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    夜のつぎには朝がくる仮題:権大納言道兼、女怪に謀らるること仮題:権大納言道兼、女怪に謀らるること
     世の中には噂好きはずいぶん多いものだけれど、その噂を集めて回る者もいるものなんですね。都で起きたさまざまな変わった、面白い、滑稽な、おそろしい話を集めて、どうするの、へえ、その中でも特に見るべき話をえらんで書き記すんですか。私がかつてお仕えしていた故関白さまのお屋敷で起きたことは、どうかしら、さまざまな話を聞き集めているあなたのお目にかなうかしら。どちらももうここらにはいらっしゃらない人だから、話してもよかろうと思って、話すのです。筋書きだけはね、かんたんなのですよ。世によくある話です。どこからかお屋敷にもぐりこんだ女が、己の持てるわずかな武器のみを頼りに、姫君に取り入り、殿様に取り入り、召人としていくらかの寵をせしめてゆく話。しかし、登場人物とことの仔細が、いくらか尋常でなく、物の怪じみた、ぶきみなところもありました。

     その女が屋敷の門を訪ったのは、太郎君が儚くおなりになってしばらく経った、喪が明けたころのことでした。追い返すほどの身分のものでもありませんでしたけれど、ただ一人男の従者を連れて、自分の足で歩いて。女房として雇ってくれと願いに来たのですよ。ちょっと女房を取りまとめるような立場にいたわたくしは、その知らせを聞いて、ひとまず通してみることにしました。わたくしは一目見て、その女の醜さに驚きました。ひどい癖っ毛、それも色がずいぶんうすく、茶色い癖っ毛がふわふわと広がっていて、あれは纏める努力をしていなかったのか、それともなにもなにも用をなさなかったのか。それだけならまだ見ようもありますけれど、顔も醜く、いえ醜いというか、あばたが薄く残っているのはまだいいとしても、はしたなく目が大きくて、その目が妙な光を弾いているので気味が悪いというか。
    「下女としておつかいくださってもけっこうです」
    という手がまたひどく醜いのでした。下女の仕事をしていたというのは事実だったのでしょう、赤く腫れてひどくあかぎれのした手で、しかしそれを恥じているさまがちっともなく、袖捌きが無作法で、粗末な着物の擦り切れた袖から醜い手がちらちらと見えていました。
    「こちらには姫君がいらっしゃるそうですから、姫君のお付きのものにしていただければ、さいわいに存じます」
    とその女は希望を述べました。お前には何ができるの、とわたくしは聞きました。
    「文字はすこし上手です。歌もできます。姫君のお相手もできるとおもいます」
    とその女は言いました。
    「わたし、そらごとをいうのが得意です。いろいろお話しできますわ」
    と、臆面もなく言うのです。その目がぬらぬらと黒光りしているようにも見えて、わたくしは覚えずゾッとしました。わたくしはその女に年を聞きました。その女はぱちぱちと瞬きしながら答え、わたくしは驚きました。とてもその年には見えませんでした。小柄で、痩せていて、風采がわるくて、そして良く言えば無邪気な顔をしていて、少女だと言われたほうがまだ信じられました。
     しかしまあ、とにかくーーとにかく暗いおうちのことでしたから、ご子息が儚くおなりになってからはますます暗い、淀んだような空気さえ漂うお屋敷でしたから、わたくしは、その女を女房として雇い入れることにいたしました。その女は、へんに明るいところのある女でした。明るくて、気味が悪い。まあ、ですから、こういう道化が一人おれば、いくらかなにかが良くなるかと、そう思ったのです。

