今日の選択目覚ましが鳴る気配がした。
次郎が瞼を開けるとそこはまだ静寂に包まれた自室で首を横にずらして目覚まし時計に目をやる。設定していたベルが鳴り始める一分前だった。
「……ナイスタイミング」
役目を果たす前に仕事を終えた目覚まし時計のベルを切り、折角なので起きてみる事にした。普段であればオフなら魅惑の二度寝へ、オンだったらギリギリまで二度寝へ突入するのだが今日はなんだか晴れやかな気持ちで戻るのが勿体なく感じる。
オンの日なので時間までやれる事と言えば限られるのだが、集合時間は午前九時。只今の時刻は午前六時ちょっと前。
「久々に走りますかねぇ」
布団を抜け出し寝巻きから動きやすい運動着に着替える。一度帰ってくるか迷ったが往復の時間を考えるとギリギリになりそうなので着替えを持って家を出た。
明け方の街は店もまだシャッターだらけだが仕込みや支度で動いている人がいて、行き交う人も全然疎らだったがゆっくり動き出そうとしている様に映った。自分もまたその一人だ。
ランニングコースはいつくかあるが今日は事務所からも距離が近い場所にした。川辺にあるそのコースまで来ると昇って来た日が水面を照らす。
「いいねぇ、一日の始まりって感じだ」
俄然、ランニングのやる気が出てきたので少し小走りをして人目に付かなそうな所に着替えの入った荷物を置き、軽く準備運動を行う。勿論、貴重品は肌身離さず身に付けて。自己流の準備運動をしていると脳裏にユニットメンバーの硲道夫が「ランニング前の準備運動でやっておいた方がいいストレッチは…」等と前に指導してくれたメニューの存在を思い出した。朝からはざまさんに俺の脳内にまでご出演してもらっちゃって悪いなぁなんて思いながらもしっかり提案してもらったストレッチは熟していく。
息を整え、走り始める。フォームとペースを意識しながら定めた距離をただひた走る。上がりきらない気温の中、風はまだ肌寒く感じるが動き続け火照り始めて来た体には心地よい。
誰もいない一人だけの世界。ランニングを始めた頃はこんなに長く走り続ける事なんて出来るとは思ってもみなかった。
「ミスターやました!Do not stop!焦らないで自分のpaceで走ってみて!」
「山下くん、呼吸は鼻から吸った方がいい。スっスっはっはっという感じに」
初期の頃はよくユニットメンバーの舞田類が並走しては励ましてくれたし、道夫も走りながら呼吸のポイントをアドバイスしてくれたりした。最初はS.E.Mで始めたランニングも噂が噂を呼び、気付けば予定が合う事務所のメンバーが参加する様な大きな行事になっていた。幅広い年齢層、普段中々会話しないメンバーとの交流は良い刺激となりランニングへの苦手意識もいつの間にか薄れ無くなってしまっていた。今となっては自分を含め皆売れっ子アイドルになってしまったので大人数が揃って早朝ランニングとは行かなくなってしまったが、たまに走ってみてあの賑やかさが少し恋しく思えた。
小一時間程走った所で休憩に入る。持参していたボトルのミネラルウォーターを一気に飲み干し一息つく。汗を拭いていると行き交う人の人数も増えてきてそろそろ通勤ラッシュの頃合かな、と眺めているとお腹の辺りから急にギュルルと腹の虫が鳴き始めた。
「そろそろ切り上げますか」
お腹も空いたことだし、と呟きよっこいしょと腰を上げ荷物を持って事務所の方へと歩いていく。着く頃には事務員の山村も来ているだろうと踏んで通り道にあったパン屋へ寄り道し朝食を確保して時間調整した。作りたて焼きあがったばかりの惣菜パンたちの良い香りに思わず顔を綻ばせ紙袋片手に事務所の階段を上がっていくと『315プロダクション事務所』と印刷された紙が一部テープが緩み剥がれてしまっていたのを見つける。空いてる片手で貼り直しながら、この事務所は一体いつになったら修理修繕するのかねぇなんて案じていると中から物音がし、先客がいる事を知らせてくれた。やっぱり、けんが来てたかと予感的中した事に浮かれながらドアノブを捻り中に入ると珈琲の香りがパッと鼻孔に放たれる。
「あ、おはようございます。あれ、次郎さん?お早いですね」
「…お、おはよう、プロデューサーちゃん。そっちこそ早いじゃないの。現場は行かない日?」
「今来たばかりですよ。現場は午後からですね、もふもふえんのテレビ収録の付き添いがあります」
「じゃあ午前は事務所仕事?」
「はい。S.E.Mは今日グラビア撮影でしたね、次郎さんが一番乗りで来るなんてなんだか珍しい」
「ヤダなぁ、おじさんだってたまには早起きするんだからね?」
すみません、とプロデューサーが悪戯っぽく笑うと奥のキッチンからピーっと電子音が鳴り響いた。あの香りは珈琲メーカーが原因だったらしい。最近良い物に買い換えたんだったか、誰かが持って来たものだったか、生豆から焙煎が出来るとか色んな機能がついているとかなんとか。曖昧模糊な情報しか次郎の耳には入ってきていなかったが確かに普段家で飲むインスタントとは違う香りがする。
「次郎さんも飲みますか?」
お高いだけあるなぁなんて思ってるとプロデューサーが自分のマグカップに珈琲を注ぎながら訊ねてくれたが、それよりまず優先すべき事があるので断りを入れた。
「実は来る前にランニングして来てさ、レッスン室のシャワー借りてもいい?」
「なるほど、だからその荷物なんですね。大丈夫ですよ今鍵お渡しします」
