17歳のレーザービーム(中編)大学生に土日はない、と誰かに言われたことがある。
これは文字通りに取れば、学業に邁進するために休みなどないと言う意味になるが不真面目な学生にとっては、平日も土日も遊ぶための時間であると言うことだ。
僕はそのどちらにも上手く舵を取って付き合い、大学生活をそれなりに楽しんでいる。
僕の通う大学は都心にしては緑が多く、不思議に閑静だ。大学の敷地は道路が血管のように張り巡らされ、間断なく自動車が走っていると言うのに、一歩学内に入ると音が聞こえなくなってしまう。
別の国に来たような雰囲気が好きで、通学に関して不満はない。
必須授業も僕の頭なら特に問題はないし、ゼミで学ぶことは楽しい。
日曜日の浮かれた気分を今朝まで引き摺りながら、講義の前の顔出しに浮き浮きとゼミの教授の部屋を開けた。
すると。
「隠れても無駄だ!」
聞き慣れた助教の大音声が耳に飛び込んできた。
それと同時に、何かを叩きつける軽快な音。くそっ、逃したか!と悔しそうな声。
僕が扉を開けたまま立ち尽くしていると、彼は戦闘中の狼のような顔で「おい長船、とっととドアを閉めろ!」と怒鳴った。
慌ててドアを閉めて中に入ると、相変わらず教授の部屋は、壁一杯に文献が溢れ、そこに入りきらない本や資料がそこここに撒き散らされていた。
窓際のデスクは散らかって、机が一つの山のようだ。
その手前にある応接スペースには、教授の田丸が周囲の騒動を気にも留めず、穏やかに緑茶を啜っていた。
「俺のハエ叩きは防げない!」
などと叫びつつ、助教(かつての助手に当たる役職)はそう広くもない部屋を駆けずり回っている。
「おはようございます、教授。あの、これは」
声を掛けると、教授は年齢不詳の顔を綻ばせて、おはよう長船君、と言った。
「煩いだろう。実は部屋にゴキブリが出てね。長谷部君がこうして退治している」
「はあ、手伝いましょうか」
「いい、いい。彼に任せなさい」
おっとりと言うと、田丸教授は再び茶を啜った。お言葉に甘えて、僕は教授の対面に腰掛ける。
田丸友成教授は、僕のゼミ教授であり卒業研究の指導をしていただいているのだが、おおらかと言うのかどこか掴み所がない。
こう見えて研究分野では相当の権威であるらしいが、若くも年寄りにも見える年齢不詳な姿からは想像が出来ない。
僕は教授の実年齢すら知らないが、かなり大学には長くいるらしい。
細身で右目を隠すような髪形は前衛的で、教授と聞かなければどこぞのデザイナーと思うかもしれなかった。
こんな彼だが、少々変わり者なのも受けて周囲から愛されている。
渾名からして、茶をいつも飲んでいるから茶丸だの、緑色の服が好きだから緑丸だの、苗字の田丸をもじったものを付けられている。
僕としては、教授が鶯の物真似が得意と言うことからきた「鶯丸」と言う渾名が好きだ。本人の前では呼ばないが心の中では呼んでいる。
「おしきるっ!」
スパーン!と小気味いい響きと共に、長谷部が叫ぶ。どうやらゴキブリを仕留めたようだ。
「床は押し切るなよ、長谷部君」
鶯丸教授がほわほわと言うが、勝利の美酒に酔い痴れる長谷部には聞こえないようだ。
いそいそと片付けている様子がさっきまでの鬼気迫る表情とは打って変わって柔らかく、微笑ましい。
長谷部国重と言う男は、僕と年齢が近いのにパッと見が老成している。鶯丸教授とは反対に、厳格で細かいことが得意なようだ。
鶯丸教授と長谷部が一緒に仕事をしている様子を見ると、イタリア人とドイツ人を同じ部屋に入れたらこうなるんだろうな、と思う。
僕の考えていることは露知らず、茶を啜る鶯丸教授は僕の顔をまじまじと見詰め、
「長船君、今日は機嫌がいいようだな。何かいいことでもあったのか?」
と言った。
「そうですか?いいことと言えばいいことがあったような」
そういや浮かれているな、と鋭い声をあげる長谷部の手元は、ゴキブリの残骸を掃除している。
「当ててやろう。デートかな?」
にやりと笑う鶯丸教授に、僕は参ったなぁ、と笑う。
「デートだの浮かれている場合か!今、大事な時期だろう!」
床の雑巾掛けに移行した長谷部が叫ぶ。
はいはい僻まない妬まない、と笑う教授に、妬んでなど!と金切り声を上げる長谷部を見詰めて僕は昨日の出来事に思いを馳せた。
確かにあれはデートと言っても差し支えなかっただろう。
渋谷で待ち合わせてカフェ。それから話が弾んで、ディナー。イタリアンかスペイン料理で迷ったが、相手の好みを優先してスペイン料理にした。もちろん僕の奢りだ。
それから駅で別れを惜しみつつ、次回の約束。
流石に夜の楽しみについてはなく、あくまで健全、健康的なデート。
当然だ。相手は未成年、しかも少年だ。
僕に男の子を可愛がる趣味も、逆に僕が可愛がられる趣味もない。
