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    待ち伏せ伸ばした指がからっぽの皿に触れて、あっと呟いた時にはすでに手遅れだった。
    自分の部屋にいてすっかりくつろいでいたせいもあると思う。自宅兼ビデオ屋の二階で、壁際のカウチに腰かけたライカンさんがこれもまた至極優雅に顎を引いた。
    「ごめんなさい。僕、夢中で……。また一人でぜんぶ食べてしまった」

    一緒に映画を見ようと誘ったのは僕で、意匠が凝らされたお手製の茶菓子の数々を持ち込んだのはライカンさんだ。手ずから淹れてくれたお茶は目が開くほど香り高く、例え同じ茶器を使って指示通り淹れたとしてもきっとこうはならない。
    せめてもと僕はビデオ屋の店長の威信にかけて、ライカンさんが好きそうな映像作品を探した。何度か二人で映画館へも足を運んでいるが、いわゆる有名どころはほとんど知っているようだったし、教養に富んだ人だから見た作品数もそれなりに多いだろう。
    初見で面白い作品を引き当てたときの、新鮮な喜びを味わってほしかった。敵対しているようで互いにだけは侮られたくないという一種の信頼、相反しつつも誰より相手を理解している光と影。所謂エンタメの肝である対立構造が際立つ作品をライカンさんは好んでいる気がした。
    その辺じゃちょっとお目にかからない隠れた作品かつ前衛的すぎるのはよくない。
    僕なりの「対ライカンさんベスト」な一本を選んだつもりだ。自室でビデオを流しはじめてから一度だけライカンさんを盗み見たけれど、腕を組んでじっと画面に集中しているようだったから手応えとしては十分だった。ただ、僕はけして初見ではなかったはずなのにいつの間にか見入っていた。そして視線は映像に捕らわれたまま、無意識領域にも到達するほど美味しいお茶菓子を、気づけばほぼ一人で完食してしまっていたのだった。手土産だったとはいえ、それでも大分あつかましい。
    ライカンさんはいつもの完璧な笑顔を浮かべる。左右均一に引き上がった口角につい見惚れてしまった。
    「いいえ、あなたのためにお持ちしたんですから。すべて完食していただけて、こちらも冥利に尽きるというものです」
    映画が終わると僕らはちょっとした感想を言い合った(彼の総評はいつだって独りよがりでなく、公平で、聞いていて少しも不快にならない)。さらに去り際、妹のぶんのお土産まで受け取ってしまった。

    僕から事の顛末を聞いたリンはあらら、と言った。
    「じゃあまたライカンさんはお兄ちゃんの部屋で健全に映画を楽しんで、お兄ちゃんはライカンさんのお菓子をたっぷり堪能した上に、おみやげまで貰って帰しちゃったんだ?」
    お店を18号に任せた僕ら兄妹は奥の工房に引っ込み、件のお土産なるライカンさんお手製のティーパックでお茶を淹れ、ダックワーズをかじりつつ反省会を開いていた。僕らの、というか、主に僕のための反省会だが。
    うすく粉砂糖が振りかけられた表面に歯をたてると、メレンゲからアーモンドの芳ばしい香りがかすかに立ち昇る。僕らは元々食べ物に強いこだわりを持つタイプではなくまずは栄養がとれれば、ついでにおいしいならもっといい、という程度だった。プロキシ稼業の傍ら、食事も何かしながらということが多いせいもあると思う。お菓子にしてもこれまでは個包装で長期保存ができてつまめるもの優先だった。でもライカンさんによって出来立ての美味しさを覚えさせられてしまってからはファミリーパックのミニチョコレートではちょっと物足りなくなっていた。
    贅沢な悩みである。僕は言った。
    「そうなんだ。あまりにもトマトとチーズとバジルを練り込んだベーグルがおいしかったから……」
    妹は一瞬「えっ何それ」と身を乗り出したがはっとした様子で鹿爪らしく胸の前で腕を組んだ。
    「お兄ちゃんてばすぐ食い気に負けちゃうんだから。おいしいのはわかるけど……。でも営業中とはいえ一応はお部屋に招いてるんだけどなあ。だからってちょっとつまむような無礼な真似はしないか。やっぱり推せるなあ、ライカンさんは」
    僕は思わずじっとリンを見つめる。子どもの時から今日までまるで人形のように愛らしい妹の顔を。彼女は僕と目が合うとにっこりと花のように笑った。
    「ライカンさんはお兄ちゃんと相性がいいと思う。きっとうまくいくって」
    「……いくら僕に意気地がないからって、無責任にそそのかさないでくれ」
    「いいじゃない。唆してるつもりなんてないけど。だって、ライカンさんをお部屋に招くのはもう何回目? お兄ちゃんどうせ、外でもあの人と会ってるでしょう。早く言いなよ僕の恋人になって、って」
    先日のバレエツインズの騒動をきっかけにヴィクトリア家政が僕らの新たな取引先に加わった。事件後も彼らとは個人的な関わりを持つようになったのだけれど僕はそのうちの一人、ライカンさんに目下めろめろだ。何がきっかけかと問われると答えるのは難しい。気づいた時にはすでに好感の針は振りきれていた。一緒に楽しく映画を見てくれて、ただなんとなくの散歩に付き合ってくれて、おいしいご飯を食べさせてくれる。彼は僕に都合がいいことしかしない。
    朝、日課のスクラッチをしにビデオ屋を出るとたびたびライカンさんと鉢合わせる。
    シティ速報を買いに来ているらしいがウーフとのコミュニケーションにいくらか難があるようだ。この完璧な人にも不得手なことがあるのだと知れて親しみを持ったし、心持ちムキになったライカンさんが彼(ウーフ)との会話もいつか完璧にしてみせますと宣ったのはかわいかった。家に戻ってそのことを妹にのろけたらなんとすでに彼のことを知っていたようだ。バレエツインズ騒動の前後から六分街で見かけていたとのことだった。
    「お兄ちゃんは興味があるところしか見えてないからね」
    なぜかちょっと呆れた様子で僕の賢い妹は肩を竦めた。
    ご指摘の通り僕はいくらか鈍いところがある。一つのことに熱中している間は他が疎かになってしまうことは以前から自覚していた。ライカンさんの人となりを知れば好意を持つのは自然なことで、今更あの人良いねなんて調子の僕はすでに周回遅れなんだろう。

