Depth.8400 ビリー・ザ・キッドが姿を消す時、それは月の明るい夜である事が多い。以前、マシュと2人で巌窟王の部屋に遊びに行って帰りが遅くなった時も、こんな風に夜の廊下を歩き回って探した。
「ビリーさんでも、やきもちをお妬きになるのですねぇ」
隣を歩く玉藻の前が嘆息する。彼女と出くわしたのは2つ前の曲がり角で、自室に戻る途中だというので、それまでの間でよければと探索に付き合ってくれているのだ。
月の光に照らされた壁と廊下がぼんやりと青白く浮かび上がり、プールの水底を歩いているような気持ちになる。
「彼、単独行動A持ちでしょ?本気で隠れられるとお手上げなのよ」
「なるほど。わたくしも先ほどから四方に耳を澄ませていますが、どこにいらっしゃいますやら、見当がつきません」
彼女に無理だと言われると、桁違いの絶望感が襲ってくる。
このカルデアで最も強力なサーヴァントが、この玉藻の前である。運用できる魔力の量はもちろんの事、過酷な戦いを幾度も経験する中で鍛え上げられた、土壇場での判断力、肝の据わりよう、状況把握や頭の回転の早さにおいて、彼女の右に出る物はいない。
その彼女に見つけられないとなれば、こうして探していても意味が無いのではないかと思えて、立香は額を押さえた。くっきりと疲労の色が現れているその顔を覗き込んで、玉藻の前は優しく笑いかける。
「まあまあ、ビリーさんは猫のようなお方ですから。朝になれば、ちゃっかり顔をお見せになるでしょう」
「そうだと思う、けど…」
「夜のうちに、仲直りをしておきたいのですか?」
図星だったので、何も言い訳が出来なかった。
たいていの場合、ビリーは誰にも知られないように行方をくらませる。とはいえ、そんなにしょっちゅう黙って姿を消していては迷惑がかかる事もわかっているらしく、彼がそういう行動に出る時は、何らかの事情で立香と顔を合わせるのが気まずい時だけだった。
当事者以外でそんな事を知っている、というか見抜いているのは、玉藻の前ぐらいである。
「さて、わたしはここまでです。もしよければ、お部屋で占って差し上げましょうか?」
いつの間にか玉藻の前の部屋まで来ていたらしい。その言葉に顔を上げると、輝く稲穂の海のような金の瞳にじっと見つめられた。少しだけ考えて、立香は首を横に振った。
「もう少し、自分で探してみる」
そう答えると、玉藻の前は微笑んでうなずいた。扉を開けて部屋に踏み入る前に、こちらを向いて会釈をしようとして、ふと動きを止めた。
「マスター」
「うん?」
「お耳の怪我はもうよろしいのですか?」
今朝の戦闘で、立香は流れ弾による怪我を負っていた。
といっても、弾は左耳の端をかすめただけで、それほど重い傷ではない。ただ、痛みがひどく、血がなかなか止まらなかったため、立香は昼過ぎまで医務室から出られなかった。
この時間になってようやく出歩く事が出来るようになったが、怪我をした箇所を包帯でぐるぐる巻きにされている為、見た目は十分痛々しい。
「うん。もう痛みはないよ」
「それはよかった。ですが、あまり長く出歩かれますと、お痛みが増しますので、どうか早くお休みくださいましね」
玉藻の前はそこでいったん言葉を切り、眉根を寄せてなにか考えるような素振りを見せた後、こう付け足した。
「レモネードでも召し上がってはいかがでしょう? 体が温まって、よくお休みになれるかと思います。それでは」
衣に焚きしめている白檀の香りをふわりと広げて、玉藻の前は扉の向こうへ消えていった。
立香は少しの間、きょとんと立ち尽くしていた。彼女にレモネードをすすめられるなんて、初めての事だったからだ。
温かいレモネードを販売している自動販売機は、何台か見かけた気がするが、すぐに思いつく場所は1か所しかない。立香は小銭入れを取り出すと、小走りに廊下を進んでいった。
3階の展望室の広い窓辺に腰を下ろして、ビリーは紫煙をくゆらせていた。足音に気付くとこちらを振り向き、口元だけで微笑んだ。
「よくわかったね。今回は朝までばれないと思ったんだけど」
「玉藻が教えてくれたの」
「なんだって?」
ビリーの目が大きくなる。
「君なら、まず彼女に僕の行き先を聞きに行くと思ったから、内緒にしておいてくれって頼んで来たのに。逆効果だったかな」
その言葉を聞いて合点がいった。やはり、彼女はあの時、暗にビリーの居場所を立香に教えてくれていたのだ。
「逆効果というか、ビリーの判断ミスだよ。玉藻は半分神様みたいなものなんだから、ただで頼みを聞いてくれるわけないじゃない」
「なるほどね」
ビリーは、くっくっと喉を鳴らして笑った。
「あーあ、ヘマしたな。あとで生け贄でも要求されなきゃ良いんだけど。あ、隣に来る?」
「うん」
ビリーの隣に腰を下ろして、少しの間、とりとめの無い話をする。
いつもの煙草と匂いが違うね、と言うと、ロビン・フッドから分けてもらったのだと答えた。
「たまには、気分を変えてみるのもいいかと思ってさ」
「ロビン、煙草を持ってたんだ。毒の怖さをよく知っているはずだから、吸わないのかと思ってた」
「この体じゃなんの害もないからね。まあ、そこまで好きじゃなさそうだから、あんまり吸ってるところは見ないけど」
