い寄ってくる。笑っているのに、真綿で首を絞められているみたいで、ぶるっと震えた。
     琴葉は笑ったまま言葉を続ける。
    「まあ、怖くて当たり前だと思うよ。君自身きっとたくさんの大人に恵まれて来ただろうから。だから、自分で全部の責任を持つだなんてこと、想像出来ないだろうね。
    でもこれは当たり前のことに過ぎない。責任ないやつにナイフを持たせてはいけないと言ってるだけだ。問題はオレらへの対価だ」
    「対価……?」
    「そう対価。オレらだってね、ただでやりたくないし、自分の手を汚す気ない連中のために頑張るのもしゃくなの。
    だから対価。それに見合うだけの対価をちょうだいってことよ」
     普通その話はそっちからするもんなんだけどなあ。琴葉は馬鹿にするように鼻で笑う。ちらりと星華を見ると、彼はため息混じりに言葉を吐く。
    「……記憶」
    「……え?」
    「手っ取り早く行きましょう。対価として記憶の一部をいただきます」
    「……ふざけているんですか?」
    「そう思うならそれで結構です。別に私は困りません。あなたがあっ君のことでどう悩もうが所詮他人ですから。
    事情があってこちらは人の記憶というものがほしいのです。その記憶を、私の判断で一部をいただきます。そしていただいた記憶はもう二度と戻りません。どれくらい貰うのかも、どんな記憶をもらうのかも、あなたにお伝えする義務はないのでしません」
    「……」
    「お金はいらない。お金にしたら結構な額にするし、こっちだってお金が欲しいわけじゃない。欲しいのは記憶。本当だとしても、嘘だとしても、求めるのはそれ以外ないから請求はしない。
    ただ、さっき言ったように、オレらは復讐の道具に過ぎない。記憶が欲しいと言った何をするかもわからないのに全責任を自分で負えって言ってる胡散臭い奴に頼ってまで君は復讐したいの?」
    「……」
    「その覚悟あるの?」
    「……」
    「人を呪わば穴二つ。相手を呪えばその呪いは自分に返ってくる。その覚悟を持たないといけないよ」
    「……」
    「結構きついものがあるこれ? 大丈夫?」
     笑っている琴葉。コーヒーを持ったままじっとこちらを見つめる星華。静まり返った店内にコチコチと古い時計の音が響く。自分の呼吸の音も、心臓の音も、耳に痛いくらい響く。自分のコーヒーに目を移すと、コーヒーは既に冷めていて、湯気はたっていない。ズボンを握る。
     どれくらい考えたかわからない。どれくらい二人が待ったかわからない。出すべき答えを、二人は待っている。
     乾いた声が、静寂を打ち切る。
    「……記憶さえ渡せば、僕のお願い、聞いてもらえますか?」
    「……。……後悔しませんね?」
     星華の静かな声。顔を上げる。大きく頷く。ずり落ちかけたメガネを押し上げ、二人をまっすぐ見た。
    「記憶は渡します。だから……あっ君の、僕の復讐、お願いします」
     顔が見えないほど頭を下げる。汗が肌を伝う。息は震えていて、自分でもひどく緊張していることがわかる。言っている意味は理解できない。どういう意味で記憶をくれと言っているのかわからない。けれど、できるのであれば、それをしたかった。その可能性があるのであれば、したかった。
     琴葉はこらえるように笑っている。少し呆れたような声で星華に言う。
    「だってよ、星華君。どうする?」
    「……」
     小さくつかれたため息。服が擦れる音がする。かちゃんっとコーヒーカップがテーブルに丁寧に置かれる。視界に映った彼は、ゆっくりと瞬きをして、瞳は長い睫毛に隠れた。
     なんの感情もない声が、その唇からこぼれた。