     己で開口一番「そらごとが得意」と言った割に、その女は基本的に正直でした。嘘をつかず、無駄に虚勢を張ることもなく、どちらかといえば無口で、あのきらめくような目玉がふたつ、じっとあちこちを見ているのです。そんな妙な様子の女でしたから、女房連中も気味悪がって遠巻きに見ていましたが、不思議と姫君に対してだけは、何を考えているかわからないようなぼんやりしたところを拭い去ったような、ちょっと目が覚めたような様子で応対していて、そうすればまあ、穏やかでにこやかで物静かな、無邪気な少女めいた女房、にするりと化けてしまえますから、その女は姫君のよい遊び相手になりました。あなたのように市井で話を聞き集めたことがあったんでしょうか、上流の社会ではなかなか聞かないようなおもしろおかしい話を話したり、まあ、弁舌巧みというわけではないのですけど、貴い人の拙い真似事なのかたらたらと話すのですけれど、そのぼんやりした話し方は、確かにそらごとを語るに巧みではありました。姫君は、その女の語る星々の話がとてもお好きなようでした。といってももちろんちゃんとした学問などのない女ですから、すべてが即興のつくりごとなのです。あの女はたぶん七夕の由緒を朧げに知っているくらいでしたでしょうが、星に牛飼いがいて、星に機織り女がいて、天に河があって、怒る天帝がいて、となればほかに誰がいたっていいでしょう、何があったっていいでしょう、妙な妖や見たこともない姿の獣がいてもいいでしょう、というような口ぶりで、考え考え、なめらかに、ひどくあかぎれのした指先で、姫君をお膝に抱えて、星巡りの旅にお連れするのでした。
     そういうふうで姫君はその醜女にたいそう懐いてしまわれて、なんとまあとうとう姉とまで擬すようになりました。といっても無邪気なもので、
    「だってうちでおねえさまがいないのは尊子だけなんだもの。尊子もおねえさまが欲しいの」
    というようなものでした。
    「あらあら。わたし、おねえさまと言うにはずいぶん年増ですよ。人妻であったこともありますよ」
    「ほんとに⁉︎」
    「ええ。」
    「どんなふうなの、入内するって」
    「まあ、わたしは入内なんか、めっそうもない。わたしたちの暮らしはまずしくもあって、いろいろ嫌なことばかりでしたけど、でも姫さまなら、入内なさったら、おいしいものをめしあがって、とてもきれいな装束をおめしになって、はなやかな宮中で、たのしくお暮らしになるんですよ」
    「でも、皇子のことおおせになるの、怖いわ」
    「ええ、こわいでしょう。きっとどの姫さまも、みんな、こわかったと思いますわ」
    「どうすれば怖くなくなる?」
    その女は首を傾げて、こわくなくなるのは、むずかしいでしょうね、と、頬に手をやって呟きました。
    「目をつむってごらんになるのはどうかしら。暗いでしょう。その暗さだけはほかのどなたにも踏み込めないところなんですよ。目の裏に星がみえますか。虹がみえますか。雨がみえますか。それは姫さまだけのものですよ。わたしたちだけのものですよ」
    姫君は心細げに、女房装束をまだまだ着慣れずに持て余しているその女に、黙って抱きつきなさいました。
    「目をぜんぶ、ぜんぶつむっていてもうっすら明るいほうはわかる、そんなひかりは、しんじるに値するんじゃないかしら」

