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    プリズム 



     私のポピー、私のプリズム。




     ひび割れた道路の上に、見慣れた帽子がぽつんと落ちている。まるでキャプリーヌのように幅広いブリムが優雅なカーブを描く赤い帽子。ゆるんだ縫い目や頻繁に作られるかぎ裂きを補修したり、跳ね返った泥や降り積もった埃を落としたり、さらには血の染みを抜くためにあれこれ手を尽くしたり──そうやって数え切れないほどの手当をほどこしてきた馴染みの帽子。
     その帽子が落ちている地点から少し離れた場所に、赤い衣装を纏った男の体が仰向けに倒れている。私は口のなかで彼の名前を呼んでみる。呪文のように、もしくは祈りの文句のように。できれば何かの間違いであってほしいと願いながら。
     ロナルドくん……ロナルドくん、ロナルドくん。
     私の小さな使い魔が弾かれたように駆け出すのが見える。華奢な子どもの背中がそのあとに続くのが見える。私は拾い上げた帽子を手にして、どこか現実感が希薄な心持ちで、ふらふらとそこへ向かって歩いて行く。
     崩れるように座り込んだ地面が濡れている。彼の顔にふれた私の指先が赤い液体で汚れる。言葉にならない惨状。絶望的な眺め。
     でも、まだ生きている。


     吸血鬼である私と手を組むと決めたとき、君は「俺がお前を殺すまでの間だ」と言い放った。それから一分と経たずに私は死んだ。段差で躓き、君の背にぶつかり、突然の物音にびっくりし、漂ってきた悪臭にショックを受け、景気よく幾度も死んでよみがえった。手軽に死と再生を行き来する私を前に、君は驚いてくるくると表情を変えた。静止していると冷たく見える美貌が、万華鏡が傾くように様相を転じて、親しみやすく滑稽な印象を私の胸に刻み込んだ。えーと、私が死ぬまでのあいだって言ったっけ? 決め台詞を台無しにしてすまないね。そう言って私が笑うと、本当にふざけんなよ、と吐き捨てるように君は答えて、特徴的な赤い衣装の肩を怒らせた。
     あのときから、君とのあいだには暗黙の了解ができあがったと私は信じている。君が私を本当の意味で殺すまで、私たちはずっと一緒だ。


