かつてすべてが星だったころ【前編/テイリン22新刊Web版】内輪の海
人は海から生まれたのだとある人は言った。またある人は空から降りてきたのだと言った。どちらにしろ、今この地にいる私たちには知り得ないことだ。気がついたら私たちはここにいた。それ以上のことは分からない。
「私は、まさかの星から生まれたっていう説を推してるんですが……どう思います?」
石段の上で海風にあおられながら、私は船の様子を確認している少女を見下ろした。
「古代の民話も星が関わるものが多いですし、古代の人々は星の力を自在に操っていたとも言われてますし……私と同じ説を唱えてる人もわりといるらしいんですよ」
少女の呆れ顔が私を見上げて、溜め息をついた。
「知らないわよそんなこと、こっちは忙しいってのにずいぶん呑気ね」
赤茶髪のおさげが風にぱたりとひるがえってなびく。船に乗ってからしばらく順調な航海だったのに、突然速度が低下したのには驚いた。しかし近くに運良く小島があったため、しばらく停泊することになったのだ。
「私にできることないですし、邪魔にならないようにしてようかと」
「都の学者さまだってのに、役に立たないわね」
「学者だって万能じゃないですから、専門外のことはさっぱり」
少女はあきらめたように首を振り、船員たちを呼び寄せる。小さな船だから、乗り合わせているのはほんの数人だけだ。ちょうど街の近くの海岸で暇そうにしていた船団を見つけたので、北の大陸まで乗せてもらえないかと勢いで頼んでしまった。もう少し考えるべきだっただろうか。
「やっぱりね、精霊が疲れてる」
「疲れてる?」
「この船の機関部分、ちょっと古くなりすぎてたっぽくて、精霊がうまく動かせなくなってきてるみたい。みんなも声が微かにしか聞こえないって言ってるし」
少女の後ろで、疲れたような顔の船員たちが地面に座り込み、思い思いに休んでいる。
「ここで修理に取りかかるのは無理だし、みんなで十分休息をとって、速度を落としながら行くしかないわね」
「はあ……」
「なによ、報酬はまけろとか言うわけ?」
「いや、いきなり一方的に頼んだのはこっちなので」
そうしたいのはやまやまですが、と聞こえないようにこぼした。
「助かるわ、あたしたちもこのあとの修理費とかのことを考えると頭が痛かったの」
ほっとしたような顔で少女は腰につけた水筒を手に取り、ごくごくと勢いよく飲む。それを見やりながら、私は石段を一番上までのぼる。石畳の広場の中央からは広い海が一望できる。この小島はちょうど内海の中心あたりに位置しているようで、見渡す限り陸地はなく、遠くまで青一面だ。
「……精霊の声とか調整とか、理論の面では理解できてもやっぱりピンとこないな」
「それ、どういうこと?」
私のあとをついて石段をのぼってきた少女が、不思議そうにたずねてくる。独り言のつもりだったのに聞かれてしまったようだ。私はつま先のそばに転がった小石とたっぷり見つめ合ってから、ぱっと顔を上げた。
「私、精霊の声が聞こえないんです」
案の定、少女は目を丸くした。誰に言ったってこういう反応になる。
「聞こえないって……いつから?」
「生まれたときからです。ずっと、姿も見えません。だから自分で精霊を召喚することなんかもちろん、調整や交流もしたことないです。でも街で暮らすぶんには困らなかったですけど」
「あんた、出身は?」
「あなたたちがいた南の大陸のほうです。乗せてもらった海岸から東のほうに街があって。あのあたりは精霊信仰もそこまで根強くなくて、こんな自分でも人の手を借りてなんとか暮らすにはそんなに困らなかったので、よかったです」
「それから、都に出て学者さまになったの? 確かにあの辺りなら都とも行き来しやすいわね」
「まあ……そうですね」
