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    しおり
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    閑話/404 あの、先輩だから話すんですからね。知り合いには誰にも言わないでくださいよ。変えて発表する分には構いませんけど、だって、十人聞いたら十人がおれがおかしくなったって言うと思いますから。もう終わった話ですけど。怪談、怪談って言うのかなあ、オバケではなかったと思いますけど、あいつ。先輩の集めてる「変な体験」では、ありますけどね。ええ、まあ……もったいぶるつもりはないんですけど。いや、笑わないで欲しいんですけど、ある日家に帰ったら、平安貴族がいたんですよ。あ〜〜……まあ、そうですよね。あんまり突飛ですよね。でも、マジなんですよ、これが。ほんとに。暗い部屋の中で何かが動いたときは、マジで肝が冷えました。「誰だ」って、いやほんとこっちのセリフですよね。誰だよお前。なんでおれの部屋に侵入してんだよ…と思いましたけど、電気をつけたら、それでまた震え上がってるそいつが、あの、あれですよ、平安装束……ほんとですって。それも狩衣でもないんですって。格式ありげな装束を着て、烏帽子被って、どう見ても不審すぎる男が、青いっつーかもう白い顔でぶるぶる震えてて。人間、自分よりビビってるやつを見ると、冷静になるもんですね。脳の半分が混乱してて、もう半分が異様に冷静にそいつを見ている。そいつも、おれを見ている。
    「そこな下人、ここはどこだ」
    とそいつが言ったのを覚えています。今にして思えば、おれが烏帽子を被ってないからそういう風に思ったんでしょうね。しかし、そうだとしても、普通に無礼ですよね。平安貴族にキレてもしゃあないですけど、まあ、おれは自分の名前を言いました。ほら、おれの名前けっこう古風じゃないですか。漢字二文字で戦国武将っぽいし。姉貴も「子」のつく名前だし。名字はふつうの、つまりそいつには聞いたことがないだろう氏でしたけど、とにかくそいつは首を傾げながら、おれが下人でないことに納得したらしかったんですよ。いやしかしそもそも身分によって態度を変えようとするのはよろしくない。そもそも現代にはもはや身分制度はない。いやそもそも身分制度があったとしても態度を変えるのはよろしい振る舞いではない。千年前から来た人間には難しいかもしれないが身分というのは滅ぶべき、滅んだ、概念である、というような滅茶苦茶に循環したことをおれはネクタイを解きながらそいつに説き聞かせました。身分によって態度を変えることこそが身分制の本質ではあるでしょうけど。その日、疲れてたんですよ。仕事帰りで。帰ったら謎の貴族がいて。開口一番下人呼ばわりされるといかに現代人でもふつうに腹が立ちますからね。何なんだこいつ、と思いました。向こうも、そんな感じの顔をしていました。
    「千年……?」
    とそいつは聞きとがめました。
    「今何年だよ」
    「……寛和、」
    確定だなあ。とおれは思いました。目の前にタイムスリップしてきたやつがいると、いざそういう状況になると、妙に肝が据わるというか。で、今が千年後だということをどうやってこいつに説明するか、困ったな、と思いました。これがヨーロッパ世界の人だったら西暦で話は早いんでしょうけど。ああ、言葉……。なんか通じましたね。何だったんですかね。やっぱりオバケだったんでしょうか、あいつ。仕方がないのでおれは、そいつの前を突っ切ってベランダに面するカーテンを開け、サッシを開けて、そいつを手招きました。そいつは黙ってやって来て、一歩ベランダに出て、まあ、おれんち、坂上ったところにある古いマンションの四階だったんで、まあ街が見下ろせるわけですよ。そいつは月くらいしか光るものの見えない夜空を見て、街の灯りに霞んだ地平線を見て、地平線まで波打って続く建物の群れとその輝きを見て、それから自分の立っているところがいかに地面から遠いかを見て、悲鳴も上げずに卒倒しました。据わったばかりの肝が冷えましたよ。意識が操縦桿を手放した人間の肉体って、重いですからね。おれはそいつを苦心して支えて、おいしっかりしろ!と生まれて初めて発話しながら、ソファまで引き摺っていきました。我にはかえったけどまだ顔色が死人みたいになってるそいつにガラスのコップで水をやろうとしたけどビビって拒否されて、おれは考えた末に備蓄のペットボトルの小さいやつを持ち出して、これは水だと、また生まれて初めて発話しました。あいてないから変なものは入れようがない。そいつは恐る恐る頷いて、開け方を教えてやると苦心しながらなんとか開けて、そこでまた止まったので、毒見がいるかと聞いたらいると言いました。何なんだ。おれはペットボトルから水をいくらか飲み、それをそいつに渡して、こわごわ飲んでいるのを眺めました。それで顔色が、めちゃくちゃ悪いけどまあ生きてはいるだろう、くらいには回復したので、そういえば……いやそういえばじゃないんですけど、そいつに名前を聞きました。
    「……藤原道兼」
    先輩声がデカいですって。ちょっと。静かにしてくださいよ。いや、まあ、有名どころじゃないかってそれはそうですけど、いや、おれだって、騙るならもっとマシな嘘つきますよ。いやほんとに知らなかったんです、おれ。だって受験の時も世地選択だったし、古典でもその話はやらなかったし……いや、エピソード自体は薄ら知ってましたけど、その名前までは、ちょっと。……調べようとは、思いませんでした。だってググって何も出てこなかったらまだいいかもしれないけど、自分の知らない、しかし歴史に名を残している、人間が出てきたら、怖いですよ。嫌ですよ。で、まあ、おれは、知らないなあ、と首を傾げました。
    「父は藤原兼家」
    知らないなあ。おれは腹が減ったので、買ってきた弁当と餃子で夕食を食うことにしました。わりと自炊する方なんですけど、その日はなんとなくそうだったんですよ。まさか一人で食うわけにもいかないから、ちゃぶ台の向こう側に座らせて、お前たちは何を食べるの?と聞いてみたらまた首を捻られました。……別にいいでしょうソファとちゃぶ台が同居してたって。話の腰を折らないでくださいよ。テレビもあるしサイドテーブル的なやつですよ。単身で食事用のテーブルと椅子があっても取り回しに困りますよ。椅子がひとつしかなくても不便だろうし複数あっても虚しかろうし。おれの部屋なんだからおれの好きにしますよ。いや、まあ、自分が千年後の人間に捕まって何を食べるのかと聞かれたとして、どう説明したら伝わるのか、何がどこまで残っているのか、けっこう苦慮するでしょうね。粥なら食べるかと聞いたらちょっとほっとして頷いたので、レトルトの卵粥に梅干しを入れてやりました。おれはそうするのが好きなんですよ。梅の種は出していいからね。と必要かよく解らない注釈をつけました。まあ……どうやってここに来たんだと聞いても、分からぬとしか言わない。気付いたらおれの部屋にいたらしいです。おれの部屋に何があるんだよ。もしかしてこいつもう死んでるのかなあ、と思いました。異世界ものってだいたい序盤で死ぬんでしょう、そういうことなのかなあって。で、まあ、そいつをほっといて、おれは風呂入って歯磨いて寝ることにしました。次の日も仕事だったんで。いや、寝て起きたらいなくなってる可能性も、まああるよなあ、と思って。ほらおれの勤め先、そのころはホワイトだったじゃないですか。だからちょっと余裕があって、就職した時に1Kを脱出したんですよね。だから寝室が別にあって。そこに籠って寝ることにしました。雑談する空気でもなかったし、ソファで寝ろよ~って言って布団一枚あげて。いや……まあ、そうですよね。何でそんなにスムーズに受け入れてるんだって話ですよね。おれも正直それまでは世のタイムスリップものにそう思ってました。一般に、部屋に侵入者がいる場合は通報した方がいいですからね。でもね。いざそうなると、いざ空間に異様な存在がいると、いざ異様な世界の異様な理屈に取り囲まれてしまうと、人間、呑まれるというか巻かれるというか。受け入れてしまうものなんですよ。そしてその中でいちばん自然になるように振る舞う。そういうものみたいですね。まあ、その夜も、おれはけっこう健やかに寝ました。
     朝おれはしゃっきり目覚めて、まず窓の外が明るくなりつつあるのを確認してから、昨夜の貴族はなんだったんだろうな、と思いました。疲れのあまり、というか自分では気付いていないだけで疲れやストレスが溜まっていて、変な夢を見たのかもしれない。多分そうだろう。そうじゃなかったらもう説明がつかない、とおれは思って、着替えて寝室から出ました。そいつがおれを見た。おれは、いるなあ、と思いました。固まっててもしゃあないからおはようと声をかけると、そいつは黙って会釈しました。烏帽子が揺れました。明らかに眠れなかったんだろうな、という顔色。この場合どうすればいいんだろう。先輩ならどうしますか? おれはあまりにも気詰まりだったのでとっとと出勤することにしました。だいぶ早かったけど。途中で適当に寄ったコンビニの、紙コップ越しのコーヒーの熱さと苦さ、あの早朝の色、それを、たまに思い出します。その前に冷蔵庫とか台所とかを漁って、まあ何もないんですけど、まあ先輩んちよりはあると思いますけど、食べられそうなものをいくつか探し出して、豆腐とかカロリーメイトとか羊羹とか、適当に与えてから家を出ました。いやおれ朝あんまり食べないし、タイムスリップしてきた人間の前でのんきにルーティンをやってる場合でもない気がして。帰り道が分かったら適当に帰ってねと言えば黙って頷きました。5年保存の羊羹を物珍しそうに眺めてましたね。帰っても、いたら、どうしよう。と思いました。お察しのとおり結論から言うと、そいつは帰っても、いました。
     でも帰り着いた部屋は暗くて、やっぱり夢だったんだな、と安堵しました。そして電気をつけたらそいつが床で寝落ちていて、というか倒れ伏した状態で寝落ちていて、おれは、本当にビビりました。平安貴族って裸足なんですね。いやあこれで死んでたりしたら本当におれはどうなってしまうんだろう、と真剣に半笑いが出ましたが、軽くつつくとそいつは飛び起きて、おれはひとまずよかったと思いました。まあソファで寝るのって、そう大きいものでもないし、コツというか覚悟がいるから、難しいのは分かりますよ。しかし床で寝るにしてもひとつある座布団とクッションの中間みたいなやつを枕にすればいいのに、と思わなくもないですが、まあ嫌な気持ちもわかりますからね。で、そいつは、たぶん朝のおれと同じ顔をしました。寝て起きても、夢が続いている。
     おれは次に、そいつを取り合えず風呂に入れようと思いました。平安装束は、2Kのマンションにいるともう嵩張って嵩張ってしかたないですからね。かと言ってまさかいきなり脱がせるわけにもいかないので、そう思い、風呂を沸かしました。ボタンひとつで済むんだから本当に便利な時代ですよ。そいつに風呂の入り方を教えるのはかなり骨が折れました。この熱湯に入るのかということと、今日は吉日ではないだろうということが、二つ主だったハードルでした。しかしおれは、そのころ正直まだそいつのことを幻かなにかだと思っていて、自分の頭から出てきた幻なら必ず自分と同じ常識を受け入れられるはずだ、と思っていたので、とにかく無茶なことを言って結果的には押し切りました。後から聞いたらそいつは茹でられるのかと思ってビビっていたらしいですね。とにかくそういう訳だからなんとかして風呂に入ってくれ、と言って脱衣場の扉を閉めてからしばらく、聞き守っていても、中からは何の音もしませんでした。開けたら消えてたりしないかな、とおれは思いましたが、そんなことはなく、というのはそいつはそうっと僅かに脱衣場の扉を開けて、「その、」と小さな声で言いました。
    「何」
    「……装束を脱ぐのを手伝っていただけないか」
    束帯って、ひとりじゃ脱いだり着たりできないらしいですね。不便ですね。それはまあもう仕方のないことですから、おれは言われたとおりに手伝いました。随分難解でした。そいつはおれの手つきがあんまりもどかしいので、いやいきなり束帯を脱がせられる現代人がいたらたいした逸材ですけどね、けっこう苛立っており、しかし理性のほうでは苛立つ筋合いがないことも理解しているみたいで、引き絞った声でおれにあれこれ指図しました。こいつって多分「下人」には相当当たりの強い貴族なんだろうな、とおれは思いました。そのような奮戦の末服がだいぶ脱げて、おれは脱衣場を出ました。そして何とかしてそいつは風呂に入ったらしく、おれはユニットバスじゃなくてよかったと思いました。建物自体が古いだけあって水回りにはリフォームが入っていて、けっこう綺麗だったんですよ。それでおれは何を着せるか迷って、寝室の押し入れを開けました。ここも元は和室だったのを板張りに変えてあって、その名残で押し入れがあったんです。見た感じ目線の高さはそう違わない気がするからまあなんとかなるだろうというか、ならなかった場合もなんとかするしかありませんでした。おれは衣装ケースの下の方から高校時代のジャージを掘り出し、それでよしとしました。小豆色のやつ。それで脱衣所というか洗面所に戻り、着替えと靴下置いとくから、と声をかけて、束帯とか指貫とかを回収し、押し入れの空いているところに入れました。ほらおれの部屋ってものが少ないほうだから、収納が余ってて。それからそいつは、小袖姿でそっと顔を出して、風呂の礼を言いました。やっぱりお湯につかるのって良いですからね。烏帽子は外さなかったらしく、表面がかすかに湿っているのが見えました。烏帽子って湿気にあてては良くないんじゃなかろうか、と妙な心配が湧きました。
    「これを着るのか」
    とそいつはおれに聞きました。おれは、そうだ、と言いました。
    「これはあなたの氏か」
    とそいつはジャージの刺繍を指して言いました。おれは、そうだ、と言いました。そいつは押し黙って、おれはそいつにジャージの着方を教えて、そいつは引っ込んで、少しく音を立てて着替えるようでした。
    「これは襪か」
    「し……? 多分そうだと思うけど」
    見守っていたらそいつはちゃんと靴下を履きました。それからおれは、客用布団を適当に見繕って通販で頼みました。そいつをベッドに寝かせておれがソファで寝ることも考えましたが、高さのあるベッドにビビられたので。まあ、腐るものでもないし、あっても損はしないだろうと思って。今まで友達が来た時なんかは、朝まで何かしてるか床に転がしとくかの二択でしたし。
     そいつが夢幻の類でないかは、ずいぶん、疑いました。持続的に見えている幻覚という可能性だって大いにあると思いました。それでおれは、とりあえずモノとして確かに存在する平安装束の写真を撮り、会社で同期に見せてみました。変な話だけどこの写真に何が写っているか言ってくれないか、と。怪談の文脈でいくとこの写真には何も写っていないところでしょうが、同期は「なんで押入れのなかに着物……? 狩衣が入ってるんだ」というもっともな疑問を呈してくれました。おれはもっと詳細に言ってくれと言いました。結果として、写真を見てかれの言うことは色も模様も細部まで、おれが見ているものと同じでした。ああ、じゃあ幻覚じゃないんだ……夢幻だとしても、少なくとも写真にうつる種類の幻なんだ、と思いました。どうしたんだよ、お前、この写真。いや、なんか例の先輩がまた妙なもの手にいれたらしくて、とおれは淀みなく先輩のせいにしました。呪われてるのか? どうだろう。
     そういうわけで、どうやらこいつはたしかに人間らしい、ということを双方だんだん受け入れてきて、おれは、数日の非礼をそいつに詫びました。幻かなにかだと思っていたがためにずいぶん無茶なことも言い、無茶な扱いもしたが、すまなかった。そいつは妙な顔をしました。とにかくそんな風にして、妙な生活が始まりました。ごく最初に問題になったのは、洗髪でした。とにかく烏帽子を外すことに抵抗があるらしく、また髪を濡らすことにも抵抗があるらしく、少なくとも後者はドライヤーでなんとかなるから、と言って無茶を言い髪を洗わせると、以後は洗髪自体は渋らないようになりました。最初に洗ったとき、髪を拭くのが下手で肩がびちゃびちゃになっていたのを、慌ててタオルでわしわし拭いたなあ。ドライヤーには、ビビっていました。まあ熱風が出るなにかしらを頭に近づけられたら怖いですよね。ずっと念仏を唱えていたのを、覚えています。しかし髪が長いと、乾かすのもけっこう手間ですね。おれは自分が他人にドライヤーをかけてやるのが意外と好きらしいということを密かに発見していましたが、そいつは他人に頭を触られるのが本当に嫌だったみたいで、何回かで自分でドライヤーをかけられるようになりました。烏帽子を脱いだら、意外とちっちゃかったですね。いや、言うても背丈そんな変わんないんですけど、烏帽子って、デカいんで。結構圧迫感ありますよ、見てる方にも。まあまたすぐ髪結って被るんですけどね。はは、ほんとに変な話ですよね。ね、異常な状況に、人間意外と早く慣れるもんですよ。
     そいつが現代のものでいちばん気に入ったのは、炊飯器だったと思います。米をといで炊飯器に入れてスイッチを入れると静かに動作して米が炊きあがる、その白いつややかなご飯に、驚嘆の声を漏らしたのが、おれが初めて聞いた、そいつのビビってない声でした。平安貴族ってめちゃくちゃ米を食べるじゃないですか、じゃないですかと言われても困るでしょうが、そいつも米をよく食べました。米とわずかな付け合わせだけで無限に食べるので、おれは、これではまずいと思いました。あまり米ばかりたべると栄養が偏るし、藤原道長だって糖尿病だったという説があるし、21世紀の知識という点で栄養についてはおれに一日の長があるのだから、おれが何とかしてバランスのいい食事をさせなくてはならないと思いました。同じ人間なのだからタンパク質を摂らねばならないと思い、同じ人間なのだから同じようにアレルギーもあるのではないかと思い至ってビビりました。聞いてみれば、うどんの先祖みたいなのも食べたことがあるらしいし、チーズの親類みたいなのも食べたことがあるらしく、大豆も食べたことがあるらしくて、まあそれはよかったんですが、最初に卵を食わせたことに気付いて血の気が引きましたけど、詳しく聞いてみても何もなかったようなので、まあ、大丈夫だったんでしょう。そこが大丈夫ならまあけっこうなものが大丈夫だと思いました。そばと落花生はちょっと怖くて食べさせられませんでしたけど……。
     とにかく、味の濃いものは一般に苦手なようでした。しかし、塩辛いものはけっこう無限に食べそうな気配がありました。しかし米と塩辛いものでは本当に栄養バランスがよくありませんから、おれは、少しは健康によさそうなものを色々試行錯誤して食べさせてみました。生野菜は嫌いました。現代の人間はふつうに食べるから試しに食べてみろとサラダを食べさせたら、かなり微妙な顔をして、千切りキャベツを一本ずつ食べていました。茹でた野菜は黙って食べました。林檎は好きみたいでよく食べました。焼いたり茹でたりした肉はこわごわ食べました。干物のほうに慣れているようで、アジの開きの干物を焼いたらもそもそと食べていました。半額になっていた寿司を買って帰ったら、刺身はそこまで好きでもなかったけれど酢飯のほうを気に入っていて、おれが刺身部分を食べました。おいしかったですよ。まあ新鮮なものを食べれば刺身のことも見直すだろうと思いました。例えば豚肉の生姜焼きのようなものは初めの頃は口に合わなかったみたいですが、茹でた鶏肉のようなものは割と気に入って塩をつけて食べていました。結局塩をかけるのかよとおれは思いましたが、まあ食生活はそうそうがらりと変えることもできませんから、仕方ないといえばそうで、まあ、文鳥か筋肉か平安貴族かを養育せんとする食卓が現出しつつありました。
     ……この話聞いてて楽しいですか? そうですか。甘味とかジャンクなものとかは、少なくとも最初のころはなかなか与えられなかったです、ちょっと、背徳感が。冗談ですよ。羊羹は気に入っていましたよ。炭酸には目を白黒させていました。コーヒーを飲ませてみたら苦さゆえに一口で拒否されましたが、香りは気に入ったようで、おれがコーヒーを淹れていると珍しそうに寄ってきました。いいじゃないですか、別に豆から淹れなくても。ココアは飲みました。アルコール、アルコールはちょっと……。おれ一人じゃ飲まないんですよね。そいつも聞いてみたら「強くはない」らしく、平安時代基準で強くないのなら、現代の酒ってたぶん当時よりも強いでしょうから、まあ飲ませないほうがいいだろうなと思いました。そもそもおれ嗜好品はアルコールよりカフェイン派なんですよ。まあ一度3%の酒を合意の上で飲ませてみたことがありましたけど、ふつうに泣かれて大いに応対に困りました。泣き上戸だということは分かりましたよ。しかし、人間は神経に作用する薬というか毒というかアルコールというものを摂取して酔っぱらったり泣いたり笑ったりするわけですが、それらはどこまでがその人間の本性でどこからが薬物のつくるまやかしなんでしょうか。その涙はその郷愁は涙を流させるその衝動は、どこまでが彼そのものなんでしょう。ああ、話が逸れました、すみません。