可愛い子だったが、それだけの話で馬の合う友達が出来た、と言った具合か。
あの時の会話や、様子を思い出すと顔が勝手に緩む。
自然に、本当に心から自然に楽しかったのだ。
「ああ、楽しかったんだねえ」
おっとりとした口調で言われて、僕はまた顔に出てしまっていたかと赤面した。
除菌シートで手を拭きながら「浮かれてはしゃぐと痛い目を見るぞ」と長谷部が言う。
「いいじゃないか。長船君はそもそもはしゃぐことが無いんだから」
ね?と微笑まれて、僕は曖昧に笑い返した。
鶯丸教授の言う通りで、僕はあまり大学ではしゃぐことがない。今時の大学生と言えば無意味に歓声を上げたりハイタッチをするようなものだが、僕はそんなことはしない。
落ち着いていると言えば通りがいいが、人によっては若者らしくはなく見えるだろう。
教授は嬉しそうに、いや少しばかり面白がるような口調で、
「それでどんな子だったんだ。君が選ぶ人だ、さぞかし可愛い子なんだろう」
と言うと傍で仁王立ちした長谷部が、
「教授、下世話すぎます」
と釘を刺した。
「まあ可愛いと言えば可愛いような」
「おお、上から目線だな!」
「違いますよ、ほら本人は可愛いと言われるのが嫌だろうと思って」
「難しい年頃なのか、ほう」
嫌に食いついてくる。普段「周囲のことは気にするな!」とのたまい、且つ信条としている鶯丸教授だが色事となると別らしい。
むしろ中学生のような反応に辟易する。
「せんせい、僕よりはしゃいでますね」
「ん、そうか?」
首を傾げる様子は子供染みて、一研究者のようには見えない。
「教授、いい加減にしてください」
何故か額に青筋を立てている長谷部を振り返り、んー?と笑う。
「可愛い振りをしても駄目です」
「駄目かーそうかー」
「お茶飲んだら書類に戻ってくださいよ!」
「分かった分かった」
長谷部君には逆らえないなあ、と本気か冗談か分からないことを言いながら、鶯丸教授は茶をぐぐっと飲み干した。
「さあ飲んだ、いやあ休んだ休んだ」
「隙を見てすぐサボろうとするんですから全く」
ため息交じりの長谷部がぼやく。
「人聞きが悪いな、ゴキブリ騒動まではきちんとやっていたぞ」
長谷部君は厳しいと思うだろ、と同意を求められて、
「せんせいは、本当に長谷部さんが助手で良かったですよね」
と返した。
「分かってくれるか長船」
仁王立ちのまま喜色を浮かべた長谷部に、僕は曖昧に笑う。
正直どっちもどっちだと思うし、お互いにバランスが取れているからいいのだろう。
「いいコンビですね、お二人とも」
「誰が」「はぁ?」
ほぼ同時に威嚇されて、反射的にすみませんと謝ってしまう。彼らは何故かコンビと言うと切れるのだ。
旗色が悪い気配がしたので、
「ところでせんせい、卒研のことで相談が」
と話を変える。
すると鶯丸教授の目が途端にキラキラと輝いた。
「テーマが決まったのか?」
「ええ、まあ」
何故か長谷部まで教授の隣に座って、僕の言葉の続きを待っている。
「やはり前にアドバイスいただいた、焼失・遺失可能性の文化遺産についてやろうと思います」
「うん、それがいい。君には合ってると思うぞ」
長谷部まで、うんうんと頷いて、
「お前はきめ細かい研究が出来るから、きっと向いているだろう」
と太鼓判を押してくれた。
「色々と調査することは多そうですが」
「そりゃあそうだ。もし必要なら細川君にも協力してもらうといい」
話を通しておくよと鶯丸教授は言う。細川君とは、美学専門の教授でやや癖のある人物だ。
「教授、細川教授は学会でウィーンに行っていますよ」
「ああ、そうだっけ。いつ戻る?」
「一月後ですね」
長谷部の手帳には、他の教授のスケジュールまで記されている。殆ど鶯丸教授の秘書のような彼だから、あまり驚きはしなかった。
「きっとウィーンっ子相手に和歌や風流について持論をぶちまけているんでしょうな」
と皮肉気に長谷部が言うと、そこが彼のいいところだよ、と鶯丸教授が窘めた。
しかしこう見えて長谷部が細川教授のことを嫌っていないのは、皆知っている。
ゼミ旅行において何故か田丸ゼミと細川ゼミが合同になって、教授二人と長谷部が誰よりも楽しんでいたのだ。
おまけに三人揃って写真撮影をしまくっていたのも見逃さなかった。
馬鹿な大人たちだなあ、と大人に片足突っ込んだ僕は思う。
だけれど、そう言う馬鹿な大人たちの方が人生をしっかり楽しんでいる気がして、僕の方が馬鹿なんじゃないかとも思ってしまう。
特にこの人たちを見ていると尚更そう思う。
「じゃあ、後でメールでも送っておこう。いいね、長船君」
「はい、よろしくお願いします」
僕の言葉をきっかけに鶯丸教授は立ち上がり、ふらふらと自分のデスクへ戻っていく。