            ☆


     私に太陽の光をはじめて見せてくれたのは竜の大公──つまり私の祖父だった。
    「太陽の透明な光が七色に変わるところを見せてあげるよ」
     ある日お祖父様は幼い私にそんな言葉で昼更かしの誘いをかけた。ドラルクはきっと気に入る。だって、すごくきれいなものだから。
    「七色の光ですか?」
    「うん。つまり虹だね」
     にじ、と私は復唱して、本で読んだ印象的な場面を脳裏に思い描いた。大洪水が終わったあとにノアの箱舟から人間と動物たちが眺めた約束の虹。空にかかる七色の橋。
     お祖父様は気まぐれに私の手を取って、まるでキャンディーを与えるように思いもよらない景色を見せてくれることがあって、私はそのたびに言いようのない胸の高鳴りを覚えた。お祖父様はいつも私を対等に扱った。私の弱さにちっとも頓着しなかった。常日頃から型破りな見解を口にしてスケールの大き過ぎる行動をする竜の一族の当主は、幼い頃の私にとっては少し怖くてとても愉快な最高の遊び相手だった。
     真っ昼間に、私はお祖父様と城にある小部屋のひとつで待ち合わせをした。部屋に入ると、窓板に開けられた小さな穴から暗い室内へ、ぴんと張ったリボンのように一筋の光が差し込んでいるのが目に入った。お祖父様が念動力でガラスの三角プリズムを光の筋の前に浮かべると、白く見えていた光がいくつもの色に分かれて向かい側の壁に虹の模様を映し出した。私は思わず歓声を上げて駆け寄り、その光の源を忘れて壁に手を伸ばしてしまった。
    「あ!」
     指先に熱さと痛みを感じた瞬間、もうすでに私は死んで塵になっていた。あらゆる吸血鬼の弱点で簡単に死んでしまう私が太陽の光にふれれば当然そうなる。たとえばお父様などはその都度悲鳴を上げるけれど、私にとっては自然なことだった。お祖父様は尻もちをついた格好でよみがえった私の隣に膝をつくと、優しい目をしてうなずきかけながら助け起こしてくれた。
    「わかる。きれいなものには、手を伸ばしたくなるよね」
     危ないってわかってても。そう続けて、お祖父様は大きな手で私の頭をそうっと撫でた。
    「この光を七色だって定義したのはニュートンっていう人間の子。二千年も変わらなかった光の解釈をくつがえして、新しい理論を証明したの」
    「二千年ですか……」
     吸血鬼でも驚くような長い時間の響きに私は目を丸くした。
    「うん。人間たちはね、太陽の透明な光は純粋なもので、そこに不純な闇が混じることによって色が生じると考えていた。でも本当は違った。こんなふうに七色の──さまざまな光が全部混じり合うことで、透明な光はできあがる」
    「混ざるほどに透明になるのですね」
    「そう」
    「ニュートンさんは今どちらにいらっしゃるんですか?」
     壮大な発見をしたという人間に私はちょっと会ってみたくなった。お祖父様は、うーん、と小首をかしげて少々困ったような素振りをした。
    「百年前の話だからね。昼の子は流星みたいに早く年を取ってしまうから、もういない」
    「いない?」
    「死んでしまってこの世にいないっていうこと。彫刻ならある。プリズムを手に持って、ケンブリッジ大学の礼拝堂に立っている」
    「はあ」
     物言わぬ彫刻なんぞを見にわざわざイギリスまで行きたくはない。あの国は特に吸血鬼に厳しいと教えられている。
    「ドラルクはどの色が好き?」
     お祖父様はその場へ唐突にすとんとしゃがみ込んで、私の目と目線を合わせてそう聞いた。私は壁を伝って細く伸びている七色の光をじっと見つめた。
    「赤と……紫です」
     物心ついてからずっと、私の好きな色は赤と黒で、次に紫だ。
    「スペクトルの両端だね。いい選択だ」
    「スペクトル?」
    「この一個ずつの光の筋をそう呼ぶ」
     お祖父様は長い指で光の線を指し示しながら、赤の外と紫の外にも光があるって昼の子が最近証明した、と付け加えた。
    「人間っておもしろそうですね」
     私が思ったまま素直にそう返事をすると、祖父は我が意を得たりというように目をきらめかせた。
    「そう。人間の目を通して見る世界はとっても愉快」
     ふふ、と小さな笑い声が響いて、同時に真紅の両目がやわらかく細められるのを眺めながら、そのとき私は感じていた。お祖父様は本当に人間が好きなのだと。遠いむかしから、きっとずっと大好きなのだと。


     私は思う。たぶん、竜の大公がかつて人間を心から愛していなければ、世界はこんなふうにはならなかっただろう。この都市が戦禍の地になることも、人間たちが種の存亡を賭けて戦うこともなかっただろう。そして、吸血鬼である私が吸血鬼退治人の若者に自分の手を取らせることも──おそらくなかったに違いない。
     人間と暮らして、言葉を交わして、ひとりひとりの細部まで知り尽くして、私は少しずつ確信に至った。種族という単位で相手を眺めるだけでは何も理解したことにならないのだと。森を見て木を見ずに終わるのはつまらない。バカみたいにもったいない。彼らはこんなにもおもしろい生き物なのに、どうして知らないままで満足できるだろうか。一度でも個に対して正面から個として向き合えば、そんなことは不可能になる。
     おじいさま、どうしてなのですか。あなたの方が私よりもそのことをずっとずっとよく知っていたのに、わかっていらっしゃったのに。過去のあなたは私にそれを教えようとしてくれていたのではないですか。
     大好きなものを滅ぼすのはつらいはず。痛いはず。自らを傷つけるのと等しい矛盾に満ちた行為であるはず。
     私の目には、血を流してのたうち回る巨大な竜の姿が見えていた。私の耳には、赤く染まる悲鳴が絶えず途切れず聞こえていた。