少女は複雑そうな表情で、ずっとポケットに入れていた手を出して、こちらに差し出した。薄紙に包まれた赤い飴玉がひとつ乗っている。
「あげる」
「これはどうも」
口に含むと、イチゴの甘酸っぱい味が広がる。どこか懐かしい風味だ。
「あたしのお気に入りなの、これを食べると力が湧いてくるっていうか」
「なるほど、そういうのってありますよね」
少女は近くの崩れた柱にもたれかかり、またポケットに手を入れた。
「あたし、昔は海賊になりたいって思ってたの。アイフリードって知ってる?」
「ああ、千年以上前の伝説の海賊ですよね、あまりにもいろいろな伝承がありすぎて、男性という説もあれば女性という説もあるとか」
「そうなの、大罪を犯して海の藻屑になったとも、人々の夢を乗せて百年海を駆け回ったとも言われてるの。謎多き人物なのよ……なんにしても、あたしの憧れの人なの」
今までずっと淡々とした印象だった彼女が、一転して熱っぽい口調で語りはじめる。ちょっとだけ面食らう。
「あたしも小さいときから船に乗るのが好きだったから、いつか海という海を探しつくしたいって思うようになって……まあでも、現実はこうやってちっぽけな船団組んで、あんたみたいな定期船を使わない変わり者から日銭を稼ぐので精一杯」
「海賊になりたいなら、私みたいなのろまな客から身ぐるみ剥がさないといけないのでは?」
「バカね、そんなことしたら船団の信用がガタ落ちじゃない。それに真の海賊は、誰彼かまわず巻き上げるようなことしないのよ」
「そういうものですか……」
「そうよ、あんただって、その……なんだっけ、ケンキューチョーサとかいうやつ成功させて、都で出世しようって思ってんでしょ? 大したもんじゃない」
顔のそばで揺れるおさげを手で払って、少女はぱっと向こうをむいた。分かりにくいが、もしかして励まされているのかもしれないと気がついた。海風がごう、と音をたてて遠くから吹いてくる。
「私は……べつに名を上げようとか、そういう目的じゃないんですけどね」
「そうなの? じゃあ、なんで大陸を渡ってまで……」
「なんででしょう……それこそ、あなたと同じようなものって気もするんですけど」
首をかしげる少女を横目に、私は石畳の広場を中央まで歩いていく。この小島には、明らかに人の手が入っている痕跡がいくつもある。こんな場所があるとは知らなかった。
「あ、あんなところに石碑が」
ちょうど小島の広場の奥まった場所に、白い石碑があった。何か文字が彫られているようだが、ずいぶん風化してしまっているようで読むことができない。石碑の基部は同じような白い石で、しかし石碑よりも何倍もの大きさがある。まるで何かを覆い隠すかのように。
「ところどころに立ってる柱といい、この島、昔は大きな建造物があったんじゃないでしょうか」
今はどれも崩れてしまっているが、それでも柱の高さは私たちの背丈の三倍以上もあるように見える。そんなに大きな建物なんて、都のお城くらいしか見たことがない。
「こんな海の真ん中に? いったい誰が住むっていうのよ」
「住むためとは限らないかも……たとえば、古代文明を封印するためとか?」
高く生い茂った草に隠れた石畳の上に、荘厳なたたずまいの宮殿を思い描く。列をなす人々の影、失われた巨大な機構を掲げる広場、星の力をつむぐ呪文。かつてそういうものがここにはあったかもしれない。
「あんたの話、突拍子もないわね」
「そうでしょうか? うーん、時間と資金が許せばここに十日くらい滞在したい……」
「帰りの船は自分で探すのね」
「ですよね……」
私は肩を落としながらも、石碑のかすれた文字がなんとか解読できないか目を凝らしたり指でなぞったりしてみる。
「もしあんたの言う通りだったとしても、この柱くらいの高さの建物を作るにはたとえ精霊の力を借りたって、相当な時間と労力がかかりそうよ。できあがる前にみんな寿命が来ちゃう」
