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    マイライフ・アズ・ア・ペン わたしの持ち主である彼のことを話す前に、わたしのことを話さなければならないでしょう。
     わたしはペンです。
     ごく普通の、量産品としてインソムニアの工場で生まれました。
     細く黒い軸に銀色のペン先を持つ、ノック式のボールペンです。高級な素材を使ったとりわけ美しい品でもなく、複数のノックがあって色とりどりのインクを出せるような、機能的なものでもありません。リフィルだって市販のものを使います。おそらく、わたしのきょうだいたちの中には、不幸にもリフィルを取り替えられることなく、ゴミ箱へ本体ごと捨てられてしまうものもいるかもしれません。その程度にデザインされ、量産されたペンです。
     特別でもなく、美しくもない。それがわたしです。
     生まれた時は数え切れないほどの多くのきょうだいに囲まれ、わたし自身あまりに自分に似た家族に困惑もしましたが、それからペンなりに紆余曲折があって、その後『王都城』というところに数箱のきょうだいたちと一緒に旅に出ることになりました。
     『王都城』は、わたしたちの使い手が働く場所でした。
     十二本入りの紙箱に整列して詰められたわたしたちは、『使用人』という方々に使われることになっていました。どうやら、わたしたちを使う人間にも使うものと使われるものがいるらしく、わたしたちは使われるものに使われる、と言うと頭がこんがらがってきそうですが、そういういきさつらしいのでした。
     わたしたちは旅の目的地に着くと箱から出され、一本一本がさらにそれぞれの旅へと出発しました。つまり、人間の手に渡されたのです。わたしも箱から出されると、一人の『使用人』の手に渡りました。箱の中まで一緒だったきょうだいは、今日まで再会することはありません。きっとどこかで、元気にやっているのでしょう。
     初めて触れる人間の手は、温かくなめらかでした。
     どうやら、わたしの主は人間の中でも使い古された人間のようで、若く活気に満ちたものとは違う、落ち着いた雰囲気を持っているものでした。わたしは、それほど活発な性質ではありませんでしたから、静かな主は歓迎です。
     主はまずわたしの銀色の部分をノックし、ペン先を出すと手元にあった紙にくるくると円を描きました。
     はじめて書いた図形に、わたしの心は文字通り踊りました。わたしはペンですから、文字や絵を書くことが使命です。けれど自分が理解している以上に、ペンとして使われることはわたしの喜びだったのです。
     けれど歓喜に満ちた時も一瞬でした。主はわたしをじっと見つめ、白い髭の下でふむ、と一言吐息を漏らすと、そのままわたしを引き出しにしまいました。突如闇に覆われた世界に放り込まれ、わたしがびっくりしていると、引き出しの中にいたプラスチック製の十五センチ定規が「ようこそ」とのんびりした声で言いました。
    「新顔だから親切に教えるけどさ、ここにしまわれるってことは、まあ、そんなにあんたの出番はないよ」
     そんな、とわたしは思いました。
     せっかく生まれたのに、ペンとして使われないなんて、と絶望を感じて呆然としていると、定規が気の毒に思ったのか「まあ、気楽にやんな。そのうち使ってもらえるさ」と声をかけてくれました。
     そんな、とわたしはもう一度言い、心の底からがっかりしましたが、文房具の運命として、使い手がいなければわたしたちはどうにもならないのでした。


     どのくらいの時が過ぎたのかわかりません。ですが、あっけないほど簡単に光は訪れました。
    「おじさん、ペンを借りていいですか」
     という声が聞こえた次の瞬間、引き出しにまばゆい光が差し込み、わたしは外に連れ出されていました。半分寝ぼけていたわたしは事態の急変を飲み込めず、引き出しの中から定規が「ほらね、出番はあった。うまくやんな」と挨拶してくれたのにうまく返すことができませんでした。
     わたしは主につまみ出され、久々にその顔を見る間もなく別の人間の手に渡りました。
     それは主よりも使い古されていない、肌がぴかぴかと輝くような人間でした。わたしの判断が正しいかはわかりませんが(結局合ってはいましたが)、男性で、褪せた太陽の色みたいな髪の毛をもっていました。
