ある雨の日 窓の外は、しとしとと雨が降り続けている。
どれくらい経ったのだろうか。朝からずっと馬車に揺られている。
俺は、どこぞの金持ちに引き取られることになったのだ。
馬車に乗るのははじめてだし、床に足がつかないから、姿勢が不安定だ。それに、従者だという目の前の男が用意してきた服は、子どもの自分でも一目でわかるほど高価なものだったが、かっちりとしていて着心地が悪い。 締め付けられるのが嫌で、襟元のボタンは留めなかったが、何も言われなかったので、そのままにしておいた。
「玲央さま、長旅お疲れ様でございます。屋敷が近付いて参りましたので、もう少々ご辛抱くださいませ」
男は、丁寧な物腰でそう告げた。
俺は、親を知らない。
街の古びた孤児院で育った。赤ん坊の時に、孤児院の前に捨てられていたのだという。親は、孤児院の前に子どもを捨てる時でも、手紙や小物などが添えられていることは珍しくない。子どもは親に二度と会うことはないと分かっていても、そのか細いつながりを心の拠り所にしている。だけれど、俺には何もなかった。名前すらなく、「玲央」という名前は、職員の誰かが付けたものだった。
親の気持ちも分からなくはない。俺は醜いからだ。たった十年しか生きていなくたって、充分過ぎるほど分かっていた。肌は浅黒く、髪の色は薄く、歯は鮫のよう。目が合うとギョッとした顔で目を背けられるか、喧嘩を売られるか。だから、目が合うたびに微笑みを浮かべる従者の態度には、居心地の悪さを感じていた。たとえ、表面的なものであったとしても。金持ちの家っていうのは、ふるまいまで徹底してるのか。
お偉いさんの考えることっていうのは分からないもので、社会奉仕の一環だか、そこの家の子どもの教育のためだかやらで、俺は阿久津家に引き取られることになったのだ。同い年の男の子がいるという。金持ちのおぼっちゃまだ。どうせ、いけすかない奴だろう。
門を通り過ぎたので、上着を乱暴に羽織る。
屋敷は街の大店とは比べものにならないほど豪華なつくりで、庭も俺が住んでいた街が丸ごと入ってしまうのではないかというくらい、広大だ。手入れの行き届いた庭は、よそ者を寄せ付けない高貴さがあった。
馬車が止まる。屋敷の正面に着いたのだ。
従者に傘をさしてもらって、湿った土の上を歩く。
屋敷の扉が開くと、細長い赤いカーペットが奥まで続いていた。その両脇に並んだ、何十人もの使用人たちに、気圧される。手前にいた数人が、髪や衣服を拭いたり、靴の泥を落としたりしてくれる。ポーターが、俺が荷物をなにも持っていないことに気付くと、戸惑っていた。
「ようこそ、玲央君」
「今日から、ここがあなたのおうちよ」
屋敷の入り口で、当主一家が出迎えてくれた。
長身で「紳士」を絵に描いたようなたたずまいの男性と、同じく「淑女」といった感じの品のある女性が、穏やかな笑みをたたえていた。ふたりの背後に隠れるように、眼鏡をかけた男の子が立っていた。
「ほら、真武。きちんとご挨拶なさい」
父親に背中を押されてもじもじと出て来た男の子は、俺より少し背が高かった。眼鏡の奥の純粋そうな瞳は、いかにも世間知らずといった印象を与え、 同い年には見えなかった。まあ、俺がスレてるだけか。
「あ、あの……ぼく、阿久津真武です」
「新星玲央」
これが、俺たちの出会いだった。
さっきから、視線を感じる。
正面の奴が、チラチラと見てくるからだ。そのくせ、見返すと目を逸らされる。
物珍し気に見られるのは慣れているが、こう何度もされるのは気分が悪い。
「チッ。お前さー」
予想以上に驚かれて、思わず戸惑う。おぼっちゃまに舌打ちはマズかったか。
「ご、ごめん、玲央君」
「玲央でいいよ。俺も真武って呼ぶからさ」
真武がぱっと目を輝かせる。
「本当? ぼくたちお友達になれるかな?」
「さあな」
そう言い捨てると、奴はしゅんとした。
「わかったわかった」
真武が、無言で手を差し伸べてくる。
「これでいいだろ」
俺がその手を握り返すと、今度は顔全体を輝かせた。
こいつ、苦手だ。
俺が阿久津家に引き取られてから、ひと月が経とうとしていた。
名家の堅苦しいしきたりに縛られる生活も、使用人たちの表面上は丁寧だがどこかよそよそしい態度も、大して気にはならなかった。ここにいれば、飢えることはない。衣服は少しでも汚れれば、綺麗なものに取り替えてもらえる。なにより、いさかいに巻き込まれることがない。
そんな日々をずっと待ち望んでいたはずなのに、いざ叶うとどこか虚しかった。命の危険がなくなった今、俺にはやりたいことなんてなかったのだ。
何もかもが、どうでも良かった。
ただ一つを除いて。
「玲央、待って。俺も行く!」
この屋敷に来てからというもの、俺はひとりの時間がなくなった。起きている間中、真武が着いてくるからだ。この間なんか、夢の中まで追いかけられて、すっかり目が覚めてしまった。
しかも、俺のマネまでするようになった。例えば、自分のことを「俺」と言うようになった。真武の両親は、息子には甘いらしく、言動を咎めるどころか、むしろ微笑ましく思っているようだった。真武が日常的に接するのは、両親か使用人たちか家庭教師だけだ。だから、同年代の子どもといられるのは嬉しいのだろう。その気持ちは分かるのだが……。