少女は前髪を手で押さえながら、眩しそうに天を見上げる。抜けるような青空が鮮やかに私たちを見下ろしている。
「確かに、今では考えられないですね、途方もない想像でしかないかも」
人は精霊と暮らし、精霊に祈り、日々の糧を得る。それが今の世界の当たり前だ。けれど人が精霊と暮らす前の世界があったことを歴史は知っている。
「精霊がいない時代、ずっと昔、その頃、人はもっと大きなことを成し遂げていたのだとしたら」
私は石碑に手を当てて、目を閉じた。人が精霊に祈るときによくやる仕草だ。私に聞こえるのは、波のかすかなさざめきと風の音だけだ。でも、遠い昔ここにあったものを思うことはできる。かつて確かにここにあって、そしていつしか失われてしまったものを、私は考える。
「私は、そんな人の可能性が知りたくて、失われた文明のことを調べているんです」
石碑はつめたく神々しい手触りをしていた。私の信じられるものを、またひとつ見つけたような気がした。
2 years left Ⅱ
しんと澄んだ空気が、辺り一面に満ちている。あまりにも静かすぎて、意識を持っていかれそうになる力がここにはある気がした。リタは手元の灯を地面に置き、屈んで紙に書き留める。
レレウィーゼ古仙洞――ウェケア大陸の奥深くにあるこの泉は、初めて訪れたときはもっとエアルがたくさん満ちていたが、今は驚くほど澄んでいる。少しくらいなら近づいてもエアル酔いはしないですむかもしれない。確か、世界でもっとも古い泉と言われているらしいが、本当のところは分からない。この広大な世界がこんな泉ひとつから始まったなんて、途方もない話だ。
「リタ、大丈夫?」
背後から声が聞こえて、ふうとため息をつく。
「もうちょっとで終わるから、あんたはそこで待ってて」
「ちょっとくらい見学してみたいんだけど」
「ここに魔物がうっかり来ないように見張ってるって言ったのはあんたでしょ、それにここはエアルの溜まり場なんだから、うかつに近づくのは危険よ」
カロルは残念そうに肩を落として、洞穴の入り口にとぼとぼと戻っていく。凜々の明星の仕事としてリタの護衛に来てもらったのは助かるが、思考を巡らせているときに話しかけられるのは昔から好きでない。それでも、こんな奥地に単身で調査に行けるわけもないので、協力が得られるのはありがたいことだった。
久々の遠征にあたって、レイヴンのことはジュディスやエステル達に頼んだ。本当は可能なかぎりハルルに留まっていたかった。けれど、精霊術の完全な実用化に向けて手がかりをつかむため、変化しつつある各地のさまざまな事象を調べるのはどうしても必要なことだった。
――俺のことは気にせず行ってきてさ、なんか新しいことが分かったら、聞かせてよね。
にっと笑ってみせた顔がよぎる。なるべくならレイヴンのそばにいたい。けれど、自分のせいでリタが不自由を強いられていると少しでも思わせるのは嫌だった。
(今は、あたしのやるべきことをやる)
ぎゅっと拳を作り、胸に当てた。ひとつ深呼吸をする。
エアルの状態をひと通り記録し終えると、リタは道具を鞄にしまい込んで洞穴の入り口に戻る。
「待たせたわね、一応終わったわ」
「リタ! もういいの?」
入り口のあたりに座り込んでいたカロルがすばやく立ち上がる。
「こっちはすっごく暇だったよ、魔物の気配もぜんぜんなくってさ」
「こんな深部までは来ないのかもね、エアルの状態も驚くほど落ち着いてるし」
「大丈夫そうなの? じゃあちょっと見ていこうかな」
「わざわざこんなとこ観光したいなんて物好きね、あの岩より向こうはだめよ」
「いろんな依頼に対応するためにも見聞を深めるのは大事なんだよ」
カロルはそう言って泉のほうへ歩いていく。そのあとをついていくと、泉の周りの白い花々に細かな光がぽつりぽつりと現れる。
