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    ある新書の断章(2018.10.04)第六章 大英帝国からの客人第六章 大英帝国からの客人 前章まで見てきた通り、裁判にかけられた慈獄政士郎卿は、亜双義玄真とトバイアス・グレグソンの二名を殺めたかどにおいて、英国での絞首刑を予定されていました。彼がそれを免れて生身の帰国を果たしたのは、法務省と外務省はもちろんのこと、宮内庁までをも巻き込んだ大日本帝国政府からの強い要請があったためでしょう。当時の公文書には「これを拒めば日英戦争も辞さず」と言わんがばかり、ひとたび殺気立てば容易なことでは鎮めがたい《侍の国家》の強い意志が見てとれます。ここで大国の権力を恐れて何も言うことのできない後進国などであってなるものかという意地と信念、そして、「いま近代化の立役者である慈獄を失えば日本の国際的発展はあと百年でも遅れてしまう」という恐れが融合し、彼らをこのように猛らせたのでありましょう。
     尤も、この要請を受けた段階では既にイギリスは慈獄を処刑するつもりなどなかったようです。というのも、慈獄が「強要されて罪を犯さざるを得なかった人物である」と保証する声明を、日本側からの文書が届く前日、誰あろう女王陛下が出されたためです。《死神事件》を解きあかしたあの審理すべてをお聞きになったうえでのお言葉ですので、国内における反発はこれにより目に見えて沈静化していきました。とはいえ、生きる伝説としてその名を轟かせたグレグソン刑事を擁していたスコットランドヤードからの抗議はやはり根強いものがあったと見え、彼らの主張を取り入れる形での交換条件が日本側へ提出されることとなりました。即ち、帰国後の慈獄は大日本帝国の法曹にまつわる諸事から身を引くこと、くわえて外務大臣の地位を罷免されること。以上が慈獄の身柄引き渡しの条件とされ、日本側も合意しました。
     帰国後、慈獄はさっそく彼自身の職場たる大審院に引き出され、刑事・亜双義玄真に加えて英国人一名の殺害とその秘匿について裁きを受けました。彼への罰は爵位の返上。幸いにしてというべきか、財産の没収は免れました。実質上の隠居勧告ということになるでしょう。日本国における慈獄の扱いは批判よりも憐憫に傾いており、いわば赤穂浪士にも近いような、一種の悲運の国士として語り種となりました。もちろん英国の手前、あまりに表立ったものはお上から注意を受けましたが……
     裁判を終えた慈獄は、松濤にかまえし慈獄家本邸を甥の慈獄××子爵に預け、これに伴って自らは鎌倉の別邸へと移り住みました。 この別邸は、本邸に比べればいくらか小ぢんまりしているといえど、大名庭園を踏襲した見事な日本式の庭は本邸の抱えるそれよりも広々としているほどでしたし、木々や曲水の狭間をひそやかに満たすその閑寂は、気ぜわしい都市の喧騒を忘れさせてくれるとして華族や元勲のあいだに評判を呼びましたので、慈獄卿の晩年まで客人が絶えることはありませんでした。それが現在もその姿を残せし名勝・慈獄楼であり、現在は神奈川県が管埋しています。
     そんな別邸での暮らしも落ち着きを見せてきた一九〇二年の春先のこと、慈獄は使用人たちを呼び集め、ひとりの客人を招く旨を述べました。その客人の名は、言わずと知れたあの死神判事、ハート・ヴォルテックスでありました。十年間の永きに亘ってかのロンドンに君臨した恐るべき犯罪者を、たとえ隠居していようとも、大日本帝国の名門たる慈獄家の当主が客として迎え入れようというのですから、もし世間に知られればそれは大変な騒ぎになってもおかしくはありません。のみならず、ヴォルテックスは単に犯罪者であるばかりか、かつて自らの教え子であった慈獄その人を卑劣にも脅迫し、二度におよぶ殺人の罪を犯させしめたこともわかっています。「正気の沙汰ではない」と多くの使用人が反対しました。これを埋由として辞職する者もいたほどです。現存している辞表には、敬愛する主人を穢し、傷つけ、陥れようとさえした毛唐がこの世に生きているだけでもつらいというのに、それに給仕するなどあまりに耐え難い、この不忠をどうぞ許していただきたい……そうした旨の告白が涙に歪む筆致で記されており、そこに滲む主君への深い愛情と悲嘆たるや、この辞表の数々を慈獄が晩年まで大切に保管していたというのも納得のいくところでしょう。しかし、それでもこの計画は実行されることとなりました。それほどまでに当主の決意は固かったようです。
     長年秘めてきたすべてを明らかにされ、ヴォルテックスの脅迫からも解放された、いわば人生の荷下ろしをできた頃合いであったにもかかわらず、慈獄がこのような決意をした理由は、現在でも明確にはわかっていません。このときの慈獄卿が、まだ何らかの知られざる事由でヴォルテックスから脅迫されていたと考察し、その動機を探る調査も勇盟大学の研究チームにおいて進められています。また一方では、慈獄がヴォルテックスとのあいだに一種の同性愛関係を結んでおり、その情愛ゆえに彼の処刑を見過ごしおくことができなかったとする声も存在しています。近年では彼らに題材を採った浦鳥麗華氏のノンフィクション小説の影響もあって後者が主流派となっていますが、件の浦鳥氏の作品の内容といい、いささか扇情的な、メロドラマ的なベクトルに偏りがちな仮説であるということはここで忘れずに指摘しておかねばならないでしょう。
     さて、名家の嗣子として生まれ育った慈獄は非常に多くの人々と深い緊密なかかわりを持ってきました。また外務大臣というお役目はご存知の通り「社交」を主な務めとしております。したがって、彼は物心ついてからというもの常にお得意の人脈を日本国内に留まることなくあちこちへ太く広く、時におおやけに、時にひそやかに張り巡らしておりました。その総体は未だ明らかではありませんが、おおやけにはシャム(現在のタイ王国)王室やポルトガル、裏ではヴァチカンまでもが含まれていたということです。
     この公式かつ機密のネットワークを通じて彼が密かに発した要請は、多くの信頼できる要人の手を渡り、その権威の息吹を吹き込まれながら、暗号化された電文となって、イギリスへと伝えられました。イギリス政府は暫くの沈黙ののちこれを承諾し、ヴォルテックスの処刑を国を挙げて偽装すること、大日本帝国へと彼の身柄を移送することに同意しました。図らずも、十年前にヴォルテックスが企んだのと同様の「偽りの死刑」が、ここに至って再演される運びとなったのです(ただし、二〇二八年現在までイギリス司法省はこれを否定し続けています)。