「玲央、ここ、埃っぽいよ?」
うまくまいたと思っていたのに。物置き代わりの空き部屋の壁に寄りかかって、まどろんでいた俺は、ため息をついた。
「お前さー、俺は静かに過ごしたいんだよ」
「分かった! じゃあ、俺、本読んで静かにしてるね!」
真武は、屈託のない笑顔を浮かべながら、小脇に抱えた本を指し示す。
「いや、そうじゃなくて……」
再びため息をつく俺。
「本読むなら、一緒にいなくてもいいだろ」
「どうして?」
真武は、心底不思議そうだった。
「どうして?って……。喋りもしないのに、一緒にいたってしかたがないだろ」
「ただ、そばにいるだけじゃいけないの?」
曇りのない瞳で見つめられる。
「ああ、もうっ」
ばつが悪くなった俺は、衣服についたホコリを乱雑にはたき落とすと、部屋を飛び出した。
真武を置いて部屋を飛び出した俺は、そのままの勢いで屋敷の外へ出た。
もう、たくさんだ。
俺には、誰かと暮らすなんて、無理だったんだ。
引き取られた孤児の中には、虐待されたり、売られたりするものもいる。そいつらに比べたら、俺の悩みなんてちっぽけだ。ただただ、自分自身にいらついていた。
街に戻るか。あそこなら孤児院に戻れなくても、なんとか生きていけるだろう。
道は覚えていた。山ひとつ越えたところだ。
山に入って間もなく、ポツポツと雨が降ってきた。
運良く山小屋を見つけた。しばらく使われていないようで、隙間から雨風が入ってきたが、贅沢は言えない。
俺は床に落ちていた、ボロ布にくるまった。
「こっち来んなよ」
「お前の顔見てると、吐き気がする」
「なんなの? その顔」
そんな言葉や態度に、俺は慣れっこだった。
何もしていないのに、言いがかりをつけられる。話したこともない奴をいじめたと、罪をなすりつけられる。昨日まで普通に話していた奴に、無視される。
路地裏で取り囲まれて、タコ殴り。そんなの、日常茶飯事だった。抵抗すれば長引くのが分かっていたし、そんな気力もなかった。
雨が降ってきた。奴らは、何か喚きながら走り去っていく。
体が痛んで身動きの取れない俺は、服と言えるのかすら怪しいボロ布に顔をうずめる。
「玲央」
誰かの呼ぶ声がする。
顔を上げると、黒いコートを着た真武が目の前に立っていた。その瞳は、しっかりと俺を見据えている。
彼は俺に手を差し出す。
「夢か……」
思わず呟く。
嫌なことを思い出してしまった。だから、雨の日は嫌いだ。
それにしても、なぜ真武が出てきたのだろう。最近ずっと、一緒にいるからだろうか。
身震いする。体が冷え切っている。このまま死ぬのだろうか。
「ま、どうでもいっか……」
目を閉じた。
「玲央!」
俺を呼ぶ声に目を開けると、視界いっぱいに、真武の顔があった。涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
「真武?」
真武は、夢と同じ黒いコートを着ていた。ただし、表情は似ても似つかないが。何かしきりに話しているが、嗚咽が混じって、よく聞き取れない。
「れ、玲央、いた。よかった」
「……なんで?」
「俺がしつこくしたから、玲央の気持ち考えなかったから……」
しゃくりあげながら、真武が言う。
「なんで俺を探しに……?」
「だって、友達だから。家族だから。玲央が大事だから」
真武が手を差し伸べてくれる。
俺は、その手を取った。
「いたぞ!」
大人たちが小屋に入ってくる。
「毛布を!」
「あたたかいものを飲ませてあげなさい」
目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。あれから、眠ってしまったようだ。
屋敷に戻ったらこっぴどく叱られると覚悟していたが、俺を責めるものはいなかった。
雨の中森に入ったことは注意されたが、とにかく無事だったのだからそれでいい、体を冷やしたようだからゆっくり休みなさい、という養父母の言葉に、俺は驚いた。
養父母が部屋から出ていくと、真武が遠慮がちに入ってきた。
「玲央、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ?」
「玲央にしつこくしたから」
語尾は消え入りそうなほど、小さかった。
「真武、そばにいろ。俺たちは、いつも一緒だ」
真武の顔が輝いた。
<後日談>
「あー、めんどくせぇ!」
家庭教師が使用人に呼ばれて部屋を出た瞬間に、俺はペンを放り出した。
正面に座っている真武と一緒に、自分の名前を漢字で書く練習をしている。
「真武、ふけようぜ!」
「玲央、名は体を表すと言って、名前は大事なものなんだぞ」
「でも、俺の名前なんて……」
真武は、俺の目をしっかりと見ながら言った。
「『玲央』って名前は、ちゃんと想いを込めて付けられたものだと思うぞ。それに、たとえその時、意味がなかったとしても、『玲央』って名前は、もうお前自身のものであるし、俺にとっても大切なものだ」
「真武……!」
真武の話に心を打たれた俺は、彼のノートを覗き込んで、絶句した。
「……お前」