     細くて長い指がわたしを受け取ると、その皮膚の意外な硬さにおどろきました。わたしを握った手は主のものしか知らないのですが、それでもはるかに硬い指先だったのです。
     その人は「ありがとうございます」と礼を言うと、わたしを使って紙に何かを書き付けました。
     文字、とわたしは叫び出しそうになりました。
     主はくるくると二つほど円を書いただけでしたが、彼はわたしを存分に使い、文字を書いてくれました。眠っていたわたしの魂が、喜びに震えてはっきりと目覚めるのがわかりました。文字、文字、文字。わたしの喜び、わたしの望み、わたしの使命。
     わたしの歓喜には気付かず、彼は黙々と紙に文字を書き綴りました。彼の文字は初めて記すわたしにもわかる、美しく整った文字でした。流れるような始まり、吐息みたいな終わり。ダンスのステップみたいに止まって、水しぶきみたいに跳ねる。美しい文字を綴るのがあまりに楽しくて、ずっとこのまま文字を書いていたいと思いました。
     ですが、わたしの喜びの時間はまたもやすぐに終わってしまったのです。
     彼は文字を書き終えると、わたしをノックしてペン先をしまい、主へと戻そうとしました。ああ、またあの暗闇に逆戻りか、とわたしは思いました。のんびりした定規はわるいものではないけれど、やはりあの世界は退屈でした。でも、今日という日の思い出があれば、と自分をなぐさめました。少なくとも、ペンとして輝いた一時があったのですから。
     けれどこの時ほど、わたしの生涯の中で一番運命を感じた時はないでしょう。
    「いや、返さなくていい。使っていないものだから、お前が使いなさい、イグニス」
    「いいんですか、おじさん」
     わたしは主の手に戻りませんでした。
     硬い指先の中で、わたしは目を丸くしていました。そのまま、『イグニス』と呼ばれた彼に引き寄せられ、わたしはそのポケットの中に落ち着くことになったのです。わたしの主が、『イグニス』さんに変わった瞬間でした。
     人間にもいろいろな出来事が起こるように、ペンにも数奇な運命というものはあるのです。わたしは最後に、聞こえていないかもしれないけれど、引き出しの中の定規に向けて「ありがとう、じゃあね」と叫びました。旅立ちは突然で、準備をする暇もないけれど、きっと人間もそうやって色々な旅路をたどるのでしょう。
     こうしてわたしは、新しい旅に出ることになりました。


     イグニスさんは、物持ちのいい方でした。
     身だしなみに気を使い、身につける品は見栄えが良く仕立ての良いものばかりでしたが、使うものはおおよそ実用的なものばかりでした。かばんや靴は定期的に買い換えて、ノートや手帳は一番使いやすいものを使っていました。一度気にいるとそればかり使うところがあるようで、手帳の種類が変わったところはついぞ見かけませんでした。
     ですから、幸いなことにわたしは何度もリフィルを入れ替えられ、彼の手の中にありました。彼はわたしを気に入ってくれたようで、次第に肌身離さず持ち歩いてくれるようになりました。
     わたしの定位置はジャケットの内側にあるポケットか、彼のボトムのポケットでした。だいたいこちらも代替わりしても同じ顔ぶれの黒い手帳と一緒で、手帳は白紙の紙らしく無口でしたが、わたしのインクをよく乗せてくれる、頼もしく優しいものでした。
     わたしはほぼ毎日彼の手の中で文字を綴りました。
     その日の予定や気になったこと、料理のレシピなどが主に綴られる内容でした。そうするうちにわたしは、彼の書く文字の中に頻繁に出てくる言葉があることに気がつきました。
     ——『ノクト』。
     彼がこの言葉を綴る時、色とりどりの感情がインクの先にこぼれます。だいたいは嬉しさをにじませた、弾むような書き方で書かれます。そうすると、終筆が猫の尻尾のように可愛らしくわずかに跳ね上がるのです。
     普段は物静かで淡々とした印象を受けるイグニスさんですが、そんな時、わたしはなんだか一緒に嬉しいような気持ちになりました。人間で言えば、愛おしいというのが正しいでしょうか。喜びとともに書き綴られる言葉が、なんだかうらやましくもありました。