    ***

     ヴォルテックスを迎えるため、慈獄は様々な準備を行いました。
     ここで何より取り上げるべきは、何といっても離れの改築のことでしょう。慈獄は、生粋の英国人であるヴォルテックスにとって日本風の建築そのままではあまり住みよくなかろうと考えました。そこで彼をつつがなく迎えるため、庭のもっとも美しい一角をのぞむ位置に先代が遺した離れを、西洋風に改築することを決めたのでした――名目としては改築でしたが、それはもはや、すっかり建て替えといっても過言ではありませんでした。
     まず、明治を代表する建築家としてすでに名声を築いていたジョサイア・コンドル(Josiah Conder, 1852 - 1920)が招かれました。決め手は何といっても彼が英国人であったことです。慈獄は、豪勢や華美は求めていないこと、なるべく英国人の肌になじむような、安らかな邸にしたいということを彼に相談しました。
     くわえて、ここに住む者が電気と瓦斯とに不自由せぬようにという要望を叶えるべく、工部大学校から若い優れた電気技師たちが呼ばれてきて、配線の妙についておのおのの優れた額を突き合わせては頭をひねりあいました。一説には、この際に日本の木製線樋配線技術の基礎が生まれたとも言われています。
     また、邸内に三百にも及ぶ精緻なレリーフを彫り入れるにあたっては、勇盟大学の、まだ創立されて間もなかった芸術学部から、実に十人もの若い彫刻家が呼ばれました。慈獄は優れた職人に対して常に惜しみない報酬を支払い、その代わり、彼らに最高の仕事を頼むのでした。