     エレベーターの壊れた──かろうじてインフラの生きている小さなビルの三階で、私の知る白夜都市の英雄は暮らしていた。実際には、暮らすというより、そのビルを隠れ家として生息していたと言った方が正しいありさまだった。彼と手を結ぶ約束を取り付けた私は、そこへ自分の棺桶を運び入れた。家主が目を離した隙に、私の忠実な使い魔が素早く働いてやり遂げてくれたのだ。床に置かれた侵入物に気づいた彼から、これをどうやって持ってきたのかと問われた私は、マジロガーディアン運送に頼んだのだよと答えた。もちろんそんな運送会社はない。かわいらしいアルマジロの姿に戻ったジョンは、なにもわからないという顔をして愛敬を振りまき、私へ剥き出しの警戒を向けていた青年の心を、あっという間につかんでしまった。本来の体でいるときのジョンは、いつもそういうやり方で私のことを守ろうとしてくれた。
     そんなジョンの働きに私の社交力と家事遂行能力が加わったからとはいえ、彼はあまりにも押しに弱すぎた。侵入してくる他者を拒む術を知らなすぎた。容易く異形の者を近づけて意に介さない無防備さには、場合によっては私でさえ見ていてぞっとすることもあった。悪意のない干渉に逆らえない若くてきれいな人間。敵というカテゴリから少しでも外れると、だれかれかまわず無造作に守る対象に入れてしまうお人好し。疑念の壁を一枚しか持たず、その高い壁を一度越えてしまった者には、決して銃口を向けようとしない。
     強いからだろうかと私は考えた。自分が強いことを疑わないから、実際にずば抜けて強いから、これほどまでに危ういままで生きられるのだろうかと。そうだとしたら、弱い私は彼の隣に立つのにうってつけだと結論付けて、私は使い魔を抱いて密やかに笑った。とても愉快だった。強さを過信している吸血鬼退治人を、吸血鬼がその認識の死角を照らして守ってやるのだ。
     その考えは完全に矛盾していた。私は彼に聖剣を握らせて最後の死地へ送り込むつもりで近づいたのに、早々に庇護欲に目覚めてしまっていたのだから。


            ☆


     ロナルドくん、と私は朱に染まった体を見下ろしながら呼びかける。君には赤が似合うと何度告げたか知れないけれど、これは違う。これはいただけない。大きな間違いだと叱ってやりたい。
     戦っている君の姿をはじめて目にしたとき、私は風にそよぐ真紅のポピーを連想して、故郷で目にした小麦畑に咲く野草を思い出した。人並み外れた身体能力を持つ君の動きに従って、重いコートは空中でゆるやかにひるがえり、赤い花びらのように私の視界で踊っていた。肩の辺りがドレープケープ風の切り替えになっている――ミドル丈の赤いコート。薄い大きな花弁、鮮やかな色彩、寒さに負けない生命力。ケシ属は丈夫で繁殖力が強く、わずかな土に根付いて瓦礫の隙間でも花をつける。
     地面に垂れた私のマントは、ぐっしょり濡れてすっかり重くなってしまっている。私は人間を生き血の貯蔵袋と呼んだ男の顔を思い出す。嫌いな顔。会いたくない顔。でも決して憎んではいない顔。ロナルドくんは信じられないほどの大量の血を流している。まだ生きているのが不思議なくらいに。
    「ド、ラ……こう」
     薄っすらと目を開けたロナルドくんの唇が弱々しく動いて、私は紡がれる言葉を聞きとるために顔を寄せる。まぶたから見え隠れする青が、星のようにすぐ近くでまたたいている。赤と黒と、次に紫が好きだった私は、さらにマジロ色を愛するようになり、それから青が好きになった。
    「逃げ、ろ。ど、こか……とおく……へ」
    「はあぁ?」
     聞き取ったセリフに私は思い切り不満の声を上げてしまう。逃げる? どこかへ? 遠くへ? なんだそのふわっふわな上に役に立たないメッセージは。死にそうだからって適当なことを言うんじゃないぞ。
    「だから君は馬鹿だと言うんだ。バカ造、よく聞けよ。この期に及んで私が君を置いてどこへ行くというのだね?」
     私は手袋をはずしてロナルドくんの頬に手のひらをあてる。いつも熱いくらいに感じられた肌が、私と変わらない温度になっているのがひどく腹立たしい。
    「君が私を殺すまで──我々は運命共同体のはずだろう? 君だけが勝手に死んで終わる事態を私は想定していないぞ。こんな契約不履行は承服しかねる。断固反対だ」
    「もう……まもって、やれない、から。ジョン、も……おまえ、も……メビ……ヤツも」
    「話が噛み合ってないぞ若造。そういうふうに一方的に自分の言いたいことだけ言う男は今どき流行らないんだぞ。それで、なにかね? 驚くんだが、君は私たちを守ってやってるつもりだったのか?」
     ロナルドくんは、おそらくもう目が見えていない。もしかしたら、耳もほとんど聞こえていないのかもしれない。こんな状態でも他人のことばかり気にかけているこの男は正真正銘の大馬鹿者で、私はまだ告げなければならないことがあるのに呆れて物が言えなくなりそうだ。


