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    【ワカりり】その、宝石のような海で

     いつも集まる店で、三人はオープンテラスのテーブルについていた。目の前にはピザやら何やらが所狭しと並んでいる。
    「ちょっと頼みすぎたかな……」
     りりは少し考え込むように呟くと、
    「大丈夫な! りなちゃんが食べちゃうから」
     りなは既にナイフとフォークを両手に持って目を輝かせ
    「良いじゃん、今日くらいは」
     りょくがグラスを持って二人に目配せした。
     三人はジュースを高く掲げて乾杯した。グラスが触れあい澄んだ音を立てた。
     店の前は観光客や地元の人々が賑やかに行き交う場所にあるが、少し奥まった場所であるためあまり観光客には知られてない穴場という奴だった。りなはこういう物を探すのが本当に得意だった。りりは重い気分が少し良くなってきたような気さえしてきていた。単純だとは思ったが。
     しばらく目の前の料理を食べながら当たり障り無い会話をしていると、
    「それにしても、何で駄目だったの? 練習してたよね、ゴンドラ」
     りょくの問いに、りりはうっと呻いて俯いた。言うのは躊躇われるが、この二人に黙る訳にも行かない。
    「実は……全然声が出なくて」
    「何でな?」
     りなは食べる手を止めることなく会話を続ける。
    「まさかまたあがり症……?」
    「た、多分……。知ってる先輩だから大丈夫だと思ったんだけどな……全然歌えなくて頭の中真っ白になって……」
     はあ、とため息をついてりりはテーブルに突っ伏した。
    「これで三回目だよ……」
     りりは水先案内人の制帽をとってパタパタと仰いだ。
    「でも、プリマって確か平均しても五回は落ちるって聞いたけど」
    「そうだけど……この間別の子は受かったんだよね……私よりも後に入ったのに。何してるんだろう……」
     はあっとため息をつくりりに、りなとりょくはよしよしと頭を撫でた。
    「まあ、人は色々あるからな。今日はぱーっと食べるんだな!」
    「そうそう。反省は明日で良いじゃん」
    「うぅ……そうする……」
     りりは既に半分ほど無くなっている料理に手をつけながら答えた。
    「こんな事で挫けてちゃ、お客さんに私のお気に入り、この星の最高の景色を案内できないもんね!」
     りりの言葉にそうそう、と頷いた。
    「でも、最高の景色ってどこよ。私も知りたいじゃん」
    「りなも知りたい」
    「いっぱいあるよ、海側から見た本島も綺麗だし……水路を通った先のお庭のある宮殿跡とか……」
    「あれ、でも水先案内人って観光地ガイドメインだよね?」
     りょくの言葉にりりはうっと呻いた。
    「やっぱり駄目か……」
    「なー……そういうの、好きなお客さんが来てくれれば良いけど、大体は地球からの観光客だし……観光もあまり長期で来る人は居ないし……」
     りなの冷静な指摘にりりは再度呻く。
    「……そう、だよねー」
     りりはため息をついてピザを頬張った。つられてりょくとりなも目の前の料理に手を伸ばした。会話の話題はくるくると変化して行きつ戻りつしながら、仕事の事、今後の事、お互いの近況やりなとりょく達姉妹の話やりりのいる寮の中の事などを話していた。
    「あれ? りんねえねだ」
    「ホントだ、しかもかなり気合い入っている恰好じゃん」
     何とはなしにテラスの向こう側に目を向けたりなは、水路の反対側を歩いている姉の姿に気付いた。りょくが目で制して声をかけるのは思いとどまったが、三人は思わず彼女を見やった。りなとりょくの姉のりんは、普段のシンプルな装いではなく、彼女にしてはかなりめかし込んだ恰好で、ヒールをカツカツ鳴らしてカナルグランデの方に向かって人混みの中に消えていった。
    「……あれ、絶対デートじゃん」
    「なな、そういえばりんねえね、今日夕ご飯いらないって言ってたな」
    「あっちだと宇宙港の方だよね。誰か帰ってきたのかな。りなたちは知らないの?」
     りりの問いに二人は首を振った。
    「りんちゃん、あんまりそういう話しないのな、みんななんとなく分かってるんだけど」
    「まあ、基本的に嘘つけない姉だから、何かあれば分かるしね。でも別に彼氏いるくらい教えてくれても良いのに」
    「……まだ彼氏じゃないとか」
     りりの言葉にりなたちはうーんと呻いた。
    「まあ、あの姉結構残念だから、ありそう」
    「りんちゃんちょっと遠慮しちゃうからなー」
     二人は姉を思って思わずため息をついた。りりは優しい二人の姉の事を思い出して、苦笑いした。
    「あ……もうこんな時間か」
     ふと気付いて腕時計を見ると、既に昼の時間も大分過ぎた頃合いだった。りりは割り勘した代金――二人は奢ると言ったが押しつけて――席を立った。
    「二人ともありがとう」
    「今度はうちでまた遊ぼうナ」
    「予定空けておいてよ」
     手を振り別れると、りりは近くの船着き場に泊めていたゴンドラに乗り、水路を進み始めた。



