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    現代語縮訳 亜双義日記(2018.07.29) 我ガ人生ノ相棒ニシテ大親友
     亜双義一真君ニ、此ノ筆記帳ヲ贈ル
        明治参拾弐年 拾月 成歩堂龍ノ介
    ◆十月某日
     渡英を前にして、日記というものを始めやうと思う。
     自分は長いこと父の日記が愛読書であつた。学校指定の教科書や法学書を除いては殆どそれしか読まなかつたと言つてもよい。小説戯作の類と遊ぶべき余暇は我が人生の裡になかつたとして過言ではない(だが実学でこそないと雖も、成歩堂の様子を見ていると、英文学は奥深げなる学問のやうにも思へる。沙翁ぐらいは渡英前に読んでおくべきや否や)。
     父は筆まめな人であつた。十歳になるかならぬかの時分から、二十七歳で大英帝国へ留学するに至るまで、一日として絶やすことなく日記を綴り、それが壱冊の欠けもなく、我が家には保管されてゐた。彼の成長や経験を共有しながら、自分はこの歳まで育つてきた。父の親友であり、今は大日本帝国判事にして外務大臣である慈獄政士郎閣下と、慈獄家の庭の木登りをして遊ぶ記述を読めば、あたかも赤松の枝のうえで並びて座る彼らの尻に自らの尻もまた並べつ、岩や楓の精妙な均衡の配置、曲がりくねりたる小川のきらめきを見下ろすがごとし気分となつた。母にすつかりのぼせあがつて彼女のことしか書けぬありさまになりし日などは、その惚れこみやうに呆れもしたが、同時に嬉しく、こそばゆいやうな想いもあつた。――まあ、この話をするのは父に悪いというものか。まさか息子に読まれるものと思つて書いたわけでなし。
     サテまあそんな感情の機微のほかにも、大日本帝国の司法制度への微に入り細を穿つ考察、刑事として目の当たりにしたゆゑにこそ詳らかにできる警察組織の弱点や美点、父の日記にはほんたうに様々のことが書ひてある。そしてそのさまざまのことに対する彼の明晰なる観察と率直なる心情がつまびらかにつづられてゐる。まるで亜双義玄真その人の横顔を、そのままそこに見る思ひがする。
     そのやうなわけだから成歩堂に逢うまでのあいだ、自分にとつてほんたうの友と呼べるのは日記の父のみであつた。よしや日記の父がおらづばどんなに寂しい浮萍の心地を味わう人生であつたことか。自分に息子がいつできるかはわからぬにせよ、否、そもそもできるかどうかわからぬにせよ――つまり何が言いたいかと申せば、いづこかにこれを読む人のありやなしやに関わらづ、父のやうに、ああした形で何か残せるもののあるほうがよゐ。さう思つたのは確かである。だから今更ながら日記を始める。
     折よく成歩堂が二冊も手帳を購ひて、ウツカリ一冊あまらせたと嘆ひてゐたのでそれを貰つたのがこの筆記帳である。成歩堂は濃紺色、自分は臙脂色。筆先の滑りは良好。栞紐がつひてゐるところも気に入つた。しかしながら、「折角あげるのだもの」とか何とか訳の分からぬことを言ひて、一ペエヂ目に余計なことを書ひてくれやがツたのは、苦笑するよりほかにない。マア、此れも後年には良い思い出となつてくれるであらう。しかも自分も同ぢやうな内容の文言を彼奴の筆記帳に書かされた。書かされたは良ひが、あのやうな文面を書きつけておゐて金を払わぬのも何かが奇妙だと思い、結局は一冊分払つた。それでも三銭はしなかつた。
     それにしても、ゐざ始めやうと思ふと、何を書くべきかトンとわからぬ。ひとまづ、けふの夕食は茄子の鴫焼きが旨かつた。生活のことは明日より書かう。


    ◆十月某日
     夜明け前に起床し、日課の鍛錬をした。そののち大学で英語の授業を受けた。
     校庭の銀杏の実を機械工学部の連中が集めているのを見た。連中はいつでも腹を空かしている。何ともうららかなことだと思つてよく見てゐたら、誰あろう成歩堂がそれに混ぢつてゐた。折角なので一緒に手伝つた。集めたそれを、寮の鉄鍋と七輪で炒めて食らつた。ひとり三粒。ひどい機械油の味が満腔に広がり、およそ美味とは言い難し。
     やがて食慾を刺激されたのであらうか、そのまま言語情報学科のやつが牛か豚かもわからぬやうなスジ肉を買つてきて、誰かが研究室に蓄へていた白米と炒めて食らふことになつた。肉を買いに行くやつの背中に向かひて、おうい、鶏肉はよしてくれよなあ、亜双義は鶏肉だめなんだからなあ、と成歩堂が大声で叫んでくれた。しかし鶏肉があらうとなからうと、完成せし飯は「世にここまで悲惨な味の炒飯はまたとない」と確信するに足るものであつた。マア愉快なことは間違いない。皆でげらげら笑いながら食つた。
     連中と別れたあと、成歩堂と構内をぶらつひてゐたところ、薬学部の英国人ふたりとすれ違つた。W教授とB女史である。女史はいつもかなり珍奇な意匠の帽子をかぶつてゐるが、彼女にはよく似合ふやうだ。それでなくても目立つふたりだ。皮膚の白く透き徹ることといつたらこのうえもない。自分はこれまで女や男を美しいと思つたことなどあまりなかつたが、あれら白人は生物として美しいやうに見える。ああいう人間の山ほどいる国へ自分は行く。さだめしこの肌は黄色く見えやう。だが自分は黄色が嫌いではない。とりわけ、今日見た銀杏の葉の絨毯の美しさは忘れ得ぬ。
     この銀杏の葉の絨毯という表現は成歩堂のものだ。といふのも、成歩堂に彼らの姿の感想を問ふたところ、「ああすまない、チイとも見てゐなかつたよ」とぬかすので、お前もう少しでも注意深くならぬといつか禄でもないことに巻き込まれるぞ、と言つてやると、「だつて亜双義見てみろよ、この銀杏の絨毯の美しいこと!」などと反駁してくるのだつた。そしてその言葉に従つて辺りを見回してみると、たしかに美しいのだつた。長年そんなことに気付くことなしに自分は生きてきてしまつた。
     その後、すぐに電車に乗るのも勿体無くて、古本屋を冷やかす、屋台で棒つき飴を買うなどして過ごした。司法留学試験に受かつてしまつたものだから、もはや何をして日を過ごせばいいのかよくわからぬ。その点、成歩堂は遊びに長けている。明日は彼奴と寄席に行くことにした。今日は早めの就寝としやう。


