Bittersweet distractors 一
「ネブラスカのこと、覚えてる?」
ローリーがそう尋ねてきたまさにその時、奴のことを考えていたので驚いた。というか、あの日以来実際ほとんど、俺は彼の事を考えていたのだった。聡い息子はなにかを察知して――そしてこれまで任務ばかりで一緒に過ごした時間が少ないとは言え、かつてなくぼんやりとしている父親の異変を感じ取ってそう尋ねたのだろう。
一体この子の知性はどこから来たものだろうか。エミリーも俺も頭は良い方だったが、ローリーの持つそれとは本質的に違っていた。その差異を具体的な言葉にできない時点で、俺は時々この子より遥かに自分の方がガキになったように感じるのだった。
そんな風に思うのは危険だ。紛れもなくローリーは十二歳の子供であり、そして自分は父親なのだから。せめて彼の前では大人たれ。そう決意を固めて視線を上げれば、幼い息子は労わるような目でこちらを見つめていて、自分が明らかにひどい顔をしているのが分かった。もうだめだ。
「覚えてるよ。そういや一緒にいた時なんか話してたな?遊んでもらったのか?」
「うん。なに読んでんだって聞かれて、本の話してた」
「本の話?」
あの状況で本の話を?そんな余裕があっただろうか。しかし確かに視界の端で、面倒見のいい彼がローリーを保護しつつ、あの状況に似つかわしくなく何やら和やかに談笑していたのは覚えていた。
ネブラスカの事を思い出す時に一番に浮かぶのは煙草から散る火花、そして眼前で散る奴の吐血だった。次いで、火花や鮮血の向こうにある憎たらしい笑顔。なんの迷いもないような顔をして、満面に浮かべたあの笑みだ。
ネブラスカに本当に迷いがなかったのかは分からない。憎たらしく感じるのは俺がまだ納得していないからだろう。ただ彼は確実に自分で自分の終わりを定めていて、そしてそのために人に優しかった。俺にもローリーにも、その他の者にも。ネブラスカは大体において分け隔てなく面倒見が良くて、そうできるのは一番に守りたいものが自分じゃないからなんじゃないか、と思うとそれもまた憎たらしく感じるのだった。
どんなに優しかろうが、奴の根底には揺るぎない願いというか目的があった。
瞳の中でちらつく赤色を誤魔化したくて目頭を揉む。あの日以来、ぼんやりしていると何度でもあの光景が浮かんできていた。
「なにを読んでたんだ?」
「これ。ネブラスカも昔読んで好きだったって」
ローリーが示した表紙を見てぎくりとする。その本は十二歳よりはもう少し年長向けで、おそらく俺が不在の時にガレージの中で見つけたのだろう。記憶よりも少し褪せた表紙を見つめる。ぎくりとしたのは、これは大昔に父親から貰ったもので、自分ではどこに仕舞ったのかも忘れていたからだった。
「あいつも好きだったって?お前も好きなのか」
「うん。ネブラスカは高校の頃に読んだって懐かしがってた」
ティーンエイジャーの彼がこの本を読んでいるところを考える。想像がつくような気も、あまり似合っていないような気もする。想像できるほど彼を知らない事に思い至る。奴の希死念慮がいつ芽生えたかは知らないが、さすがにまだその頃ではないだろう。
ネブラスカ。
火花、鮮血、透明なシールドの向こうの、すべてが吹っ切れたような笑顔。ようやく願いが叶う、全ての荷がようやく肩から降りる。肺癌の進行を待つなんて緩慢な死よりエキサイティングで、頭を撃ち抜くよりもイカれてて、自分に相応しい死に場所を見つけられた笑み。諦めと満足の入り混じったあの顔。くそっ、と思わず小さく悪態を吐き、ローリーを驚かせてしまう。
「ごめん。なんでもないよ」