     日差しが強い。
     ワカバは上を見上げてずっと遠くまで真っ青な空に眩暈を覚えた。
     地球ではこんなに強い日差しはもう殆ど見られない。全天形ドームの中で調整された空を常に眺める日々だった。
     これが、スクリーンを通さない本当の空だ。あんなに夢見た……。それだというのに、何だか頭がふらふらしていた。

     ――なんだろう。ふわふわする……。

     地図を右手に、重たいスーツケースを左手で引きながら、ワカバは人気のない細い迷路のような路地を彷徨っていた。
     一体どの程度歩いているのかはもはや把握できていない。
     嗅ぎなれない潮の匂いがふわりと漂ってきて、ワカバはひょっとしてと思って角を曲がった。
     開けた広場に出て、ワカバはほっとしたのもつかの間、すぐにまたがくりと肩を落とした。
     広場の先は水路が横切り、店仕舞いしたのか閉まったままのカフェが左右に並び、日よけ代わりなのか木が一本植えられていた。木の下にはベンチがぐるりと円を描くように並べられていて、ワカバはいったん休憩をしようと木陰のベンチに腰を下ろした。
     足は棒のようで足の裏もきっと靴を脱いだら水膨れになっていそうだ。
     ワカバはふうっと息をついて、時折吹いてくる潮風を浴びた。
     座ったことでわずかに眩暈は落ち着いてきたが、やはり体がひどく怠く、重かった。
     ――少し、休もう。
     どうせ捕られるものもない、とワカバはそのままずるずると体をベンチに横たえて目を閉じた。
     どのくらいうたた寝していたのかは分からないが、やがてワカバはどこかから流れてきた歌に意識を引き戻された。声は明らかに少女の物で、歌の内容は確か愛する女性を思う男の歌だった。随分と歌っている声とギャップのある内容だとワカバはゆっくりと目を開け、起き上がった。
     