    ◆十月某日
     けふは、法務省の下級役人の接待を受けた。新橋の三等地の料亭なのであるが、これがどうにも下卑てゐて、つまらなくて、女郎屋との違いもなきに等しき、水ツぽくて古びた刺身を気取つた皿に盛りつけてハイ高級ですよと出す、こけおどしの飾りばかりが燦爛とした、品性のない店であつた。居候暮らしの貧乏学生風情にはこれで充分と安んぜられたのであらうか。これなら本郷の隅の酒屋で大学の連中と騒ぐ方がどんなに面白かつたかわからぬ。
     はりぼての宮殿から帰つてきて、湯に浸かり衣を解き、文机に倚りて筆をとると、ささくれ立ちたる胸のザワつきがホツと安らぎゆくのを感づる。かうして日記の習慣を作りしより早一月が経つ。自分に流れる父の血がさう思わせるのかわからぬが、日記を書くといふこの作業は自分の性根に合つていると思ふ。自分の裡の、ほかに人とてのない境涯に頭をめぐらし筆を動かすのは実に安穏としたものを覚ゑる。
     渡英のまゑに、慈獄閣下にご挨拶に伺ひたひと思い立つた。明日手続きする。


    ◆十一月某日
     お目通りしたき旨を慈獄家に送るか外務省に送るか法務省に送るか悩んで、御琴羽教授に聞いたところ、そんなら慈獄家がよいでせう、私は平素さうしてゐますよ、とのことで、それに倣ふ。


    ◆十一月某日
     自分が大学にいるあいだに慈獄家の使いが来た。明後日に伺うこととなつた。しかし弱つたことに、学生服の他に着る物がない。その学生服もちと袖口が擦り切れてきているし、油染みも目立つやうだ。要するに、些か見苦しい。渡英前には新しい学生服が洋裁店から届く手筈であるが、明後日の訪問には間に合うまい。本件またしても教授にご相談した結果、教授が英国でお仕立てになつた背広を拝借することとなつた。教授は江戸生まれの方にしては珍しいほど背丈が高いので、特段の苦労はなかつた。教授のお嬢さんが試しに袖を通してごらんになつてはいかがですかと言つてくれたのでその通りにした。彼女が姿見を貸してくれたので見ていると、「さうやつて洋装すると、きみは父上によく似ますネヱ」と教授が仰つた。ほんたうですか、と思はづ訊き返さうとしたが、教授はお忙しいとかですぐさま立ち去つてしまつた。
     かうして筆をとるごとに思うことがある。それは、英国でも父は日記を記してゐたに違いないといふことだ。おれは英国のことが知りたくてならぬ。英国での父のことが知りたくてならぬ。父の英国日記を欲する思ひは日に日に強まりゆくやうである。
    ◆十一月某日
     慈獄邸の客室、豪雨迅雷の音を聞きつつこの筆を執る。筆記帳を持つてきてゐたことは幸ひである。
     午後三時ごろ、渡英にあたつてのご挨拶かねがね慈獄邸にお邪魔したものの、夕方ごろから天気がひどく悪くなり、程なくして井戸をひつくり返したかといふほどの雨、蒸気機関車の汽笛もかくやの雷となつた。馬が怯えて馬車は出し得ぬ。人力車などは言わづもがなである。そのやうなわけで、閣下のご厚意により、本日はこちらに泊まつてゆくことになつた。
     慈獄邸は久しぶりだつた。たまに父や御琴羽教授に連れられてお邪魔してゐたが、一人前の客人としてかうして客室をお借りするのは初めてだ。応接間に通されたのが、自分ひとりなのも初めてだ。豪勢な威容もて人を押し潰すやうな二重折上格天井は昔から変わつておらぬ。壁や欄間や窓枠など、あちこちにあしらわれた松も菊も孔雀も雉も、昔から変わつておらぬ。自分だけがやたらに大きくなつてゐる、といふやうに思へた。
     程なくして閣下がお出でになつた。けふの閣下は和装をお召しであつた。や、よく来た、よく来た、と鷹揚なる歓迎の辞を述べられた。さうして、ややあつてから、「あれについて話しに来たかね」と、どこかぎこちなくお尋ねになられた。すぐに《任務》のことだとわかつたため、自分はすぐにイイエと答へた。あんな話、大して興味もなかつた。すると閣下はご安心なさつたやうに微笑まれた。その表情から、ああこれは判事でも大臣でも在らぬ、慈獄政士郎どのだと思つた。
     そのあとはふたりでお庭の曲水に沿ひて歩きつ、英国行きにあたり何か足りぬものはあるかとか、不安なことはあるかとか、今後の大日本帝国の司法界を我々は如何に舵取りしてゆくべきかとか、魯西亜の艦隊を果たして現状の日本海軍が打ち破り得ると思ふかとか、そのやうな話をした。それらに就ては別紙にメモ書きを残してあるので貼り付けるに留め、ここでは割愛としておく。
     やがて「そろそろ雨が降るな」と閣下が仰せられた。空の色とか空気の匂いとかの話かと思つたが、「女中たちが大慌ての様子で行き来し始めたから」との御答で、半刻もせぬうち、そのやうになつた。先に書いた通り外へ出られなくなつたので、慈獄邸の小食堂で西洋風の夕食を頂いた。聞けば閣下は今夜、わざわざ赤坂の牛鍋屋を予約してくださつてゐたとのことである。自分が三つになるかならぬかのころ、父に伴われてお邪魔したとき「一真は何が好きか」と閣下に問われ、秒も空けることなしに「牛鍋」と叫び、父を哄笑させたのをお覚えでおられたとのこと。やや恥づかしくもあるが、さぞや美味なる店をおとりくださつてゐたのであらうから、正直に申せば口惜しゐと言わざるを得ぬ。
     とはいへ、今宵頂いた食膳が見劣りするというわけではなく、それどころか、この上もない。付け合わせひとつ取つても美味である。わけても、莢豌豆のポタアジュ、鱸のポワレヱは大層良き味で、ラ・クワントスで食べるのと何ら変わらぬまでに思へる。白葡萄酒の味に就ての良し悪しは、よくわからぬといふのが正直なところではあるが、閣下が旨ひと仰るのであれば旨ひのであらうと倣つて飲んだ(呑める方かね、と閣下がお尋ねになるので、自分はハイとお答へした)。閣下はあまり箸が進まぬご様子だつた。
     デザアトは柿であつた。洋食の締めであつたことを思うとここはpersimmonとでも書くべきであらうか。慈獄邸の庭の木から、雨の降る前にもいだものだといふ。よければわしの分も食べなさゐと閣下にお声がけ頂いたが、ありがたく辞退した。まさか自分はそんなにガツつひてゐるやうに見ゑたであらうか。だとすれば恥づべきことであつた。それに、これは実によく熟れて柔らかな旨き柿であつた。ですから閣下も召しあがつてくださいと申し上げると、ではさうしやう、と仰るのだが、手をおつけになることはなく、自分が食べるのをジツとご覧になつておられた。
     風呂をお借りしたあと廊下で料理長に会つた。夕食の味を褒めると、「亜双義さまがお出でと伺ひましたので、腕によりをかけましたとも。あれらはすべて、お父上のお好きだつたメニュウなのです」とのこと。たしかに父の日記には、慈獄家の料理人の腕前への惜しみなき称賛の文言が並んでゐた。彼の心遣いには実に感無量である。胸の底からの感謝を伝へると、彼はニツコリした。
    「とりわけ柿がお好きでした。ほんの小さな頃から、庭番の目を盗んで、お庭の柿の木をゆすぶつて、懐一杯にとつてきて、政士郎さまと仲良く召し上がつておられましたよ」
     たしかに日記にもさうあつた。しかし閣下からはそのやうに伺つておらぬ。