    「復讐依頼、承りました」
    ーーーーー

     部屋の前に置かれているお盆には空になった器が並んでいる。キチンと並べられて、野菜の欠片すら残っていない。とても綺麗で几帳面だと思うその存在に、ため息が出た。
     ノックをする。あっ君、と声をかける。扉の向こうの誰かは何も喋らない。けれど、そこに誰かが移動してきたことだけは感じた。だから座った。
    「あっ君起きてたんだね」
    「……」
    「ご飯も食べたんだね、よかった」
    「……」
    「今日も雨が降ってて肌寒かったよ。梅雨の時期は嫌だね」
    「……」
    「僕の傘古いからそろそろ替えたいんだけど、お母さんにお願いすると変なの買ってきそうなんだよねえ」
     自分でも無理をしてると感じる明るい声。何も返ってこない。何も喋らない。ただただ静かな存在。昔の彼の姿を思い出して寂しさがこみ上げてくる。虚しさをグッと噛み砕く。泣きそうな声を、必死に取り繕う。話を続けようと頭の中で話してないことを探す。
     不意に、この前の光景を思い出した。物静かな古い空間、真っ黒なコーヒーと側に置かれたモンブラン、黒い瞳の店主と笑ってた狐目の男。復讐を依頼した以上、どんな結果になろうと自分の責任、と言われた時、肩がずんっと重くなった。
     ドアの向こうの子は、自分がこんな事をしていたなんて知らないだろう。自分と同じように家族に恵まれて、友達に恵まれてきて、幸せに過ごしてきた。だからこそ胸が締め付けられる。あの空間に自分が足を踏み入れなければと思う程、彼を追い詰めた何かが、すごく、嫌だと感じた。
     また泣きそうになる。グイッと涙を自分の袖で拭った。震えないようにまた喋り出す。
    「この間ね、僕1人でカフェに行ってみたんだ」
    「……」
    「ちょっと古い感じだったけど静かないい感じの雰囲気のカフェでさ、コーヒー豆とかいっぱいあってね」
    「……」
    「僕そこでコーヒーとモンブラン頼んだんだ。ケーキすごく美味しかった。コーヒーは……ちょっと、苦くて飲めなかったから砂糖とミルク入れて飲んだよ」
    「……」
    「きっと、あっ君は好きだと思うな、あのコーヒー。何て言えばいいのかな……なんだか美味しかったんだ」
    「……」
    「……あっ君に飲んでほしいなって思った味だった」
    「……」
    「あっ君コーヒー好きじゃん? だから僕は、飲んでほしいな、って思ったんだ」
    「……」
    「……あっ君と、飲みに行きたいなあ」
    「……」
    「……あっ君……」
     声が震えてしまった。ドアの向こうの子も気づいたのか少しだけ動く音がする。しんっと静まり返り、そして、かすかな声が聞こえた。
    「……ごめんな」
     その声は自分が知っている彼の明るい声じゃない。まず感じたのは申し訳なさで、彼の辛さがグッと後から伝わってくる。部屋の中にいる彼がどんな気持ちでそこにいるのか、容易に想像できた。両目からボロボロと涙がこぼれた。震えを抑えようとしても、声が元のように出てこない。どんな風に言えばいいかわからなくて言葉を探す。
    「……あっ君は……いつも何も言えないで黙ってるしかできなかった僕に声をかけてくれた。僕に、いつも、優しくしてくれた。……僕のために怒ってくれて、嬉しい時は一緒に喜んでくれた。
    ……あっ君、大丈夫。……大丈夫。今度は、僕が……」
     涙に声が邪魔をされる。続く言葉が出てこなくて、すすり泣くしかできない。それがどうしようもなく情けなくて、どうしようもなく悔しかった。
     その部屋の主からの返答は、何も、なかった。
     家の人に頭を下げ、外に出る。パシャリと水の音が暗闇に響く。空を見上げても真っ黒で何一つ見えない。ただただ雨がしとしとと降る音だけが響いていた。傘をさし、門の向こうに足を1歩踏み出した。
    「随分遅い時間までいるのですね」
    「!!」
     不意にかけられた声に体がビクリと震えた。暗くてよく見えなかったが、黒髪で黒い瞳のあの店主が真っ黒な傘をさして立っていた。何を考えているかわからない彼に眉を寄せると、店主は肩を竦めた。
    「そう警戒なさらないでください。あなたの依頼を受けた以上、あなた方についてこちらも調べる必要があるのですから、家等は知っていて当然です」
    「……何の用ですか」
     店主は静かに瞬きをする。じっと見つめるその瞳は相変わらず感情がなく、無表情は心を嫌にざわつかせる。モノトーンな見た目で唯一色がある唇が、吐息とともに言葉も吐き出した。
    「まず、復讐内容決定のため事実を調べました。学校側、加害者側は否定をしていたようですが、いじめらしき事実は確認されました」
    「……やっぱり……」
    「内容の詳細は省きましょう。
    江藤慎也をリーダーとし、主犯は6人。あっ君こと佐藤彰さんは彼らに精神、肉体共に傷つけられたのは事実です。……ですが、彰さんが助けを学校に求めても、聞く耳を持たれなかったようですね」
    「……あっ君は、助けて欲しいと言っていたのに聞いて貰えなかったの?」
    「ええ。そうなりますね」
    「……どうして……!」
    「悪い人はいない。悪い人がいたのであれば、それは何かの間違えだと、人は思いやすいのです。それに……こういう類のものは根が深く、そして、面倒です」
    「面倒……」
    「巻き込まれたくないのですよ。変わらない1日を過ごすために、彰さんのその『助けて欲しい』という変化を求める言葉は邪魔なのです。……私達が見てきた人間は、そのような人々が多かったですよ」
    「……」
     さて、と店主はゆっくりと瞬きをする。黒くて深くてぞわりとする瞳に、息を呑む。声色も無表情も変わらないのに、急に恐ろしさが身を包む。
    「以上の事実、いじめの内容、彰さんの現在の状況になるまでの背景から、私達は彼らを『半分この刑』と『晒し恥の刑』に処するのが妥当と考えました」
    「…………」
    「詳細は説明の義務がないため省きますが、この2つの刑だけで、彰さんに対してのいじめの復讐に十分と判断できる程度といえば、どのようなものか理解していただけると思います」
    「……」
     その言葉の意味を理解できないほど子供ではない。ゴクリとつばを飲み込み、彼の顔を見つめた。雨が傘で弾けて音が響き渡る。彼の声と雨の音が入り交じって耳に嫌に残る。
     不意に彼が屈んで顔を覗き込んでくる。一瞬、綺麗だと思ったその顔で、彼は一言一言ゆっくりと、言葉を続けた。
    「これが、引き返せる最後の点です」
    「……」
    「まだ、我々はあなたの復讐のナイフにはなっていません」
    「……」
    「この復讐できっとあなたは、友達を救えた喜び以上に、他人を傷つけた罪悪感に心が蝕まれるでしょう。この刑のことを知ったら、余計に」
    「……」
    「その結果、あなたのこれからの人生にどんな影響が出るか、我々にも把握できませんし責任はもてません。そして、復讐を決行したところで、彰さんの壊された心が治るとは限りません」
    「……」
    「それに彰さん自身、それを望んでいない可能性だってあります。優しければ優しいほど、例え自分をいじめた人だろうと自分が関わった人が傷つくのを恐れたりします」
    「……」
    「……それでも、あなたは、決意しますか? 必ず救われるとは限らない、それが原因でもし誰かが死んだとしても、あなたは我々を、ナイフを手にしますか?」
     これが最後です、と告げるその表情。相も変わらず静かで、何一つ変えない。けれど、その物言いに、振る舞いに、違和感を覚えた。
     じっと見つめる彼のその瞳をもう1度見る。黒い。真っ黒だ。吸い込まれそうな程、逸らしたくなるほど、深い深い黒さ。じっと自分を見たまま動かない。それは恐ろしいと思うと同時に、綺麗だと思った。
     震える声で彼に問いかける。
    「……あなたは、僕に復讐をやめてほしいんですか? それとも、勧めたいんですか?」
    「……」
     答えない。その疑問に意味などないと言いたげに変わらないままだ。
     雨の夜は体が冷える。寒くて、体が震えそうになる。目の前にいる人物ではない誰かに言い聞かせるように、ゆっくりと、喋る。
    「……あっ君がどんな目にあったか僕は知らない」
    「そうですね。本人が語れないほどですからね」
    「……あっ君がどんな風に苦しんだかも知らない」
    「そうですね。違う学校に行ってた場合それが普通でしょう」
    「……今あっ君がどんな気持ちでいるのかも、僕には想像がつかない」
    「そうでしょう。人間は所詮人間。人の気持ちは想像するしかなく、その状況に立たなければ理解できないものも多いでしょう」
    「……だから……」
    「だから?」
     その先の言葉を求める。その先の答えを待っている。傘をぎゅうっと握る。頭に几帳面に並んだお盆が浮かんだ。ごめんねという言葉が耳の奥に響いた。
     この人は知っているはずだと思った。どうしてか、2回しか会ってないこの人が、自分の想いを知っている気がした。だからこそここにいるのだと、なんとなく感じた。頭に浮かんだ決意を、口にする。
    「……僕は復讐をやめる気はありません」
    「……」
    「これはただの僕のエゴです。あっ君が望んでなかったとしても……僕はあっ君をいじめた人達を許すだなんてできない。
    たしかに何も知らない。相手の顔すら、僕は知らない。……でも、あっ君が学校に行けなくなったことは事実だ」
    「……」
    「あっ君が傷ついて、外に行くのが怖くなったのも事実だ」
    「……」
    「だから、それが事実なら、バツは受けるべきだと思う」
    「……」
     言葉を待つその人の瞬きの音が聞こえる。傘に雨が当たって弾け飛ぶ音が煩いのに、なぜだかその音が、くっきりと聞こえた気がした。口が、飾りのない本音を零す。
    「……うん、でもやっぱり、一番の理由は、これを事実にした悪い奴らがのうのうと普通に生きているのって、すっごく……」
     ムカつく。
     面白くなんてないのに、何故か口角が上がる。傘の柄を強く握った手がすごく痛い。その言葉を零した瞬間、全ての音が消えたような気がした。雨の音も、瞬きの音も。
     長い時間、見ていた。黒い瞳を、その無表情の綺麗な顔を。その線の一本一本を、目でなぞる程に。壊れた時計のように、音が動き出さない。自分の呼吸も、鼓動も、感じるのに聞こえない。とても静かで、永遠に動かない気がした。
    「……なるほど」
     静かにこぼれたその声に意識が戻される。急に全ての音が戻ってくる。雨の音が、とても五月蝿い。唐突に動き出した時計に戸惑いつつ、彼の顔を見た。
     彼は表情を変えなかった。でも、何だか、嬉しそうで、そして、悲しそうだと感じた。彼は丁寧に、恭しく一礼する。
    「……では、刑を執行させていただきます、坂口優太さん。……後日、結果を報告し、代償を払ってもらいますね」
    「……はい、お願い、します……」
     雨で聞こえたかわからないほどの小さくなった声で答え、頷く。彼も頷いた。
     急に自分の判断が怖くなる。本当に、復讐の契約をしたのだと、じわじわと背を何かが這いずり回る。それそのものである彼から一旦離れたいと感じ、彼に背を向けた。
    「坂口優太さん」
     不意に、彼に呼ばれて肩が震えた。すぐに振り返ることができず、動きを止める。何を言われるのか想像がつかない。雨の音でかき消されてほしい。そんな想いも全て、無になる。くっきりとした彼の声が、耳に入ってきた。
     