     りりは、ゴンドラを静かに船着き場に寄せて、広場に降りた。
     そこは市街からも離れていて、ほとんど人のいない絶好の練習場所だった。
     りりは譜面を一通り眺めて、気合いを入れる様に頬を叩き、よしと呟いた。
    「しっかりしなきゃ、今度こそ受かるんだから」
     片方だけしているグローブを見つめて、りりは大きく息を吸って、歌いだした。
     一人前の試験の時には出せなかった、高く澄んだ響く声でカンツォーネを数曲歌いあげ、りりはふうっと息をついた。
     これが試験やお客様の前で出来れば何もいう事は無いというのに。
    「……なんでかなぁ」
     りりは肩を落として、振り返った。
    「……とても上手だね」
     振り返った先にある、いつもの木陰のベンチには先客がいた。
     木の陰に隠れる様にして眠っていたのか、ベンチから起き上がったワカバは柔和な笑みを浮かべてぱちぱちと手を叩いた。
    「な、なっ……い、一体いつからそこに……?」
    「多分、君が来るよりだいぶ前からいたと思うよ。時間、見ていなかったから分からないけど」
     顔を赤くして震えるりりを、ワカバはどうかしたの? と不思議そうに見つめた。
    「……な、なんでこんな所に……。何にもない場所なのに」
    「本当にね。地図を見ながら歩いてきたはずなんだけど……」
     ワカバは首をかしげて何でここまで来ちゃったんだろうね、とりりにあっけらかんと言って笑った。
    「……それって、迷子?」
    「そうなるかな。市庁舎を目指してたはずなんだけど……」
     りりは思わずはあっと呆れてワカバを見つめた。
    「……市庁舎って……。反対方向だよ? どれだけ迷ってたの?」
    「数時間は歩き回ったかなぁ」
     ワカバは立ち上がろうとして、危うく後ろに転がりそうになった。思わずりりが手を引いてくれなければ本当に後ろにひっくり返って気に頭をぶつけていたかもしれない。
    「……大丈夫、ですか」
    「うん、平気……だけど」
     あまり顔色の良くないワカバの様子に、りりはひょっとして、と言いながらワカバの額に触れた。
     今日はそこそこ暑いのにも関わらず、汗もかいていない。それに額が熱い。
    「……あの、水分を取ったのはどれくらい前?」
    「お昼に水を飲んだけど……」
    「……ちょっと、ここで寝てて。何か持ってくるから」
     りりはワカバをもう一度ベンチに座らせ、若干強引に寝かせた。
    「え、良いよそんな事しなくて」
     起き上がろうとするワカバに、りりは有無を言わせない口調で
    「いいから、寝る」
     思わず、ワカバははい、と答えて体をベンチに横たえた。
     りりはゴンドラに乗って急いで一番近くにあったカフェに行き、飲み物と、事情を説明して氷をいくつか袋に包んでもらってきた。
     戻ってきたりりは、氷を首元や脇に置き、買ってきた飲み物をワカバに渡した。
    「これは?」
    「ヨーグルトの飲み物に、ライチと塩を入れたもの。熱中症になった時はこれが良いんだから」
     ワカバは躊躇いながらもそっと飲み物を飲み、ふっと息をついた。
    「それにしてもこんな天気の日にふらつくなんて……。その荷物と言い……地球から来た人でしょ」
    「うん、こんなに強い日差しは初めてでびっくりしたよ。気温も高いし」
    「観光?」
    「ううん、仕事でね、ここに住むことになったんだ。市庁舎の傍にある気象管理局に行くはずだったんだけど……」
     ワカバは地図を開いて首を傾げた。りりもワカバの横に座って地図を見つめ、指をさした。
    「今はこの辺。で、市庁舎は……ここ。全然方向違うでしょ」
    「本当だ……」
