芽吹く紫丁香花たんたん、と階段を駆け上がってくる足音のリズム。黒野玄武は読んでいた文庫本を一旦閉じて鞄から手渡す予定の物を取り出す。この時点で玄武は誰が来るのか分かっていた。
「どーした玄武?」
「いや、番長さんが来たなと思って」
ポカンと口を開けて不思議そうな顔をする紅井朱雀が事務所のドアの方を見つめていると入って来たのは玄武が予言した通りの人物、即ちプロデューサーだった。
息を切らしながら律儀におはようございますと挨拶をするプロデューサーを目で追いながら玄武の予言が的中した事に朱雀は興奮を隠せない。
「すっげーな!なんで分かったんだ?!」
「事理明白。それなりに付き合いも長くなって来たからな、足音で分かっちまう」
「耳いいな玄武…。にゃこは分かったか?」
「にゃあー…」
愛猫のにゃこに尋ねてみても分からないと言いたげな返事にやっぱり玄武ってすげぇと目を輝かせながら朱雀は呟かずにはいられなかった。そんな尊敬の念を送られているとは露知らず玄武はプロデューサーへと歩み寄る。綺麗にブックカバーに包まれた本を大切に持って。
「お疲れさん。今時間いいかい番長さん」
「玄武くん、お疲れ様です。はい!大丈夫ですよ」
これなんだが…と手渡した本が何か検討がついていないのか受け取ると早速ページを捲って確認する。それが何か分かるとパッと喜ばしい表情を浮かべたプロデューサーを見て玄武は手応えを感じ心の中でガッツポーズをした。
「あの作家さんの新作ですか。もう書店に出てたんですね」
「ああ。俺はもう読み終えちまったから番長さんの感想も聞いてみたくてな」
「お借りしてもいいんですか?」
「是非。返すのはいつでも構わねぇ」
「ありがとうございます!楽しみだなぁ、最初は装丁に一目惚れして買ってたんですけど仕事が忙しくなると同時期ぐらいに新作どんどん出てきちゃって追えなくなっちゃったんですよね…」
「またすぐ忙しくなるのか」
「いえ、大きなコラボイベントも終わった所なので暫くは時間が取れそうですね。良いタイミングにお借り出来て良かったです」
「そりゃあ時節到来ってもんだ。感想、楽しみにしてるぜ」
破顔した顔を目に焼き付けていると胸の奥がじんわり温かくなるのが分かった。普段読む本は問題集であったり雑学であったりと学びに特化した書物を読む事が多いのだが、いつの頃かプロデューサーが事務所に置き忘れて行った小説を手を取ったのをきっかけに物語や詩集などこれまで手を出して来なかったジャンルを開拓した事により玄武の知識の幅はより広がった。特に小説や詩集は国語の授業の題材として取り上げられているものもあり、作者たちの思想や意図を読み解く面白さに心が踊ったのも記憶に新しい。
それを伝えれば嬉しそうに本について熱弁するプロデューサーとあっという間に意気投合し、たまに本の貸し借りをする仲にまでなった。
普段はきっちりしっかり仕事をする姿ばかり見ているが一個人としての一面を知れたことがどうにも玄武は嬉しかった。知らないものを知る楽しさをプロデューサーは教えてくれる。最初はアイドルだったのが今は。
「やけにご機嫌だな玄武」
「目当てのものは渡せたからな」
「小説だったか?俺にはちょっと難しいが…玄武やプロデューサーさんが面白ぇって読むんだからきっと面白ぇんだろうな!」
「最近は小説を漫画にした作品もあるから、そこから入ってみるのも悪くねぇかもな」
「マンガになってんのか!?それはちょっと唆られんな…」
「今度本屋に行って面白そうなの見繕ってやるよ」
そう言ってやれば嬉しそうに返事をするものだからつい玄武の口元も緩む。だが朱雀とプロデューサー、同じ様な反応だと言うのにやはり何かが違う気がした。付き合いの長さで言えば朱雀の方が長いし互いの事は良く知っているつもりだが、プロデューサーとはとなると圧倒的に知らない事の方が多い。仕事上の付き合いの方が多いのだからプライベートな部分を知るなんて事は友人かそれ以上でもない限り難しいだろう。
それに玄武が気付くまで時間は要さなかった。
必要以上に干渉して来ない距離感は確かに良かったが、今となってはもう少し干渉してみたくて仕方ない。どんな物を好んで食べているだとか、どんな音楽が好きだとか本当にその程度の他愛ないが向こうが大切だ好きだと思っている何かを自分も知りたいと、そんな欲が最近は尽きない。
急にバタバタし始めたデスクの方を見ると荷物をまとめたプロデューサーが慌ただしく支度をしている。
「プロデューサーさん!もう行っちまうのかー?」
「はい!予定がちょっと繰り上がったみたいで…すみません、騒がしくて。朱雀くん、玄武くん、遅くならない内に気を付けて帰って下さいね!」
「おう!プロデューサーさんも気を付けろよ!」
「はい、行ってきます!」
嵐のよう過ぎ去ったプロデューサーの階段を駆け下りていく音が次第に聞こえなくなると事務所に再び静寂が訪れる。忙しそうだなぁと呟く朱雀に反応して玄武もそうだなと返す。
朱雀はそこから広げていた宿題に再び手を付け始めたので分からないと言われた時に備え玄武も読む物を文庫本から参考書に持ち替えた。
読みながらふと、最後にプロデューサーが言った言葉を脳内で反芻する。あの言葉に向けて「行ってらっしゃい」の一言でも言えていたのならプロデューサーは反応してくれただろうか。仮に反応したとして、あの人なら安心させるように笑って行くだろう。そう考えただけで嬉しさが込み上げて来てしまった 。
「玄武?顔赤けぇけど大丈夫か?」
「いや…なんでもねぇ。大丈夫だ」
「そうか?具合悪かったら言えよ、プロデューサーさんも遅くなんねぇ内に帰れって言ってたしな!」
「じゃあ遅くならねぇ内にその宿題やっつけちまわねぇとなぁ」
「ま、任せろ!!うおおおバーーーーニンッ!!!」
少し頼りない返事だったがなんとか誤魔化せた様でほっと胸をなで下ろす。顔に出る様ではまだまだ半人前。この想いはまだ胸に秘めておくつもりだから。
あまり得意では無かったが次に読む小説は恋愛物も良いかも知れないと密かに思うのだった。