     当主の寝室は弐階の東にあり、その窓辺には天女も羽衣をかけたがるかと思うまでに立派な松の木が植わつてゐる。寝室内は和の体裁だが、寝台、書き物机など、家具は大抵西洋のものだ。足元には遥かなるペルシアより持つてこられたといふ絨毯が惜しみなく敷き詰められて、当主の足裏を、床のしかつめらしき硬さから雲のごとき柔らかさで守つてゐる。それが屋敷の最奥部である(以上の内容は父の日記を参照した。庭から見られる松の木を除けば、自分がそれを目にしたわけではない)。
     彼は眠るまえに錠をかける。見事な象嵌の施された重厚な錠で、彼と執事だけの握る鍵がこれをがちやと言わすと、翌朝まで開くことはない。徳川の御世の奥向のやうなものだ。たとへひとつ屋根のもとに在らうとも、咄嗟の思いつきでお会ひできるやうな方ではないのであらう。自分は夜中に思ひ立つて、かの人の部屋を訪れしが、上述の理由から止むを得づ引き返してきて、この日記を書ひてゐる。もし自分が扉を叩ひておれば、恐らく閣下は開けてくださつたであらうと思ふ。だが、なぜだかそれは憚られた。拳を胸の高さに掲げはしたが、打ちつける気になれなかつた。
     あの警戒ぶりは、暗殺を恐れてのことであらう。相手はあの慈獄卿、開国派の第一人者であるからして、その命を付け狙う攘夷論者など掃ひて捨ててもまだ余る。これが若かりしころは違つてゐたのだ。学業の合間を縫ひて奥日光などに遊びに行くと、たとへ隙間風の駆け抜けるボロ宿であらうとも、すぐ傍らに父や雑魚寝の旅商人などがあらうとも、静かに安らかにお眠りになつてゐたのだ。うわごとのひとつも言わづ挙措のひとつも乱れぬその寝姿の端整さたるや大したものだと父は記す(一方、我が親友たる成歩堂はといへば、自分があらうと学部の連中があらうと、宿屋であらうと研究室であらうと、御構い無しに大の字で寝る。自分は何度あやつに蒲団を蹴り飛ばされたことかわからぬ)。
     親友に就て語るとき、父は決して筆を惜しまぬ。父が如何に彼を愛せしか、日記をひと読みすれば果たしてどのやうな痴愚にであれ、ゆうに知れることである。それはヒュウマニチイの愛であらうか。

     以下、午前二時、布団から抜け出して書く。
     任務のことには興味もなかつたと先に書いた。これは嘘である。任務に就て、詳らかなことは、たとへこの私的なる日記であつても、書けはせぬ、書けはせぬが、なぜ閣下があのやうなご命令を下されたか、おれは疑問でならぬ。本心では、ぜひともお尋ねしたく思ふ。此度はそのために罷り出で越したやうなものだ。しかしおれには言い出せなかつた。ひさびさに、司法学生としてではなく一真として、判事としてではなく慈獄閣下にお会いできて、嬉しゐ念が勝つてしまつた。
     外では未だに雨がびちやびちや降つており、如何にも眠れさうにない。


