だいじょうぶです いまヌンの甲羅をなでているこの手はロナルドくんの手です。形と大きさはたしかにそうです。でも、なでているのはドラルクさまです。指の動きも力の入れ具合も、一八〇年以上ヌンをなでてきたドラルクさまのものです。
最初にドラルクさまがロナルドくんの腕でヌンを抱き上げたとき、教えてもらわなくてもすぐにヌンはそうだとわかりました。会いに来てくれたのだとわかりました。どうしてかなんてとても簡単です。見上げた先にあったのはロナルドくんの青い瞳でしたが、秋の最後にひとつだけ枝に残ったリンゴみたいに深い深い赤の気配を、ヌンは目が合った瞬間にしっかりと受け取ったからです。それに、ヌンへ向けられるドラルクさまの眼差しのあたたかさは、世界にただひとつの特別なものです。だからヌンは間違えません。ヌンは自分をなでてくれる相手がだれなのか、いつだって説明されなくてもちゃんとわかって迎えているのです。だいじょうぶなのです。
今年はたぶん一緒にアップルパイをつくれない。すまないね。
やさしい声でドラルクさまはヌンに話しかけます。ヌンはふるふると首を横にふります。ヌンの故郷ではなればなれになって再会して以来、ドラルクさまは毎年必ずヌンひと玉のためにアップルパイをつくります。リンゴをキッチンへ運ぶところから始めて、ひとりとひと玉で協力してつくるのです。遠いあの日、張り切ってリンゴを取りに行ったヌンを、ドラルクさまは黙って置き去りにしてひと玉にしてしまいました。そのことを忘れないために、二度と過ちを繰り返さないために、それから永遠につづく唯一の絆をたしかめ直すために、ヌンとドラルクさまはとっておきのリンゴを選んで世界一おいしいアップルパイをつくるのです。
だいじょうぶです。ドラルクさま、あやまらないで。
ヌンはかしこいマジロなので、使い魔としてきちんとご主人にただしい返事をすることができます。ヌンたちはお互いに大切なことをなにひとつ忘れていませんから、いまはアップルパイがつくれなくてもだいじょうぶなのです。さみしそうな目をするドラルクさまに、ヌンは力強く保証してあげます。
だいじょうぶですよ。安心してください。ヌンは変わりませんし、ドラルクさまもドラルクさまのままです。外から見てどんなふうに見えたとしても、内側はおなじままです。心配しなくてもいいのです。
ドラルクさまがヌンのもとを訪れるためには、ロナルドくんの眠りをちょっとだけ盗む必要があります。ヌンを抱っこしてなでてくれるためです。ヌンの顎をくすぐって、頬をつついて、耳をつまんで、鼻先にキスをしてくれるためです。ヌンはいつまでもドラルクさまとくっついていたいのですが、たくさんはいけないそうです。ロナルドくんの体の負担になるので、ほんの少しだけにしておかなくてはいけないそうです。ヌンは幾度か時計ではかってみましたが、平均するとだいたい五分くらいでしょうか。本当に、あっというまに過ぎてしまう貴重なひとときです。
そんな短い滞在時間のほとんどを、ドラルクさまはヌンとふれあうためだけに使ってしまいます。ほかに用があるならヌンは我慢しますよと一度伝えてみましたが、この世に君とすごす以上に大事なことなんてありはしないさ、とドラルクさまは答えました。ヌンはうれしくてうれしくて……ちょっぴり泣いてしまいました。
時間が来て、ヌンと別れて去っていく前に、ドラルクさまはいつもロナルドくんが持っている手帳にさらさらとなにか書き残していきます。ヌンも見かけるので知っていますが、ロナルドくんは、毎日色々な情報をふところに入れた手帳にメモしているのです。おもに吸血鬼について、街の様子について、仲間の働きについて、だそうです。記録に残して忘れないようにするためだそうです。ドラルクさまが自由にドラルクさまでいられた頃、いつかそれをもとに本を書けばいいとよく言っていました。ロナルドくんは、そう言われるたびに不機嫌な顔をして、うるせーよと言い返していました。その手帳のページの合間に、ドラルクさまは素早くペンを走らせるのです。