     かくして完成した邸宅は実に見事なものでした。
     広々とした玄関は美しいモザイク装飾を取り入れており、丁寧に膠を塗られた階段の手すりは、暖かな海に打ち寄せる波を思わせる柔らかな曲線をえがいています。板張りの廊下は深い苔色に染めあげたアンデス山脈の羊毛を緻密に織りあげた毛足の短い絨毯で覆いました。
     また、寝室、書斎、客間のそれぞれに暖炉を作らせ、そのうえには当時まだ珍しかった大きな西洋風の鏡を嵌め込ませることで窮屈な印象を遠ざけました。柔らかな仔羊革のカアテンを窓にかけさせ、冬の寒さが室内へ滲みこまないようにするなど、暖房周りにはこと気を付けるよう指示していたようです。
     書斎には古今東西の書物が取り揃えられておりました。アラビアの詩集、インドの思想書、ドイツの物理学の専門書、はたまた『源氏物語』全五十七帖に至るまで、まさに汗牛充棟のありさまでした。それらはすべて慈獄により丁寧に選書されたものでした――ただし、法学にまつわる書籍だけは慎重に避けられておりました。
     ひろびろとした浴室に関しては、西洋式のやりかたを採用すべきか否かずいぶん悩んだようですが、やはり風呂釜全体を沸かしてしまう日本式のもののほうが気候にとっても合理的であろうと判断したようです。加えて、大きな窓をそなえた開放的な羅馬式の工夫を取り入れました。
     寝室は邸のなかでもいっとう美しく作られました。床は寄木細工、壁紙には金唐紙を用いました。窓枠の細工も単にオリーブの葉を象っているのみではなく、窓を開ける際に指触りの良いよう丁寧な配慮がなされていました。七尺近くもあるヴォルテックスの長身を横たえるに足るよう特注して作らせた寝台の周囲は、やわらかな繻子の天蓋で二重三重に覆わせました。また、寝室のバルコニーからはこの離れの従来通り、庭を一望することができました。桜であれ、名月であれ、紅葉であれ、ここにはすべて支度されていました。
     最後に――南西に、ささやかな和室がしつらえられました。この部屋は何に使われるということもなかったとのことで、今でも謎めいた存在ではありますが、当時を知る使用人の××氏は、この和室の作られたわけについて、
    「お師匠さんのいどころに、ほんの少しでも自分の祖国へ関心を持ちはすまいかという、旦那さまの奥ゆかしい気持ちの表れだったのではないか」
     と語っています。
     やがて、公開裁判を終えたヴォルテックスが、五十日間の航海を終え、横浜の港に到着しました。彼は帝都警察による厳重な警備と監視のもとで慈獄家の使いの迎えを受け、別邸へと移送されました。
     以降、彼は慈獄の作りあげた城の奥で静かに過ごし、公にその姿を現すことは二度とありませんでした。また、慈獄自身も離れで過ごすことが多くなり、必要な場合を除いては使用人をほとんど誰も立ち入らようとせず、手ずからまめまめしくこの客の世話をしていたといいます。
     来日当時のヴォルテックスの心身はひどく弱っており、朝といわず夜といわず医者が呼びだされました。不衛生な獄中生活はもちろんのことながら、一九〇一年の女王崩御の報せが彼にもたらした深い悲しみは惨憺たるものでした。それに加えて度重なる公開量刑裁判による重圧、とどめに長期間に亘る船旅と来て、彼の健康は大いに損ねられていたのでした。
     当時のカルテは現在も引田クリニックに保管されています(左ページ資料A参照)。

    [資料A]