     そいつはとても飲み込みが良いやつでした。おれの部屋には入るなと言い置いておれは仕事に行くわけですが、まあ他にどうするわけにもいきませんからそうなるわけですが、基本的に一度や二度教えたことは何でもできました。電子レンジとコンロは危ないから触るなと言っておきましたが、帰ったらそいつが洗って干して乾いた洗濯物をていねいに畳んでいたとき、なにか頭をぶん殴られたように、出ちゃいけない汁が己の血中に滲むのを感じましたよ。殿上人をつかまえて洗濯物を畳ませた人間は古今東西おれくらいなものでしょう、はは……。帰ると家に人がいることが、一人暮らしももう十年近くなった身に鮮烈でした。帰ったら平安貴族がいた日にはもう仰天しましたけれど、いると分かっている人間が帰ればいるというのは、こう、いちばん飾らない言葉で言えばふつうに嬉しかったですよ。タイムスリップしてきた人間が転がり込んできて、呑気に嬉しがっている場合でもありませんが。帰り方は依然分かりませんでした。サイエンスフィクションならば都合よくタイムスリップを研究している博士と知り合いになれるものですけれど、おれにはその存在はあらわれず、すべては全くの謎でした。……先輩に聞けば良かったかもしれませんね。え、聞かれても困る? そうですか。だいたいその頃音信不通でしたよね。どこにいらしたんでしたっけ、あ、そうですか。有益な調査でしたか。それは良かったですね。
     一度、玄関を開けるなり、その玄関先に座り込んでいたらしいそいつが、おれに飛び掛かるように縋りついてきたことがありました。というかもう両手で襟首を掴まれていました。
    「何」
    と、おれは不意打ちに襟首を掴まれてだいぶビビっていましたが、とりあえず問いかけました。そいつは本当に縋る目をしていた。
    「い、板の中に、小さい人間が閉じ込められている」
    テレビのことかあ。昔読んだSFでは「箱」でしたけどさいきんだと「板」という表現になるんですね。おれはとりあえずそいつの握りしめた両手を解かせ、自分の襟を直し、靴を脱ぎ、部屋に入り、天気予報を流しているテレビのリモコンを見つけて電源ボタンを押しました。これで消せる。人間は閉じ込められていない。というようなことを説明しました。そいつはテレビとリモコンを三往復ほど見つめ、納得したのかしていないのか分からない顔のまま、今度は
    「ここはどこだ」
    と聞きました。どこだと聞かれましても千年後の関東ですよ、と言いかけておれは説明に窮しました。
    「奈良のみやこからも遠いのか」
    「遠い」
    おれは簡潔に答えました。関東、東京、江戸……。
    「関西から見たら、富士山よりも東にある土地だ」
    そいつは絶句したようでした。おれは記憶にあるかぎりの旧国名を絞りだしました。駿府?
    「上総。下総。相模。武蔵」
    そいつはその場にゆらゆらしゃがみ込んで、額に手を当てました。文字通り時空を超えているわけです。おれはその心細さを少しでもなんとかしてやりたいと思いました。
    「京都も、今も栄えている。寺社仏閣が多くて観光名所だ。京都御所も平安神宮もあるらしい」
    その言葉がどうにも虚しく響きました。ここに「京都」があったところで、それは少なくともこいつの郷里ではないでしょう。土地が同じでも時間が違う。
    「ふじわら、は、今どうなっている」
    おれはただ黙って、首を横に振ることしか出来ませんでした。
     ……そいつはとても飲み込みがよくて手先が器用なやつでした。洗濯も掃除も教え込めばしてくれるし、炊飯器も使えるし、危なっかしくて怖かった料理だって目玉焼きくらいあっという間にできるようになったし、林檎だって自分で切れるようになりました。帰宅した部屋にあたたかな光があり、ささやかに用意された食卓があり、そいつがおれに不器用に微笑んでみせることに、おれは、愚かにも、傲慢にも、たしかに痛烈な幸福を感じていたのです。

    「私をもといたところに帰してください」
    と数日経ってそいつが頭を下げたので、おれはいささか仰天しました。帰してくれと頼んでくるということは、おれに帰す能力があると思っているということです。そこにまず一大誤解があります。
    「あなたの言いつけを破って本当に申し訳ないが、どうか怒らず聞いてください、私はあなたが私の装束をどこに隠しているか見つけてしまいました」
    率直に言うとおれは一切わけが分かりませんでした。ああさすが先輩は鋭いですね、おれはもっとこまごま言われるまで分かりませんでした。どういうことだ、とおれは聞きました。私は咎人である故、郷里に帰してください、とそいつは言いました。おれは謎が上塗られるのを感じました。
    「妻子もいるのです。どうかお返しください」
    「妻子⁉︎」
    とおれはびっくりして復唱しました。おまえいくつなの。
    「二十四」
    「年下……?」
    郷里に残してきた子が三人おります、とそいつは言いました。おれは、三人、と復唱しました。
    「しかしまあ、その子らの母はおばで、父上の妹であるから、父上がそうおろそかにはお扱いになるまいとは思いますが。私は、いない方が良い父親かもしれませんが」
    はあ、とおれは分かったような分かっていないような相槌を打ちました。私は咎人です、とそいつは思いつめた顔で言いました。
    「六年前、人を殺めました」
    そいつの顔は正気でした。嘘偽りのかけらもありませんでした。だからそれは事実なのだろうと思いました。おれは、絶句して、おれは呆然とそいつの血色のわるい唇のひびわれを見ました。
    「けっきょく、四人殺めたようなものなのです」
    そいつは静かに言って、こうべを垂れるように俯きました。おれは呆然と見慣れてきた烏帽子を見ました。押し殺した声で、そいつは言いました。
    「咎人であるゆえ、帰らねばなりません。父上がお困りになる」
    おれはとにかく呆然としていました。絶句も絶句です。理解が追いつきませんでした。耳の裏に秒読みの単調な声が聞こえました。おれはとにかく、もう一度、はじめから説明してくれ、と頼みました。六年前、ひとを殺めた。その時一緒にいた従者を父が始末した。そうして家の名と父の手を汚したからお役目が回って来て時の帝の食事に薬を――、…………おれは、ほんとうに、どうすればいいかわかりませんでした。
    「毒殺したのか」
    と、とりあえずおれは比較的重要ではなさそうなところを聞き返しました。
    「お命までは」
    お命までは、というセリフをまさか生きているうちに聞くことがあるとは思っていませんでした。おれは秒読みが、じゅうびょーう、と読むのを聞き、頭の中のチェスクロックの電池を無理やりねじ切りました。とにかく冷静になろうと思って、数が、合いません。
    「四人目は」
    「陪膳の女房」
    バイゼン、というのはおれの耳にはよく分かりませんでしたが、まあ実行犯がいたのだろうということは薄らわかりました。わかりませんでした。こいつがほんとうに人を殺めたのかどうか、おれにはわかりませんでした。どうだろう、平安時代であれば、身分の高い貴族であっただろうから、苛立ちが許されてかつ許されなければそうしていたかもしれない、どうだろう、初めて会ったころはどうだったろう、と思い、思えばおれはこいつの怯えているところばかり見ているほとんどそれしか見たことがない、と、それが氷ほどに冷たかった。黙り込んでいるおれの沈黙をどう解釈したのか、そいつは、
    「そんなふうですから、帰らなくてはならないのです」
    と言い継ぎ、おれは、居間の灯りの下でなお顔色の悪いそいつの顔の隈を見ていました。待て、とおれは言いました。いまの話でいちばんおかしな点がある。前半も後半も異様な話だが、なぜそれが順接で繋がれるんだ。
    「罪を犯したがため、泥をかぶらねばならないのです」
    それが妙な話だとおれは思いました。おれにはわかりません。現代人が現代の倫理観で過去の人間のおこないを裁くのは適切ではない行いです。しかし平安時代の倫理観は正直よく分かりません。これが織田信長とかならば、彼が幾人か斬り殺したと告白したならば、いえそれはもう告白にはならないでしょうが、ただ、納得……納得といっては違うでしょうが、適当に相槌を打つしかないでしょう。しかし平安貴族ではどうなんでしょうね。そいつの様子からしてそれはたぶん相当な大罪なんじゃないかと思い、おれは戸惑い、心底戸惑いながら、
    「罪滅ぼしとしてもおかしいじゃないか」
    と言いました。人間の命を数として数えるのは当然あるまじき行いです。しかし、あえてそういった単純な算数の話に落とし込んでしまっても、罪をそそぐためにさらに人を傷つけるというのは、それは計算が合いません。合わないとおれは思いました。そもそも息子の殺人を隠蔽するためにさらにひとり口を封じているらしい父親、しかもその罪に付け込んで汚れ仕事をさせているらしい父親、そいつがいちばん異様なんじゃないのか。ちょっと父親との付き合い方を考えたほうがいい。とまあ、おれは少しずつピンぼけしたことを言いました。目の前の、この、一つ屋根の下でいくらか共に暮らしている男は、ひとを殺めたことがある。その事実を理解して飲み下すにはどれだけでも骨が折れました。信じるのか信じないのか何を信じるのか何を信じないのか。そいつは父親の話をされると少し顔を背けて、
    「あなたが出仕している間に、あなたの部屋を」
    と最初の話を始めました。やっぱりよく分かりません。おれはけっこう困惑しました。
    「おれの部屋にお前の着てた服はあるけれど、それがどうしたんだ」
    と聞いてそいつも困惑しました。双方の誤解をすり合わせるのにいくらか時間がかかりました。要するに、羽衣システムだったわけです。霞ヶ浦なりなんなり津々浦々で、水浴びをしていた天女を見初めた男が、羽衣を隠して天女を嫁にする。嫁にされた天女はしばらくして隠された羽衣を見つけ出し、天に帰っていく。その民話が平安時代からあったかはよく知りませんが、同様の発想はあったということみたいですね。つまりそいつはおれのことを妖術使いか何かだと思ってひそかに疑っていたが、留守中に押し入れから自分の装束を発見し、おれが自分を呪詛して拉致した犯人に違いないと思ったそうです。
    「違うよ。おれは何も知らないし本当にお前を帰してやれる力はないよ。たぶん世界のどこにもまだタイムマシンはないよ……あとお前に遜るつもりもないけどお前に遜られるつもりもないから、タメでいいよ」
    とおれはよろよろ言いましたが、そいつは前半は信じませんでした。こうなってはもう仕方ないので、おれたちは装束を押し入れから引きずりだし、居間であれこれ言いながら着付けを始めました。たいへん難儀でした。おれがたどたどしい手つきで紐を結ぶのを、そいつは本当に必死な顔で見て、祈るように手を合わせて、おれは、現代人は束帯じゃなくてスーツで出勤できるから楽だなあ、と思いました。苦闘の末なんとかそれらしいものが出来て、出来ましたが、出来ましたがなにも起こりませんでした。おれたちは顔を見合わせました。
    「笏……とかは?」
    とおれは思いついて聞いてみました。
    「こちらに来たときから持っておらぬ」
    そうかあ。それからまたいくらかの時間をかけておれはそいつから布を剥ぎました。そいつは本当に見てられないくらいに憔悴していて、おれはちょっともうどうしようかと思いました。……罪を償うって、罪を償うってどうしたらいいかわかりませんけれど、何が正しいのか容易には判断しかねますけれど、もうここから帰りようもないのだから、せめてここで真面目に生き直すのが、少なくとも父親の道具として罪を塗り重ねるよりは、いくらかマシなんじゃないかとおれは思いました。おれは思って、そう言いました。道兼はぐらぐらに揺れる目をつむって、見えざる装束の重みに耐えかねたかのように膝を折って、首を垂れて、

