Tank, tank, tank. 水族館の天井は半壊していた。
むき出しになった鉄骨の間から、月の光が降り注ぎ、もう泳ぐ魚のいない水槽を照らしている。まだ水気の残っている場所からは、やや生臭い冷気が立ちのぼって、立香の鼻先をひやりと撫でていった。
「傾斜のついた場所ばかりだ」
前を行くビリーが気怠げにぼやく。
狭いスロープは、折り返しながらゆるやかに下降して、廃墟の奥深い場所へ2人を招き入れている。
「水族館だからね。広くて平らな場所っていうのは、あんまり無いと思うよ」
壁に並ぶ水槽群を眺めながら、立香は答えた。
「水族館?」
「うん。ここに水を溜めて、海の生き物を飼っておくの」
「ふーん。何のために?」
不思議そうに尋ねられて、立香は口ごもった。
率直に「魚を見るためだ」と答えたところで、ビリーは、なおさら不可解に思うだけのような気がした。
「……海の中には、簡単に入れないから。
だから、みんなここに来るの。珍しい魚や、きれいな魚が泳ぐ様子を、自分の目で見る事が出来る。
本当は、水槽の中はすごく綺麗に手入れされているんだよ。
水がきらきら光って、海藻が揺れていて、何時間でも見ていられるくらい」
「なるほどね」
ビリーは、近くにあった水槽に顔を寄せると、口の端を持ち上げた。
「ここは見世物小屋ってわけだ」
そう言うと、ふいっと体の向きを変えて、また歩き出した。
遠ざかっていくビリーの背中を眺めながら、立香は小さくため息をつく。
(話しづらいな)
ビリー・ザ・キッドは、かなり新しい時代の英霊だ。
腰に吊っている拳銃は恐ろしかったが、年代が近い事もあり、出会ったばかりの頃は、比較的気軽に話せるサーヴァントだった。
だが、この頃は少し様子がおかしい。
2人きりになった時、こんな風に冷ややかな仄暗さをまとって、立香をよせつけない事がある。目深にかぶった帽子の陰に表情を隠して、いっさいの考えを読み取らせない。そんな時には、彼との間に、薄黒いヴェールが降りているような気がする。
こうなってしまうと、もう立香にはどうしようもなくて、彼が自らヴェールをたくし上げて、明るい顔を見せてくれるのを待つしかなかった。
スロープを下りきると、これまでとは趣向の違う展示室に出た。
目の前には、息をのむほど大きな水槽がぽっかりと口を開けている。やはり、もう水をたたえてはいなかったが、小ぶりな体育館ほどの広さがあり、ビリーは感心したのか、ピュゥ、と口笛を吹いてみせた。
かつては、この水族館の目玉展示だったのだろう。水槽前の観覧スペースはかなり広く造られていて、立香はその中央にブルーシートを敷いて、機材を並べた。
カルデアとの通信に使う機材を設置するのは、慣れた作業だったが、いささか手順が複雑だ。間違えないように慎重に行っていると、配線を繋ぐだけでも30分ほど時間が掛かり、その間にビリーの姿は見えなくなっていた。
作業を終えた立香が、手元を照らしていた照明のスイッチを切ると、
「終わった?」
大水槽の中から、ビリーの声が聞こえた。
「うん。あとは電源を入れて、ちゃんと動くかどうかを確かめれば……」
言いながら、ビリーの方へ顔を向けて、立香は声を失った。
ビリーは水槽の中央に立っていた。彼の周りには、どろどろに腐敗した海藻や、黒ずんだ魚の死体、そして、巨大な氷のようなアクリル板の砕片が転がっている。
回遊魚の群れすら抱え込んでおける水槽は、今は、ただ寒々しく濃厚な死のにおいだけで満たされて、その中に立つビリーの姿はぞっとするほど小さかった。
「なに? どうしたの?」
立香の目は、まだ暗闇に慣れていなかった。ビリーの輪郭は黒くぼやけて、暗がりへ融け出していきそうに見えた。
「ビリー、戻ってきて」