論文なら幾らでも書くのになー、とぼやく後姿へ、長谷部が、
「そうやってだらだらするからいつまでも終わらないんですよ」
と呆れたように言う。
「だってやる気が出ない、長谷部君茶を入れてくれ」
「美味しくするからまじめにやってください」
もだもだした二人の会話を聞きつつ、僕は挨拶をしてさりげなく教授室を辞した。
朝一の講義を受けに行く道すがら、スマートフォンを手に取り何となくLINEを見てみる。
昨夜、ヒロミツと別れた後の応酬が残っていた。
楽しかった、また会いたい、ありがとう、と大袈裟なくらいに僕の文字が踊っている。
反対にヒロミツの言葉は少なく、素っ気ないくらいだ。
だが彼も楽しかったはずだ、きっとそうだ。そうじゃなくては、次の約束なんてしてくれないだろう。
昨日の出来事は夢だったのでは、と思いそうだけれど目の前の端末がそれを否定してくれている。
チャットでしか交流していなかった人とリアルで会う。しかも相手は未成年。
心から、相手が女の子じゃなくて良かった、と思う。
色々面倒なことになりそうだし、僕はどちらかと言うと年上好みだ。
10代の女性は色々と思い込み激しいからなぁ、と胸中独りごち、僕は講義室の席についた。
※※
ヒロミツさんが入室しました。
ヒロミツ『どうも』
ピカリャー『やあ』
ピカリャー『来てくれて嬉しいよ』
ヒロミツ『元気ないな』
ヒロミツ『何かあったのか』
ピカリャー『なんでわかるの』
ピカリャー『びっくr』
ピカリャー『びっくりした』
ヒロミツ『何となく』
ヒロミツ『何かあったのか』
ピカリャー『特に何があったわけじゃないけど』
ピカリャー『ちょっと落ち込んでた』
ヒロミツ『言ってみろ』
ピカリャー『簡単に言うと自己嫌悪だよ』
ピカリャー『僕は本音を言える友達もいないし上っ面だけの人間だ』
ピカリャー『いつだって一歩引いてる』
ピカリャー『みんな僕の表面だけ見てあーだこーだ言うし』
ピカリャー『僕だってみんなの表面だけで判断してる』
ピカリャー『女の子と少し話しただけで男からは遊び人扱いされるし』
ピカリャー『他の女の子からその話した子が色々言われてしまう』
ピカリャー『僕は普通にしたいだけなのに』
ピカリャー『波風立たせたくないから上っ面だけでいるのにどうして』
ピカリャー『僕の表面しか見ないなら近づかないで欲しい』
ピカリャー『本音を見せれば弱点を見つけたってばかりに攻撃してくるくせに』
ピカリャー『何が「俺たち友達だもんな」だよ合コンの生餌ぐらいにしか思ってないくせに』
ピカリャー『そんなこと思ってたら自分が段々』
ピカリャー『ごめn』
ピカリャー『引いた?』
ヒロミツ『別に』
ヒロミツ『似たようなことは考えたことがある』
ピカリャー『そうなんだ』
ピカリャー『ごめんね思ったまま書いたら』
ピカリャー『読み返すとこれ怖いね僕』
ヒロミツ『謝らなくていい』
ヒロミツ『怖くもない』
ピカリャー『君にこんなこと言ってもしょうがないのに』
ヒロミツ『そんなことはない』
ヒロミツ『話を聞くことなら出来る』
ヒロミツ『あんたがそれも嫌なら聞かなかったことにする』
ピカリャー『ごめん』
ヒロミツ『なんで謝るんだ』
ピカリャー『僕、何かみっともなくて』
ヒロミツ『そうか』
ピカリャー『かっこ悪いよね』
ヒロミツ『それは分からん』
ヒロミツ『辛い気持ちの人間のことをかっこ悪いと言う奴が』
ヒロミツ『かっこ悪いと思う』
ピカリャー『やっぱり』
ピカリャー『僕かっこ悪いや』
ヒロミツ『そうか』
ピカリャー『正直に言ってくれて構わないんだけど』
ピカリャー『ヒロミツは僕を弱虫だと思うかい?』
ヒロミツ『正直分からない』
ヒロミツ『俺の思う弱虫は弱いくせに強い振りをする奴だから』
ピカリャー『僕は』
ピカリャー『僕も分からない』
ヒロミツ『ピカリャーと話すのは嫌いじゃない』
ヒロミツ『俺の知らないことを知ってるし』
ヒロミツ『それじゃ納得しないか』
ピカリャー『ごm』
ピカリャー『ありがとうヒロミツ』
※※
必須講義とは言え、早々に集中力を無くした僕はスマホに保存していたチャットログを読み返していた。
窓際近く、やや後ろの席で目立たない位置で堂々と遊んでいるが、周囲も似たようなものだ。
やる気があれば前の席に行くし、そもそも飽きないだろう。
ヒロミツとの過去の会話は既に懐かしいような気がするが、結構最近のことなのだと改めて思う。
濃い時間をそれだけ過ごせたのだろう、何せ一度会ってからと言うものの反芻するように文字列の記録を眺め続けている僕だ。
ちょっとここまで来ると変かもしれない。
自分より5歳も年下の少年にずっと励まされていた上に、会ったことで浮かれていることが信じられなかった。