    ◆十一月某日
     けふも飽きもせづ雨が降りつづく。慈獄家前の坂はどうどうと滝のやうになつてゐて、お前さんの都合さえ悪くなければ今日も泊まつてゆきなさゐと閣下が仰るので、お言葉に甘へることになつた。
     閣下に撞球で遊んで頂ひた。慈獄邸の撞球室には、先代の巨大な油彩画が飾られており、息子に似て厳めしき顔立ちをしておられるその大礼服姿が、異様な威厳をその部屋に与えるのであつた。自分がまぢまぢとよく見てゐると、「もう大丈夫か。よかつた」と閣下が微笑なさつた。何でも自分はむかしこの絵を見て、あのお爺ちやまのお顔が恐いとひどく泣き、抱ツこしてくださつてゐた閣下のお髭にしがみつきて離れなくなつたことがあるさうだ。だから自分や御琴羽親子が来るたびに、閣下は使用人へ命ぜられ、この絵を布でお隠しくださつてゐたさうだ。「親父殿も今ごろ絵のなかでホツとしてゐるだらう」と閣下は莞爾とお笑いになつた。「或は、強くなつたなとお前さんをお褒めになつてゐるやもしれぬな」
     やがて、伊太利産の大理石の台に身を伸べて、ただ一球に狙いを定めながら、「一真は遊ぶことはあるのか」と閣下はお尋ねになつた。その声に含まれてゐる一種の緊張感は、草相撲や寄席や銀杏拾ひなどとは程遠い、異性の肉体を用ひた遊びのことだと察させるに足るものであつた。腹の底に冷たき水銀の溜まる感があつた。我が国の司法試験が遊びながら受かる試験だとでもお思ひですかと、自分はかなり棘のある答へを返した。「そのやうな者も世にはありうる」と、閣下はゆツくりと身体を起こされた。
    「では閣下は、私ほどの歳のころはご婦人がたと能く遊ばれたと。さういふことですか」
    「ああ、さう来たか。まあ、問われたからには勿論、それを訊ねる権利もあるべきだ」
     と慈獄閣下は髭を触れながら物思いのふりをなさり、
    「わしは、ご婦人方よりもお前さんの父親と遊ぶのに忙しかつた。なるほど、口を出す筋合いはないやうだ」
     そのあとは二人とも黙して撞球に没頭した。五ゲームで決着がつゐた。どちらが勝つたかは忘れてしまつた。それほどまでに、興味がなかつた。多分、自分の負けであらう。

     書くか否か大分迷つたが、自分の内部にだうにも奇妙な衝動があることを、此処に書き残しておく。忘れもせぬ壱月前である。法務省に接待を受けた行きたくもなしの料亭で、厠に立つふりをして息抜きに出やうとしたとき、襖の少し開きたるところから、店の女の膝に転げ、さも汚らしゐ仔犬のやうに甘える中年男の姿を自分は見た。恐らくそれはかなり身分のある男であり、また、ひどく無防備な様子であつた。この光景を見たとき自分は、ふと閣下のことを思ひ出した。そして酷くムカムカし、これを何とか洗い流さうと、不味い冷酒を呑みに呑んだ。およそ弐升も呑んだであらうか。亜双義くんは呑める男だすごゐすごゐ、と接待の役人に喝采をされたが特段嬉しくもなし。酩酊したのを醒まさうと思ふからなどと適当な口実をつけて馬車を降り、御琴羽家へ帰るまえに河原で嘔吐した。後ろ暗きものを捨てるやうであつた。
     慈獄閣下が女と寝るさまを思ふと、自分は、それを斬り殺してやりたくなる己を腹の底に感づるのである。臍のあたりを我が狩魔にて、ばらりずんと横一文字にしたくなるのである。このやうなところに書きおゐてあとあと後悔せぬかはわからぬ。それを恐れてあの日は書けなかつたのだ。

    (以下、欄外の走り書き)
    ・寄席 ・野球 ・買ひ食ひ ・相撲
    ・勉強 ・弁論 ・銀杏拾ひ ・昼寝


    ◆十一月某日
     昨日は色々のことがあつた。書き残しておくのを躊躇はれることもあつた。しかし書き残しておかねばなるまいと思う。

     朝、なおも雨の弱まる様子はなかつた。早起きは苦にならぬほうであつたが、かうまでひどく降られるとやや胡乱な気持ちになる。鍛錬ののち書斎で過ごした。洋書の充実した家である。並みの図書館ではかうはゆかぬ。当主が英語に堪能な知識人であればこそ斯くの如くなるのであらう。
     閣下は面倒な書類を片づけねばならぬとのことで、前日のやうに構つてもらうわけにはゆかなかつたが、たまに様子を見にゐらしては、それを読むならば前提たるこれも読みたまへ、発展たるあれも読みたまへ、と何冊か抜き出してくださるので、ありがたいけれどきりがなかつた。女中が折々頃合いを見計らひて珈琲や番茶やサンドヰツチを持つてきてくれたのでそれを食しつつ、読み耽つた。何のサンドヰツチだつたのかは思い出せぬ。
     ボウンと鳴る置時計の音で漸く夜、しかもそれなりの深夜であることに気付き、やや焦る。自分は今夜はもう帰らうと思つてゐて、適当な頃合ひまでの繋ぎとして読書するつもりだつたのである。使用人の話すところによらば、一真は大層集中してゐる様子であるから彼から何らかの要請のあるまでは決して声をかけづソツとしておくやうに、と閣下から声がけされてゐたとのこと。ありがたき配慮であつた。お夜食を作らせませうかと申し出て下さつたが、自分はそれを断つて、自分は今夜もう帰る旨を告げた。それでは当主に知らせてまゐりますと言ふのを、自分は重ねて断つた。もうあの人の戸を落とす時間は過ぎ越してゐたのだ。
     世にも親切な使用人たちは、ほんたうにこんな夜中に徒歩でお帰りになると仰るのですか、と戸惑ふ様子であつたが、さういふ気まぐれが実にむかしの玄ちやんを思い出しますネヱと、割りかしすぐに受け入れた。それでも客人の身体を冷やすことを恐れた彼らは、自分に番傘を貸し、そのうえ土産のお包みまでをも持たせてくださつた。そして雨よけの鉄笠のついた燈火を手に、母屋から門まで足元を照らし、門のところまで幾人かで見送つてくれた。この雨ですから見送りは結構です、早く中に戻つてと頼みはしたが、誠実なる彼らは自分の姿が闇に溶けて見えなくなるまで門のまえにて頭を下げ、名残を惜しんでくれてゐた。
     振り返つても彼らの燈火が見えなくなり、屋敷のなかに戻つたと確信せししとき、自分は、不義理なこととは思いつつ、一種の解放感を感ぢていた。
     父の日記からは、豊かな筆墨の薫り以上に慈獄邸の匂いがたちのぼつてゐる。そして、慈獄邸には使用人が廊下に焚き染める麝香以上に、父の生きた匂いが漂つてゐる。あの木は父の登りし木、あの皿は父の使ひし皿、さう思わづにおれる瞬間はあの屋敷にない。くわへて、屋敷の主宝たる慈獄閣下は、この世に存命のなかでは誰より父をご存知の方、父と過ごされし方、父に近しい方である(なぜならば、我が母は既に亡くなつて久しゐ)。それゆえに自分はあの屋敷で呼吸するたび、気が狂うほどの喜びと、今そこにその人のおらぬつらさ、そして一種の義務感を覚ゆるものである。それらを綜合し、自分は底知れぬ息苦しさを得るのである。