「え? なに?」
「戻ってきて!」
立香が声を荒げると、ビリーは驚いてびくっ、とのけぞった。
だが、すぐに不機嫌そうな声で言い返してきた。
「なんでさ? マスターの側からだと死角になる場所が多いけど、ここからは全てがよく見えるよ。
僕がそっちへ戻っても、不意打ちされる危険を高めるだけだ」
「それ、は」
確かに、ビリーの言う通りで、立香には返す言葉もなかった。
立香が黙り込むと、ビリーはひょいと肩をすくめて、歩き出した。ブーツの靴底で石をひっくり返したり、藻屑をかき分けて、何か探すかのように水槽の中をうろついていたが、足を止めると小さく舌打ちした。
「やっぱりだめだな。食べられる物があれば、と思ったんだけど」
不快そうに顔をしかめ、スカーフを引っ張り上げて口を覆う。
「全部腐ってる。ひどい臭いだ。
ああ……こいつのせいか。ふうん、こんなに大きな魚がいるんだ。すごいね」
そんな事をつぶやきながら、足先で何かをつついていたビリーが、ふいに沈黙した。
足下を凝視して、凍り付いたように固まっている。
「どうしたの?」
「まずい。マスター」
突如、轟音と共にフロアが揺れた。
藻屑の山が波打ち、そこから飛び出した白い影が、がっ、とビリーに向かって口を開くのが見えた、次の瞬間、彼の姿が視界から消えた。
「ビリー!」
「来るなっ!」
するどい声に、立香は踏み出した足を止めた。
巨大な骸骨がビリーに覆い被さっていた。細長い頭骨から、しなやかにたわむ脊椎までを合わせた全長は、ビリーの体躯の4~5倍はある。肋骨の左右には、ヒトの掌のように末端が5つに分岐した、平たい骨があり、それを猛々しく水槽の底に叩き付けていた。
ビリーの体をくわえ込んでいる顎には、するどい牙が生えそろっている。
立香の全身から、ざあっと音を立てて血の気が引いた。
(シャチだ!)
ビリーは、シャチの体の下から抜け出そうとして脚をばたつかせながら、左腕に持った銃で発砲した。弾は頭骨の中心を撃ち抜いたが、それだけではシャチの勢いを殺す事は出来ず、辺りには鉄のにおいが充満し始めた。
ビリーの血に酔いしれたシャチは、狂ったように首を振り、さらに深く牙を突き立てる。
苦痛に顔を歪めてのけぞったビリーの肩から、ぱっ、と血がほとばしったのを目にした瞬間、立香は無茶苦茶にわめきながら駆け出していた。
武器代わりに、照明器具の支柱を拾い上げて水槽の中に飛び込み、ビリーとシャチの間に体をねじ込む。めいっぱいに振りかぶった両手で、頭骨の中心に支柱の先端を突き立てた。
弾痕を起点に、頭骨の中心につっ、と黒い線が走ったかと思うと、シャチの慟哭と共に、亀裂の下から真っ黒な霧が噴き出した。
「こっち! ビリー!」
シャチが離れた、わずかな隙をついて、立香はビリーの手を引いて水槽の縁まで後ずさりした。
額の内側から霧を噴き出しながら、シャチは、苦しげにのたうち回っていたが、しばらく経つと、糸が切れたように動きを止めて、ばらばらになって崩れ落ちた。
シャチが完全に動かなくなったのを確認すると、立香は、ビリーのそばに駆け寄って膝をついた。
「ビリー! しっかりして、ビリー!」
頬に手を当てると、ビリーは虚ろに目を開き、こちらを見た。わずかに口を開いて、何かを言おうとしたが、咳き込むばかりで声にならない。
(──血が)
ビリーは、自分の血で全身を真っ赤に染めて、力なく手足を投げ出していた。肩から噴き出した血は目元まで飛び散り、わずらわしそうにまぶたを震わせている。
幸い、頸動脈に傷を負ってはいないようだが、失血と恐怖で混乱しているらしく、細い管に空気を通すようにヒューヒューと苦しそうな息をしていた。