    「帰れないのか」

    とだけ、呟きました。ええ、帰れませんよ、とおれは黙りました。おれたちは少なからぬ時間互いに黙っていました。そしてほんとうに戻れない以上、ここで生きてゆくしかないのだ、とおれは言いました。そいつは蒼褪めた声で頷きました。
    「現代の人間は誰も烏帽子を被らない」
    とおれは重々しく言いました。そいつは答えませんでした。
    「おれには人間を軟禁する趣味はないし、もう本当にここで生きてゆくしかないのだから、髪型も改めたほうが良いと思う、烏帽子姿では人前に出られないから」
    そいつは縋る目でおれを見ました。そんな目で見られても困りました。
    「……試しに見にいってみますか?」
    とおれは何故か敬語で話しかけました。そいつは思案の末こわごわ頷きました。それでおれは押し入れからまたいくらか服を見繕って適当に渡し、上着に何を着せるか考えました。冬のはじめの夜の外出にふさわしいようなしっかりしたコートをおれは一着しか持っていなかったので。仕方ないので次点の上着を着せました。靴を履いて玄関を開けると夜風が流れ込んできて、スニーカーを適当に貸して紐を結んで、いくらか大きかったようですが、良いということにしました。そいつはこわごわと歩いて、おれは扉を閉めて鍵をかけました。そいつは扉をしげしげと眺め、外廊下から見える街とその高さにまた心底怯えているようでした。
    「大丈夫だから」
    とおれは言いました。落ちないから大丈夫だ、というのはわりと自信を持って言えました。ほとんど壁伝いに廊下を歩き、階段、おれのマンションにエレベーターというものは存在しませんから、四階でも階段なんですが、
    「このきざはしを降りるのか……」
    という声が本当に弱り切っていて、おれはちょっと考えた末踊り場まで降りて行ってまた上ってきて、このようになんでもないことだから大丈夫だ、と言いました。そいつは片手で壁に縋りついて、何度もためらい躊躇った末に足を下ろし、それを繰り返すのも自分が高所にいるのもあんまり耐えがたいようで、まあ平安時代の建物ってたぶん大概平屋でしょうから、おれもあんまり可哀想になってとりあえず肩を貸しました。壁についている方の手が汚れないかがなんとなく気にかかりました。とにかく、奮戦のすえおれたちは何とか地上に下りました。
    「この下には土があるのか」
    「あると思うよ」
    冬の夜の住宅街のことですから人通りはそんなにないのですけど、家路の途中の勤め人とすれ違って、その人はおれたちの比較的まあちょっと異様な様子にぎょっとして二度見したようでした。次に遭遇した塾帰りらしい子どもは慌てて角を曲がっていきました。まあ、正しいリスク回避なんじゃないでしょうか。千年後の街を歩くそいつは本当にビビり散らしていて、おれの肩をつよくつよく掴むので、おれは、肩を掴まれると歩きにくいから掴むなら二の腕にしてくれと頼みました。近くに、住宅街の中に、ちょっとした公園がありました。猫の額ほどの広さのなかにベンチと砂場とブランコがありました。ここはたれかの庭なのか随分狭いようだが、とそいつが聞くので、公園と言って公設されている庭だ、子どもの遊び場になる、まあ、狭いな、と答えて、そいつは多少わかったような顔をしました。そのときでした。公園の入り口を横切っていった女子学生らしき集団が、集団から、あきらかにそいつを指した嘲笑が、飛んできました。おれの腕に縋る力がぎゅっと強くなり、おれは不意にこいつが殺人者であることを想起し、しかし、それでなにかが折れたようでした。おれはそいつをどうにかベンチに座らせ、そいつはもどかしい手つきで烏帽子の紐をまさぐり、混乱した紐を無理に解き、烏帽子を脱いで、叩きつけるように握りしめました。握りしめた烏帽子に祈るように額づくようにからだを折って、線の薄い肩が必死に上下して、烏帽子を握りしめる指の節が窒息するかのようにしろく、頭上で髻がわずかに揺れ、髪油がないぶん、というのは髪の長さからしてワックスを貸したらおそろしい量消費されるでしょうからおれが貸さなかったぶん、髪の毛にまとまりがなく、結われた黒髪がひよこか何かのように、罪のないなにかであるかのようにぱやぱやと揺れていました。おれはコートを脱いでそいつの肩にかけてやりました。寒かったなあ。めちゃくちゃ寒かったけど、そんなことはどうでもいい話です。髪をポニーテールとかにするか切るか選べ、今すぐには決めなくていいから、とおれは言いました。父上、とそいつの唇が動いたのを、おれは聞かないふりをしました。

     その夜から、そいつは熱を出しました。けっこうな熱でした。おれは焦りましたし、途方にくれましたし、おれたちの間にあった誤解のことを思い、おれは己の邪智暴虐を痛烈に反省し、もう切腹かなにかしたほうがいいのではないかと思いました。あいつは、故郷で官位も家庭も、罪で形作られた父親への異様な執着もあったわけです。それがいきなり職場から攫われて千年後に飛ばされてしまう。自分だったら、いや自分だったらまだいいですよ、だっておれたちは「未来」に対する想像力を視座を獲得している。千年後に飛ばされたって、SFで読んだやつねと思えるかもしれません、まあSFも基本的には現在の文明の延長線上にある想像力なのですが、とにかくあるわけです。しかしあいつにはその視座の予防接種がなく、また平安と21世紀はほんとうに懸け離れている。それに、まあ、仕事から切り離されたところで、おれは別に転職しようが構いませんけど、そりゃまあ愛着も責任もありますけどけっきょくは替えのきく存在ですけどお互いに、でも宮仕えには替えが効かない。他の選択肢はない。平安貴族にとって内裏での仕事は政治はほとんど人生の主軸そのものだったんじゃないでしょうか。そこからいきなり切り離されてしまって訳の分からない異世界、ほとんど異世界に来てしまって、おまけにあいつはおれが呪詛した犯人だと疑っていたわけです、己を攫い娶ろうとしている己の生殺与奪を完全に握っている、と思っている全然知らん人間と2Kで暮らすの、おれ、無理ですよ。どれだけこわかっただろうかと思いました。どれだけの環境の変化か、どれだけの屈辱か、自分の愚かしさに本当に眩暈がしました。ほんとうに腹を切るくらいしか詫びようがない気がしました。いや、おれがあいつの立場だったら、ストレスで胃に穴があくくらいではすまない気がします。無理ですよ。
     そいつが冷えピタを拒否したので、まああれって乾いたときなんかいやな触感がしますもんね、アイスノンを凍らせて、OS-1とかゼリーとか買ってきて、林檎をすりおろして、そいつを抱き起こして一口ずつちょっとずつ食べさせました。脱水になるのがいちばんいけないだろうと思って。解熱剤かなにかを飲ませることも考えましたが、おまえ薬飲める、と聞いたら頑なに拒否されたので、まあ、毒殺未遂事件があったら薬飲めないよなあ、と思いました。毒殺未遂される方も大変でしょうが、する方も、しない方がいいですね。そもそも平安貴族に現代の薬を飲ませて良いのか、同じ肉体を持った人間だろうから良いのではないかと思うのですけど、解熱剤で済むような、たとえば心労からの熱とかならばいいですけど、よくはないですけど、現代に浮遊している感染症とかだと、本当に、どうしようかと思いました。かけはなれた空間に住んでいて異なった獲得免疫をもつ人間の集団が接触した際、片方が抱いていた病気がもう片方に致命的な打撃を与えるということは、史上ままあることです。だからあまりひどいようだったら病院に担ぎ込むしかないだろうと思いましたけど、しかし何をどう説明すればよいものかという感じですし、だいたい病院って現代人でもちょっと怖いので、万物にビビるこいつをそこに連れて行くのは本当に不憫なような気がしました。しかし、まあ、おれがほんとうに右往左往しているうちに、そいつはなんとか元気に、というか平常っぽい体調になりました。
    「すまなかった」
    病み上がりで布団の中で上体を起こして、起こしたからだをソファに預けてぼんやりしていたそいつの前で、おれは本気で土下座しました。そいつの困惑する音が聞こえました。おれは、おれはお前を攫ったものではない、お前を娶ろうとしたものでもない、おれは本当に何も知らん、帰り方も知らん、しかし気付かず随分悪いことをしたから本当にすまなく思っている、と言いました。
    「おもてをあげよ」
    とそいつが言ったのでおれはビビっておもてをあげました。生きているうちにそう言われる日が来るとは思っていませんでした。こいつの肉体に染みこんだことば、貴族としてのふるまい、ああ本当にこいつ貴族なんだな、とおれは思い、そいつもそれに気付いたのか、すこしばつが悪そうな顔をしました。
    「あなたに悪意がなかったのなら良い。俺はどこにも行きようがないから、帰り道が見つかるまでここに置いてはくれまいか」
    「それは勿論だけど、」
    帰り道は見つからないと思いました、おれは。そいつがあんまり飲み込みだか割り切りだかが良いのが不憫だと思いました。そいつに聞き分けをよくさせているいちばんの圧迫はおれなのです。結局おれに悪意があろうがなかろうが、どっちみちおれがそいつの生殺与奪を握っていることに変わりはないのです。一方がもう一方の生殺与奪を握っている関係は不健全です。そういうことをするのはいやですよ。しかしかと言って放り出すのも、放り出すのも行きがかり上責任があるから、より悪いから、まあ、なんとかしようと思いました。
     あ、そうだ、話は飛びますが、時間を隔てた集団と空間を隔てた集団が同じように遠いのであるならば、逆に過去から病原体が持ち込まれるということもあるのではないか、たとえば、天然痘とか。ということを半月経ってからおれは思い至り、激烈に蒼褪めました。しかし天然痘にはたぶん不顕性感染がないのでたぶん大丈夫なはずで、しかし潜伏期であった場合はたぶん大丈夫でなく、もし大丈夫でなかった場合には天然痘には結局対症療法しかありませんしおれたちはどちらも種痘を受けていない世代ですからたぶん大丈夫でなくなるんだろう、と思い、どうしようもないのでとりあえず祈って、宛先不明の祈りですが、どれくらい意味があるかはわかりませんが数日有給をとりました。まさしく物忌みですね。けっきょく、何とか何事も起こらず、一大バイオテロは未然に阻止されというか不発に終わり、おれは心底安堵し、寿命がかなり減りました。減りましたけど、もういいんですよ寿命なんて、減ろうが、縮もうが。
    「あなたが俺を呪詛したのではないのなら、転がり込んで来て厄介になるのも心苦しい。宮仕するわけにもいかぬだろうが……」
    それはもっともな話です。そういうわけで、ちょっとした暗中模索が始まりました。
     しかし、……そのことを考えない日は、一日も、ありませんでした。そのこと、というのはつまり、そいつが人を殺したのだということを。詳しい事情は、その頃には、聞きませんでした。怖かった。いや、まあ、そりゃ、とんでもない凶悪犯罪だったらどうしようとも思いましたけど、その方向より、なにより、事情を聞いたら、おれは、たぶん、おれの脳と心は、その事情を勝手に正当化してしまう。勝手に曲げてなんらかの余地を作り出してしまう。それが怖かった。そんなかえって罪作りなことをしたくなかった。かれに殺されたひとをその無念を踏み躙るのがこわかった。ただ臆病だったのかもしれません。そうだろうと今になっては思います。でも、おれは、ひとを裁けるほど強くなかった。そいつの口からそいつの話を聞いて、じゃあ、じゃあ仕方ないよとほんの一瞬もひとかけらも思わずにいられるだろうと思えるほど公正でなかった。だから……だから、おれは、ただ逃げたのです。事態を先延ばしにし、逃げながら掌で、どうしようもなく象を撫でていたのです。エレファントインザルームです。