ドラルクさまはべつに隠していませんから、ヌンはそうしようと思えば手帳に書かれた文章を読むことができます。でも、しません。そのくらいの特別はロナルドくんにあげてもいいかなとヌンは考えているからです。
ロナルドくんはヌンとドラルクさまが会っているとき意識がありません。眠っているから当たり前です。つまり、なでてもらったりお話したりできないのです。だから、文字くらいはあげてもいいんじゃないかとヌンは考えているのです。
ヌンはたった一度だけ、ドラルクさまがロナルドくんをなでているのを見たことがあります。もうだいぶ前の話になりますが、たっぷりと寝坊していたヌンの意識に、なんだか穏やかではない物音が入ってきた日がありました。ヌンはそっと目を開いて辺りをうかがいました。すると、部屋の隅で床に腰を下ろしたドラルクさまが、黒い布でおおわれたなにかに両腕を巻きつけていました。寝ぼけまなこをこするうちにヌンはそのなにかがロナルドくんで、黒い布はドラルクさまのマントだと気づきました。ドラルクさまはつねに身に着けているたっぷりとした上等なマントをロナルドくんの頭から背中まですっぽりとかぶせて、左右の手のひらで布越しにゆっくりと体をさすっているのでした。
こうすればだれにも見えない。私にも見えない。
ドラルクさまはロナルドくんへそう囁いていました。くそ、とか、ちくしょう、とか、そんな小さいけれど乱暴で苦しそうな音が空気をふるわせて、ヌンは胸がちくちくするのを感じました。。
これは私の母の言葉だがね。本当に世界のために必要なのは、一人の英雄ではなく大多数の良識なのだそうだよ。それが真理と言っていいらしい。しかし、俗世というのはやっかいなもので、その大多数を良識に目覚めさせるためには一人の英雄が必要なのではないかという問いも成り立ってしまうわけだ。こまったものだね。
しんしんと部屋の空気に沁みていくような静かな声で、ドラルクさまはそう語って、片方の手のひらをマントに包まれたロナルドくんの頭のいちばん高いところへふわりとのせました。
いずれにせよ、白夜都市の英雄が泣いてはいけないという法はない。なにもかもこらえてばかりいると、そのうちポキンと折れてしまうぞ。
ドラルクさまの手のひらは、着地した場所の輪郭をやわらかくなぞるように、ゆるりゆるりと行ったり来たりしていました。
ヌンは見えている光景に対して、鼻をすんすんと鳴らしました。ドラルクさまの手がヌン以外をなでるのは、ふつうだったら承知したくないことのはずでした。でも、そのとき、ヌンはドラルクさまにロナルドくんをもっとなでてあげてほしいと思いました。不思議なことに、なんのこだわりもなく自然にそう思いました。
だって、ロナルドくんは毎日すごくがんばっていましたから。怪我もいっぱいしていましたから。目に塩をすりこまれるような景色をいくつもいくつも見ていましたから。
ヌンは、ドラルクさまになでてもらって、ロナルドくんにだいじょうぶになってほしかったのです。あの手にはそういう力があるとヌンは知っていましたから。
甲羅をなでていた手のひらが頭の上に移動していきます。ていねいに、とてもていねいに、ドラルクさまがロナルドくんの指先を借りてヌンの頭のてっぺんをなでています。抱っこされているヌンのお腹は、ちょうどいい力加減でロナルドくんの胸の真ん中に押しつけられています。お腹に感じるふかふかした分厚い胸の奥には、ドラルクさまの心臓があります。それはドラルクさまの血を介してヌンの命とつながっている心臓です。大量の血を流して命をうしないかけたロナルドくんを生かしている心臓です。
運命共同体。
ロナルドくんはたいへんに悲しい顔をして、よみがえった唇でヌンにそう言いました。ドラルクさまがロナルドくんに心臓を預けた日のことです。ロナルドくんには言いませんでしたが、運命共同体というのはあんまりいい響きの言葉じゃないなとヌンは感じました。
ヌンは思い出しました。ドラルクさまは、ヌンとロナルドくんと自分の三つの命を併せて「にっぴき」と呼んでいました。