「ふうん。他に、よく吸ってるのは誰?」
「そうだな…。巌窟王、ミスター・ホームズ。それと、エミヤかな。フードかぶってる方の」
「その面子だと、ビリーだけ浮いて見えるねえ」
「言うなよ、ちょっとは気にしてるんだからさ」
話をしている間、耳の奥で、さらさらと音が聞こえる気がした。本当に話したいと思っているたった1つの事を覆い隠している細かい砂が、こぼれ落ちていく音だった。
窓の外に目を向けると、大きな刷毛で濃紺の絵の具を塗り下ろしたような夜空に、ぽつんと月が浮かんでいる。雪に覆われた山並みは冷たく静かにたたずんでいて、巨大な生物の骨のようにも見えた。
「こんなに静かだと、海の底みたい」
「…そうだね。見た事ないけど、こんな感じなのかもしれないな」
ビリーが煙草の煙を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
「立香は、8400mの境界線の話を知ってるかい?」
「8400m?」
「うん、今のところ、8400mより下の深海に生息している魚は確認されていないらしい。はっきりわからないけど、細胞が正常に働かなくなるとかで、それ以上潜る事が出来ないんだって」
咥えた煙草をくいと持ち上げて、ビリーは涼しい笑みを浮かべた。
「ここみたいだと思わない?」
立香は顔をしかめた。
「とんだブラックジョークを聞かされてしまった…」
「あはは。皮肉が効いてるって褒めてほしいな」
「それ、私以外に言っちゃだめだからね」
「もちろん。さてと」
これももう終わりだ、と言って、ビリーは煙草を灰皿に押しつけた。それから腰を浮かせると、空いた左手で立香の髪をそっとかき上げた。色の薄い瞳が、静かにこちらを見つめた。
「傷、もういいのかい」
その声を聴いた途端、喉に熱いものがこみ上げた。すぐに顔をそむけたが、あっと思う間もなく涙が頬を伝って落ちた。
「ビリー、ごめん。ごめんなさい」
「うん」
今朝の出来事だった。
予想を遥かに超える数の敵と戦闘になり、普段は安全なラインまで下がっている立香も戦闘に巻き込まれた。撤退の指示を出した後に走って逃げ出したが、ビリーの銃撃を掻い潜って来た1体のマンティコアに飛びつかれ、石畳に押し倒された。
真っ白な頭の中が死の恐怖に埋め尽くされた時、視界の端で何かが陽の光を受けてきらめいた。
ビリーの銃だった。
迷っている猶予はなかった。立香は令呪を掲げると、ビリーに向かって、自分ごと撃て、と叫んだのだった。
「わたし、あなたがしたくない事をさせてしまった」
今でも、間違った判断をしたとは思っていない。あのタイミングでビリーに撃たせていなければ、喉が食い千切られていただろう。
それでも、令呪の力を行使して彼にそうさせたという事実の重みは、何時間もかけてじわじわと立香を締め付けた。
声を殺してしゃくり上げる腕の中の少女を、ビリーは抱きしめた。
「見えなかったと思うけど、君が倒されてすぐに銃を向けたんだ」
頭の上から優しい声が降る。
「撃てると思ったのに、指が動かなかった。その時、君が令呪を切ってくれたんだ。ありがとう、立香。君は正しい行動を取ったけど、そのせいで怖い思いをさせてしまって、すまなかった」
最後の方は、彼の声音もわずかに震えていた。煙草の匂いが染みついたシャツを握って、立香は、違う、と心の中で叫んだ。
本当に謝りたかったのはその事ではない。胸の奥深くに押し込めていて、まだ言えていない事が、もう1つだけある。そう伝えようとどんなに頑張っても、喉はひきつって震えるばかりで、言葉にする事は出来なかった。
肌を通してビリーの体温が伝わってくる。いつの間にかずいぶん懐かしく感じるようになったその温もりに、氷のように硬かった決心は溶けだして行った。
来た時よりも冷えが深まった廊下を2人で歩き、立香の部屋へ戻った。カードキーをかざして扉のロックを解除すると、ビリーはこちらを振り返って聞いた。
「今日は、僕の部屋で寝てもいいかな」
立香はうなずいた。時間が経つと共に抜けてくれる事を待つしか無い棘が、自分にも彼にも、まだ残っている。
彼を見送り1人になると、疲れが一気に押し寄せてきて、おぼつかない足取りでベッドに潜り込んだ。眠気に耐え切れずにまぶたを閉じると、さっき飲み込んでしまった言葉が蘇った。
(わたし、怖くなかったんだよ)
あの時、彼が引き金を引いた瞬間、燃える薪のようにぎらつく瞳を見た。ビリーもあんなに追い詰められた顔を見せる事があるのだ、と思った時、胸を突いたのは恐怖ではなく安堵だった。
今ここで終わってしまっても、受け入れられると思った。いつか彼の生きた時間を飛び越えてしまうこの命を、その手で終わらせてもらえるのならば。
死の危険が迫る中で混乱していたのだと、何度も自分に言い聞かせた。それでも、一瞬でもそんな事を考えた身勝手さや弱さに、どうしようもない嫌悪を覚えて、立香は唇を噛みしめた。
一緒に未来を見たいと言ったマシュの顔を思い出す事が出来ないのは、きっと、ここが光も届かない海の底だからだ。刺すように鮮烈な潮の匂いを抱えたまま、立香の意識は深みに落ちていった。