     診察結果は神経衰弱、肺炎、胃潰瘍。カルテに添えられたメモには、見慣れぬ西洋人の身体を診察させられて気を揉んでいる当時の院長や看護婦の感情が赤裸々に綴られています。これによれば慈獄はヴォルテックスの体調不良について肺尖カタルを恐れていたらしく、ほんとうにほんとうにこの男は無事なのかと幾度も繰り返し確認し、ようやく胸を撫でおろす様子であったとのことです。
     また、引田医師の言葉によれば、ヴォルテックスが診察を受けているあいだ、慈獄はその傍らに寄り添って片時として離れようとせず、医師の言葉をひとつひとつ事細かに翻訳して患者へと伝えたほか、触診のさいの衣装の脱ぎ着なども甲斐甲斐しく手伝っており、名家の当主どころか、下男でもこうはできぬまでの奉仕ぶりであったということです。大英帝国での下宿暮らしが長く、自分や他人の身の回りのことをするに慣れていた慈獄ですが、当時はまだ華族の雲上人ぶりが健在の時代です。引田が慈獄の態度を珍しいもののように思いなすのも無理なことではないでしょう。くわえて英国人の身の回りの世話のやりかたがわかる使用人は慈獄家にはいませんでしたから、慈獄が自らヴォルテックスに奉仕したのはやむをえぬ処置であったともいえます。
     そのように、診療を受けさせることのほかにも、日常の些事に至るまで、慈獄がヴォルテックスを丁重に扱ったのは事実です。ですが、ヴォルテックス自身がそれによって安らぎや満足といったものを得られていたかは疑問の余地があると申せましょう。彼はすべての裁判を終えて死刑判決をさずかったのち、バークリー刑務所の監獄にて、聴解神父と言葉を交わしています。
    「主が私をどこへ導くにせよ、私はそれに従わされるよりほかにありません」
     この言葉は一九〇一年当時からデイリー・サーカス誌など各社の紙面を飾りました。主にさえまつろわぬヴォルテックスの不遜きわめし人柄がその最期まで保たれ続けたという証のごとくして扱われ、このような男を首席判事の椅子に座らせた高等法院の人事管理意識にさえその騒ぎは波及していきました。ですが、後年の調査研究の結果、実はこの時点でヴォルテックスは処刑を回避させられることを聞かされていたことが判明しています。しかしながら、死を免れたことに対する歓喜らしきものはその言葉のうえに見い出せません。むしろ、刑死という透きとおった未来を奪われ、これからどうなるかまったくわからなくなった自らの行く末を考えて出た、素直な戸惑いの言葉ですらあったでしょう。
     また同時に、英国司法に携わる権限のすべて、そして英国女王陛下、そのふたつの支えを失った彼の、何を欲する気もなくなった空虚な心持ちを、この言葉から見て取ることもできるでしょう。ヴォルテックスは刑務所において常に静かに、修道僧のように振る舞っていましたが、一九〇一年一月二十二日、女王陛下が崩御なされたとの報せを受けたときだけは、「ひどく取り乱して、自分の脚で立つことすらできなくな」ったと看守の日報に記録されています。先述の通り、彼がひどく体調を崩すようになったのもちょうどその頃からでありました。
     自分の乗せられた船が日本行きであると彼が知らされたのは、船がドーバー港を出てからのことでした。そこに待っている人物を、恐らく彼には予想することができたはずです。自分が手を汚させた、自分が十年に亘り苦しめた男の掌のなかにおさまるということに、ぞっとしない者があるでしょうか。