ローリーから受け取った本を手の中で持て余し、ハードカバーの角が経年劣化で禿げたところを爪で弄る。我が子の知性がどこから来たのか。似た気質を持った人間が身近にいた事を急に思い出して居た堪れない気持ちになっていた。
ローリーの手で掘り起こされたこの本について、良いとか悪いだとか、俺が言える事は何もなかった。なぜなら俺は読んでいないからで、それは父親への稚拙な反発が理由で、しかし父がこの本を通して俺に渡したかった何か、俺が受け取ることをしなかった何かを、自分の息子がそうと知らずに受け取っているのが不思議だった。
俺の父と俺の息子、そしていま頭から離れない男もこの本が好きだった。たったそれだけの事に符合を感じようとしている。自分がティーンエイジャーに戻ったようで感情のやり場がなく、勘弁してくれ、と思う。
本当は符合でも何でもなく、突然知り合って呆気なく立ち去って、強烈な印象だけを残して消えた彼に繋がるものに縋りたいだけだと分かっていた。
多くの陸軍仲間の出自が代々軍人の家系なのとは違い、俺の父は大学教授だった。理知的で厳格、現在の俺の歳よりも若い頃から父親然としていたが、しかし仲間達が口にする父親像とは少し違っていた。父は俺に本を読ませたがり、俺は父といると自分が馬鹿みたいに無力であるように感じて、あんたみたいに賢くないんだと反発した。勢いで入った軍はいかに効率良く命令を完遂するかに頭を使えば良く、そのやり方はぴったり肌に合っているような感じがした。
父にしてみればそれは思考停止と同じだったのかもしれない。きっと己で善悪を判断できるような人間に育って欲しかったのだろう。軍で一悶着あった今となっては、少しは分からない事もない。
ローリーは優しい性格で、俺と違い自分と正反対の父親像に反発しているわけではなかった。厳しかった父に似てもいない。ただその根底を流れる思慮深さだけが、紛れもなく俺ではなく父から引き継がれたものだろうと思った。
ネブラスカはこの本についてローリーに何を語ったのだろう。俺の手では表紙をぼろぼろにしていくばかりで、本を開く勇気はまだ起きなかった。この歳になっても尚、父とまともに語れる事は無いのかもしれない。
二
俺の手によってぼろぼろにされた本は結局、ローリーの手からネブラスカへと渡された。また会えた記念に、生き残りの記念に。あれからかなりの月日が経ち、いい加減考えるのもよそうという頃になってようやく、その生存を知らされた。今に始まった事ではないが、やはり軍というものは信用ならない。
彼の身体はほとんど回復していて、信じ難い事に病室には他の連中も揃っていて、誰一人言及はしないがきっと、地球にはない何らかの医療技術を拝借したのだろうと想像がついた。治療はおそらく実験も兼ねていたのだろう。
隔離に懲りていたルーニーズは沈黙の利を学び口を噤んでいたものの、「身体は治せても頭の中身はそのままだ」と言わんばかりにその後の生活には監視が付けられた。
軍にはとても戻せないが放置する訳にもいかない五人、監視役の俺も入れて六人。あっという間に軍は人目につかない郊外の一軒家を借り、病室の代わりに六人でそこに詰め込まれ、奴らと共同生活を送る羽目になった。
またしても全てが唐突で呆気なく、喜ぶべきなのか俺はよく分からなかった。
「ネブラスカ!お前そのレーズンまた料理に入れる気じゃないだろうな」
キッチンからコイルの悲鳴が響く。
「そうだけど」
「ノー!もう勘弁してくれ。キャロットラペにレーズン、ポテトサラダにもカレーにもレーズン、お前のレーズン信仰はなんなの?」
「全部食ってたじゃん」
「食うよ?!でもなんなの!」
「ナッツもだ。何にでもナッツだのクルミだのを入れるのはやめろ」