     中学の友達からの結婚式の招待状に返事を書いていた時のことでした。招待状に返事を書くのももう何回目かであり、返信の作法に対してちょっとした馴れが生じていることにちょっとした感慨を抱いていると、そいつが珍しそうに寄ってきました。
    「それがこちらの筆か」
    「うん、まあ、そう」
    見上げればそいつはおれの手書きの文字に微妙な顔をしていました。いや先輩やめてくださいよ。おれの字、まあ、読めますよ。完全に要らんことを言いそうになっている人間と完全に要らんことを言われそうになっている人間の微妙な空気が流れ、おれはそれから逃れるように、
    「そうだ、書道は好き?」
    「……誇れるほどではないが、お前よりは見られる手ではあると思う」
    あ、そうだ、とおれは思いました。忘れていたわけではないんですが、姉貴が書道の人間なんですよね。ほら小学生ってコミセンでやってる書道教室に通わされがちじゃないですか、それでおれはぜんぜんだめですぐ脱走したんですけど姉貴は続いて、なんかはまったらしくて高校と大学でも書道部だったんですよ。だから聞けばなにか伝手でもあるのではないかと思いました。現代では宮仕えせずとも収入を得る手段がある。姉が書家のまねごとのようなことをしていた。お前さえよければ字を書いて収入を得ることができるのではないかと思うがどうか、とおれは聞きました。
    「人に見せるほどの手ではない」
    いやまあ平安時代の基準ですからね。ご覧の通り現代人はたいてい悪筆だからね。おれは百均にまで走り、いや便利ですね、首尾よく書道道具一式を買って帰りました。そして六十枚入りの半紙を突きつけ、なんでもいいから何か書いてみせてくれ、と頼みました。そいつは半紙に驚愕しました。ぺらぺらの硯にも驚愕しました。ビニールにはもはやビビらなくなっていましたが、中の半紙を取り出して矯めつ眇めつ眺め、とりあえず書道道具自体はそう変わっていなかったようで、道具をなんだかんだ褒めたり貶したりしつつ、考え考え、しかし書き始めればひといきに、字を書いたのですが、まあ、おれにはちょっと、ぱっとは読めませんでした。で、おれは、その紙の写真を撮りました。「突然変な連絡をして申し訳ないけれど、このような字が書ける人は書家になれると思うか」、と。珍しいことに直ちに既読がついて、姉は電話で折り返すと言いました。おれはそいつに、いまからこの板が筒になって声が聞こえるけれど、物怪ではなく姉だから心配しなくていい、と言いました。
    「なれるというか、もう第一線で活躍するような方の書よ、え、何があったの」
    と姉はかなり戸惑った様子で食い気味に聞きました。おれは、眉間を揉みました。
    「あのさ、おれがおかしくなったと思わないでほしいんだけど」
    「え?」
    おれは前撮った装束の写真も姉に送りました。姉の困惑の声。
    「物的証拠として現に存在するこれらをもって、ほんとうのことだと思ってほしいんだけど、おれがおかしくなったと思わないでほしいんだけど、」
    おれは言葉を切って、そいつがたしかに目の前に存在することを見ました。そいつはおれの視線に怪訝そうに眉を上げ、それがなんだか邪気がなくておれはなぜか息だけで笑い、
    「平安貴族がうちにタイムスリップしてきた……っぽい」
    姉は絶句しました。しかし冗談としてはずいぶん手が込んでいますし面白くもないし、本当に存在する書が、たしかに並の現代人の手ではなさそうなことは揺るがしようがなかったらしく、姉は、その方は何と名乗っておられるのか、と聞きました。おれはまたそいつに目をやって、「……藤原道兼」、
    「七日関白⁉」
    おれたちは顔を見合わせました。そいつはきょとんとした顔をしていました。姉はね、日本史選択だったんですね。それで真面目に勉強してたんですね。おれたちはなにも知りませんでした。そしていくらかのやり取りがあり、姉貴は、信じがたいことをたしかに信じ、大学の書道部で付き合いのあった先生に連絡してみる、と約束してくれました。電話を切り、おれは、まあ、よかったね、と言いました。
    「そういえば、これは何を書いたの」
    漢詩だ、とそいつは言いました。そう言われればたしかに漢字っぽいものが規則的に並んでいる気がします。絶句だか律詩だか七だか五だか、おれは遠い記憶を思い出しました。そいつはすらっとした蔵人の指で字をなぞって、イジョウの朝雨軽塵をうるおす、客舎青青柳色新なり……と、静かに読みました。「あ」、とおれは声を出し、そいつは口を閉ざしておれを見て、おれは、「知ってる」と言い、本当にめちゃくちゃに必死になって、遠い遠い遠い記憶を掘り返しました。受験本番より何より必死になって思い出そうとしました。知ってる、たぶんぜったいに知ってる、高校の古典でやったはず、教室のしろい翻るカーテン、黒板消しの粉、いや何年前の話だよ、教師が黒板を叩きながら柳は別れのイメージに結びつく、生命力が強くてどこででも生きていけるから、というまめちしきを言ったのを聞いたのも覚えている気がする、たぶん、あ、

    「西のかた陽関を出づれば故人無からん」

    それが、正解のようでした。そいつは目を見開いてちいさく首を振って、喉元が小刻みにふるえて、大きく息を吐いて、はじめて、安堵がこぼれたようにほうっと笑いました。
    「知ってるのか」
    「知ってるよ」
    思えば、それがそいつが初めてここででくわした「故人」なわけです。その安堵がおれにも嬉しくて、おれは、
    「まあもうお前と一緒に生きていた人たちはみな千年前に故人になってるわけだけど、」
    と本当に要らんことを言ってしまいました。言った側から猛烈に反省しました。現代とは故人の用法が違いますがそれくらい推察がつきます、みるみる落ち込むそいつに慌てて、
    「これからこっちで知り合いも友達も増やしていけるよ。おれがいるよ」
    と後半というか本題というかを言いました。
    「二度と会えぬのか」
    俯いた頸に、後れ毛が散っていました。人間の頚椎はいくつあるのだっけとおれは思いました。
    「二度と会えぬまま、もう、父上も兄上も弟も」

     結局髪はとりあえずひくいポニーテールに結ぶことに妥結され、おれはそいつをとりあえず近場に連れ出してみることにしました。住所氏名連絡先を書いた迷子札を持たせてなにかあればこれを人に見せろと言い含め、相変わらずビビりながら階段をようよう降りて、冬晴れの青空に雲がいくつか浮かんでいました。京都の空もこのように青かったか、とおれは聞き、そいつは首を傾げました。まあ聞かれても困るでしょうね。上腕をかたく掴まれたままだらだら坂を下って、微妙に気まずかったのを覚えてます。ひとつ結びで帽子もないのは童子の髪型だ、とそいつは小さく言いました。現代人は烏帽子をかぶらないからどうしようもないなあ……。
     これが市だ、と小さめのスーパーを紹介すると、そいつは露骨に物量に圧倒されていました。おれは、かつて東側と呼ばれた国の人が西側と呼ばれた国で資本主義に圧倒されているところの映像を思い出しました。ドンキとかカルディとかで発生するような「資本主義酔い」とも言うべきなにかがスーパーに対しても発生しているようでふらふらしていましたから、ちょっとかなり不安ではありましたけど、店頭の青果が並んでいる軒下にそいつを残し、なにがあってもここから動くな、誰に何を言われてもついていくな、何かあれば誰かをつかまえて迷子札を見せろ、と言い含めて買い物に行きました。
     しばらくして戻ると、ガラス越しに見るそいつが少し腰を屈めていて、おれはやや慌てて買い物袋を提げて駆け寄りました。
    「おにいちゃんにあげる!」
    邪気のないこどもの声。その子どもに視線を合わせようとして、しかし差し出されたものを受け取って良いものかと困惑しているらしいそいつはおれを見てわりと露骨にほっとして、おれはとりあえずその子どもの親御さんに会釈しました。
    「連れがすみません」
    「いえいえ、こちらこそご迷惑を」
    おっとりした感じの方でした。その子のちいちゃなてのひらには三粒いくらか時期はずれのどんぐりが載っていました。
    「くれるの?」
    とおれはその子に聞いてみました。
    「そっちのお兄ちゃんにあげるの!」
    だってよ、とおれはそいつを軽くつついて、そいつは呆然とどんぐりを受け取り、ほっそりと礼を言いました。坂を上って帰るあいだ、そいつはずっと掌上のどんぐりを眺めていて、落とさないかいくらか心配でした。
     どうやらもう戻れそうにないと決心してから、部屋にひとつ、ちょっとした棚というかカラーボックスを置いて、私物はそこに入れてくれということにしていたのですが、そいつはその天板にどんぐりを並べて、しげしげと見ていました。故郷に残してきた子どもたちのことを思い出したんだろうか、とおれは思いました。
    「似た実を知っている」
    それはよかったね、とおれは言い、虫が出るかもしれないからどんぐりを煎ってもいいかと聞きました。どんぐりを適当に加熱してまた天板に並べる、その横顔に、わずかに怯えと困惑が滲んでいたのを、静かに覚えています。

     ある日仕事で、にわかに、滅多にない事故のような業務上の大災害が起きたことがありました。おれや同僚たちはもうたいへんな対処に追われ、部局のなかは大混乱でというかもう部局もはみ出していて、終電は流れてゆき、事態がひとまず小康を得てわれわれが家路についたころには日付も変わっていました。おれはタクシーで行き先を告げたのち爆睡してしまい、ほんとうに滅多にないことなんですが、マンションの前で運転手さんに起こされました。まだぼんやりした頭で共用部のポストをたしかめ階段を上り始めて、ほんとうに酷い話ですがおれはそのとき初めて、道兼の存在を思い出しました。慌てて携帯を見ましたが別に連絡はなく、いえ、考えてみればあいつはおれに連絡を寄越す手段の一つもないのです。基本的に規則正しく動くおれは帰宅する時間も基本的に一様でしたから、この事態がたぶん心配をかけただろうことは確かだと思いました。チェーンをかけるよう言っているからもう寝ていたら困ったことになるかもしれないと思いながらおれは四階に上り、鍵穴に鍵を突っ込もうとして、ふとドアノブを捻りました。開きました。
    「道兼?」
    暗い台所にいた烏帽子のかげが、家の中では烏帽子をかぶっていましたから、おれを見て、三遍もおれの姿を上下に見分して、泣きそうな声で
    「よくお戻りに」
    と言いました。ああいやごめん、ちょっと仕事で遅くなって、とおれはもごもご弁明し、平安京の治安って雅そうなイメージよりも悪いのかなあと思い、悪そうだなあと思い、僅かにそいつが犯してきた罪のことを思いました。薬だと言って毒を盛った人間には薬に対する躊躇いが生じる。ある日従者がいなくなってそして帰って来なかった人間の思考には、人間がある日いきなり消える可能性が染みている。人間を殺したことのある人間は、人間が殺されることがあるということを知っている。理不尽に他者の明日を奪った人間が、明日を信じられるものでしょうか、そんな都合の良いことがあるのか、おれには、わかりません。それにもう、あいつの明日は、もう、一度ジャキンと裁ち切られてここにいる。そしてその上そいつは、いま、おれが死んだり消えたり帰ってこなかったりしたら、この異郷でほんとうにどうすることもできないのです。その歪さを今さらのように突きつけられておれはひどく怖かった、我に返って自分は、ひとの生殺与奪なんて、ひとつも握りたくなかった。
     そいつはおれに近寄って来て、何も言わずにおれの肩を遠慮がちにぺたぺた触ってなにかを確かめ安堵しているそいつを見て、おれは刺されたとでも思ったのか殺されたとでも思ったのかと途轍もなくろくでもないことを口走りそうになり、かろうじて口走らずに舌を噛み、そのときふっと音を立てて目が合って、おれは、ああ、もう、駄目だ、と思いました。こいつは今、まだ、ほんとうにすべてをおれの掌上に委ねるしかない身なのです。いくらこいつが故郷で蔵人だろうが何位だろうが殿上人だろうが上達部だろうが関白だろうが右大臣の息子だろうが、現代のこいつは戸籍すらない、まだ収入も確立していない、帰り方は分からない現代のこともまだよく分かっていない、そういう比較的非力な存在なわけです。そいつに対してその時心がもうどうしようもなくぐらつくのを感じましたが、おれは、それはそれだけは駄目だと思いました。それはフェアではない。不健全ですよ。そうは思いませんか。おれは思いましたよ。できるだけの速さで矢倉の定跡を頭の中で誦じ組み立てとりあえず、おれはね、そう決意したんですよ。……したんですよ。言い訳ですよ。

     おれはとりあえず自分の名義で、簡単に使えるスマホを一台契約しました。それで、あるでしょう、いま、現在地を共有できるアプリが。合意ですよ、あらぬ疑いですよそれは、先輩にとっておれはそういうことをする人間に見えますか。いえ……。先輩嫌いそうですもんねそういうの、まあ先輩が変なところ行ってるのを共有されたらそれはもう一方的に災禍ですけど。おれも多少いやだなとは思いましたけど、それ以上に、実利が。おれはそいつの帰巣能力に大いに不安を抱いていましたし、おれがどこにいるか参照すれば把握できるのは、まあ、できた方がいいだろうと思いましたし。いやいいですよ位置情報くらい握られても、もともとフェアじゃない関係なんだからそれくらい、というか位置情報見られるのは向こうも同じじゃないですか。譲歩にもなっていませんよ。
     それから姉をさらにせっつき、また同時にそいつの筆名と来歴を考えました。「藤原道兼」ではあまり平安貴族すぎます。だから適当にいとこの名字でも借りたらどうだというのがおれと姉の行き着いたところでした。「遠い国で育ち、家の書斎にあった和様書の図録で書を学んだ。ゆえに日本語の書き文字は崩し字の方が描き馴れている」という突拍子もない口裏合わせも作りましたけれど、タイムスリップとどっちが信憑性ありましたかね。かなり微妙ですね。
     というようなわけで何某という氏をかりに名乗ってはどうかと思うのだけど、と打診してみるとまあ予想通り嫌な顔をされましたけど、まあそいつにとって己が藤原であることがどれだけ大きなものであるかはうっすら分かってきていましたけど、まあお前の藤原姓を剥奪したいわけではない、ただあまり古風な名前だから仮に……と言い縋ればそいつはちょっと意外そうな顔をしました。
    「そうなのか」
    「うん」
    「ではこれは何だ」
    「ジャージだけど」
    という噛み合わない会話の末、おれは己の非を悟って深く陳謝しました。べつにお前をおれの名字にしたかったわけではないのです。本当に。だいたい服をなんとなく共有できるからなんとなく最低限しか服を買い足さずにここまで来たけれどもそれもあんまりな話ですよ。
    「服を買いに行こう」
    とおれは言いました。
    「しかし装束を誂えるにはずいぶんかかるだろう」
    「貯金ならある!」
    とおれは力強く言い切ってしまい、言い切った言葉の端がばさりと落ちるのを感じてにわかに恥ずかしくなり、まあ現代の服はけっこう安いから大丈夫だ、と言いました。おれはこれから先の人生で、貯金ならある、と宣言することが再びあるんでしょうか。ない気がしますよ。ちょうど新卒数年目でしたから、まあ微妙にあったんですよ、貯金。
     そういうわけで、おれはいくらか先の駅ビルにそいつを連れて行くことにしました。初めて電車に乗るそいつに切符の買い方を教えてICカードを新しく買わなくちゃと思い、駅の環境音とそれなりに犇いている人間に気圧されているそいつに気分が悪くなりそうだったら言ってくれと言い、まあいつかはこなせるようにならねばならぬことですから、七両の電車に乗り込みました。車内は満員というほどではないけれど立っている人がそれなりにいて、そいつがせいいっぱい控えめにおれの右腕に縋りついているその手の甲をおれはそっと叩いて、そいつは車内の動画広告に驚いて猫のように固まっていました。上京してきたばかりの頃のおれも、あの広告に驚いていたような気がします。田舎の電車の広告って動かないし競艇とマナー啓発と切符だけですからね。あれば良い方ですけどね。
     駅ビルで適当な店に入って、こいつに似合う服をいくらか見立ててくださいと頼んで予算を伝えて身柄を引き渡されるような顔になっているそいつを宥めて、そいつがとっかえひっかえされているのをおれはそれなりに真剣に眺めていました。「何でもお似合いですね」、という接客フレーズにいくらか本気が滲んでいたのでおれは慌てて割って入り、それはそうでしょうが、特に似合うやつを見立ててください、と頼みました。要らん世話すぎるしもうシュールギャグの様相ですが、その時はそれなりに真剣でしたよ。本当に。笑いすぎですよ先輩。とにかくまあそんな感じでそいつはやたら髪の長い現代人という感じになりました。袖先は長い方が好み、というかあまり手を露わにするのは行儀が悪いらしく、少し袖が長めの服を選んでいましたが。しかし結局、そいつは部屋着には例のジャージをそれなりに好んで着ていました。着心地が気に入ったらしいですね。ジャージも衣服冥利でしょうね。