「これって、精霊なのかな?」
「エアルが安定してるとはいえ、揺らぎも大きい場所だから見えやすいのかもね」
「もっとウンディーネとかシルフみたいに分かりやすい形だったら、ちゃんと挨拶できるのにね」
「そうね……基本的にこっちから精霊術で働きかけないと、普段はちゃんと感知できないのがもどかしいわ」
初めて精霊という存在の誕生に立ち会ったときは、リタたちもその目ではっきりと姿を見た。世界を覆っていた星喰みがすべて精霊に変わる光景は今もはっきりと覚えている。それから精霊たちは世界のいたる場所に広がって散らばり、この世界を成す存在の一部となった。
研究の結果分かったのは、エアルと同じで空気中に存在はするものの、ひとところに集まらないと目視するのは難しいということだ。大精霊たちも今はめったに人前に姿を現さない。エステルは今でも大精霊たちと言葉を交わせる貴重な存在だが、いつでも話せるわけではないと言う。
「こんにちは、今日はちょっと調査に来ただけなんだ」
「ちょっと、あんた」
カロルは大真面目に精霊へ話しかけるも、小さな光はくるりと揺れたあと、どこかへふいと消えてしまった。
「あっ、いなくなっちゃった」
「あんたがいきなりでっかい声出すからよ」
「そんなにでかかった……? びっくりさせちゃったかな」
そんなことをしながらしばらく泉を眺めた後、リタたちは洞穴をあとにして谷をのぼる。中腹の開けたあたりまで出ると、カロルは辺りの安全を確認してから、ぴゅうと笛を吹いた。バウルの角を使って作られたものだ。
「バウル! 来てくれてありがとう」
ブオオ、と咆哮が響く。バウルと船の影が下りてきて、リタたちは岩を足場にして乗り込む。みるみるうちに風の渦巻く谷は下へと遠ざかっていく。
「予定通り、オルニオンに戻るんだよね?」
「そう、お願い」
リタは船室に下りると、これまでの調査結果を書きつけた手帳をさっそく取り出す。イリキア大陸南方のエアルクレーネについて調べた結果もある。昔の詳しいデータはここにはないが、おおまかな数値は覚えている。やはり、推論は当たっているようだ。
「リタ、今いい?」
船室の扉から、カロルがちらりと顔をのぞかせる。
「……何? なんかあったの?」
「いや、特になんにもないけど」
「あたし、今調査結果をまとめてる途中なんだけど」
「邪魔かな、ちょっと見せてもらえたらって思ったんだけど……」
「今ここにはあたしの書きつけしかないから、あんたが見てもなんにも分かんないと思うわよ」
「そ、そっか……ごめん」
カロルは肩を落として、所在なげに扉のそばに立ったままでいる。リタは床から椅子に座り直して水筒から水を一口飲んだ。
「カロル、あんた……何か気になることでもあるの?」
「そういうわけじゃないけど、なんとなく知りたいと思って」
向かいの椅子に腰かけて、カロルは真剣な目で見つめてくる。ふう、と息をついてリタは手帳のページを指ではじく。
「今回の調査で分かったのは、エアルクレーネの状態が年々安定してきてるってことだけ。あとは戻ってからちゃんと仮説ごとまとめ直さないと、はっきりしたことは言えない」
「エアルクレーネ、やっぱりもう暴走することはないんだね」
「暴走どころか、エアルの噴出がある形跡もないし、それに少しずつ小さくなってきてるって報告もある」
「小さく、って、エアルクレーネの大きさ自体が?」
リタは頷いて、手帳のページをめくる。
「イリキアのエアルクレーネは、前年の測定値が分からないからあたしが目で見ただけじゃ分からなかった。でも正確に測定したらもしかしたら変化してるのかもしれない」
「それも、精霊の影響なのかな」
「おそらくね……精霊のおかげでエアルが乱れることはなくなった。だからエアルの源泉であるエアルクレーネが、消費されたエアルの分を噴出させる必要はもうない。もう役目を終えて、もしかしたら長い時間をかけて、なくなっていくのかもしれない」