     けれどそれは喜びだけではなく、時には複雑に迷ったり、ちょっと怒ってみたり、インクが滲むような悲しみを含んでいることもありました。様々な気持ちを、イグニスさんは『ノクト』という言葉に込めて、手帳に書いていたのです。
     最初は、それが何を意味する言葉なのか、わたしにはわかりませんでした。ですがイグニスさんと共に行動するようになると、すぐにそれが人間の名前だとわかりました。
     『ノクト』という人間は、イグニスさんとだいたい同じくらいの使い古され方をしていました。こちらも肌がぴかぴかと輝いていて、わたしのインクと同じような艶やかな黒い髪を持っていました。イグニスさんは若葉のような緑色の瞳でしたが、彼は薄墨のような、吸い込まれるような黒い瞳をしていました。
     イグニスさんはほとんど毎日、この『ノクト』という人と会っているようでした。イグニスさんは王都城に住んでいましたが、ノクトに会うために車に乗り、彼の住むところへと向かいます。わたしをポケットに入れたまま、イグニスさんはノクトのために料理を作ったり掃除をしたりしているようでした。そしてその度に、イグニスさんだけではなく、ノクトの予定やノクトの好きな料理のレシピなどが手帳に追加されるのでした。
     イグニスさんとノクトを見ていると、なんとなくですが、わたしとわたしのきょうだいたちを思い出しました。わたしときょうだいたちは見分けがつかないほど似ていますが、二人は見かけがだいぶ違います。三十センチ定規と十五センチ定規くらい違います。ですが容姿が似ていることよりも、その距離の近さが、わたしときょうだいたちのようだったのです。
     箱に入って王都城に行くまでは、わたしもこんな風にきょうだいたちと一緒だったな、とイグニスさんとノクトを見てわたしは思いました。二人の間の親密な空気は、紙の箱の中でぴったりと寄り添うような、あの優しい安心感に似ていました。
     彼らが元は紙の箱に入っていたかはわかりません。ですが紙の箱から出た後だとしても、こうして一緒にいるのだから、きっと彼らはこの先もずっと一緒なんだろう。わたしはイグニスさんの胸のそばで二人を見上げ、そう思っていました。


     手帳に追加される名前は、ノクトだけではありませんでした。
     グラディオ、プロンプト、レギス陛下、クレイラス様、イリス、コル将軍。さまざまな名前が追加され、わたしはだんだん綴られた名前と本人たちに会うのが楽しみになりました。
     彼が手帳に書く、ちょっと秘密にしたいこともわたしは知っていたわけですから、名前と人間が一致するたびに、わたしはくすくす笑ってしまうのを堪えなければなりませんでした。それは彼とわたしの間の秘密で、わたしも手帳も口が固く頼もしい仲間でしたから、もちろん秘密は秘密のままでした。
     そんな楽しく穏やかな日々にも、漣のように色々な出来事は起こるもので、静かにイグニスさんのそばで暮らすわたしにも事件は起こりました。
     事件といってもささやかなもので、ある日テーブルにイグニスさんの書類と一緒に置かれていたわたしは、ノクトの目にとまりました。ノクトは手に茶色い革の手帳を持っていて、何かを探すように部屋の中をきょろきょろと見渡していました。そしてテーブルに置かれたわたしに目をとめると、わたしに手を伸ばしてきたのです。
     わたしを使う、三人目の人でした。
     ノクトがわたしをノックし、革の手帳に文字を書き始めると、わたしの周りでいっせいに音楽が鳴り始めた気がしました。こんなに愉快な気持ちになるのは初めてでした。
     ノクトの文字は、イグニスさんの書く『ノクト』と同じで子猫のように丸まり、跳ねまわり、大きく伸びをしました。お世辞にも、美しい文字とは言えません。イグニスさんの書く、しつけのいい犬みたいに整った文字には程遠い。
     けれど、わたしは一瞬でこの子がとても優しく、とても魅力的なのだとわかりました。書いている内容もすてきでした。ノクトは、おそらく好ましく思っている人間に起こった出来事を知らせようとしていました。今日友達と遊んだ、という思いを、ノクトは一生懸命、ひどくまじめくさった顔で手帳に書きました。
     たくさん書き込みがあってステッカーも貼られた手帳は、イグニスさんの手帳と違い雄弁で、わたしに書かれた思い出を少し見せてくれました。澄み切った川の底に光を弾く小さな宝石が敷き詰められているような、ささやかで、美しく、楽しい思い出がたくさんありました。