それほどまでに僕はリアルの人間関係に飢えていたのか、と暗澹たる気持ちが湧いてきて、その落差に笑いそうになる。
喧嘩もしたくないし争うこともしたくない。汚いものも出来れば見たくない。
その結果が今の僕ならば、このやり方は間違っていたのかもしれない。ただこうしなければ、生きるのがもっと辛かったろう。
いわば遠回りして、正道に帰ってきたのだ。きっとそうだ。
22歳にして、13歳の子供のような葛藤で一喜一憂しているのが他人に知られたら、多分恥ずかしさで死ねる。
しかも友達は17歳。
17歳、そうだ、彼は17歳なのだ。
これから色んな人に出会い、知識を吸収して、大人になっていく。
大人の、立派な男になっていく。
その時、僕は規範となれる年上の友人としていられるだろうか。急に不安の波が津波のように覆いかぶさってきた。
何一つ年上らしい立派なところなど見せられず、格好悪い僕と付き合う価値など無くなっているのではないか。
じめじめとした感情に揺さぶられ、僕は頭を両手で抱えた。
いや、いいじゃないか。それはそれで。
人間関係なんて年齢に応じて変わるものだ。気にする必要はない。
彼が大人になって、僕を見限るまで友達でいればいいだけの話だ。
光源氏を気取るわけじゃなし、彼の成長に寄与したと考えれば。
ああ今の僕、初めて彼女が出来た中学生みたいでみっともないなあ。
そうこうするうちに、講師は講義を終え、出て行った。
荒れ狂う濁流の感情の波に振り回されて、結局僕は何一つ講義の内容を聞いていなかったのだった。
夕方。サークル活動や飲み会へと繰り出す学生たちがキャンパス内を跳ねるような足取りで闊歩する。
僕は背筋を伸ばし、人を切り裂くようなイメージで歩いていく。
今日はバイトも入れていないし、自宅に帰るだけだ。
寄り道をするつもりもない。
すると、所在無く左手に握っていたスマホが不意に震えた。
通知はLINEから。メッセージの送り主はヒロミツ。
何故かスマホを取り落としそうになりながら、通知をスワイプしてアプリを立ち上げる。
『あんたが着ていたみたいな服を見つけた。この店か』
と言う文章と共に、スマホで撮ったのであろう店と服の画像。
残念ながらその店ではないよ、と送ると、
『そうか。服を買おうと思ったがやめる』
と返事が来た。
何それ可愛い。もしかしておそろい?おそろいを狙ってくれたの?
僕は凄まじいフリック速度で返信する。
『服を買うなら付き合うよ!暇だし、どこにいるの?』
すぐ返信が来る。どうやら近くのショッピングモールにいるようだった。
『すぐ行く!そこで待っててね!』
返信を待つ前に、僕は最寄り駅を目指して少しだけ、早足になった。
僕が該当の店に着くと、店の前に着崩した学ラン姿の男子高校生数人がたむろっていた。
少し悪そうな風体の彼らに対し僕は嫌だな、絡まれないよなぁ、と思いながら近づくと見知った顔がその中にあった。
「ミツタダ」
男子高校生たちの中にいたヒロミツが僕の名を呼ぶと、彼らが一斉に振り返った。
目つきの悪いチビと金髪のチビとひょろ長いもやし。もしかして彼らはヒロミツの。
「うおおおおおおお!?」
彼らの唐突な叫びに、一瞬僕はフリーズした。
「すっげー!本当にイケメンじゃん!」
「マジで大人だ!かっけー!」
「マジで友達だったんだな!」
好奇心でキラキラした目が6つ分、僕を見ている。ヒロミツ、君は一体僕をどのように説明したんだい。
助けを求めるように彼を見ると、ヒロミツは「うるさくて悪い」と目礼した。
いつの間にか少年たちに囲まれていて、僕は彼らの鳴き声に戸惑っている。
「イケメン!イケメン!」「すっげーすっげー!」
やめろミツタダが困ってる、とヒロミツが言ってくれたお陰で、合唱が唐突にやんだ。
「こいつら、俺の連れ」
ヒロミツが言うと、うーっす、と3人が声を揃えた。
「俺ヒロミツとダチの結城っす」と僕よりもかなり背の高い温和そうな少年が言うと、他の2人も口々に、
「玉名っす」
「源っす!よろしくー」
と言った。黒髪で三白眼が玉名で、長い金髪を括っているのが源か。僕はまだこの展開に戸惑っている。
「ヒロミツ、君が一人だと思ってたから来ちゃったけど……もしかして邪魔しちゃったんじゃないかな僕」
「そんなことはない」
ヒロミツがきっぱりと言うと、他の3人も首がもげる程頷いた。
「俺らこいつから今日話聞いててー!」
「会わせろよって話しててー!」
「そしたらヒロミツがイケメン来るって言うからー!」
僕は元気な猿の群れに放り込まれた気分になった。
ヒロミツに視線を移すと、じっと見詰め返された。
助けてくれ。ややあって、
「お前ら、ミツタダが困ってる」
とヒロミツが言うと、また唐突に少年たちは静かになった。と思いきや。