    ***

     慈獄がヴォルテックスに贈った短刀が残っています。慈獄家代々の数多くの収集品は東京大空襲において烏有となり果てましたが、この短刀は鎌倉で保存されていたために幸いにも戦災を免れ、今もなお明治当時のままの姿で東京都美術館(東京・台東区)を代表する展示品のひとつとなっています。
     宮本包則と共に帝室技芸員として名を馳せた刀工・月山貞一(1836ー1918)に対し、慈獄が秘かに依頼した逸品であるとされています。いわゆる「月山物」のなかでは無名とされてはきましたが、その刃渡りには美しい綾杉肌がよく練れており、角度や光に応じて豊かな様相を見せる華やかなひと振りです。また、その拵にはヴォルテックスがもっとも好んだ動物である小鳥――鳩の意匠が、両翼を羽ばたかせて中空へ飛び立ってゆく躍動感そのままに、巧みに、活き活きと彫り込まれておりました。人間の肉を斬る、あるいは貫くために作られたものではないことは明らかです。事実、この短刀を贈られたヴォルテックスが、彼の長からぬ余生のなかで、この鞘を抜き払ったことが一度でもあったかは怪しまれます。
     慈獄がこれを制作するよう依頼した背景として、在日外国人襲撃事件が挙げられます。当時はそれでもだいぶ下火になってはいたようで、実際にそうした事件が発生したという記録は数えるほどにすぎません。ですが一八五七年(安政四年)生まれの慈獄は、やれ在日英国公使が襲撃されたの、やれ英国公使館が焼き討ちにあったのという報せによって、幼い耳をおびやかされながら育っていました。したがって、それらの記憶に強められた警戒がこれを作らせ、ヴォルテックスに持たせたのであろうと推測されています。彼は世にも美しいこの刃物について、昼は懐に収めておくよう、夜は寝床に置いておくよう、ヴォルテックスに言い含めていたとされています。
     とはいえ、前章で説明したとおり、ヴォルテックスは滅多なことでは慈獄の邸内から出ることなどありませんでした。もし、ごくごくたまにそのようなことがあるとしても、そのいかにも外国人らしい容姿が人目につかぬよう、縮緬で作った頭巾を仮面のようにかぶせられ、高すぎる背を憚るように少しまるめ、そして常に慈獄がそばに寄り添っておりました。そうでなくとも、柔道と空手に優れていた慈獄のまえでは多くのごろつきはすくみ上がりました。ごろつきでなければ攘夷の志士らですが、たとえ彼らが慈獄に相対したところで、平安の御世より受け継がれる由緒正しい血筋の人間をまえにして、血を流すのは憚られたことでしょう。
     一度だけ、ふたりで庭を散歩しているときに賊が紛れ込みました。この邸内において密かに暮らす西洋人を狙ったものではなく、××という、たまたま他所の賭場で喧嘩をやって、うっかり匕首にものを言わせて逃げてきたというやくざ者です。この際に男と応戦した慈獄は、容易くこれを組み敷きましたが、耳と指とを負傷しました。××は華族のやんごとなき身体を傷つけたかどにより斬首、そののち晒し首となる予定だったのですが、誰あろう慈獄自身からの訴えにより特別に赦されています。これはヴォルテックスが慈獄の英国留学時代に日本の晒し首を前時代的で野蛮な刑罰だと批判していたことが理由だとされていますが、必ずしも定かではありません。
     言い添えておくとすれば、この男は慌てていたために匕首を道に落としてきており、慈獄邸の庭に転がり込んだ時点では既に丸腰でした。つまり、慈獄の耳と指とを傷つけて、彼の身体に血を流させたのは、ヴォルテックスの短刀だったのではないか。慈獄が男の助命を命じたのは、まさにそこが理由なのではないか。つまり、ヴォルテックスの短刀は抜かれていたのではないか――その矛先が、果たして彼自身を含むその場の誰に向けられようとしたのかまではわからぬにせよ。以上は勇盟大学日本史学研究室の指摘によるところです。
     この短刀は、慈獄とヴォルテックスふたりの死後、慈獄邸の土蔵において厳重に保管されていました(短刀に限らず、ヴォルテックスの指先が触れたものは基本的に遺族の判断によって保管され、門外不出とされてきました)。やがて太平洋戦争終結後、GHQにより慈獄邸が本邸・別邸ともに接収されたのを機として再び日の目を見ることとなりました。そして上野恩賜公園内・表慶館にて一般展示が決定された折にはその美しさが話題となり、多くの来場者がひとめ見たさに詰めかけて、実に大騒ぎとなりました。焼夷弾や竹槍などとは似ても似つかぬ美しいその武器は、敗戦という現実を束の間であれ忘れさせるに足るものだったのでありましょう。
     やがてヴォルテックスの短刀を題材としていくつかの戯曲や小説が著されました。そのうちの一作として作者不明の短編『短刀』をここに紹介しておきます。明治末期、ある貴族の青年が異国からひとりの因縁ある人を招き寄せ、それと共に暮らすという大筋は、現実となんら変わるところありません。そしてこの物語では、自らを恨む男(主人公)のもとへ身を寄せるしかない、選択肢を奪われた無力の人、この人に対して主人公から発された《ある誓い》の証がこの短刀であった、と解釈されています。
     演目の見せ場、主人公である貴族青年は「この刃で、おれの背を刺せ、あなたの喉を突け」と叫びます。

      青年  この刃は骨肉を斬るものにあらず、
          あなたの最後の逃げ道を切り開くためのものだ。
          それをこのおれが奪わずにおくためのものなのだ。

     本作は進駐軍の目にも留まっており、「相変わらずこの国の者はすぐ死にたがる」と呆れた感想を家族に伝える手紙が残っています。しかし、それは敵性国家の人間との同性愛関係を演じることによる弾圧を恐れた劇団が、本来の〈老いた英国男性〉という形質を〈若き日本女性〉に置き替え、純国産の悲恋物語に寄せてしまったがために生じた誤解かもしれません。「世論を恐れて筋書きを変えた」という記憶は、演劇界にとって苦い重荷となりました。そのためもあってか、現在この作品はかつてほど人気ある演目ではありません。
     ここに、ある使用人女性の日記が残っています。