カロルは神妙な顔でうつむいて、なんだか寂しいね、とつぶやいた。
「いろんなことがどんどん変わっていくんだね」
「今さらね、もうあまりにも変わりすぎて驚かなくなってきたわ」
斜めに足を伸ばすリタに、カロルはさっすが、と軽口を叩く。
「リタはすごいよね、ボクもさ……どんどん変わっていく中で、できることをがんばろうってずっと思ってきたけど、なんだか時々、ちょっと怖くなるんだよね」
「怖い?」
「いろんなことがあって、みんなでちょっとずつ進んできて、でもこのときも世界のいろんな何かがずっと変わり続けてて、このままボクたちはどこへ行くんだろうって。そうしてるうちに、何かを取りこぼしそうな気がして、でも毎日の中でそれを見逃しちゃいそうで、そういうものを仕方ないってあきらめたくないのに、どうしたらいいのかわからなくて」
話しながら、両手を不安げにぎゅうと組んで目を伏せる。なに言ってんのよガキんちょのくせに、とかつてのように言おうとして、リタは唇を引き結んだ。もうそんな歳ではない。目の前の少年だった青年は、あの頃よりずっと背が伸びた。改めて、自分の上に流れた時間の長さを思い知った。さまざまなことを知って、得て、失って、また得て、それをひたすらに繰り返してきた。
「……ねえ、あきらめない、って、あんたにとって何?」
「え、何って」
「あきらめたくないってことは、あんたがどうしても掴んでおきたいものがあるってことでしょ。それって何なの」
カロルは目を丸くして、しばし首を傾げながら考え込んだ。
「うーん……ちょっと、すぐにはこれって言葉にできないや。自分で話しといて、なんだかボクもよく分かってなくって」
「なによそれ」
「でも、仲間とか……大事な人の大事なものは、せめて精いっぱいがんばって守れたらって思うよ、なんかうまく言えないけど」
へへ、と困ったように笑ってみせる。大事な人の大事なもの、と聞いて、リタの頭によぎったのはレイヴンの顔だった。できる限りの力を尽くして、諦めたくないとただ強く思っていた。けれど、それはリタの持つ願いだ。レイヴンの願いは、大事にしたいと思うものは何なのだろう。
「あ、もうすぐ着くみたいだ、ごめん、結局邪魔しちゃって」
「べつにいいわよ、あんたに話すことでちょっと考えも整理できたし」
甲板に出ると、船室にも響いていたバウルの高らかな咆哮がよく聞こえる。空に浮かぶ大きな体躯を見上げながら、リタは柱にもたれて着陸を待つ。
「バウルみたいに空を飛べる生き物とか、精霊の力を借りられたら、みんな便利なのにね」
「精霊は実体がないし、精霊術もかなりの数を集めないとそれくらいの出力は難しいかも。一人用の簡易的な飛行機関なら作ってみたことあるけど、風属性の調整がうまくいかなくて、稼働時間がちょっと短すぎたのよね」
「相性があるんだよね。それってさ、エアル伝導率、ってやつに似てない? ボクの鞄とかリタの帯とか、人によってエアルを伝えやすいものが違うって、昔教えてもらったよね」
「そう、原理的には似たようなものって考えられてるけど……そんな昔のことよく覚えてたわね」
カロルは照れたように頬を掻いて、そっと自分の鞄に手を添える。各々エアルを伝えやすいものは、もともと愛着のあるものなのか、そばに置くことが多いために愛着が湧くのか、それとも全く別の条件があるのか、はっきりとは分かっていない。けれどその仕組みを応用して、今も精霊術の媒介装置に組み込まれることがある。
「いろいろ知りたいんだ。リタみたいに、賢くって、ためらわなくて、どんどん突き進んでくひとだけに任せきりにならないように、できることをしないとって」
リタの目線より高くなったその横顔は、陽に照らされてあかるく笑う。