「ミツタダさんって言うんすねー」
「かっけー武将みてー」
「年下にタメ口きかれてむかつかねっすか?」
自由っていいなあ。僕はひたすらににこにこと、
「武将みたいとはよく言われるよ。タメ口は、ヒロミツだけだからいいんだ」
と言った。
「ヒロミツが、服買いたいって言うから俺らもついてきてたんす」
と結城。
「イケメンと同じ服買いたいって……って!何すんだ!」
お尻に思い切りヒロミツの蹴りを入れられた玉名少年が叫ぶ。
「余計なこと言うな正国」
存外ドスの利いた声で言うヒロミツにも怯まず、だってよー!とぶつくさ言う玉名。
「あのさ、そのイケメンって言うのやめてくれないかな」
僕が言うと、少年たちは、でも本当にイケメンじゃないすかー、と声をあげる。
「ミツタダが嫌がってる」
やめろ、とヒロミツが言うと、彼らはしょーがねーかー、と言うことを聞いたようだった。
「えっと、じゃあ僕が買い物に付き合っても構わないかな?」
そう言うと、少年たちは喜んでー!と声を揃えた。
普段僕が買っているブランドの服は価格帯が高校生には厳しいと思えたので、似たようなラインの安価なものを見繕うことにした。
ヒロミツが僕の着ている服だと思った店の中で、彼に似合いそうな服を探す。
「ヒロミツはちょっと肌の色が僕より黒めだから、暗い色より明るい色の方が似合うよね」
「ああ。普段はパッとした色のを着てる」
僕たちの会話を、興味深そうに3人の少年が眺めている。
「でも、私服はパンキッシュなのにこの系統だと合わなくなっちゃうよ」
「一応一揃い買うつもりだ」
「この店安い方だけど、フルで買うと結構金額行くんじゃないかな」
「6万、あれば足りるか」
足りるかも、と言いかけたところで少年たちが声をあげた。
「6万?!大金じゃねーか!」「どっからそんな金!」「ママはそんな子に育てた覚えはありませんよ!」
お前らうるさい、とヒロミツが言うと、やはり唐突に3人は黙った。
「今日の朝叔父貴に頭下げて、貰ったんだ」
暫く小遣い貰えないから厳しいが仕方ない、とヒロミツは渋面を作る。
叔父さん?両親にでなく?
小さな疑問符が浮かんだが、あまり立ち入るのも嫌がられるだろう。
僕は笑って、
「じゃあ精一杯格好良く決めないとね!」
と言った。ヒロミツは少々真剣な顔で頷く。
「僕とはヒロミツは雰囲気の方向性が違うから、ちょっとポップな感じにしよう」
ヒロミツが頷く。
「気に入らなかったら、言っていいんだからね?」
と問うと、大丈夫だ、と返された。
結局ヒロミツの否定意見が出ることもなく、ほぼ僕の趣味と独断で決めた。
一度全部試着してもらったのだが、ヒロミツは顔だけ試着室のカーテンから出して、
「気に入った、これにする」
と言って全身を見せてくれなかった。
僕を含め、4人でブーイングしたがヒロミツは決して姿を見せてくれず、試着室から出たのは普通の学ラン姿だった。
正直がっかりしたが、恥ずかしいのかもしれないと思いこれ以上言うのはよした。
ヒロミツが会計を終え、手持ち無沙汰になった僕は4人の高校生に、地階のフードコートでお茶していくかと提案した。
案の定育ち盛りの結城、玉名、源は歓声を上げる。だが、ヒロミツだけは一瞬嫌な顔をしたように見えた。
あまりにも一瞬だったので、僕はヒロミツに声を掛けることもせずあまり気にもせずに連れ立って地階へ向かった。
うどん屋、ラーメン屋などファーストフードが並んでいる。それらの座席を共有する形で、客席が所狭しと並んでいる。
夕方のせいか家族連れの姿はなく、僕らのような若いグループが多いようだった。
ハンバーガーショップに並び、トレーを持ってフロアの中央近くの座席に着くと、僕を待っていたのは少年たちからの質問攻めだった。
「ヒロミツとはどこで会ったんすか」「彼女いますか」「お姉さんとか妹さんいますか」
僕が彼らの質問に答える前に、僕の向かいに座ったヒロミツが口を開いていた。
「ミツタダとは渋谷で会った、彼女はいない、女きょうだいについては聞いてない」
お前が答えるなよ、と結城に突っ込まれているが、ヒロミツは我関さず、と言った風だ。
そうなんすか、と源に聞かれ、
「間違ってはいないよ。あと姉妹はいない」
と答えた。結城少年があからさまに落ち込んだ。
ばくばくとポテトを貪る玉名少年は、三白眼気味の目をギョロギョロとさせて、
「大学生なのに高校生と気が合うんすか」
と言った。何だか少し攻撃されている気分になった。
「ヒロミツの精神年齢が高いんだよ」
笑顔を作って答えると、ヒロミツが首を振った。
「違う。ミツタダが俺に合わせてくれてる」
ふえー、と3人が声をあげる。その感嘆はどういう意味なのだろうか。
僕は酷く不安になってきた。
