能樂 慈獄変(2018.06.04)―――――――――――――――
慈獄変[じごくへん]
流儀 不明
分類 四番目物、雑能物
作者 不明
題材 「大逆転裁判」
季節 春
場面 イギリス・ロンドン
登場人物 前シテ 里の男(慈獄政士郎)
後シテ 判事の怨霊
ワキ 弁護士(成歩堂龍一)
ワキツレ 霊媒師(綾里真宵)
アイ 在所の者
弁護士と霊媒師、そして里の男の登場 まずはスーツ姿の弁護士、そこからやや遅れて、和装の霊媒師が現れる。
成歩堂
「いまは二〇二八年の春先、イギリスはロンドンのホワイトホール。知らぬ者とていない官庁街の一角、その名も高等法院です。鏡のように磨き抜かれた大理石のモザイク文様は広間の床を美しく彩っています。ぼくの助手である霊媒師はあちらでそれを見下ろして、はしゃいだ声をあげています。
「ぼくは日本からの観光客です。ひとりの弁護士としてぜひ一度、近代司法の聖地、この高等法院を訪れてみたいと密かに思い続けていました。……ま、それはどちらかといえばタテマエです。本音としては、クライン王国での経験で諸国漫遊に凝ってしまい、たまには西洋のほうにも遊びにやって来てみた、とそういうわけなのです。
里の男
「もし、失礼ながら。そこなるお二方。
成歩堂
「これはなんと立派なヒゲの紳士がいたものだろう。髭黒の右大将もさながらだ。
里の男
「暖かなその肌の色、その黒髪のぬばたまは、もしや大日本帝国からの客人ではないか。そしてその向日葵に天秤の紋章は。
成歩堂
「大日本帝国とは、いまどき珍しい物言いをなさる御方だなあ。
「ええ、御察しの通りぼくたちは日本からの者で、弁護士をしております。あなたもどうやらそのようですね。
里の男
「ええ、わしはむかし同じ身分の仲間と肩を並べて、海を渡るつばめのように、ここへ渡ってきた者です。それからというもの、この英国の土に根付いて久しいのです。日本、日本か。思い出すだに懐かしい。
「あなたがたはご観光か、あるいはご出張か。それとも……そうだ、芸でも披露しにおいでかな。ここは世界でも最先端の都市、倫敦だ。その中心たるピカデリイ・サアカスは大道芸の最先端でもあります。
真宵
「あ。オジさん。それってあたしのこの格好をご覧になってのご判断ですね。けど、生憎これは芸のための身なりではないんです。あたしは霊媒をする家柄の女で、いつでもこの身なりをしているんだから。
里の男
「あいや、これはとんだ誤解をしたようだ。すまなかったね、お嬢さん。最近はあまりそういった懐かしい身なりの方を見なかったものだから。
「お詫びに、とは言わないが、良ければこの倫敦のなかでもとりわけ司法に縁深きかどをご案内いたそう。わしはここでの暮らしがとても長い。あのなつかしき高尾の山の、岩肌をつく杖かのように、少しはお役に立てましょう。
彼は成歩堂たちを先導し、高等法院のなかにとどまらず、中央刑事裁判所、留置所、聖アントルード病院、バークリー刑務所など、あちらこちらを案内する。長くこの土地に住んでいるという言葉はどうやら嘘ではないらしい。聞くも流暢な英語を操り、あちこちの案内板をも難なく翻訳してくれる。また、彼はここらでの物事にとても詳しく、弁護士の専門的な質問から、霊媒師の素朴な質問まで、すべてつまびらかに答えてみせる。
里の男
「いやいや、実によく勉強しておられるようだ。日本ではさぞ有能な弁護士でいらっしゃるのでしょう。法曹界は安泰ですな。
真宵
「いやあ、それほどでも。
成歩堂
「それはぼくの言うことだね、真宵ちゃん。
里の男
「おやおや、これは愉快だ。良き友人は珠よりも大切にすべきものだな。
「さて――ときにあなたも弁護士ならば、百年ほど前、ここ倫敦で起こった事件を知っておられるかな。大英帝国と大日本帝国の法曹界を巻き込んだ、十年越しのおかしな事件だ。十年など、今から思えばあっという間ではあるが。
里の男の語りと消失里の男
「かつてここには大日本帝国からの司法留学生が三名いた。それぞれ亜双義、御琴羽、慈獄という三人は、それぞれ英国での師の元につき、おのおのの勉学に励んでいた。