     ……あいつは、音楽が好きなようでした。防災用の持ち出し袋に入っていたラジオでNHKを熱心に聞いていました。おれはいわゆるクラシック音楽のことを基本的にほとんど知りませんから、もしかしたらもうあいつの方が詳しかったかもしれません。まったくの異郷のまったくの遠い国の設計図に、この異郷で組み立てられる音色。ぎんいろのアンテナを伸ばして見えない波を指先に絡め取っているときの、そのときばかりは、ほとんど穏やかな充足が、あいつの上にもあるようでした。
     ご存知の通りおれは将棋が少々好きですが、将棋に付き合ってくれることもありました。大人に一から将棋を教え込むことってなかなかないから面白かったですよ、みるみる強くなったし。碁はないのか、囲碁はやったことないなあでも存在は知ってるよ、いま娯楽としての主流は将棋だけどプロも存在する、もし望むなら碁盤でもなんでも用意するからおれに教えてよ、とおれは言いましたが、そいつは黙って首を振り、将棋を教えてくれ、と言いました。しかしそれもあまり不均衡な気がして、おれは碁石を手に入れ、将棋盤を九路盤としてプチ囲碁をやることもありました。いやあ強かったなあ。難解なゲームですよ。よく頭が回るやつだから囲碁も将棋も強かった。おれの持っていたやや偏った研究書も読み解いて、中級者くらいまではすぐ上がったんじゃないでしょうか? そうやって指しているときのことでした。中盤でそいつがずいぶん鋭い勝負手を指してきて、どう応えるか正しく応じられるかでこの一局の運命が決まると思うとおれは真剣に姿勢を正して読みなおしました、そいつはそんなおれの様子を見て、嬉しそうに、こちらに身を傾けて、俺も強くなっただろうがと笑い、それが、おれは、その踏み込まれた一歩ぶんおれは、じゅうびょーう、と耳の奥でチェスクロックが刻むのを聞きました。いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、だめだだめだそれだけはだめだ、と思いしかし感情は勝手にもう投了しようとしていて、その白いなめらかなかすかに動く喉元を見て理性は、湯上がりの乾ききっていない髪が一筋垂れているのに気づいて、それは、もう、だめだ、と念じ、局面を読もうとして読んで読もうとして、「ん?」とそいつが眉をあげて首を傾げるから先生すみませんおれもうだめみたいです、と虚空を仰ぎました、というのもおれには師事した先生っていませんからね。もうだめでした。もうだめでした。対局にはまあ勝ちましたけど。


     つきあいで飲み会に行った夜のことでした。おれは先輩とは違って酒にそう強い方ではありませんが、倍量の水を飲めという教えを徹底して守っているので基本的にあまり酔いません。しかし、それ相応に液体を口から流し込んでいるわけですから、深夜の、ふだんには起きない時間に目を覚ましました。寝室の扉を開けると、床にしろく満月の光が切り取られていました。街明かりだったかもしれません。おれは光がさしこむ方を見て、いくらか開けられたカーテンの裾のところにそいつが座り込んでいるのに気付き、ビビって声を出しました。
    「何してんの」
    目が薄暗がりに慣れると、片膝を立てたそいつは、なにか書いていたらしいことが分かりました。
    「お前に詠んでやる詩ではない」
    と、そいつは紙を隠そうとして、おれは、
    「いいじゃん、読み解くから見せてよ」
    と戯れつくようにその手から紙を奪いにかかって、そいつはそれを受け入れました。月光が、というか夜の輝きが、あんまり白くあんまり滑らかに筆蹟を流れていきました。遠くで聞こえる踏切の音。終電はとうに終わっていますから、貨物列車の道行きだったかも。流麗な漢字の5×4。これは、「月」っぽい。月。上。光。……頭。低。頭。山。三行目と四行目は二文字目に「頭」が来るから対句、頭にまつわる対句……「李白?」
    それが当たったらしく、まあおれは漢詩人の名前を杜甫李白白居易陶淵明しか知らないのですが、白居易は長恨歌陶淵明は桃源郷としか知らないので実質二択の賭けなのですが、そいつは、驚いた顔をしました。
    「頭をあげたりさげたりするやつ」
    そいつはおれのアホな言に何度か頷き、滑らかにおれの手から紙を取り上げ、静かに折り畳み始めました。
    「頭を挙げて山月を望み、頭を低れて故郷を思う……べつに当てつけを書こうと思ったわけではない。……ただ、夜が明るく」
    そりゃわざと留め置いているときにそう言われれば嫌味だとも皮肉だとも当てつけだとも感じるでしょうが、あいにく帰してやるすべを持たないおれとしては、それはそうだろうね、と同情を小分けにし憐憫を瓶詰めにするほかありませんでした。瓶詰めにして、漏れぬように割れぬように。なんて可哀想に、千年の彼方まで流謫されて、と。どのように流されてきたかも分からないのは、帰り道が分からないのは、罪人であるがゆえなのでしょうか。共に生きていた人間はもうみな千年も前に死んでいる。思えども、帰るべき故郷は、少なくとも今にはもうないのです。
    「髪を切ってくれ」
    とそいつが出し抜けに言ったので、おれはけっこう驚愕して「髪を⁉︎」と復唱しました。
    「なんで今」
    今髪を切る流れでしたか? 唐突な宣言におれはほんとうに困惑しましたよ。
    「麦秀黍離」
    とそいつは言いました。切れ切れに話すところをまとめると、要するに、もはや故郷はないが変わらず麦は生える。何もかも変わってしまっても、変わらぬものがある……「ようやく、覚悟が決まった」と、そいつは結びました。決まったのが覚悟だか諦めだか、おれは知りません。
    「髪を切ってくれ」
    とそいつはおれに改めて頭を下げました。
    「今から?」
    とおれは問い返しました。おれは酔ってこそいませんが、深夜ですから。
    「朝になればかならず俺の決心は揺らぐだろう」
    とそいつは顔を歪めて言いました。朝になった程度で歪む決心ならば断髪しない方がいいのではないかと思いましたが、しかし合理の話だけをするならば、髪を切ってしまうのが、いちばんここでやっていくのに都合が良いのです。ひどい話ですが、おれは了承しました。風呂場の椅子に座らせて、自治体指定のゴミ袋にひとつ穴を開けて、まあ、一枚くらい良いですよ。髪用の鋏が無いんだけどとおれは言い、そいつは別に構わんと言いました。いえ、だって、断髪する決心がついてないのに勝手に断髪用具を準備されてたら、怖いですよ。嫌ですよ。そしておれはこんなに急に断髪させられることになるとは思っていませんでした。おれはそいつにゴミ袋を被せ、そいつはそのときまで家の中ではつけていた烏帽子の紐を解き、髻を解き、おれは本当に良いのかとあまりの不安にしつこくしつこく確認してしまいました。三度目でそいつは決心が鈍るだろうが、と嫌な顔をしました。なおおれが聞いてしまうので、
    「剃髪を勧めるのか勧めないのかどちらかにしろ!」
    「剃らない、剃りはしないから……」
    「似たようなものだ」
    という滑稽じみたやりとりがあり、おれはとうとう恐々そいつの髪を手に取り、髪のその手触りに人生におけるいくらかの記憶が惹起され、それとはまた全く別個に指先が小さくふるえ、美容師免許持ってないんだよなあとおれは思い、切るぞと宣言して、そいつが鏡越しに頷くのを見て、髪用でない鋏が微妙に嫌な音を立てました。蛍光灯が妙に薄暗くて洗面所の隅に暗闇が蹲っているような気がしました。そのようなことがあって、そいつは、雑踏に溶け込める程度の長髪になりました。それ以上に短くするのはちょっとおれの技量が足りませんでした。……だいたいそんな感じでした。


     ほどなく都合がついて、おれたちは、いやべつに最初から「たち」で呼ばれたわけでもなかったでしょうがおれがついていって、姉貴の大学の書道部の先輩と某所の喫茶店で待ち合わせることになりました。さすがに喫茶店で墨を広げるわけにもいきませんから、半紙と筆ペンだけ持って。いくらか長く電車に乗っている間、そいつは、牛車にも馬にも有りうべからざるだろう速さで流れる車窓に、顔を顰めて、目を開けたり閉じたりしていました。
     おれたちはだいぶ早くその喫茶店に着きました。プリンでもパフェでもプリンアラモードでもクリームソーダでも、おれもあまりよくは知りませんけど、折角なら喫茶店らしいものを道兼に食べさせてやりたいと思ったからです。そいつは写真つきのメニューをずいぶん熱心に繰って、なにを選ぶかずいぶん決めかねているようでした。そんな覚悟で決めなくて良い、とおれは言いました。また来ればいいから、とおれは言ったような気がします。
     結局そいつはクリームソーダを選びました。みどりいろのソーダにアイスクリームとさくらんぼの乗った、きらきらしたグラスに、そいつは鞄から携帯を引っ張り出して珍しそうに写真を撮り、おれはスマホケースもあった方がいいだろうなと思いました。しかし、しかしですよ先輩、あれって食べるのがほんとうに難しい食べ物なんですね。あいつはソーダの炭酸に目を白黒させたりバニラアイスをつついてみたり呻吟していたので、ソーダが炭酸だというのを忠告し忘れたのはおれだから、と言っておれもバニラアイスをつつくのに参戦しました。そいつがさくらんぼを食べている間におれはソーダを吸って若干咽せました。溶けて若干溢れてグラスの外側についたアイスの筋で指がべたつきました。しかしさくらんぼもさくらんぼで見かけ倒しな食べ物ですよ、可食部位が少ないですよ。とにかく二人で一生懸命になってつついたりなんたりするわけですが、そうするとどんどんアイスは溶けて、ソーダの輝きも濁るわけです。クリームソーダは鑑賞用の食べ物なんだろうなと思いました、おれは。
     そんな感じに静かにどたばたしていると、姉貴の先輩がいらっしゃいました。静止画一枚だとどうしてもなんとかして捏造したように見えるから、というような感じで、先生より先に先輩が出てきたみたいです。喫茶店で待ち合わせといえば詐欺の定番ですが、まあこの場合どちらがより怪しいかといえば、控えめに見ても倍はおれたちの方が怪しいですからね。
    「何を書きましょうか」
    そいつは、中身を飲み干されてべとべとになったクリームソーダの器を可憐に横にのけて指先をおしぼりで丹念に拭い、綺麗な笑顔を、いかにも貴公子らしい微笑を相手に向けました。怯えていなければ外向きにはこのように笑うのだ、とおれは思い、ちょっとした後悔に苛まれました。姉貴の先輩とそいつはおれにはわからない話をいくらか交わし、したがってかれらの話が噛み合っていたかもおれにはわからないのですが、とにかくそいつは何枚か書をしたため、その人の表情はみるみる変わっていきました。
     とにかく明確に、すぐに先生に引き合わせてくれるとその人は約束してくれて、その会は散会しました。いやなんかこう言うとめちゃくちゃ詐欺みたいですけど、客観的に判定すれば騙してるのは、平安貴族に嘘のプロフィールを持たせているのはおれの方でしたからね……。
     ……帰りに、駅の雑踏で、道兼を一瞬見失いました。おれは無意識にあの長髪を目印にしてあたりを見回し、見当たらず、「肝が冷える」の「冷え」が喉元から内臓にゆっくり飲み下されつつあった瞬間
    「おい、」
    と思わぬ方から名前を呼ばれて、おれは振り返り、数歩の距離にいたそいつは一瞬、ただごく普通の現代人に、ごくふつうの好青年に見えました。
    「道兼」
    髪切ったんだったなあ。よく見れば立ち姿にいくらか平安じみたところがあって、でも、もう、こいつこっちでちゃんと生きていけるんじゃないか。そう思うとほっとして、
    「どうしたんだ」
    とそいつは怪訝そうにおれの方に歩み寄ってきて、おれは、もう、だめでした。こいつがどこから来たのだか、おれは明確には知りませんタイムスリップの原理なんて知らないからです、知りませんけど、平安時代だろうが異世界だろうがもし月から落ちてきたのだとしても、こいつを故郷に帰したくないと思いました。帰路を探るよりこちらで生活して行く手立てを探るほうに力を尽くしたいと思いました。思いましたと言うかまあ他の選択肢はなかったのですけど。
    「帰ろう」
    とおれは言い、多機能券売機でICカードを買って、道兼に渡しました。おれたちは人波にちゃんと流されながら改札を通りホームに上がり、電車に乗って来た道を戻りました。

     それから最寄駅を出たところのドラッグストアに寄り、ドラッグストアの照明は現代人の目にもへんに眩しいものですから、あいつはずっと目をしぱしぱさせていました。ささやかな甘味の売り場で、雪見だいふくと、あいつが好きなみかんゼリーと、おれが好きなクーリッシュを買い、アイスの旬は冬ですよ、いくらかの生活用品を買い、吟味のすえ、前とおなじハンドクリームを買いました。家事は分担していましたけれど、水をそうそう触らないはずだったろう、水仕事なんてした事もなければすることがあろうと思った事もなかっただろう天人の手は、とにかくよく荒れました。それがいかにも気が引けて水仕事はなるべくおれがやりましたけど、それでも。でもなんか、なんというかおれは、こんなこと言えませんけど、言えませんけど、ハンドクリームを塗るそいつのかすかに荒れた手が言いようもなく、なんと言えばいいかわかりませんが言いようもなく、少なくともそれは間違いなくあいつがこちらに来てのみ起きた変化ですから、それが、そこに、安堵していたような気もします。天人のようにきれいな指に手のひらに、綻びを、欠けを見て、それをこいつがほんのわずかにでもこちらに落ちてきた証だと思いたがっていたような気もします。
     坂を上りながら、
    「こちらの人間は俺を嫌わないのだな」
    とそいつはこぼしました。
    「ああそうだ」とおれは言いました。
    滑稽な話かもしれません。ずいぶん驕った滑稽な物言いに聞こえるかもしれません。でもおれにはそいつがこぼした嘆息がよく分かりました。先輩にはわからないかもしれませんが、活ける伝説としてその名を轟かしかずかずの逸話を豪胆に話すあなたにはわからないかもしれませんが、自分にもはや二つ名がないということの安らかさって、あるでしょう。こいつが例の、という目で見られることの苦しさ。自分に枕詞がつかないことの安寧。知らない人間から一方的に知られていることのそのやわらかな苦痛からの解放。己が目の前の人のことを知らないのと同じくらい、目の前の人も己のことを知らない、その等価の未知の安らかさ。しかしね、視線という呪いでしか生きていけない状態というのもあるのです。呪いばかりでその圧で輪郭をこらえていることもあるのです。深海魚は引き揚げると死ぬでしょう。おれは、大学に進学して、はじめてただの一学生として扱われたときの嬉しさ気軽さ気楽さ喜ばしさ、そして今までは何だったのだ今まで耐えていた重みは自分でない人間にとっては/おそらく自分にとっても不可欠なものではなかったのだじゃあ今までの辛抱はなんだったのだ、と思った春の日々を思い、どこへ行っても権門の次男坊として兄の弟として弟妹の兄として父親の息子として扱われ続けたであろうそいつの二十三年を、思いました。ただ一人の対等な人間として扱われることはこんなにも自由で軽やかで、稚魚だったころのおれはそんな世界があることを、もっと早く知りたかった。やっと呼吸ができて、やっと輪郭が解けて、それは苦しいことでもあって、けれどやっと人間になれる。
     おまえはおまえの筆でこれから世に出ていくことができる。ここの人間は誰もおまえのことを知らないから、というのはつまり、とおれは声に出さず、誰もおまえが背負う罪と権威を知らないから、と思って、誰もおまえを嫌って恨んで憎んでいないから、いまから、真っ当に生き直してくれ、と言いました。誰もお前のことを知らない。誰もお前に傅いたり憎んだりしない。だからもうお前は道具にならなくていい。


