迎え火 雨の日は好きだ。
濡れた傘を持ち歩かなければならない事や、タイル敷きの床が濡れて靴底が滑ってしまうのはわずらわしかったけれど、それはささいな問題だった。
雨粒は銀のビーズみたいに繋がって図書館を覆い、人の話し声も、少し眩しすぎる初夏の木々の緑色も、心地よく遮ってくれる。本を読む合間に顔を上げると、川向こうにある山には青みがかった灰色のフィルターがかかって見えた。
わたしが世界で一番好きなその色を、ウィリアムは瞳の中に持っていた。
『ねえ。本を探してるんだ』
春の中頃、いつものように一人で本を読んでいたわたしに、そう声をかけてきたのは、涼しげな目元をした西洋人の青年だった。
小学校への新入生もそろそろ二十人を下回りそうな、この田舎町では、希少な野生動物よりもずっと珍しい存在だった。
『タイラ・ファミリーの一生? いや、歴史? を書いた本なんだけど』
『た、タイラ・ファミリー?』
物心ついた頃からこの図書館に通っているけれど、一度も聞いた事のない名前だった。
『そう。それも、ずっと昔に書かれた本だ。何せサムライしか出てこないんだからね』
『えっ。日本の本ですか?』
『そうだよ?』
その時、頭の片隅でかちり、と何かが繋がった。
『タイラって、平氏一族の事……?』
『ああ、それだ!』
青年はにわかに顔を輝かせ、しきりにうなずいた。
『そうそう。確か、へーシ、とか、ヘーケ、って言葉がタイトルに入っていた』
『ああ、平家物語ですね。待っていてください』
その後わたしが持ってきた、日本古典をコミカライズしたシリーズを、ウィリアムは今でも読んでいる。と言うかそれしか読まない。シリーズ全体の巻数は十冊と少ししかなかったけれど、彼は、なぜか雨の降る日にしか姿を見せなかったから、いっこうに読み終える気配がなかった。
わたしの向かいに座って、今日は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読んでいる。
ふと、思いつきで、
「古典以外は読まないんですか? 好きなジャンルを教えてくれたら、適当に見つくろってきますよ」
と持ちかけると、ウィリアムは少し考えた後、
「冒険譚が好きだ」
と言った。
「平凡な少女が、未来を救う重荷を背負って、過去の偉人と手を組んで戦う話、とかね」
「へえ……」
この頃流行っているタイムリープものだろうか。
「面白そうですね。ウィリアムさんの国では人気のあるお話なんですか?」
ウィリアムはすぐには答えずに、黙ってページをめくった。
その顔に、カーニバルで付けた面を外し忘れたみたいに、違和感のある微笑みが貼り付いているのを見た時、ぞくっと背筋が寒くなった。
「いや。たとえばの話さ」
「それって、リツカ・フジマルみたいね」
「リツカ・フジマル?」
「そう」
祐実はうなずいて、手に持ったアイスキャンディーにかじり付く。その横で、わたしもラクトアイスをすくって口に運ぶと、もうヨーグルトみたいにふにゃふにゃになっていた。コンビニなんて一軒もない町だから、わたしも祐実も、家の冷蔵庫から持ち出してきたアイスをさもしく舐めている。
ひどく太陽が照りつける真夏日だった。空も雲もぎらついて、アスファルトの上には陽炎が揺れている。県道沿いの道を歩いてくる間は、セミの鳴き声のせいで会話もままならなかったけれど、川原まで降りてくると少しだけ静かになった。
「リツカ・フジマルは、世界を救った少女。ひいおじいちゃまがよく話していたそうよ」
「ひいおじいさんって、あの、おいしそうな名前の」
「ムニエルね。まあ、どこまで本当の話だったのか、わかったもんじゃないけれど」
もう亡くなった祐実の曾祖父はフランス人だったのだ。とはいえ、彼女自身に渡仏の経験はない。きりりと凜々しい目元が、そう言われてみれば少し彫りが深いかな、と感じる程度だ。
『読書は好きだけど、あの図書館は苦手なのよね。わたしには少し暗すぎるわ』と言ってのける、こざっぱりとした性格が好きで、わたしはよく彼女と一緒にいた。
「『リツカ・フジマル』って変わった名前だけど、日本人だったの?」