     姫君はこの時まだ六つでしたが、お父君であり、わたくしどもの殿様でもあらせられたお方は、姫君の入内を、すなわちご自身の栄達を、強く願って、というより焦っておいででした。まあ、御血筋も御血筋ですし、六つ七つともあればまあ立派な姫君で、御后教育をお始めになってもおかしくはないお年頃でございましたけれども、この殿様がまたご承知のとおり陰険な方で、姫君をなだめすかしなさるとか、道理を説き聞かせなさるとか、そんなことがおできにならず、大切にしている刀の手入れをする侍どものほうがまだ親切なのではないかと思うくらいの言い方をなさるので、おかわいそうな姫君はお父君を怖がってばかりおいでで、一方でお母君である北の方さまは入内そのものを疎んじておられましたから、甥とおばの間柄であらせられたこともあったでしょう、お二人の御仲も冷たいものであり、まあそんな間隙に、あの醜い女は、するりと霞のように入り込んだのでございます。
     故関白さまが、ああ、こうお呼びするのがいちばん適切なのかも分かりませんが、長らく殿様とお呼びしていたお方ですから、やはり殿様とお呼びするのがいちばんしっくり来ますね、とにかく殿様が、御父君がいよいよお年をお召しになって、どなたが、というか御兄君と殿様のどちらが、ご後継とおなりになるか、という問題がいよいよ烈しくなりつつあった頃のことでした。殿様はもうほとんど夜ごとに、お強くもないのにお酒をひどくお召しになって、それもそれなりに繁くまだ幼い姫君をお席にお呼びして、家の使命とはなんであるか、家のための己であるとはなんであるか、献身とはなんであるか、などでたらめなことをおっしゃって、入内はこの上ない誉だ、というお言葉にいつも行き着きなさるのでしたが、まあ姫君がおかわいそうだったこと。父君に叱られているようにお小さい肩を強張らせて、夜のことですから眠そうで、たいていいつも母君のかげに隠れておしまいになるのですけど、ある夜、姫君はとうとう、気に入りの女房になったあの女を、その席に伴いなさったのです。もうずいぶん眠そうになっておいでだった姫君に殿様がなにか強くご下問なさり、姫君はそれにお答えしかねて、隣にぽつねんと座っていたあの女のふところに抱きつきなさって、
    「おねえさま」
    と、つい呼びなさったのです。わたくしは大変焦りました。殿様の目が、どういうことだ、と、わたくしを咄嗟に問い詰めておいででした。
    「あら、まあ、間違えておいでなんですわ、姫さま。わたし、ずいぶん年増ですよ」
    あの女は特別のんびりした口調で言いました。
    「まちがえてない! 尊子もおねえさまがほしいの。お母さまもお父さまも、おねえさまはくださらないから、みををおねえさまにすることにしたの」
    尊子が近頃懐いている女房なんです、と北の方さまがおおせになりました。尊子が人に懐くなぞ珍しい、と殿様は驚いたようにおおせになりましたけど、あんな物言いをなさる方に懐く子どもも、まあおるまいと思うのですよ。
    「お前は誰だ」
    と、殿様はお聞きになりました。何位何某国国司某姓何某の娘にございます、とあの女は中途半端に頭を下げて答えました。
    「国司か。父はどこにいる」
    「それは、任地の九州に、下っております」
    「ではお前はなぜ京におるのだ」
    その女は黙りました。火影がふっと揺らいで、女の顔に残るあばたを撫ぜ、いっそう醜い影を作りました。
    「お前は父に捨てられたのか」
    と問う殿様の声に、見まがいようもない喜色が滲んでおりました。女はひとつ瞬きをしまして、そのふたつの気味の悪い目玉に、火影が映じ、見たことのない光が一瞬ひらめきました。
    「はい」
    「何故父に捨てられた」
    「それは、まあ、姫さまにおきかせするには、ずいぶんひどい話もありますから、ここでは、遠慮しとうございます」
    殿様は俄然乗り気になって、北の方さまと姫君をお下がらせなさいました。そしてあの醜女と差し向かいになって、といってもわたくしは控えておりましたけれど、お酒をお召しになり、唇を舐め、あの女に話をさせました。あの女は例に似ず、ずいぶん黙っていました。ずいぶん黙って、首を傾げて、唇から零れるように吐き出すように、
    「わたしは不義の子でございます」
    と、言いました。
    「不義の子なのか」
    殿様は半分ほどは驚いた様子で、あの女の方に身を傾けました。
    「はい。そうでございますから、父はわたしを厭います」
    「それで、京に置いていったのか。随分な仕打ちだ」
    「……さる方の妾でありましたから。しかしいろいろひどいこともあって、訪れも全く絶えてしまいまして、こうしてご奉公にあがったしだいでございます。殿様には、命を救っていただき、ほんとうに御礼のしようもございません」
    というようなことを、あの女はつっかえつっかえ、もだもだしながら、言いました。
    「そうかそうか」
    殿様の顔には、あの愉悦が浮かんでおりました。自分より弱い人間。自分のほかに縋るものを持たぬ人間。頼られることが嬉しい、といえば随分善人のようですけれど、頼られることで己の価値を必死にたしかめていらっしゃるのですから、あんまりもったいないことですけど、言ってしまえば、醜悪なものでございます。
    「母君はどうしておる」
    「九州に下っております」
    「生きているのに、娘を庇わないのか」
    「わたしは、目つきが父に似ているそうです。卑しい、さもしい、みじめな、恨みがましい、ひどくいやな目が、育てた父に似ているからといって、母はわたしを厭います」
    殿様の目にきらと光るものがあると思えば、それは涙なのでございました。ご自身にお重ねになって要らぬご同情をなさるのだ、と、わたくしは思い、どうしたものかと嫌な気分になりました。
    「そうか、おまえは可哀想なやつだな、我が屋敷で存分に奉公してくれ」
    「もったいないお言葉……」
    あの女は平服し、殿様は前のめりになって、その肩を何度か軽く叩きました。それ以来、あの女は、殿様のお気に入りの女房になりました。あの女が東三条殿のことを――殿様のご実家のことを、殿様のご家族のことを、殿様の政治上のお働きのことを、殿様のご幼少のころのことを、どこまで知っていたのか、わたくしにはちょっと分かりませんが、このように人の口に戸は立てられませんし、立派なおうちにはそれだけ人も多いことですし、一人だけいたあの従者を使ってあれこれ調べさせることも、ある程度は出来たでしょうと思います。