    「私も、彼らにムカつきました」

     ただ、それだけが聞こえた。何の抑揚もなく、感情もないのに、まるで友達に言うような、そんな声だった。初めて、彼が事務的ではなく、素で話しかけてきた気がした。
     すぐ後ろにいるはずの彼に、視線を向ける。けれど、足音もなく彼は、そこから綺麗にいなくなっていた。ただそこに、雨の夜の真っ黒な闇だけがうずまき続けていた。

    ーーーーー

     返答のない空虚に声をかけて、今日が終わる。部屋のドアの横にはお盆には綺麗に並んだ食器がある。この光景がもう「いつも」になってどれぐらい時間が経っただろうか。この光景はいつ見たって慣れなくて、見る度に胸が締め付けられる。
     あっ君の復讐を依頼して時間が経った。あのモノトーンの店主が雨の中立っていた日から1週間は経つ。今日も外は雨で、あの重苦しい空気を思い出す。
     あの後から彼らの音沙汰がない。どんなことをしているのかも、本当に復讐の代行をしているのか、それすらもまだわからない。不安が胸の奥底に砂のように重く重く積もっていく。
     何かが変わってほしい。それと同時に、その報告が来なければいいとどこかで思っていた。まだ迷える自分に笑ってしまう。相変わらず自分は優柔不断だ。ため息が出た。
    「じゃあ、あっ君、また、明日来るね」
    「…………」
     立ち上がってカバンを背負った。そこに誰かいる雰囲気はあるのに、音はしなかった。
     今日も返答はなかった。変化はない。ずっとない。「いつも」だ。「いつも」の今日の終わりだ。こんなに虚しくて悲しいのに、これが「いつも」だ。
     嫌だな、と思った。きゅうっと胸を細くて丈夫な糸で締め付けられるようだった。それを振り払うつもりで、階段を降りていった。
    「あの……おばちゃん」
    「……あ、優太ちゃん?」
    「僕、今日はこれで帰りますね」
    「……そう? 気をつけて帰ってね」
     階段のすぐ前にある部屋に声をかける。お皿を洗っていた女性がこちらに視線を向けた。そして、ぎこちなく笑う。
     無理やり声を明るく喋るのが胸を痛める。前と比べればひどく疲れてやつれている。幼なじみのお母さんというのがよくわかる人だったのに、随分変わってしまった。
     リビングに視線を移す。テーブルに調味料が乱雑に並び、お酒の缶が捨てられないままそこにある。畳まれてない洗濯物がカゴいっぱいになっている。置かれている本のタイトルを見て、目を逸らした。
    「散らかっていてごめんね」
    「いえ……。……また、あっ君に会いに来ますね」
    「……。ありがとう、優太ちゃん」
     目を細めて笑う女性。ため息に近いその言葉が、ひどく重い。また胸の中に重いものが沈殿していく。その言葉を振り払いたくて、玄関に向かった。
     汚れた古いスニーカーを履く。持ってきた傘を手に取って、玄関に手を伸ばした。

     目の前に立っていたのは、見覚えのある顔だった。
     狐目、金髪、うっすらと浮かべた笑顔。急に開かれた扉から現れたその姿に、何が起きたか頭が理解しない。
    「ナイスタイミングだね、優太君。ちょうどいいや、君にお話があったんだよ」
    「え……? ……え?」
    「もー、君が帰ってたらどうしようかと思ったんだよー。手間が減った、やったね!」
    「あ、あの……!」
     彼の髪から水が垂れる。濡れた靴を脱ぐことなくずかずかと家の中に入っていく。女性が玄関の異常に気づいたのか顔を覗かせる。驚いた顔と、パクパクとする口。キュッと音がして、彼の体が揺れた。

