雨降って地固まる話「私にしときなって」
アパートの一室を引き払って静岡に帰る前夜のことだ。元々、物の少なかった家はすっかりガランとしていて、あるものと言えば備え付けの家具とふたりの姿、実家に持ち帰るキャリーバッグくらい。
げんなりが、手にしていた雑誌から視線を上げた。
「どうせ、おまえはその席に誰も座らせないんだろ」
「なんの話?」
げんなりが首を傾げる。相変わらず、スマホでラジオを流している。指でラジオを止めた。その指は、そのままげんなりの顔へ移動してその顎を撫でる。
「誰でも良いなら、私でもいいじゃないか。こんなに側にいるのに、こんなに都合がいいのに、なんで私じゃないんだ」
顔を近づける。それでも、げんなりは少し困った顔をするばかりで照れもしない。すこしばかり考えて、口を開いた。
「……告白のこと、まだ諦めてなかった?」
「当たり前だろ、刺すぞ」
脅されれば、ひぃと短い悲鳴。両手を上げて見せ、降伏のポーズ。
「ぼ、僕が、告白を断ったのは、別にレオちゃんが嫌だからじゃないよ……」
「ふぅん」
レオちゃんにとっては、別に驚きもしない返答。げんなりが元々恋愛感情が薄い人間とは知っている。目を細めて、更に顔を近づけ覗き込む。その距離は吐息がかかるほど。げんなりは困ったように視線をそらそうと目を動かす。
「弁明を聞こうか」
レオちゃんはそれを逃すまいと、追い詰めるように問いかける。
「うぅ……。ぼ、僕はレオちゃんを大切なひとだと思ってるけど、きっとレオちゃんが言う思いとは違うんだろうなって思ってて……。レオちゃんが他に好きな人を見つけた時、僕がいたら邪魔じゃないか」
「それで?」
指を喉へすべらせる。そこから服の上をすべり、胸、腹。
「ずっと側にいてほしいけど、僕がレオちゃんの特別じゃなくてもいいと思ったんだ。僕はレオちゃんのことを一番の親友と思ってるけど、レオちゃんにとっての僕は一番じゃなくても」
「傲慢」
指がふとももの上で止まった。視線は外さず、まばたきもせず、顔は覗き込んだまま。
「私のことを何年もかき回しておいて、"一番"にあぐらをかいておきながら、"一番じゃなくてもいい"だと。本気で言ってるのか、それ」
「……だって、僕は、かっこよくないし頼りがいのある人間でもないし。一番って柄じゃないよ」
「今更、自分を卑下したところで後に引けると思うなよ。源田成矢、私は"怪異を使役する責任を取れ"って言ってるんだよ」
「責任…?」
げんなりがまたよくわからないといった風に首をかしげる。
「大昔、人間が怪異を鎮めるためには何をしてたと思う? 人身御供だよ。人間を差し出していたんだ。それは食われたり、嫁がされたりした。怪異を首輪無しで使役するなら、それ相応の行動をしろと言っているんだ」
「べ、別に僕は使役したいわけじゃ……ぐえっ」
床に頭をぶつけた。レオちゃんに押し倒されている。げんなりが腕を動かそうにも、押さえつけられた腕はびくともしない。
「なぁ、忘れていないだろうな。私は怪異だぞ。お前の胸に傷跡を残したのはこの私だ。こうしてお前を押さえつけて無理やりキスすることだってできるし、お前の服を剥いで素っ裸にすることだってできる。その先だって……」
レオちゃんがその首に顔をうずめると、げんなりから出てきたのは笑い声だ。うふふ、とくすぐったそうに笑っている。
レオちゃんの眉間にシワが寄る。がぶりとその首に歯を立てた。じゃれつく程度の弱い力。それでもげんなりは「ぎゃあ」と間抜けな悲鳴。
「答えないなら、もっと酷くしてやる」
「答えるって……食われるか嫁ぐ……結婚しろってこと!?」
ようやく事態を理解した様子のげんなりを見て頷く。
「いや、食べられるのは嫌だよ。……で、でも、レオちゃんはいいの? きっと、僕より素敵なひとなんて世の中に五万といるよ」
頷く。
「結婚って恋人同士がするものかと思ってたけどな……」
「結婚もキスもその先も、親友だからしちゃいけないなんて法律は無いだろ。ただの契約、ただの行為だ。それに、それらをすれば世間からしたら立派な夫婦関係だよ」
噛み付いた首の傷を舐める。血の味がする。
「お前の恋人、妻という枠を私に差し出せって言ってるんだ。どうしてもそれが嫌だと言うなら、死んでくれ。今ここで」
「……レオちゃん、怒ってる?」
「うん」
「ご、ごめんって。わかったよ。別に、僕の恋人なんてなっても楽しいものじゃないと思うんだけど。そもそも僕、恋愛とかあんまりわかんないし……」