    「リン。君ね、簡単にいうけど」
    先の言葉を訂正するつもりだったがまるで微笑ましいものみたいに眺める妹と目が合う。
    いいともなんでも聞くよ、の寛大なポーズ。口元がむずむずしたが結局開き直って言った。
    「……あんなにできた人、みんなが好きになるよ」
    僕の言葉をリンは幼いころのように笑い飛ばしはしなかったけれどそれでも堪えきれないのかくすぐったそうに口元をゆがめた
    「そりゃあ部屋にまでやって来た人に、嫌われてるとは思わない。それなりに好感は持たれているだろうと認識しているよ。ただ取引相手に親しさを示すのは礼儀だし、ライカンさんの手厚いフォローはちょっと他と比べようがないからね。前にビデオの販促を任せたときなんか誰も彼もライカンさんが自分に好意があると思い込んだし、デートの誘いだと勘違いする人が後を絶たなかったじゃないか」
    「えっ。お兄ちゃんまさか、ライカンさんにとって自分がうちのお客さんと同じくらいの立ち位置だって思ってる?」
    「いや、さすがにそうは思ってない。ビデオを探しにきた客と取引先のプロキシじゃ持ち合わせのものが全く違う。そもそも比べるものじゃないだろう」
    僕の返答にリンはあからさまに安堵した。見くびられたものだとむっとすべきだったかも。
    「ただ、そうだとしてもね。誰に対してもそつなく対応してナンパも丁寧にお断りしてたライカンさんの尻尾が、根本からぴくっと跳ねあがったのはお兄ちゃんが二階から降りてきた時だけよ。耳までアンテナみたいに振り返ってた」と彼女は言う。
    「リン、君の身内贔屓は今にはじまったことじゃないけどそう期待させないでくれ。あの人は親切の塊なんだから。僕が見たときライカンさんはいつもみたいにしゃんとしていたよ。いまの関係がすこぶる良好だからよけいに慎重になるのかもな。うかつになれないんだよ」
    「わかったよ、お兄ちゃん」と妹は肩を竦める。「余計なことはもう言わない。でもね、あの人の厚意を受け取るのだって、案外才能が必要だと思うよ。…」
    真意を掴みかねたが、コンコンと控えめのノックの音がして18号が顔を覗かせた。
    どうやら店内が混んできたらしい。立ち上がろうとしたリンを手で制して工房を出る。