     しかし、あの女の母が娘のことを、父親に似て目つきが卑しい、厭わしいと言ったとかいうことも、わたくしには随分納得がいくのです。国司にあたるような階級のものに特有のさもしさ。這い上がろうという意地汚さ。縮れ毛の醜女が職を問いに来たとかいう噂を聞いて、それとなく調べさせましたところ、あの女、恥知らずにも、官職の上から順に屋敷を訪ねていたのです。それをのうのうと屋敷に入れたわたくしもあんまり馬鹿みたいでしたけれど、まあ、物を盗られたわけでもなし、誰が損をしたというわけでもなし――殿様は、なさったかもしれませんが、ただたゆたう夢のような、ぼんやりした化け物みたいな女でしたから、何より姫さまはあの女のそらごとにずいぶんお心を慰められたことでしょうし、というようなふうで、お屋敷ではあの女のことはすべて、いっときの夢か物怪か、というように、すべてが終わってしまいました後には、無言のうちに葬られておりました。
     それらの出来事が始まりはじめたころ、その女は、
    「尊子さま。姫さま。わたしがおかあさまのひとりになったら、お嫌?」
    とまあ、そんな滅相もない、とんでもなく醜悪な、気味の悪いことを、こしらえた人形で遊びながら、言うのです。
    「いやでないけど、みをは、おねえさまだわ」
    「姫さま、わたし、おねえさまなんて歳でないのですよ」
    姫君は口を尖らせなさって、
    「おかあさまになっても、おねえさまでいてくれるなら、いいわ」
    とおっしゃったのを、あの女は醜い、引き攣れたような微笑を浮かべて、
    「では、そういたしますわ」
    と、嬉しそうに首を傾げて言いました。そして実際、あの女は、そのように振る舞ったのです。夜の酒席におそれ多くも侍って、それであの女は、

    「入内のために娘を育てるのはとうぜんのことにございます」

    と、甘言を囁いて歓心を得ようとするのでした。
    「……父はわたしをかずにも入れてくれませんでした。このように醜く、このように愚かであるから。おまえのようなものの婿になるかたがいるものか、と日々なじられておりました」
    女は、つっかえつっかえ、つらつらと思い出すように話しました。たとえば緩く流れる小川に流されている木の葉が、あちこちに引っ掛かったり、また引きはがされて漂ったりするような、そうしてたえず流れている、ある意味流暢な話ぶりでした。
    「悲しかった……つらかった。くやしかった。憎かった。父も、姉も、妹も、何よりわたしが、憎くって。」
    そういうふうに話しますあの女をご覧になる、殿様のご様子。人というものは、自分より惨めなものを見ると安堵するものでございましょうか。自分より愚かで、自分より無力で、そして自分と同じように踏み躙られているものの話を聞いて、残忍にも心慰められるものなのでございましょうか。あの女はそうやって、そうやって傷とそらごとで、あの殿様の御心のお弱いところに、まんまとつけこんだのだと、思います。

     女は乞われるままに、色々と身の上話をしました。ずいぶん悲惨な、ありふれた話でした。女の母はちょっとした歌の名手として、中流階級でちょっと名を知られていたのだとか。女の父はその歌人に恋慕して文を送り、まんまと御簾をくぐりおおせたのですが、まこと恋とは儚いもので、御簾の中に座す歌人は顔も風貌もそう立派ではなく、それはよいとしても、北の方にするにはいささか家政も下手でした。恋女房が手際のわるいもたもたした出来損ないに変わるまでにそう時間はかからなかったらしいのです。子は少なくはなかったけれど、父母は互いを嫌っていました。歌を詠むしか能のない女を選んだ己が馬鹿だった。言いかけてきた男の中からかれを選んだ己が馬鹿だった。
     父に目が似ている、と母はその女を疎んだと言いました。母に性分が似ている、と父はその女を疎んだと言いました。その一方で、女の姉は、一の姫は、たいそう出来がよかったのだとか。その階級のものにしては風貌もよく、女が身につけるべきことをよく修め、しかしでしゃばることもなく、母親に似て歌の才もあって、いくらか上の身分の、まあ申し分ない男の妻になったのだとか。

     そんな女の話を、殿様はお酒をお召しになりながら、しみじみと、同情といくらかの共感を湛えた目で眺めなさって、お前はかわいい、などおおせになるのでした。そのありさまの醜かったこと。わたくしはそっと目を逸らしておりましたけど、まさか不調法に耳を塞ぐわけにもいきますまい――。おまえは不出来だからかわいい。おまえは愚かだからかわいい。
     そういえばその女は、お酒を勧められてもむにゃむにゃと頑として、もったいないことにお誘いを断ってばかりいましたね。何が何だかわからなくなってしまうから、と。そらごとばかり言う人間なりの自制だったのでしょうか。もっとも、あの女は、素面のままでも、何が何だか分かっていなかったと思いますよ。