     夕陽。駅からの長い上り坂。ドラッグストアの買い物袋がかさかさ言う音。おれは坂の途中で立ち止まって、真っ当に、これから真っ当に生きようよ、とそいつの顔を見て言いました。歩道を自転車がベルを鳴らして迷惑そうに走り抜けていっておれたちは慌てて歩道の端に飛び退き、もう交通事情がよくないですよ、そいつは長い逡巡の末、おれの手から買い物袋を奪い、さきに立って歩き出しました。

     おれは先輩にあなたに、あいつがおれに話したことを呟いたことを語ったことを溢したことをあいつが何をしてきたかさせられてきたか何をよすがとしてその若い日々を生きたかをその全てを語るつもりはありません。そのどこまでが真実でどこまでが欺瞞かを厳密に判断することもできません。しかしあいつがおれにおれだけに話したことは、おれは墓場まで持っていくつもりですが、それを先輩にお話しするのはあいつにずいぶんすまないと思いますから、しかし、とにかく、けっして「真っ当」ではありませんでした。おれはそれを引き留めたかった。引き摺り出したかった。頼むから真っ当に生きてくれ。ここではもうだれも、おまえを憎んでいないのだから。

     その夜のことです。あえかに異音がして、おれは耳敏く目を覚ましました。半ば寝ぼけながら手探りで枕元の電気をつけて、居間に出て、ベランダに面したカーテンが開けられているのと、自分の背後から射す光によって、敷かれた布団にそいつの姿がないのを認め、目が覚めました。しぜん、開けられたままの、台所に通じる扉をくぐり、閉められた便所のドアの下から、黄色く光が漏れているのを見て、扉の向こうからくぐもった、たぶん苦痛の声が静かに漏れているのを聞いて、おれは、道兼、となるべくそうっと呼びかけました。
    「開けてくれ」
    とおれは呼びかけて、しかし返事はなく、
    「嫌だと言わなければ肯定とみなして開けるが、良いか」
    と質問を変え、それにも返事はなかったので、おれは台所からさじを取ってきてちゃちな便所の鍵を開けました。ジャージの裾が乱れて足が冷たかろう床についているのが、まず哀れに目につきました。便器に縋りついているそいつの横におれはなるべくそっとかがみこみ、何か妙なものを食べさせてしまったかどうかかなり必死に考えながら便座に投げ出された片手を右手で握ってその冷たさに驚き、細心の注意を払って左手を背中に当てて、どこか具合が悪いところがあるか、背を擦るのと擦らないのとどちらがいいか、など聞きました。そいつは何も答えず、床はしんしんと寒く、おれがほんとうに途方に暮れそうになったころ、そいつは、
    「それは嘘だ」
    と言いました。わずかに上げた顔が蓋のうらの、注意書きが羅列されるあたりを眺めているようでした。白くなった唇が、
    「天が知っている。大地が知っている」
    と説き聞かせるように呟きました。何より私が知っている。
    「俺は、俺が何をしてきたかを、知っている」
     ……しかしまあ、何も悪いことばかりではありませんでした。
    「これは海か」
    とそいつが天気図で青く塗られた部位を指すので、ああそれは海だ、と言いました。
    「……海を見に行きたい」
    じゃあ行こうよ。とおれは重力に逆らって起き上がりつつ言いました。海を見たことがないのか? 都に海はない。東京湾は開発されすぎていてあまり海らしくありませんから、どこか太平洋岸に行こうと思いました。
    「海はここから何日くらいかかる」
    「いや、電車に乗れば数時間で行けると思うよ」
    「そんなに近いのか」
    そいつは驚いた顔をしました。
    「……京都も新幹線に乗れば半日だけど」
    おれは、それを今の今までただなんとなく伏せていたことに気づいて、良心の据わりが悪い思いをしながら、もぞもぞと白状しました。
    「半日」
    そいつは黙り、おれも黙り、そいつは考えた末、「行かぬ」と言いました。そうか、とおれは言いました。

     結局、おれたちは次の休みの日にさっそく、そいつは新しいコートを着て、電車に乗って海を見に行きました。けっこう内陸を走る路線の終着点まで大人しく電車に揺られて、ちいさな駅舎をあとにして少し歩くと、きらきら光る大きな水溜まりと、ほっそりした枝を伸ばすようなふねたち、ヨットのようなものと漁船が一緒になって溜まっていて、そいつはこれが海かと目を輝かせて聞くので、落ち着け、これは港であって海の一部に過ぎない、と言いました。そんな仁和寺の和尚みたいな。
     おれたちはまず港近くの料理屋で海鮮丼を食べることにしました。おいしさに定評があるらしかったので。二階の座敷に通され、急な角度の階段をのぼり、座布団に座っていまいち味の薄いほうじ茶を飲んで、しかし海鮮丼は美味しかったですね。マグロの刺身やネギトロに、赤がなかなかに艶やかで。そいつは最初まごまごしていましたが、意を決してちょっと齧ってみたら気に入ったらしく、
    「美味だ」
    とこぼしました。それはよかった。食べたかったらおれの分も食べるといい、と言ったら
    「俺はそんな卑しい人間ではない!」
    と怒られましたけど。猫が喉を鳴らすようだ、とおれは不意に思いました。美味しかったですよ、海鮮丼。先輩は津々浦々の海の幸のこともよくご存知でしょうけど。

    「……ねこ?」
    とそいつが言うので振り返れば、確かに係船柱のあいだをちらちらとこちらに、ちいさな猫が近寄ってきていました。
    「猫だな」
    「何処の屋敷から逃げ出してきたのだろうか。さぞや探されているだろう」
    「野良猫じゃないか? きょうび猫はわらわらいるから」
    「わらわらいるのか」
    「うん」
    猫はそいつの足元になにやら鳴きながらまとわりつき、そいつが嬉しそうにしゃがみこんで猫を撫でているのを、おれはビビりながら見ていました。いくら小さくとも猫には爪や牙があるんですから、本気を出されたら、人間はなすすべもなく負けることでしょう。猫に引っ掻かれて亡くなった方の話も、おれは聞いたことがありました。そいつは優しく猫を撫でて、猫は低く喉を鳴らし、そいつは穏やかに笑ったまま、
    「ねこより俺の方を怖がれよ」
    と静かにおれを突き放しました。それは、まあ、それなりに、かなり、もっともな言い分ではありました。それでもお前を信じていると、おれは、言ったような気がします。
     ……まあ猫のことはともかく、はじめて砂浜の向こうに海を見た道兼は、息を呑んで、惹かれるように砂浜に降りて、砂にひとあしひとあしがとられる感覚に驚いているように、驚きながら点々と足跡を残して波打ち際にあるいて行きました。打ち上げられた黒い木片や貝殻や何なんだかわからないものにビビり、近くの大きな流木にびっしりついたフナムシにビビり、海に指先を浸そうとして波に翻弄されて、とうとう靴も靴下も脱いで裾をたくし上げて、波と湿った砂の中にざぶざぶ入っていきました。
     おい、とおれはそれなりに大きい声でそいつを呼び止めようとして、
    「海はどうだ!」
    と大声で聞きました。
    「寒い!」
    そりゃそうだろ見ればわかるよバカじゃないのお前、とおれはその笑顔にほとんど泣きそうになって、しかしどうしようもなく笑いながら、そいつの足跡を追いかけました。
    「この向こうにかの国があるのか」
    「いや、これは太平洋だから中国とは反対方向だ」
    「ではこの先には何もないのか」
    「オセアニアと南北アメリカ大陸がある。世の中にはずっとたくさん国がある」
     のんきに水遊びができるような気温水温でもありませんでしたから、おれたちはそれきり海には浸からず、砂浜に座ってあれこれ話をしました。
    「大地が丸いというのはやはり嘘ではないのか」
    「嘘じゃない。向こうから船がやって来るときに必ず上から見えるから、丸い」
    船なるものをあまり見たことのない平安貴族と、船なるものをしげしげとは見たことのない上に絵心もそうない現代人がその話をするのは、けっこうな難題でした。おれは砂浜に指先で拙いふねの絵を描き、水平線の向こうからマストが上がってくるさまを描き、そいつは首を傾げました。そんなふうに熱心に喋っているうちに何隻かふねが入ってきて、おれたちはそれを見逃し、そいつはわかったようなわからないような顔で二言三言呟き、しんから鈍色の海を見ていました。見えている水平線はせいぜい五キロ先くらいでしかないらしい海は見えている以上に広いらしい、という話をして、もてあそぶような熱心さでそいつが指先で字を書くので、おれはその辺から手頃な枝を拾ってきて渡し、やすりで整えた右手人差し指の爪に砂がはさまっていないか検めて、それが受け入れられているのがこいつが貴族だからなのかなんなのか分からないなと思い、おれもまた鈍色の海を眺めました。おれは、初めて海を見たときのことを、もう覚えてはいませんでした。そいつは悠々といくらかの文字を砂浜に書き散らしたような、おれは相伴して、と言っても歌など書けませんからへのへのもへじやらなにやらを描いてお茶を濁したような、何を書いたかはもうすっかり不確かですけれどそれらが風と波にあらわれてもうすっかり消えてしまったであろうことだけは確かです。
     そういえば今思い出しましたけど、先輩が学部生のころ真夏白昼の砂浜でこっくりさんやろうとしたって本当ですか? 心霊現象が実在してるとして、いえこんな話べらべら喋ってるおれがそんなこと言うのもあんまり滑稽なようですけれど、そんなん来るものも来ませんよ。……べつに先輩のこと名指しでは伝わってませんでしたよ。ただおれたちの大学にまつわるサークルは夏浜辺に行くとだいたい砂浜に五十音と鳥居とアルファベットと声調符号と数字を書き始めた先人の故事を持ち出さずにはいられないみたいですね、知りませんけど。嫌じゃないんですか? ……だいいちにその故事はもう先輩個人から切り離されている。第二に他人が先輩のことをどう奇矯だと思おうが、そう思われている方が都合が良いこともずいぶんあるから構わない。そもそも、他人がどう思おうがそれは先輩に本質的に関係のあることではない。第三に、砂の上で十円玉を走らせると文字が消える…………そうですか。そうでしょうね。あなたはやっぱり豪胆なひとだ。おれは、そうでないみたいです。
     まあ、そんな感じで、大の大人が二人並んで、昏い海を見て砂にいくらか文字を結んで、はたから見たらもう不審だったでしょうけど下手したら心中の下見かと思われたかもしれませんけど、不審がる人もそういないような、寒い、曇りの日でした。雲がわずかに晴れて光芒が――天人はあれを登って帰ってゆくのか、と、ふと思いました。
     もう本当に寒く、心中せずとも遭難しそうな寒さでしたから、耐えかねた俺たちはもともとの予定通り、近くの温泉に浸かりにいきました。入湯に際しておれたちの間にあった悶着は、先輩にわざわざお聞かせするほどのことではありませんから省略しますけど、とにかくいい湯ではありました。変わった湯でほのかに塩気を帯びていて、家族風呂からは海が望める。傷があると滲みるから注意した方がいいですけどね。あ〜いや、ほら、おれって瘡蓋があると剥いじゃうほうでしょう。真冬の砂浜にいたあとに温泉に浸かると、あたたまって本当に良いものですね。
     風呂から上がって、いくらか眠そうにしているそいつにドライヤーを変わろうかと訊いて、そいつが頼むと言ったからおれはドライヤーを受け取りました。まだ湿っている長い髪を湯冷めしないようにこんこんと乾かすあいだ、しかしその髪は以前と比べれば格段に短いのですが、脱衣場の大きめのまるい縁のない鏡越しに、そいつが眠たげに目をつむったり開いたりするたびに、いえたびにと言っては言い過ぎですが、何度かに一度、ゆらゆらと目が合いました。
     温泉と言えば牛乳飲料です。休憩所の隅にある牛乳瓶の自販機でおれはコーヒー牛乳とフルーツ牛乳を買いました。こっちはコーヒーに牛乳と砂糖を入れたもの。甘い。こっちは……フルーツ牛乳って何からできてるんですかね。たぶんじゃっかんヨーグルトみたいな味がする。そいつはコーヒー牛乳を飲んで、けっこう気に入ったみたいでした。フルーツ牛乳も意外と飲みやすかったらしく、妙な甘味だ、と言いながら主にそっちを飲んでいました。瓶を回収箱にならべて入れる瞬間、ふと、逃げるように、帰りたくないと思いました。おれは無意味にコーヒー牛乳の空き瓶の蓋を開け、このままどこかに逃げてしまおう、とささやいた心の部位を削り落として、瓶の蓋を閉め直しました。意味のない逃避は、おれは嫌いです。逃げずともおれたちは、生きていきます。……自分の心からは、そもそも、逃げられません。自分の頭蓋の外には逃げ出せません。
     帰りの電車で、疲れたのかそいつはうとうとし始めました。そのうちそいつはおれに静かにわずかによっかかって、すうすう寝てるそいつの髪から潮風の匂いがする気がして、いまも、あの薄暮を、覚えています。薄暗がりに浸されながら、沈む夕日を反射して、ちらちら光る、流れる車窓、ぼんやりと青に沈む夕暮れの色。あのときの気持ちを正確に言葉にすることはとても難しいですが、おれはあの瞬間たぶん、きっと、おれが持ちうるもののすべてを、すべてをこいつのために差し出せると、思いました。異様に穏やかで、異様に満足で、異様に泣きたかった。きっとこの先この瞬間を忘れることはないだろうと理由もなく思って、いちばん身も蓋もない言い方をするなら、もうこのままきさらぎ駅方面に連れて行かれたって構わなかった。あ、きさらぎ駅はやめた方がいい? そうですか。そもそもきさらぎ駅は山ですか。