    大通りから外れたビルとビルの間にあるうす暗い路地でライカンさんの磨き抜かれた義足が淡い光を帯びている。相当使い込んでいるはずなのにいつも新品同様で傷んでいるところなど見たことが無い。僕は彼が好きなので、コンクリートの上を歩くその硬質な足音が聞こえるとついうれしくなってしまう。
    体躯と比べていくらか小振りなつくりをした義足のうしろで男が二人伸びていた。あまりにも颯爽と現れるからつくづくヒーローみたいだ。つい彼が口を開くまでぼんやりと見つめてしまった。
    「お怪我はありませんか」
    心持ち目尻が下がっている。だから「おかげさまで。ありがとう、ライカンさん」と答えた。
    僕は普段から表情豊かなほうじゃない。会話の最中に考え事がはじまった時はそれがより顕著になる。僕を良く知っている人たちは承知で放っておいてくれるけれど、付き合いが浅いと「聞いてる?」なんて不安げにされることもなくはない。
    その日は、予備の電子ケーブルを買いにルミナスクエアを訪れていた。
    早々に目的を果たしてリンにティーミルクでも買って帰ろうかとふらふら歩いていたところを見知らぬ男二人の足止めされてしまった。道端で声をかけられ、健康飲料だか何だかの勧誘がはじまる。もちろん和やかに辞退しようとしたのだけれど、もう一人の連れにへらへらと道を塞がれうっかり立ち止まってしまった。とめどなく喋り続けるため言葉を差し挟む隙がない。なので話が途切れるまで脳内でFairyの配線をどういじるか思案していた。だがそれが良くなかった。僕はつい熟考に耽ってしまい話し手の懐柔する態度にも表情を崩さず、相槌も打たず、ずっと真顔でいたら向こうを逆上させてしまったらしい。まあありがちだが「こちらが下手に出ていればつけ上がりやがって」だ。
    治安局のお膝元でよくやるなあとも思うが、さすがに大声を張り上げることはせず歯噛みするようにぼそぼそと脅しつけながら路地裏に引っ張り込まれた。これは良くない影響だが職業柄それなりに危ない橋を渡ってきたせいでへんに耐性がある。一人は僕を詰め、もう一人は後ろに下がって監視役に徹している。男たちは僕より一回りか二回りほど年嵩に見えた。役割分担が成されているし揺すりの常習だと思う。大騒ぎして不意を突ければおそらく逃げ出せるだろう。だがこういうタイミングを読むのが僕はうまくなかった。火急の場でも理屈っぽいのはよくないよ、とリンにも言われたっけ……。
    どうも思考の流れを断ち切れず、胸倉を掴まれてもまだどこか他人事だった。
    大声で脅しつけられるかいっそ殴られでもすれば、頭が切り替わるだろうなんて呑気に構えていたら、通りに面した路地の入口で誰かが立ち止まる。
    こちらに気づいたのだろうかと思ったらその後は一瞬だった。
    僕が視線を滑らせた時にはもう姿がなく、耳慣れたかすかな機動音と共に監視の男が吹き飛んで壁に激突した。骨がぶつかる鈍い音。僕の目の前にいた男が咄嗟に振り返る。胸倉を掴んでいた手の力がふっと弛んだ瞬間に軽く腰を捻ったライカンさんによって床に叩きつけられた。そこまでしてようやく穏やかな冷気が僕の前髪を梳く。男二人がうめき声もあげないのはどちらも胸を打っているからだ。痛みで脂汗を浮かべ、事態を飲み込もうと目を白黒させている。
    そして僕の前に心持ち悲しげに立ったライカンさんが、前述の安否を尋ねてきたのだった。
    完璧に窮地を救いだしたというのにちっとも得意げにする様子がない。僕に降りかかったほんの些細な不運を心から嘆いているらしかった。とくべつ善良な賢犬そのものだ。大抵の犬たちは、本当に優しくて、善良で、かわいらしいから好きだった。まあシリオンの彼に対してはけして誉め言葉ではないから間違っても伝えないけれど。
    「治安局まで彼らを連れて行きますか?」
    ライカンさんの言葉にぎょっとして首を振った。よっぽどのことでもない限り僕ら兄妹は治安局へは近づかない。それにすでに受ける仕打ちとしてはお釣りがくるくらいだと思う。
    「え。いや、大丈夫。この通り怪我もしてないし、そこまでするつもりはないよ」
    「左様でございますか」
    床に伏した男を見下ろす。その隻眼が細かく動くさまに思わずスキャンカメラを連想した。
    ともかくもライカンさんにこんなうす暗いところにいてほしくない。
    ふわふわの毛並みを纏った腕をとって、大通りに向かって歩きだす。
    「あっちへ行こうライカンさん。あなたにお礼もしたいしさ」
    紅玉のような瞳が光る。この人はいつも僕に正しい選択をした気にさせてくれる。
    たまたま通りがかっただけなのだと辞去したがる人に、強請ったり同情を誘う真似をしてどうにかティーミルクを奢らせて貰った。それにしても味が衝撃だったのか、一口めで瞠目し、しみじみと飲み物を眺めまわすライカンさんはちょっと可笑しかった。


    「リン。誰か今、都合のいい人いないかい」
    僕がついにそう持ち掛けたのは街で絡まれたところをライカンさんに救出して貰ってから半月ほど後のことで、ビデオ屋の工房で帳簿を合わせている妹とぽつぽつと会話をしていた時のことだった。
    それまで片手間に相槌を打っていた彼女は目をまんまるくしてこちらを見た。
    「え? お兄ちゃん今なんて言ったの?」そして僕が口を開くより先に続ける。「つまりフリーの……絶賛パートナーを探している人がいないかってこと?」
    「ちゃんと聞こえてるじゃないか」
    リンは大げさに目を剥いたまま皿の上のサンドウィッチを口に運ぶ。ゆで卵にきゅうりとレタス、それにちょっと辛子が入っている。細い顎でパリパリと咀嚼した。
    「あのさお兄ちゃん、今日もヴィクトリア家政で……ていうかライカンさんのとこで晩御飯をご馳走になって帰ってきたよね? だから夜更けにこつこつと事務処理に勤しむ私にもおこぼれのサンドウィッチがあるんだもんね?」
    妹の声音に諭しにかかる響きを聞きつけて慌てて訂正する。彼女は兄を丸め込むのがうまいのだ。
    「待って。まず僕の言い分を聞いてくれないかい。一応、それなりの理由があるんだよ」