     今日は洋館のお障子張りをした。大層驚くことがあった。(中略)
     お道具入れにしている桶の中身を確かめながら、洋館への渡り廊下を歩いていたら、いかにも男の人のものらしい、大きな、はだしのおみあしだけ見えた。旦那さまかと見上げたら、紺地に麻模様を染め抜かれた羽織をお召しの肩のうえに、浅黒いお顔と、何より真っ白いような薄金色のようなおぐしが目に入って、思わずあッと叫びそうになってしまって危なかった。お名前を書くのもはばかられるけど、あとでわからなくなってもいけないから、ここにボルテクスさまとコッソリ一度だけ書いておく。誰もあの方のお名前は呼ばない。誰かに聴かれたら困るのだそうだ。
     おそばに寄ってはいけないなどと言われたわけではないけれど、そんなふうに思っていたので、慌ててしまって、桶から糊を塗るための刷毛を取り落としてしまった。するとあろうことか、あの方はお身体をかがめて、床に落っこちたそれを拾ってくださった。旦那さまの大切なお客人にそんなことをさせて、誰かに見つかりやしなかったかと、いま思い出してもどきどきする。旦那さまがこのお客人を、桐の箱にしまうみたいに大事にしていることは知っているから。
     かがみこまれ、立ち上がられるとき、まるで目の前にぐんと大きな樹が育つみたいだった。これまで遠くからしかお姿を拝見したことがなかったので、こんなに背丈のお高い方だとは知らなかった。旦那さまと同じくらい、あるいはそれより更にすこしお高いのかもしれない。背丈だけじゃなく、面鼻立ち(原文ママ)もものすごかった。まゆ毛と目がたいそう近くて、むろんそれだけではないけど、うまく書けそうにない。とにかく、西洋のお方のお顔をあんなに近くで見たのはこれがはじめて。同じ人間だとも思えないような作りだった。じろじろ見ないようにするのがたいへんだった。
     あの方は刷毛をお渡しくださったあと、こちらを見下ろし、何事かをおっしゃった。英語の話し方だからうまく聞き取れなかったけれど、お言葉そのものは日本語だったように聞こえた。わたしが聞き返したくてまごつくころには、もうフイとお庭の方をお向きになっていて(そのお鼻の高いこと!)、はだしのままで朝露の濡らす冷たい庭草のうえへとお降りになったかと思うと、そのまま少し離れたところにある山吹の茂みの陰に消えてしまわれた。すぐお声がしてきたから、そこに旦那さまがおられるとわかった。旦那さまは流れるような英語でお話しあそばれていたので、なんの話をなさっているのかは分からなかったけど、合間合間に低く小さく聞こえてくる本物の英語と並べると、やはり旦那さまのほうにはちいとばかし日本語のような響きがある気がした。
     障子を貼りおえて戻るとき、山吹の陰にはあの方も旦那さまもいなかった。
     そのあと書斎の旦那さまにお茶をお出ししたとき、離れの障子を貼ってくれたのはお前さんだそうだね、ありがとう、とお声がけくださった。あとても嬉しかった。

     続いてこの日記には「お顔の覚書」と題したメモと、イラストが添えられています。恐らくは障子貼りをしたこの日に、ヴォルテックスの顔から受けた鮮烈な印象を忘れないよう、メモとして書き留めておいたものでしょう。

    *お肌……
     日焼けしている。よく見ると、こまかな皺が寄ってらっしゃる。
     西洋人はそばかすがあるものだと××ちゃんから聞いたが、なかった。
    *お鼻……
     たいそう高くって、長い。
     くちびるとの鼻のあいだにほとんど隙間がない。
    *おぐし……
     白毛。お年を召されているからなのか、元からそうなのか。
     少し金色も混ざっている。埃っぽいような感じのお色。
    *まつ毛……
     長く、おきれい。もちろんこれもおぐしと同じく白い。
     俯いてらっしゃると初詣で見た神馬さんのやう。
    *まなこ……
     これが一番信じられない。硝子そっくり。
     よくお見えにならないのかも。お歩きのときはいつも旦那さまに手をとられている。
     それに、いつでも必ず杖をお持ち(おみ足がわるいのかなア)
    *口びる……
     ふくらとなさっている。西洋の方のイメエジとしては少し意外。
    *あご……
     おひげ。見たことのない整え方。
     唇よりも前に出っ張っているけれど、おしゃくれではない。

       [少女らしい落書きの似顔絵]