ヒロミツの友人だからとすっかり油断していたが、高校生とは言え彼らは自我のあるれっきとした人間なのだ。
となると、また面倒くさいことになる、繰り返してきたことが起こるのではと胸の奥底がざわざわとする。
あくまで僕は笑顔を崩さず、顔の皮一枚下では警戒アラームが鳴り響いていた。
「いいなあヒロミツ」
羨ましそうに口火を切ったのは、源少年だった。
「俺一人っ子だから羨ましい。兄ちゃん欲しかった」
すると他の少年たちも、
「俺は弟ばっかりいるから弟になってみたかった」「従兄弟はいるけど兄貴って感じじゃねーし」
と口々に言い出した。
僕はどうやら「精神年齢が高校生レベルの駄目な大人」ではなく「高校生の弟分を可愛がるお兄さん」と認識されたらしい。
警戒アラームが消えはしないまでも、少しだけ鳴りを潜めた。
「お前んとこの叔父さん、若いけど兄貴って感じじゃねーもんなー」
結城がヒロミツに言うと、源も頷いて、
「頑固親父みたいで正直こええ時あるよな、いい人だけど」
と言った。
玉名はハンバーガーと格闘している。
ふと結城が僕の顔を見て、ああ、と言う顔をした。
「ヒロミツんち、親父もお袋もいないんすよ。だから叔父さんが親代わりで」
え、と僕はヒロミツを見る。彼は黙々とハンバーガーを食べている。
自分の話だと言うのに、関係無いと言う風情だ。
どこか彼が大人びて見えたのは、そういった境遇もあったのか。
彼に対して、憐憫に似た感情が沸き起こる。その時、彼がハンバーガーから目線を上げ僕の視線とかちあった。
彼はハンバーガーから口を離さないまま、グッと僕を睨みつけ、ゆっくりと目線を外した。
背筋が寒くなる一瞬だった。
僕は何か過ちを犯しただろうか。何故睨まれたのかも分からず、僕は心の中で無様にうろたえた。
さっきの一瞬見せた「嫌な顔」が蘇る。
もしかして、こういった話題になる可能性があったから嫌だったのか。
己の失策に僕はその場で時を戻したいほど後悔した。
こんなことで、ようやく手に入れた友人を失うのか、と頭がぐるぐるし始めたその時。
「俺が、直接ミツタダに話そうと思ってたのに」
不機嫌そうな声で、ヒロミツが言った。
「あ、わりい……」
すまなそうな調子で結城が言うと、別にもういい、とヒロミツは低く呟いた。
彼はそのまま僕を睨み上げるように見詰め、
「可哀相、って思っただろう」
と突き刺すような言葉を吐いた。
「あ、いや」僕は正直にうろたえた。これではその通りだと言っているようなものだ。
「……ごめん」
僕は素直に頭を下げる。ヒロミツの顔は見えないが、視線をつむじに感じた。
「別に謝ってもらわなくていい。ただ、俺はあんたに可哀相と思ってもらいたくない」
それはそうだろう、と僕は恥じ入った。
大人の癖に、17歳の子に弱音を吐いて相談して元気付けられている僕だ。
ヒロミツからすれば、お前にその権利はない、と言いたいところだろう。
僕は、そのまま頭が上げられなくなった。
すると。
「み、ミツタダ?おい、どうした……?」
あからさまに動揺したヒロミツの声が、頭の近くで聞こえた。
「合わせる顔も無いよ」
と僕が言うと、両肩を掴まれ「いいから顔を上げてくれ」と切羽詰った声で言われた。
言葉の通り顔を上げると、いつもの無表情に加えて、どこか泣きそうな表情のヒロミツが近くにいた。
座席から立ち上がり、僕の両肩を掴む手は思いの外力強かった。
「いいんだ、そこまで気にしてない」
「いや、でも僕なんかに哀れまれたとか気分悪かっただろう。本当にごめん」
僕が目を伏せると、両肩を強く掴んでいた手が、怯えるように離された。
「そんなことは思ってない」
ヒロミツの目を見る。彼の表情は、動作とは逆にどこか凛々しい。
「俺はあんたと対等でいたかっただけだ。……可哀相と思われたら、」
対等でいられなくなる、と最後は消えかけるような言葉だ。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
そう言うと彼は席に座りなおし、コーラをストローで啜った。
僕は、一連の衝撃の余波覚めやらず、少し茫然自失とした。
「ミツタダさん、なんかすんません。ヒロミツもごめんな」
結城が心からすまなそうに言った。僕は無言で横に首を振った。
「ヒロミツって何かすげーな!」
素っ頓狂な声を上げたのは源少年だった。
金髪の髪の毛を背中で尻尾のように揺らしながら、はしゃぐ様子に全員目が点になっているのが分かる。
「何か漫画の主人公みてー!あと大人謝らすとかすげ……ぐえっ」
玉名少年の平手が後頭部にヒットして、ようやく源は黙った。
玉名少年は僕をちらりと見ると、軽く頭を下げた。僕も何となく頭を下げる。
ああ皆いい子たちなんだろうな、と感じた。