「実力以上に張り切りすぎたら元も子もないわよ、適材適所って言うでしょ」
「でもね、ちょっとでも知っておいたら、きっと何か変わると思うんだ。変わらなくても、それでも知ろうとしたことはムダにならないかなって」
「知ろうとしたこと……」
「うん、だから……ね、そう……レイヴンのことだって、ボクにできることなんて簡単にはないかもしれないけど、でも難しくてもやりたいから、リタ、一人で抱え込まないでよね。なんたって、レイヴンの命は凜々の明星みんなで預かってるんだから」
カロルの声が少し震えているのが分かった。同行してもらっているあいだ、二人は一度もレイヴンの話をしなかった。あえて話題に出さないようにしていたのだろう。リタは奥歯をぐっと噛みしめ、数度瞬きをする。
「カロルのくせに、いっちょ前なこと言って」
「なにさ、もう」
「でも……ありがと」
ずんと船体が揺れ、ヒピオニア大陸が眼下に見えてくる。カロルがくるりと振り返って街の方角を指さす。近づいてくる地上と遠ざかる雲を見ながら、リタはずっと考え続けていた。
(あたしの、どうしても掴んでおきたいもの、離したくないもの)
手のひらをかざした空は、抜けるように青かった。
オルニオンに降り立ったリタは、いったんカロルと別れて宿屋に向かう。ひと通り調査を終え、明朝はこの街に拠点を置いている研究者たちとの会合がある。長いようで短かった遠征もそれで終わりだ。うまくいけば明日の夜にはハルルに帰れる。
カロルに誘われた夕食の時間まで、リタは荷物の整理をすることにする。とは言っても、持ってきたものはそこまで多くない。主だったものは調査に必要な道具と、最低限の記録用紙くらいだ。
ふと、鞄の内側でチャリ、と揺れるものが指に触れる。紐のついた透明な入れ物の中には、手のひらに収まるくらいの小さな魔導器がある。魔導器といってももう動かない。温度を測ることのできる魔導器で、昔ジュディスからもらったものだ。
「フアナ……」
名前を呼んだ。もらったときにリタが名付けた。見るたび、今リタの手元にこれがあることの意味を考える。それから、リタと長い時間をともに過ごし、アスピオの瓦礫の底に沈んだ多くの魔導器たちのことも。
カロルの鞄は古びていて、それでも何度も修理された跡が残っていた。もう武醒魔導器は装着されていないが、ずっと大事にしているのだと分かった。
時々、ただ心を込めて大事に思うこと自体に意味があるのではないかと思えてしまう。非科学的な想像だ。でも以前のようにすぐに一蹴することはできなかった。リタが大切にしていた魔導器たちも、丁寧に磨いて声をかければよく動いてくれるように思えた。精霊術を使うときに、あのときと似たような感覚をおぼえることがある。本当にそこへ心が通っていたなら、と思うのは馬鹿げたことなのだろうか。
リタは思い立って部屋をあとにし、宿の外に出た。日の暮れかけたオルニオンの街はうっすらと橙に染まっている。あちらこちらに、そろそろ仕事を終えようかと片付けを始める者、帰路につこうとする者、名残惜しそうに店の前で立ち話をする者が見える。
広場の中央に着くと、そこにそびえる大きな石像を見上げる。この街ができるずっと前からここにあったという結界魔導器の残骸だ。ずっと昔、この結界魔導器のもとに人々が集まった頃があったのだろう。魔導器が壊れたから人がいなくなったのか、人がいなくなるような事態が起きて魔導器が壊れたのか。それは分からない。
リタが初めて見たときから、もう完全に動いてはいなかった。前に訪れたときから少し傷や汚れが増えただろうか。ここにいるとさまざまな思いが胸のうちに湧き上がる。
「……マリア」