「しかし、あるとき亜双義が恐るべき殺人の咎で囚われた。その親友だった慈獄は彼の無罪を主張したが、とても聞き入れてはもらえない。そこで慈獄は自らの師とともに、彼を脱出させる計画を練ったのだが、やれ助かろうというところで、手元が狂い、友人を撃って……
成歩堂
「友人を……
里の男
「殺めてしまった。
真宵
「殺めてしまった。
里の男
「これを理由として、慈獄は師に逆らうことができなくなった。彼は祖国で判事となり、くわえて師の意向により、外務卿の位に就くこととなった。当時ではそうした兼業は珍しくもないことだったのですな。何より、祖国はまだあまりにも未熟であった。他に適性のある者もなかったのは事実です。
「時は流れて十年後、師はある殺人の計画を立てた。慈獄はそれに協力して渡英し人を殺め、逃亡を図るも叶わず、法廷に引きずり出された。そこから過去の友人殺しも公にされ、異国の地で首を吊られた。そうして二度と慈獄が恋しい大和の土を踏むことはなかった――
「と。だいぶ省いたところもありますが、わしから語ることのできるのは大方かくのごとき寸法です。
真宵
「ふうん。
里の男
「納得いかなげだね、お嬢さん。
真宵
「手元が狂って、友達を殺しちゃったんですよね。べつだん殺したかったってわけじゃないのに。友達をわざとじゃなく殺した人が、つらくないわけってあるのかな。なんと言えばよろしいのでしょうか、そうだな……
「それって。ちょっとかわいそうかな、と。そのようなことを思っていたのです。
里の男
「なんともお優しいことだ。しかし、何も哀れむ必要はない。罰されるべきだから罰されたのです。自分の口からは何も言おうとしなかった男です。
「そして、その男はここにいる。この世をあえなく去ってから、名のみ残ったのがこの慈獄政士郎というわけなのです。
成歩堂
「ああ。それをお聞きしたいま、雷に打たれたように思い出しました。わが母校である勇盟大学、法学部フロアの専門図書室。そこには法にまつわる数多くの禁帯出の専門書が、開かれるときをひそやかに待っております。そのなかからぼくは法の歴史にまつわる本を抜き出し、二〇世紀初頭の項目を開いたことがありました。そこには、まさにあなたの名、あなたの御姿がありました。
「あなたはなぜこうして我々に声をかけたのですか。
里の男、あらため慈獄
「青年よ、きみはわしと縁が深く、お嬢さん、きみは霊と縁が深い。なれば、何といって不思議はないことではないはずだ。
成歩堂
「あなたとぼくにご縁があるとは思いもしなかったのだが。どうやら、ぼくとあなたが日本人であるという、それだけのことではなさそうですね。
慈獄
「もしも話を聞いてくださるというのであれば、夜半にこの刑務所の裏手、ロウゲート墓地へとおいでなさい。壱百参拾九番の墓碑の前なれば、語れることもありましょう。わしとしましても、百年にわたりし長き悪夢の醒めゆくことのあるやなしやと。
慈獄は姿を消し、あとには弁護士と霊媒師が残される。
弁護士と在所の者との問答 弁護士と霊媒師は高等法院の管理局にやってきている。
在所の者
「幽霊をご覧になりましたか。それは運がよかったですな。というのも、ここロンドンにはよく幽霊が出るのです。そして、よく好まれます。幽霊ひとり出ないようではそのお屋敷はまだまだ新築、三流に過ぎぬとよく言われるほどですよ。
「さても、このホワイトホールの界隈には大昔から留学生が多く往来しています。そしてそれをひとり残らず記録しているのがこの管理局というわけです。少しはお役に立てもしましょう。
成歩堂
「ぜひ、そのように。
在所の者
「なれば最も古い記録から辿るといたしましょう。日本からの留学生は、セイシロー・ジゴク、ゲンシン・アソーギ、そしてユージン・ミコトバ。次に、キンノスケ・ナツメ。そして少しあいだをあけて、カズマ・アソーギ、リューノスケ・ナルホドー。それから……
成歩堂
「成歩堂ですって?