     僅かに聞こえた悲鳴らしき声が唐突に途切れる。彼の手から女性がするりと落ち、倒れ込む。彼は手を払い、こちらを見た。その浮かべた笑顔はあの店で見た時と変わらないのに、酷く、冷たさを覚える。
     殺される。そう思った。力が抜けて、座り込みそうになる。その体を誰かが後ろから支えた。気配のない誰かがいる。その感覚にも覚えがあった。
     無表情な声が、すぐそばで聞こえた。
    「琴葉、手加減しなさい」
    「したよー、手加減。1発で気絶させただけに済ませたよー」
    「あと靴」
    「星華君はオレのオカンかなんかなの?」
    「舐めなさい」
    「なんっで!?」
     こんな空気の中、異様な空間で、ふざけているような言葉を吐く。ヘラヘラと笑いながら琴葉がこちらに来る。その視線を辿り、後ろを恐る恐る見る。
     黒い目、長いまつ毛、黒いくせっ毛、白い肌……。中性的な顔の男が、こちらを見下ろしている。そこに冷たさが宿っていて、ぞわりとする。あの雨の日を思い出した。
     彼はゆっくりと力を抜き、自分を座らせる。男は姿勢を正し、琴葉は後ろに座った。見下ろすその姿に思わず身構える。
    「そう怯えないでください。私達はただ、あなたに結果報告と、代償のお支払いをして貰いに来ただけです。
    ……つまり、復讐代行をし終わりました」
    「……!!」
    「『晒し恥の刑』、『半分この刑』。以上の刑の2つを江藤慎也、他5名に執行しました。明日以降、お調べになればわかることです。
    つきましてはお支払い……」
    「全員、ボッコボコにして、未来を潰してきたよ。残念、人生一回しかないのにねー」
    「!!」
     明るい声。楽しそうな琴葉。それと同時に、その声に似合わない中身の冷たさに一瞬頭が追いつかない。そして1拍置いて、胸にズシンとのしかかる。あの日感じた這いずり回った冷たい冷たい何かが、今度は全身に感じ取れる。
     僅かに眉を寄せ、星華がため息をついた。
    「琴葉……」
    「晒し恥はともかく、半分こは本当に、めっちゃえげつない刑だよ。そら、短期で復讐をするんだから、濃厚なものになるよねー」
    「琴葉」
    「あっ君が受けた暴力は意外と酷くてねー。そうだねー……見合うものを探したら半分こだろうね! 妥当妥当!」
    「琴葉、やめろ」
     低い声。その声に、怒気が混ざっている。静かなのに怖い。それなのに琴葉は言葉を続ける。変わらない声のトーンで、面白そうに。
    「人の体を壊して、人の精神壊して、人の居場所を奪って、こんな狭い部屋に追い込んだなら、自分の体壊され、精神を壊され、居場所を奪われ、追い込まれたって文句は言えないでしょ。
    だって、それが『復讐』だからね!」
    「…………」
    「君が望んだとおり、あっ君が報われるための復讐をして、彼らは自分達の居場所と『片方』を無くした。君の決意で、彼ら6人の未来が消えたよ」
     言葉を失う。重い重い言葉が、容易に心に積み上がっていく。ぐわんぐわんと頭が揺らぐ。笑い声が少し耳に障る。
     星華がため息を深くつく。
    「琴葉」
    「なあに?」
    「……義務のないことを喋らないでいただきたい。あなたは多弁で五月蝿い」
    「……」
     琴葉は答えずに笑う。その態度に舌打ちし、ゆっくりと自分に視線を移す。じっと自分の顔を見ながら、ゆっくりと話す。
    「……あなたはこれを聞いてどう思いましたか」
    「……どうって……」
    「後悔してますか。苦しいですか。罪悪感はありますか。思っていたのと違いますか」
    「……どうと言われても……その……あの……しょ、正直……実感がわかない、と言うか……」
    「実感、ですか」
    「ま、君は待ってただけだもんね。そらわかないよね。星華君も復讐の内容を言ってくれないしねー」
    「……」
     でも、と言葉を繋ぐ。一番いい言葉を探す。それがわかっているのか黙ってしまった自分を、星華は口を閉じたままじっと見下ろす。
    「……本当にあっ君のやられたことに対する復讐になってるくらい重いの?」
    「ええ、重いですね。復讐だけを見れば、やり過ぎとおっしゃる方もいるでしょうね。よっぽど強い精神がなければ、這い上がってなど来れないようにしましたから」
    「……そっか」
     ふうっと息を吐く。コクっと頷く。
    「……うん、ありがとう。……少し、スッキリした」
    「しましたか。それはよかったです」
    「少しかー、頑張ったのになー」
    「ごめんなさい。でも、いざ終わったと思ったら……それでもあっ君が外に出れるわけじゃないのにな、って思って、モヤモヤがあるんだ……」
    「……そうですか」
     静かで、呟くような声。琴葉は首をかしげる。
    「やっぱ人間って達成したらしたで次から次へと色んなことを考えちゃう生き物なんだねー。オレには理解し難いよ」
    「琴葉に人の心なんてないでしょう」
    「それ語弊があるなー。復讐なんてスッキリした者勝ちじゃん、ムカついた奴ぶん殴るもんなんだからさ。なのに考えちゃって、あーあー、勿体ない」
    「……」
     不満そうに口を尖らせる琴葉。呆れた顔で琴葉にため息をつく星華。その2人の顔に口を閉ざした。
     スッキリしたか、と言われたら、スッキリはした。彼を苦しめたのに、そうした張本人たちがのうのうと生きていた。それがひどく腹立たしかったから。それと同時に、酷く虚しい気持ちになった。終わったって、彼が変化するわけじゃない。それが、後から後からドンドンと重くのしかかって来ているのだ。その感覚があってか、爽快だなんて言葉を堂々と口にしていいものなのか、それがわからなかった。
    「……そうだ、支払い」
     思い出してその言葉を口にする。星華の顔を見ると、彼は目を細めて頷いた。
    「……ええ。復讐代行を完遂致しましたので、お支払いをして貰います」
    「……えっと、記憶、って……どう渡せば……」
    「渡さなくて結構ですよ。勝手にもらいますから」
    「そ、そうですか……じゃあ、貰ってください」
    「はい」
     星華は頷いた。その言葉の意味がまだ想像ができない。何をされるか見当がつかなくて、手をぎゅうっと握った。怖い。すごく、怖かった。星華が、動いた。
     靴のまま玄関を上がる。何の迷いもなく、自分の横を通り過ぎて、階段に足をかける。一瞬彼が何をしてるか理解出来なかった。咄嗟に、階段を登り始めた彼の服を掴んだ。
    「な、何やってるんですか!」
    「何って、お支払いですよ」
    「僕はこっちじゃないですか! 2階に行かないでください!」
    「いえ、行きますよ。彰さんの記憶でお支払いしてもらいますので」
    「っ!」
     離してくださいと静かに言う星華の声。その淡々とした声色に、恐怖と怒りが入り混じる。聞いてない。そんなこと、一言だって聞いていない。
     言葉にできないそれらの感情を察したのか、星華は目を細めた。見下すようなその冷たい視線のまま、赤色が動く。
    「言ってませんから。私が言ったのは、記憶をいただくこと。誰からなど、ご指定はありませんでした。ですから、ご依頼人の許可を得て、私個人の判断で彰さんの記憶をいただきます」
    「そんなの、ズルいです!」
    「ええ、ズルいですよね。ズルい方に頼み、警戒しなかったあなたの責任です。全ての出来事は、あなたの責任なんですよ」
     冷たい声。華奢な手から想像出来ない力で服から手を離される。そして強く後ろへと押される。バランスを崩した体が下へと引っ張られた。
    「星華君まじ乱暴だねー。押さなくたっていいじゃんか」
    「五月蝿いですね。代償のお支払いの邪魔されたら怒るでしょう」
    「星華君だって騙し討ちみたいなことしてんのにねー」
     下で軽々と受け止めた琴葉が、ヘラヘラと笑いながら言う。彼の部屋の前に行こうとする星華を追おうとして、琴葉の手から抜けようとした。星華の靴音が確実に離れていって、確実に彼に近づいている。それが、何とも言えない程怖かった。
     琴葉が片手を掴んで、もう片手で体を押さえ込む。星華の邪魔をさせないと言わんばかりだ。体格がいい訳でもないのに、暴れてもちっとも動かなかった。
     琴葉はあのヘラヘラとした笑顔で軽快に喋り出す。
    「まあ、優太君。ちょっと落ち着いて話を聞いてくれる? 君に大事なお話だよ」
    「っ離してください!」
    「まあ、わけわからんことをあっ君にしようとしてんだもんねー。警戒するのは当然だよね。最初からもっと具体的に言えばいいんだけどさー、星華君こういうので善人ぶるのほんっと嫌いなんだよねー。狙われんのに勘弁して欲しいよねー」
    「離して……!」
    「優太君。星華君にとってね、君らのその悲しいだとか苦しいだとか悔しいだとか妬ましいだとか、そんな負の感情、すっごく美味しいんだって」
     ……美味しい。
     その言葉に不思議なものを覚える。美味しい。食べる時に使う言葉だ。食べる時に使うのであって、今、ここで聞くような言葉ではない。強烈な違和感に、動きが止まる。
    「悲しければ悲しいほど濃厚で、苦しければ苦しいほど甘くて、悔しければ悔しいほど辛くて……まあ、感情に味があるって言えばいいのかな。とにかく、すっごく美味しいんだって。
    あ、オレは違うよ? 食べるもの違うし」
    「……さっきから何の話を……」
    「本当は薄々気づいてんでしょ? オレ達はね、人ならざるもの。そうだなー……人間の言葉で言うなら妖怪、だよ」
    「……よう……かい……?」
     そうだよ、と笑う琴葉。
    「オレは狐の妖怪。んで、星華君は闇の妖怪。人の記憶で生きる妖怪なんだ」
    「…………」
     頭がついていけない。さっきから何を言っているんだろうこの人は。見開かれた目は緑色で、怪しく、楽しげに光る。ゆっくりと、言い聞かせるように琴葉が喋る。
    「星華君は記憶を食べる妖怪。負の感情がこもった記憶ほど美味しい。だから負の感情のある記憶が食べたい」
    「…………」
    「さて、そこで君に問題です。今回の君の依頼の中で、最も、美味しい美味しい悲しくて辛くて苦しい記憶を持っている子、だあれだ?」
    「…………」
    「実際にいじめを受けていない君の、助けれなかった気づけなかった後悔の記憶なんかより、もっともーっと辛い記憶を持っている子だあれだ?」
    「…………」
     ニコニコと、遊んでいるように言う琴葉。頭の中でその言葉を繰り返す。繰り返して、ゆっくりと力が抜けた。琴葉の目が、再び細くなる。掴んでいた手の力がゆっくりと緩められた。
     ポロポロと、涙がこぼれた。それを見て、琴葉がため息をついた。苦い笑顔で、わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でる。
    「どうせ貰うなら美味しい方がいいの。わかった?」
    「…………」
    「って言うか、オレが仕事殆どしてんのに星華君だけが貰うっていつもいつも思うけど、正直めっちゃ解せない」
    「……あっ君は……」
    「ん?」
    「あっ君は……いじめを忘れられる? そ、それが本当なら……」
    「……どうだろうね。星華君のことだから美味しいとこ食べると思うけど」
    「……いじめのこと……忘れて生きられる……?」
    「……それは、星華君がさせないだろうねえ。完全に忘れさせはしないよ、きっと」
    「なら、何の記憶を食べるの!? そういう記憶は美味しいんでしょ!? 1番辛いいじめの部分を食べないなら……」
    「ストップストップ。はい、落ち着いて、優太君。君本当頭良さそう見えて意外と話聞かないね。何、オレが妖怪だから話聞かないの? 人の話なら聞くの?」
     琴葉は首を横に傾げる。心底不思議そうに頭をかき、言葉を探しているような素振りを見せる。少し困ったような顔で、あのさ、と喋り出す。
    「君ら人間は負の感情が多すぎると死ぬなんて勿体ないことするけどさ、正直オレからしたら本当、意味がわかんないんだよね。悲しみも苦しみも悔しさも嫉妬も怒りも、現実だとあってはならないものとするよね」
    「それは当たり前じゃないですか……!」
    「そこよ。オレ理解し難いの。その否定。そういう負の感情の全否定。何なの、そこまで嫌いなの? あっはー、いいじゃんスパイシーで。最高に楽しいじゃんか」
    「楽しくないです!!」
    「羨ましいね、心底。オレはスパイシーが足りない世界だから余計にね」
    「何ですか、ふざけてるんですか!?」
    「ほんっとお子様だねー。面白いね。熱いね。熱くてクソみたいに浅いね。そういうのいいね、本当、子供って感じで!」
     ぐるぐると頭が重い。ただでさえも常識から外れた言動で、色々追いつかない。美味しい記憶は良くない記憶で、自分じゃなくて彼の方がそれを持っているから選んで、でも、星華はそれを忘れさせることはしないと言っていて……。
     じゃあ何の記憶を食べるのだ。何のためにこんなことしてるんだ。ここにいる異質な者達の意図が、一切見えてこない。彼らが何をしたいのか、わからない。
     コツンコツンという足音が、上から響いてきた。階段の方に向かって歩いていくのが聞こえる。琴葉も気づいたようで、ああ、と頷く。
    「食事終わったみたいだね。はい、今回の依頼はこれにて終了かな!」
    「あっ君は……あっ君は一体……」
    「あー、それは後で知れば? 君には最後の仕上げ残ってるし」
     琴葉は、まだ掴んだままの手を強めた。階段に向かおうとする体を抑え込む。靴の音が、コツコツと階段に響く。黒い黒い足が、視界に入ってくる。
     後ろの存在の笑った声が、耳元で囁かれる。
    「あと、星華君が1番嫌いなものはね……すっごく美味しい記憶だよ」
     その意味がわかればいいね。
     その声のあとに、視界がぐにゃりとする。そこに現れた誰かがいるとわかった直後、意識がブツンっと音を立てて切れた。