     しかし、そいつの夢見の悪さはけっこう大変なものがありました。深夜異状があれば起き出してそいつをつつき起こしたり叩き起こしたりすることがわりあい繁くなっていきましたが、まあ、おれは己が、常に健やかに寝て速やかに目を覚ましてまた速やかに寝られるというかなり夜警に適した体質を持っているということに気づいたので、まあ悪いことばかりでもありませんでした。夜勤のある今の部署へも躊躇わず手を挙げられましたし。種々の夢を、そいつはひび割れた茶器から水が漏れるようなか細さで、あるいは深夜こちらに背を向けたまま、髪を豆電球のひかりに濡らしたまま、細々と漏らしました。「大丈夫だから」というおれの声がいかに虚しく響いたことでしょう。何が大丈夫なのか自分でもさっぱりわからないまま、おれはただそう繰り返すことしか知りませんでした。
    「咎人が生き直して良いはずがない」
    そこには、裁かれずに、という言葉が入ったでしょう。ええ本当に、そいつは裁かれなかったのでした。幼友達も女も、憎くて殺したのではないとそいつは呻くように言いました。
    「気は合わなかったが、それでも、幼友達だった。ある日いきなり姿を消して、またかと思って、そいつが殺されたことさえ俺は六年も知らなかった、そういう人間が――」
    「六年?」
    おれは聞き返しました。
    「そんなに長いあいだ黙っていたのか」
    主語を省いてしまいましたけれど、父親も、そいつも、どちらにせよ確かに、黙っていたのでした。六年。小学校卒業できますよ。中高まるまる入りますよ。そんなに長いあいだ、黙り込んで、裁かれず、いたのか。父親はそいつの罪を把握したうえで六年も何も言わずに、いざ道具が入り用になったらその弱みにつけ込んだのか。目眩がするほどの不正と悪意。あるいはもはや悪意ですらないのかも。あまりにも長いそいつが黙ってきた六年におれはまた黙り込んで、ほら、もう、だめでした。だめでしたよ。ただ、それが間違っていることだけがわかりました。
     そいつが、そいつがその手で殺したかたにかんして語ったことを、陳述したことを、おれは先輩に言いたくありません。再話したくありません。語る資格はありません。だっておれはおれの心はそいつの罪をなるたけ軽く見積もろうとしてしまう。……絶望的な話でした。数え年の、六年前。どう見積もったって絶望的に重い罪を、おれは、あいつがそんなふうになる前に、だれも、一言も、助けてやれなかったことを、それも絶望的に重かった。

     ……あ、いま、天使が通りましたね。今日はよく飲むなって、そんなことありませんよ久しぶりだからそう見えるんですよ。……けっきょく、結局覆しようもなく犯してしまった罪はあらたな罪へ縋りつく動機であって、結局そこで罪と罰と承認と奉公のバランスが崩れたようでした。そいつが罪を犯す。父親がそいつの罪を揉み消す。揉み消したことをもって汚れ仕事を命じる。そいつはさらに罪を塗り重ねて、しかし父親からの承認さえあれば他のことは一切どうでもよく、というか手を汚し続けて身を削り続けることのマゾヒスティックな逃避をもってその呵責を無いものにし続けていたのだと思います。ストレス環境から解放されるのもまたストレスなのだと言います。そいつは現代に飛ばされてもはや父親の道具であることができず、泥で衣を洗い晒し続けることができず、かと言ってこの異郷で己の罪業を無いものにして歩き出すにはいささか足首を掴む呵責が重い。
     しかし、それでも、それにもかかわらず、いえむしろ、書家の仕事は、なかなかうまくいっているようでした。あいつが実際どう仕事をしていたかは、正直よくわかってなかったおれがくだくだ説明しようとするよりも、ご自身で調べていただいた方が早いでしょうから割愛します、あなたならすぐ調べがつくでしょうから。この人をいきなり広く世に出しては書道界はめちゃくちゃな大混乱に陥ってしまう、というその先生のたぶん賢明な判断で、掌中に確とおさまる範囲の仕事を少しずつこなしているようでした。おれはそいつが書道界の人たちと会うのにくっついていったことが何回かあります。こいつ多分向こうでもこんな顔してたんだろうなと思いましたよ。おれと姉貴が作った杜撰な生い立ちにいくらかの肉をのっけて、それなりに納得いくようにして、笑ってて、完璧な、隙ひとつない、貴族の笑顔。はは…………そうだろうなあ出来ちゃうんだろうなあって。完璧な貴公子の顔できちゃうんだろうなあって。望まれたことなんでもやろうとしてやりとげてしまえるんだろうなあって。他人にも取り入れるんだろうなって。そりゃ父親からしたら便利な道具だろうなって。女房唆して毒を盛らせることもできるんだろうなって。はは、はは……帝を騙して出家させることだって、できたでしょう、あいつなら。でもあいつは……あいつは、その内側に、おれを入れてくれていたんです。それがうれしかった。あいつはおれに色々文句も言ったしいらん事も言ったしいくらかの重みを預けてくれたしどうでもいい喧嘩もしたし大事な喧嘩もしたし…………すみません。……けっきょくおれも、同じ顔をさせていました。
     彗星のようにあらわれた貴公子の噂は、次第に燃え広がるようでした。しかしその微笑があかるければあかるいほど、足元によどむ影は暗くなるものです。明暗はぱきぱきと割れていき、おれたちはほとんど薄氷を踏む心地で日々を進んでいて、おれは、べつにおれがそいつを平安時代から盗み出してきたわけではないのですが、けっきょくこんにちにあっても、そいつに同じ煩悶を課しているのが、どうにも苦しかった。けれど、おれの感想なんてべつにどうだっていいんです。
     先輩ずっと前に教えてくれましたよね、嗅覚バグったときは手より顔より鼻ん中洗えって。あれ物理には効くけど幻には効かないんですね、まあそれは良いとして、まあ、そんな感じでした。……そうやってあいつの腕や足や首にまざまざと残る赤黒い手形を見ると、いえもちろんものの例えですけど、こちらに馴染めば馴染むほどあいつを苛む咎を見ると、おれにはもうどうしようもなくて、しかしたぶん他の誰にもどうしようもなくて、大丈夫、という自分の言葉がとびきり虚しく響いて、でも実際どうしようもありませんよどうしようもないじゃないですかひと何人か殺されてるんですよ。ひとりその手で殺してるんですよ。……しかしすべてのその他の問題を置いておいても、そいつが平安時代から来たことと過去に人を殺めたことが事実である時点で、現代の司法や医療と話が合わないだろうことはいかにも明らかでした。仔細を伏せて対症療法だけでもなんとかならぬかとは思いましたが、今度はそいつの、薬に対する恐怖がありました。お前は信じられても薬師は信用できぬ。ねえ、何があっても人に毒なんて盛らないほうがいいですよ、先輩。絶対だめですよ。自分に返ってきますから。

     ……そんな日々にも、良いことも、忘れがたい些細な出来事も、ありました。
     ある雪の朝でした。日曜の首都圏の数センチの積雪。おれはひとしきりごろごろし、コーヒーを淹れ、そいつの寝顔の眉間の皺を見ながら、薄暗い部屋にうずくまっていました。カーテンのはしばしから、多分雪の午前中の眩しい明かりと、清々しい寒気が流れ込んできました。やがてそいつは目を覚まし、
    「何時だ」と寝起きの掠れた声で言いました。
    「巳の刻」
    寝過ぎた、と顔を顰めるそいつにはおれに対するかるい睨みがあり、おれはひとに馴れた動物園の猛獣を連想し、またおれは今日はそいつも休みだということを知っていました。
    「今日は雪だし休みだし」
    とおれは言い、ふざけて自慢げに芝居がかって、
    「香炉峰の雪は簾を掲げて見るんだろ?」
    とひといきにカーテンを拓き、まぶしさにひといき目を瞑りました。
    「お前文集も知ってるのか」
    「え、いや…………」
    「なんなんだ……」
    それからごろごろと転がって、故郷が恋しいか、となんとなく聞きました。そいつは一口コーヒーを飲みました。帰りたいと思うか。
    「帰りたいと言えば、帰してくれるのか」
    生憎そんな力はおれにはありませんでした。でも、お前が本当に帰りたいなら、帰してやりたいとは思う。おれは理性の底からそう言い、そいつは小さく笑って、それきり黙っていました。おれは布団の端をかぶって、ベランダに積もった雪が溶けていくのを、見ていました。「言えぬ」と、そいつが言って、雪は、昼には溶けました。

     おれの誕生日にかこつけて、一回やってみたかったホールケーキを丸ごと食べるやつを、少しでも若いうちにやろうと思って開催したこともありました。滑らかに白いホールケーキ。赤いいちご。「お誕生日おめでとう」と白のチョコペンで書かれたチョコ。おれはその小さな板をあいつにあげたかったけれど、あいつは趣旨を鑑みておれの方が食べるべきだと主張したので、おれは板を半分に割りました。「お誕生日」と書かれた半分を食べて、まあ、とくべつ美味しい訳でもありませんよね、あのチョコって。食べるためでなく飾るためにあるのかも。飾るためでなく祈るためにあるのかも。ちいちゃいのを買ってきましたけど、最初はいいけどだんだん無言になるんですね。フォークでケーキを崩しながらお互い無言になってることに気づいて、なんとなく顔見合わせて笑って、ねえこの話やめましょうか。ああ、いや、こんな話、こんな話どうでもいいでしょう。徹頭徹尾おれとあいつの二人にしか意味を持たない話です。もしかしたらあいつにももう意味を持たないかもしれない、他の誰にとってもきっとどうでもいいでしょう、けれどおれにとっては、おれにとっては、この世でただひとりおれにとっては、なによりも、なにものにも、……………すみません。

     …………すみません。とにかく、そんな感じで、そいつはだんだん否応なしにこっちに馴染んで、おれはそいつの存在を自分の身内にも知らせるようになりました。ああ、そうです、そいつです。先輩にもちらっと言いましたよね。そしてその後の顛末でお察しの通り、その日々は長くは続きませんでした。穏やかに晴れた午後のことでしたよ。

     穏やかに晴れた休日の午後のことでした。おれは道兼にココアを淹れて渡して、自分にコーヒーを淹れながら、淹れ終わったらソファに並んで座りにいこうとしていたのですけれど、その黒い雫が滴り落ちるよりはやく、背後で悲鳴に近い困惑の声が上がりました。おれは考えるより先に振り向いて、開け放たれた扉越しにそれを見ました。居間の姿見が煌々と光っていました。鏡が、光っている。とおれは思いました。あまりにもベタなことが起きると、人間は言葉を失います。ツッコミに回るにはかなりの人間的な強度が要るんですね。そして人間が、人間のかたちをしたものがその枠をくぐってこちらにやって来て、おれは口を開けました。口というか顎が開きました。道兼が取り落としたマグカップが床にぶつかって中破する音。緋色の装束。もみあげのやつ。太刀を帯びていて、片手に弓。背中には矢筒。武士と貴族の中間みたいな。武官の格好ですね。「ですね。」と言っている場合ではまったくありませんでしたが、じっさいもそんな感じでした、二周くらいして。咄嗟にマグカップの破片を拾おうとしそうになったそいつに向かっておれは、道兼危ないから素手で触るな、と制止を飛ばして、始末に使う道具を集めて急いでそっちに行きました。
     その武官は眩しそうに目を細め、怪訝そうに辺りを見回して、そして目の前でソファから立ち上がったまま固まっている男が兄だと気づいたらしく、帯びた太刀に手をかけたまま、驚愕とさまざまな感情でどうにもならなくなっているような顔をしました。おれは慌ててマグカップと散らばったココアに収拾をつけ、その茶色の液体がいかにも泥に見えましたから、これは、泥では、ありません、と日本語教本には載っていなさそうな発話をしました。武官は微妙な顔をしました。
    「…………そのお髪はどうなさったんですか」
    道兼はほんとうにばつの悪そうな顔をしました。そのジャージの胸元で白く刺繍されたおれの名字が光っていました。
    「切った」
    けっこうな長さの沈黙のあと、そいつは、まあ見ればわかるだろうよ、ということだけを呟きました。
    「これはどういうことだ。呪詛なのか」
    「わかりません。しかし、内裏からお姿が見えなくなったといって昨日から宮中も家も大騒ぎでございます」
    「昨日」
    おれたちは顔を見合わせました。昨日?
    「なんでも書庫からいらっしゃらなくなったとか」
    「いくら待っても戻っておいでにならないから見に行けば、お姿はなく、巻物や沓や笏が落ちていて、その、襪や畳紙やまでもがそこらに散らばされていたとかいうことでしたから、白昼物怪に喰われたかと大変な騒ぎでございますが、しかしほんとうに物怪に」
    と藤原の弟さんがおれの両目を真っ直ぐ見つめて説明したので、おれはかろうじて見上げた喉を振り絞り、おれは物怪ではありません、と言いました。道兼は説明するようにおれの名を呼び、「俺を匿ってくれたのだ」と言いました。「物怪でも妖術使いでもない」。
    「そうですか」
    弟さんは室内を気味悪そうに見渡しながら言いました。
    「しかしお前はどうやってこちらにやってきたのだ、道長ーー」
    「ミチナガ⁉︎」
    おれは覚えず大声を出しました。三年に一度くらいの大声でした。
    「藤原………藤原道長⁉︎」
    いかにも、とそいつらは怪訝そうな顔をしました。
    「あっ、じゃあ、」
    とおれは混乱しました。そのかんも鏡は午後の光のなか燦々と光っていて、目の前には武官束帯姿の藤原道長とおれのジャージを着たその兄がいました。
    「早く帰った方がいいです」
    としかおれは言えませんでした。
    「何故だ」
    「ええと、フジワラノミチナガは、大貴族になります。千年のちの人間もあなたの名前を知っています。あなたは貴族のなかの貴族になる。だからあなたたちが現代にいるとーーこの時たしかにおれは「あなたたち」と言いましたーー、歴史が変わってしまう。だから、鏡が光っているうちに、そこを通ってお戻りになるのが良いでしょう」
    そのときの、道兼の、顔。弟が千年名を残すほど栄達すると知ったときの、弟が己を超えるのだと知ったときの、嫉妬、それは、嫉妬でした。おれはあいつが弟のことを話すとき、その色がわずかに滲むのを見て知っていた。知ってはいた。道長の兄であるならお前も帰った方が良いだろうとおれは思いながら、帰りたがっていたあいつの彼岸が目の前にあるのを感じながら、おまえ故郷で、そんな風にして生きていたんだなと思いました。おれは、たぶん、道兼の腕を、その上腕の淡さを、掴んでいた、気がします。
    「父上は」
    と、そいつは声を絞り出しました。
    「むろん、心配しておいでです」
    音がしました。音がしたと思いました。あ、いま、切られた、と思いました。切り捨てられた。捨てられた。あいつの中の天秤ががくんと音を立てるのが目に見えました。これが、せめてこちらで過ごした時間だけ、ただしく向こうでも時が流れていたならば、その父親は、たぶん早々に見切りをつけていたでしょう。でもそうではなかった。いま戻れば一夜の出奔で済む。なにごともなかったことにできる。また、父の手駒になれる。罪悪に苦しまずに済む。恋しい父のものになれる。そいつは、装束を、と言いました。おれは押し入れから布の束を引き出し、道兼はおれの寝室に入ってきて、午後の陽光ばかりがうららかに眩しく、おれは春の匂いを嗅ぎ、そいつはおれに背を向けて、小豆色のジャージの上をただひと息に脱ぎました。布の上から透ける、背骨の連なり。でこぼこに走るひと連なりの山嶺。そいつの骨の手触り。こちらに来て少しくらいはまるくなったけれどやはり角ばって筋ばったからだにおれは衣を順にかぶせて、前よりはずいぶん馴れ馴れしく親しくおれとの仲に甘えるように訂正されながら前よりはずいぶんマシな苦闘の末紐を結んで、そこにはいくらかの信用いくらかは無邪気な親しさあるいはおれたちが折り重ねた譲歩とでも近似できそうなものがあり、おれは次だれがこの紐を解くんだろうなと思いました。それは少なくともおれではない。たぶんもう二度とおれではない。結うのも解くのも、もう二度とおれではないのです。
    「しかし、一夜の夢であったか」
    「夢なものか」
    おれは食い気味に言いました。あいつは、応えなかった。応えずに、
    「烏帽子をどうしようか」
    と困ったように苦笑して、短くなった髪に手をやりました。まあ固定できずとも頭に載せることはたぶんできます。しかし髪が不恰好に見えるだろうとは、門外漢の目にも明らかでした。こんなに短く髪を切られてしまって平安時代でどうするんだとおれは思い、まあどうにかするんだろうな、と思いました。そんなこと些事なんだろうと思いました。やっと、かえれる。やっと、正しい地獄にかえれる。そう安堵した顔でした。それは間違っているとおれは思い、しかしその海ほど深い安堵をまえに、おれは、小石を投げることも、できなかった。