「らしいわよ。ひいおじいちゃま曰く『どこにでもいそうな普通のティーン』。ただ、茶髪よりももっと明るい、炎みたいな髪色をしていたそうだけど」
わたしは頭の中で、思いつく限りのアイドルの髪色を変えてみたけれど、強烈な違和感が残った。
「……いよいよファンタジーだなぁ」
「でしょ?」
夏休みも後半にさしかかると、就職や結婚、進学など、各々の事情で町を出た卒業生の姿を見かけるようになった。盆休みが始まったのだ。
図書館の窓から見える町営グラウンドには、夏祭りで使う低いやぐらが建ち、ワイシャツの袖をまくった町役場の職員さんが行ったり来たりしながら、建材やバッテリーを運び入れている。
今日は、昼過ぎから降り始めた細い雨のせいで、その作業は一旦中断されているようだ。
すでに組まれた屋台をぼんやりと眺めながら、あれは濡れても大丈夫なのかな、と考えていると、
「一緒に行こうよ」
ウィリアムの声がそう言うのが聞こえた。
驚き過ぎたせいか、それが自分にかけられた言葉であると、わたしはすぐに理解できなかった。
「……えっ。二人で?」
「うん」
それ以外に何が? とでも言いたげに、ウィリアムは首をかしげる。
急に、うなじから頬にかけてぶわっ、と熱が上って来て、わたしはあわてて顔を押さえた。
「そんな、嘘!」
「嫌かい?」
「そんな事は、ないですけど」
「けど?」
そうは言ったものの断る理由が見つからないわたしは、最初に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「ウィリアムさんって、晴れていても外出できるんですか?」
ウィリアムは、ぽかんと口を開けて「はあ……?」と気の抜けた声を発した後、急に体をのけぞらせて笑い始めた。
「君ってば、僕を吸血鬼か何かだと思ってるわけ?」
「だって雨の日しか来ないじゃないですか!」
ウィリアムはまだ笑い続けていて、そのいたずらっぽい笑顔のまま、試すようにわたしを見つめた。
「もっと会いたいの?」
直接的な物言いでそう問われると、不思議と気恥ずかしさは消えた。
わたしは心を落ち着けて、夏休みの間、彼と毎日のように、この図書室で二人で会う光景を想像した。
「……いえ。ウィリアムさんだって忙しいんでしょうし」
ウィリアムは満足げに目を細めた。
「賢明だね。問い詰めて、理由を聞き出そうとしない」
「そんな事をしたら、二度と会いに来てくれなさそうですから」
わたしはそこで言葉を切った後、少し考えて「でも」と付け加えた。
「屋台のたこ焼きとかベビーカステラを食べたら、ちょっとは口が軽くなるんじゃないかな、って期待はしています」
上目遣いに見上げると、ウィリアムはふっ、と口の端を持ち上げて、余裕たっぷりの大人みたいに微笑んだ。
中学生に許されたおしゃれは、初めから選択肢が少ない。一ヶ月のお小遣いが五百円ともなれば、さらに出来る事は限られる。
色々と考えた結果、夏祭り当日までの毎日、わたしはいつもよりも長めに時間を取って湯船に浸かった。アイスもお菓子も我慢した。
あまり真面目に見た事のない衣装ダンスの中身を吟味して、悩んだ末に、母さんに「浴衣を着せて欲しい」と頼んだ。
──そこまではよかった。
「あっ、そうだわ! せっかくだから、おばあちゃんの形見の帯留めも出しましょう」
母さんがこう言って発掘作業を始めたのは、なんと夏祭り当日、ウィリアムとの待ち合わせ時間まであと数分に迫った時点だった。
案の定、すんなり見つかる気配はなく、
「もういいって。そんなにきっちりしてくる子なんていないよ」
と言ったのだが、
「でも、すごく綺麗なのよ? 本瑪瑙で造ったアンティーク物だし、ぐっと大人っぽく見えるわ」
そう返されると黙り込むしかなかった。
ウィリアムの事は一言も言っていないのに、「並んで歩いたら子供っぽく見えるのではないか」と悩んでいたのを見抜かれた気分だった。
ようやく見つかった帯留めは、尾びれがたっぷりと膨らんだ金魚の形をしていた。グラデーションのかかった朱色は、本瑪瑙そのものが持つ色なのだろう。朝焼けの空を切り取ったようで、とても美しかった。
