「断片」少女の世界のその前の -11-「……なんで、平気なの⁈」
アディは思わず椅子を蹴って立ち上がる。リトが来てからアディが声を荒らげるのは初めてだった。さすがのリトも驚いてスープの最後の一口を零す。
「だって……だってずっとリトは、さつ、殺人鬼の家にいたんだよ?」
アディはそういいながらも、リトの口元に布巾を渡す。リトは(そういうとこだぞ)と思いながら布巾を受け取り零したスープをふいた。
「わかってるの?リトはさ、今まで、人を殺した人と話して……殺した人と同じ物を使って、殺した、この、汚い手で作ったご飯を食べて……」
「えっ昨日から手洗ってないの?」
「そういうことじゃないっ!帰ってきてちゃんとお風呂入った‼」
大男の怒りが全く通用してない少女の茶々に改めて怒り言い返す。脅しつつも律儀に説明するアディがおもしろくなっていたリトだった。
「そもそも……そもそもなんで、全部そんなすんなり受け入れられるの?そっかの一言で片付けて……殺したくないのに殺してるとかさ……」
慣れない怒りの放出に疲れ、アディは椅子に座りこみ、頭を抱える。自分がリトの立場なら、異世界に来たことからアディの仕事まで全て、なにも理解できるはずがなかった。
「それは……うーんなんていうんだろうな」
リトは、すこし考えこむ。アディは頭を抱えながら答えを待つが、もはや自分が理解できる返答は期待していなかった。
「…………多分、私が異世界人だからかな」
それが何の理由になるんだ、とアディはリトの顔をうかがう。
「私にとってここは異世界だから。多少のことなら起こっても不思議に思わないよ」
リトは自分の言ったことに何やら納得した様子で頷いていた。
同時に、アディも理解した。リトの理解できなさを理解した。
リトは既に『異世界へ行く』という不思議体験をしている。だからアディによる『殺したくないけど殺さざるを得ない』という不可解な状況も受け入れてしまえたのだろう。ファンタジー小説の中の出来事のように。
そして今アディは、リトとの壁を感じていた。いや、感じていた壁の意味を知った。
リトは確かに肝が座っており、アディのような大男に対して一週間という短期間で気さくな態度をとるようになっていた。それなのにアディは、リトに距離感のような、壁のようなものがあるような気がしていたのだ。今、その理由に気がついた。
リトはこの世界のすべてを遠くの出来事として考えている。自分には大して関係ない遠くの出来事だからこそ、リトは全て受け入れて考えることができていた。リトとアディを含むこの世界の間には、水にように透明で柔らかく、会話ができるほど薄い、それでもアディには破れない、膜のような壁があった。
アディは思った。
もしもこの壁を取り去ったリトに会えるなら、それはどんな子なんだろう?
壁がなくなったリトは、それでもアディやこの世界のことを受け入れてくれるのだろうか?それとも受け入れられないと悩むのだろうか?
受け入れられなかった場合の恐怖を自覚しつつも、アディはそれでも、そんなリトに会ってみたいと思った。
アディが考え込んでいる間に、リトは席を立ち食器を洗っていた。アディのなんとか食べ終えたスープ皿も、いつの間にかなくなっている。
アディは、サングラスを外して机の上に置いた。風呂や睡眠と言った必要に迫られた時や仕事の時間以外でサングラスを外すのは、実に一週間ぶりだ。それから立ち上がり、リトの後ろに歩み寄る。
「僕も、質問していい?」
リトに尋ねると、すぐに是と返ってきた。リトが踏み台に乗っているおかげで、見やすい位置に横顔がある。
「昨日さ、なんであんな時間に外歩いてたの?」
顔を覗き込みながら、先ほど怒鳴ったお詫びのように、意識して柔らかい声色を出す。リトにアディの怒鳴りなんて効いていないことを、全て壁に吸収されていることを理解しつつも。
「ああ。こっち来るとき夜遅かったでしょ?だから同じくらいの時間だと何か変わるかなと思って」
リトの、元居た世界へ帰るための散歩。新たな挑戦をしているということは、リトはまだ本当に帰ることを諦めていないんだ。
家に帰って人がいるということの温かさを知ったアディは、それを寂しいと感じた。
「でも、こっちはリトのいた世界ほど安全じゃないってわかってるでしょ?」
そういいながら、アディはリトの頭に手を伸ばした。ずっと触ってみたいと思っていた、リトのもこもこした黒髪。初めてリトに触れることに緊張しつつ髪に手を入れると、思った通りコシがあり、思ったより指どおりが滑らかだった。
「次、夜に出歩くときは、僕も一緒に行くよ」
「それ自体は別にいいけどさ……」
リトはちらりとアディを見たものの、なでる手を咎めることはなかった。
「もしこっち来た時と同じように突然向こうに帰っちゃったら、もしかしたらアディも連れてっちゃうかもよ?」
それも面白いかもしれない。僕も向こうの世界に行けば、リトと同じように壁に包まれるのだろうか。
そう思いつつも声には出さず、しばらくさらさらと髪で遊んでいた。いい加減邪魔になってきたリトに机を拭く仕事を言いつけられるまで。