春の呼び声 ママ、あれはなに? と無邪気な子どもの声がする。
優しそうな声色の母親は、さくらだよ、綺麗だねというと、愛らしい子どもの、見るからに柔らかそうな髪を撫でた。
子どもは、さくらという言葉が大層気に入ったのか、口の中でその音を幾度か転がして、さくら、さくらと、車窓からとっくに流れて消えてしまったであろう花の名を呼び続けていて、それら一連の光景は通勤時間帯の、ぴりぴりと張り詰める空気の中では、特別光を帯びていた。
乗り合わせたそれぞれが、ああ、そんな季節だったねと窓の外を眺め、私も、それまでしきりに指を動かしていたスマートフォンから目を上げて、改めて窓の外を見る。
一瞬で流れていってしまったのかと思っていた桜の帯は、川沿いにある遊歩道の両側に陣取り、遠目にもわかるくらい、あでやかに、まさに咲き誇るという言葉がふさわしかった。
一般的に関東地方、都心では三月の半ばから四月の初め頃にソメイヨシノが開花するのだけれど、今はまだ三月のはじめ。
母親が桜といったその花は、ソメイヨシノの薄紅色よりも濃い中紅色で、儚い色を想像して顔を上げた私は、少し拍子抜けもしたけれど、遊歩道の両側に咲く力強い色は、たしかに桜だった。
河津桜という、もっとも早い時期には十二月に開花する、春の呼び声をいの一番に告げる花。
私が通勤で毎日利用するはずのこの路線で、恐らく、ただの一度も桜を見た覚えがなかったから、その位置に突然出現した少し早い春の訪れは、とても新鮮な驚きだった。
思えば、もう何年も桜を愛でるなんていうこころの余裕はなかったし、社会人になれば、それはみな当然のこととして納得しなければならない事柄であったから、中紅色が、水面に広がる波紋のように、じわり、と、しかし確実に目の奥に染み渡っていく。
車窓はもうすっかり別の、桜には無縁であろう、無機質でなんの感情も持たないビル群を映していたけれど、久しぶりに見た、人間とは別の生命力の尊さに、私は思わずマスクの下に微笑みを浮かべていた。
通勤時間帯にしては少ない同乗者たちも、珍しくそれぞれ手にしていたものから目を上げて、桜のあでやかさや、空の青さ、ゆったりとうつろう雲の、その白さに、かつて当たり前にそこにあると思っていた世界のありように、いつまでも目を奪われていた。
やがて、なめらかに駅に到着した電車は、私を含めた幾人かの乗客を吐き出して、さらに都心の、鉄筋コンクリートと、ネオンと、ハイブリッド車ばかりの地へと、たくさんの人々を乗せて、流れていく。
そのような土地にも、等しく春は来る。
私が忘れていた春のこころを、中紅の桜は告げている。
私は目の奥に留まる花の色を、今度は宝物として大切に胸にしまい、その時の無邪気な子どもの笑顔に、再び思い出した自らの優しさに、こころをあたためられて、慌ただしい日常にまた戻っていく。
――週末は、久しぶりに遠出をしようかなんて思えるくらいには、心が軽やかに弾んでいた。