     もし路電が動いていればそれを使うか、それともこのまま思索に耽りつつ靴を濡らして歩みて帰るか。そのやうなことを悩みながら、滝のやうな雨のなかを二町ばかりも歩いたところで、自分は忘れ物を思ひ出した。ほかならぬこの日記である。客室の、飾り彫りのなされたギリシャ風の机のなかにおさめたきり忘れてゐた。まさか置いてゐく訳にはゆかぬから、慌てて引き返し、門扉の電気式の釦をやや躊躇いつつ押し込みはすれど誰も来づ(あとで分かつたが、だうやらこれは故障してゐた)。父の日記によれば、この屋敷にはいくつかの副次的な木戸があるはづであつた。海鼠塀の周りをぐるりと歩くと確かに切り竹を組み合わせた小さな門があつて、施錠はされてゐなかつた。自分はそれをそツと押しあけた。
     さうして夜の庭を見た。屋敷の窓からわづかに漏れる燈のほか、それらを照らすものはなかつた。そこには、ここを訪れた初日に閣下と散策せし折のうららかさはなかつた。木々を依代とした黒い大きな影が無数に折り重なり、曲水はこの雨により水かさを増しながら荒々しく流れていた。さすがの庭番も雨の激しさに休みをとらせてもらつたと見え、聳え立つ石灯篭には火が入つておらづ、さながら立ちはだかる人間かと見えた。それらの合わさりし恐ろしげなるさまは、「おまえはここに在るべきではない」と自分を責め苛みたるやうで、恥づかしきことであるが、どうしてもひどく恐ろしく思へ、悪夢に追い立てられる子供さながらの心細さに襲われたことは認めざるを得ぬ。御琴羽家に間を借りるやうになつてから、幾度さうした悪夢を見てきたことか。
     そのとき、ふと松の木が目に入つた。それこそは、幼き父と慈獄閣下の思ひ出の、共に登りし松であつた。自分は気づけば、番傘を濡れた芝のうえに置き、その陰に頂いた土産の包みと革の鞄とを匿ひて、松の木に手をかけてゐた。我がことながら甚だ道理に乏しき行為であつた。なぜやつたかと言われれば、ただそれをやらうと思ひ立つたから。それをやらぬまま英国に行けば後悔があらうと思つたからである。
     木登りは久方ぶりであつたが思つたほどに困難ではなかつた。雨に濡れているぶん滑るかと、エイ滑り落ちても構わぬと、さう思つてゐたのだが、ささくれだちたる樹皮が潤うことでわりあい穏やかになり、そのために力を籠めやすく、指にとつては寧ろ優しい。雨が冷たく肌を打つために樹皮の凹凸を痛む繊細な神経が麻痺するというのもあらうか。やめるべきかという心が顔を出すたび以下のごとく念ぢた。これは我が父が手をかけた枝、我が父が足を乗せし幹である。
     松が枝を伸ばせし先が閣下の御寝室であることは先に知つてゐた。カアテンは開かれており、中の様子を見ることができた。幸いにしてと思ふべきか否か、閣下はまだお休みになつてはおらづ、洋燈が部屋の様子を照らしてゐた。おおかた父の日記に読んだ通り、お若い時分からあまり変わりのない様子であつたが、ひとつ、大層おおきな柱時計が西側に置かれていることだけが、父の記述に食い違つてゐた。それは閣下の背丈ほどもあり、振り子が常に左右に揺れながら、この室に流れし時を刻んでゐた。
     閣下は、机に倚りて、何をか物思いをしておられる様子であつた。折角ああも沢山お持ちの書物を紐解かれるというわけでもなく、舶来の珍品たる蓄音機に何らかのレコオドをかけて耳を傾けておられるという様子もない。お仕事に精を出されるといふのでもない。ただ、ボウ、としておられる。しかしてその眼差しの暗く虚ろなことといつたら、果たして何に比べることができたであらう。おれは驚き、息を呑んで見入らづにはおれなかつた。
     やがて、何が果たして気付かせたのかはわからぬが、閣下は不意に顔をあげられた。松の木に頼つて彼の窓辺に在るおれの姿をご覧になつた。そして、眦の裂けんばかりに眼を見開き、
    「あそうぎ」
     と、お叫びになつた。その声は未だ耳から離れやうとせぬ。それは予想だにせぬほど大きな声であつた。悲鳴であつた。あまりに吃驚したもので、自分はウツカリ松の枝を手放しかねぬほどであつた。閣下は椅子を蹴倒して慌ててこちらへ駆け寄られ、硝子窓を打ち割らんばかりの大急ぎで、御身が濡れるのも構わぬ様子で乗り出してきて、その必死のご様子ときたら、却つて自分のほうが「この人は落ちるのではないか」と心配になる程だつた。片手に柵、片手に自分の腕を掴み、お引き寄せになつた。
     さうして閣下の寝室へ引きづり込まれたかと思ふと、自分をお潰しになるほど強く抱擁なさつたのち、ガシと肩を掴んで、言葉を探すやうにしばし黙られたが、その手はひどく震へてゐた。やがて「ばかツ」と激しくご叱責になるのだが、それでも先刻の声よりも大きいということはなかつた。閣下の西洋式の夜着と、それを覆ひし西洋式のガウンの胸や腹が、まだらに濡れて色を変へてゐた。嗚呼おれは今さツきはあすこに収められていたのだなアと他人事のやうに思つた。
     一真、一真、一真と三度も閣下はお呼びになつた。
    「なんという、なんという、ばかなことを。危ないぢやないか。誰に似たのだ」
     父にです。とおれは答へたが、唇が寒さに震へてならぬ。言葉にできたか甚だ怪しきものがある。そののち、「何をしに来たのか」と、自分の肩を掴みしまま、閣下は険しい声音でお尋ねになられた。
    「任務の話か。さうであらう、さうであらうとも。やつとか。我が元を訪いたひとの連絡を受けし時より既に予感はしておつたのだから」と閣下は唸られた。「しかし、何ぞ物申したき由あらば、闇討ちのごとき真似などせづとも良からうものを」
     その形相ときたら、閻魔大王もかくやの激しい怒りに燃えておられた。先刻までの、心配の翻りし怒りとはまた異なる、これは怒りのための怒りであつた。かくのごとき状況になると激しやすゐのは我がことながら悪癖である。いわゆる売り言葉に買い言葉というやつで、自分は「そのやうな話をしにきたのではない」と怒鳴つた。ならばどのやうな話をしにきたのかなど、己でもわからなかつた(今にして思へばこの時点で自分の日記帳を忘れた旨をお伝へすればよかつたのだ)が、考へるよりも先に、我が口は