無傷の左腕を肩に回して、慎重に体を持ち上げると、ビリーはかすれた声でささやいた。
「ごめん。マスター」
「大丈夫……。無理に喋らないで」
水槽を出て、壁際に体を横たえさせると、ビリーは震える指先でスカーフをほどき、立香の顔に押し当てた。
なに? と目で問うと、
「血のにおい、きつい……だろ。煙たいかもしれないけど……これ……巻いてなよ」
そう言って、ふっと目を細めた。
針で突かれたような痛みが、立香の胸を貫いた。
不意打ちをされて、鋭い牙に肉をえぐり取られて、どんなに痛かっただろう。──恐ろしかっただろう。
もっと早く、ビリーを助けられる方法があったに違いない。なのに、その術を見つける事も、実行する事も出来なかった。
そんな自分のふがいなさを思うと、怒りで目の奥が燃え上がるようだった。
立香はただ黙って首を振り、ビリーのネクタイを緩めた。シャツの襟元をはだけると、肌の上に穿たれた穴から、脈動に合わせて血がど、どっ、と噴き出している。
(血が止まらない)
たとえ生身の人間でなくとも、魔力で編み上げた肉体を与えられている以上、血を失い続ければいずれ消滅してしまう。
だが、治療用具も、治癒スキルを使えるサーヴァントもここにはいない。
今の立香にできる事は、ひとつしかなかった。
背中の下に腕を差し入れて、ゆっくりと体を起こすと、ビリーは呻いた。
「痛い? ごめん、ちょっとだけ我慢して」
そっとビリーの上体を抱き寄せて、肩に頭をあずけさせる。
ビリーは、体をこわばらせて震えていたが、立香に寄り掛かっているうちに少しずつ呼吸が落ち着いてきた。
「ちょっと楽になった?」
苦しそうな呼吸音が聞こえなくなってから、そう尋ねると、ビリーは小さくうなずいた。
ふうっ、と息を吐くと、立香の腰に手を回して、いたずらっぽい顔でこちらを見上げた。
「光栄だよ。人類最後のマスターから誘ってもらえるなんてね」
立香は苦笑した。
「もう、茶化さないで」
ビリーの前髪をかきあげて、あらわになった額に、自分の額を押し当てる。
マスターとの距離が近ければ近いほど、サーヴァントは多くの魔力を受け取る事ができる。このまま肌を触れ合わせていれば、いずれ傷も癒えるだろう。
まだ、少し冷たい身体を抱きしめて、立香はじっと目をつむっていた。
魔力を渡しているうちに、立香の方が体力を切らしてしまったらしい。
ほんのつかの間、船を漕いだだけのつもりだったが、目を開けた時には、畳んだビリーのジャケットを枕にして寝かされていた。
ビリーは、水槽の中に立っていた。夜の廃墟に取り残された彫像のように、静かに佇んで、骨を見つめていた。
「カルデアの図書館で、調べたんだ」
立香の方を振り向かずに、ビリーはつぶやく。
「僕が入った棺桶、今はもう、どこにあるかわからないらしい。
あの辺りは、はげしい雨が降ると、砂が濁流になって大地を削るんだ。
みんな流される。家が建っていようが、人が埋まっていようが関係ない」
ビリーはしゃがみ込むと、頭骨の欠片を拾い上げた。
「僕の骨も、どこかで、こんな風にぼろぼろになって……月に照らされているのかな」
立香は起き上がり、水槽の中に歩いて入った。
隣に立って、じっと顔を覗き込むと、ビリーはいぶかしげに眉をひそめてこちらを見た。
「なに?」
「まんざらでもない、って顔してる」
ビリーは、はっと息をのんだ。
いっぱいに見開いた目で、立香の顔を凝視した後、ほろっと目元を蕩かすような笑い方をした。
「そりゃそうさ。
もう、誰かに追われる心配もなく、身ひとつで地面に寝転がっていられるんだからね。
それは最高に気持ちのいい事だよ」
精巧に作られた仮面でも、ヴェール越しのぼやけた表情でもない。
それは、立香が初めて目にした、彼の本物の笑顔だった。