     ノクトはやがて満足いくまで書いたのか、わたしを元の位置に戻すと手帳を閉じました。その頃にはわたしはすっかり、ノクトのことが好きになっていました。イグニスさんが、大事に『ノクト』と書く理由がはっきりとわかりました。イグニスさんもきっと、ノクトが好きなのでしょう。
     その後、わたしはたくさんの人の手に握られることになりました。ですがこの時の思い出は特別で、それはいつでも、わたしの心をそっと温めてくれたのです。


     わたしが旅に出たように、彼らも旅に出ました。
     イグニスさんが昔から書いていた『ルナフレーナ様』という名前がいっきに増えたある日、わたしはイグニスさんの真新しいジャケットに手帳と共に入れられ、インソムニアを旅立つことになりました。
     イグニスさんのジャケットの内側は、誂えたようにわたしと手帳にぴったりで、イグニスさんと一緒にいる安心感はありましたが、イグニスさんのいつもより大きく聞こえる鼓動が、旅立つ希望とわずかな不安を表しているようでした。
     インソムニアで生まれ、ほぼ王都城とノクトの部屋しか知らないわたしにとっても、それは長く、遠く、果てしない旅でした。旅にはいつか終わりがあるものですが、その旅は長く、ずいぶん長く続きました。その時のわたしには、もちろんわたしたちがどれほどここを離れるのか、知るよしもありませんでした。おそらく、イグニスさんにも分からなかったことなのでしょう。
     旅は決しておだやかではありませんでした。
     嵐の海の小舟のように彼らの感情は大きく揺れ、わたしを扱う手に込められた気持ちもまた、様々に変化していきました。とりわけ多くの悲しみが、イグニスさんの手から伝わってきました。何か、とてつもなく大きな変化があって、それはとても喜ばしいものではなく、綴られる文字が震えていることもありました。
     わたしはただのペンですから、イグニスさんの気持ちを受け止め、紙に書くしかありません。全てを綴られる手帳の方が、はるかに苦しいのかもしれませんが、手帳は持ち主に似て本当の気持ちを言わず、ただ、静かに耐えているのでした。
     ですが、それだけではなく、旅の間には楽しいこともたくさんありました。
     わたしは数多くの料理を覚え、美しい景色を見て、たくさんの人に会いました。良い人もいれば悪い人もいて、ユニークな人もいました。インソムニアにはない草原のしめった匂いを嗅ぎ、白い絵の具みたいな雲が空遠くまで流れるのを見ました。隕石を見ました。深い深い渓谷を見ました。火山や、凍った洞窟にも行きました。時々イグニスさんのジャケットは上下がわからなくなるほど激しく揺れて、その後には必ず生き物が亡くなる匂いがしました。


     旅路は長く、わたしは気づくと海のそばまでやってきていました。
     そこは、窓の外から潮騒と海鳥が鳴く声が聞こえる、岬にある灯台のそばでした。インソムニアからどれほど離れているかわたしにはわかりませんが、とても遠くだということはわかりました。
     わたしはイグニスさんたちが眠る部屋にいて、手帳と一緒にテーブルの上に置かれていました。イグニスさんたちは海を渡るようで、わたしは初めて見る海と船旅に思いを馳せていました。十五センチ定規が暗い引き出しの中で、一度話していたのを覚えています。海は青く、どこまでも果てしなく広がる、大きな水溜りなのだと。
     物思いにふけってぼんやりするわたしのところに、近づいてくる足音がありました。
     見上げると、それはノクトでした。
     ノクトはテーブルの上のわたしに気がつくと、まずはわたしの下にあった黒い手帳を手に取りました。ああ、そこにはイグニスさんの秘密が、とわたしが止めようとしましたが、所詮はペンなので止めることはできません。ノクトはぱらぱらとページをめくり、イグニスさんの書き綴った秘密を見てふっと笑いました。
     わたしとイグニスさんだけが知る秘密を知られて、少し悔しい思いもしましたが、相手がわたしとイグニスさんが好きなノクトだったので、仕方がないな、と諦めもつきました。イグニスさんもノクトが何か悪いことをするたび、「仕方ないな」とため息混じりに言い、それから優しい気持ちを隠しきれないようにそっと微笑むのでした。