    ほんの数時間前、ヴィクトリア家政で存分にくつろいだ僕はライカンさんによってルミナスクエアまで送り届けて貰っていた。
    疲労困憊の会社員や学生たちが吸い込まれていく駅の入り口に、完璧な執事はひどく不釣り合いで突如コンクリートを割って咲いた百合の花みたいだ。美しく踵を合わせて立っているだけなのにそれまで肩を丸めて歩いていた人たちが時折はっとした様子で振り返る。
    僕はお為ごかしに「結局またご馳走になってしまったね」と嘯いた。
    本当はあんまり気にならない。そんなことではきっといけないのだろうけど、ヴィクトリア家政の超一級品のホスピタリティーの前では罪悪感さえ細やかに取り除かれてしまう。「とんでもない。プロキシ様のおかげで大変楽しい夕餉になりました」
    当然ライカンさんは謙遜した。
    「ううん……。でも僕はヴィクトリア家政の従業員でもないのに」
    「それよりも食事は楽しめましたか?」
    「もちろん。ライカンさんのつくるご飯はいつもすごくおいしいもの」
    満腹になると思考が鈍くなる。
    それは常に腹が満たされず空腹に適応した人間の思い込みなのかもしれない。しかし妹だけを味方としていた頃よりも僕は確実に軟弱になった。だって不安を感じる暇がある。食事に意識を払わなかったのは思索の瞬発力を落とさない為だったのかも、なんて思うことさえあった。
    けれどそんな些細な憂いなどライカンさんの真心の前では体裁を失くす。だって僕の全く単純な賛辞で、彼の瞳は瞬きのたびに輝きを増し風になびくようなかすかさで尻尾を揺らしながら「それは良かった」なんてしみじみするんだもの。
    「お店でもなかなかあれほどのものは出てこないよ。つい食べ過ぎて、最近じゃ肉づきまで良くなってきた気がする。前に軽くジョギングした時もあっという間に息が上がってしまったし……僕はもう少し定期的な運動する必要があるね」
    体重計になどしばらく乗っていないが間違いなく増加傾向にあるだろう。ライカンさんは首をひねった。
    「そうでしょうか? 失礼ながらプロキシ様の年齢と身長から推察するに、未だ痩身傾向かと。よろしければ、日々の食事管理などこの私にお任せいただければ……」
    「……フォン・ライカン?」
    その一声でほどけていた彼の瞳が瞬時に色を変え、とっさに僕を背中に隠す。
    声の主は黒黒とした豊かな髪を後ろで纏めた落ち着いた雰囲気の婦人だった。
    カシミアの上等そうな外套に身を包んでいたが所謂成金趣味ではなくて素人にもわかるほど質が良いものを纏っていて、全体的な調和がとれている。さすがに僕よりは年上だが十分に手入れされた肌は瑞々しく年齢の予測が出来かねた。
    壁のように立ちはだかったライカンさんの背中が会釈のために前に傾ぐ。
    「これは、これは。ご無沙汰しておりました。息災で何よりでございます」
    調子がいい、と婦人は一蹴した。
    「私は何度も予約を入れた。あなたを指名したのに一度も来なかったわね」
    「……誠に申し訳ございませんが我々は指名制を採用しておりません。また当時私は別のご主人様にお仕えしておりましたし、依頼のタイミングや適正も考慮してのことです。我がヴィクトリア家政は例えどの従業員がお伺いしたとしても、クオリティに差が出ることはございませんので」
    「あなたにとってはそうなのかしら。でも私はあなたを特別に評価している。だからそれに見合うだけのものを贈ったつもりだったのだけれど、まさか受け取られもしないとは思わなかった」
    「畏れながら私どもは規則を越えたものは受け取りません。誰に対してもそれは同じです」
    「ずいぶん古風なやり方ね。では私は、ヴィクトリア家政の従業員すべてに同じだけを支払えばいいのかしら?」
    「…」
    彼の応対は下手に刺激せず、出来るだけのらりくらりといなし続けて、相手に諦めか妥協を促すやり方だ。僕も基本的にはそれが妥当だと思う。しかし贔屓目があるせいか、今のライカンさんは普段より些か過敏になり、緊張しているように見えた。お得意様なのかもしれない。何にしろ僕に彼の仕事に口を挟む筋合いはなかった。
    大きな背中からひょいと前に出る。
    「ライカン。この人は君の前の主人かい?」と尋ねる。
    「……はい。左様でございます」
    ライカンさんは一瞬喉がうごくほど動揺したが表情には示さなかった。ぽっと現れた若造に婦人もさすがに眉を顰め、品定めするように上から下へと視線を巡らせる。
    「あなたが今の雇い主?」
    僕らはフラットな格好で出歩き、周囲に溶け込んで生活をする。プロキシの生業を知らない人たちからは軽薄で幸運な若者と軽んじられるべく立ち振舞う。だってそのほうが何かとやりやすいし、ごく善良な人たちは僕らをかばってくれる。すばらしい隠れ蓑だ。
    「立ち聞きするつもりはなかったんだけど。ライカンの後ろにいたものだからつい聞こえてしまってね」
    「あんまり見ないタイプね。雇用主の裾野を広げることにしたのかしら」
    ライカンさんはじっと黙っている。一心に注がれる視線をいったん脇に逸らした。
    「格式高いヴィクトリア家政に自分こそが相応しいとも思わないけれど……。ただ正しい価値を知っているかどうかについては僕に分がありそうだな。信用は払い戻しができないもの」
    「あら、本当にそう思うの?」
    婦人は目を細める。手厳しいな、と苦笑した。
    「お金で買えないものはめったに無い。信用だって買いとれないとは言わないよ。でも金で取り寄せたものは元来のものとは絶対に変質している。そして一度そのやり方を許したら二度とそれ以前のものは手に入らない。同じだけの労力、時間を注いでも、これまで培ってきた信用とは似ても似つかないものになる。君はヴィクトリア家政を、ライカンの価値を買っていると言ったね。お笑い種だ。聞き分けの無い子供のようにゴネていたずらに時間と労力を使わせた挙句敬意も払わない貴方が、彼らが長年積み上げてきた信用とそれをねじ曲げるに吊りあうものを本気で持ち合わせていると?」
    言っていて可笑しくなる。僕の言い分はすべてそっくりそのまま己に跳ね返ってくる。
    「僕のような若輩の言葉は聞き苦しいかもしれないけれど」とはにかんで見せたが彼女はにこりともしなかった。
    「貴方の見積もりはどうも甘すぎると言わざるを得ないな」

