呼吸
あんなにも眠りの浅く、かすかな物音ひとつで身体を起こしていた男が、現代ではあまりに深く眠るので驚いていた。声を掛けても、揺すってもなかなか意識が上ってこない。昏々と深い場所に横たわっている。
自分はといえば、歳をとる毎に眠りが浅くなっていった。もうこれ以上眠れそうにないので小さく灯りをともし、傍らに座って彼の寝顔を眺める。こんな風に長くビリーの寝顔を見つめることは以前は無かったように思う。きっと昔は俺の方が見られていたのだろう。見守られていたというべきか。
ビリーの首元に手を差し込めば子供のように体温が上がっていて、寝具との隙間がひどく熱を持っていた。暖かいので暫くそのままにして、空いた片手で本の頁をめくる。
身体を丸めて眠る姿を見て、なんだか動物めいているなと思う。百四十年前にも同じことを思っていた。毎日寝起きとは思えない敏捷さで周囲を警戒する様は野生そのもので、耳をぴんと立てて辺りを見回す獣のようだと妙に感心したのを覚えている。あの時代は誰もがそんな風に警戒していたものだが、俺などは起き抜けは血が巡らず、起きた瞬間から大立ち回りをやってのける彼に助けられたことも一度や二度ではなかった。
昔と今、真逆の行動こそが彼の本能的な生き方を示している。百年前のように警戒する必要はもう無いということなのだろう。良い時代だ。東洋人だというだけで命を狙われる事も、男ふたりで暮らしているからと責め殺されるような事もない。
ビリーが熟睡できるようになったのは少なからず自分の心の平穏も関係していて、それに関してはすまないと思うばかりだった。かつては毎晩のように縋り付いて泣き言をぶつけ、気を失うようにしてどうにか眠っていた。現代とは便利なもので、彼に代わって眠れぬ夜のお守りをしてくれるものは様々あり、今では阿片のような依存を起こさない安定剤の類も沢山あった。
過去の記憶がある以上未だに拭いきれないものはあったが、昔ほど魘されることはもうない。それでも時折こうして目を覚ましては、ビリーの体温で波立ちそうな何かを抑えていた。
規則的な寝息を聞きながら、こんこんと眠る彼は今どこにいるんだろうと考える。
水に沈むように深い深い場所へと降りてゆき、湖の底を歩き、森の深奥へ進み、夢と夢のあわいで揺らいでいる。背の高い草叢に分け入り、澄んだ川で泡と共に泳ぐ。ふかふかの雪原に飛び込む。
昔一緒に見たような、一面の麦畑の黄金の中を掻き分けていく。
手の届かないところへどんどん進んで行ってしまい焦るが、気付けば片手を引かれて俺も一緒に歩いている。視界が黄金に染まる中、先を行く黒髪を見つめている。手が暖かい。グッディ、と振り返り呼びかけられる。グッディ、楽しそうだから今度はあっちへ行ってみよう。もちろんだビリー。お前が行きたい場所に俺も行く。
は、と我に帰る。気付かない内にうたた寝をしていたようだ。彼の夢の中に入り込んだような心地がして何度か瞬きし、目頭を押さえる。
ビリーが身じろぎして、首に触れていた手に頬を摺り寄せてきた。やはり動物のようだ。変わらず静かな寝息を立てながら、二人の夢の世界を守っている。
彼はもしかしたらあの荒野にいるのかもしれない。かの懐かしい乾いた大地。炎天下、星空、吹き荒ぶ風。隣には互いが。
あの懐かしく、輝かしい日々。
ふいに涙が零れる。まだ彼との記憶をぼんやりとしか理解できなかった幼い頃、星空がひどく懐かしかった。わけもわからず泣きじゃくった。欠けているものがそこにあるのにと確信して、手の届かないものに縋りつくように毎晩わんわん泣いていた。魂の不在。その泣き声がどこかに届いてビリーと出会えたというのなら、声を枯らし続けた甲斐があったのだろう。
こんな事を言うとまた神に感謝しているのかとなじられそうだ。昔も今も、ビリーは己の持てるものだけを信じている。彼の強さと気高さがそこにある。
彼に出逢えるまでの七十年、俺は自分達の運命だけを盲信する事ができずに神に祈り縋った。だがきっとそれにだって意味はあった。たとえそれが会えない日々に折り合いをつけるためだったとしても。
うっすらと汗をかいて額に貼りついた黒髪をくしゃりと撫で上げる。ふ、とビリーが薄く目を開く。
「……なんで泣いてるんだ」
「泣いてない。まだ寝てていいよ」
まだ眠りから抜け切ってないようなふらふらとした声を聞いて気持ちが綻び、余計に涙がこみ上げてしまう。昔は彼のこんな無防備な声は終ぞ聞けなかった。
眠そうにしたまま俺の腕を引くので、ビリーの顔を覗き込む。拍子に、涙がぽたぽたと彼の頬にかかる。
「泣いてる」
「泣いてるな。良いんだ。悲しくないから」
「そう…」
強い力で抱き寄せられて、そのまま隣で横になる。ビリーの身体が暖かい。暫くしたらまた静かな寝息が聞こえてきて、抱き締められていた腕が緩んだ。
規則的な呼吸。彼が目の前で生きている。呼吸に合わせて上下する胸にそっと掌を乗せる。
神よ。ビリーは嫌がるだろうが、あなたに請わずにはいられない。
どうか彼の眠りを、安らかな寝息を、彼が生を終えるその瞬間までどうかそのままで。
俺の人生と共にあった長い苦しみ。手の届かない不在感に泣きじゃくり、虚空を掻き毟った果てしない時間。あんなものはどうか彼に与えないでくれ。
ビリーの目蓋にキスを落とす。これがおまえの世界を守る祈りの代わりになってくれと願いながら。
昼間の熱を湛えた砂塵、遠くの山々に射す光。夜が明けてぼうっと岩肌が浮かび上がってくる。薄青い空気が肌に纏わりつく。藍色の影、薄紅色の明け方の光。
この光景をよく知っている。どこまでも続く荒野を抜けていく。
丘を一つ越えたところに思いがけず向日葵畑が広がっている。一面の黄色が目に刺さり、あまりに眩しい。隣を見ればビリーが枯れた花から種を採っているので、声を上げて笑う。お前にとってはこれも食糧の山か。
いつの間にかまた夢を見ている。背の高い草叢を抜け、雨の降りしきる道を進み、湖の底に突き落とされる。光る水を掻き分けて、ビリーが俺の手を取る。甘苦い煙に酔いしれる。
彼が隣に立つ日々はまさに夢のようだった。時代を越えて出逢えた今もまた。
全てはここにある。二人の中に。
零れそうなほどの星空に手を伸ばし、肌を撫でるようにして手の甲でなぞる。はらりと布のように星空が流れ落ち、ふたたび陽の照りつける眩しい荒野へ。どこまでも渇いた風の吹き付けるあの場所へ。
二人で手を繋ぎ、いくつも続く扉を開けて次の場所へと出て行く。