     最後に見たその人の頬に、透き通った液が流れ落ちた気がして仕方がなかった。
    ―――――

     鳥の声が五月蝿い。耳障りだ。それに、酷く眩しい。開けたくない瞼をゆっくり開く。見慣れた天井、見慣れたカーテン、見慣れた机。貼ってあるポスターも、置かれたリュックサックも、全部自分のものだ。
     起き上がり、窓の外を見た。あの憂鬱な雲がどこにもなく、青い色が広がっている。雨上がりの庭の草木は、陽の光を浴びて反射して眩しい。窓を開けて深く息を吸い込む。ここ最近の雨の匂いがしない。
    「……久しぶりだ、雨上がるの」
     今日は傘を持っていかなくても大丈夫かもしれない。そう思って自室の目覚まし時計を確認する。6時を過ぎたくらいで、いつもよりずっと早い時間だ。
     いつの間に寝ていたんだろう、と思いつつ、スマホを探す。スマホは、充電器に繋がれたままチカチカと緑色の光を点滅させていた。
     ロックを解除し、メッセージアプリを起動した。
    「うっわ……メッセージすっごい溜まってる……」
     グループを開くと、自分を除く全員で楽しそうに話している。2時過ぎまでサッカーの話題で盛り上がっている。話し始めを確認すると、10時くらいからだんだんみんな話を始めていた。
     こんなに溜まるまで記憶がないってことはその前に寝ちゃったのか、疲れていたのかな、と思いつつ、メッセージを送る。溜まっているメッセージを1通り読むだけでも疲れて、ため息が出てくる。
     そう言えば課題があった。課題もしないで寝るだなんて、珍しいこともある。今からやれば間に合うかな。朝早く起きれたのはある意味不幸中の幸いだ。
     なんで昨日は早く寝たんだろう。あっ君の家に行った覚えも無いし、そんなに疲れるようなことあった気はしないのだけれど。
    「……あれ?」
     ふと、手を止めた。行った記憶は確かにない。けれど、それ以上に、昨日の夕方から、記憶が酷く曖昧で、思い出そうとするとブツブツで、頭が痛くなる。
     この不思議な感覚に、背筋に冷たい汗が流れた。まるで自分の頭の中を弄られたかのような不快感と、何が起きたのかわからない不安が胸を鷲掴む。
     誰かに会った気がする。誰かと話した気がする。でも誰と、どこで、どんなことを話したのか。自分がどうやって帰ってきたのか全く思い出せない。ぎゅうっと、学生服の裾を掴んだ。
     持っていたスマホが、突然甲高く鳴り響く。その音にハッとする。朝早くに誰が。自分の身に起きている不思議な体験も重なって、電話の音が警鐘のようなものに聞こえてきた。息を深く吸い、画面を見た。

     息が止まりそうになる。なぜだか、泣きたい気持ちが湧き上がってくる。それを押し込めて、指をスライドさせ、耳にあてた。
    「……もしもし」
    「……」
     電話の向こうの人は、ひゅうひゅうと息をしている。酷く緊張し、言葉を出そうとして、引っ込めてを繰り返す。けれど、切ろうとはせず、必死に言葉を探す。声にならない言葉があった。だから、言葉を待った。
     聞き覚えのある、懐かしい声が呼ぶ。
    「……ゆう君……」
    「……」
    「……ゆう君、あのさ……」
    「……うん」
    「……あのさ……聞いて、欲しいこと、が、あるんだ」
    「……うん」
    「……迷惑、かもしれない、けど……ゆう君に、聞いて貰いたいんだ」
    「……」
     泣きじゃくって、くぐもって、聞こえづらい声。彼の懐かしい声が耳に残る。どんな気持ちで、どんな想いで、自分に言っているのか。そんなの胸が苦しくなるくらい、伝わってくる。
     画面の向こうの声に向かって、言葉を投げる。その声も、酷く、濁っている。
    「すぐ行くから。あっ君、待ってて」
     返事を待たないで電話を切る。部屋から駆け出し、階段をかけ下りる。階段に響く大きな足音に五月蝿いと妹が怒った口調で言ったのを無視し、靴の踵を潰した。
     新聞を取りに言った父のどうしたのかという問いかけにも答えず、外に飛び出した。出た瞬間、青い空が眩しく降りかかった。
     光を反射する水たまりを濡れるのも気にせず踏みつけて、あの家に向かう。何度も何度も行って、いつもいつも暗い気持ちになって、悲しくなって、帰ったあの家に。
     息が切れる。あまり走るのは得意じゃない。これだけの距離でも十分苦しい。それでも、そこにいる人のために、1分でも、1秒でも、傍にいたかった。
     ハアハアと荒い息が口から漏れる。靴が濡れ、グチュグチュと苦手な感触と音が鳴る。走ったせいで震えたその手で、それをゆっくりと押した。
     数秒。音がしない。鳥の音も、風の音も。ただの朝の空気だけが喉を通っていく。肺が上下する感覚だけがする。
     ガチャリと、音が訪れた。その姿に、目をやった。