     ワカバはばつが悪そうに苦笑いした。貰った飲み物を飲み干して、ワカバは立ち上がった。ひとまずふらつくほどではないようだ。ワカバはりりに微笑みかけて
    「ありがとう、だいぶ楽になったよ」
    「もう行くの? 大丈夫?」
     思わずりりは声をかけるが、ワカバは大丈夫、と答え、歩き出そうとしてふらりとまたバランスを崩した。
     りりは少し考えて
    「……あの、私、まだ半人前だからお客さんを一人の時には載せられないの」
    「お客さん……?」
     ワカバは首をかしげてりりを見やった。
    「その……お友達、という事だったら、私のゴンドラで運んであげる」
    「え、そんな……。悪いよ」
     ワカバは思わず手を振るが、りりはいいの! とワカバの手をぐいぐいと弾きながらゴンドラの方に歩き出した。
    「そんな状態で人を放り出したなんて水先案内人として失格だもん」
    「水先案内人? そういえば、来るときの船の中でも聞いたような」
    「観光ガイド、みたいなものだけど、水路の事を熟知しているから、結構何でもやるよ。荷物を運んだりとか」
    「へえ、凄いんだね」
    「さ、どうぞ」
     感心するワカバに、りりはゴンドラに乗せるために手を差し出した。ワカバはりりの手を取って、ゴンドラに乗り込んだ。
    「うわーめっさすごい!」
     りりはワカバを乗せて滑るようにゴンドラを漕ぎだした。
    「そういえば、さっきはなんであそこで歌を歌ってたの? 練習……?」
     ワカバの問いに、りりは思わずうっと呻いて思わず目をそむけた。
    「……さっきも言ったけど……。私半人前で……。もう何度も一人前の試験をやっているけど落ちてるんだよね」
    「そうなの?」
    「……歌がね……。普段は出来るのに試験の時になると上がっちゃって……全然声が出せないの。正直、あまり歌も上手じゃないし……」
    「……そう? とても、素敵だったよ」
     ワカバの言葉にりりは思わず目測を誤ってオールをゴンドラの脇にぶつけた。もし先輩が乗っていたらあとで大目玉を食らう失敗だ。りりは呼吸を整えて落ち着かせてオールを動かした。細い水路を抜け、カナルグランデに出ると、ワカバは歓声を上げた。開けた視界の前にはたくさんの船が行き交う大きな水路で、水上バスとゴンドラ、さらには個人の運転するボートなども行き交い、水路に沿って作られた歩道には人がひしめき合うように歩いていた。りりは目指す場所を指さした。
    「あの白い建物が市庁舎だよ。かなり交通量が多いから、手前で止まって大丈夫?」
    「うん、ここまでくれば大丈夫だよ。ありがとう」
     縫うようにゴンドラを流れに乗せて徐々に目的の市庁舎の建物の側まで近づけると、良さそうな桟橋に止めた。ゴンドラからおろしてりりはどういたしましてと笑みを浮かべた。
    「お代はこれくらいで大丈夫?」
     ワカバは財布からクレジットを出した。
    「お友達を乗せただけだから、いらないよ」
     りりの言葉にワカバは
    「うん、でもさっき飲み物とか買ってきてもらった分は渡さないとでしょ」
     ワカバは代金をりりの手に乗せて、握手するように握りしめた。
    「今度はちゃんとお客さんとして利用させてもらうね。ありがとう。素敵な水先案内人さん」
     手を振って荷物を手にしたワカバはそのまま人込みの中に紛れて見えなくなった。りりは、しばらくの間ワカバの姿を見送った。
    「素敵……かぁ」
     りりは、思わず頬を押さえて、桟橋の上でしゃがみこんだ。そういえば、りなやりょく達以外に人を乗せたのは初めてかもしれない。手にしたクレジットを眺めて、りりは皺を伸ばしてお守り袋の中にしまい込んだ。
     桟橋から離れてカナルグランデにこぎ出したりりは、我知らず歌を口ずさみ始めていた。