    「父の日記を知らぬか」
     と訊ねてゐた。唐突な言葉に首をかしげる閣下に、自分は以下のことをたたみかけて申し上げた。日記だ。おれは父のことは何でも知つてゐる。しかし、英国渡航後のことは何も知らぬ。これまでは父の人生の記録がおれを導きたりしが、ここより先はその限りではない。おれはこれからの人生とゐふもの、それそのものを知らぬのだ。おれには英国での父の日記が必要だ。それを知らぬかと問ふてゐるのだ。
     すると閣下は、困惑の表情の底へとぎこちなくお怒りを畳まれて、何とかそれを畳み込み終へると、代わりに惨めな悲しげな泣き笑ひの表情になられた。
    「成る程、貴様は怯へてゐるのだな。未だ見ぬ大洋へ、ひとりぼツちで、漕ぎ出していくのを恐れてゐるのだ。寿沙都ちやんの同行などでは貴様の安らぎを購ふに足りぬと、さういふわけか」
    「おれを愚弄する気か。この亜双義一真が怯へなど抱くものか。洋行は我が父にできたことだ。それがおれにはできぬとでも思ふのか」
    「否、貴様の父にはできなかつた。それを貴様の知らぬわけがなからう」閣下は吐き棄てた。「貴様の父は死んだ。大日本帝国へ、彼奴は生きて帰れなかつた。だから貴様は英国を恐がるのだ」
     日頃の自分が斯様な言葉を聞かされやうものならば、腰に佩きたる名刀・狩魔を鞘より抜き払つても何らおかしからぬ物言いである。しかし、そのやうにはできなかつた。閣下のブルブルと震へる両手の十指を、肩にめり込まされてゐたためではない。その暴言の悲痛さが、自分の耳には、閣下が自らの肉を引きちぎりては投げつけるかに聞こゑたのだ。
     また、もしさうでなくともやはり言葉に詰まるとしか言へなかつた。といふのも、閣下が涙を流しておられたからだ。勇ましきかんばせの縁飾りたる髭黒を、透明な雫がしとどに湿らしてゐるのだ。閣下も自らそれにお気づきになると、はツと顔をお背けになり、袖で頬を拭われた。
    「父親の日記と言つたな」
    「確かに。言つた」
    「それはもうこの世にない」
    「ないとは。ないとは、如何にしたことか」
    「倫敦で燃やした。このわしが」
     お前さんには、すまぬことをしたと思ふが、さうなのだ。と閣下は仰つた。その言葉が自分の胸にもたらせしは惨憺たる失意の情動であつた。彼が偽つておられぬことはその苦しげなる声から容易に察せられた。それだけにつらかつた。父の連続性が喪われたことを、自分は理解せざるを得なかつた。完全なる父が損ねられた、といひては流石に大げさであるが、しかしながら、そのときは実際そのやうな気であつたし、正直に申せば、今もその気持ちに変わりがあるといふわけではない。
     「さうですか」と辛うぢて自分は申し上げた。そのほかには何も自分から申したき儀など何も思ひつかなかつた。恨み言も何も思ひつかなかつた。恨み言を言ふのが正しゐのかもわからなかつた。如何して焼いてしまつたのだと、胸倉をつかむべきであつたらうか。胸倉を掴んで、日記が戻つてくるのなら、それもよからう。だが、それはあり得ぬのだ。もしそのやうなことが叶いうるのなら、日記なんぞではなく、もツと主眼たるもの、それこそ、我が父が帰つてくるべきなのだ。日記が帰るなら、我が父が帰るべきだ。我が父が帰るなら日記なぞ要りはせぬ。我が父が帰るなら……
     頭がボウとしてしまひ、うまくものを考へられなかつた。すツかり莫迦になつたやうだ。おれが司法試験に受かつたなど、悪い夢ではなかつたかしらん、とさえ思つた。況や交換留学生選抜試験をや。そのやうな自分に、さうですか、以外の果して何ごとが言ひ得たであらうか。
     呆然としてゐると、閣下は黙つたまま、暖炉のそばへと自分をお引き寄せになつた。濡れた洋服をテキパキと引き剥がしにかかられた。英国留学のご経験があるだけあつて、流石に洋服の構造には慣れておられ、少しも戸惑ひのなき指先であつた。さうして素裸に剥いてしまふと、寝台の掛蒲団を覆ひたりし絹織物をとつておゐでになり、自分のズブ濡れになつた髪や濡れて冷えきつた肌をごしごしと、無遠慮に優しく拭つてくださつた。赤子のやうに取り扱われるのは本意でないが、そのときは抵抗する気力もなかつた。
    「このお屋敷におりますと、とても良い気分です。閣下に遊んで頂けるのも。ですが、頭がおかしくなりさうなのです」
     自分はほぼ泣きながら、言葉を落とすやうに言つた。自分の脛をお拭きくださつてゐた閣下が顔をおあげになつた。このやうに大きな人を見下ろした経験などあろうはづもないのだが、変に見覚があつた。恐らくは、小さなころ肩に乗せて遊んで頂いたときの記憶でも、朧気に残つていたのであらう。
    「そこかしこに狂つてしまひさうな気配を見るのです。だから、狂ふよりまえに御琴羽の家に帰らうと思ひました。ですが日記を忘れました。臙脂色をした筆記帳です。成歩堂にもらつたのです。それを、客室に忘れてしまつた。ドアーのベルを鳴らしたのですが、どなたもお出ましになりませんでした」
    「さうであつたか。さうであつたか」閣下は眼を伏せ、暫く黙つた。「あのベルはな、この大雨のためにな、昨日から壊れているのだよ。ときに、お前さん、帰らうとしたといふのなら、荷物は一体如何したのかね」
    「松の根元に置きました」
    「よし、わかつた。どれ、これに包まつて少し待つておゐで」
     自分の肩に織物をかけてくださつたのち、閣下は立ち上がつて鈴を鳴らされた。すぐ駆けつけた執事が、ここにありうべくはづもなき男――自分の姿を見て目を円くする(極めて気まづかつた)のをその眼差しでヤンワリと諌めつつ、自分の着用してゐたビシヨ濡れの衣類をお渡しになつて、これを処置するやうにと仰せられた。
     重ねて、下の如くお申し付けになられた。

