アナスタシオスの憂鬱 アナスタシオス。
古代キリシアにおいて『目覚めた男』。
ナベリウス・カルエゴはまさにこの目覚めた男そのものであった。
厳密に言えば、彼は決して古代ギリシア人でもなければ英雄などではない。陰湿で厳粛な悪魔である。
そんな悪魔たるカルエゴがなぜ『アナスタシオス』なのか。
話は少しだけ遡る。
ナベリウス・カルエゴはいつものように悪魔学校バビルスで教師として鞭を取っていた。陰湿教師と恐れられながらも、生徒たちからの信頼は厚く、同僚の教師陣からも慕われていた。不遜極まりなく口も悪い彼であったが、存外情に脆く存外抜けている面もあり、あぶうノーマルクラスの生徒である問題児のうちの一人、鈴木入間の使い魔になっていたりするのだ。
そして、そんなバビルスにおいてカルエゴが最も苦手としている悪魔があろうことか同じ校内に存在する。
オペラ。彼は本来理事長であるサリバンの執事兼セキュリティデビルなのだか、訳あって教師としてバビルスに就任してきたのだ。
カルエゴはしばらく胃薬のお世話になるこど腹痛に苛まれることになっていた。
いや、そんなことははっきり言ってどうでもいい。どうでもいいのだ。些細なことだ。
本題は、自分がそのオペラの横にいるとなぜか心が躍るというか、そわそわして落ち着かなくなるのである。もちろん、平然を装ってはいるが、これは由々しき事態なのだ。
職務中、しかも番犬として絶対に裏切ることもできない教師という職業において、今の感情はカルエゴにとって煩わしいことこの上ない。
「カルエゴ先生」
そんなことを菅んが得ていると、佇んでいたオペラが小首を傾げて顔を覗き込んでくる。
美しい緋色の前髪が揺れて、編まれた三つ編みも横に流されているが、普段のオペラとは違う髪型に未だ慣れないである。
「別に、なんでもありません」
尻尾をゆらゆらさせてこちらの様子を伺っているオペラを尻目に、カルエゴはそっけなく返事を返すと、さも忙しいとばかりに机に齧り付くように山積みになった書類に手を伸ばして作業を始めた。
今、職員室にはカルエゴとオペラしかいない。
つまり、二人きりなのだ。
自分の気持ちを自覚した以上、これ以上心が揺れるのは避けたいところである。
平常心、平常心と心の中で唱えて、まだ横にいるであろうオペラに気づかないふりをして、再び忙しい素振りを行なった。
「! は?」
「ふふ」
山積みにされていたはずの書類が、いつの間にか綺麗さっぱりとなくなっていたのである。
「このくらい、私にかかれば一瞬ですよ」
「勝手なことしないでください」
どうやらオペラがカルエゴの目を盗んで早技でやり終えていたようだった。カルエゴは、まあオペラにかかればこの程度造作もないことだ。しかし、仕事が自分より出来ると知ってはいるものの、カルエゴとしては癪である。だが、どうせオペラのことだ。考えていてもキリはない。これはこれでよしとして、さっさと切り上げてしまおうと席を立ったその時だった。
「っ!」
襟首を摘まれ、いや鷲掴みにされ強引にオペラの方へ寄せられたと思ったら、そのままオペラの唇が振ってきた。しかも、カルエゴの唇の上にである。思いもよらない行動をされたカルエゴは、普段の頭の切れはどこへやら。そのままオペラの唇を受け入れるだけで、されるがままだった。
下唇をそっと舐められたカルエゴは一瞬身震いをするが、やられるだけでは腹が収まらないとやり返してみる。
同じようにオペラの唇に舌を這わせてみたが、特に抵抗もなかった。
ふとオペラの顔を覗いてみると、黄昏色と琥珀色の混じる美しい瞳が揺らめいている。
「……一体、何のマネですか」
「もう終わりですか? カルエゴくん」
「は?」
「続きはご所望でない、と?」
口角を上げなからニヤニヤとこちらを見つめて信じられない言葉を口にする。この美悪魔! 自覚はあるのか⁉︎ 俺でなければ襲われているというのに全く、なんて言い草だ。そうは思っても自分の気になる相手を不快な思いをさせゆような野暮な男でもない。カルエゴは「ゴホン」と軽く咳払いをすると、「そんな発言は、冗談でもしないほうがいい」と手短に伝える。案に危ないから気をつけろということだ。これで相手に伝わるといいが、相手はオペラなので果たして思惑通りになるかどうか。
しかし、返ってきた言葉はカルエゴのさらに予想外で。
「そのつもりで仕掛けたのですが」
呆れて言葉も出ないカルエゴだったが、額に眉間を寄せながらも緩まった口元は隠せなかったようで、オペラから「キミだって、こうしたかったのでしょう」と告げられて、赤い服に身を包んだ美悪魔を腕の中に収めるのであった。
アナスタシオスはこれから憂いを胸に生き続けることになる。