「断片」少女の世界のその前の -02-月景
暗い夜道。帰路にあった男は、前から歩いてきた少女をなんとはなしに視界に入れていた。だから、少女が丁度男の自宅の前に差し掛かった時に、その少女が転んだところをバッチリ目撃してしまった。
じきに起き上がって歩き出すだろう。と思ったのだが、少女はなかなか立ち上がらなかった。
ど、どうしよう。
男は心配になったが、声をかけるのは躊躇われた。男は人相がいい方ではない自覚がある。夜道で少女に声をかけるなどという、確実に怯えさせるような行為はしたくなかった。咄嗟に、街灯の光が届かない位置で足を止める。黒いロングコート、黒い髪に、黒い眼鏡。闇に紛れるのは簡単だった。
男が葛藤している間にも、少女は立ち上がらなかった。その場に佇み、キョロキョロと辺りを見回している。
闇に潜むにしても限度がある。声をかけるよりこのままいる方がずっと不審だ。あと早く家に帰って体を清めたい。
しばらく迷っていたが、やがて男は少女に近づいて行った。
少女を照らしているのと同じ街灯の光の範囲に入る頃には、少女の方も男に気づいた。人に見られていることに気づいたからか、やっと立ち上がり鞄を肩に掛け直した。だが、相変わらずキョロキョロしている。
男は人相が良くないし全身黒づくめだしたっぱもあるし臆病で人見知りだが、明らかに一人でいて困っていて助けられる距離にいる少女を見過ごせるほど非情にはなれなかった。
「……だい、じょうぶ?」
男が声かけると、少女はぱっと男を見上げた。
確かに男は背が高い方だが、少女も随分と小さい。幼くも見えるが頼りなさは感じられず、案外歳自体は近いかもしれない、と思った。
「えっと、なにか困ってるみたいだったから……あとそこ僕の家」
少女が未だに立ち尽くしてる場所の近くの戸を指すと、少女は少し謝って家から離れるほうに移動した。足取りから、怪我で歩けなかった訳では無いとわかった。
「あー、じゃちょっと聞いていいですか?」
少女が男に尋ねた。男は承諾のつもりで少女に向き直り、身長差を埋めるため少し屈んだ。
少女は、私もなんて訊いたらいいのかわかってないし変な質問かもしれないけど、と予防線を張ったのち、話した。
「ここって、どこですか?」
「ここ?」
予防線通り、かなり範囲が広くて変な質問だ。
「えっと、街っていうか住所っていうか……見たことない場所なんで」
なるほど。
「一応ここもデオリタ。西の外れ」
「でおりた?」
……?デオリタを知らないのか?
「……ホルメン王都。南に王城がある」
王城のある方を見たが、暗いし家や木に阻まれてよく見えなかった。
少女を見ると、首をかしげていた。
「……ほるめん……?」
まさかホルメンも知らないの?!
国すら分からないとなると大事だ。誰かに攫われて無理やり連れてこられたか?
そう思って男は膝をついて少女の身なりを確認したが、それはは違うだろうとわかった。
鞄はしっかりとした上等な生地で、先程転んだ際に付いたであろう土以外に汚れはない。衣服も少々解れてはいるが、それでもやはり生地の質はよく清潔。使い込まれた様子のある靴も革の上等なもの。それなりに大事にされる身分と思われた。転んだ以外の汚れや傷も見当たらず、無理やり連れてこられた風でもない。
となると、親か誰かに同行しているところを迷子になった、と言ったところか。
「……家はどこ。一緒にいた人は」
「いや、一人です。家に帰ってたとこなはずなんですけど……」
「ということは、家が近くなのか……?」
「のはずなんですけど、うちの近くに石畳の道なんてないんですよねぇ」
男と話しているうちに、少女は少しずつ落ち着いてきたようだ。
「学校から電車乗って最寄り駅まで来た所までははっきり覚えてます」
「…………?」
今度は男がハテナを飛ばす番だった。
「駅出たあとはぼーっとしてたんで、迷ったとしてもまあ……」
「……?そう、か。……持ち物は全部ある?」
「ああ、そうですね」
男の助言に従って、少女は自分のカバンの中を改め始めた。
「財布よーし。定期よーし。あっ携帯。今何時だろ」
鞄を探っていた少女はなにやら小さな箱を取り出した。箱の蓋を開くと内側から光っていて、少女はそれを見ているようだった。
「あっ普通に家に着いてそうな時間だし、長い間迷ってたわけじゃないのか。てか圏外じゃんここ」
「……けん……えっと、その箱は……?」
男が戸惑いながらやっと尋ねると、少女は首を傾げた。
「へ?携帯ですよ。学校で遊ばないようにスマホじゃなくてガラケー渡されてるんですよね」
ほら、と箱の中身を見せられる。
蓋の内側には四角く光るものが埋め込まれて、絵や文字らしきものが描かれていた。
物珍しそうに見る男に、少女も不安になる。
「……え、ガラケー初めてですか?私より年上っぽいけどまさかの完全スマホ世代?」
またたくさん知らない単語が出てきて、男は混乱する。
「……いや、すまほってなに……」
「は?」
意味がわからない様子の少女。同じく知らない常識に困惑する男。
「…………」
「…………」
2人の間にしばらく無言が落ちる。
「……と、とりあえず、家入る?」
「あー……正直助かります。お邪魔します」
ずっと一人で暮らしていた家に初めて入れた客は、異世界から来たかのような不思議な少女だった。