     そのうち、殿様はとうとうその女を召人になさいましたけど、北の方さまは何もおっしゃいませんでした。烈しいご気性で苛立ってばかりおられた殿様が、多少どこの骨とも肉ともしれない女にたぶらかされたとしても、それで特に姫さまが責められることが減るのですから、良いこと、なのかもしれませんでしたし、穏やかで貴いご出自の北の方さまが、あのような醜女にまさかまさか悋気を起こしなさるはずもありませんし。

     わたしね、とその女は夜陰の中で言いました。いもうとを殺めてしまったのです。かわいい子でした。天女みたいにあいらしかった。お庭でね。池のそばの花を、母上が摘んでくださったんです。わたしに。それをいもうとがほしがったの。お姉さま、とひどく言うから、もう嫌になって、いやになってつい、わたしの手から花を取ろうとする子を、つきとばしてしまって、そして、それから、風邪をこじらせて、それきり、死んでしまいました。わたしが殺したの。花なんていらなかったのですけれど、わたし、母上がほしかったんです。
     そう言って珍しく、静かに少しく泣いている女の背中の、短い茶色い縮れた毛を、殿様はお撫でになって、言葉少なに慰めなさるようでした。しかしまあ、あの女は、道化としてはたしかによい仕事をしましたから、良いのですけれど、まああんまり醜悪でした。あの方もよくもまああんな醜女を寵じなさったものです。
     あの方は女の醜い髪を触りながら「おまえは醜いゆえ愛しい」と、呪うように祈るように呟きなさいました。「お前は愚かだから」。「お前は癇性だから」。「お前は出来が悪いから」。

     女の姉も、産褥で子と共に身罷ったのだとか聞きました。ですから女の姉妹のなかでは、皮肉にもいちばん出来の悪い、いちばん醜い、いちばんもたもたした女ひとりが、生き残っているのでした。それは羨ましいな、と殿様は皮肉交じりに息を吐きなさいました。
    「そう願ったことがある」
    わたしも、そうでしたけど、と女は首を傾げながら、珍しくはっきりした口調で言いました。
    「おやめになったほうがようございますわ。妹がみまかりましても、姉がみまかりましても、父も、母も、わたしをにくむばかりでした」

     あの女はどこもかしこも醜くて、その中でも周囲の様子をおどおどと窺っているあの卑しさは、とくに醜いものでした。まあ、あの女を引っ叩いて虐待したくなるのも、はしたなく残虐なことでありますけど、言ってみれば気持ちはずいぶんわかりました。その女はそらごとを言うことのほかには何一つ満足にできませんでした。殿様があの女を寵愛なさったのも、あの女を囀る小鳥のように扱えたからなのでございましょう。あの女が家政をせねばならぬとなれば、妾や妻に成したとすれば、まあ、あの女の以前の結婚生活が破綻した通り、あれほど大切にはなさらなかったと思います。その点、あの女はほんとうに、歌しか詠めなかったとかいう母親にほんとうに似たのでございましょうね。
     たとえば、あの女が掃除かなにかをしようとして粗相をして、屏風をひとつだめにしたことがありました。お屋敷にあるものの中では特別値打ちがあるわけでもないものでしたが、あの女と同じくらいかそれ以上には値打ちのあるものでしたから、わたくしはあの女を、もういまは召人なのだから下女みたいなことをしないでちょうだい、かえって迷惑だから、ときつく叱りました。女はひどく怯えた様子で、申し訳ございません、とつっかえつっかえ言い、ぺこぺこ頭を下げて、顔を上げるたびにその目が、あの目が、ほんとうに卑しく苛立たしい、物言いたげな目なのでした。言いたい言葉が喉につかえたように、もしかしたらそもそも思いが言葉に固まっていないというように、とわたくしはあの女のことを推しはかりましたが、しかしとにかく、腹立たしい目でした。わたくしにもう少し分別がなかったら、引っ叩いていたことでしょうね。
    「言いたいことがあるならおっしゃい!」
    「いっ、も、申したいことなっ、ことなんて、ひ……ひとつも、ございません」
    そらごとはすらすら、うんとゆっくり流れる河のように澱みなく言うのに、自分のことはひどく吃るのね。女はおどおどと、重たげに袖をまくって、わたくしに醜い腕を差し出しました。わたくしは一瞬間その意をはかりかね、そしてぱっと目の裏が赤くなるほどの侮辱に震えました。
    「わたくしのことをお前を打つような卑しい人間だと思っているの」
    わたくしは必死に怒りを堪えながらその女に問いました。女はやはり、物言いたげな目のまま、わたくしをおどおどと見ていました。
    「いいわ、そんなに打たれたいなら、打ってさしあげましょうね」
    殿様にでも姫さまにでもわたくしに打たれたと泣きついてまた同情を乞おうとするのだろう、というその卑しい魂胆を思うと、もう驚いたり憎んだりするのでは足らず、ただ呆れてしまいましたけれど、そうであるのならばうんと見栄えのする折檻のあとであった方が良いでしょうね、とわたくしは思い、あの女はじっと目をつむって、わたくしが与える苦痛のひとつごとに僅かに眉根を寄せ、しかし決して声は漏らさず、むしろどこか安堵しているようにも見えました。しかし結局あの女は、わたくしがこしらえた傷を、殿様にも姫さまにもお見せしなかったようでした。気味の悪い女でした。