     ノクトは無慈悲にページをめくり、次々にイグニスさんが書いていたことを読んでいきました。時折笑ったり、ちょっと怒った顔をしたり、悲しげに眉をひそめたりしました。
     それから、あるページに目をとめると、そこで手を止めました。
     ノクトの淡く灰色が混じった青い瞳が、細かく揺れていました。わたしはそれを息を潜めて見守りました。やがてノクトはそのページから顔をあげると、テーブルの上に置いたままだったわたしに手を伸ばしました。
     ノクトに使われるのは二度目のことで、その、少し皮膚が硬くなった指はわたしを持つと、イグニスさんの手帳の最後のページを開きました。そしてわたしを使い、手帳を閉じて元あったように戻しました。
     最後に手帳の表紙を撫で、その上に乗ったわたしに触れた時、わたしはどうかその手が離れていきませんように、と祈らずにはいられませんでした。わたしと、手帳と、イグニスさんのように、ノクトもそばにいてほしい。
     使われるだけのペンであるわたしが、初めて何かに願ったことでした。


     この世界には、ただのペンには理解できないことが起こります。
     世界からは昼が消え、夜だけになりました。こうなる前、イグニスさんがわたしを使うとき、いつも太陽の光がわたしをほんのりと温めてくれました。いつしかその温もりは消えて、イグニスさんのまわりには冷たい風ばかりが吹くようになりました。
     空は暗く、闇に包まれていました。
     わたしが最初に入っていた、あの引き出しよりも暗い闇です。全部を塗りつぶすような、絵の具よりも黒い闇。ノクトの瞳のような、美しい薄墨でもありません。
     そして、そのノクトもまた、わたしたちの前から消えました。
     少し前から、イグニスさんがわたしを使うことがなくなったのには、気がついていました。けれどジャケットの内側にわたしを入れたままでしたから、そういうこともあるのだろう、と最初は自分をごまかしていました。けれどそれが一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と続きました。わたしは手帳に日付を聞いて、時間の長さを計りました。長い時間、わたしはジャケットにしまわれたままでした。
     そして次に外に出た時にはもう、世界は闇の中でした。
     いったいどうしてこんなことになったのか、ただの量産品のペンであるわたしには考えもつきません。手帳も沈黙を守ったままでしたが、わたしと同じように困惑しているようでした。あの、辛かったけれど優しい、美しい日々はどこにもありませんでした。イグニスさんを見て、笑うノクトの姿も。
     そして、わたしにとって一番大きな変化は、イグニスさんの目が見えなくなったことでした。
     新緑みたいな、緑の瞳はもうわたしを映すことはありません。わたしを、旅の相棒のように頼もしく思ってくれていたあの視線が、永遠に失われたことをその白く濁った瞳が伝えていました。そんな、とわたしは、一番最初に引き出しにしまわれたように言いました。けれど引き出しにしまわれることより、はるかに悲しいことでした。人間なら涙を流すことができましたが、わたしはペンなので、それすら叶いませんでした。
     わたしは、これでわたしが役目を果たすことはなくなったのだと思いました。リフィルを入れ替えられず、捨てられてしまうことより悲しいことかもしれません。わたしは、生きる意味を失ったのです。
     けれど、それを救ったのはこちらもずっと一緒にいた、プロンプトでした。プロンプトはある時イグニスさんに「何か書くものちょうだい」と言い、わたしと手帳をイグニスさんが差し出すと、そこに文字を書きました。
     てっきり一瞬で終わる貸し借りかと思ったのですが、プロンプトは意思の強い、まっすぐなまなざしでイグニスさんを見ていました。
    「記録して、イグニス。ノクトのためになることかもしれない。全部覚えておいて。いつか役にたつときが来たら、イグニスを呼ぶから」
     ぐい、とプロンプトはわたしと手帳をイグニスさんの胸に押し付け、そう言いました。
     プロンプトはおそらく、イグニスさんをつなぎとめておくために、わたしを利用したのだと思いました。世界が闇に覆われてからのイグニスさんはどこか投げやりで、目を離すと何もかもをその場に置いて、どこかへ行ってしまう気がしました。だから、新たな役目を負ってわたしも奮い立ちました。