    ・この客人の忘れ物をとつてくること。それは客室の机の引き出しにある、臙脂色をした筆記帳である。
    ・客人用の寝間着とガウン、新しい下着を用意すること。今夜は冷えるから猿股がよからうと思うが、なければ褌でも構わない。
    ・温めし牛の乳汁に、蜂蜜とひと匙のブランデヱを混ぜたものを用意すること。念のため、風邪薬とそのための水も。
    ・この客人の荷物を回収しておくこと。それは庭の松の根元にある。

     悪夢の潮の引いて行くやうな感覚のなかでふと、自分がずぶ濡れにしてしまつたそれが、御琴羽教授にお借りした洋服であるのを思い出した。それが申し訳ない、如何したらよいでせうと言うと、閣下は「あのぐらい何でもない」と、実に頼もしく仰つた。「すツかり乾かしたあと、綺麗にまツすぐに熨させやう。我が家の使用人はな、衣装の手入れが抜群に達者なのだ。明日お前さんの帰るまでには元通りになるだらうとも。だから、大丈夫大丈夫。泣くんぢやない泣くんぢやない」
     斯くして自分は閣下の用意させた寝間着を纏ひ、閣下の用意させた飲み物を啜り、閣下の回収させた筆記帳を枕元に置きて、閣下の寝台で眠りに就た。その寝台は巨躯の慈獄閣下に相応しく、自分が両腕を横に伸ばしてもまだ足りぬほどの広やかさを持ち、緻密な織りと刺繍の施されて重たげなる羅紗の天蓋に囲まれてゐた。寝返りを打つと敷布からはほのかに白檀の香が立つた。それは焚き染められてゐるのではなく、閣下の御髪や膚に長年かけて沁み込みたる香が、ひそやかに寝具に移つてゐるやうなのであつた。閣下ご本人は、お気付きではないやもしれぬ。
     閣下はスツウルに腰掛け、時計の針の音に耳を傾けつ、何をかお考えあそばされてゐた。自分が此処に在つては閣下が御休みになれぬのではと思ひ、朦朧としつつもそれを訊ねると、ありがたう、お前さんの案づることはない、いつも夜はそのやうに過ごしてゐる、と仰つて、天蓋をソツとお閉めになつた。
    「一真や。先ほど言つてゐた、成歩堂といふのは?」
    「成歩堂龍ノ介といふのです。其奴はおれの相棒で、大親友なのです」
    「さうか。いつかその子にも会つてみたいものだ」
     暗闇が訪れると、自分は驚くほどストンと眠りに落ちてゐつた。悪夢も見なかつた。夜の半ばにムクと起き上がり、日記の追記に勤しみて、自らを慰むやうなこともしなかつた。なぜ自分は亜双義玄真たり得ぬかと、思い悩むこともしなかつた。ただ成歩堂のことが瞼に思ひ浮かんでゐた。おれは一真であり、玄真にはなれぬ。どんなに玄真になりたいと思へどもなれぬ。成歩堂は"亜双義一真"の親友なのだ。

     翌朝(つまりこの筆を執つてゐる今日)の空は、まさに雨過天晴の清々しさであつた。
    「お前さんが来てくれて楽しかつた」
     閣下は慈獄家の馬車の窓から自分へお声がけくださつた。庭から回収されし荷物を膝に乗せ、やや不思議そうな色をうかべた使用人たちに見送られながら、自分は遂に御琴羽家へと帰りつひた。土産は、幸ひにしてといふべきか左程には濡れておらづ、教授とお嬢さんを無事に喜ばせることができた。それは羊羹であつた。
    ***

     渡英のその日、一真の日記はちょうど二冊めに差し掛かった。あまり荷物を増やすわけにもいかぬ彼は、一冊めを日本の御琴羽家の机に残し、旅には真新しい筆記帳を持っていった。
     そして、それから間もなくして、日本政府に彼の死を告げる電信が打たれた。明治三十三年、一月九日のことであった。