     

     りりは、顔が緩みそうになって慌てて頬をぱしぱしと叩いて気合いを入れた。既に営業時間は終了したが、水先案内人としてゴンドラをこいでいる間は気を緩ませてはいけない。横でチェックしている先輩の顔を伺うと、特に気付いた様子は無くひとまずほっとしてりりはゴンドラを営業所の前の桟橋に横付けした。
    「……お疲れ様。今日も頑張ったわね」
     先輩に肩を軽く叩かれてりりはありがとうございますと頭を下げた。その様子に、先輩はあら? と首をかしげた。
    「いつもは試験に落ちた後は結構引きずってミスが多かったりしたのに……今回切り替えが早いのね。良い事だと思う。また次頑張りましょう」
    「はい、よろしくお願いします」
    「今日はもうあがって良いよ。どうする? 寮に帰る?」
    「ちょっと友達に会いに行こうと思います」
    「門限は注意してね。じゃ、解散」
     手を振って、おそらく事務所へ報告に行くのだろう先輩の背を眺めてりりはふうっと息をついた。そのまま、寮には戻らずふらりと街に出た。時折会う同期の子達と挨拶を交わし、歩いて賑やかな大通りを通り市庁舎を向かい側から眺める。あれからワカバの姿は見ていない。
     それなりに人の多いこの街でそんなに度々見かけることはないだろうが、それでも少し気になりちらりと市庁舎の前を通るとなんとなく目で辺りを見るようになっていた。
     ――まあ、居る訳無いか。
     りりはそのまま橋を渡って市庁舎の横を過ぎてサンマルコ広場までやってきた。
     賑やかな広場を横目にふらふらと視線を向けると、ふと、サンマルコ時計台の。時計台横の屋根の所に見たことのある頭が見えたような気がした。
     りりは思わず近づいて、大声で名前を呼んだ。
     呼ばれた相手は一瞬驚いたのか背中を向けていたがビクッと動き、広場の方に顔を向けてりりに気付いた。ワカバは手を振り屋根から顔を出した。
    「やあ、この間はどうも」
    「もう体調は平気?」
    「あはは、さすがにもう大丈夫だよ」
    「何してるの?」
    「天気を見てるんだよちょっと見てみる?」
     中から入れるよ、と言われりりは急いで時計台の建物に入った。狭い階段を上ってドアを開けると、ワカバは手を振った。最初にあったときと違い白衣を着ている。
    「今日は水先案内人のお仕事は?」
    「今日はもうおしまいなの。あの……」
     りりは名前が分からず一瞬口ごもり、ワカバはああ、と頷いて首に提げていたカードを見せた。
    「ここの気象管理局に配属になったワカバです。よろしく」
    「私、りり。水先案内人。の半人前」
    「そう言っていたね」
     朗らかな表情でワカバは言いながら手に持っていた端末を閉じた。
    「天気を見ていたって、お仕事していたの?」
    「そう。ここで目視で雲の量や気流を見て、明日以降の惑星の気温についての調整を上とするんだ」
    「上ってあの……浮島の?」
    「うん、僕まだ行ったこと無いんだけど、入植時期が何しろ古いから、気温調整用の装置も古いらしいし、ここの設備も結構年代物なんだよね。だから結構人の手というか、感覚が必要みたいで」
     ワカバは髪をバリバリと掻いて
    「何しろ地球じゃ全部データ化されてたからね……自分の感覚を大事に! って言われてもすぐには……いやー困った」
     困ったという割に、晴れ晴れと嬉しそうに話をするワカバにりりは思わず笑みを浮かべ
    「凄く楽しそうに見えるけどな」
    「え? そうかな……うん、でもそうだね、楽しい……」
     一瞬ワカバの表情が曇ったように見え、りりは息をのんだ。ひょっとしたら何か無遠慮なことを言ってしまっただろうか。
    「どうかした?」
    「いえ、あの……前からこういう仕事してたの?」
    「そう、ちょっとね、原因が分からないんだけど具合悪くしてしまって……療養もかねてこっちに来ないかって言われてさ」
     ワカバはふと空に目を向けると
    「ほら、あれ。今は夏だから積乱雲ばっかりに見えるけど……その向こうには秋の雲も見えてるから、そろそろ公転周期的に冬に向かうために切り替えが必要になってくるはず。気温の調整をちょっと急いでもらわないとかもしれない」
    「へえ……そういうのは考えたこと無かったかな。もう秋だなーとか、風がほどよく冷たくなってゴンドラを漕いでるとすごく気持ちが良いなとか」
     りりの言葉にワカバは
    「とても素敵だと思うよ。毎日観察して、変化を知ることが出来るって事だよね」
     ワカバはどこか眩しげにりりを見つめて、おそらく反射的な物なのだろう、りりの頭に手を触れ軽く撫でた。
    「あ……ご、ごめん。つい」
     ぱっと手を離したワカバに、りりは少し惜しい気持ちを隠して首を振り
    「え、気にしてないよ! そ、それよりさ、ここ来たばっかりなんでしょ? 私、良いこと思いついたんだ」
    「何?」
    「もし嫌じゃなかったらなんだけど……海に出てみないかな。いろんな事が分かると思うの」
    「海……ってゴンドラに乗る、とか?」
    「うん。大きな船だとね、海面から離れているからあまり気付かないけど、ゴンドラみたいな大きさだといろんな物が見えるんだよ。それに、街を海から見ると凄く綺麗なんだ」
     ワカバはりりの話に耳を傾け――おそらく、何に対してもそうなのではないだろうか――うんと頷いた。
    「願ってもないことだけど……りりはいいの?」
    「うん! それに……正直な所お客さんを乗せる練習をいつも友達とかにお願いしているから……出来れば大人の人を乗せる訓練もしたいなあって思ってたんだ」
    「なるほどー……、僕で良いなら喜んでお手伝いするよ」
     りりはやった、と諸手をあげて喜び
    「じゃあ、いつくらいが良いかな」
    「そうだな……ここしばらくは夜勤シフトで……来週の水曜日は一日空いてるかな」
    「その日ならお客さんもそんなに来ない日だから、私もお休みできそう。よーっし、良いコース考えておくから!」
    「ありがとう、りり」
     仕事がまだあるというワカバに別れを告げ、りりは時計台から出た。建物から出ると二階のバルコニー部分からワカバが手を振り、それに大きく手を振り返して、りりは踊るように軽やかにサンマルコ広場を出た。