在所の者
「確かにナルホドーと。
成歩堂
「日本にふたつとない世にもめずらかなこの苗字に、よもや海を隔てた異国でまみえることになろうとは、果たして誰が思ったろう。
「すみません、そこに彼の資料があるのですか?
在所の者
「ええ、ご覧になるのであればどうぞ。
成歩堂
「龍ノ介の署名だ。確かにこの手跡には見覚えがある。ぼくの龍一という名の「龍」の字は曽祖父からいただいたものだと聞いた。すると、この人こそぼくの曽祖父どのなのだろうか?
在所の者
「リューノスケ・ナルホドーですね。
「ええと、ナルホドーは、官費留学生であった友人、カズマ・アソーギと共謀し、その荷物に潜り込んでの密航後、たったの一年で帰国した弁護士です。されども、その短いあいだに、ほかの弁護士が一生かけて積みあげるような、多くの名裁判を演じてみせました。
真宵
「なるほどくん。なにやら、少し照れるね。
成歩堂
「ぼくはそうでもないかな。ぼくのお手柄じゃないし。
在所の者
「当時、多くの外国人にとって、日本人は仁義を重んずる民族だと見なされておりました。すなわち、仁義のために人を殺し、仁義のために殺される、実に野蛮な、神に授かった命を軽んじて憚らぬ、道徳的に劣った民族である。そう考えられておりました。ある観点から言えば、ナルホドーはその認識に革命を起こしたと言ってもさわりはありますまい。
「日本人が近代司法のやりかたに則って、裁かれるべき人間を裁いた、理性ある人類としてその存在を示してみせたのがあの審理です。すなわち彼が、自身の密航留学を庇われし大恩を持つ日本の判事、セイシロー・ジゴクの罪を暴きだしたあの審理です。
成歩堂
「ああ、これでわかった。これが奇縁か。なんということ、まさかぼくのご先祖があの人を裁いていたとは。いったいあの方はぼくに何をおっしゃりたいのだろうか。まさか仇討ちでもなさりたいのか、果たして。
「もし、失礼ながら、セイシロー・ジゴクの裁判に関する資料をお借りできますか。
弁護士と霊媒師の前に現れた亡霊の昔物語 成歩堂と真宵は夜のロウゲート墓地、第壱百参拾九番の墓碑のまえに立っている。
やがて、墓の底からどろどろと湧きいづるものがあり、それはやがて形を持ってそびえたつ。昼間、ともに観光をしたあの慈獄にほかならないが、その姿は飛鳥時代風の衣装に包まれ、まさに閻魔大王そのものかと思われるような威厳に満ちている。彼は成歩堂たちのしげしげ見つめる眼に気がつくと、決まり悪そうな笑みを浮かべる。
慈獄
「少しはそれらしい身なりで罷り出でるべきかと思い、装いを改めて馳せ参じました。どうです、あなたがたの眼から見ても、さだめし珍奇とお思いでしょう。何もわしらだって、これを当たり前に思っていたわけじゃない。明治の終わり頃になって判事の制服が決まったのだが、いざ出来上がりを見てみたらこのありさまで、みな気恥ずかしさにはにかみながら袖を通していたものです。新しい司法制度のために作られた新しい衣が、まさかあの額田部皇女の御世にその題材を摂るなどと、果たして誰が考えたことでしょう。「大日本帝国」などと粋がって名乗りはしたが、まだまだ扶桑国たる自分の伝統が好きだったのですな。
「ともあれ、これはまごうかたなき明治の衣装。こうして地獄の底より罷り出でしは、判事としての慈獄です。
成歩堂
「慈獄閣下。勝手ながら少々お調べ申しあげました。事情は存じております。ぼくの先祖たる成歩堂龍ノ介が、あなたの罪を暴いた弁護士であると。ついては、あなたがぼくに語らんとなさる物語とは、果たしていかなるものでしょうか。親の因果が子に報い、とはかの馬琴の折から巷に言われる言葉でありますが、何か、彼の子孫たるぼくに報いるべきお恨み、嘆き尽くせぬ理不尽がその裁きのなかにあったというわけなのでしょうか。
慈獄