一人と一人と一匹を足してにっぴき。
そういうひとつの形を、ドラルクさまはとても簡単な名前をこしらえて言いあらわしていたのです。ドラルクさまが発音するその名前の音を、ヌンはかなり気に入っていました。ヌンは運命共同体よりにっぴきのほうがいいです。そっちのほうがずっとずっとヌンたちらしく感じます。楽しくこころよく感じます。ようするに「運命共同体」と言われると……なんだかヌンはだいじょうぶじゃない気がしてしまうのです。
外から見たら一人と一匹になってしまったいまも、ヌンたちはにっぴきのままです。ロナルドくんもそれはちゃんとわかっているとヌンは信じています。だいじょうぶです。ドラルクさまはどこへも行かずここにいるということをヌンはわかっています。いつもヌンたちを見ていて、ヌンたちの話をずっと聞いているということをヌンたちはわかっています。
だいじょうぶです。
ヌンはにっぴきでいるのが好きでした。二人にかわいがられるのが好きでした。ヌンはドラルクさまが大好きで、いつだってドラルクさまの一番でなくてはいやですが、ロナルドくんのこともかわいいと思っています。大切に思っています。ヌンには及ばないけれど、きっとロナルドくんもドラルクさまのことが好きです。ロナルドくんは、好きの代わりにバカという言葉を使う人間なので、一度もちゃんとした「好き」を聞いたことはないのですが、それはきっと悩み多き若造だから仕方がないのです。素直になれない青二才だから仕方がないのです。ドラルクさまがそう言っていました。バカだねえ、と大きな口をあけて笑っていました。
けれど、ドラルクさまもひとのことは言えないのです。ヌンはおぼえています。ドラルクさまも、ロナルドくんには、いつも好きの代わりにバカと言っていましたから。ヌンにはどんなときも大好きと言ってくれるのに、ロナルドくんには一回も言わなかったのです。
つまり、そういう伝え方もあるということです。人間や吸血鬼は、アルマジロより心のやり取りが色々とむずかしいのかもしれません。どうしてむずかしくなるのかがヌンにはわかりませんが、本当にこまったものです。そのこまり具合は、もしかしたら二人ともいい勝負だったのかもしれません。
またね。
ドラルクさまがヌンに言います。ヌンはドラルクさまの目を真っすぐに見つめて、しっかりとうなずきます。ドラルクさまは、いつか必ずもどってくるとヌンに約束しています。心臓は預けただけで、あげたわけではないとドラルクさまはヌンに説明しました。だいじょうぶになったらもどってくるのです。ロナルドくんとドラルクさまのそれぞれの形がまるっとだいじょうぶになったら、そのときにです。ドラルクさまは、絶対にヌンをだましたりしませんから、そのときは来ます。ヌンは待ちます。ドラルクさまが世界一かしこくてかわいいと言ってくれるアルマジロのヌンだから、待つことができます。
ロナルドくんはたまに少し泣きます。ヌンも一緒に少しだけ泣いてしまうことがあります。メビヤツも、たぶん、少し泣いています。泣くという機能はないそうですが、ロナルドくんが少し泣いているときはメビヤツも少し泣いているようにヌンは感じます。
みんな、たくさんは泣きません。少しだけです。ドラルクさまが見逃せるていどにしておこうと努力しているのです。居眠りみたいなものです。こっそりとちょっぴり寝て、見つかってしまう前にぱっと起きるのです。ドラルクさまがロナルドくんの眠りをほんのわずかに盗むのと似たようなものです。
だいじょうぶです。
ヌンは、ヌンたちは、だいじょうぶです。そして、世界がだいじょうぶになれば、ドラルクさまもかんぺきにだいじょうぶになります。
ロナルドくんが眠っています。おだやかな息をしています。外ではメビヤツが見張りをしています。心臓がときを刻む音がします。ヌンも寝床に入ります。きっと今日のヌンはリンゴをたくさん背負ってドラルクさまに届ける夢をみることでしょう。
だから……だいじょうぶです。ヌンにはわかっています。
どうか、ドラルクさまも、だいじょうぶでありますように。