     りりはピカピカに磨き上げたゴンドラを最終チェックして満足げに頷いた。
    「ゴンドラよし、クッションよし、オールも、制服もばっちり。そして……おかし、飲み物もよし!」
     りりは最後に気合いを入れるため頬を軽く叩き、ゴンドラに乗り込み滑るように寮からこぎ出した。
     相変わらず強い日差しではあったが海の上を吹く風は心地よく、セーラー服を模した制服の襟がはためく音を聞きながら狭い水路を通りカナルグランデを渡り、ワカバの待ち合わせ先に向かった。
     サンマルコ広場の裏手にある王の庭の前にあるにぎやかな通りへゴンドラを向けると、ワカバが既に待っていてりりに気付いて手を振った。りりは手を振り返してゴンドラを桟橋に寄せて静かに止めた。
     綱を結んで降りると、ワカバが通りから桟橋に移動してきた。
    「すごいね。そんなに思うとおりに動かせるものなんだ」
     興味深いな、と顎に手をあてワカバは呟きしきりに頷いた。
    「訓練とか、やっぱり大変なんだよね」
    「うーん、でも私とかはずっとここに住んでるから、子どもの頃からゴンドラ漕いでたよ。自転車乗ったりするのと変わらないかな」
     ワカバはなるほどなあと言いながら、りりの差し出す手を取ってゴンドラに乗り込んだ。
    「ちゃんと座れた?」
    「大丈夫だよ」
     ワカバが落ち着いたのを確認してから、りりは静かに波しぶきを上げないように目の前の広い海にこぎ出した。目の前はかなり多くのゴンドラや船が行き交う大きな水路で、りりはうまく流れに沿って船を漕ぎ進めた。王の庭園のある本島を左に臨み、ドゥカーレ宮殿を手で指した。
    「あれ、もう行った? ドゥカーレ宮殿」
    「ううん、話には聞いていたけど……」
    「普段は人がいっぱい居るからね……元々ドゥカーレは総督と言う意味で、単純に総督が住んでいた邸宅、という意味で使われていたんだって。それこそ、住まいとしての機能以外にも行政、裁判、立法なども一つの場所でまとめていたんだって。今は美術館として解放されてる部分もあるから、予約とかしてゆっくり見てみると良いよ」
    「へえ、今度そうするよ」
     ワカバはりりが持ってきていた双眼鏡を手にしてあちこち眺めながらりりのガイドを聞いていた。りりは比較的ゆっくりとした速度で運河のカーブを曲がって一つ目の目的地を目指した。聖堂を横目に往来が減った海を、りりはゆったりと漕ぎ進む。
    「ほら、あれ。サン・セルヴォーロ島だよ。地球では元々修道士達が住んでいたんだって。最後にあったのは大学だったそうなんだけど……今はホテルと、あと公園とか古い建物を公開してるよ」
    「へえ」
    「ここの島から見る本島も綺麗だし、海から見るこの島も綺麗なんだ」
     りりの言葉にワカバは頷いて
    「うん、海から見るとあの本島も、それにあっちの島も面白いし、綺麗だよね」
    「そう、そうでしょ!」
     ワカバの言葉にりりは力強く頷いた。
    「普段はこういう所は観光客の人は興味ないから案内できないんだ。特にほら、そろそろ夕方に向かって日が陰って来るとまた綺麗で……」
     りりの言葉にワカバは本島側にわずかに傾き始めた日を見上げた。りりは笑いながら
    「まあまだ夕方じゃないけど……帰り際にはきっと分かると思うな」
     りりはゴンドラの進路をサン・セルヴォーロ島に向けて少し速度を上げた。
    「折角だから人があまり居なければ島に寄ってみようよ。ここも綺麗なんだよ」
    「それじゃ、お願いするよ」
     ワカバは笑みを浮かべて答えた。


