【掌編】はるになったら ──春になったら、一緒にお花見に行きましょうね。
庵七彩にとって、母の最期の言葉はそれだった。病床の母にもっとついていてやれば良かったと、後悔ばかりが先に立つ。
その母の思い出を引きずるようにao akuaを継いでから、七彩はがむしゃらに働いた。
今まで居た芸能界とは違って、決して華やかな世界ではなかったし、「一人で頑張る」という事が出来ない仕事だからだ。
レシピは残っているし、新作は一人で作ることも出来る。けれど、作った料理を運んだり、レジを打ったり。とても一人では仕事が回らない。
母の昔馴染みの宮間嵩一郎が何かと気にかけてくれ、薗部椿、それから久守星乃という従業員が増えてから、ようやく店が回るようになった。
ランチタイムを終えてつかの間の休憩時間に、嵩一郎がサンドウィッチを作り、星乃がコーヒーを淹れてくれた。軌道にのるのはこれからだ。
「嵩一郎、椿。それに、星乃」
三人が七彩を見る。七彩は花のように笑い、
「春になったら、みんなでお花見に行こう」
そう、自分に誓いを立てるかのように言った。
──また、春が来る。
ぼんやりとして輪郭を持たない世界は、七彩にとって恐ろしいものだった。
芸能界では、力あるものが世界を制す。だが、いちブラッスリーが、「天辺」を目指すなんて、言葉にしたら笑ってしまう。
世界には四季があり、人間の心には流行り廃りがあるけれど、ao akuaはただ、続いていけばいい。上を目指すつもりはなかった。ただ、もちろん、母親から継いだこの店を、繁盛させたいとは思っていたけれど。
「ちょっと出てくる。嵩一郎、星乃、ホールは椿たちに任せておいて」
「早めにね、七彩」
嵩一郎が察したように、柔和な笑みをこぼした。七彩はバンダナとエプロンを外しながら曖昧に笑う。自分の幼少の頃から関わっているこの人には敵わないな、と、少し喉の奥が苦くなる。
春は、きらいだなあ──。
そんなことを考えながら、七彩は駅二つ向こうの小さな墓苑に向かった。行きがけに白いユリを買った。菊の花ではなんだか、いかにも「それ」っぽくて。
日本の文化がなにより好きな彼女だったから、喜んでくれるのかもしれないけれど。
「母さん、ao akuaは今日も平和だよ」
七彩は、新しく入った殿村泰雅や西条深杜の話を、墓標に向かって語りかけた。
そこに、本当に母がいてくれたらなと、いつも思う。最愛の家族。
「じゃあ、仕込みがあるからもう行くね、実を言うと抜け出してきたんだ」
七彩は努めて明るく言うと、その場を後にした。
暖かな風が吹き、薄色の雪が舞う。
七彩は空を見上げた。知らず、手を伸ばす。ちらちらと瞬く、桜のはなびら。
「もうそろそろ、花見の季節だなあ」
七彩はそう、一人言ちた。