     殿様はあの女をお抱きにはならないようでした。元来女がとくにお好きというわけでもない方ですし、あの女はひどく醜いからだでしたし、己で不具だと申したことは事実のように思われましたし、大体国司の娘のはらなど何の役にも立ちません。ええ、身分の低いものを雇い入れるとき、装束を脱がせてからだを検分するのです。いろいろ疵がありました。童のころ兄につけられたのだとかいうものもありましたし、最も新しいもので一年前かそれくらいだろうか、というものもありました。夜着で隠れないところの疵を見て、殿様はあの女に問いなさって、あの女はうっすらと笑いながら、兄に、と言いました。その兄はどうにも出来がわるく官職を得られず、九州へ下向するのについていったのだとか。殿様は少し絶句なさいました。
    「すまなかった」
    とやっとの声をお出しになるので、女は首を傾げて、
    「あなたさまも弟君を折檻なさったの」
    と、醜いあばたを月の光に晒しながら醜く笑いました。殿様はほとんど泣きそうな顔でお頷きになりました。
    「もういいですよ」、と女はたどたどしい舌で言いました。
    「いいんです、もう。わたしがあなたを許します。あなたのひろいなさった罪のぜんぶを」
    そういうそらごとを、言いました。

     ご政争がいよいよ激しくなって、どちらが御父君のあとをお継ぎになるかという御兄君との争いを主としてさまざまな圧迫を堪えておいでだったころ、殿様は、耐えかねたようにその女に愚痴めいたことをこぼしなさることもありました。もちろんあの学問のない女のことですからまつりごとのことなぞ分かるはずもなく、首を傾げ傾げ聞いていたのですが、とにかくあの方がひどく辛抱してきたことと、今もひどく辛抱していることだけは分かったらしく、

    「夜のつぎには、朝がきますよ」

    など、口先で、殿様の背を撫でながら、言い含めるように、言うのでした。
     夜のつぎには、朝がくる。いつか夜は明ける。かならず朝がくる。しかし夜の間に死ぬものも、ずいぶん多いことでしょうね。
     とにかくそう言って殿様を宥め透かし励まして、寝かしつけたんだか自分も寝たのだか、わたくしもうとうとし始めたころに、暗闇の中に女の独り言がぽつりと響きました。言い聞かせる響きをもった言葉でした。
    「べつに朝がこなくても、それはそれで、けっこうなことじゃありませんか。朝がこなければ、夜はこんなにくらいのだから、じぶんの傷のふかさもかたちも、確かめなくてすむでしょう。みなければ、さわらなければ、痛いだけなら、そんなの、嘘とおなじです。」
     あの女でも下手なそらごとを言うのだと思いました、わたくしは。


     そらごとを塗り重ねて得た寵は、おおむね長続きしないものでございます。その女のそらごとがあらわになったのは、一年ほど経って、父の国司がようよう都に戻ってきた頃のことでした。娘が権大納言さまの召人になっていると聞いて驚き呆れたのでしょう、まさか挨拶に参らないほど無作法な人間でもなかったのでしょう、その国司は、筑紫の産物を献上品としてあまた持参し、殿様にご挨拶に参ったのでございました。
     その男の風貌をご覧になった殿様は、さっと顔色を変えました。なにかくだくだと挨拶をしている国司を遮り、献上品の中にある素焼きの酒瓶を拾い、もう片手で国司の烏帽子に手をかけました。国司の驚愕と抵抗も虚しく、烏帽子はぽんと外れて転がっていき、そして結われて烏帽子に隠されていればこそ目立ちませんでしたが、その国司の髪も、娘よりはいささかましでしたけれど、茶色がかった縮れ毛なのでした。それに何より、母親が憎んだとかいう通りに目玉が、そのいやな目つきがたしかに似ており、ですからその女はどう見てもその国司の胤なのでした。

