雪と手紙/朝食
雪と手紙
長い任務に就くために出港する朝、パーク航海長は自由時間の最後にロシア語で電話をかけた。かの人は雪で埋もれそうな辺境の基地にいる。自分はこれから四十日間深い海へと潜る。次に会えるのは随分先だろうと思ったが、感じるものは寂しさとは少し違っていた。
古めかしい呼出音を待つ僅かなあいだ、聞こえる筈のない、吹き荒ぶ雪の音が耳を覆った気がした。遥か遠い場所にいるのだな、と急に実感が湧く。途方もない雪、途方もない冬と以前彼は言っていた。
色のない景色に囲まれるのは、水の中とどちらが孤独なものだろうか。
電話に出た彼と他愛のない言葉をいくつか交わす。パークの言葉は誰が相手でも飾り気がなく実直で、しかしこうして相手からも同じように返ってくる事は稀だった。セルゲイからの返事はいつも、慣れ親しんだ水のように浸透してパークの耳にすんなりと馴染んだ。
「早くまたあなたに会いたい。手紙を毎日読みます。狭い艦内だから人に見られるでしょうけど」
「そうだな」と可笑しそうに彼が言う。
「では私は毎日また手紙を書こう。ここはする事が少ないし、いつも君の無事を祈っている」
「本当に?では必ず受け取りに戻ります」
さよならを告げる言葉も、またねと手を振る方法も人の数だけある。彼は言葉よりも手紙の方が雄弁だった。そして、いつもそういうやり方で祈るのだった。
パークは自分のために綴られる文字の事を考えて、数秒間目を伏せる。手紙を綴る彼の居様を、丁寧に封筒を折る指を思い浮かべる。
何もない景色、彼が聞く吹雪の音をいつか聞きに行きたい。いつかそういうやり方で彼の平穏を祈りたい、と思った。
朝食
目の前のスープ皿には白いミルク粥が広がっている。ロイヤルブルーと金色の線で縁取りされた器、張りのあるリネンのテーブルクロス。甘い湯気がふわりと立ちのぼり、上に散らされたカシスの黒い実やラズベリージャムの赤が鮮やかに映えている。絵本に出てきそうな食べ物だと思った。しつらえの美しさと実直さが彼自身を表しているように感じる。
ジャムをひと匙掬って口に含むと、想像したよりも酸味と苦味を強く感じる。自然の食べ物の味だ、と思う。想像していた味、自国の食べ慣れたベリージャムのそれは、自覚していたよりも人工的なものだったのかもしれない。
ミルク粥の温かさが喉を滑り落ちる。米国でもオートミールで似たものを作るが、あのざらついた食感が苦手で子供の頃以来食べていなかった。マンナヤカーシャと呼ばれるこれは記憶の中のそれよりも滑らかで、どこか優しい味がする。
「口に合わないかな」
朝食を振る舞ってくれた相手は興味深そうな表情を作ってみせ、ジャムや蜂蜜の入った小瓶を二人の間に手際良く並べた。米国からの来訪者に祖国の味が合わないことに慣れているのか、気を悪くもせず愉快そうにしている。
「いえ… まだ慣れてないだけです」
「正直な良い言い回しだ」
「事実です。味覚は慣れだと教わりました」
「海軍兵学校で?」
「旅の多い友人からです。世界中を飛び回っていて、今では何だって食べられると」
付け合わせのハムとピクルスを口にする。こちらは想像したよりも酸味は穏やかで、見知らぬハーブの香りがした。
「なるほど。我々潜水艦乗りも常に旅をしていると言えるが、食事は艦内がほとんどだからな」
「そうですね、寄港地で食事する機会があれば幸運ですが… 慣れるほどにはどこにも長居できませんね」
植物柄のティーポットから揃いのティーカップへと熱い紅茶が注がれる。それらにも繊細な金の縁取りが施されており、スープ皿と同じメーカーのものかもしれないと思ったが分からなかった。澄んだ琥珀色の液体が静かに揺れている。
「普段の君の朝食はどんなかな」
「家では簡単に済ませます。コーヒーとトーストとか… 艦内の方が良いものを食べてますね」
「私もだ」
「本当ですか?」
コーニクではこれより美しい朝食を?しかし彼が言っているのはおそらく栄養面での事だろう。ミルク粥を出される際、これは少々子供向けの食べ物だけれど、と断りを入れられていた。
紅茶に合わせて違う種類のジャムを勧められ、とろりとしたそれを口に含む。昨晩、「君達の国では誤解されているようだが」という前置きと共に、ヴァレニエは紅茶そのものに溶かすのではなくお茶請けとして一緒に楽しむのだと教わっていた。「ジャムとヴァレニエは厳密には違うものだ」とも。しかしそれを飲み込む間際に喉が焼ける感じがして驚き、少し咽せてしまう。
「これ、ウォトカが入ってませんか?アルコールが…」
「伸ばすのに少し使っただけだよ。そちらでもホットチョコレートをラム酒で溶いたりすると聞いたが」
「ええ、眠る前に飲むなら。まだ早朝ですよ」
昨夜も長い夕食の終わりに紅茶とヴァレニエが振る舞われたが、その頃にはすっかり自分の身体がウォトカ漬けになってしまっていて全く気付けなかった。
ホットチョコレートをラム酒で溶く飲み方はおそらくグラス艦長から聞いたのではないだろうか。米露両艦長共に、海と同様に深く酒を愛しているところは似通っている。
「休みなんだから早朝でも構わないだろう。それに、こうして少しずつ摂取すれば君もウォトカに慣れるかもしれないな」
「そうかもしれませんね…」
「すまない、今のは冗談だ。無理せず」
ふふふと相好を崩し、こちらには入っていないと蜂蜜の蓋を開けて勧めてくれた。
「いえ、予期してなかったので驚いただけです。こちらをいただきます」
ウォトカで溶かれたヴァレニエをもう一度舌にのせる。熱く濃い紅茶で、さらに熱く灼ける甘さとアルコールを飲み下す。テーブルの向こう岸から彼が興味深そうに見つめている。
「それで君は、慣れるまでここに居るつもりなのかな」
「да.慣れるまで居るつもりです。構いませんか」
「構わないよ。でも明日は君にコーヒーを淹れてもらおうかな」