     以上はヴォルテックスに対してかなり好意的な目線に立って書かれた絵日記ですが、彼女は使用人たちの噂からヴォルテックスが犯罪者であることを知っていたはずなので、海の向こうでの罪に対する認識のつたなさ、あるいは軽やかさを見て取ることができるでしょう。また、はじめて間近で西洋人を見たということへの無邪気な喜びもここには記されています。とはいえ、もちろん当時の使用人たちの皆が皆この女性と同じ感想を抱いていたわけではありません。ほかの使用人の日記には、慈獄の正気を案ずるもの、ヴォルテックスへの批判を書きなぐるものなど、否定的な文言も残されていることは、説明するまでもないことでしょう。
     ところで、このはしがきを記した彼女はヴォルテックスの眼や脚の健康を案じているようですが、それらが人よりも不自由だったという記録はありません。現存するなかでもっともヴォルテックスの肉体について事細かに書かれているのは引田診療所のカルテですが、ここにもそのような記述は確認できません。恐らくは、英国紳士のたしなみとして持ち歩きたいだろうと慈獄が推察して贈ったものであるステッキを、この使用人の女性が勘違いしたものと思われます。また、眼や脚が不自由ではなかったということは、「お歩きになるときはいつも旦那さまに手をとられて」いる必要もないはずなのですが、この理由に関しては現在でも有識者のあいだで論争が続けられている部分であるため、本稿では、敢えて割愛としておきたいと思います。
     この女性は後日、以下のような日記も残しています。

     あの方が亡くなられた。
     長いご病気だったらしい。もちろんお葬式はなさらなかったけれど、××寺から夜明け前にご門跡が呼ばれてきて、離れの洋館でひそやかなお弔いの礼をなされたらしい。もうご遺体は荼毘に付され、骨壺におさめられ、小さなお墓のなかに入られた。あんなに大きな方があの小さな壺、小さなお墓におさまるなんて、頭ではわかっていても不思議でならない。旦那さまの大きなお手のなかにあると、なおのこと小さく見える壺だった。それにもたれかかるようにしつつ、旦那さまはお歩きになっていた。今日は雨だったのに、執事さんが傘をかけてさしあげなければ、ご自身がずぶぬれになってもまるでお気の付かなさそうなご様子だった。
     あの日、障子張りをした日、あの方が白い鳩をお好みになると噂に聞いていたから、障子に鳩のかたちに切り出した半紙を貼っておくか悩んで、結局は頼まれてもいないのに余計なことするのは品がないことだ、お里が知れてしまうことだと思ってよしておいたのだけど、もしかしたら、もしそれをやっていたら、あのお客さまはお喜びになられたかもしれない。あのお客さまがお喜びになられたら、旦那さまも、お喜びになられたかもしれない。そう思うと、今更になってむしょうに悲しい。