     ああ。
     僕は、このためだったら、この人がここにいるのなら、どんなに酷い罪だって背負ってよかったんだ。
     どうしてか、そんな思いが脳内を過ぎり、精一杯、口角を上げ、みっともない不器用な笑顔をその人に向けた。その人は、それを知ってから初めて、声をあげて泣いた。
     梅雨の終わりの青い空は、もうすぐ夏が来ることを教えてくれていた。

    ーーーーー

    「経過の方はどうでしょうか」
    「んー? 順調なんじゃなーい? 学校やめて、今は自宅と時々学校を繰り返しているみたいだけど。優太君がよく行くみたいだから大丈夫なんじゃない?」
    「そうですか」
    「にしても星華君くっそ甘いねー、甘々だよ、中坊に対する対応がさー。遠慮なく食べればいいものを。1番美味しい記憶残して、残飯みたいな部分食べるって、もったいねー」
    「……嫌いなんですから仕方ないでしょう。それに……食べすぎは健康に良くない」
    「ねえ、何回か餓死しかけたことある奴がそれ言う権利ないと思うんだけど」
     うるさいですね、と涼しい顔で星華は琴葉の頭を金属のトレーで叩く。ワンワンと響き、琴葉は耳が痛そうに塞いだ。苦く笑う。
    「相変わらず乱暴なことするねー。君のそういうところ、オレきらーい」
    「私はあなたの存在が嫌いですのでおあいこですね」
    「全くおあいこじゃないと思うけど。
     しかしさー、心の傷が深すぎて、時を止めて壊れないように守ろうとするなんて、人の心って脆いねー。いじめは酷かったけど、あんな奴ら、刺せば1発で死ぬのにさー」
    「社会的抹殺を推奨しないでください」
    「傷つけるより傷つく方が楽だなんてよく言うよね、時を止めちゃって迷惑かけまくりになるって言うのにさ」
    「あなたの神経ないようですね」
    「そう考えると、時を動かしたって言うのはある意味残酷だよねー。動かすようにしたのは星華君だけどさー」
    「……私は少しだけ、辛い思い出をかじりとった。それだけです。どんなに辛かろうと、時を止めるほどの苦しみの記憶だろうと、忘れたいものだろうと、その人を形成する大事なもの。それを、ホイホイと全部食べればいいのに、というのは些か乱暴な理論です。それに……私が食べるの嫌いなので」
    「あー……大変ですねー、感情移入しすぎる性格っていうのはさー。めんどくせー」
    「うるさいですね」
     ま、いいけど、と琴葉は食べていたケーキの残りを1口で食べる。美味しいと評判ではあるケーキだが、美味しい以外はわからない。何ケーキだったかな、と思いつつ、淡い光を放つパソコンの画面に目線を移した。
     その画面いっぱいに映し出されたそれを、1枚1枚開いていく。その光景に、口角が上がる。その瞬間を思い出して、胸が踊った。
     星華の綺麗な顔が、汚いなにかでも見たかのように歪む。それに気づいていながら、それをやめるつもりはなかった。
    「また撮ったのですか? ……それ、どうするつもりなんですか」
    「んー? あー、そうだなー……オナニーする時にでも使うよ」
    「悪趣味ですね」
    「しょうがないでしょー。星華君がこんなの選ぶからー。やってる時本当興奮しちゃって、たまらなかったんだからさー」
    「そこまでしろと誰が言った。消去しなさい」
    「えー、オレがこういうやつって分かっていながらさせておいてそれはねえよー」
     ワガママなんだからー、と口を尖らせながら素直に星華の言う通りに従う。
     契約は履行された。依頼人の言う通り、友達をいじめた全員、文字通り地獄へと送り込んだ。いじめの代償に、もう2度と、這い上がってこれないように。
     あらぬ方向に曲がった手の画像。吐くほど泣いているまだ若い男の子。踏みつけられた足を見て懇願する男の子。それを見て、琴葉は満足げに息をつき、消去ボタンを押す。
    「……よかったね、優太君。……君は、知る必要ないってさ。
     何も知らないまま、自分の決意で誰がどうなったのかも知らないまま、守りたかった人と楽しく生きるといい」
     今度は、こんな場所に来ないようにね。