いい友達に恵まれた当の本人は、既にハンバーガーと格闘していた。
僕も、手を付けていなかったハンバーガーを齧った。
それから他愛も無い、例えば好きな少年漫画の話や可愛いタレントや女優の話を少年たちとハンバーガーを齧りつつ、話し合った。
まるで中学生や高校生に戻ったようで、僕は結構本気で好きなタイプについて語ったものだ。
結城少年が「ミツタダさん、どういう子タイプっすか!」と執拗に聞くので、僕もちょっと浮ついた調子で、
「僕は年上のお姉さんが好きだなぁ。美人のお姉さんに掌の上で転がされるのって夢だよね」
と言った。すると、好奇心旺盛な少年たちには大受けだった。ヒロミツは一人無表情だったけれど。
「俺は巨乳がいいなー」「俺は華奢な方がいい」「俺、美人なら何でもいい!」
好き勝手に言う源、玉名、結城と違いヒロミツは黙っていた。
そこへ結城が「ヒロミツはどうよ、どういうのがタイプ?」と聞いた。
「俺は、」ヒロミツはちょっと口ごもり、僕をちらりと見た。そして言いにくそうに、
「年上、がいい」
少年たちから歓声が上がる。
いつもはぐらかされるから珍しい、と口々に言うだけあってヒロミツがこの話題に言及するのはあまりないようだ。
僕もチャットでは、恋愛について話したことは無かった。だから嬉しくなってつい、
「ヒロミツも年上好きなんだ!気が合うなー」
と笑った。
ヒロミツは何か苦いものでも食べたような顔をして頷いた。ああ恥ずかしいのだろう、とその時は思った。
「同じ人を好きにならないように気をつけないとな。ライバルになったら洒落にならないよね」
僕の言葉に少年たちはまたも大受けした。ヒロミツはやや俯いて、コーラを啜っている。
やはり恋愛については話すのが恥ずかしいらしい。またも僕は、可愛いな、と思った。
僕の目線に気が付いた彼は、目を大きく見開いてから睨むような目付きになると、またコーラに目線を落とした。
また睨まれた、と一瞬ヒヤッとしたが、もしかしてこれは彼なりの照れ隠しなのではないか。
そう思い込むことで、僕の精神は再び恐慌状態になるのを防いだ。
違うかもしれない、と言うことはあえて考えないようにする。少なくとも彼は僕を拒否してはいないのだから。
つくづく僕は臆病だと思う。こんな内面が知られたら、無様だし格好悪いことこの上ない。
ヒロミツも僕の周囲の他人すらも一緒くたにして、僕は本当の自分を見られたくないと思う。
散々チャットで弱音を吐いてみっともない姿を見せていると言うのに、僕はそれでもまだ格好悪く思われることを受け入れられない。
少なくとも、現在ヒロミツと会っている僕自身が。
少年たちの内容は薄くても、人生が楽しくて堪らないということがあけすけに見える会話に相槌を打ちながら、僕は時々ヒロミツの動向を気にしていた。
彼は言葉少なであるが、時々ズバッと鋭いことを言ったり突込みを入れている。
そういった態度が、少年たちに一目置かせているのかもしれない、と僕は勝手に判じた。
そうするうちに、会話の内容が進学についてに移った。
「俺は就職する」
と真剣な顔で言ったのは玉名だった。
「俺の家は弟が多いし、俺は頭もよくないから働いて家に金を入れねぇと」
ほへー、と声に出して源と結城は口を開けていた。ヒロミツは真剣に話を聞いているようだった。
そんな玉名の決意に源は、
「じっちゃんが大学だけは行っとけって言うから行くつもりだけど……やりたいことねーんだよなー……」
と言い、結城もそれに頷いた。
「ミツタダさんは?」
急に話を振られて、僕は、えっ、と間抜けな声を上げてしまった。
「大学ってどうすか?勉強とか」
結城に問われて、僕は真面目な気持ちになった。ヒロミツの視線も感じる。
「僕は大学で古美術とか文化遺産を研究しているよ」
こびじゅつ?とあからさまに平仮名での反応に、浮世絵とかそういうの、と言うと納得したようだ。
「平安時代から残っている美術品や、無くなってしまったけれど記録の残っているものとか……そういうのが生まれた背景や由来なんかを調査するんだよね」
結城と源の顔は、腕を上下にした埴輪のような表情になっている。意外にも玉名とヒロミツは真面目な顔で聞いているようだった。
「大学院に進もうと思うから、まだ就職活動はしてないけどいずれそういう仕事を目指すつもりだよ」
と言うと、途端に玉名とヒロミツの両目がキラキラと輝いた。結城と源は埴輪のままだ。
「俺、そういうのちょっと気になる」
三白眼気味の目をギョロギョロとさせて玉名が言う。
「昔、ひいじいちゃんがそう言うのが好きで沢山持ってたらしいし」
へぇ、と僕が興味を示すと玉名はちょっと恥ずかしそうにした。
