Dry Flower 舞奏の練習終わり、昏見が持っていたのは上等そうな黒い傘だった。その傘を見て、皋は夕方の降水確率が高かったことを思い出した。
帰路の空が、ゆっくりとオレンジ色に染まってゆく。皋は夕暮れがあまり好きになれない。四苦八苦して夜明け前にやっと寝かしつけた感傷を無理矢理呼び起こすからだ。夜の始まりからは逃げられないのだと思い知らされてしまう。
そういえば傘持って来るの忘れたな。皋が呟くと、横から「相合い傘しちゃいます?」という軽口が飛んでくる。ひとりで濡れるほうがマシなので無視をした。
「天気予報のチェックも愛され探偵の嗜みですよ、所縁くん」
舞奏社からの帰り道が途中まで同じせいで、昏見の軽口は続いている。皋のことを未だに探偵と呼ぶのは、隣を歩くこの男だけだ。
「そんな嗜みは知らない。つーかお前も天気予報とか見るんだな」
「当然ですよ、所縁くん。私を何だと思ってるんです? 怪盗が予告状を出すのは、晴れの大安でなければいけません」
「おかしいな、俺は台風上陸中の仏滅に怪盗ウェスペルを追い詰めた記憶があるんだが」
「あれは私が黄金の招き猫を華麗に盗み出した日ですね。覚えててくれたんですね、所縁くん。感激です」
うっとりとした様子の昏見が、皋の二の腕を人差し指で突いてくる。痛くはないけれど、うっとおしい。けれども、このモードの昏見は関わりやすいから、皋は困ってしまう。戯れたがる昏見の指先を適当にあしらいながら、件の事件のことを思い起こす。
「忘れたかったけどな。嵐の中屋根に登って逃げようとするどっかの馬鹿追いかけて足滑らせて怪我してたら、流石に忘れらんねーんだわ」
我ながら無茶をしすぎた自覚はある。探偵業に対して、半ば自棄になっていた時期だったのだ。砂漠に降り積もる砂のような殺人事件と、矢のように飛び込んでくる怪盗事件の数々は、損なわれ続けていた皋には捌ききれなかった。要約するならば、堪忍袋のなんとやら、だ。
結果は悲惨なものだった。皋は数ヶ月の間、松葉杖を使わなければいけない生活を送ることになったし、その生活は面倒極まりなかった。犯人も怪盗も、松葉杖では追いかけにくいのだ。
「新聞にも派手に載ってましたね。私のせいで所縁くんが傷モノになっちゃっててドキドキしました」
「妙な言い方は止めろ馬鹿。マジで誰のせいだと思ってんだ」
「間違いなく私ですね」
「お前さあ、自覚あんなら多少は省みろよ」
皋が今日何度目かの溜め息をつく。すると昏見はふと表情をなくして、皋から視線を僅かに外す。追った視線の先は、皋のうしろにある夕暮れだ。どこか遠くを見つめるその眼差しは、皋の後ろに亡霊でも居るかのようだった。昏見は時々、こういう眼をする。
昏見の持っている傘の先が地面を蹴って、かつんと軽やかな音を鳴らす。
「省みてますよ」
ぽつりと呟いてゆっくりと俯いた昏見の頭が、皋の肩に乗せられた。驚きで脚が止まる。この男にしては珍しく、寄る方のない声をしていた。言い過ぎてしまったのだろうかと、皋が不安を覚えるほどだ。そもそも、こんなふうに距離を詰めてくるような男ではないのに。
長い髪が滑り落ちて、普段隠れている昏見の頸が露わになる。浮き出た背骨の流線形が、埋められた真実に見えて傷ましいなんて思うのはなんでだろう。
「私のせいですよ。私のせいでいいですから、」
耳元で奏でられたのは、消え入りそうなわかりやすい独白だった。そのあとに続くはずだった、昏見が飲み込んだであろう言葉は、皋には聴こえない。音にならない声は伝わらないからだ。それでも、伝わらなくても、声はそこに在る。確かに存在している。昏見が閉じたカーテンが分厚すぎて、見えないだけなのだ。おそらく。
「まったく、所縁くんったら! こういう時は優しくハグするのがセオリーですよ。そんなだからモテないんですよ」
「お前にモテても、しょうがない、だろ、」
勢いよく顔を上げた昏見は、先刻の失言を誤魔化すように戯けて笑っている。細められた眼は、湖に落ちたガラス玉のように温度がない。皋がどうにか返した言葉は、震えていなかったろうか。
昏見のこういうところが、皋はひどく苦手だった。外堀を完璧に埋めて、自分の欲しいストーリーを得る為にわざと道化を演じているように見えてしまうからだ。なんでそんなに怯えているんだろう。世界の外側にいるような眼差しで、皋のことを見ないで欲しい。
いつも通り好き勝手して、皋と同じ場所に立てばいいのに。
失格探偵・皋所縁は情けないことに、昏見有貴という人間をわりと好ましく思ってしまっていた。闇夜衆を組んでからというもの、怪盗ウェスペルとして対峙していた時には見えなかった昏見のやけにやわらかい微笑みなんかが、皋の柔いところに刺さりがちなのだ。あんまり愛情たっぷりに皋を見てくるものだから、絆されてしまった。だから、皋のせいじゃない。
意趣返しのつもりで、皋より少し高い位置にある肩を片腕で抱き寄せる。昏見の表情は皋からは見えないが、せいぜい驚いていればいいと思った。抽象的なロジックは、皋の好みではないのだ。
すこしだけ強張った身体のぬるい体温が、この男の存在を証明してくれている。
「あー、なんだ。……サービスってことで」
「所縁くんは優しいですね。そんなに優しさを振りまいてたら、枯渇しちゃいますよ。枯れちゃった所縁くんには興奮しませんね」
乾いた声で言ったきり、昏見は黙り込んでしまった。皋は推理ではなく、思考する。皋の願いは途方もないので、宿願を果たすまでの道のりはとても長い。長い旅の途中で折れてしまいそうになったとき、隣に誰かが居ることで救われることもあるだろう。祈りの旅路には、夕焼け色の花束は相応しくないのだろうか。
皋の頬にひと粒の水滴が落ちる。佇むふたりの沈黙の間に、冷たい風が強く吹きつけてきて、雨の匂いを連れてきた。
夕立ちが近いのだ。