「いいえ、そのようなことはない。あの裁判は実に公平なものであった。どうぞ子孫として誇りに思ってほしいくらいです。
「わしがあなたがたに聞いていただきたいのは、あの裁判で暴かれ得なかった罪の懺悔なのです。
慈獄は振り返り、墓を見つめる。
慈獄
「もう百年前にもなるのだな。
「まさにこの壱百参拾九番の墓から、我が友はその姿を現しました。そのとき、山吹の藪から飛び出してくる狐狸のごとく、思いもよらぬ闖入者があり……決して、見られてはならなかったのに……私は混乱と当惑のなか、我が師に指図されるまま、友を銃弾にて殺めたのです。
「師はその褒美として、私の肩に外務卿という名に輝く錦の衣をうちかけましたが、その裡地には無数のつらら針が縫い込められているように感ぜられたものでした。それは私が裏切れぬようにするためのものだったのですから。
「それから何年も、私は大日本帝国を支えることに執心しました。『好事門を出ず、悪事千里を走る』という言葉がございますが、私の場合は逆でした。悪事は慈獄家の門を出ることなく、ただそれがあったことを知る私ひとりをじいと見つめ続けました。そして好事は千里を超えて万里を駆け抜け、私の名を遥かなる海外にまで轟かせ、高く高くへ押し上げました。あまりに高くて降りられぬまでに。
「さて、申し上げよう。私の罪は友を撃ったことです。そして何より、愛してはならぬ者を愛したことです。我が師を、あの西洋の鬼を、人非人を、狂おしいまでに恋したことなのです。
昔を懐かしむ判事の謡、舞 慈獄はやや物狂いのていである。
慈獄
「こうして瞼の裏にあの方の恋しい御姿を、耳の貝にあの方の愛しい御声をよみがえらすだけのことでも、嬉しさと恨めしさとが手を取り合って募ってゆく。自らの正気が、宇治の川霧のように揺れながら、遠ざかってゆくのがわかる。あの方が……
成歩堂
「あの方が……
慈獄
「あの方が。彼方が。あなたが……
「あなたが、私をお庇いくださるとは、夢に思うてもおりませんでした。願うつもりもございません。それは私だけではありますまい。あなたに関わったすべてのものは、あなたにいつか見捨てられることぐらい、初めてお会いしたときから、とうに存じておりましたろう。
「私が願っていたことといえばただひとつのみ。ただ、ただ、私が玄真を撃ったことを、あなたが早く法廷の皆のまえで言ってくださったらよいと、そう願っておりました。もし、そうして白日のもとへ我が罪業をさらしていただけていたのなら、どんなに本望だったでしょう。
「そうなったとしても、私は決してあなたの名を告げはしませんでした。
成歩堂
「それはなぜです。この資料にははっきりと、あなたが貝よりも天岩戸よりも堅く険しく口を閉ざし、決して共犯者の名を証言しなかったと残されております。あなたが彼の名を告発せざるはいまも同じこと、事実ではございませんか。
慈獄
「なぜならば、籠から放たれた鳥のすべてが蒼穹を目指すわけではありますまい。大敵とてない籠のなかで、大恩ある主人のため囀り続けたい鳥もおりましょう。それこそあなたが生前愛されていたあの白鳩たちのように、幾度天空へ放てども必ずあなたの許へ戻ってくる、そうした翼もありましょう。然れども、すべてはひとたび籠から放してみぬことには、決してわからぬことでございます。
「むろん、あの男を撃ったことはつらかった。撃たずに済むのならそうしたかった。あの男を撃ったのちの10年の苦悩にくらぶれば、わが胸を貫くほうがどんなにか幸福だったとさえ思う。だが、私は、それをしたと人に知られることをむしろ願ってすらいたのです。私は友人殺しのかどで裁かれたかった。裁かれねばならぬと思っていた。それを避けたいからだの、黙っていてほしいからだの、そんな理由であなたに従っていたわけではない。そのことをどうか知っていてほしかったのです。同じ沈黙という名の花が咲くにせよ、それは決して同じ根と茎とをもつ花ではありません。
