春隣る 昔、飼っていた猫は、こんな風に振舞っていただろうかと思う。
外に出て行かないように気を付けていても、いつの間にか家族の目をかいくぐって、どこかの隙間から抜け出してしまう。そして、夕飯どきになると戸口の前に帰ってきて、中に入れてくれ、と訴えるのだ。
その時には、普段の愛想のなさが嘘のように、ミャア、ミャアと切なげに鳴くので、立香はいつも苦笑いと共に戸を開けたものだった。
あれから10年近くが過ぎ、大学生になった立香が、1人暮らしを始めた今でも、空腹を満たすために訪ねてくる猫はいる。
前触れもなく扉の前にやって来て、弱々しい声で呼び掛けてくる事もあるが、たいていは、「今から行ってもいい?」と、事前にメールで伺いを立ててくれるので、幾分、利口な猫だった。
眺めていたスマートフォンを、ぽん、とベッドの上に放り投げる。0時を少し過ぎていた。
こんな時間まで起きて、ビリーを待っていたわけではない。明日は土曜日で、大学も休みだから、少し頑張ってレポートを書こうと思って黙々とパソコンに向かっていたのだ。
眠気と疲労でかすむ目を、もう一度こする。
冷めたコーヒーに手を伸ばした時、チャイムが鳴った。
扉を開けると、洒落たチェック柄のマフラーで口元をすっぽりと覆い隠したビリーが立っていた。
挨拶もそこそこに、聞き取れないほどの小さな声で、
「寒い」
とつぶやく。
まだ11月の初めだから、深夜でもそこまで冷え込みはひどくない。
ほどよく酒を飲んで、ほどよく酔った彼が異様に寒がるのは、いつもの事だった。
「いらっしゃい。ストーブも付いてるから、あがって」
そう言うと、半分眠っているような顔でうなずき、ブーツの紐をほどき始めた。
ビリーが部屋着に着替えている間、立香はキッチンに立ち、冷蔵庫の中からスープの材料――カットトマト缶とミックスビーンズ、それとベーコン――を取り出した。
オリーブオイルを熱した鍋で、刻んだベーコンを炒める。いい匂いがし始めたら、カットトマト缶の中身を一気に入れて、水を足す。ざるにあげて水気を切っておいたミックスビーンズも投入した。
ぐつぐつと煮えて来たスープの中に、細かく砕いたコンソメを入れて、塩とこしょうで味付けをしていると、ビリーが隣にやって来た。
「あれ? 寝てていいのに」
「ん……いや。今日のやつは、寝たら朝まで起きないタイプの酔いだと思うんだ」
だから早く食べようよ、と言って、ビリーはそわそわと鍋の中を見つめている。
その様子に、立香は顔をほころばせた。
「そうだね。あとちょっとだけ、待っててね」
初めて、ビリーにこのスープを振る舞ったのは、期末試験が終わった7月末の事だった。
同じ学科の学生同士――といっても、立香の部屋はたいして広くもないので、せいぜい5〜6人ほどだったが――集まって、この場所で祝賀会を開いたのだ。
皆、浮き足立っていて、夜通し騒ぎそうな勢いだったが、連日の試験勉強の疲労が溜まっていたのだろう。夜明けを待たずに眠ってしまった。
その数時間後、一番早く目を覚ました立香は、軽い朝食でも作ろうと思い立ってキッチンに向かった。
透き通った朝の光に目を細めながら、カラカラと回る換気扇を眺めていると、いつの間にかビリーが起き出して来た。
『いい匂いだね。手伝うよ』
そう言って、人が良さそうな笑顔をこちらに向けた。
もう具材を鍋に入れてしまった後だったので、立香は、彼に味見をお願いした。小皿にすくい取ったスープを、ひと口飲み込み、ビリーは目を丸くした。
『……おいしい』
あどけない少年のような声だった。
彼がそんな声で話すのを初めて聞いた立香は、びっくりして、まじまじと彼の顔を覗き込んだ。
『そんなに?』
『うん。そんなに』
その言い方がおかしくて、立香は思わず吹き出してしまった。
スープが煮えるのを待つ間、ビリーは、立香にいくつかの質問をした。
生まれた土地の事、家族の事、どうしてこの大学を選んだのかという事。
『お母さんは、わたしが中学生の時に離婚したの。
高校2年生の時に、新しいお父さんが来て……優しい、いい人なんだけど。家族だって実感は持てなくて。
頭を下げて、ひとり暮らしを許してもらったの』
ビリーは、ふうん、と気の抜けた返事をして、
『あの子達は、君の事情を知ってるの?』
と、部屋の方を顎で指した。
立香は、あ、と口元をおさえた。
『誰にも喋ってない。どうして、ビリーには言っちゃったんだろう』
そうつぶやくと、ビリーは自嘲気味に笑った。
『君は、同族の匂いを嗅ぎ分けるのが得意なんだね。僕も父とは血が繋がってないんだ』