     着替えを終えて光る鏡の前に立ち、道兼は俺の名を呼んで、「海を見せてくれたこと、生涯忘れぬ」と微笑んで、言いました。その完璧な笑み。貴公子の微笑み。そんな表情で見られて、もうおれは、そんな表情で見られることは、もう耐え難いことでした。おれはほとんど、怒鳴りたかった。怒鳴ってそいつを殴りつけて這いつくばってでも懇願したかったそうしなかったのはただ、怒鳴ることからも殴ることからも懇願することからも逃げて逃げて逃げ延びていたから、ただ比較的健啖な理性と前言を翻す恥への怯懦がおれを縛っていたから、ただ、それだけでした。「世話になった」と道兼はおれに頭を下げて、烏帽子が滑るのを抑え、「兄がご厄介になりました」と藤原道長が言うのを聞き、おれは、天人の羽衣の話を、思い出していました。天女の羽衣でこそなかったが、月人の羽衣ではあったみたいですね、ははは……。笑い事じゃないですけど。
     鏡は指先で触れればとぷりと液体の感触を返しました。道兼と弟は、道長とその兄は顔を見合わせ、武官がさきになって窮屈そうに姿見をくぐってゆきました。ほんとうに何が起きたのだろう。内裏から消えたというとき何が起きたのか、おれは知らず仕舞いですし、誰かが知っているともこの先知ることになろうとも思いません。しかしその時小物を沓もぜんぶ落としてきたから、だから裸足だったんだ、とおれは、さいごに鏡に吸い込まれていった道兼の足首を見て思いました。鏡は人間ふたりを吸い込み、そして元通りに、光るのをやめました。それ以来、ほら公共空間で、たまに鏡とかガラスとか光らせてあるじゃないですか。あれ見るとビビるようになっちゃったんですよね。意思より先に、思わず身構えちゃう。あ、それはどうでもいい。そうですか。で、恐る恐る触ってみても、触れるのは硬い表面ばかりでした。帰っていった、らしい。おれはへなへなと座り込みました。先ほど回収しそこねたマグカップの細かな破片が、床に、ざらざらときらきらと点々と、かすかに散らばっているのが見えました。息を吸えば平安の風の香がしました。道兼と初めて会った夜も、こんな匂いだったような。一千年前の冬の匂い。おれは黙ってサッシを開けてベランダに出ました。ゆるやかに一面に広がる街の起伏を見て、春の日差しの穏やかな繁栄。梅の香でもすれば良かったのですけど、匂うのはかすかな排ガスの臭気くらいでした。それで、終わりです。

     なにか餞別でも形見分けでもねだればよかったと少し思いましたけど、でも、そんなことをしなくったって、部屋じゅうに道兼のものは残っていました。写真はなかったけれど。仕事で撮られた宣材は何枚かありましたけど、そうじゃなくて、もっとあいつがおれに見せた顔を、おれの目に写ったあいつを、おれを見たあいつを、撮っておけばよかった。でもそれは魂が吸われるからって拒まれました、その発想って写真を初めて見た人間に共通する感慨なんだなあ。荷物、片付けるか、と気づくまでに半月かかりました。でもそんなことできなかった……。あいつが着てた服、確かにあいつが暮らしていた空間、あいつの生活用具、どんぐり、あいつの書いた文字の数々。あの朝畳まれたままの布団。おれはひとつ賢くなりました、しかし理解したくはない感情でした。いや、やめてくださいよ、『蒲団』なんてしてませんから。おれの理性は健啖矍鑠ですからね。とにかくそうやって、おれは、ちゃんと生活し続けました。一人分の食事、一人分の洗い物、一人分の洗濯、一人分の掃除、一人分の朝と夜、玄関に傘が二つ。
     ……柄にもなく飲み会でべろべろになった夜でした。もう一人ぼっちだから、おれが回収しない限り、チラシも郵便物も溜まり続けるんですね。おれはポストのチラシをざっと眺め、宅配ピザのチラシを発見してそれだけ抜いて、他はポストの横に設置された回収箱に突っ込みました。視界がぐらぐら揺れていて、何度か転んだから手のひらが擦り傷でじゃりじゃりでした。あいつはなぜか照り焼きピザが好きでした。シーフードも好きでした。好みがぴったりあう訳ではないけれどはんぶんを持ち寄ったっていいしおれの好きなもち明太子とあとひと枠てきとうなのを選んで四分の一を撚り合わせたっていい、折衷をかさねて一枚のピザを食べて、……。
     玄関を開けて、みちかね、と呼んだ声が真っ暗な台所の床に虚しく落ちて音を立てるのを聞いて、もういないんだと思いました。もういないんだと思うのに、ずいぶん時間がかかりました。おれは靴を脱いで流しの蛇口から直で水を飲んで、そのまま床にみっともなく転がりました。床が頬に冷たかった。ちょっと、一緒にしないでください。おれんちの床は汚くないですよ。とにかく、泥酔した頭を床に冷やされて、冷やされながらおれは、じゃりじゃりの手のひらから滲んだ血で汚れたチラシをぐしゃぐしゃに丸めながらおれは、強いて考えないことにしていた恐怖と悔悟と後悔の蓋がゆるやかに開くのを感じました。孤帆の遠影碧空に尽き……これは、古典で習ったやつ。あれでよかったのか、と思いました。間違ったかもしれないと思いました。
     調べましたよ。藤原道兼。おれの幻じゃないって、思いたかったから。調べて、……なんでこんな簡単なことを頑なにしなかったんだろう頑なに怠ったんだろうって思いました、ええ、おれ、ほんとに、あいつのこと送り出してよかったのかなって、思うんですよ。いえ、いや、それは嘘です、知っていたら、知ってさえいれば、あいつの手を、離さなかった。……歴史に残ったことと、あいつが語ったことを突き合わせたら。信じてませんけど、京都のカミサマかなんかが、あんまりだから助けてやろうと思ったんじゃないのかなって。あいつが、あれから、歩いただろう、あのWikipediaにまとめられた人生。寛和の変だってあれからなんですよ。さらに罪を塗り重ねて。それで、まだ、若い、三十四…………あんまり若い。おれ、もうそう長くないうちに、十年以内にその年になりますよ。ねえ先輩より若いんじゃないですか。父親が死んでから五年。兄が死んでから一ヶ月。関白になってから………………。
     おれ、あいつと、ろくに話もしなかった。あの日あの時、おれはあいつの行き先を決めようとしてそして少なからず、若干は、決めて、背を押してしまったんじゃないですかあ、あ〜〜、酔ってきた。おれ、他人に決断を委ねるのも委ねられるのも大嫌いなんですよ。いやこれはいいんですよ、だってもうぜんぶ終わったことじゃないですか、もうぜんぶおわったことなんです、感想戦は一人でやるものじゃないでしょう。そうじゃなくて指してる最中に決断を他人に委ねるのはよくないですよ。決断に口を出すのはさらによくないですよ。斬首ものですよ。クチナシと血溜まりですよ。帰るか帰らないか決めるのはあいつだった道兼が決めることだった。未来人が結果論であれこれ言っていいことじゃなかった。ああ、ええ、酔っています。後悔しています。助かりようもなく後悔しています。
     帰りたくないと言ってくれたら、引き留める覚悟はあった。でもそうは言ってくれなかった。帰したくないと言う咄嗟の覚悟はなかった。でも二人なら生きていけると思ってた。戸籍とかなんとか問題は山積みでしたけど、なんとかできると思ってた。帰したくないと、言えばよかった。おれを選んでくれなかったあいつが悔しい。あいつを選べなかった選ばなかったおれが憎い。
     だいたい、歴史って、なんですか。正しい歴史のためって、なんですか。だいたい言葉が通じる時点でおかしいじゃないですか。平安時代の人間は古文で喋るものでしょう。「厄介」って言うんですかね。その時点で、あいつは、いま、このまさしく「いま」に連なる過去から来た人間ではないんじゃないですか? どこから来たか知りませんけど、歴史が変わるからってあいつをああいう生に送り返すのは、もしかしたら、家のため自分たちの栄達のために汚れ仕事をさせた父親よりもずっと、茫漠とした大義のためにその背を押したおれの方がずっと、ずっと悪いんじゃないですか? 歴史なんて、いくらでも、変わればいい。歴史なんて変わってしまえ、そう思う、そう思うのに、咄嗟にその覚悟がなかった。弟が千年名を残す歴史の、そのためのパーツとしてあいつを扱ったんじゃないですか、おれは。
     ……あいつは、自分の未来を、調べたんでしょうか。道長に驚いていたのだから、調べてはいなかろうと思いますが。たとえ知っていたとして、あいつはやっぱり、帰って行ったかも。
     ああ、ねえ、人生のネタバレ、まあ、それもまあけっこう核心部のネタバレをかましてしまったよなあと思います。自分の名も父親の名も歴史には残らない。いや残ってますけど、比較的。弟の名は千年残る。「七日関白」。おれたちが溢した言葉の意味を、あいつはいつか、悟ってしまう。それがせめて、自己成就でなければいい……。泣いてませんよ。泣いてませんって。だいぶ酔ってはいますけど。それは報いだったかもしれませんけど、因果応報だったかもしれませんけど、でもそれが正しい償いだったとは思えない。わかりません。わかりませんよ…………。おれは、あいつに、そんなふうに生きてほしくなかった。そんなふうに死んでほしくなかった。ここがあいつにとって生き地獄だったとしても、地獄から地獄に引っ越しただけだったとしても、お前がほんとうに帰ることを望んでいるとしても、おれはそれを踏み躙ってでもお前と一緒にいたかった、な、あ、道兼。あ〜〜〜〜止めないでくださいよ先輩、先輩おれは飲みますよ、ああ、未練ですよ、おれの未練ですよ、一から十までおれの未練ですよ、でもおれ、あいつの髻を切る夢だけは、なんか、まだ、この手に残ってるんですよ。ねえ、どう思います、先輩?
    せいあ Link Message Mute
    2024/03/23 22:34:18

    閑話/404

    人気作品アーカイブ入り (2024/03/24)

    ドラマ「いいね!光源氏くん」のように、ある日現代人の語り手のところにタイムスリップしてきてしまう道兼……という謎の話です。
    ・ちょっと長い(五万字近くあります)
    ・現代人がカの罪についてあれこれ言う展開があります
    ・めちゃくちゃボーイズラブです ラブです
    ・カを天女に擬えたりかぐや姫に擬えたり好き勝手しています
    ・陪膳の女房が死んだということになっています(詳細の言及はありません)
    ・あるもの:海、猫、温泉、ケーキ、クリームソーダ、どんぐり、将棋、心身の不調、嘔吐(詳細描写はなし)、未練
    #道兼 #夢小説

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    • 夜のつぎには朝がくる「道兼がもう精神限界そうだからなんとか慰めてさしあげたい」と「つつき倒したい」という気持ちで書きました。道兼って視線と噂に苦しめられ続けているだろうな、と思ったので……「加虐」の割合が多いです。屋敷の中にもあんまり味方がいなさそうで…良くて……という邪念があります。語り手が「結構嫌な噂好き」です。モブ(女)に都合上名前がありますがほぼ出てきません。題は太宰治『花燭』からです。濃淡さまざまな嘘が出てきますが、ただ題だけは明確に嘘だと思います。(4/22追記:嘘がまことになったように私は嬉しいです。しかし長生きしてほしい、道兼に……)

      道兼とモブ召人の話を元女房が語る形式です。恋愛関係も肉体関係もありませんが語り手からモブへの折檻があります。モブが虐待を受けていた描写があります。差別的な語が少数使われています。怪談と夢小説です。
      #光る君へ #夢小説 #道兼
      せいあ
    • 手形道兼にガチ恋していた供人の青年(八つ年下)と七日関白と臨死体験の幻覚の話です。今後の展開に耐えられないので書いた夢小説です。この小説に出てくる道兼は七割くらい語り手が臨死体験で見た幻覚です。
      ※道兼が故人
      ※陪膳の女房が死んだということになっています
      ※考証が一切ありません、すみません……
      ※夢小説です
      #光る君へ #夢小説 #道兼
      せいあ
    • 末期の恋・七話くらいで病死した女房が地獄で罪を告白する話です
      ・こんな題ですが恋愛関係も肉体関係もありません(恋愛関係になる可能性はあったと思います)
      ・同衾(性的接触なし)があります
      ・夢小説です
      ・「東風吹かず」と微妙に繋がっています
      ・伝聞のかたちで道兼に対する暴言があります
      ・語り手はたぶん二十代です(都合よく設定しています…)
      ・宮中のことをなにも知らずに適当に書いています すみません
      ・たぶんバッドエンド/救いがあんまりないと思います

      #光る君へ #道兼 #夢小説
      せいあ
    • 泥のうてな右大臣家の女房の告白シリーズその③の、取り急ぎ走り書きです。人払いできてないよなあと思ったり、手当てを…と思ったりしたので、そういう夢小説です。道兼に微妙に嗜虐心を抱いていたり、「あなたの咎になったその女のことが羨ましい」という不謹慎な話まであったりするので、申し訳ありませんがご注意願います。
      #光る君へ
      #夢小説
      #道兼
      せいあ
    • 東風吹かず「お仕事モードの貴公子然とした道兼にメロメロになりたい」という夢小説です。青年期道兼の同僚をしていて、お仕事モードの道兼にメロメロになり、のち地方に下向した男が、道兼の訃報を聞いてかれを回顧する問わず語りです。直球に夢小説です。
      ※道兼の最期についての話
      ※一切の考証がありません。すみません……。
      #光る君へ
      #夢小説
      #道兼
      せいあ
    • 覆乳盆に返らず宣孝さんといとさんのシーンと、五話の几帳をひらひらしている道兼が刺さったので書いた夢小説です。「そんな家やめてわたしにしてください」という話です。価値観と男女観が中世っぽいですが時代考証が存在しません。右大臣家の女房の告白シリーズその②です。
      #光る君へ
      #夢小説
      #道兼
      せいあ
    • 蜜柑一献幼少期の道兼を誘拐した下女の独白です。
      ※児童を誘拐して縛って転がしています。
      ※モブが一万字分思いつめた思案を喋っています。
      ※モブの姉が巻き込まれています。
      ※モブに対するやや猟奇的な表現があります。

      #光る君へ
      #夢小説
      #道兼
      せいあ
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