    僕の付け焼刃の反論が響いたとも思えないが周囲の目もあってか幸運にも婦人の反撃は受けずに済んだ。
    彼女が立ち去った後、自家用車を停めている駐車場の片隅でライカンさんに謝罪した。とてもいたたまれないし、彼の大きな掌がまるで小さな子どもにするみたいに肩を撫でて慰めるから顔もあげられなかった。
    「その、あれだ。出過ぎた真似をしたね」
    いいえ、とライカンさんはすぐさま否定した。
    二度ほど依頼に就いたものの、それ以降は自分だけを指名し個人的な付き合いを持ちたいと望まれたのでブラックリスト入り、というか出来うる限り避けていたらしい。そんなことを部外者の僕にべらべら話していいのかしらと秘匿を主にする稼業上ちらと過ったが今は問題じゃなかった。
    「私の不覚です。それ以外の言葉がありません。プロキシ様といてすっかり舞い上がっておりました。こんな、こんなことのためにあなたをお連れしたのではなかったのに」
    肩を掴む手にかすかに力が籠る。めずらしいことに彼もいくらか動揺しているらしかった。
    もやもやの正体。うっすらと勘づいていながらずっと目を背けていたもの。
    僕はライカンさんからひたすらに搾取していた。もてなされ労わられ甘やかされるに任せて一方的に使い込んでしまった。彼の奉仕精神をただあの人の性格だと一辺倒には片づけられない。ヴィクトリア家政をヴィクトリア家政たらしめるものそれ自体でもあるのだ。自分に置き換えればプロキシとしての技能を、そこに至るまでの労力や時間を一切無視されてタダ働きをさせられているようなものだろうか。僕自身の「ちょっとでも長く彼といっしょにいたい」という欲求のために他の誰かに振り分けるはずだったライカンさんの時間を散々に食いつぶしていた。今更ながら、そんなことに気づいたのだ。彼に焦がれる女性と相対したことで。
    「……あなたが、こんなふうにお怒りになるとは思いませんでした」
    ふいにライカンさんがぽつりと言った。
    僕は自嘲気味に笑う。
    「なぜだい? 怒るとも。だって僕はあなたの仕事ぶりを尊敬しているんだから」
    そのくせ自分かわいらしさにどこまでも鈍く台無しにしたのだけれどと内心で付け加える。
    車に乗り込んでルミナスクエアを後にする。道を曲がる際、未練がましくミラーを覗き込んだら直立したままのライカンさんの姿がみえた。