ビリーは、それきり何も言わなかった。
そして、皆が起き上がるのを待たずに部屋を出て、朝もやの立ち込める街へ消えていった。
確証はないが、ビリーは、あのスープの味が気に入ったのだろう。彼の故郷であるアメリカにも、似たような料理があるのかもしれない。
ビリーが歩いて行ける距離に、立香の住むアパートがあり、酔いつぶれた時に訪ねれば泊めてもらえる。そして、おいしいスープを食べさせてもらえる。
おぼつかない足取りで、ビリーがこの部屋にやってくるのは、たぶん、それだけの理由なのだ。
彼は一度も、立香の体に触れようとしなかった。
どんなに酔っていても、甘い言葉ひとつかけずに、ビリーは壁際で毛布にくるまって眠った。
他に親しい異性もいなかった立香には、このぬるま湯のような距離が心地よく、ほっとした。
ただ、あの7月の朝のように、静かに言葉を交わしながらスープを食べられない事が、少しだけさみしかった。
◆◆◆
ビリーはいつも、立香より先に目を覚ました。
ひっそりと身支度を整えて、猫のように、足音を立てずに部屋を出て行く。
合鍵は渡していなかった。普段は壁のコルクボードに掛けてある、立香の鍵が、1人で目覚めた朝、扉の内側に付いた郵便受けの中に入っていると、それが、ビリーがこの部屋にやって来て、そして静かに去っていった事の証明になった。
『スープをありがとう。おいしかった』
時には、そんな書き置きと共に、チョコレートやキャンディがテーブルに置かれている事もあった。
だが、どちらにせよ、立香はぽつんと取り残されたような寂しさを、ベッドの上でしばらく噛みしめなければならなかった。
こういう朝に、まず一番に立香がする事は、部屋の窓を大きく開いて空気を入れ換える事だった。ビリーは、服の繊維の1本1本にまで、煙草の匂いを染みつかせてやって来る。
その日も同じように体を起こそうとした瞬間、猛烈な吐き気と共に世界が傾いた。
脇の下に差し込んだ体温計は、軽やかな電子音とは裏腹に、38.6℃という洒落にならない数値を示した。
ひとり暮らしを始めて以降、初めてひいた風邪だった。小さく唸りながら、立香はベッドに倒れ込む。枕に頭を預けただけで、ズキズキとひどく痛む。
(病院、行かなきゃ……)
でも、今日は土曜日だ。
診てくれる病院があるだろうか? それも、こんな体調で自転車に乗るわけにいかないから、歩いて行ける距離にある所でなければ――立香はまだ一回生だったから、車を持っている友人もいなかった。
咳をする度に気管が鈍く痛む。
大きな手で締め付けられるような息苦しさが、ゆっくりと体を覆っていった。
どれくらい寝ていたのだろう。
ふと、何か、か細い音が聞こえた気がして、立香はゆっくりと目を開けた。
まだ日暮れの時刻にはなっていないらしい。部屋の中には強い陽射しが射し込んでいる。
最初に視界に入った扉を、ぼんやりと眺めていると、今度ははっきりとチャイムの音が聞こえた。
「リツカ。リツカ、いる?」
聞き慣れた声を耳にした瞬間、ふいに意識が冴えた。
重い体を引きずって歩いて行き、鍵を開けると、ビリーは肩で扉を押して中に入ってきた。
両手に提げていた、重そうなスーパーの袋を、ベッドの傍に降ろす。それから立香の顔を見上げて、「うわ」とつぶやいた。
「すごい顔してるね。来て良かった。
ぜんぜん返事が来ないから、ひょっとして体調を崩したんじゃないかって心配したんだよ」
「返事……?」
「見てなかったの? メールだよ」
立香が、枕元のスマートフォンを取ろうとすると、ビリーは手を伸ばしてそれを遮った。
「いいよ。来たから、直接言う」
一瞬黙った後、ビリーはすうっと息を吸い込み、口を開いた。
「『週末、デートしてほしい』って送ったんだ」
「デート?」
「うん」
「ビリーと……誰が?」
「誰って。君しかいないだろ」
ビリーはまっすぐに立香を見た。
彼の、冬の湖面のような灰色の瞳が、まぶしい日の光を弾き、雲の向こう側にある空のような澄んだ青に輝いた。
その時、突然、「この人の恋人になりたい」という思いが胸を突いた。
勢いにまかせて喉までせり上がった、強い願いは、しかし、そこで鋭い痛みと息苦しさに変わって、声にならなかった。背中を丸めて咳き込んだ立香の背中を、ビリーはそっとさすった。
「この話の続きは、君が元気になってからしよう。
さあ、横になって。薬と飲み物は買ってきたけど、他に欲しい物があったら、遠慮なく言ってくれよ」
自分の体をやさしく抱いて、ベッドの上に横たわらせるビリーのシャツの裾を、気付かれないようにぎゅっと握った。