はじめて名を呼んだときから、いろいろなことがあった。すべての魔導器はなくなり、たくさんの精霊が生まれ、世界の在り方は変わった。その激動のなかで、リタはさまざまなものを見て、知ろうと解き明かそうとしてきた。そして、自分のやりかたで守りたいものを守ろうと生きてきた。
(守るってなんなんだろう)
あらためて手にとると、とても薄っぺらい言葉のような気がしてくる。それこそレイヴンに何度も言ってきた言葉なのに、本当の意味なんてなにも分かっていなかったのかもしれない。
あきらめたくない、とリタが言ったときのレイヴンの表情を思い出す。困ったように、戸惑ったように、それでもありがとうと頷いてくれたやさしい目の色を。
レイヴンの命の期限は確実に迫っている。このまま時が過ぎるとともに、おそらく心臓魔導器の循環効率は徐々に低下していく。そうして生命力とのバランスが取れなくなり、レイヴンが活動するための力を体に供給することはだんだんと難しくなっていくだろう。それがリタの現時点での見立てだった。間違っていると思いたくて何度も考え直した。今でも信じたくない。まだ何か見落としている可能性があるかもしれない。それを探して、糸口を見つけたい。避けられない運命だなんて絶対に思いたくなかった。
けれど、その答えが見つかるまでに、期限が来てしまったら。
時間は有限だ。何にしたってそうだ。どれだけ死ぬ気でやったとしても、うまく間に合う保証なんてない。リタが別の可能性を探しているあいだにあっけなく時間切れになるかもしれない。あんな風に、困ったように笑って、嫌だと首を振るリタの顔を見つめて、目を閉じるのだろうか。
(嫌、そんなこと、許さない)
ふとした瞬間に何度もよぎる光景を、ぶんぶんと頭を振って追い出す。分からなくなっていた。昔のように、自分のためにひたすら突っ走ろうとしているだけなのかもしれない。それを諦めないことだと思い込んでいるだけなのかもしれない。
ぼんやりと佇んでいるあいだに、ずいぶんと陽が傾いているのに気づく。そろそろ戻ろうと顔を上げたとき、見知った姿が広場の向こうから歩いてくるのに気がつく。
「やあ、リタ、こんなところで何をしてるんだい」
「フレン、あんたなんでここに」
騎士団の鎧に身を包んだフレンは、朗らかに片手をあげて声をかけてきた。
「たまたま立ち寄る用事があったんだ。調査お疲れさまだったね、さっきカロルにも会って、夕食に誘われたんだ。リタも来るんだろう?」
「一応、そうだけど」
「よかった、久しぶりにゆっくり話せるのは嬉しいよ。もしかして、ここで考えをまとめていた途中だったかな」
それならすまなかった、と頭を下げるので、リタは首を振って否定する。
「こんな広場の真ん中で、そんなことしないわよ」
「それもそうか、リタは騒がしい場所が苦手だったね。あ、そういえば、遅れて帝都から来てくれた部下から聞いたよ。レイヴンさん、ちゃんと城で元気そうにされてるって」
「元気そうって、またなにかやらかしたりしてないでしょうね」
「たぶんそんなことはないはずだけど……ああ、エステリーゼ様と厨房で何か作ってるのを見たって話は聞いたな」
「エステル巻き込んでなにやってんのよ……まあ、大丈夫そうで安心したわ。ありがと」
息をついて、夕空に影の濃くなった石像に目をやる。とにかく、具合が悪くなったり倒れたりしていないようならそれでいい。
「本当に、大事なんだね」
「へっ」
「君はここへ来るたび、これを大事そうに見ている気がするから」
フレンはリタの見る石像を感慨深げに眺める。そっちか、と胸をなで下ろす。
「街の人々にも長く象徴として愛されているけど、やっぱりもともと魔導器だったものだから、特別な思い入れがあるのかな」
「……そりゃそうよ、魔導器とはずっときょうだいみたいに暮らしてきたんだから」