     サン・セルヴォーロ島で少し休憩し、そこから少し先にある修道院の島を通り過ぎて干潟と外海を隔てるリド島の脇を通ってサンタ・マリア・デル・マーレのあるペッレストリナ島との境界線まできた。
     島の間は狭すぎるため船の航路にはなっていないが、二つの島の間からは広い海が広がっていた。移築したとはいえ地中海の中まで再現されている訳ではないため、この島を境界とした向こう側はテラフォーミングした際に出来上がったどこまでも広い海だった。
     ワカバははあっと魅入られたようにそこから見える海を見つめ、吹いてくる潮風を大きく吸い込んだ。
    「潮の匂いがするね。本当に。海もずっと向こうまで島が見えない……」
     毎日これを見ているの? と問いかけるワカバにりりは首を振り
    「毎日ではないかな。普段は観光客の人を乗せるから本島の中を回ることが多いし、景色を見るようなガイドはあまり好かれなくて」
    「勿体ないね」
     傾いた日の光は辺りを橙色に染め、強い日の光はそのままりりの視界をチラチラと遮った。ワカバの表情はまだ強い日差しのせいかよく見えなかった。
    「そう、なんだけど。こればっかりはね」
     潮の流れを見ながらりりはゆっくりと船首の向きを変えて本島側に向かってこぎ出した。
    「もう良い時間だね。ここから本島の待ち合わせ場所まで戻ってみるね」
     りりは言いながらゴンドラを操りゆっくりと進み始めた。風の向きが変わり、海から陸に向かって流れる風に沿うようにりりはゴンドラを漕いで再びサン・セルヴォーロ島の脇を抜けて本島のある水路に入った。
     ワカバは小さく感嘆の声を上げて前を見つめた。夕陽は丁度陸地側に向かって沈みんでおり、夕日がサンマルコ広場の時計台の向こう側に見えた。沈み始めた晩夏の空は既に地平線側に近い場所からほのかに薄墨色から紫色に変化し、橙色が広がっていた。街からは時計台の知らせる時刻が六つなり、夕方の六時を告げていた。
    「いいでしょ、私の好きな景色なんだ」
     ワカバにはじめて教えたんだよ、とりりは言い、ふと口をつぐんだ。
    「どうかした? つまらなかった……かな」
     ワカバは黙り込んでただ前を見つめていた。そして、ふと気付いたのかりりに向き直って首を振った。
    「あ、ううんごめんね、ちょっと考え事してた。……こんなに綺麗な物を見たのはいつくらいかなって思って」
     ワカバは少し言葉を切り、照れたようにほおを掻いた。
    「正直、ここに来る前までは僕、仕事辞めるかとか、どうしたいのかと分からなくなってて、大人なのに情けない話だけど……りりは凄いね」
    「そんなことないよ。私も時々寮から逃げようとか、考えたことあったし。ワカバと初めて会った日も、試験失敗して落ち込んでたし」
    「そっか……」
     ワカバは少し笑みを浮かべて島に目を向けた。りりは、あまり深く考えずに舟歌を歌い始めた。波にかき消されそうだった声はやがて伸びるように涼やかな声となってワカバの耳に届いた。それは昔地球で歌われていた実際のゴンドラ乗りなどが歌っていた古い歌だった。
     ああそうか。
     歌の意味を思い返してりりはふと思った。ワカバに対しての浮き立つ気持ちに舞い上がっていたが、それの意味することに気付いて思わず胸に痛みを感じていた。
     歌い終わって息を吐くと、ワカバは手を叩いてりりを見上げた。
    「凄く上手だったよ」
     褒められてまた気持ちがふわりと浮き上がり、りりは頬を赤くしてありがとうともごもごと呟いた。
     ゴンドラはゆっくりと再び広い水路を曲がって最初に待ち合わせた賑やかな通りの桟橋に止まった。まだ若干明るかったが既にあちこちの店がカフェからバーに変わり、涼しくなった道路に机と椅子が並べられてあちこちで大人達が酒を飲んでいた。
     りりはゴンドラを下りてワカバが降りられるよう手を取り、ワカバは礼を言って桟橋に降りた。
    「ありがとう、りり。今日は本当に楽しかった」
     心の底から言っているのだろう、どこか晴れ晴れとした表情でワカバはりりを見つめた。りりはオールを握りしめて首を振った。
    「こ、こっちこそ、長い時間練習に付き合ってもらって……あの……ありがとうございました」
     ぺこりと頭を下げてりりは言い
    「あの、また……」
    「何?」
    「また、あの……練習付き合ってもらっても……」
    「ああ、うん。もちろんだよ。でも僕みたいなおじさんで大丈夫?」
     りりはこくこくと頷いた。ワカバは照れたような表情を浮かべたが、気をつけて帰ってねといって通りに出る階段を上って手を振って去って行った。りりはワカバが見えなくなるまで手を振り、やがて力なく手を下ろした。
     帰ろう。
     ゴンドラに乗り、何となく寮に直接帰る気にならず、カナルグランデを通って細い路地を抜け、りりはふと近くの桟橋にゴンドラを寄せて下りた。
     静かな広場で、りりははあっと息をついて水路側にある柵に寄りかかった。
     せめて、あともう少しだけ大人だったらな。
     りりはふと思いついて、首を振った。大人だったら、どうなるのだろうか。
     真っ正面から好きだと言って、それで何とかなるか。そんな事で何とかなるなら恋愛小説も雑誌の特集も何の意味も無い。
     ただそれでも……。
    「大人かあ」