            ☆


     ロナルドくんは、吸血鬼退治の技量については際立って優れていたけれど、知識の方は意外とつたない部分がそこかしこにあった。それは、彼だけの問題ではなく、ギルドの面々も似たようなものだった。
     吸血鬼を退治する人間たちに忌避感はないのかと訊ねられて、私は説明してやった。高等吸血鬼は自分の血族のみを仲間と見なすもので、吸血鬼という単位で連帯意識を持つことはないと。徹底した個人主義を貫くものがほとんどだから、徒党を組むとか、一枚岩になるとかいった状況は基本的にあり得ないのだと。
     だから今の在り方は間違っているのだよと私は述べた。人間は、ひととして、という言い方を好むけれど、吸血鬼は違う。吸血鬼らしさを誇示したい気持ちは皆あるけれど、血族以外の吸血鬼同士で助け合う発想はまず出てこない。
     つまり、みんな自分のことしか考えてないってわけか。
     ロナルドくんは、どこか軽蔑の混じる声音でそう言った。私は力強く肯定した。だって、それの何が悪い? 私は私が一番好きだ。私は私のしたいことしかしないし、いたいと思う場所以外にいる気は毛頭ない。
     人間、吸血鬼、ダンピール、獣人、クルースニク、アルマジロ、子どもの形をした兵器。たくさんの色が混じり合っているこの場所の方が、単色の向こう側よりずっと楽しくて美しいから、私はここを選んで動かない。夜に抗う昼の前線は七色。追い詰められて苦しい息を吐いていても、だれも未来を諦めてはいなかった。