     楽しそうな琴葉の言葉に、星華は深く、深くため息をついた。

    「雨上がり」 終
    第3章 望月 夢の続き ~横山寛人~
     そこは緑に囲まれた赤い屋根の家。夏になるといつも子供二人と、妻と共に訪れる場所だ。辺りは邪魔なものなど何一つなくて、ただただ広い野原が広がっている。空を仰ぐと、幸運なことに青色だけが広がっている。今日1日、雨など降ることはなさそうだ。夜には星でも見れるだろうか。だとしたら、望遠鏡を持ってきて正解だ。
     まだ小さい弟が娘を追って駆けていく。興奮気味に、バッタを見つけたと笑う娘の顔を見て、頬が緩んだ。元気がいいな、と妻に言うと、彼女は、ただ静かに微笑んだ。
     お父さん早く、と娘の呼ぶ。待って、と弟はべそをかく。それを見て、胸がぎゅうっと熱くなって、娘と弟のところに、駆け寄った。
    ―――――
    「起きてください、お客様」
     耳元で囁くような静かな声に、ハッと意識が戻る。聞き覚えのないその声に身構え、バッと勢いよく振り向く。それに合わせてか、白い手が直ぐに自分から離れるのが見えた。
     白い手だけが見えて一瞬ゾッとするが、すぐにボヤけつつも人の輪郭を目でなぞれた。背が高くて細い、色の白い綺麗な男が、無表情に見下ろしていた。
     彼は目を細める。ここに来た記憶はあるかどうか聞いてきた。そう言われ、辺りを見回す。自分がいる古めのカウンターにテーブル。ソファーに薄暗い照明。キッチンの棚にはコーヒーカップが丁寧に並んでいて、コーヒー豆が入った瓶も均等に並んでいる。
     ……覚えがない。ここはどこなのだろうか。そう思っていると、彼が深くため息をつく。そしてキッチンへと入った。
    「店の前で眠っていたのでお運びしました。深夜にこんな所で寝るなんて、不用心ですよ」
    「……あ、あぁ……すまない……」
    「過ぎたことなのでいいですが。1杯コーヒーでもいかがですか? 目が覚めますよ」
    「……コーヒー? ……あぁ、ここは喫茶店、なのか」
    「まあそうです」
    「それじゃあ……1杯貰おうかな」
    「かしこまりました」
     抑揚のない声。ぞくりとするほど、感情が読めない声。彼の顔を見ると、彼は相変わらずの読めない無表情で、コーヒー豆を瓶から出して丁寧に挽く。ゴリゴリと砕く音と、コーヒーのいい匂いがふわっと漂ってきて、懐かしい気持ちになった。
     その手を見ながらここに来るまでのことを思い出す。けれど、頭ががんがんしてなかなか思い出せない。おそらく、酒をこの辺で浴びるほど飲んだのだろうけど。
     こんな場所、あったのか。長い期間この街に住んでいたが、初めて知った。建物自体は古いし、昔からあったものなのだろうか。そんなことを思っていると、不意にコトンという音が聞こえた。音の先を見ると、真っ黒なコーヒーが1つ置かれていた。
    「……すみません、お砂糖、貰えますか?」
    「申し訳ございません、出し忘れておりました」
     彼が棚を開ける。小瓶の中にあるのはきっちりと四角い角砂糖。角砂糖派なのかと思いつつ、彼からそれを受け取った。
     砂糖を入れたコーヒーをすする。
    「あ、美味しいです、これ」
    「ありがとうございます」
    「すみません、本当に……こんな夜中にコーヒーまで淹れていただいて……」
    「大丈夫ですよ。夜中に誰か来るのはたまにあるので」
    「……たまにあるんですね」
    「えぇ。人がいるのは久々ですが」
     猫でも来るのだろうか。彼の言い回しにクスリと笑う。彼は一瞥し、再度豆を挽き始めた。その静かな仕草一つ一つがとても美しくて見とれてしまう。
    「……ここ、なんと言うお店なんですか?」
    「ここですか。LuaNovaと言います。ポルトガル語で新月、という意味です」
    「新月……。オシャレですね」
    「ありがとうございます。私も、結構気に入っている店名なので嬉しいです」
     顔全く嬉しそうじゃないのだけど、と思いつつ、頷く。彼は自分用に淹れたコーヒーを手にし、棚に軽くよりかかりながらすする。
     改めて自分の状況を整理する。確か、酒を飲んでいて、ここで酔いつぶれていたところをここの店主が拾ったという。腕時計を見ると既に日付を超えている。こんな時間にお店に居るなんて、おかしな人だ。もしかして、本当は危ない人なのだろうか、と脳内をよぎるも、彼の表情を見て、それはないかと否定する。
     世の中色々な人がいるなあ、と思う。しばらく店内の時計がカチコチなる音と、2人がコーヒーを飲む音だけがする。静かで、外の世界などないみたいだ。
    「……店主さん」
    「はい」
    「……少し、懐かしい夢を見たので、聞いて貰えませんか? 厚かましいお願いだとはわかっているのですが」
     恐る恐る聞いてみる。店主はしばらく考えるような素振りを見せた後、静かに頷いた。コーヒーをまたすする。
    「……夢、ですか。ええ、構いませんよ。どうぞ、お話ください」
    「……ありがとうございます。どうも、話したくなってしまいまして。
     ……私には子供が娘と息子いましてね、今12歳と7歳なんですよ」
    「……可愛い頃ですね」
    「ええ。とっても可愛いんですよ。娘はワンパクでしてね、ちっとも大人しくしてくれないんですよね。お人形遊びよりカブトムシ捕まえに行ったり、川遊びしたり、見ていてハラハラすることばっかりするんです」
    「自分が好きなことをするとはいいことですね」
    「そうなんですよ。すっかり私の子供の頃に似てしまいましてね、ああ、親子だなあ、可愛いなあって思うわけですよ。親バカですよね」
    「……自分の子が愛おしいのは自然なこと、いい事だと思いますよ」
    「はは、ありがとうございます。
     息子はお姉ちゃんが大好きな弟でしてね、いつもお姉ちゃんお姉ちゃんっていって追いかけて、べそをよくかいていたんです。最近では無くなってきたんですけどね」
    「……」
     店主が黙る。けれど、しっかりとこちらを見て相槌を打っている。無表情の瞳がまっすぐと向いていて、思わず、目を逸らした。
    「息子はお姉ちゃんの代わりに、というべきかな? とても器用な子でしてね、折り紙とか、妻の趣味の編み物も教えたら上手でしてね。とても私には作れそうにないものを、妻と一緒に作っているんですよ。
     ああ、これ、息子が作ってくれたんですよ。仕上げは妻ですけど」
    「……ああ、これは……本当に器用なお子さんですね」
    「ですよね、父の日にって、くれたんですよ。妻と一緒に、作ってくれたんです。あ、これ娘がくれたものなんですけど、なんだか、考え方が私そっくりだなあって思ってね」
     喋るのが止まらない。今日初めて会った彼に、こんな話をしてどうするのだ。そう思いながらも、止めることが出来なかった。
     そうだ、聞いて欲しいんだ。幸いにも彼はただひたすら頷いている。既に冷めてしまったコーヒーを片手に。時計の音がもう聞こえないこの場所で、ただひたすらに、言葉を紡ぎ出す。
    「……酷く懐かしい夢でした。子供たちは小さくて、妻はほんの少しだけ若くて……。
     そうだ、赤い屋根の家。昔はよくそこに行っていたんです。娘はそこが好きで、行くたびにどろんこになって、大変でした。
     その場所で遊ぶ家族の夢を見ていたんです。とても、懐かしくて……。……あれ、でも……」
     なんでそんなこと思い出したんだろう。夢で見たんだろう。そう考え始めるが、頭が急に痛くなる。やはりお酒の飲み過ぎだろうか。早く家に帰った方がいいだろうか。
     そう思っていると、店主は静かに瞬きをして、口を開いた。
    「……夢というのは、その人の経験に基づくと言います。つまり、記憶に基づいて制作されるという訳ですね」
    「……えっと、難しい話ですか?」
    「……いいえ。……ただ、そのような夢は恐らく、あなたが幸せだった時そのものの象徴、ということでしょう。思い出すこと自体はよくある話です。
     ……良い家族をお持ちですね。そして、良い父ですね、あなたは」
    「……はは、いい父は、酔いつぶれたりなんかしませんよ」
    「それは休憩中だからですよ。たまにはいいじゃないですか。家族が好きだということは、大変微笑ましいことです」
     微笑ましいというわりに表情は動いていないのだけれど。そう感じながら、ぐいっとカップに残ったコーヒー。そこに溜まった砂糖が酷く甘く、口にねっとりと残る。
     ふらつきながらも立ち上がる。財布を出そうとすると、彼は手で止める。いらないと首を横に振る。
    「そうはいかないですよ、ご迷惑もお掛けしましたし……」
    「ここで払うくらいなら、タクシー代の一部にでもしてください。お代は結構です。良い話を聞かせていただけましたし」
    「ただぐだぐだと親バカを晒しただけですよ」
    「それでいいのです。その話でお支払い終了です。お気をつけてお帰りください」
     素っ気はない。けれど、確かに、彼の言葉は柔らかで優しい。その顔を見て、負けたと財布をしまう。無表情の彼の顔が、少しだけ和らいだ気がした。
     さっきよりは頭はハッキリしている。家はそう遠くなさそうだし、何とか帰れそうだ。そう思い、彼に笑いかけた。
    「……ありがとう。今度、家族で来てみてもいいですか? コーヒーとても美味しかったです」
    「……ええ、どうぞ。ご来店お待ちしております」
    「ありがとう。それじゃ、今日はすみません、また来ます」
    「はい」
     彼はお辞儀をする。扉を開けると、チリンチリンと、鈴の音が聞こえた。少しレトロで、どこか懐かしい感じがする。この音も、この雰囲気も。
     あの不思議な空間も、1歩外に出ればいつもの街の中で、いつもの中に戻ってきた感じがした。本当に、ここだけ切り離されていたみたいだ。ここ本当に不思議な場所だ。切り離されているわけないのに。