「でも、今は家にねーんだ。売ったのもあるし……戦争終わった時にGHQに取られたとか取られる前に川に捨てたとか言ってた」
もったいねー、と結城が嘆く。
僕ももったいないと思ったが、是非当時のお話を伺ってみたい、と言うと、
「ひいじいちゃんはもう死んでっから……じいちゃん何か知ってるかなぁ」
と玉名は腕組みをした。
もし何かご存知なら是非お話を伺いたい、と言うと、玉名ははにかんで、いいけどじいちゃんちきたねぇよ、と言った。
そんなことは構わない。むしろ時代の生き証人ならば、調査のためにも是非話を聞いてみたい。
僕が少し興奮しているのが伝わったのか、玉名は少し嬉しそうに俯いた。
俺も興味ある、と言ったのはヒロミツだった。
「叔父貴がそういう仕事をしてるから。俺は、その仕事は目指さないつもりだけど」
へー、と声を上げる少年たちに混じって、僕も思わず声を上げる。
「叔父さんはどういった仕事をしているんだい?」
「よく知らない。叔父貴は仕事の話はあまりしないから」
「興味深いなぁ。僕が就職する時に、お話を伺おうかな」
「役に立つか、分からないけど」
「何でも聞いてみるのが調査の基本だよ」
ヒロミツが目を輝かせて僕を見上げた。適当に言っただけなのが、少し心苦しい。
彼は目を輝かせたまま、「じゃあミツタダの好きなものを知りたい」と言った。
「え?でも僕、昨日話したくらいの趣味しか」
「違う」
違う、と呟いて彼は押し黙ってしまった。
弱った。こう言う時に僕はどうすればいいのか分からない。
助けを求めるように結城を見ると、彼は何か苦いものを噛んだ様な顔をしていた。
源が「ミツタダさん、気にしなくていいっすよ」と笑う。
どういうことだ、と問えば、いつものことなのだと言う。
「何か言いたいことがあるんだけど、言葉にすんのが苦手みたいで」
「ミツタダさんのことがもっと知りたいって言ってるんすよこいつは」
源の後を継いで玉名も言う。
あー、まあそういうことかなー、少し歯切れが悪く結城も続けた。
「へぇ……それは嬉しいなあ」
気恥ずかしい気持ちもあるが、素直に嬉しかった。
だが、レーザービームのように真っ直ぐに言葉を吐くヒロミツにしては遠まわしな言い方だと、気になった。
当の本人は、俯いて既に溶けた氷水になったコーラをストローの音を立てて啜っている。
照れているのだろう、可愛いなあ、と思わず柔らかい気持ちになった。
ふと時計を見ると、19時近い時間になっていて驚いた。
それを言うと、源が「じっちゃんに叱られる!」と慌てた。
他の子たちは特に問題はないようだが、大袈裟に源が震えるので解散することになった。
最寄り駅まで一緒に行き、僕とヒロミツは途中まで同じ方向、3人は反対側だった。
別れる寸前、結城がそっと僕に近づき、
「ヒロミツのこと、よろしくお願いします」
と真面目な調子で言った。僕は深く考えずに、笑顔で頷いた。
するとまた苦いものを噛んだような表情で笑って、残りの2人と連れ立って行った。
上階にあるホームの階段を上ると、通勤ラッシュ時間にぶつかったのか多くの会社帰りと見られる人たちがいた。
ヒロミツの持つショッピングバッグがやけに大きくて、人とすれ違う度にぶつかりそうではらはらする。
「僕が持とうか」
と手を出したが、首を横に振られた。
自分で持つ、とばかりに肩に掛けた紐を両手に握ってバッグを前に抱えるようにしている。
適当な乗車位置で2人で立つと、彼はショッピングバッグを抱えたままで学生鞄だけを下に置いた。
抱きかかえるようにして大事そうに持つのが可笑しい。
僕の表情が分かったのか、彼はハッとした顔をした後に拗ねるような顔をした。
僕らが乗った電車はほぼ満員の状態で、車両の中ほどで自然と身体が近くなる。
向かい合うと、僕の鼻先にヒロミツの髪の毛が触る。若い、汗の匂いがした。
僕と彼は密やかな声で最近読んだ本の話をした。内緒話にちょうどいい距離と高さで、僕はそれも楽しかった。
気付けばヒロミツの降りる駅が近付いた。
「次に会う前に、しっかり遊んじゃったね」
と言うと、彼は、
「今度はもっと色々話す」
と言った。
扉が開いて、押し流されるようにヒロミツが下りる。
ホームでちょっとだけ振り向いて、大事に抱えていたショッピングバッグを少し持ち上げ、
「今度はこれを着て会いに行く」
と言った。
僕が何か言おうとする前に、扉が閉まる。
動き出す電車の窓から、彼が僕を見詰めている。
僕も呆然としながら、彼を見ている。
加速した電車が駅を離れてようやく、僕は深く息をついた。
混んだ車内で、僕は無意識に口を押さえる。
掌に伝わる熱が、これは普通ではないと言っている。
きっと僕の顔は今までしたことの無いような顔をしているだろう。
ひたすらに俯いて、僕はこの時間をやり過ごしたのだった。