    「こうまでに俺を謀ったのか」

    女は、憎らしいことに、ぱちぱち瞬きをして、不思議そうな顔をしました。こうまでに俺を謀ってくれたのか、と殿様はもう一度おっしゃって、怒りに震えるそのままの手で、酒をその女に浴びせました。女は髪から滴る酒をぼんやり見て、頬を伝う酒をぼんやり何本かの指で拭いました。

    「ギ、がたりないから」

    と女は噛んで含めるように言いました。
    「ギ、がたりないから、父上はわたしをお嫌いなんですよ。ギ、がないから、母上もわたしをお嫌いなんですよ」
    何十回何百回何千回、自分に言い聞かせ続けたような、野原に踏み固められた獣道ができているような、そんな拙く頑固な口ぶりでした。
    「………もしもそうでなかったら、そうでなかったら、わたしがわたしであるからわたしは嫌われるんですか」
    と今までにない早口で言って、黙って、殿様をじいっと見上げて、
    「そんなのって、たえられません。あなたも、」
    黙れ、と殿様は呟きなさいました。女は黙って下を向きました。国司は慌てて口を開きました。
    「申し訳ありません、娘は連れて帰ります、妻も任地で身罷りまして手もありませんから、いえ昔からとんでもないことばかりしでかす白痴でひどく手を焼いておりましたけれど、まさかまさか権大納言さまのお屋敷に上がり込むなど恥知らずな、ほんとうに申し訳ございません」
    私はそこに、あのかたの要らぬ同情を見ました。このまま屋敷を追い出せば、この女の暮らしがたいそう悲惨なものになるだろうことは、たやすく想像がつきました。それもきっと、死ぬまでずっと。けれどこうまで欺かれて、それを素知らぬ顔で抱えておけるほど、あの方は豪胆なお方でもありませんでした。
    「道兼さま。あなたが、みをのさいわいでした」
    よくもまあそんなことが言えたものです。
    「出ていけ。二度と顔を見せるな」
    殿様は脇息に寄りかかりなさって額に手を当てながら、強いて押し殺したお声でそうお命じになりました。では、そういたします。

     それから、気味が悪いしきたないからすべて焼いてしまえ、と仰せで、父の国司が献上したものにも、あの女の局にも、もったいないというほどのものなぞありませんでしたからみな焼いてしまって、殿様はしばらく調度品がなかなか焼けずに火の中に残っているのを眺めておいででしたが、やがて何も言わず居間にお帰りになって、どこもかしこも煙の臭いだ、などと顔を顰めておいででした。まったく、あの夕方の煙たかったこと。大変な騒ぎでした。
     しかし、あの女は何故あんなことをしたのでしょうーーあるいは、しなかったのでしょう。どこまでが真実で、どこからがそらごとだったのでしょう。あれだけ似た父娘であれば、父の国司が参った時点で最大のそらごとが明らかになってしまいますから、それで殿様がどれだけ揺るぎなさるかお怒りになるかわからないわけはないと思いますけど、もうどうにもならぬと思ってすっと暴かれるままに任せたのか、そうならぬよう手を尽くすことはできなかったのか、あるいは本当に気が触れていて、余人の推測を拒むほどの何かがあったのか。まあ、あの女の真意など、たぶん考えるだけ無駄で、どうでもいい話です。

     殿様はそれから時々、調度品もすべて燃やしてしまってまったく空になったあの女の局に、一人でただお座りになっていることが、ありました。いよいよお気がおかしくなってしまわれるのではないかという不作法な噂さえ屋敷では囁かれましたけれど、まあそうはなりませんでしたけど、まあ、その後のことは、あなたもご存知の通りです。
     しばらく経ってからあいつの居場所を探せと仰せになったのですが、妙なことに父ともどもふっと消息がなく、あの女が呼び戻されることは結局ありませんでした。まあ、それで、よかったでしょう。しかしこの話にはすこし怪談じみたところがあって、というのも、父親が「触穢故物忌」と言ってきて以来一向に出仕せず、不審に思って屋敷を訪っても、荒れ果てた小さな屋敷には人の気配もなにもまったくなかったのだとか。まあ、国司などいくらも代わりがおりますし、ましてその娘など、いなくなっても誰も誰も気にもとめないものでございます。
     まあ……あの殿様は、お心にもお身体にもお弱いところがあらせられて、それで結局あのようなご帰結になってしまわれたのではないかと、差し出がましくも下衆の勘繰りにも思うのでございますけれど、まあ…………ずいぶん馬鹿げたような、人の成します謀とも言えない、物怪かなにかがふらりと過って行ったような、そういうことが、ありましたね。
    せいあ Link Message Mute
    2024/04/06 13:47:26