「あのときしかなかったのです。すべてを明らかにできたのは。ですが、すべては過ぎ去ってしまいました。
成歩堂(高等法院の資料を読む)
「慈獄氏の師は彼に有罪の判決を与え、沈黙のままに彼を法廷から追放。そののちになってようやく彼の友人殺しを告発した。
慈獄
「そう。あの方は最後まで私が我が身可愛さに貝になったと思し召されたに相違ない。あまりにも悲しく、惨たらしいことだ。許せぬ。ほかの何を許そうとも、どうかあの男ばかりは許せぬ。
「先生、先生。どこにおられるのか。
成歩堂
「どうしたことか。あの男の暗闇のような両眼は怒りに燃え、雪のように白い頬のうえに血の涙を滴らせているかに見える。
片手には錆びつき苔むした黄金の小槌を持ちながら、もう片手を胸の高さにゆらりとかざし、ゆっくりと、盲人のように亡霊は辺りを歩く。それは百年ものあいだ片時も途切れることなく続いている彼の深い孤独を覗き見ているようである。その仄かに透き通りながらうち光る手を取ることができないのは試すまでもなくわかっている。
真宵
「彼は正気を失ってしまった。怨霊となられてしまった。
「けれど、あるいは、はじめからそうだったのやも。はじめから、百年前から。
成歩堂
「ぼくの後ろに。果たしてぼくがどれほど役立つかはわからないが、まあいないよりはましだろうて。
慈獄
「どこにおられるというのだ。私をかくもさみしきところにひとり置きざりにして。耶蘇の教えに導かれ、天上のElysiumへ迎え入れられてしまわれたとでもおっしゃるか。この私が、この重い肉と土に囚われた男が、あなたの庭の朝露のように、東雲とともに消え行くことができるものとでもお思いめされておられるか。ひどいお方だ。知ってはいたが、ほんとうにひどい。憎らしい、恨めしい。愛おしい。せめてもう一度でもお会いできたなら、どんなにかよかったろうに。
「あの方がどこにもおられぬにもかかわらず、成歩堂、なぜおまえがそこにいるのか。おまえさえいなければ。ねずみのように卑しく、あなたこなたを嗅ぎまわりおって。帰るがいい。帰るがいい。きさまにここへ来る資格などなかったのだ。このおれ、政士郎よ、あのときこの男を罪人にしてしまわなかったのはなぜなのだ。この国へ来るべきは一真ただひとりだった。あの子ひとりであれば、どうせ何もできなかった。おれが死なねばならぬのならば、それをすべきは一真であった。
「ええい、成歩堂龍ノ介。きさまが憎い。きさまが憎い。
成歩堂
「ああ、あたりが黒く燃え盛る炎に包まれたかに見える。氷のように冷たくありながら、火傷するように熱いとは何事だろう。いよいよ死を覚悟するよりほかにないか。ああ、消火器で打たれようと車で撥ねられようとびくともせざるこの命、かような異国で果てることになろうとはなあ。
真宵
「見我身者発菩提心、見我身者発菩提心。
「聞我名者断悪修善、聴我説者得大智慧。
「知我心者即身成仏。
慈獄
「やや。
成歩堂
「やや。
慈獄
「これは果たしてどうしたことだ。耶蘇を寿ぐ聖歌でもなし、神父の誦したる聖書でもなし。懐かしき仏法の教えが聞こえてくる。この異邦の地においてあるまじきことではないか。
成歩堂
「慈獄閣下。どうぞ落ち着かれますよう。
慈獄
「そなたは。
「おれの知る成歩堂ではない。
怨霊は一転、憑き物が落ちた様子となり、龍一のほおを震える指先で触れようとする。
慈獄
「成歩堂ではないのか。
成歩堂
「ぼくは相違なく成歩堂ではありますが、あなたの成歩堂ではないものです。閣下、あなたがぼくをご存知のはずはないのです。
「ぼくの名前は成歩堂龍一。成歩堂龍ノ介は我が曾祖父にして、既に日本国の成歩堂家代々の墓で永き眠りについております。どうぞ思い出されませ。どうぞ思い出されませ。
慈獄
「龍一。龍一。ああ、ようやっと思い出した。