     ある晩、ロナルドくんは怖い顔をして改めて私に質問してきた。おまえはどうして俺たちの味方をするのかと。本当はどういう魂胆でここにいるのかと。
     それって普通は最初の日に聞くものじゃないのかなと私は少々あきれたけれど、材料不足で用意できなかったデザートの代わりに答えてあげた。
    「たとえば君は、現在の形勢を逆転して失われた昼の世界を取り返したとして、ずっと昼のまま変わらない世界を望むのかね? 永遠に夜の来ない昼だけの明日が続くとしたら、君はどう感じるだろうか?」
     そんな未来は望まないとロナルドくんは即答した。夜明けがない毎日なんて考えられないし、だいいちそんなの不自然だ。俺は、もとあった形で昼を取り戻したいだけだ。望んでいるのはそれだけで、夜のすべてを駆逐したいわけじゃない。
    「私もそうだよ」
    「はぁ?」
    「夜だけの世界なんてつまらない。日暮れがあるからこそ夜が輝く。そうでなければ不自然だ。まったくもってつまらない」
     にっこり笑って告げてやると、ロナルドくんは気の抜けた声で、そうなのかよ、とつぶやいた。
    「私はとても弱いから、こんな殺伐とした世界はどうにも居心地が悪くて仕方がない。私は私のいたい場所だけにいたい。やりたいことだけをしていたい」
    「おまえ……本当に自分のことしか考えてないんだな」
    「そう言ったじゃないか」
    「いや、そうだけど」
     尻すぼみになる語尾に私は笑いを誘われて、対するロナルドくんは気まずそうな顔をして黙り込んだ。
    「君たちはもっと敵について勉強した方がいいんじゃないかね」
    「敵?」
    「吸血鬼だよ。ほかにいるのか?」
     ロナルドくんは横を向いて、おまえが言うんじゃねーよ、と不愉快そうに言った。
    「君たちはちゃんとした知識を身に着けて余計な偏見は捨てるべきだぞ。吸血鬼にただ嚙まれただけの人間を脅威とみなしたり、吸血の量に過大な期待を描いたり……そういうのはどうかと思うな」
    「過大な……期待?」
     ロナルドくんは迷いネコみたいな表情を浮かべて怪訝な声を出し、私はここぞとばかりに大きくうなずいた。
    「血を吸いつくされるって表現を君ら人間は気軽に使うだろう? まさに吸血鬼を知らない御仁の言い分だ。通常の高等吸血鬼の血の摂取量は週にコップ一杯ていど。それで体の維持には十分なんだよ」
     はあ? とロナルドくんは思い切り声を裏返らせて目を見開いた。
    「マジかよそれ。おまえらコスパよすぎじゃねーか」
    「マジもマジだ。畏怖ってくれていいのだよ」
     私はつんと顎を持ち上げて、ついでに肩をそびやかした。
    「あほか。んなことで畏怖するわけないだろ。それじゃあ、あれだ。なんで吸血鬼に襲われた人間のほとんどが失血死してるんだ?」
    「頸動脈を嚙みちぎられて手当もせず放置されて発見も遅れたら、そりゃあそうなるだろう。当然の帰結だ」
     だから、吸血と殺人は違うんだ、と私は続けた。
    「目的が吸血か殺しかで話はだいぶ違ってくると私は考えている。私は食材を無駄にするのが許せないたちだからね。吸わない血を無駄に流して人を死なせるなんて最低の所業だと感じるね」
    「いや、おまえ、なんかそれ別レイヤーの話が混ざってね? あとな、人間目線から言わせてもらえば、量とか関係なく血を吸うって行為がめちゃめちゃ邪悪に感じるんだからな」
     うーん、そっか、と私は顎に指をあてた。意識のすり合わせって難しい。もっと対話を重ねないとならないみたいだ。相手がロナルドくんみたいに抜けてる人間じゃなかったら、この話題を出した時点でわりと危険な状況になっていたかもしれない。
    「まあとにかく、血を吸いつくすって基本的に滅多にやるやついないから。そこんとこだけ憶えて帰ってくれたまえ」
    「だれが帰るか。ここは俺の家だ」
     ロナルド君は律儀に私の発言に嚙みついて、次いでちょっと思案するように首を傾げて、それからややためらいがちに口を開いた。
    「基本的に……って、つまり、やるやつもいるってことか?」
    「ああ、うん。すっごいレアケース」
    「レア?」
     私はレアもレアと請け負った。なぜならその行為は食事とも娯楽とも種類が違うので。根底から別物なので。
    「吸血鬼が人間側から乞われてその血を吸いつくすとね、その人間の記憶すべてを我が物にすることができるのだよ」
     私が知っているのはたったひとりだけだったが、確かにいることに間違いはない。実際にそれを成し遂げた吸血鬼は、過去に私のすぐそばにいた。


    「おばあさまが人間だったって本当ですか?」
     私は疑問を覚えたらすぐさま質問するとても素直な子どもだった。周囲の大人は押し並べてみな優しく相手をしてくれたし、たいていの場合、質問をすると褒められた。特にお父様は、私が何かを問いかけるたびに泣かんばかりに喜んだ。あの質問をお祖父様に投げかけたのは、私が修養のために城を出るより少し前だったから、たぶん十五になるかならずの年の頃だったはずだ。離れて暮らす血族の城を訪れた折りに小耳にはさんだ噂話の真贋を、私は単純に確認したくてたまらなかった。
     お祖父様は、うん、とただ首をかるく縦にふった。私は、今どこにいらっしゃるのですか? と無邪気に問いかけた。
    「私はお会いしたことがありません」
    「そうだね。仕方ない」
     なにが仕方ないのか私にはわからなかった。身近な親族が存命していないという事態を私は想定していなかった。より正確に言うなら、想像することさえできなかった。
    「今どちらにいらっしゃるんですか?」
     お祖父様はどこか夢見るような眼差しで私を見返した。そして、右の手のひらで自分の胸を押さえた。中心よりいくらか左を。吸血鬼の心臓があるはずのその場所を。
    「ここにいる」
    「え?」
    「血が一番たくさん集まる場所だから、たぶんここだと思う」
     私はその返答に戸惑って、重ねて質問することに躊躇して、さらにはなんだか怖くなって、失礼しますのひとことを残してその場を立ち去ってしまった。
     あとから事情を知ったお父様が教えてくれた。おばあさまは人間として亡くなったこと。死に際のおばあさまの頼みで、お祖父様は彼女の体のすべての血を吸いつくしたこと。だから、おそらくお祖父様は、生前のおばあさまの記憶のすべてを今も持ち続けているだろうということ。
     私にはよくわからなかった。あまりにも遠く聞こえる手応えのない事実の羅列に、どんな感情を働かせればいいのか見当もつかなかった。見知っている相手がだれも死なない世界が私にとっての当たり前だった。みんな無事なのに私だけが繰り返し小さく死に続けるのが、私にとっての当たり前の毎日だった。