    前雇主の婦人のことは多少かいつまんで、つまり自制しきれなかった好意でライカンさんの仕事を邪魔していたのだと気づいたことをリンに訴えた。
    「恋人のふりでもいいんだ。なんて言うとまあ今度はその相手に失礼なんだけど、一旦、仕方がない。別の人と付き合っている間は僕もその人が好きなんだと多少は思い込めるから……。それでとにかくライカンさんへの熱を下げたい。だいたい取引先と恋愛関係になるのって本来褒められたことじゃないし」
    「お兄ちゃんて理屈屋だけどいざとなるとかなり力業に走るよね」
    妹は椅子の上で足を組み替える。最後につけ足したのって何か意味ある?
    「恋人になったらすごく贔屓にしてしまうかもしれない」
    「今更じゃない? 私たち元からそれほど公平でもないよ」
    「……恋人でもないのにこんなに時間を共有して優先してくれてる。僕にとってすでに十分都合がいいし恵まれた立場にいるよ。あの人の仕事にまで影響をきたすんなら、それは余計なんだ」
    ちょっと考え込んでいるふうだったがリンはふいに背もたれから起き上がるとサンドウィッチの残りを全て食べて言った。ちょっと腹が立ってきたな。
    「お兄ちゃんそんなにライカンさんが好きだったんだ。なるほど。なるほどね。あの人あれでそういう駆け引きが好きな人なのかなと思ってたけど、私のお兄ちゃんの純情を手のひらでいじくるのが好きなんだとしたら、かなり面白くないね」
    「君、何を言ってるんだ?」
    「べつになんてことないよ。私だって小さな子どもじゃないんだからいつまでもひとり占めできるとは思ってなかったし」
    戸惑う僕をよそに、妹は膝に落ちたパンくずを手で払う。
    「お兄ちゃんの言ってることはわかった。でも、不足部品でもあるまいしすぐにお相手は用意できないよ。それより、ライカンさんにも別の人に気があることを話しておいたら。案外びっくりして飛びついてくるかも」
    「リン」
    思わず強い口調で咎めたが歯牙にもかける様子がない。笑うような素振りをみせて再びデスクに向き直った。
    「ジョーク。お兄ちゃん、ジョークだよ」


    ひとまずの対処として、ライカンさんと顔を合わせるきっかけをへらすことにした。
    僕は意志が弱い人間だから実際にあの人と会って話を交わそうものならなあなあで元のペースに立ち戻ってしまうだろう。
    それで、日課にしているスクラッチの時間をずらすことにした。いつも家の窓から表を確認しているのだけれど一度あまりにもタイミングが悪くて、朝は速報売り場前、昼は数件先の駐車場、夜は隣家のコーヒーショップなどどこかしらでライカンさんの姿を見るため、かわいそうだが深夜に眠っているウーフを起こしてスクラッチを削らせてもらうことになってしまった。
    また、時々スマホに送られてくるお誘いも申し訳ないが断った。
    以前は僕からもしょっちゅう声をかけていたから、それが突然なくなったとなればあんまりいい気がしないかもしれない。僕らの関係はもちろん悪くなかったし立場が逆なら不安になる。だから業務が立て込んでいて、とか外回りで不在にしている、とか多忙を言い訳にして三度もライカンさんの誘いを断った。そしてついに断る理由を探しているうちに時間が経ってしまい、すっぽかすような事態になった時は一体自分が何をしたいのかわからなくなった。でもここでまたライカンさんに会ってしまうと以前の状態に逆戻りになる。だらだらとあの人の時間を欲しがって消費させてしまう。
    今日など、半月近くお姿をみていませんと心配するような文面がスマホの待機画面にぽんぽんと表示されて鳩尾が窄まるような心地がした。あまり具合が良くなくて、と仮病を打ち込んだら本当にちょっと気持ちが滅入ってくる。きちんと休んでいるし、うつってしまうからしばらく近寄らないでほしい、と送った。もちろん妹がそばにいてなんの不便もないことも付け足す。