     それから程なくして、慈獄は御琴羽家へと一真の遺品整理の手伝いに訪れた。御琴羽は、慈獄が行きがけに購ってきた手土産の豆餅を、いかにも彼らしい丁重な手つきでお礼の言葉とともに受け取りながら、「来てもらえて助かりましたよ」と眉尻を下げつつ微笑んだ。
    「ご存知の通り、いまは寿沙都もいません。だからでしょうかね、何だか急に家のなかが広くなったように思えてならない」
     確かに御琴羽家は慈獄家に比べて人が少ない。時には御琴羽自身や娘が箒を持つようなこともある。しかし人手の多い少ないによらず、息子のように育ててきた一真を失った彼が気落ちしているのだとすれば、友人として訪れぬ理由はない。十六年前にあやめが亡くなった折も、慈獄はそのようにした。――しかし現在、御琴羽の顔色はあのころに比べれば、あまり悪くないようだ。慈獄はひとまずそのことに胸を撫でおろした。
     一真の部屋の襖を開けると、おりしも冬の透明な大気をつらぬいて降り注ぐ清涼な陽が射しこんで、やや日焼けした畳表を眩しいほどに照らしていた。吐く息が白くなった。
     ささやかなものしかない部屋だった。家具は文机と小さな箪笥と屑籠。一枚の座布団。一組の蒲団。眼につくものは、法律書、法律書、法律書、檄文と見紛う弁論大会用演説の草案、びっしりと書き込まれた筆記帳、なおも使うかと思うほどにまでちびた鉛筆、それを削るのに使ってきたのであろう年季の入った肥後守、鼻緒を整えればまだ使えると思ったのだろうがそのような暇もなくてそのままになったのであろう駒下駄など。御琴羽は直接ものを買い与えるのではなく、小遣いを与えて自由に使わせるやり方の父親だった。その結果がこれなのだから、一真がどれほど質素倹約をよしとしたかは自ずと分かった。――玄真もそうであった。
    「彼は玄真に似ましたね」
    「そうだな」
     一真は玄真とほんとうによく似た。玄真に対する渇望だけが一真を歪め、玄真から遠ざけているといってもよさそうだった。
     彼らは寒い部屋に正座して、それら一真の遺したわずかなものをひとつひとつ検分し、捨てるものと四国へ送るものに仕分けていった。御琴羽が押入れを、慈獄が箪笥や文机をやることにした。やがて、何とか終わりの見えてきたころ、「そろそろ休みを入れようじゃありませんか」と御琴羽が提案した。もちろん慈獄もそれに賛成だ。ふたりは御琴羽家の客間へ赴き、暖かに燃え盛る暖炉のそばの円卓で、ソファに座り、茶菓子と紅茶で一息ついた。大学の傍に仏蘭西菓子を売る店があるのだと言った。果汁の煮凝りにザラメをまぶして賽の目に切ったその菓子は、英国でも幾度か口にした覚えがある。
    「お話し中、失礼いたします」
     と、茶を出してくれた御琴羽家の使用人が、おずおずと声をかけた。
    「お客さまでございます。勇盟大学の学生と名乗っておりまして、旦那さまにお目にかかりたいと」
    「おや? そうかね。何か約束していたかな。慈獄、すみませんが少々失礼しますよ」
     そうして御琴羽は玄関へ向かった。それを見送ったのち、慈獄は懐から臙脂色の表紙をした筆記帳を取り出した。御琴羽の目を盗み、文机の抽斗から懐へそっと滑り込ませた代物だ。彼はその表紙をじっと見た。十年前にも似たようなことをした、と彼は自嘲した。倫敦で、処刑された玄真の下宿に残されていたその筆記帳を、慈獄は御琴羽に見咎められぬよう、そっと持ち出したのであった。そして、その文面を慈獄は翻訳し、自らの師に語り伝えた。
     その日記は直接的な機密に触れてこそはいなかった。触れてはならぬとさしもの玄真も感じたのであろうか、触れてくれていれば何か違ったのであろうかと、慈獄は今でもたまに思う。しかし何を思ったところで、その帳面にはただ今日は何をした、どうだった、と、そんな他愛もないことが書かれているのみであった。正直なところ、五人もの人間を惨たらしく死なせしめた男の書くものとはとても思えなかったが、もはやそれを根拠として何をか反駁できる時節はとうに過ぎていた。また、だからといって、病死した男の書くものだと言い張ることもできそうにはない。であれば、遺族に送り返すことはできない。
     師は、机のうえの埃を払うようにあっさりと、懐中時計のねじを巻きながら、ひとつの決定を下した。慈獄は同意した。悲しみはあった、無念さもあった、だが、もうあまりにも多すぎて、今さらこの程度増えたところで何といって変わりはなかった。確かにそうするしかなかろう、と思った。そうしたい、そうしたくないの話ではなく、そうするしかない、ただそれだけの話だ。師は、戸棚から洋燈に注すための油の小瓶を取り出して、慈獄に手渡した。慈獄は指先で仄かにぬめるその蓋を開け、友の日々を刻んだ紙のうえに振りかけた。炎のなかで、それは臙脂色に光っていた。
     十年前も、今日こんにちも、暖炉は赤々とよく燃える。

     ――古いことを思い出してしまった。

     ここは大日本帝国だ。これは、ある死んだ子供の日記だ。何もやり遂げることのなかった子供の日記を、どうして焼くことがあるだろう。自分は長い夢からまだ醒めぬのか。慈獄は溜息をつき、筆記帳をふたたび懐へ仕舞った。
     やがて御琴羽が戻ってきて、「さあ慈獄、仕上げをやってしまいましょう」と自らをふくめ鼓舞するように溌溂と声をかけつつ襷をかけた。こいつが済んだら軽く一杯やらんかね、近くによい蕎麦を打つ店がありますよ、そのようなことを言いあいながら、彼らは一真の遺せし部屋へと戻った。

    ***

     その後、日記帳を返すとも捨てるとも判断のしかねるうちに、慈獄政士郎と御琴羽悠仁両名に対し、国際科学捜査大討論会へのお呼びがかかった。その後どうなったかは諸兄姉の知る通りである。
     亜双義一真のあらゆる「遺品」は送り先である四国の亜双義本家にて処分されてしまっていたが、幸いにしてこの日記帳だけは処分を免れ、慈獄政士郎の遺言により、執筆者の手元へ戻された。
    orie_dgs Link Message Mute
    2019/01/09 16:40:28

    現代語縮訳 亜双義日記(2018.07.29)

    ふぉんふぉんさんから「薄暗いアソジゴアソ」というお題をいただいて書きました。歴史的仮名遣いはあまり明るくないので雰囲気だけ感じていただければと思います…… ※大逆転裁判2のネタバレがあるのでクリアしてから読んでください #大逆転裁判 #大逆転裁判2 #慈獄政士郎 #亜双義一真

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