    「おまえもさあ、できるのか?」
     激しい戦闘が終わったあと、隠れ家までなんとか帰り着いてから、本人が気づいていない小さな傷まで根こそぎ探し出して手当てをする私にロナルドくんはぽつりと聞いた。
    「なにが? あ、そうだ。君、今日の分のビタミンDの錠剤飲み忘れてるだろ? 気をつけろよ」
     あー、うん、と生返事をする疲れた顔に、せっかくの割り当てなんだからな、と私は念を押してやった。ほとんど昼を失った街で戦う退治人や吸血鬼対策課の職員たちには、VRCからビタミンDの配給がある。ひとというのは心身を維持するのに太陽の光が不可欠な──吸血鬼とはまったく別種の生き物なのだ。
    「それで、私がなにをできるって?」
    「ん? ああ、なんか前におまえ話してただろ。吸血鬼が人間に頼まれてそいつの血を吸いつくすと、生きてたときの記憶全部を取り込めるって」
     あー、と私は濁った音とともに息を吐き出して、そんな話いつしたっけ、と記憶があいまいなふりをしようとした。でも、ロナルドくんは空気を読まずに言葉を続けようとした。君のそういうとこどうかと思うぞ。
    「もし、もしもさ、俺がおまえに」
    「無理です」
     ぴしゃりと遮るように私は言った。
    「まだ本題に入ってねーだろ。っつーか、無理ですっておまえ、なんだその」
    「だから無理だってば。私はもうずーっと三食牛乳だし、繊細な私の胃袋は若い男のくどい血は受け付けないし、だいたい人間の大人ひとりの貯蔵血液を丸ごとと飲み干すとか、この体で絶対に無理だろ。考える以前に無理。無理無理無理太郎。はい、この話はおしまい」
     私が両手で仕舞いのポーズを取ると、ロナルドくんはベッドと兼用しているソファに背を預けて苦笑いをした。
    「いや、だれだよ無理太郎」
    「だれでもいいだろ。そこ突っ込むんじゃありません」
    「バカ、気になるだろ。でも、そっかぁ……無理か」
     残念そうに顔をしかめて伸びをするロナルドくんを、私は不思議な生き物を見る目で眺めた。どうしちゃったの君は。私にすっかり慣れて警戒を解いたギルドの面々が、私の飲み物に数滴の血を提供してくれようとするだけであからさまに不機嫌になる潔癖な君が、いきなり吸血を前提とした話をしようとするとか怖いだろ。不気味だろ。不安でうっかり死にそうになるじゃないか。
    「あーあ、おまえって本当にザコ」
    「うっさいわ」
    「でも、ザコでよかったわ。でなきゃ一緒にいられないもんな」
     吸血鬼を殺すことにかけては右に出る者がいないと称される彼は、どこからどう見ても吸血鬼以外に見えない私にそんな言葉をくれて、しかも鮮やかな大きな花のように微笑んでいて、そんな自分になんの疑問も覚えていないようだった。
     私は内心で舌打ちした。自分の美しさを知らない人間ほど、始末の悪いやつはいないのだ。