    夕方になってビデオ屋を閉めた後、リンが出掛けていった。
    人と会うと言うがすでに日が暮れていたので「送っていこうか」と提案したらこれから会うのはエレンでなんと彼女はもう近くの駅まで迎えにきているという。確かに護衛という点においては僕より遥かに信頼に足る人物だ。なのでつつがなく妹を見送り、閉店後の店内でビデオの品出し状況や延滞のチェックをしていた。
    しばらく作業に熱中していたが、ごく控えめに扉が開き来客を告げるベルの音が鳴る。
    「ごめんなさい、本日はもうおしまいで……」
    そう言ってバインダーから顔をあげた僕は血が頭から足元へざあっと落下するのを感じた。
    表のかすかに湿気た夜の冷気と共にライカンさんが店のなかに入ってきたのだ。僕ともあろうものが緊張のあまり耳鳴りを起こしている。彼が一歩踏み出すたびに年期の入った木の床がしなやかに軋む音さえやけに大きく反響した。
    「申し訳ありません、プロキシ様。こんなふうに押しかけてしまって」
    「いや、あの。いいんだ。…」
    その誠実な言葉の響きは以前と少しも変わりなかった。
    彼が怒っているのか落胆しているのか、そのどちらでもないのか、読み取れずどぎまぎとしているのは僕に後ろめたさがあるせいだ。実際に多忙だったとしてもある程度避けられ、具合が悪いから会えないと言った相手が何事もなくピンピンと締め作業しているところに遭遇したんだから。本来あんまり心象は良くないだろう。彼に嫌われたくなかった。だからといって自分が引き起こしたこの状況をどこから説明したら良いものか全くわからなくてじっと身をかたくするしかない。
    「……アキラ様」
    ライカンさんに名前で呼ばれることはあんまりない。いよいよ恐慌が頂点に達するかというとき、彼は続けた。
    「私は何かあなた様を怒らせるようなことをしたでしょうか。もしくはあなた様を落胆させるようなことを? こうして直接お尋ねするなど本来あってはならないことです。ですが私にとってあなた様と過ごす時間は他の何とも代えられないのです。どうか、今一度だけ慈悲をいただけませんか。どうか。…」
    「待って。待ってくれ、ライカンさん。思い違いだ、あなたが謝るようなことは何もないよ!」
    彼が今にも膝をつきそうで僕は慌てて駆け寄る。
    まるで自分の脳内をなぞったかのような発言にも驚いたが、何よりも普段から立派な体躯に見合う押しも引かれもしないような堂々とした振舞いのライカンさんが、今はまるで幼い子どもみたいに見えたのだ。くたびれてほつれた毛布をがむしゃらに掴んでいる子どもみたいに。
    「……そうでしょうか」
    聞き返す彼の声音にむくれたような卑屈な甘えを聞きつける。鳩尾がずくずくと痺れてまともに目を開けているのがむずかしかった。
    「僕の都合だったんだ。あなたの時間をずっと独占していたことがだんだんと心苦しくなって、それで、適当な距離を取りたくなった。あなたにいずれ失望されるのが怖かったんだ。でもそのためにくだらない嘘までついてちゃ救いようがないね」
    そのようなことはありません、とライカンさんは律儀に首を振る。やがておずおずと「つまり、その、私のことが負担ではなかったと捉えても良いのですか……?」と言った。
    「負担って何のことだい。僕はライカンさんのことをそんなふうに思ったことはないよ」
    予期せぬ答えに僕はきょとんとする。そして続けた。
    「あなたの献身や細やかさは本来、契約と金銭で持って扱われているものだ。親切だけで片づけられないクオリティがあるものをいくら友人関係にあったからって、無償で受け取ってはいけなかったんだよ」
    「いいえ、それは違います。プロキシ様」
    視線のやり場がなくて相変わらず新品同様に磨き抜かれているライカンさんのつま先を見つめていたが驚くほどきっぱりした声が降ってくる。顔をあげるとそこには先ほどの悄然とした様子は影も形もなかった。なぜか赤い瞳にはうっすらとした高揚さえ漂っている。
    「無償などとそんなことはけしてございません。対価も何も、あなたが芯から私を頼りにしてくださることが何よりの報酬でした。なんの比喩でも謙遜でもありません。言葉の通り受け取っていただきたい」
    ふと慌ただしく駆け寄ったせいで彼に近づきすぎていると気づいた。
    何しろ背の高いシリオンなので、あんまりそばに寄ると僕は頭を傾いで見上げなければならない。少し距離をとっても良かったがライカンさんがいつか慰めてくれたときのように大きな掌で僕の肘を包んでいたから出来かねた。
    手前勝手に振舞ったのは私なのです、と彼は続けた。
    「ごく短い間ですがプロキシ様と同じ任務に属した時、畏れながら私はその手腕に大変感銘を受けました。あなた様のような知性と勇気を併せ持つ人間はそういません。ホロウで戦う時あれほど明確で適切な指示を受けたことはなかった。命令を快いと思うのは初めてのことでした。他の何よりもあなた様に奉仕したかった。だから私はただ自身の満足を得るために私が持っているものを寄与していたのです。なんの了承も取らずあなた様の都合も脇に退けて。格式を重んじるヴィクトリア家政として、私の振舞いは許されざる行いでしょう。ですがあなた様はすべからく受け入れてくださいました。私の独りよがりな奉仕に一度でも戸惑ったり煩わしそうにされたことはありませんでした。私にとっては僥倖です。それどころかつくづくとまっすぐに感謝の言葉を述べられ、惜しみない称賛をくださいました」
    「……だって、あなたの真心を鬱陶しく思う人なんているのかい?」
    もしかして表は満月なのかも、と思った。だからライカンさんはこんなことを言うのかも。僕の言葉を彼は否定も肯定もしなかった。店内を照らす電灯のほの明るい光を背負っていとけなく微笑んでいる。
    「私はただ唯一プロキシ様と吊りあう可能性があるもので最も欲するものを得ていただけです。あなた様の貴重なお時間をいくらでもかすめ取るつもりでした。以前、あなた様が遠ざけてくださったご婦人を本来私は露ほども批判出来ないのですよ」
    「ええと、それはつまり、僕のことを」
    「愛しています。あなたに選ばれたくてここに来ました」
    脳みそがふつふつとあぶくをたてて茹だるような気がする。
    思いがけずほしかったものが手中に落ちてきた歓喜と思いもよらない状況の連続で思考の整理がうまくできない。それでも混線した回路からどうにか警鐘めいたものを拾い上げる。
    リンはエレンに誘われて店を出て行った。外はすでに真っ暗で一体いつ戻るのか。それになぜよりにもよってこのタイミングで彼がビデオ屋に現れたのだろうか。
    もしあなた様が気がかりに思っていればですが、とライカンさんは前置きをした。
    「もう夜分も遅いので、妹様にはエレンと共にヴィクトリア家政の施設に泊まっていくようお話しましたよ」