    「……どうか、夢を大事にしてください」

     後ろから聞こえた声。振り向いたけれど、もう扉はしまっていて、店主の姿は見えなくなっていた。言葉が聞こえた気がするのだけれど。
     そう思いながら、人が既に誰もいない深夜の道をゆっくりと歩き出した。朝はまだ遠くて、暗闇が照らされるのはまだまだ先のようだ。
     コツンコツンと、自分の足音を聞きながら、昔、よく歌っていた歌を口ずさんだ。妻に出会ってから13年は経つだろうか。その頃流行った曲を、うろ覚えなのになんでか歌いたくなった。妻はよく、このうろ覚えの歌を聴いては笑っていた。
     最近は歌っていなかったこの歌。口角が上がる。

     ああ、そうだ。とっくに気づいていたんだ。店主は気づいていたのかわからないけれど、最後に言った言葉を思い返した。

     もうとっくに気づいてはいたんだ。
     夢は、すでに醒めてしまっていたことくらい。
    ―――――

    「最近事故多いねー」
    「社会がある限り、事故というのは尽きないものです」
    「何ちょっと哲学っぽいこと言ってるの。昨日駅で人身事故あったじゃん? ほら、新聞に載ってる」
    「見せなくていいです」
    「結構大変だったみたいだねー。自殺者っていうのは死に突撃してるから、止めようがないんだよなー」
    「そうですね。息をやめてください」
    「脈絡もなく息の根止めようとしないでよ」
     口を尖らす琴葉の足をさりげなく蹴る。声も出ないほど痛かったらしく、琴葉は無言で抑えた。手加減しろといいたげな目を、いつも通り無視した。
     誰もいないテーブル席にコーヒーを置く。湯気が立つ4つのコーヒーに、角砂糖が入った容器、そしてコーヒーに入れるための生クリーム。琴葉は周りを見回す。今、客はそれなりにいて、席はほとんど埋まっている。
     琴葉は首を傾げる。開店してからずっとここにいたが、そこの席に座った客はいない。それに、4人だなんて大人数が来たらさすがに覚えている。これは何かあったな、と呟き、いつものヘラヘラした笑みを浮かべた。
    「まあた浮かない顔してるね、星華君。なーんか嫌なことでもあったのー?」
    「……」
     星華は静かに、瞬きをしてため息をついた。何か言いたそうだが、言葉が見つからない。そんな素振りだった。
     やがて再度ため息をつき、口を開く。
    「……これは、とある家族のお話です」
    「うんうん」
    「その人の名前は、横山寛人さん。38歳。妻と、娘、息子の4人家族です」
    「まあ、一般的な家庭って感じだねー」
    「娘はワンパクで、明るい子で、息子は大人しくて器用な子です。彼は2人の子供をとても可愛がっていました」
    「……」
    「妻はよく笑う人で、寛人さんは記念日は必ず彼女にプレゼント贈りました。家族で出かけることも好きで、特に、夏になると赤い屋根の家がある高原に行き、そこを借りて何泊かするのが毎年の楽しみでした」
     星華の表情は変わらない。淡々と物語る。いつもの変わらない無表情。でも、心なしか、その先の感情がわかる気がした。琴葉は遊ぶように角砂糖を積み上げていく。
    「……2年前のことです。その時も、赤い屋根の家を借りて家族で出かけようと車に乗っていました」
    「……」
    「……。……即死、だったそうです」
    「……」
    「相手の居眠りが原因でした。相手の方も全員、亡くなりました」
    「……」
    「……寛人さんは1人になりました。そして、そこから彼の中の時計が止まりました」
    「……」
    「彼の中で時計が止まっているというのに、周りはどんどん時が進み、彼を置いてきぼりにしていきました」
    「……」
    「……彼は……背負う人がいない真っ黒なランドセルを買ってきました」
    「……」
    「……それで、話はおしまいです。ただの、よくある家族のお話です」
    「……なるほどねー」
     積み上げた砂糖。それを軽くぴんっと弾くと、積み上がった砂糖は簡単に全て倒れてしまった。転がった砂糖を集めると、それをドバドバと水の中にいれ、マドラーでかき混ぜた。
    「それで? その話っていうのは、どうなの? 君最近食べていないんだし、売り込めばよかったんじゃないの? 相手が死んでいようと、生きれるならやれることがあったんじゃないの」
    「……彼自身、それは望んでいません。……正しくは、そんな気力すら、なかったのだと思いますけど」
    「でもさあ……君ならどうにかできたんだから、すればよかったじゃん。そんな顔するくらいなら、言えばよかったのに」
     記憶を食べるってことをさ。星華にしか聞こえないくらいの小さな声で付け足す。琴葉はニヤニヤと嫌な笑顔をしている。それが不快で眉を寄せる。
     首を横に振る。やりたくないと、呟くと、出たよと琴葉が呆れたように笑う。
    「星華君さー、自分が辛くなるからっていうの本当にさー……」
    「……あなたくらい、図太ければ私もそうしたでしょうね」
    「あれ、オレディスられてない?」
    「けれど、そればっかりは出来ないですよ。所詮私はただの他人でしかありませんし、それを勧めるのは、私のエゴでしかないのですから」
    「はー、ばっかだねー、君って人は。気にしてるからガリガリなんじゃん。こう、壮絶な部分は美味しいんじゃないのー? 美味しい部分逃すとかもったいねー」
    「……あなたにはわかりませんよ。大切な人の死を、忘れてしまうということがどれほど惨いことかってこと」
    「酷いって言うけど、忘れることができるなら万々歳だと思うけど。忘却はある意味救いなんだしさ。
     あ、それ考えるといい思い出を選ぶっていうのも手だね。それが無くなってしまえば、悲しむ理由なんか無くなる」
    「あなたって本当に人でなしですね。……ああ、人じゃありませんね」
    「それ、ギャグで言っているの?」
     呆れたように笑う琴葉の鼻を強くつねる。いったい!と琴葉の悲鳴を聞きながら、星華は新たに入ってきた客に声をかけ、メニューを渡しに行った。

     それを食べてしまえばきっと、こんなことにはならなかっただろう。記憶を食べ、消してしまえばきっと、別の結末だったのだろう。
     けれど、それはできなかった。彼にはもう、夢しか残っていなかったのだから。それを奪おうとは思わなかった。

     席は既に埋まっている。そこに、チリンチリンと鈴がなり、新たな客が入る。その人たちはキョロキョロと店内を見渡し、すみません、と星華に声をかけた。
    「はい、なんでしょうか」
    「あの、そこの席、まだ誰かいるんですか?」
     そう言って指を指したのは、四つのコーヒーがあるテーブルだった。誰かいたような形跡はなく、片付けられていないだけのように見えた。
     星華はその席を少し見て、静かに頷いた。
    「はい、います。カウンター席ならご用意できますが」
    「あー……テーブル空いてないならいいや」
    「申し訳ございません」
    「しょうがないよ。ありがとうねー」
     客は少し残念そうにしながらまたチリンチリンとドアを開けて出ていった。何人かはちらりとその席を見た。ここにいる人達は皆、その席に誰か座っていた覚えなどなかった。
     誰かいる? と訝しげにヒソヒソと話す声が聞こえてきた。とっくにコーヒーは冷めていて、湯気はもう立っていない。きっとコーヒーは美味しくなってしまっているだろう。
     琴葉は新聞をちらりと見て、そしてなるほど、と頷く。星華君らしいという言葉を聞いて、目を細め、その席に向き直った。
    「……律儀な方ですね、本当に」
     どうか、ごゆっくりと。
     そう言ってキッチンへと戻った。
     
     コーヒーは心なしか、ほんの少しだけ減っている気がした。

    「夢の続き」 終
    山林檎 Link Message Mute
    2019/10/28 22:01:06

    LuaNova

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    LuaNova
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