ひんやりと冷たい金魚を手のひらに乗せた時、ふと、リツカ・フジマルの髪もこんな色だったのだろうか、と思った。
町営グラウンドに向かう道は、同じような格好の人でごった返していて、わたしは浴衣の襟を押さえながら、人混みの中をそうっと進んだ。走って、一分でも早くウィリアムに会いたかったけれど、浴衣が着崩れるのが怖かった。
待ち合わせ場所に着いた時、ウィリアムの髪は提灯の明かりに照らされて、ぼんやりと赤みがかった金色に光っていた。
小走りに近付くと、ぱっと顔を上げて微笑んだ。
「よかった。途中で何かあったのかと」
「すみません! 母さんがどうしても帯留めを付けたいって言って、聞かなくて」
「オビドメ?」
「あ……。この、帯の上に付けるアクセサリーです」
紐を通して結わえ付けた金魚を指さすと、ウィリアムは「へえ」と興味深そうに身を屈めて覗き込んだ。
そこで、彼の動きが止まった。
ウィリアムはわずかに唇を開いて帯留めを凝視していた。周りの空気ごと凍り付いてしまったような、完全な沈黙に、わたしはただ気圧されて立ち尽くすしかなかった。
だけど、わたしの胸の下を熱心に見ている彼の姿を、通りがかった人が目にしたらどう思うだろう、と気が付いて、思い切って声をかけた。
「あ、あの、ウィリアム」
にわかにウィリアムの瞳に光が戻った。
「あ……ごめん」
まだぼんやりとした表情のまま、体を起こすと、小さな声でつぶやくように言った。
「探している人が、ちょうどそんな瞳の色をしていたから」
「幽霊でも見たような顔でしたよ」
冗談のつもりだったけれど、ウィリアムは卑屈っぽい笑顔を浮かべただけだった。
唐揚げとフライドポテトが揚がる匂いが、ソースの焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。手ぬぐいを頭に巻いたおじさんが、威勢のいい声を上げて客を呼び込んでいる。会場に入った時よりも増えた祭りの客は、糊の効いた浴衣を着こなして、軽い足取りでめいめいの方向へ歩いて行く。
その間を、わたしはウィリアムと並んで歩いた。
夢のようだ、と思った。
憧れの人に誘われて、一緒に夏祭りに来るなんて、この上なく幸せな事だと思った。だけどそう考えている自分は、頭の隅っこの方にぽつんと一人で佇んでいて、なんとなく別の生き物のように思えた。
見た事のない、暗い表情で黙々と歩くウィリアムが怖かったし、すれ違った知り合いが誰一人として声をかけてこない事にも、強烈な違和感を覚えた。中学の同級生、野菜を分けてくれる近所のおばさん、あろうことか祐実でさえ、すぐ近くを通ったわたしに気付いてもいないようだった。
そのうち、人混みの中に、明らかに異国の装いをした奇妙な影をちらほらと見るようになった。皆、極彩色の派手な衣装で着飾っていたけれど、くっきりと描いた髑髏のフェイスペイントのせいで顔の区別がつかない。眼窩と鼻筋、頬骨のくぼむ部分は黒塗りにされて、そこだけぽっかりと空いた洞のように見えた。
訳が分からなくて、泣きそうになった時、前を歩いていたウィリアムが足を止めた。
「盆、というそうだね」
振り向いた彼の顔には、あのうすら寒い微笑みが貼り付いていた。
「僕の世界にも似たような風習がある。花や供物で墓を飾り、生者は骸骨の仮装をして街を歩く。『死者の日』という祭りだ」
ウィリアムはわたしの手を取って、少し体を屈めると、指先に口づけをした。
「僕は生きた人間に見えたかい?」
初めて触れた彼の肌からは、なんの温度も感じ取れなかった。
最初から違和感はあった。
バケツをひっくり返したような雨の日でも、ウィリアムが履いているエンジニアブーツには、水滴ひとつ付いていなかった。
最初のバスが着く時間よりも先に現れる事もあれば、終便が出た後に図書室を出て行く事もあった。車で行き来していたのなら、バスの時間なんて気にしなくてもいいのだろうけれど、彼が来た日も、図書館の駐車場には職員さんの車しか停まっていなかった。