「そうだ。おれはずっとここにいたではないか。すべて見ていたではないか。瓦斯燈が電気燈となるのを、馬車が自動車にすげかえられてゆくのを、地中をつらぬいて鉄道が駆け抜けるのを。女たちの胴が息苦しげな鎧から解放されるのを。人が海路を何十日間もゆられずに、あの苦しみや心細さを味わうことなしに、それこそ秋のつばめのように天空を飛び、この国へやってくることも、このまなこで見ていたはずなのだ。
「成歩堂龍一どの。あなたにはさぞや恐ろしき思いをさせたであろう。消えてしまいたいほどだ。恥ずかしくてならぬ。申し訳ない。申し訳ない。
慈獄は顔を背ける。
霊媒師の祈祷、夜明け成歩堂
「真宵ちゃん。
真宵
「慈獄さん。あなたは大英帝国で刑を受けられ、それから百年もおひとりでここにおられました。さぞ無念だったこととお見受けいたします。きっと故国には懐かしきものも愛おしきものもおありだったことでしょう。
「せめてもの御心の慰めに、未熟者のあたしではございますが、どうか回向をさせてはいただけませんか。
慈獄
「そのように嬉しい申し出を、これまで聞いたことがあっただろうか。そのお心遣い、感謝の言葉もありませぬ。けれど、それならばわしなどではなく、わしの友のためにどうぞお頼み申し上げます。
真宵
「それは、あの事件で亡くなられた、あの亜双義という方に。
慈獄
「ええ、わしに殺された男です、その姓を亜双義、名を玄真といいました。
「ほんとうに、神というものがあるのならこんなふうな姿で顕われなさるだろうと思うほどに、立派で、まっすぐで、おもしろく、気のいい男だったのです。水暗き沢辺に飛ぶ蛍にもまして、輝かしきはその心でした。その心を貫いたのが、わしの弾丸だったのですが。
「もしこの愚かな怨霊に、少しでも垂れていただける恩恵があるのなら、それはすべて玄真のやつにやりたいと思うのです。
真宵
「あたしにとっては顔さえも知らぬ御方ですが、これも何かのご縁と存じます。亜双義玄真さま、あなたのためにあたしは数珠をすりあわせ、勾玉に祈りをこめ、経文をとなえるといたしましょう。
「若念仏衆生摂、我成仏十方世界取不捨。(繰り返し唱える)
慈獄
「ああ、胸の底から洗われるような想いがする。まことに清らかな功徳の心は、地上はおろか、遥けき天上からでさえ、地獄の底まで射し込むというが、この娘の供養とともに嘆くのであれば、それはいずこか、わしの届けたいところへ届くのやもしれぬ。
「我が友よ、我が友よ。わしが人間なみの恋など知らなければよかったのだ。御仏は慈悲深い御方だ。今でもわしをお助けくださるに違いない。しかしわしは今でもあの鬼畜のごとき毛唐の男を恋してならぬ。鬼よりも鬼のような男、悪魔よりも悪魔のようなあの男を。あの男の持ち物で唯一清らにして尊き願いを、なぜ叶わせしめなかったかと、神仏を呪わぬ瞬間は今でもない。きさまと戯れたあの黄金に輝く武蔵野の原、大帝都に連なる軒端の提灯をいかに懐かしく思おうと、あの男の愛したこの都から離れようとも思えはせぬ。果てるともなき地獄の炎の草叢が、どれほどわしを焼き苦しめても、それをやめることはできぬのだ。そのことが、わしは何よりきさまに申し訳なくてならぬ。
「許せとは言わぬ。決して許さないでくれ。玄真、きさまにはすまぬことをした。すまぬことを……
成歩堂
「夜明けが。
かくして、恋に狂わされた裁判官の霊は、聞くだに胸の張り裂ける悲愴な嘆きのこだまを残して、迎えの餓鬼たちに袖を引かれ、壱百参拾九番の墓の底を通じ、いずこともない地獄の果てへと去って行く。真宵はその姿が見えなくなってなお、滔々と読経を続けるが、やがて経文の末に辿り着くと、ゆっくりと数珠をしまう。明け方の光はロウゲート墓地の白ポプラを優しく照らし、葉先のしずくを輝かせている。
※Elysium…西洋神話において、死者のなかでも生前正しい行いをし、神に愛された者が死後に移り住むとされる世界