うみため息が漏れる。息を吐いたぶん、むだに体温が上がって余計に暑くなった。パラソルの向こうでは目をそむけたくなるくらいの陽光がじりじりと砂浜を照りつけている。
「リタっちったら、こーんな青空の下しょぼくれた顔しちゃって」
「べつにしょぼくれてなんかないわよ」
シートの上から動かないリタの横で、同じようにレイヴンは座り込んだままだ。向こうにはきらめく波しぶきと水平線と、海水浴を楽しむ人々が見える。帝都からほど近いこの海岸は、今の季節けっこうな賑わいを見せる。
「あんたが何か特殊な仕事だって言うから、どうしてもあたしの協力が必要だっていうから来たのに」
「それにはふかーい事情があってねえ」
「仕事なんてないってどういうことよ」
レイヴンが「どーおしてもお願い!」なんてめずらしく必死に真剣に頼み込んでくるものだから、わざわざこんな騒がしい場所にまで来たのだ。言う通り水着にも着替えてしまった。途中でなにかおかしいと気づくべきだった。
「あたしは帰るから、あんたはそのへんの奴にでも声かけてきたら」
「いやいやいや、そういうわけにはいかないのよね」
立ち上がったリタの腕をつかんで引き留めてくる。
「このへんはちょっとリタっちのお気に召さないみたいだから」
「なんなのよ、もう」
「あっちいこ、あっち」
レイヴンに手を引かれて、パラソルの外に連れ出される。無理やり振りほどくわけにもいかず、そのままあとをついていくはめになる。
歩いているうちに人影はだんだんまばらになっていき、楽しげな声が波の音の向こうに遠ざかっていった。レイヴンは岩場の陰に腰を下ろし、ちょいちょいと手まねきをしてみせた。
「ちょっと殺風景かもだけど、落ち着くっしょ」
レイヴンの言う通り、そんなに歩いていないはずなのに、ここはさっきまでいた場所よりずいぶん静かだ。座りなさいな、とそばのつるりとした岩を示されるので、しぶしぶ腰をおろす。
「それで、いったい何を企んでるわけ」
「企みなんてめっそうもない、おっさんがリタっちと遊びたかっただけよ」
「そんなわけないでしょ! つくならもっとマシな嘘にしなさいよ」
「ほんとよ、リタっちと一緒に海、行きたかっただけ」
やわく微笑みかけられて、リタは目を伏せる。めったに見せないような表情になぜか胸の奥が、顔の表面までほんのり熱くなる。さっきまで海辺にいた人間たちの騒ぐ声みたいな音が、内側でざわざわ、わあわあと鳴る。
(うそつき)
ひとを騙すのが得意なこの男は、リタがどれだけ疑ってみせても、ふいに隙間に入り込むように信じさせようとする。ほんとうかもしれない、そんな風に根拠もなく思い込んでしまいたくなる。
少しちがう、と思い直した。根拠はある。不確かだけれど、本当はそこにちゃんとある。
「……おおかた、エステルとかジュディスとかの差し金でしょ、あたしを休ませるために連れ出そうとかってとこじゃないの」
「おわ、リタっちするどいねえ、そこまで気づくとは」
「なんでそれがわざわざ海で、あんたと一緒なのかはさっぱりだけど」
岩の表面を指でなぞるリタを見やりながら、レイヴンは岩陰から浜辺のほうへ歩いていく。まぶしく高い陽が長い影をすうっと伸ばしていく。
「せっかく来たんだし、ちょっとは泳いでかないとね」
「人の話聞いてるわけ」
「あれ、リタっち、もしかして泳げなかったっけ」
「泳げるわよ! そういうことじゃなくて」
言葉の途中ですっと手を差し出される。じゃ、行こ、と言わんばかりに。リタはしばらくしかめ面のまま突っ立ったあと、やけになってレイヴンの手をぎゅうと掴んだ。
「ばか」
さんさんと陽が照る海岸はいやになるほど暑くて、ほんとうにすべてがばからしくなる。もう問いただす気力もない。だから、今は仕方ない。これでいい、それでもいいということにしておく。
「うわ、つめたっ、リタっち、おっさんが漏電しておぼれたら助けてね」
「そのまま沈んでなさいよ」
えぇ、と言いながらなぜか楽しげに笑うレイヴンを横目に、リタは足先を海にひたす。つめたくて、潮のにおいがして、なんとなく胸の奥がにぎやかなのは、確かにほんとうのことだった。