     彼女は結局そのあと白鳩の形の半紙を障子へ貼りに行ったらしく、慈獄はそのさまを歌に詠んでいます。若いころから歌に長け、とりわけ人を楽しませる華やかな歌を得意としていた彼にしてはやや素朴な風合いの歌ですが、善もなく悪もなくひたすらに自らの人生をかけて関わってきたひとりの人間を喪ったその心が、使用人の優しい気遣いによって慰められた様子が伺えます。ヴォルテックス亡きあとも、慈獄は主に別邸で過ごし続けました。あたかもまだ館のなかてヴォルテックスが生きていて、そこで彼を待っているようにさえ思えたとのことです。
     ヴォルテックスが葬られた××寺は、室町の御世に開かれた真言宗豊山派の寺院であり、慈獄家の菩提寺でした。カソリックの信者であったヴォルテックスがいつのまに仏教へ改宗していたのかは、現状誰にもわかりません。ひょっとすると死人に口なしということで、慈獄の勝手な行いであったという可能性も断たれてはおりません。少なくとも、海外文化に当時の日本でもっとも通じていた慈獄が、食客としていた英国人の亡くなるときに、その信仰のありかについて思いを巡らせないということは考えにくいことでしょう。
     ヴォルテックスの墓碑は慈獄家代々の墓碑のそば、少し後ろのほうに、遠慮がちな様子で佇んでおりました。毎月通っていた慈獄の亡きあとは訪れる人もありませんでした。一九四五年、東京大空襲の際にこの寺院にも焼夷弾の雨がふりかかった結果、慈獄家の墓、ヴォルテックスの墓はいずれも粉々に破壊され、瓦礫のなかで、慈獄家の骨ともヴォルテックスの骨とも御影石の破片ともわからないようなありさまとなってしまいました。
     現在は元通りに修復された墓碑ですが、実際のところ、そこに収まっているお骨に関しては、必ずしもこれが慈獄のものだヴォルテックスのものだと選り分けられたわけではありません。
     この客人について、生前の慈獄が言及することはきわめてまれなことでした。
     彼が隠居してからもなお多くの客がこの慈獄楼と呼ばれた館を訪れ、彼の深い見識に基づく助言や豊かな人脈に浴する口利きを求めてきたものでしたが、慈獄はその期待に常に不足なく応えながらも、西洋の犯罪者の存在などおくびにも出しはしませんでした。使用人らは自らの子や親にさえこの奇妙な客人について語ることはありませんでした。邸宅を受け継いだ慈獄家の一族でさえ、誰ひとりこの客人が存在していた事実を知らず、どうして彼が突然に別邸を改造しようなどと思い立ったのか、それが明らかになったのは慈獄の死後数十年が経過してようやくのことだったのです。
     ここにヴォルテックスについて慈獄が遺したと判明している言葉があります。ある男性が録音したものであり、当時にしては珍しい、明治後期の日本人の肉声の記録でもあります。勇盟大学文学部の日本語学科教授××氏が、たまたま香港のオークションで入手した古い蝋管に吹き込まれていました。録音者の詳細については不明ですが、恐らく慈獄が目をかけた留学生のうちの誰か――恐らくは亜双義一真、成歩堂龍ノ介のいずれかと推測されています。多くの部分は劣化のため聞き取りが難しい状態でしたが、そのラベルには「ジゴク」とはっきり記されています。

     男性 ただ不思議なのです。
        どうして、あなたを××(ノイズのため聞き取れず)した者を。
     慈獄 あれも、わしも、二度と娑婆に出してよいようなものではない。
        やすやすと天や地に行ってよいものではない。
        だからこの獄に閉じ込めているのだ。

     それは、ヴォルテックスが大英帝国で十年の時をかけて、どれほど多くの人間の人生を押し歪めたか、そしてどれほど多くの人間を救ってきたかを明確に見てきた慈獄なればこそ語れる言葉と言えましょう。ヴォルテックスによる犯罪と、それに深く根付いている社会への貢献と奉仕、それは現代になってなおもイギリスの大学の法学部では避けて通れぬ議論の課題となっています。
     慈獄はヴォルテックスという器官を通じて善と悪がどんなに強固に結びついてお互いに強い効果を発揮することかを既に理解している人物でした。ゆえにこそ、彼と社会との連関をどのような形であっても――例えば天国や地獄へ行くことでさえも――避けたいと考えたのでしょう。また慈獄自らに関しては、ヴォルテックスほどにまでは善悪の結びつきのある人物ではありませんでしたから、善なる部分、あえて言うとすれば、他者にとっての利益となる部分だけを提供し続けたかった。ゆえにこそ、客人の訪れを拒むことなく、知識の提供を躊躇いもしなかった――そのように考えるのはいささか穿ちすぎでしょうか。

     獄に閉じ込めている――と慈獄は語りました。
     彼らが共に最期の時代を過ごしたのは、外界と隔てられた獄のなかでした。しかして、そこでの慈獄の振る舞いは常にヴォルテックスへの隠しがたい慈しみに溢れていたと、多くの使用人がそう証言しています。したがって、その邸宅につけられた屋号は、ただ所有者の貴い苗字のみによるところではないのです。
    orie_dgs Link Message Mute
    2019/01/09 17:02:37

    ある新書の断章(2018.10.04)

    2-5を遊んでると胸が苦しくて困るので、自分の精神衛生のために書きました。クリア後の来日ジゴヴォル同棲ifです。実在人物の名前がたまに出てきていますがまったく関係ありません(これ検索にひっかかっちゃうかな……)。※第六章って書いてありますけど第一章から第五章までは存在していません。第七章以降もありません ※大逆転裁判2のネタバレがあるのでクリアしてから読んでください #大逆転裁判 #大逆転裁判2 #ハート・ヴォルテックス #慈獄政士郎 #ジゴヴォル

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