    夜のつぎには朝がくる

    人気作品アーカイブ入り (2024/04/07)

    「道兼がもう精神限界そうだからなんとか慰めてさしあげたい」と「つつき倒したい」という気持ちで書きました。道兼って視線と噂に苦しめられ続けているだろうな、と思ったので……「加虐」の割合が多いです。屋敷の中にもあんまり味方がいなさそうで…良くて……という邪念があります。語り手が「結構嫌な噂好き」です。モブ(女)に都合上名前がありますがほぼ出てきません。題は太宰治『花燭』からです。濃淡さまざまな嘘が出てきますが、ただ題だけは明確に嘘だと思います。(4/22追記:嘘がまことになったように私は嬉しいです。しかし長生きしてほしい、道兼に……)

    道兼とモブ召人の話を元女房が語る形式です。恋愛関係も肉体関係もありませんが語り手からモブへの折檻があります。モブが虐待を受けていた描写があります。差別的な語が少数使われています。怪談と夢小説です。
    #光る君へ #夢小説 #道兼

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    • 手形道兼にガチ恋していた供人の青年(八つ年下)と七日関白と臨死体験の幻覚の話です。今後の展開に耐えられないので書いた夢小説です。この小説に出てくる道兼は七割くらい語り手が臨死体験で見た幻覚です。
      ※道兼が故人
      ※陪膳の女房が死んだということになっています
      ※考証が一切ありません、すみません……
      ※夢小説です
      #光る君へ #夢小説 #道兼
      せいあ
    • 閑話/404ドラマ「いいね!光源氏くん」のように、ある日現代人の語り手のところにタイムスリップしてきてしまう道兼……という謎の話です。
      ・ちょっと長い(五万字近くあります)
      ・現代人がカの罪についてあれこれ言う展開があります
      ・めちゃくちゃボーイズラブです ラブです
      ・カを天女に擬えたりかぐや姫に擬えたり好き勝手しています
      ・陪膳の女房が死んだということになっています(詳細の言及はありません)
      ・あるもの:海、猫、温泉、ケーキ、クリームソーダ、どんぐり、将棋、心身の不調、嘔吐(詳細描写はなし)、未練
      #道兼 #夢小説
      せいあ
    • 末期の恋・七話くらいで病死した女房が地獄で罪を告白する話です
      ・こんな題ですが恋愛関係も肉体関係もありません(恋愛関係になる可能性はあったと思います)
      ・同衾(性的接触なし)があります
      ・夢小説です
      ・「東風吹かず」と微妙に繋がっています
      ・伝聞のかたちで道兼に対する暴言があります
      ・語り手はたぶん二十代です(都合よく設定しています…)
      ・宮中のことをなにも知らずに適当に書いています すみません
      ・たぶんバッドエンド/救いがあんまりないと思います

      #光る君へ #道兼 #夢小説
      せいあ
    • 泥のうてな右大臣家の女房の告白シリーズその③の、取り急ぎ走り書きです。人払いできてないよなあと思ったり、手当てを…と思ったりしたので、そういう夢小説です。道兼に微妙に嗜虐心を抱いていたり、「あなたの咎になったその女のことが羨ましい」という不謹慎な話まであったりするので、申し訳ありませんがご注意願います。
      #光る君へ
      #夢小説
      #道兼
      せいあ
    • 東風吹かず「お仕事モードの貴公子然とした道兼にメロメロになりたい」という夢小説です。青年期道兼の同僚をしていて、お仕事モードの道兼にメロメロになり、のち地方に下向した男が、道兼の訃報を聞いてかれを回顧する問わず語りです。直球に夢小説です。
      ※道兼の最期についての話
      ※一切の考証がありません。すみません……。
      #光る君へ
      #夢小説
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      せいあ
    • 覆乳盆に返らず宣孝さんといとさんのシーンと、五話の几帳をひらひらしている道兼が刺さったので書いた夢小説です。「そんな家やめてわたしにしてください」という話です。価値観と男女観が中世っぽいですが時代考証が存在しません。右大臣家の女房の告白シリーズその②です。
      #光る君へ
      #夢小説
      #道兼
      せいあ
    • 蜜柑一献幼少期の道兼を誘拐した下女の独白です。
      ※児童を誘拐して縛って転がしています。
      ※モブが一万字分思いつめた思案を喋っています。
      ※モブの姉が巻き込まれています。
      ※モブに対するやや猟奇的な表現があります。

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