    翌日、ヴィクトリア家政にある寮の一室に泊まったリンは正午になる前に帰宅した。
    クローズドの札がかかった扉の鍵を開けると深く息を吸い込み「ただいま、帰ったよお兄ちゃん」と声をかける。そのまま階段を上がって自室を通り過ぎ兄の部屋の扉を開けた。途端にあたたかな陽ざしの匂いが鼻腔をくすぐる。明かり取りの窓から燦々と光が差し込んでいてヘッドボードの上にあるブラインドが上げられていた。外から吹き込む風でかすかに揺れている。
    リンは椅子を引き摺ってきて座るとベッドサイドに置かれた水差しからコップに注ぎごくごくと飲み干した。つめたくておいしい。そしてなだらかに膨らんでいる毛布の山に向かって言う。お兄ちゃん。
    「言っておくけど、焚きつけてなんかいないよ」
    エレンと会う約束をしていたのはたまたまだ。
    それにその手の仕込みを友人もとい彼女のボスがするかといえば微妙である。これ以上は邪推の域をでないので考えるだけ無駄だ。ともかくもリンはたまたま事務所にいたライカンに兄の現状を伝えただけである。特に変わったふうもなく元気にやっていてそれからパートナーがほしいという相談を受けたことを。
    「まずいんじゃない?」
    エレンは焼き菓子をつまむついでに呟いた。夜中に口にするにはだいぶハイカロリーな洋菓子だ。
    ライカンは夜も遅いから泊まっていきなさいと主にエレンに、そしてリンに取ってつけたような笑みを見せて出ていった。
    「どうだろうね」
    何にしろ彼女は兄からワンコールでも連絡が入れば治安局に連絡するつもりだった。家に強盗が入ったかもしれない、と言えばいい。その日はエレンと夜通し話し続けたがスマホから呼び出し音が鳴ることは無かった。

    生まれたときからずっと兄妹一緒だった。
    どんな大喧嘩をした時でさえリンの視界の隅にはいつも兄がいた。
    なので、兄のことが好きな人はすぐにわかる。有能で大抵は穏やかな気質の兄を好きになる人はたくさんいたけれど兄が相手にする人はめったにいなかった。後から想いを寄せられていたと聞いて「気づかなかった」なんてバツが悪そうにすることもあるが、何のことは無いそれはただ兄の相手ではなかったというだけだ。
    六分街をテリトリーに加えたライカンという狼のシリオンが、兄に好意を寄せているのも無論彼女はすぐ気づいた。行く先々で出会うことから、どちらかに探知機を仕込んでいるのではないかと疑ったこともあったがもしそうであれば自分たちやFairyが気づかないはずがない。彼の仕事は見事で、その手腕はまさに探偵のようだ。自らの五感や習性を利用したものならばこちらで察知できる範疇ではない。自分からではなく、兄から寄ってきて貰おうと誘い込み、成功させた手腕はさすがである。まあ、そう一筋縄ではいかないのが自分の兄なのだけれど。

    リンの前で、ぬくまった毛布からのろのろと体を起こした兄からはブーケのあまくやわらかな匂いがした。見慣れたグレーのスウェットの寝間着を着ているがうちに置いてあるシャンプーの香りではないしあきらかに頭髪の艶が良かった。
    「ライカンさんはいつまでいたの」
    「……君が部屋に入ってくる寸前に窓からでていった」
    そこの、と言ってブラインドが上がった窓を指さす。
    あのシリオンは時間ぎりぎりまで兄の手入れをしていたらしい。リンはちょっと辟易しつつもあらたに水を注いだコップを手渡した。部屋のなかに変わったところは無いように見えるがしかしどこか前より整然としている気がする。テレビの脇にあるレコードの並び方だがフォルダ分けなどされていなかったはずだ。
    案外、自分には小姑の才能があるかもしれないと思っていると「リン」と呼び掛けられる。
    「なあに、お兄ちゃん」
    「ライカンさんはものすごくやさしいし、とても紳士的なシリオンだよ。僕はかなり夢見がちだけどちっともイメージと違わなかった」
    そう言ってコップの水を含む。
    寝起きの伏せられた目元は羊歯の葉のように重たげだ。病のような予測がつかない体の反応に弱いところは風邪で寝込んでいた子どもの頃とまるで変わらない。
    「だけど」と兄は続けて「手をだすのはものすごく早かった」。
    ほっそりした首元に残された白い体毛が降り注ぐ陽光をあびて光っている。リンは血色の良い頬を眺めつつ「だいぶ長いこと、待てはしてたみたいだしねえ」と呟いた。




    戸島 Link Message Mute
    2024/11/05 0:34:26

    待ち伏せ

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