どこから来て、どこへ帰るのか、彼は一度も口にしなかった。
本当は、雨に濡れる事もなく、ここへ来る交通手段など気にする必要さえない存在なのだと──それが何を意味するのか、少し考えればわかったはずだ。
だけど、ウィリアムと過ごす時間はあまりにも心地よくて、わたしはその違和感を全て、雨のフィルターの向こうに押しやってしまった。見ない振りをし続けたのは、恋と呼べる感情のせいだったのかもしれないし、単に、懐いてくれた野良猫が他所に行ってしまうのが惜しかっただけなのかもしれない。
「あなたも、誰かに会うために帰ってきたのね」
そう聞くと、ウィリアムは何も答えずに、射るような眼差しでわたしを見た。
「……わたし?」
「君はリツカの生まれ変わりだ」
視界の端に映る通行人の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
「リツカは物語の中の存在じゃない。確かにこの世界に生きて、戦い、人類史を守った。もっとも、君たちにその自覚はないだろうけどね」
「そんなの……嘘よ」
「右手の甲に痣があるだろう? 病気じゃないから、安心するといい」
わたしは思わず右手を押さえた。
確かに、わたしの右手の甲の皮膚は、その一部が赤黒く変色している。生まれつきのものだけど、妙に左右の均整のとれた形をしているので、タトゥーだと思われないように、毎朝母さんの化粧道具を使って隠してもらっていた。
「リツカ・フジマルの仲間だったの?」
ウィリアムは困ったように苦笑した。
「さて、何と言えばいいのかな。戦友であり、使い魔であり、彼女の銃であり──最後は恋人だった。彼女がこの世を去る時、次は一緒に生きようと約束した」
手首を強く引かれて、あっと思う間もなく、わたしはウィリアムの胸に抱かれていた。
「行こう。ずっと一人で、寂し思いをさせてごめん」
耳元で彼がささやいた時、ぞくぞくと甘い熱が全身を走った。
ああ、こんなに近くにいる、と思った時、たとえわたしが「リツカ・フジマル」の面影を留めただけの人形なのだとしても、この感覚を手放したくないと、そう思った。
おそるおそる手を持ち上げて、ウィリアムの背中に指を触れようとした時、
「──なんてね!」
急に彼の体が離れて行った。
「……はっ?」
「ジョークだよ、ジョーク。『ボンオドリ』に幽霊が紛れ込む、っていうのは、この国じゃ定番の怪談なんだろ?」
なんて言いながら、楽しそうに笑っている。
呆気にとられていたのは、ほんの一瞬で、すぐに悔しさと怒りで耳がカッと熱くなった。
「確かにそうですけど、夏祭りはそんな話をする場ではないです!」
「あれ? そうなの?」
「そうですよ! というか、それじゃ、リツカ・フジマルの──」
その時、わたしは、ウィリアムの胸のあたりが透けて、向こうにある屋台の灯りがうっすらと見えている事に気が付いて、言葉を呑んだ。
彼は何ひとつ、嘘などついていないのだ。
そんな思いが、するりと清水が流れ込むように、静かに胸に満ちた。
「ウィリアム」
「ん?」
「ありがとう。最後にちゃんと話してくれて」
ウィリアムの顔から笑みが消えた。
わずかに目を見開き、言うべき言葉を見つけられらないような、もどかしい表情でわたしを見ていたけれど、結局、小さなため息に代えて力なく首を振った。
それから、わたしの頬に手を触れた。相変わらず、温かくも冷たくもない手だったけれど、何かを慈しもうとする優しさだけは伝わってきた。
「いつも明るくしている必要なんてなかったら、こんな風に力の抜けた顔で笑ったんだろうな、と思った」
誰を想っているのかは、聞かずとも分かった。
「……そう思えただけで十分だ」
花火が上がる。
笛の音が空を裂いて鳴る。
夜空を走る火の粉の群れが、死者の国からも見えるだろうか。
華やかな光と、威勢のいい爆発音を道しるべに、遺した家族の待つ家へ帰る人もいるのだろうか。
ウィリアムの肩越しに見える花火が、ふいに、じわっとぼやけて、わたしは堪えきれずに目を閉じた。
いつかはわたしもそこへ行く。
だからそれまで、ほんの短いお別れだ。