知ってる。
恋愛感情の薄いこいつにとって、その恋人やら妻やらの枠はそこまで特別な枠ではないのだろう。それこそ、"大切な友達"枠と同じくくりである可能性も高い。世間で"特別だ"と言われているから、安易に応えようとしないだけで。
源田成矢はとんでもない愚か者だけど、自分の身がボロボロになっても自分の納得を優先しより良い選択肢を掴もうとするその姿勢が、私は好きだ。
「ええと、改めてよろしくね。な、なんだか恥ずかしいなぁ」
照れている。こいつを照れさせたのは、思えば初めてのことかもしれない。
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しばらく、レオちゃんはげんなりの腕の中で丸くなっていた。他愛のないおしゃべりを続けている。ときどき、げんなりの腕や胸に自身の頭を擦り付けて甘えた。
「春になったら」
ふと、レオちゃんが言った。
「お前は毎年あいつを思い出すんだろうな」
あいつ。国色天香山の管理人をしていたイナのことだ。イナはげんなりの先輩として、回復術に関する様々な事柄を教えていた。彼はもう東京を去っただろうか。
「腹立たしい。ムカつくよ。もうあいつに会うことなんてないだろうに。春が来るたび、勉強をするたび、誰かの怪我を治療するたびにお前はあの犬を思い出すんだ。
私じゃない」
「レオちゃん…。もしかして、すねてる?」
「……」
そう聞かれれば、レオちゃんはふいと顔をそむけた。すねている。
「ごめんねぇ。そんな思いをさせるつもりじゃ……」
げんなりがレオちゃんを撫でる。
「レオちゃん、いいこいいこ」
レオちゃんは身じろぎもせず、大人しく撫でられている。
「私、頑張ったよ」
「うん、とってもえらかったよ」
「退魔師になってさ。わけわかんないくらい強い怪異とも戦ってさぁ」
「レオちゃんは強かったねぇ」
「お前の足が無くなれば異界を作ってさ。風呂にも入れてやって、階段を降りるのも付き添ってやった」
「うん、すごくうれしかった」
「源田成矢」
「うん?」
レオちゃんが背を伸ばした。ふたりの唇が重なる。
「大事にしてね」
「うん」
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新幹線。車窓から見える景色が流れていく。長年暮らした東京から去るのは少しさみしい。
陽桜駅から東京駅までは電車で約2時間、東京駅から静岡駅までは新幹線で1時間20分程度。きっぷの価格はひとり8000円前後。現代日本では大した距離ではないにしろ、22歳で上京してから一度も帰郷しなかったのだ。次に東京に来るのはいつになるだろう。10年後か、はたまた20年後か。もしかしたらもう一生来ないかもしれない。
ちらりと隣の席に目をやる。人間に化けたレオちゃんが新幹線の固いアイスに匙を入れようと苦戦している。それをふふふと笑っていると、レオちゃんに睨まれた。その視線に怯んで小さくなる。
「お前さ」
レオちゃんがアイスを諦めて、匙を置いた。
「実家に私を連れ帰って、親にはどう説明するつもりだったんだ」
「えっ、そりゃ友達だって……」
レオちゃんが呆れたという風に肩をすくめた。げんなりにはその一般的観点が欠けている。それが恋愛だとか結婚だとかになれば、なおさらだ。今に始まった話ではないが。
「東京からわざわざ女を連れ帰ってそれで済むと思うなよ。東京に長らく出ていたアラサー独身男が、女を実家に連れ帰るということは、つまりそういうことになるだろ」
「そうなの…?」
「そうだよ。それで『友達です』なんてほざいてみろ、親不孝どころの騒ぎじゃないぞ」
「そ、そうかなぁ!?」
「そうだよ。よかったなぁ、両親がぶっ倒れる前に私に忠告されて。いいじゃないか、結婚相手がいるとわかれば親も安心する」
「そうかなぁ…」
「そうなの」
げんなりは困り顔で「そうなのかぁ」と言いまかされる。
レオちゃんはしてやったりといった顔で、再び固いアイスに手を伸ばした。少し置いたおかげで、ようやくアイスに匙が入る。
「なぁ、源田成矢」
「うん?」
「お前にとって東京はどうだった?」
げんなりは少し考えた後、口を開いた。
「色々大変なこともあったけど……。
いい街だったよ。僕、東京に来てよかった!」
「そうか」
あんなに色々なことがあったのに、最後に出てくるのはそれなのだ。
レオちゃんと共に車窓の外を見る。スカイツリーが遠のいていく。
「私もだ」