バクスリーも珍しく援護するのをネブラスカは一笑に付し、何かの肉を煮込んでいる鍋にレーズンとオリーブを落とし入れた。蓋を開けた瞬間やけに良い匂いが漂う。
料理も掃除も一応交代制という事にしていたが、彼等が秩序立った順番を守る筈もなく、あっという間にめちゃくちゃになった。まともなものを食べたいネブラスカが毎日さっさと料理を始めてしまい、俺の番だと声高に主張するほど料理がしたい人間はもちろん他にいなかった。
「なんで?美味いじゃん。栄養価高いし」
「俺らはお前みたくマッチョを目指してないわけよ」
コイルがどれだけ文句を言おうと鍋の中身は変わらないし、どうせ美味いのだろうと全員が知っていた。ただ、もっと分かりやすくジャンクなものを食べてきた面々にはその手の料理は馴染みがなく、むず痒い感じがするだけだ。
それにネブラスカの頑固さは全員が承知している。コイルがごねたくらいでは、彼の完全栄養食を切り崩せるべくもなかった。
「ネブラスカ、ハワイアンピザとかも好きだよな」
出されたものは特にこだわりなく食べるネトルズが呑気に言う。「なんか複雑な味のが好きなの?」
「あれは俺も好きだ、悪くない」というバクスリーをコイルが忌々しい目で睨み、「みんなどうかしてる!愛しのピザにパインなんてありえない。一体どうしちまったんだ?」と叫んだ。
「こないだネブと食ったエスニックの麺、あれなんてったっけ?あれにもパイン入ってたな。食いながらフーンって顔してたからそのうち家でも作るぞ」
「ラクサな。パインと胡椒とライムが合ってた」
そうそれ、とポップコーンを口に放りながらリンチが言う。リンチは料理に関する一切をしなかったが、ホラー映画を見るのにポップコーンは絶対に必要だとフライパンを振るのは億劫がらなかった。映画の中で誰が死ぬかをネトルズと賭けていて、たったいま賭けに負けたネトルズが何かを叫び、コイルのパイナップルへの嘆きはその声に掻き消された。
正直毎日うるさい。
俺は当初ネブラスカの食へのこだわりを好ましく思っていた。なぜなら彼ははっきりと死に向かおうとしていたからで、怪我の治療にも肺癌の治療にも一悶着あったと報告を受けていたし、食への執着は生への前向きな歩みのように思えたからだ。あの笑顔の先が死に繋がらなかったのは俺には良いことで、残念ながら彼自身にはそうではなかった。
そんな思いを知ってか知らずか、何気ない会話の中で奴は「いつまで食えるか分からないし美味いもの食いたいよな」などと言うものだから、再び憎たらしい思いが頭をもたげる。そして俺が苦々しい顔をしているのを、彼は悪気なく笑っているのだった。
あの日、モーテルのプールサイドで俺は大丈夫かと聞き、彼は「そうかもな」と言って、全く大丈夫では無さそうな笑みを浮かべた。ああだめなんだな、とその時は思っただけだった。死にたがるのはやめてくれ、と今はもう言えない。いま口にするにはあまりに本気すぎた。
傍から見たら大丈夫でないのは俺の方かもしれない。
「マッケナもなんとか言えよ!」とコイルに呼ばれて顔を上げる。ネブラスカもこちらを振り返り、いつも通りにニヤついた顔と肩越しに視線がかち合った。
「…どっちでもいい。俺は作りたくないから出されたものを食うよ」
グルメなのは俺だけか?とコイルが頭を抱える。その隣で、笑みを濃くしたネブラスカがこちらを見つめていた。
三
「ローリーはいい子だな」
プレゼントされた本を捲りながらネブラスカが言った。真夜中にバクスリーが何事かを叫び、その声に驚いたネトルズがおろおろと家中を徘徊し、それぞれを適当に寝かし付けて部屋に戻ろうとしたところでダイニングに彼が座っていた。この騒動で目が覚めたのか、初めから起きていたのかは分からなかった。