「ん、ありがと」
鍵を受け取り談話スペースの机に朝食用のパンを置かせてもらい事務所を出る。階段の上がった先にあるレッスン室の鍵を開けながらプロデューサーはアイドルより大変かもしれないなと考える。自分達より先に早く来て現場にいてくれたり、関係各所に手を回して次に繋がるように小さなチャンスすら見逃さないように気を張って、勿論自分達アイドルの事も気遣わねばならない。見えない苦労も多いだろう。それを本人は嫌な顔一つ見せず新しい仕事が決まりました!なんて嬉しそうに仕事を持って来てくれる。
「プロデューサーちゃんマジメガ神!」と突然脳内に伊瀬谷四季の言葉が降臨しながらも、脳内四季の意見に同意した。
シャワーを終え洗面台で髭も整えて保湿ケアをした所で再び事務所に戻ると机の上に置いてあった紙袋の中身が皿の上に移し替えられておりついでに自分がいつも使っているマグカップに注がれた珈琲が湯気を出しているではないか。突然現れた食卓に動揺を隠せずにいるとキッチンからプロデューサーがマグカップを持って出てくる。
「おかえりなさい、そろそろ来る頃だと思って珈琲入れておきました。すぐ食べられるようにパンもお出しちゃったんですけど…」
「プロデューサーちゃんマジ神様」
「どうしたんですか急に四季くんみたいな口調で」
「いやー至れり尽くせりだなぁって思って。へへ、ありがとね」
ソファーに腰掛け有難く用意してもらった珈琲と共に朝食にありつく。プロデューサーも反対側のソファーに腰掛けてテレビの電源を入れると丁度朝の情報番組が星座占いのランキングコーナーを始めた所だった。ランキングを発表していくアナウンサーの声に耳を傾けながらたまごサンドにかぶり付きもぐもぐと堪能する。初めて入った店だったが当たりの店だったと次郎は思う。
パンはふわふわで生地がほのかに甘く、具の卵フィリングははち切れんばかりにパンパンに詰められており味も卵とマヨネーズの旨みと酸味のバランスが丁度いい。そして淹れてもらった珈琲を流し込むめば、もう、最高の一時。
「美味しそうに食べますね次郎さん」
「実際美味しいよ、このたまごサンドもプロデューサーちゃんが淹れてくれた珈琲も」
「ふふ、褒めても何も出ませんよ」
二人きりの事務所はとても静かだがこの穏やかに流れる朝の時間はとても良いものだと次郎は思う。
早起きは三文の徳とは言うが正にだ。あの時二度寝の選択をしなかった自分を褒めてやりたい。またこうやって早起きをすればプロデューサーとこうして朝を一緒に過ごせるのだろうか、そんな考えが頭を過る。
『今日の一位は〜!?おめでとうございます、おとめ座のあなた!今日の貴方は運気が巡って来ています、いつもより少しだけ早く行動すると良いでしょう。気になってる人と一緒に過ごせるかもしれません!ラッキーアイテムはたまごサンド。ラッキーパーソンは的確なアドバイスをしてくれる人です。今日も元気に行ってらっしゃい!』
「次郎さんおとめ座でしたよね?凄いですね、おめでとうございます」
「そんな事ってあるんだぁ…」
プロデューサーは内容を聞き流していたのか大して反応していなかったが占いの内容がドンピシャすぎて少し引いしてしまった。運気が巡って来ているとは言えここまでピンポイントに当て嵌る人物も自分以外にはそんなにいないだろう。朝の星座占いと言えど馬鹿にしたものではない。
驚いて固まっているとプロデューサーがどうかしましたかと声をかけてくれたお陰で我に返る。
「プロデューサーちゃん、ちょっとこの中からこれだ!って思う名前のお馬さん選んでくれない」
スマホを取り出し今日開催されるレースの出馬表を見せてテーブル越しに迫る次郎。その表情は今日イチ真剣な表情なのだがプロデューサーは慣れたもので顔色一つ変えず珈琲を啜りながら一応目を通す。飲み込んでふう、と一息ついて次郎に向かい合う。
「次郎さん。今日は辞めておいた方がいいと思います」
「なんでぇ?!だって俺今日一位」
「大欲は無欲に似たり、と言う諺があります。折角占いが一位でも欲を出しすぎれば良い運気も逃げてしまいますよ。出来ればその運気、お仕事の方で使って頂けると嬉しいですね」
正論でにこーっと笑うプロデューサーにぐうの音も出ない。確かに今日は既に良い事は起きたし、これ以上欲をかいてしまえばバチが当たる様な気がしないでもない。
笑顔だが圧を感じるプロデューサーを前に次郎はそっとスマホの画面を閉じたのだった。
「はいはい、プロデューサーちゃんの言うことだからね。聞きますよっと」
「それは良かった。億万長者の夢はまた次の機会に狙って下さいね。ちなみに気になったのはドリームパッションラッキーです」
「いやちゃんと見てたの?!」
しかもめっちゃ大穴っぽい名前のお馬さんだ、とは口には出さなかったがプロデューサーが選ぶんなら有りなのかもしれないと思わなくもなかった。
「まぁでも今日はこれぐらいの幸せで充分だと思わなきゃね」
少し早起きして汗を流してスッキリした所で、温かな珈琲と美味しいたまごサンド、目の前には気を許せる大切な人がいる。ソファーに深く座り直し道夫と類が来るのをゆったり待つ事にした。
ちなみにプロデューサーが選んだお馬さんは別日のレースで一位を獲り馬券は大当たりとなり世間を賑わせ一応買ってた次郎もその恩恵を与り、しばらく事務所内でプロデューサーは神様と呼ばれる事になるのだがそれはまた別の話。