    「……できることからやろうよ」
     プロンプトの言葉に、わたしも大きく頷きました。
     イグニスさんは手帳を胸に抱き、プロンプトを白く濁ったまなざしで見つめました。そして彼もまた、一つ頷いたのでした。


     それから、わたしはたくさんの人の手に握られ、多くの言葉を綴りました。
     歴史や、地形の情報、人のこと、食料のこと。ノクトと旅したときにはなかった、現実的で重たい言葉が紙の上に並びました。けれどわたしも、手帳も、イグニスさんも、そこから逃げようとは思いませんでした。
     闇はどんどん濃さを増し、冷たく吹き付ける風に黒い粉が混じるようになりました。恐ろしい声が一日中響いて、それでもイグニスさんは前を向いて歩いていました。
     世界が闇に覆われ、ノクトがいなくなってから、ずいぶん月日が経ちました。空に太陽があったころ、子どもだった人間は、闇の中で大人になっていました。
     ある日、イグニスさんの元を訪れたのはグラディオでした。
     レスタルムの、イグニスさんが拠点としている宿に彼がやってくると、どうやら何か大きな荷物を持っているようでした。わたしは、いつもの定位置であるイグニスさんのジャケットの内側から、耳をすませて二人の会話を聞きました。
    「取ってきた。イリスがよろしくって言ってたぞ」
    「ああ、ありがとう」
     その包みは、洋服のようでした。イグニスさんは立ち上がり、まるで見えているかのようにハンガーを取ると、グラディオが持ってきた服をそこにかけました。
     ジャケットの内側から、その様子がちらりと見えます。洋服は黒く、イグニスさんの身につけているようなジャケットとボトムと、シャツの一揃いでした。最近ではあまり見かけなくなった、上等な布がふんだんに使われ、銀の装飾も施されていました。
     けれど、イグニスさんが身につけるにはジャケットもボトムも細身で、イグニスさんが着たらきっときついでしょう。長さも足りないように感じました。
    「ノクトに似合うな、きっと」
    「あいつ黒だけは誰よりも似合うからな」
     グラディオの憎まれ口に、イグニスさんが笑います。
     わたしは、ノクトが帰ってくるのかと驚き、そして嬉しく思いました。初めてノクトに使われた時のことを思い出して、わたしは久しぶりに小さく笑いました。あの、優しく可愛らしい子が帰ってくる。イグニスさんにとっても喜ばしいことでしょう。
    「サイズ合ってんのか?」
    「メモしてある」
    「さすがだな」
     イグニスさんが胸のポケットから手帳を取り出し、グラディオに差し出しました。わたしはちょうど手帳の表紙に挟まれていたので、グラディオがわたしを取り除き、ぱらぱらと手帳を開きました。
    「ああ、タルコットがに頼んでたアレ、わかったぞ。ついでに書いておくからな」
    「ああ、頼む」
     グラディオは手帳をめくり、「もうこれページねえぞ」と口にしました。そして最後のページを開いて、グラディオは手をとめました。グラディオの澄んだ茶色い瞳が、じっとそのページを見つめていました。
    「グラディオ?」
    「星が」
     とグラディオが口にしました。
    「星が描いてある。——ノクトの字だ」
     グラディオがそう言うなり、イグニスさんが手帳をその手から奪い取りました。グラディオの手に取り残されたわたしは、いつにないイグニスさんの様子に驚き、ただ呆然とその姿を見つめました。
     イグニスさんはページを大事そうに手でなぞりました。以前、そうやって眠っているノクトの黒い髪を、撫でていた時のように。
    「……なんて書いてあるんだ」
     これ以上ない悲痛な声で、イグニスさんは尋ねました。イグニスさんには、ノクトの書いた言葉はもう見えないのでした。
    「『おまえだけの星。願いごと叶えてやる』。一緒に、ちいさな星が描いてある。ひとふでがきの、ガキが描くみてえな……」
     イグニスさんは手帳を掻き抱くようにして顔に押し付けると、その場に膝をつきました。うずくまり、床に伏せてしまうと、歯を食いしばって嗚咽を堪えているのがわかりました。