顎を傾けて促されるまま向かい側に腰掛ける。どうせもう眠れそうにない。
「そうだな、奴らより随分良い子だったよ。夜中に叫んだりはしなかった」
「おまけに賢くて優しい、肝も座ってる。きっととびきり大物になるぞ」
いやもう俺らより大物か。なにか飲むか?と言いながらネブラスカがキッチンへ立つ。さっきまでの騒ぎが嘘のように静かで、何かから切り離されたようだった。
「ベビー共は寝たのか?」
「知らん。ベッドには入れた」
「はは、あいつら明日には忘れてるだろうな」
「忘れてる方がましだ」
本心だった。朝になってから扱いが優しくないとバクスリーに文句を言われたりもっとスマートに寝かせろとコイルに言われたりネトルズに謝られたりするのはものすごく面倒臭い。こちとら仕事でやってるのだ。
そう話しながら、テーブルの上に残された本を眺める。久しぶりに目にするその表紙からなんとなく目が離せずにいた。
「それほんとはお前の本なんだろ。俺が貰って良いのか?」
「お前が持っててくれた方が良いよ」
「そうか」
酒の入ったグラスが二つ、ことりと本の横に置かれる。ネブラスカはいつも通り、何かを面白がってるような――なにか興味深いことでもあるような笑みを浮かべて、「ローリーはお前に似てるな」と言った。
「似てるか?初めて言われたな。どの辺が?」
「勇敢なとこ。そうだろ?」
「勇敢ね」
今のこの時間が夢で次の瞬間に目が覚めてやっぱりお前が死んでても俺はもう驚かない、驚かないくらいに何度もあの血と火花を思い返して来たけどお前はそんなこと知らないだろう。
と、ひと息に頭に浮かんだが口から漏れ出ることはなかった。我ながらさすが訓練された軍人と言うべきか、単に勇気が無いだけかもしれない。俺の勇敢さは任務中にしか発揮されなかった。
「人間性を大事にしてるとこも」
急に出てきた単語に不意を突かれた。人間性?
「どういう意味?」
「やっぱり読んでなかったな、これはそういう話」
本の上に置いた左手でとんとんと表紙を叩く。どういう話だ。
「別に読んでなくて良いけど、同じ物とか見てなくてもやっぱどっか似るもんなんだな。あいつパパが大好きだしな」
好きなものは目で追ってたらそのうち似てくる。と言われて驚いて言葉に詰まる。俺の父と俺の息子とその知の系譜からなんとなくはみ出してしまった俺、という一方的に引いていた境界線が、こんな一言であっさりと緩もうとしていた。
「大好きだって言ってた?」
「見てりゃわかるだろ」
ルーニーズの生存を知る前に渦巻いていた、ネブラスカともっと話せたら聞いてみたかった事。この本の何が好きかとかローリーと話した事とか、本当に死ぬしかなかったのかとか。結局再会してからも尋ねる事のなかったそういう諸々に本当は意味なんかなくて、俺はただ彼と話がしたかっただけだった。
「興味出てきた?読んでみるか?」
「いや、いいよ」
「はは」
ネブラスカが生きている。もう彼に繋がりそうな細い糸に縋る必要はない。色々考えすぎて彼そのもののように錯覚していたこの本は、本来のただの本になっていた。
「ネブラスカ」
「うん?」
「大丈夫か?」
「ああ、たぶんな」
いまのこの時間が夢で次の瞬間やっぱりお前が死んでいたら驚いていいし、泣いたって怒ったって良いのだ。と思うと突然バクスリーよろしく叫び出しそうになり、でも叫ぶのなんて単なる感情のごまかしで、多分俺は彼が生きている事が嬉しくて泣きたいのだった。
溜息をつくようなふりをして目頭を揉む。ネブラスカがグラスを傾けながらこちらを見ている。
プールサイドでの奴の誤魔化しも相当に下手だったが、今の俺だってきっと似たようなものだろうと思った。