    「どうかしたの」
     横から聞こえてきたなじみのある声にりりは驚き、慌てて声のする方に向き直った。
    「り、りん……どうしたの?」
    「こっちの台詞。かなり深刻そうだったみたいだけど?」
     ヒールの靴が石畳にコツリと当たって音がする。この音を気づけなかったのか。
     幼い頃から知っているりんの趣味からは大分離れていると言っても良い比較的細いヒールに柔らかな色のサンダル、シンプルながら歩くたびにドレープのように動くワンピースを着たりんに、りりはなるほどと呟き
    「デート帰り?」
    「私のことは良いだろう」
     一瞬狼狽えたような表情を浮かべてりんは呻くように言った。
    「大人がどうかしたのか。嫌な客にでも会ったか」
    「違うよ。早く大人になりたかったなーってだけ。そうしたら、りんみたいに……」
    「私みたい……? ああ、それはつまり……りり……」
     りんは何かに思い当たったのか、顔を赤くしてすぐに元の表情に戻すために首を振った。
    「りり、あのね……大人になったからってそんな……上手く事は……運ばないよ」
     ため息をついてりんはりりの隣に立って柵に体を預けた。眉間に手を置き、もう一度ため息をつく。
    「あの……朴念仁……! 一体こっちがどれくらい押したと……」
    「りん、りん……あの、落ち着いて」
     顔が怖くなってるから、と言われて気付いたりんは、咳払いを一つしてりりに向き直った。
    「分かってるけど、今のままだとずっと私ただの小さい女の子に見られて終わりだろうなって。きっと誰か素敵な女の人と……」
     はあとため息をつくりりに、りんは困ったように首をかしげた。
    「その、相手はそんなに年上なのか?」
    「うーん、八つくらい上かな……」
    「微妙だな……そのくらいだと普通に結婚する人も居るけど……」
    「そうなの?」
    「まあ、大人になってしまえば五つ以上とか言われてもそこまで年齢差は感じない物だからな」
    「そっか……ふーん……なるほど」
     りんはひょっとして、私はりりの思い人に何か悪い事をすることなるのではなかろうか……。と一瞬罪悪感に襲われた。忘れていたが、彼女の少しばかり思い込みの強い所と、賢さは希に、本当に希にとんでもない事をしでかすことがあった。
    「り、りり……あのさ」
    「なんか元気出てきた。ありがとうりん。りんも上手くいくといいね」
     りりは手を振って桟橋に降りてゴンドラに軽やかに乗り込んでオールを手に持った。思わずりんも慌てて桟橋に降りてくる。
    「あ、いや……うんありがとう……いやええっと……りりちょっと待って」
     早まったことをしないでくれと、言おうとしたものの、りりは上機嫌に舟歌を歌いながらかなりの早さで水路の向こうに消えていった。
     見送ってしばらくして我に返り、りんはため息をついて歩き出した。きっと一時的な物だろう。若いうちにはよくある事だ。そう思うようにしながら、それでもりんの脳裏にはちらちらと不安の影がよぎっていた。 


    -----------------------
    りりは思い立ったら吉日というか突撃しそうな印象からこういう落ちに。
    きっとお祭りとか何かイベントあるたびにワカバ引っ張ってくんだろうなと思ってる。
    なお、わかばは地上勤務と衛星勤務があるので地上勤務になる日にりんさんがいそいそ迎えに行ってたりする。

    そして別のエリアでは若葉と凜というペアもいたりして時々三組ニアミスしてたりする世界。
    yu__2020 Link Message Mute
    2019/09/01 17:18:37

    【ワカりり】その、宝石のような海で

    タイトルでアレですがARIAパロ(年齢ばれる)でワカバとりりのお話です。
    ワカバが地球から転属してきた気象観測員、りりが半人前の水先案内人で二人でネオベネチア的な場所を観光します。りりは15くらいでアリスちゃんより年上だけど灯里ちゃんより年下イメージです。
    #ケムリクサ #二次創作 #パラレル #ワカりり

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