口にしながら思い出す。昔、これを眺めていたときに気づいたのだ。自分にとって魔導器はずっとそばにいてくれたきょうだいのような存在だった。一緒に過ごした同志であり、自分の一部であり、守りたいかけがえのない大切なものだった。
(今だってそう、ずっと)
魔導器が失われても、大事なものはなくならない。リタが魔導器を愛した気持ちはここにあり続けるし、これから愛するべきものもこの世界にはたくさんある。そう信じて、決意した。
「この像をどうするか、話し合いが行われているんだ」
「え……」
「いや、決してなくすとかそういうことじゃない。これからどう守っていくか、ずっと先までちゃんと残していくための取り組みを、街の人々が決めようとしている。具体的なところだと、ひとまず近いうちにと修繕計画を組んでいるらしい」
「残していく、ために……」
思い入れのあるものだから、リタとてなくなってほしくないとは思っていた。しかし、当たり前だがなくさないように残していくためには人の力が必要なのだ。それを長く続けようとすれば、なおさらしっかりした仕組みや決めごとが必要になる。
「あたしは、この街の住人じゃないから部外者だけど、でも……もしこれがずっと未来まで残っていくなら……できるだけこのままの形がいい」
「いや、リタを部外者とは言えないよ。この街は広くさまざまな人に開かれたまったく新しい拠点から始まったんだし、元をたどれば、ここに街を作ることができたのも君たちのおかげだったんだ」
「あんたのおかげでもあるでしょ」
「いや、僕のしたことなんて微々たるものだよ」
「騎士団長らしい謙虚さね」
フレンはいやいや、と首を振って、柔らかに微笑む。
「それに、魔導器に特別な想いを持って、ずっと最前線で人を守る魔導器とはなにかを見てきた君の意見は、きっと計画に必要だよ」
「最前線って」
「一番近くにいたって意味だよ。リタさえよければ、発つ前に計画の立案者に会っていってほしい」
フレンの言葉に、リタは自分の手のひらを見つめる。あの頃より少しくらいは大きくなっただろうか。指をゆっくりと開いて、ぎゅっと握りこむ。
「わかった。あたしのほうこそ、よかったら話をさせて」
フレンは嬉しそうに目を細めて、大きくうなずいた。
「ありがとう、よかった」
「カロルのところには先に行っておいて。ちゃんと約束の時間までには行くから」
「僕のほうも、あともう少しやっておく仕事があるから、それから行くよ」
またあとで、と立ち去ろうとしたフレンが、ふっと振り返る。
「リタ、どうか……君の、君たちのそばには僕たちがいること、忘れないでほしい」
真剣な眼差しで言われる。リタは少しだけうつむいたあと、首を縦に振った。
「分かってる。忘れないようにする」
リタの言葉を受けて、フレンはにこりと笑って歩いていく。どいつもこいつも相変わらずなんだから、と心のうちでつぶやく。
人がまばらになってきた広場を見回し、リタは石像のそばに屈み込む。街の人々にはもう見つかっているかもしれないが、誰にも秘密で描いた文字があった。災厄に挑む決戦の前に。
(マリア、あたし、あれからどれくらい頑張れたかな)
その名前は少し薄れてはいるが、はっきりと残っている。この落書きについて、まずは計画の立案者に謝らなければならないだろう。
そして、もし願いが叶うなら、この名前を残したい。自分が愛したきょうだいのことを、この気持ちを、遠い未来まで伝えられたらいい。
「……レイヴン」
むしょうに、あのへらっと笑った顔が見たくなった。会いたい。今の気持ちを話したい。うまく話せなくても、ただそばに帰りたい。
陽が落ちて、やがてもうすぐ星々のあらわれる夕空を見上げた。伸ばした指先に、宵の明星が触れる。遥か遠くの光でも、こんなに近しい思いがするのはなぜだろう。
リタは震える心で願った。大事なものを守るため、自分に今できる限りすべてのことができますようにと。
【後編につづく】