     わたしは、海を渡る前にあの岬で、わたしを使ってノクトがこれを書いた時のことを思い出しました。
     ノクトはあの時、イグニスさんが星について書いたページを見て、これを思いついたようでした。あの後、手帳がそのページに何があったのかを静かな言葉で教えてくれました。星に願うことは二人の思い出で、とても大事なことだったのだと。
     イグニスさんはしばらくそのまま、自分の中に痛みや悲しみを閉じ込めようとしていました。グラディオはわたしを持ったまま、ただ黙ってそれを見ていました。グラディオの手は温かく、とても大きかったけれど、ノクトやイグニスさんを悲しみから守りきれない無力感が、その手のひらから伝わってきました。
     わたしは、わたしたちは、とても大事なものを、なくしてはいけないものを、これからなくそうとしているのかもしれない。わたしはグラディオの手に包まれながら、そう思っていました。


     そしてノクトは帰ってきました。
     わたしの記憶の中のノクトとは、少し違った姿で。
     ノクトの、ぴかぴかだった肌にグラディオやプロンプトのようなヒゲが生えていて、わたしは驚きました。雲型定規で描いたような完璧な曲線を描いていた目元には、小じわさえありました。やわらかい曲線を描いていた頰は、まっすぐな稜線へと変わっていました。
     時は、わたしたちの上だけではなく、ノクトの上にも公平に通り過ぎたようでした。
     できることなら、そうやって変化していくノクトの姿を、わたしはそばでイグニスさんと一緒に見ていたかった。けれどわたしが生きていく中で学んだことですが、時は絶対に戻らず、過ごしてしまった時間は二度と取り返しがつかないのでした。
     そして、彼らはまた旅に出ました。
     わたしは、いつものようにイグニスさんと一緒に居たかった。けれどイグニスさんは、わたしと手帳を置いて、どこかへ行ってしまいました。もう会えないような、そんな不安ばかりが膨れ上がって、わたしは「連れていってください」と叫びましたが、もちろん声のない叫びなどイグニスさんの耳には届きませんでした。
     わたしのそばに寄り添う手帳が、珍しく「だいじょうぶだ」と言いました。普段の寡黙な手帳らしくもなく、根拠のない言葉にわたしはよけい悲しくなりました。
     手帳と二人きりで過ごす時間が、これ以上なく長く感じました。こんなにイグニスさんと離れていることは、今までなかったのですから。
     わたしは、イグニスさんたちが早く帰ってくることを祈りました。イグニスさんにノクトの星があるように、わたしにもどこかにわたしだけの星があって、願いを叶えてくれることを信じました。
     黒い闇に覆われる前、空には数えきれないほどの星が輝いていました。だからその中の一つくらい、ちっぽけな文房具の願いを叶えてくれる星があったって、いいじゃないかと思いました。そう話すと、手帳も一緒に祈ってくれました。


     やがて、わたしのそばに光がやってきました。
     電灯の明かりでもなく、火でもありません。懐かしい、暖かな輝き。
     ああ、とわたしは言いました。かつて全身でその光と熱を感じていたのです。空がこんな風に茜色に輝く時、イグニスさんはたいていインクみたいに黒いコーヒーを飲んでいました。朝食を作って、みんなの目覚めを待っていました。
     イグニスさん、とわたしは呼びかけます。
     朝です。朝が戻ってきたんです。夜が終わりました。
     闇が晴れて、太陽が昇ってくるんです。
     時間や失われたものは戻ってはこないけれど、また陽が昇ります。長かった旅が、ようやく終わるんです。帰りましょう。インソムニアに帰りましょう。家に戻るまで、旅は続くのですから。ノクトと一緒に、みんなと一緒に、帰りましょう。
     わたしのそばで、手帳は泣いているみたいに震えていました。辛い歴史やさまざまな事実を書き綴り続けて、疲れてしまったのかもしれません。
     わたしは光の中、声にならない声で呼びかけ続けました。
     朝が、朝がきました。
     帰りましょう、イグニスさん。
    にもじ Link Message Mute
    2018/08/10 23:22:13

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