            ☆


     やっぱり無理だよと私は笑う。ロナルドくんの血がたっぷりと服に沁み込んで、体が冷えて死にそうだ。これだけの量を私に飲み干せるわけないじゃないか。若い男の生き血なんて、一口で胃がもたれてしまう私なのに。君はそれをちゃんと知っていたはずなのに。クソザコクソザコって、毎日のように私を罵っていたじゃないか。脈絡もなく夢見がちになるところが君の欠点のひとつだったね。でも、私はロマンチストな若者が意外と嫌いじゃないんだよ。なにしろ、本家本元のロマン主義ど真ん中の時代に幼少期を送った私だから。十九世紀初頭生まれの吸血鬼を舐めるなよ。

    「この私と手を組むということだね?」
    「俺がお前を殺すまでの間だ」

     君はお兄さんのことも俺が必ず殺すと言っていたね。だから私は君を吸血鬼にするわけにはいかない。だって、吸血鬼の道を選んだお兄さんを君は絶対に許さないんだろう? 転化は百パーセント吸血する側の意志によって起こるもので、された側に責任なんかないって私がいくら言っても君は聞く耳を持たなかった。
     では死んでしまえばよかったのかね? 吸血鬼にされた瞬間に自殺してほしかった? 本当は、生きていると知ったとき嬉しかったんじゃないのかね? そうでなければ、なぜ君はその赤を纏う?
     私がわざとかるい口調でそんな問いを投げかけると、ロナルドくんは眦が裂けんばかりに睨みつけてきた。普段は軽率に手が出るのに、君は本気で怒ったときは暴力に訴えられない。おもしろいくらいに善良で、清廉で、小心なのに大胆で、出来事を物語るのは得意なくせに感情表現はどこまでも不器用。君みたいに愉快な人間を知ることができて、私は本当に幸運だった。


    「映画でもたまにあるじゃないか。山場なのに死にかけているキャラが丈夫すぎて、そいつがいつまでも喋っているせいで、なかなか話が進まなくて場面がダレる展開ってやつが。君もたぶんそういうタイプだよ」
     まだ息のあるロナルドくんに私はそんなふうに語り掛けて、自分の胸に両手をあてる。中心より少し左。人間も吸血鬼も、心臓のある場所は変わらない。
     君は私を殺さないまま死ぬわけにはいかない。お兄さんを殺さないまま死ぬわけにはいかない。私は君を吸血鬼にはできない。だから、これがたったひとつの冴えたやり方。
    「ジョン、ごめん、これからは私の代わりにロナルドくんに抱っこしてもらってくれ。いつか必ずもどってくるから、それまでロナルドくんごと私を守ってくれ」
     忠実な使い魔の決然とした返事が私の耳朶を打つ。
    「メビヤツ、君のその目から力を分けてくれ。お守り代わりに持って行きたいんだ。これからもロナルドくんの守護者としてしっかり働いておくれ。たぶん私に言われるまでもないことだろうけど」
     小さな顔の大きな目が、眩しいほどの光を宿してこちらを見る。当然だ、とその目は語っている。
     ロナルドくん。君はいつだってほとんど選択肢を持っていなかった。本当に少ないカードしか持たされていなかった。それでも君は決して運命を罵らなかった。いつだって自分ができることを探して一生懸命だった。今もまた、君に選択の余地はない。すまないね。私は私のしたいことしかしないし、できないんだ。そういうふうに生まれついた生き物だから。

    「真祖の心臓、君に預けてやる」

     耳元で風がごうごうと鳴っている。ぱちぱちと何かが爆ぜる音がする。熱くはないが炎の気配が辺りを包んでいる。燃えているのは私の感情。燃え尽きるのは私の輪郭。目に見えている景色がゆるやかに途切れ、それから突然切り替わる。


     文字通り、私はこれから君の目を通して世界を見る。さようなら。そしてこれからもよろしくロナルドくん。君が私を殺すまで、我々はずっとともに在り続けるのだよ。


     さあ、目を覚まして立ち上がってくれ。
     私のポピー、私のプリズム。
    ゆえん Link Message Mute
    2022/10/08 21:00:00

    プリズム

    人気作品アーカイブ入り (2022/10/08)

    10/8アタリブックセンターの展示用小説です。嘘世界のロナドラです。設定その他はコミックとファンブックとアカジャを参考にしていますが、ほぼすべて私のふわふわした妄想です。「真祖の心臓 君に預けてやる」の一場面を書きたいために一万字費やしました。
    #ロナドラ
    #アタリ本店
    #アタリbc_221008

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